注意事項
本HPは「統合医療」に関して、その概念および実際を紹介することを目的とするものであり、個別の疾患や診療内容の相談には応じかねます。また、内容に関しても、実際に個人の判断で適応した際のあらゆる責任は負いかねます。実際の診療に関する事項は、医師にご相談の上、施行されることをお勧めします。
小池統合医療クリニックへ

2021年06月12日

お城へ To Go (岡崎城)

 家康誕生の地、岡崎城(45・愛知)です。押印は平成23年11月18日、学会で名古屋に行ったついでに、名鉄にのって足を延ばしました。

 三河守護代の西郷頼嗣により築城され、その後、松平氏の攻撃を受け支配下となり、松平清康により城郭整備が行われ松平の本拠地となりました。その後「守山崩れ」により、清康が暗殺、息子の広忠になるも弱体化した時代に生誕したのが、竹千代、後の徳川家康です。しかし父、広忠も暗殺され、竹千代は6歳で織田家、8歳で今川家に人質として出されてしまいます。これに伴い、岡崎城も今川から城代が入ることになります。しかし、桶狭間の戦いの後に、徳川家康は今川から独立、以後、岡崎城を拠点とします。

 こうした苦難に満ちた家康の幼少期ですが、その後のサクセスストーリーから、この城には伝説が残されています。本丸内の龍城神社に家康誕生の際、黄色の龍が現れたといわれます。龍は岡崎城創建の際も現れ、守護神となることを約束したというから、よく龍が出現する城です、それゆえに別名、龍ヶ城!
 神君家康公誕生の城であることから、後付けの伝説なのか、この地の松平の苦境から「伝説」の一つも作らないとやってられなかったのか、不明ですが、まあそういうことなのでしょう。

 また城内には、家康の誕生にともなっての産湯の井戸や、胎盤を埋めた「えな塚」もあり、生誕した二の丸は誕生曲輪といわれるほどです。まあ家康生誕一本、といったところでしょうか。

 全体としては少し立て込んだ、ごちゃっとした城の印象です。内堀や青海掘りも、少しうっそうとした印象でした。
 しかしここの城代は江戸期においては、譜代大名の誉といわれ、いわば創業の地のような名誉な地だったことは間違いないのでしょう。近くには「三河武士のやかた」など見どころも豊富です。









2021年06月10日

6月10日のジャングルカフェの課題図書

 本日はジャングルカフェです。最近は統合医療の在り方を、課題図書を読みながら議論しています。今回の課題図書は以下の2冊になります。
 オープンダイアローグについて、詳しく考えてから、「利他」の議論に移る予定です。「利他」の方は、分担執筆の形式ですので、一番興味深かった章を、感想とともに参加者に発表してもらおうと思います。








「利他」とは何か (集英社新書)
磯崎憲一郎
集英社
2021-03-26




甲野善紀先生との「これからの教育実践ゼミ」第2弾のお知らせ

 先週末に開催されました「これからの教育実践ゼミ」第2弾のお知らせです。リアルの収録は終わったのですが、まだ視聴できますので、ご興味ある方はぜひどうぞ。

 今回は未だ収束しないコロナ禍の中で、自ら考えることの意義、そして生きるということについて甲野先生と突っ込んで対談させて頂きました。


 視聴サイトはこちら ⇒
 nothstore「これからの教育実践ゼミ」




2021年06月05日

お城へ To Go (犬山城)

 現存最古といわれる国宝天守、犬山城(43・愛知)です。押印は平成23年11月19日、城郭内休憩所で押しました。名古屋から犬山線に乗って犬山遊園駅から徒歩でいけます。最古の天守については、丸岡城説が有力だったようですが、近年、慶長以降の築城とする説が有力になり、犬山城とするようです。また変わるかもしれませんが。

 荻生徂徠によって「白帝城」とも称された城で、直下を木曾川が流れるさまを長江と見立て、三国志の劉備玄徳終焉の地になぞらえた別名となっています。
 つまり縄張りとしては、城郭の北側が木曾川で守られ、南側は惣構により防御されていたようです。また二の丸を約70mの大手道が直線的に伸びるさまは、まさに安土城といってよい構造です。

 信長のおじ織田信康によって築城されたといわれ、数々の合戦の舞台となっています。その後、信長との対立により、信康の子信清が城を追われると、池田恒興が入城。その後も、紆余曲折あって秀吉政権下では、石川貞清が城主に、さらに徳川期になり最終的には尾張藩付家老、成瀬正成が城主となり、成瀬氏が幕末まで続くことになります。

 とにかくこの城郭のすばらしさは、天守からの眺望につきます。眼下の木曾川の流れに加え、晴れたら岐阜城、小牧山城、名護屋城までも見えるというくらい濃尾平野を一望できます。
 訪問時も、窓を開け放たれた天守は、気持ちの良い風が通過し絶好の眺望でした!
 ここに赤絨毯が敷かれていたのも、印象的で、後で調べてみると、7代城主がオランダ商館長から入手した貴重なものらしく、城主が最上階に上ることを前提にしてしかれていたらしいのです。
 つまりほとんどの天守最上階は上る前提でないことが少なくない中、城主が訪れる前提での最上階だったということがわかります。
 これほどの眺望ですから、やはり城主ですからみてみたいですよね。赤絨毯にそこまで意味があるとは、訪問時は分かりませんでした。

 ほんとに「これぞ天守!」という気持ちなれるお城です。天気の良い日にぜひ再訪したい名城です。











2021年05月29日

お城へ To Go (掛川城)

 高知城に似た天守とされる掛川城(42・静岡)です。押印は平成22年5月22日、駿府城の前日に訪問しています。御殿の入り口で押しました。

 今川の重臣、朝比奈泰能によって築城され、豊臣政権下で山内一豊が大幅拡張を行ったとされます。一豊がその後、高知城天守の築城に際して、掛川城天守に倣って建造したと伝わることから、現在は高知城を参考にした三重天守で復興されています(日本初の木造復元天守)。

 朝比奈氏が最後まで今川に忠義を尽くしたことから、今川氏真は駿府館を捨てて、掛川城に逃げ込み、徳川の包囲にもかかわらず、半年以上の籠城を耐え抜きました。その後、開城し、山内一豊が入城。関ケ原の合戦の戦功により高知へ移っていきました(関ケ原序盤戦での一豊の出世物語ですね)。

 建造物としては、幕末期に地震で倒壊した本丸御殿のかわりに建てられた二の丸御殿が現存(全国でも4か所のみ)しており、国重要文化財となっています。
 前述した天守に加え、さらには大手門も復元されています。天守丸には、今川氏真が立てこもった際に、井戸から霧が立ちこめ城を覆い隠したと伝わる霧吹井戸もあります(よくある伝説ではありますが)。

 この掛川城は、新幹線からみえる城としても有名で、駅からのアクセスも非常にいいです(徒歩7分くらい)。お茶の産地掛川ですので、掛川茶も買って帰れます。


日本の城 改訂版 52号 (掛川城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-01-09










2021年05月22日

お城へ To Go (駿府城)

 徳川家康隠居の城、駿府城(41・静岡)です。押印は平成22年5月23日、東御門の券売所でした。駿府城に向けて歩いていると、山岡鉄舟が、勝海舟の命を受けて新政府軍と遭遇した場所を通過したのを覚えています。「鉄舟。ここでまにあったんあだなぁ」と思ったものでした。

 駿府城は、かつては六重七階の天守が聳えていたといわれ、現在も大きな巽櫓と東御門が復元され、その威容が偲ばれます。
 高麗門と櫓門を合わせた枡形は、その絶対的な防衛力の高さから威圧感もハンパないです。中に入ると、現在は駿府城公園になっているので、のんびりとした広場が広がるのですが、かつてはこの中心部に六重の天守があったというのですから、相当な迫力だったのでしょう。
 本丸堀や二の丸水路なども見ることができます。

 家康としては相当の思い入れのある城郭で、今川の人質時代に12年間住んだ、心情的に複雑な土地でもあります。それゆえに自分が領有することになった際、この地に築城し、浜松から本拠を移しているわけです。
 かつて人質だった身から、領主になって戻ったということを実感したかったのでしょうね。共感できます。
 しかし、秀吉の小田原平定後、江戸へ移されてしまいます。その後、秀忠に将軍職を譲り大御所となってから、再度、隠居城として天下普請での大改修を行って戻ります。
 ここに戻ることで「故郷に錦を飾る」的な誇らしさがあったのでしょうね(見返してやったぜ、みたいな)。その後江戸幕府は、江戸と駿府の二元政治が布かれることになります。そして家康は、この駿府城で没します(本当にタイの天ぷらだったのでしょうか?)。

 その後は3代将軍家光の因縁の弟、駿河大納言忠長が入城するも、家光により乱心の嫌疑をかけられ、秀忠没後、高崎に移送され、かの地で自刃に追い込まれます(高崎で飲んだ時はわざとこの墓所の前を通過したりします)。その後、天領となりますが、火災でほとんどの建造物が焼失、再建されませんでした。

 時代は下って、幕末期には、江戸へ向かって進軍する新政府軍、西郷隆盛と会見すべく、山岡鉄舟が江戸からここで新政府軍と遭遇した地でもあります。歴史的に極めて重要な土地なわけです。

 静岡駅からのアクセスも徒歩10分ほどと良いので、初診の方は是非訪れたい名城です。


大御所徳川家康と駿府城公園
田中 省三
羽衣出版
2012-11-01










2021年05月17日

6月の予定 甲野先生とのウェビナーなど

 甲野先生とのウェビナー「これからの教育実践ゼミ」の第2弾が予定されています。まだ告知されていないようですが、6月6日(日曜)の予定です。前回お聞きいただいた方も、そうでない方も、ご興味ある方は是非どうぞ!

 甲野先生との武術から医学に関して、はたまたそれ以外のテーマについて、雑多に語っていく内容ですが、前回はなかなか好評だったようですので、2回目が企画されたというわけです。





 
 また、6月はジャングルカフェの月です。「利他とは何か」を課題として、ジャングルカンファレンスとオープンダイアローグの本質について、会話をしたいと思います。


2021年05月15日

お城へ To Go (岐阜城)

 今回は岐阜城(39・岐阜)です。押印は平成24年3月19日、岐阜城資料館の入口にて押しました。

 アクセスが良く、岐阜に用事があるたびに行ったので、これまで3度ほど訪問しています。金華山(稲葉山)の山頂に聳え立つ城なので、ロープウェイで3分ほどあがると、天守からは城下町が一望でき、とても眺望の良い城です。
 ロープウェイ乗り場の横に山麓の居館跡があり、山頂の天守と合わせて中世の山城的な形態となっております。この城はロープウェイで急な斜面を上がるので、さぞや難攻不落の城かと思いきや、七度の落城という、結構な落城数を誇っています(攻めた奴がすごいのか?意外と攻めやすいのか?)。ただ高いところにあればよいというわけでは良いで例ではあります。
 ただ長良川から見上げる天守は当時のものではありませんが、その威容はさすが信長の城といった感じです。ここから信長は、天下統一を目指すようになったと言われています。

 桶狭間にて今川義元をうった信長は、美濃侵攻を開始、斎藤龍興と敵対し稲葉山城の戦いとなりました。この際、信長軍はなかなかに苦戦し、砦を建造しながらじわじわと攻略していくのですが、ここで登場するのが秀吉の墨俣一夜城です。
 川並衆の助けを借り、短期間で城郭を建造し、以後の美濃攻めの拠点となりました。その後いわゆる西美濃三人衆を内応させ美濃を攻略、一日で稲葉山城を落城させたといわれます(諸説あり)。(西股先生の『戦国の軍隊』でも、戦国の城は一日で落とすことを目的とすると書いてあるのですが、そのいい例でもあるのかもしれません)

 かつてジャングルカンファレンスを名古屋で開催した時、前日に岐阜に入り、屋形船から鵜飼いを見学したことがあります。ジャングルカンファレンス草創期の楽しい思い出です。なかなか屋形船というご時世ではありませんが、そのうちまた鵜飼いはみてみたいものです。思えば名古屋のジャングルカンファレンスからずいぶんと時間が経過したもんですね〜






日本の城 78号 (岐阜城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-07-08






2021年05月14日

感じるオープンダイアローグ

 昨日はジャングルカンファレンスでした。骨盤底筋と尿漏れの症例と、買い物依存とネグレクトの症例など幅広く議論が展開されました。
 今回から占星術のセラピストも加わり、さらに広い視点からの「対話」となりました。

 統合医療の在り方のみならず、コロナ対応も含めて、様々な視点が、ともすれば対立して論じられることもありますが、こうした時にこそ「多元主義」をベースとした対話の必要性を感じました。
 ジャングルカンファレンス内で紹介したオープンダイアローグの新書をあらためてこちらにもメモしておきます。
 ご興味ある方はどうぞ!





2021年05月13日

本日、ジャングルカンファレンスです!

 本日のジャングルカンファレンスはオンラインでの開催となります。自宅に居ながら、オンラインで統合医療を体感しましょう!





 




本日のカンファレンス お申込みはこちら!

2021年05月09日

統合医療とホメオパシーについて考えたこと

 対談の場で、統合医療について久しぶりに質問されたので、あらためて「統合医療とは何か?」を考えてみました。

 統合医療については、マスコミによく出演される先生方のいう統合医療観が行き渡っているので、なかなか理想的で、高邁な理論が語られますが、私はあまりそうした流れに与していません。
 安易なスピリチュアルとの融合もその一つです。ただし、これはスピリチュアルと融合が良くないと言っているわけではありません。あくまでも統合医療という意味合いには、もっと基盤となるものがあるのではないかと考えています。

 つまり現代(西洋)医療と、それ以外の医療(代替医療でも伝統医療でも、何でも)との関係性です。具体的には、ケースによってどちらを選ぶのがベストか、具体的にどのように統合するのか、自分の考えに合うのはどれか、というような問題に対処していくことだと思います。
 究極の二者の選択ではなく、どのように「折り合い」をつけていくか、ということです。

 そのためには、それらの構成要素である幾多のセラピーとの良好な関係が基礎にはあるべきでしょう。こうした、多元的なマインドをゆうするということが一番の「統合医療」実現の要だと思うのです。





 ホメオパシーに関しても、現在あまりにスピリチュアルに偏した解釈ばかりになってきている面が少し気になります。スギ花粉症のアイゾパシーをはじめ、それほどスピリチュアルな面を意識しないでも、十分効果を発揮できるシステムだと思います。
 漢方における過度の理論化と同様に、古典(漢方でいえば傷寒論)への回帰がこの医学への新たな息吹を吹き込むことにつながるのではないかと考えています。原点としてのハーネマンの(初期の)思想に返ることの重要性を感じます。こうした問題についてはまた改めて…。

6月20日、日本統合医療学会の認定セミナーのお知らせ

 本年度も日本統合医療学会の認定セミナーの解剖生理学を担当することになりました。2021年6月20日、オンラインでの開催になります。
 ブルーバックスの『新しい人体の教科書』を用いて、問題形式で解剖生理の全体像をなんと90分で解説します!

 受講ご希望の方は、日本統合医療学会HPからお申し込みください(なお本講座は学会の認定協働師取得を目的としたセミナーですのでご了承ください)







2021年05月08日

お城へ To Go (岩村城)

 日本三大山城の一つ、岩村城(38・岐阜)です。押印は平成27411日、歴史資料館にて押しました。

 太鼓櫓の見える、復元藩主邸に駐車して、藤坂を一の門へ向けて登ります。追手門を越えると竜神の井、つづいて霧ケ井となります。
 この井戸は伝説の井戸で、別名である霧ケ城の由来ともなりました。ここに蛇骨を入れると霧が湧き出して城を包み込み敵から見えなくなったというものです。
 同様の伝説は、ほかにも掛川城(霧吹井戸)にもありますね。

 そこからさらに行くと六段壁といわれる本丸六段の石垣になります。岩村城の象徴的な石垣です。全体的によく整備されて見やすい山城です。
 また、悲劇の女城主の城として神秘的な雰囲気も醸し出しています。織田信長の叔母にあたる「おつやの方(所説あり)」は、夫である城主遠山景任亡き後、女城主になったとされます。ここに秋山信友が岩村城を攻撃しますが、攻防のさなか、この女城主に結婚を申し込み、女城主もこれを受け入れ開城してしまいます。これに対して信長は激怒、信忠を総大将として大軍を派遣し、岩村城を奪還、女城主らを処刑してしまうというお話です。

 武田、織田のはざまに揺れた当時の政情がみてとれるエピソードですね。





日本の城 80号 (岩村城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-07-22







2021年05月06日

「縮退」の参考図書

 最近、対談をいくつかしているので「縮退」について改めて再考しております。物理現象、経済現象の説明理論として生み出された概念ですが、身体、そして医療システムについての考えを深める際にも、非常に有益なものです。
 長沼伸一郎先生発案の概念ですので、以下の書籍のともに最終章が、その基本的な解説になります。特に私は「冷え」や「ファッシア」についての説明の時に縮退概念が有益に感じます。また、折衷から多元への理論的な説明は、縮退によってさらに明確になると考えます。


現代経済学の直観的方法
長沼伸一郎
講談社
2020-04-08






2021年05月02日

5月5日 林真一郎先生との対談

 リボンのメンバーの植物療法セラピスト・ミムラヒロコさんのサロン・テノヒラが星川駅前に新装オープンすることに伴い、私と林真一郎先生との対談が企画されました。
 統合医療について、ハーブや漢方について、色々な話題で対談する予定です。ご興味ある方は、ぜひご視聴ください。

 お申し込みはこちらまで!

 林真一郎先生は言わずと知れたハーブの大御所です!が、ハーブに限らず、ホリスティック医学協会など統合医療・代替医療全般の領域で活躍され、統合医療学会の折には「麻」に関して勉強させて頂き感銘を受けました。今回もいろいろな話題を対談できそうですので楽しみです!


臨床で活かせる アロマ&ハーブ療法
林 真一郎
南山堂
2015-06-16




2021年05月01日

お城へ To Go (一乗谷城)

 越前朝倉の本拠地、一乗谷城(37・福井)です。押印は平成231022日で復元街並みの入り口で押しました。
 初めての訪問時は、ソフトバンクのコマーシャルが放映されていた時期でもあったので、結構話題になっておりたくさんの人がいました。復元後間もなかったこともあるのでしょうが、いまだになぜソフトバンクのお父さん犬で一乗谷が取り上げられたのか謎です。
 その後、北陸の城巡りの際に再訪しているのですが、そのころはすいていて、ゆっくりと見学できました。またエリア内にはおしゃれな店もいくつかできていて、復元街並みを歩くと、ちょっとしたタイムスリップしたような不思議な感覚になれるエリアです。

 また近在の「一乗滝」は佐々木小次郎の「燕返し」開眼の地としても有名です。飛んでる燕を切り落とす、巌流島のあの必殺技です。訪問時は残念ながら燕は飛んでおりませんでした。

 一乗谷は上城戸と下城戸に挟まれた谷合のエリアで、そこを貫く一乗谷川の両岸に武家屋敷や町屋、寺院が点在し、その北側を足羽川に面しています。
 谷合の町並みを見下ろす形で、一乗城山に詰めの城として一乗城が築かれています。

 千畳敷に、一の丸、二の丸、三の丸と連郭式になっているようなのですが、山城部は未訪問です。資料館の方にもあそこはいかない方がいい、と諭され素直に従いました。ちなみに友人がこの山城を攻略した際に、カラスなどの鳥に襲撃されたようですのでやめておいてよかったです。

 朝倉館の御殿跡などは、現在ではとてもきれいに整備されており、主殿から登り、中の御殿、諏訪館と平行に横に移動できます。
 途中に湯殿跡庭園があり、かつては豪華な庭園だった様子が想像できます。この庭園は、大河ドラマでもユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景のシーンでよく出てきていました。ここかあ、という感じで大河観れました。


戦国朝倉: 史跡からのリポート
吉川博和
DoCompany出版(BoBoBooks)
2013-08-06



朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)
信之, 松原
吉川弘文館
2017-01-20







2021年04月29日

臨床ファッシア瘀血学(12)縮退・作用マトリックスとの関係

 久々に縮退や三体問題について、長沼先生の直観的理論を復習していたところ、ファッシア瘀血との意外な関連が見えてきたのでメモしておこうと思います。






 まずは物理数学の直観的方法「やや長めの後記」(旧11章)のまとめから。長沼先生の論理展開を追っていきましょう。

 本章では、三体問題の紹介と不思議から、社会における職業集団の相互関係をマトリックスを用いて解説していきます。こうした日常的な事柄は、(ハーモニックコスモス的な)太陽系の惑星の運動とは違い予測不能になること。そしてそこから、これまでの分析的な方法論への根本的な懐疑を述べ、部分の総和が全体には一致しないことを行列計算から証明していきます。

 そしてこの行列を用いた計算が、特殊な条件下では解くことが出来るが、一般的には困難であり、ひいてはいわゆる「非可算」となることを説明していきます。
 それによりいままで、自明のように考えられていた基盤となる前提条件は、実は特殊条件であったことを述べ、近代医学においても同様であることに言及していきます。(この辺りが、かつて東洋医学の数学的基盤として大いに長沼理論に惹きつけられたところでもあります)

 こうした例を挙げる中で、他の要素との「相互関係」の重要性を示し、作用マトリックスとして解説していきます。そしてこの作用マトリックスの内部での状態が、理想的である状態は、実は確率的にきわめて低く、偏在したいわば「寡占」の状態が確率的に生じやすくなることを示します。これが「縮退」という現象である、というわけです。
 つまり、巧妙な相互作用は確率的に駆逐され、次第に狭まった系へと縮退してしまうのです。(詳細は「物理数学の直観的方法」を参照してください。ここでの記載を「あらすじ」として読まれることをお勧めします)

 ここから当然、縮退の持つ問題点などいろいろと展開できるのですが、そこは置いておいて、我々の思考において「縮退」をどのように避ければよいか、という解説の流れになります。そのためのキーワードが、エルンスト・マッハによる「思考経済」です。複数の超専門家の総和ではなく、一個人の中で複数学問をコンパクトに格納させ相互作用を生じさせる、とでもいえるでしょうか。これこそがある種、多様性を担保することの最終目的とでもいえることなのではないか、と私自身は理解しています。


 以上が「やや長めの後記」の概略です。このGW中に甲野先生(本日ウェビナー開催予定です)やハーブの林真一郎先生との対談が予定されているので、自分なりの内容整理でした。

 ここで(やっと)ファッシア瘀血との関連です。作用マトリックスおける相互作用の演算子部分が「ゼロ」であれば、臓器などの相互作用が消え、部分の総和が全体と一致するのですが、ファッシアはこの相互作用を強く引き起こすことが、その重要な意義となります。
 つまり、この相互作用こそがファッシアの意義の本質に近いことになります。(当然「正統な」方々は、ファッシアを演算子としてではなく要素還元して「一臓器」としてしまうのでしょうが)

 では「瘀血」はどのように記載されるでしょうか。それは相互作用を(運動面において)制限、阻害するという点を考慮すると、まさに演算子の「ゼロ」成分と考えれます。これにより作用マトリックスにおける多くの迂回ルートが遮断され(つまり実際の運動制限が行われ)結果として、身体における「縮退」が加速していくということです。刺絡やハイドロリリースなどの治療的アプローチは、まさにこのゼロ成分をなくして、相互作用を復活しようとする介入と考えることができます。(この場合、刺絡などは瘀血やファッシア重積などを解除し、通常の鍼灸は電気的な偏在を解消することが予測されます)つまりファッシア瘀血は、作用マトリックスのゼロ成分として、系全体を「縮退」へと加速させると考えることが出来るわけです。

 他にもこの作用マトリックス理論は、ファッシア瘀血の解釈に展開できるところが多々ありますが、本日はとりあえずここまでにしておきます。結論としては、縮退とファッシア瘀血の概念は、密接に関係しているということです。

2021年04月24日

お城へ To Go (丸岡城)

 日本最古といわれる現存二重天守の丸岡城(36・福井)です。押印は平成231022日で、一筆啓上茶屋にて押しました。

 ここ丸岡城は「一筆啓上」の簡略な手紙で有名で、たくさんの公募の「一筆啓上」が貼られていました。ちなみにその由来は、本多重次の妻への手紙「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」です。

 丸岡城は越前北庄城の支城として、柴田勝家の甥、勝豊によって築城されましたが、清須会議の結果、早々に長浜城へと移されてしまいます。
 その後は、福井藩として結城秀康が入ったのちは家臣が入城し支城として機能していきますが、本多成重により、福井藩から丸岡藩として独立していくことになります。

 ちなみに本城とされる北ノ庄城が現存していないうえ(福井城となってしまいますが)、小さな柴田神社の中に城址の碑があるのみでその迫力が伝わらないので、丸岡城が支城であるという感じもちょっとぴんときません。
 この城は、北国らしい朴訥な建築で、寒暖差の激しい北陸で破損を防ぐために用いられたといわれる、青みがかった「石瓦」が特徴とされます。北国の最古の城を感じることができます。


日本の城 61号 (丸岡城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-03-11







2021年04月19日

4月23日㈮ 基礎医学塾申し込みフォーム

 今週金曜日の基礎医学塾、『代謝がわかれば身体がわかる』の最終回になります。エネルギー代謝の全体像を、消化・吸収からまとめてみます。全体像を意識しながら読み進めてください。











申し込みフォームはこちら ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 


2021年度第3回基礎医学塾@zoom講座

2021年4月23日(金)
18:30〜20:30
(※質疑応答を含み、20:30まで)
参加費・・・2000円

【参加申し込みフォーム】は
↓↓↓こちらから

https://forms.gle/jZ2SQbgwAMS5psx78


2021年04月17日

お城へ To Go (金沢城)

 言わずと知れた加賀百万石の大城郭、金沢城(35・石川)です。押印は平成231024日で、七尾城の翌日に訪問しました。

 金沢というと「兼六園」が普通最初に思いつきそうですが、兼六園自体はこの金沢城の付随的な庭園という位置になります。もっというと有事の際の「出丸」的な機能を庭園は有しており、水戸の偕楽園なども同様の目的と考えてよいでしょう。

 金沢城は加賀一向一揆の本拠、金沢御堂の跡に築城されたといわれ、大阪城と似た来歴を持ちます。こうしてみると当時の一向一揆の勢力の大きさを感じます。一向一揆制圧後、佐久間盛政が尾山城として整備したのち、前田利家が入城。この際、高山右近を招いて大改修を行ったとされます(こうしたエピソードから高岡城も高山右近縄張り説があるのかもしれません)。これにより加賀前田の居城として、明治維新まで継続します。

 金沢城としては、現存する櫓などはわずかしかないのですが、近年再建がすすみ、かなり豪華な当時のたたずまいを取り戻しつつあります。
 五十軒長屋や菱櫓、河北門など、その再建の様子も併せて必見です。金沢の雰囲気と相まって、本当に美しい城郭だと思います。

 通常、金沢城見学は三の丸、二の丸がメインになるのでしょうが、個人的には三十軒長屋を経て入る本丸の鬱蒼とした森の雰囲気が好きです。そもそもは重要拠点だったにもかかわらず、置いて行かれたようになって、二の丸や兼六園の華やかな感じと対照的に、なんとも枯れている感じが良いです。

 金沢はこの城に限らず、見所たっぷりですが、近江町市場やひがし茶屋街だけでなく、ぜひともおすすめなのが、忍者寺として知られる妙立寺。3代藩主利常が寺院群に対して司令部的な役割をもたせるために、城の付近から移籍建立したと伝えられる寺院ですが、その建築構造の複雑さから「忍者寺」と称されるようです。
 落とし穴や隠し部屋、秘密の抜け口などまさに忍者のからくり的なしかけが豊富なのですが、私にはどこかふざけているような、大人の遊びのように感じられました。これは悪い意味ではなく、栗本慎一郎先生も、大人の秘密クラブ的なところだと著書で記しています。ご興味ある方はぜひご自分の目で確認してみてください。
 茶屋街など、少し陰のある華やかさ、という独特の雰囲気を醸し出すエリアだと思います。






前田利家・利長 (中世から近世へ)
大西 泰正
平凡社
2020-09-15


 


2021年04月13日

甲野先生とのウェビナー「これからの教育実践ゼミ」

 以前、少しご紹介した甲野先生とのウェビナーのご案内が出来たようですので、あらためてご紹介します。
 「脳と腸」「縮退」「ファッシア」などのテーマについて、甲野先生と対談する内容です。これからの教育について考えていくシリーズのようですが、甲野先生からは「縮退」について話してくださいと言われております(笑)

 ご紹介とお申込みはこちら






 また、今週木曜日は「ジャングルカフェ」です。こちらはミヒャエル・エンデ「モモ」を題材に統合医療を考えてみたいと思います。「モモ」は、ジャングルカフェそのものなのです!

  ジャングルカンファレンスとジャングルカフェの参加申し込みはこちら!


モモ (岩波少年文庫)
大島 かおり
岩波書店
2017-07-20


2021年04月11日

「利他」とは何か

 コロナ禍の時代における一つのキーワードとも言える「利他」について、伊藤亜紗、若松英輔、國分功一郎といった私の気になる論者が連名で書いている本を見つけたので買ってきました。『利他とは何か』(集英社)です。



「利他」とは何か (集英社新書)
磯崎憲一郎
集英社
2021-03-26




 まあ、こう書くといかにも偽善的なので気が引けるのですが、ジャングルカンファレンスなどの、医療における多元主義の展開を企図するものとして、利他は避けては通れないものでもあります。

 利他というキーワードは、当然「利己」と密接な関係があるので、或る意味それを強調したとたんに厭らしいものに転化する可能性をもつものでもあり、本書の中では若松先生により、そうしたことへの言及もされているようです(というのも、これを書いている段階ではまだ未読ですので…スミマセン)。ただあとがきなどを読むと(あとがきから読む派です…)、この「利他」の持つ構造のようなものを「うつわ」に譬えているようです。

 ジャングルカンファレンスやジャングルカフェといった多元的な会合を主催しているものとしては、これは結構、納得の言葉でした。とりわけ、今週木曜日開催予定のジャングルカフェに向けて、課題図書である『モモ』を読んでいる途中でしたのでなおさらでした。

 具体的には、第2章の小さな酒場での二コラとニノのもめごとの段がすぐに思い出されました。論理的な解釈をするでもなく、モモはただじっと座って注意深く話を聞く、それだけで争いは解決していくという話です。まさに「うつわ」を彷彿とする話ではないでしょうか。
 当然、この物語は「灰色の男たち」がキーワードになる話ですが、こうした序盤のエピソードにもカンファレンスとの共鳴する点が潜んでいるように感じます。

 利他ということばとの共通点を偶然見つけたような感じになったのでさっそくメモしてみました。

 ジャングルカフェの参加希望の方はこちら!

2021年04月10日

お城へ To Go (七尾城)

 上杉謙信を撤退させた山城、七尾城(34・石川)です。押印は平成231023日、七尾城史資料館にて押しました。

 ここはいろいろと思い出のある和倉温泉の近くで、かつて大学院生の時に医局旅行できた地なので、感慨深い再訪とともに、こんな立派な山城があったのかと、感動したものでした。

 ふもとの資料館から途中まで車で上がり、本丸へ向かいました。ここは本丸からの眺めが絶景で、眼下に七尾湾、能登島が一望でき、ふもとの様子もよく見えます。籠城する畠山軍からすると、さぞや上杉軍の動きがよく見えたことは想像できます。
 こうした立地の良さも相まって、難攻不落の城として今日まで語られるわけです。

 足利義昭による織田包囲網の一環として、一向一揆と和睦した謙信は、織田軍に対抗するため、能登制圧のため七尾城を攻略しました。
 対する七尾城側は、4歳の春王丸を当主に家臣団が実権を握っている状態で、信長に与して謙信に対抗する方針をとっていました。

 こうして開始した第1次七尾城の戦いは、上杉軍が攻めあぐね、ついには春日山城へと帰陣していったため、籠城成功となりました。
 この後、上杉軍は再度出陣し第2次七尾城の戦いとなります。この際も守りは固く、上杉軍が攻めあぐねるのですが、城内に突然の伝染病が蔓延、春王丸が5歳で亡くなってしまいます。(伝染病により歴史が動いた一例ですね)
 また城内の兵士も相当数が感染したと伝えられます。これにより士気は落ち弱体化し、さらには重臣らの対立を利用した内応工作が成功し、開城します。(感染症による混乱もあったことでしょう)
 つまり軍神、謙信をもってしても純粋に戦闘では落とせなかったわけで、これが難攻不落と称されるわけです。

 和倉温泉は、沸く浦とも称されるように海中から温泉が湧いているところで、海を眺めながら温泉につかれる絶好の地です。温泉も塩味がつよい泉質です。

 城郭に興味がなくても、この七尾城からの絶景は、温泉と合わせておすすめの観光スポットです。


七尾城と小丸山城―史料年表能登の中世戦国史
坂下 喜久次
北国新聞社出版局
2005-09T


和倉温泉のれきし
田川 捷一
能登印刷・出版部
1992-01T





2021年04月08日

三叉神経痛へのファッシア瘀血の関与について

 毎年冬から春にかけて、ビタミンDの欠乏をベースにもっているからなのか、神経系の不調とりわけ三叉神経痛(とくに第2枝・第3枝)の悪化で受診される方が増えるように感じています。

 栄養的な対処法としては、血液検査で欠乏している栄養素を探索し、十分な分量を補充するのですが、とにかく痛みが強いため、その場での対応が求められることがすくなくありません。
 こうした時に、効果を発揮するのが「刺絡」です。頭頸部のうっ血を背景として、三叉神経の当該部位近辺で瘀血が発生し、そこから発痛物質が神経を刺激するメカニズムを想定しています。

 教科書的には、付近の血管による三叉神経の圧迫が痛みの原因とされていますが、実際に圧迫されているケースに加え、それほどでなくてもファッシアを介して物理的もしくは化学的刺激がもたらされている可能性もあるのではないかと考えています。
 当然、症例数が少ないので決定的なことは言えないのですが、数例でも瘀血を除去する刺絡により著効した例があるので、ファッシア瘀血の関与は否定できないように感じています。手術法である微小血管減圧術も、結果としてみるとファッシア瘀血による影響の軽減を図っているとも解釈できます。

 通常の治療が優先するのは言うまでもないのですが、それでもスムースに治癒しない例では、こうしたもう一つの機序が関与している可能性も否定できないのではないでしょうか。
 また典型的な三叉神経痛だけではなく、特殊な感覚異常を伴うものもあるようですので、少し症例の蓄積が出来たらまとめてみたいと考えています。
 最近の治療経験から気になった事項でしたので、メモしておきました。


2021年04月07日

4月29日甲野善紀先生との対談 オンライン配信

 甲野善紀先生との対談が決定しました。4月29日(昭和の日)にオンラインでの配信となります。詳細はまだ私もわからないのですが、わかり次第ここでご連絡します。
 当日の紹介文として、甲野先生による紹介文と、私からのものとの2つを下記に添付しますので、ご参考にしてください。

甲野先生からのメッセージ

小池弘人・小池統合医療クリニック院長と御縁が出来たのは、今からもう四半世紀ほど前で、

小池院長が、まだ群馬大学の医学部の学生の頃だったと思う。

当時合気道部に所属し、稽古を重ねるうちに生じてきた疑問を何とかしたいと、

私が講師を務めていた池袋コミュニティカレッジの講座に来られたのである。 以来、浅からぬ縁が出来、私がかつて学んでいた合気道に疑問を感じて合気道をやめ、

武術稽古研究会を立ち上げたことに影響されたかのように、群馬大学合気道部の中から

「同志会」という会を立ち上げられ、独自の研究を始められた。 つまり、自分の中に生じた疑問には蓋が出来なかったということだと思う。

「同志会」は群馬大学合気道部の中に生まれた「鬼っ子」的存在だったようだが、

この「自分の中の疑問には蓋が出来ない」という小池院長の性格は、

専門の医学の道でも発揮されていて、一応は医師免許を取得した現代医学の医師であるが、

統合医療という、いわば患者側の立場に立った、有効なものなら鍼灸でもホメオパシーでも使うという

なかなか一般の医師では踏み入れない世界に入って、日夜研究を重ねられている。 それだけに、小池院長は大変柔軟な思考を持たれていて、

8年ほど前に『武術と医術』という共著を御一緒し、その後も年に2回か3回ぐらいは会って、

いろいろと話をすることを楽しみにしている。 今回の対談では、小池院長が大きな影響を受けたと思われる「縮退」のことや、

最近私が関心を持っている「腸と脳との関係」について、いろいろと話が盛り上がることになると思う。
広い視野に立って「身体とはどういう働きを持っているか」ということへの

探究心を持ち続けている小池弘人院長との対談は、こうした事に関心を持たれている方々にとっては

大変興味深いものになると思いますので、どうぞ御視聴ください。



小池からのメッセージ

学生時代の合気道の稽古では、力を抜け、とよく注意された。力を入れないのだから、筋肉をつけなくてもよいのかと思っていると、肩が脱臼したり、ケガが続いた。また「呼吸法」という稽古では、相手につかまれても力を抜いて腕を上げろと言われるが、当然脱力したら腕は上がらない。当時は部長までやってそろそろ引退、という時期であるにもかかわらず、根本的な事柄から、かえってわけがわからなくなるばかり・・・

 

こうした状況で出会ったのが甲野先生でした。通常、講習会などでは直接体験させてもらうことも少ない中、先生は実際に腕をもって技を体験させて下さいました。この時、とても印象的だった技が「柾目返し」。合気道でいう「呼吸法」に似た、自分が最も疑問に感じていた技でした。これが渾身の力を込めて抑えても、いともたやすく上がってしまい、これまでとは違った世界の広がりに、心躍った記憶が今でも思い起こされます。

個人的にはこの「柾目返し」にこだわり続け、今や先生のオリジナルとは随分と違ったものになってしまいましたが、今でも気が付くと感覚的に脳内で反復している技ではあります。先生にも「最近、稽古していますか?」と問われ、当然学生時代の様には稽古していないのでそのように返答しているのですが、この感覚の反復というか「確認」は常に継続してきました。先日も、肥田春充の聖中心についてのお話しをしていた時に、短時間での特殊な感覚の「確認」の重要性を知り、改めてその反復の意味を嚙み締めました。

 

力を入れずに入れる、相反する矛盾をどのようにして体現するかというテーマは、そのまま現代医療と代替医療との対立を、個人のレベルで統合・解決しようとする「統合医療」の目的そのものでもあります。

東洋医学と西洋医学、見えるものと見えないもの、正統と異端、心と体、脳と腸、図と地の関係としての解剖構造とファッシア、などいくつもの相反する視点でも、同様の問題が垣間見えます。総じて私はこうした「相反」する領域に強い興味をもっています。

 

この度は、先生の武術から拓かれた医学や身体への視点を皆様と共有出来たら幸甚です。とくに現代医療の在り方について疑問を持たれている方や、統合医療という分野とその武術との関連性等に興味を抱かれている方々に何らかの参考になればと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。




2021年04月05日

臨床ファッシア瘀血学(11)肥田式「聖中心」から思うこと

 前回は、臨床的な事柄から推測される連続性と局所性をキーワードに、これまでの話をまとめてみました。そこから今回は少し想像の羽を羽ばたかせて、いわゆる超人の技法との関連性などを考えてみたいと思います。

 甲野善紀先生との勉強会の話題は、以前このブログでも少し紹介しましたが、ファッシアと肥田式との関連についてです。
 肥田春充は、いわゆる丹田とされる聖中心を、自ら創出した技法の中心にしていったわけですが、その位置を、解剖学的構造ではなく、幾何学的な説明により提示していました。つまりランドマークは解剖的な構造ですが、聖中心というものを示すには「円」を規定しその中心としました。
 そしてその中心を、腰椎からの直線が通過している説明図を提示しています。つまり考え方によっては、それぞれの解剖的な構造物との関係性、位置を規定する張力のようなもの、と考えてもよいのかもしれません。これまでのファッシア理論からすると「O-F」にあたる関係です。

 また、甲野先生からの示唆で気づいたのですが、球状の円(球)が規定されているのですが、これには何らかの実体があるのではないか、という考え方もできます。ここ(球)に臓器の実態を当てるとすれば、それはまさに「腸管」、特に腸間膜に吊り下げられえた小腸となります。(甲野先生は腸管の何らかの膨張を想定されているようです)
 この小腸は後腹壁から「フレアスカート」状に吊り下げられ、斜め下方向に集塊をなす様は「球」といえなくもありません。
 学生時代の解剖学での記憶と合わせても、この「聖中心」と考えても矛盾なさそうに思います。
 ただしここで注意すべきは、聖中心が腸管であるか否かという問題ではなく、肥田春充が幾何学的に表現したものの位置に、そうしたものが存在するという意味だけです。安易な同一化をしようとするものではありません。
 こうした問題は「三焦」の捉え方にも適応できます(三焦を東洋医学の教科書的に捉えるだけでなく、腹腔動脈、上腸間膜動脈、下腸間膜動脈から腸間膜が栄養されるさまを三焦としたのではないか、という視点も実際の解剖所見からするとアリなのではないかとも思います)。機能総体としての三焦ではなく、何らかの「実体」を古人は捉えていたのではないかという考察です。これは大きな塊のように見える腸間膜と周辺の脂肪組織を古人は一塊の臓器として捉えていたのではないか、そしてそこには臓器としては当時認識されていない「膵臓」も含まれてきます(実際の解剖所見としては全てが一塊に見えます)。

 そしてこのフレアスカートの吊りあげている視点が「腸間膜根」となり、後腹壁を左上から右下へ向けて、腰椎を跨いで下降しているのです。解剖的に腰椎1番2番あたりから下降しているので、横隔膜後脚が3番あたりまで来ていますので、呼吸におけるファッシア的な連動は十分考えられます。
 そしてその終結は右側の仙腸関節上部に至ります。つまりここもファッシア的な接続を考えることができます。つまり骨盤調整との連動の可能性です。この「根」は当然、腰椎4番5番あたりで腰椎を跨いでいるので、いわゆるヤコビー線と腰椎との交点を、肥田春充が示唆しているのと関連するようにもみえます。腸間膜根の吊り上げ作用の重心が、腰椎4番5番の意識や調整と直接関連することは容易に示唆されるでしょう。

 なぜ肥田春充が、こうした幾何学的な説明によりその位置を示そうとしたのか。それこそが当時(今もそれほど大きな変わりはありませんが)の解剖学がファッシアの存在を、半ば無視していたことと無関係ではないように思います。
 解剖実習を行った経験がある人であれば、すぐわかることですが、解剖実習とはこの「ファッシア」から、いかにして目的の「臓器」取り出すか、つまり見やすくするかにつきます。ファッシアは取り除かれるべき「不要物」であり、臓器の「背景」にしか過ぎないというわけです。

 解剖するという行為の究極が、解剖学の図譜や教科書ですから、そこには当然ファッシアの記載はありません。いくら肥田春充が超人であったとしても、当時の(今も?)解剖図に記載されていないものを、実体として認識していたとは思えません。これは近年、「ニューズウィーク」誌に皮膚を上回る「巨大な臓器」としてファッシアの発見が報道されたことからも、「存在していた」にも関わらず「認識されていなかった」臓器であることがうかがわれます。

 春充は、自らの体感と、熟読した解剖書とを見比べて、その関係の体感を幾何学的に示そうとしたのではないでしょうか。これは眼光紙背に徹するかの如く解剖書を読み込んだであろう春充の、正確な解剖的知識があればこそ、「そこにないもの」を記載することが出来たのではないと考えます。「在る」ものを強く意識するほどに、認識の反転が生じた際に「ないはずのもの」がより強烈に認識されてくるのではないか。「図と地の反転」を基盤として考えるべき、ファッシアとの関連がここに出てくるように思います。春充の聖中心の体感の瞬間などは、まさにこの認識の反転として捉えることで、理解できるのではないでしょうか。

 腸間膜根から壁側腹膜として折れ返ることで、腸管の状態が全身へと接続されます。これはまさにファッシア論でいう「O-F」の引張構造で説明されます。
 室町時代に隆盛を極めた「腹部打鍼術」が、腹部のみの刺激で、全身のあらゆる症状に対応していた事実からも、この関係は意外に大きな連携を有していることが推測されます。
 進化学的にも体幹である腹から四肢が形成されてきたことを思うとその中心が「腹」の「腸管」にあることも矛盾しません。ここに「火事場の馬鹿力」発揮のカギがあるようにも思えます(甲野先生のご指摘による)。
 こうした身体(とりわけ四肢)の関係のみならず、近年は「脳腸相関」として神経系との関連が最新医学のテーマとしても注目されています。神経伝達物質において、脳→腸、または腸→脳の関連が、詳細に研究されています。こうした関連においても、腸管の占有する位置が、その機能に関係する可能性は大いにありそうです。

 腹腔内での腸間膜と腸管を一塊としたものの位置により、四肢における運動能力が大きく影響される可能性を、聖中心は持っているように思われます。そして加えて、それらの正しい位置関係が、「脳腸相関」においても生体に有利に働く可能性も想定されます。(筋膜の張力の均等化や、結合組織表面における水分子の量子的ふるまいの正常化、等が要因として考えられます)

 筋トレにおける筋肉のイメージのように、腸の塊の鮮明なイメージ化によって身体的かつ精神的な超絶した能力の開花が可能になるのではないか、そんな可能性を「聖中心」は与えてくれるのではないでしょうか。




機関誌 聖中心道
肥田 春充
NextPublishing Authors Press
2019-12-04






2021年04月03日

お城へ To Go (和歌山城)

 徳川御三家の居城、和歌山城(62・和歌山)です。押印は平成25114日でした。

 この城は、豊臣秀長により築城され、関ケ原の後、浅野幸長により天守が建造されています。天守は太平洋戦争において米軍機の空襲により焼失、1958年に外観復元されたものが現在の姿ということになります。

 浅野はその後、さらなる加増により広島藩へ移封、代わりに徳川頼宜が入城し、以後250年にわたる紀州徳川の時代になります。
 徳川頼宜による城下町の拡張や城郭の改修が大規模であったため、途中、幕府から謀反の嫌疑をかけられるなどもしたが、入念な普請がこうした嫌疑につながったものと言えるでしょう。たしかに和歌山城をみると実に立派で、こうした嫌疑も、なるほどと思ってしまいます。
 市内の至る所から天守が見え、お城に見守られる町といったイメージぴったりです。

 訪問時の思い出としては、和歌山ラーメンを食べてから城郭を見学。その後、城内を散策していると突然の大雨。やっとの思いでトイレに駆け込みましたが、すでに大勢の人が逃げ込んでおり、びしょぬれになってしまいました。こういう記憶は明確に記憶に残りますよね。

 ちなみに和歌山ラーメンの店にいくと「早すし」と称して、鯖ずしがあるのがご当地流。自然発酵のなれずしと区別するために「早」とついているそうなのですが、ラーメン屋にすしと書いてある違和感は印象的でした。











2021年03月29日

臨床ファッシア瘀血学(10)連動性と局所性(これまでのまとめ)

 これまでファッシアと瘀血に関しての境界領域を中心に、臨床的な理論を述べてきましたが、この辺りで少し概略をまとめてみたいと思います。

 鍼灸医学から量子医学まで、「ファッシア瘀血」を中心軸にしてきましたが、中でもファッシアの解剖学的な連動性と、瘀血を中心に出現する慢性炎症の局所所見が、その病理の中心を担います。つまり以下のようなまとめになります。「連続性」と「局所性」という二つの視点から、「ファッシア瘀血」の展開までをまとめてみました。

ファッシアの二大病理

1)連動性:ファッシアの特徴でもある引張構造による「引張性」だけではなく、そのコラーゲン線維により形成される「導管」(プレリンパを内包)としての役割も含む。病変としての重積により引張構造が破綻し、運動性が低下し、それに伴い瘀血病変が増悪するのが主な病理である。

2)局所性:局所的な慢性炎症により、免疫細胞が線維芽細胞を刺激するサイトカインを放出し、コラーゲン生成が促進された結果、過剰に配列不規則なコラーゲン線維が生じて「線維性癒着」や「重積」を生じる。そこには毛細血管の渋滞箇所が形成され瘀血が発生する。このモデルを「ファッシア瘀血」と本ブログでは仮称している。さらにはファッシアを形成する栄養成分の欠乏により、不完全な線維形成も局所病変の悪化を加速する。


具体的技法・理論との関連

1)連動性に関しては、ファッシア概観の水平構造を規定する「O−F」と垂直構造を規定する「A−F」が全体像をなす。詳細な機能解剖学的視点では、東洋医学的(鍼灸的)視点が有用で、自由電子による直流電流を基礎とした「正経・奇経」、神経細胞を介する交流電流や物理刺激を基礎とした「経筋」、力学的な張力を基盤とした「アナトミートレイン」が直観的に理解しやすい。応用編としては、ファッシアの連絡路を介した「熱」「(生薬の)有効成分」などの伝導を示した「経方理論」の隔を中心にした関連図も連動性に分類できる。これは腹診などの漢方的所見との橋渡し的役割を有するものでもある。腹診に限らず、東洋医学的体表観察一般に拡大できる可能性がある。かつて「帰経」によって無理に鍼灸と湯液との統合が模索されたが、より合理的な形で実現される日も近いと考える。

2)局所性は何より炎症所見に代表される。ファッシア瘀血により形成された慢性炎症所見により、マクロの「瘀血」が形成される。これが神経・血管との連携を経て、凝りなどの硬結や多彩な腹診所見を形成する。加えて、瘀血を「病巣」ととらえることで、遠隔臓器にまで悪影響を及ぼすことが推測される(病巣感染)。
 また局所での重積による疼痛は「筋膜リリース」「ハイドロリリース」などの方法により解決される。栄養による局所の慢性炎症対策も有用である。
 視点をさらに微視的にすると、量子論との関連も示唆される。生体マトリックス表面の結合水の同調状態が何らかの原因で乱された場合、微細な電流や、ホメオパシーなどの秩序を有する水分子の痕跡を介して復調される可能性がある。全身くまなく連続していると考えると、その表面の結合水の影響は想定外に大きいと言えるだろう。この視点からホメオパシーと鍼灸との接点を見出すことができると考えている。



2021年03月28日

来月のジャングルカフェの課題図書は「モモ」!

 来月のジャングルカフェの課題図書は、「モモ」です。読んでいない人は読んでみてくださいね。みんなで統合医療的に語りましょう!

  
参加希望の方、気になる方は
こちら(統合医療カンファレンス協会)まで!



モモ (岩波少年文庫)
大島 かおり
岩波書店
2017-07-20






2021年03月27日

お城へ To Go (高取城)

 標高583mの山頂に聳え立ち、数多くの櫓を有する高取城(61・奈良)です。押印は平成25112日で、観光案内所「夢創舘」で押しました。

 初の訪問時は、本丸まで登ってから帰路に立ち寄り、CGによる当時の建造物を紹介する映像を見せていただきました。上ってきたばかりでしたので、なんとなく場所は把握できましたが、現状の鬱蒼とした森から、往時の様子を再現された映像はにわかには信じられないほどのギャップがありました。

 山頂の本丸近くでは、イノシシによるものだと思われる土を掘り返した跡やらがいくつもあり、ビビっておりました。また、観光案内所の前をイノシシが疾走していくこともあるということでした!
 それが2度目の訪問時には、まだ本格的に山の中に入らぬうちから、私よりも大型のイノシシが突如出現。これはまずい!と思った瞬間、向こうも同様に感じたのか、急な斜面を駆け上がり逃走してしまいました。これまでこれほど大きなイノシシを間近で見たことがなかったのでしばらくは恐怖にオノノイテおりました。あらためて山城の危険性を肌で感じた出来事でした。高取城というとイノシシしか思い出せないくらいです!(笑)

 夢創館から結構な山道を登り、七曲・一升坂という大手道をさらに上がると、水堀・猿石・二の門跡にでます(この猿石はなんどみても不思議な感覚に襲われます)。そこからさらに上がると三の丸、二の丸と続き、本丸に至ります。
 本丸は初めて見るとかなり衝撃的な迫力です。ラピュタの世界に迷い込んだような感覚になります。山城好きは是非見ておくべきところです。(最初は本丸裏手近辺までタクシーで上がりましたが、やはり大手道から苦労して登ったほうが本丸の衝撃は大きいようです。是非とも初回は大手道からの登山をお勧めします!ただし山歩き用の装備は必須です!)

 帰りは壺坂口門跡から降りていくと、壷阪寺に至ります。ここでバスに乗ることができます。バスの時刻に間に合わせようと駆け下り、大変くたびれました…(バスの本数が少ないので要注意です)

 高取城は幕末においても歴史の表舞台に出ています。尊攘派の天誅組が高取城を攻略しますが、これを撃退し、その防衛力の高さを見せたのでした。易々とは攻略できない城郭だということが体感できました!

 奈良というと、石舞台などの古代遺跡や大仏のイメージですが、そのすぐ近くにこれだけの山城があるというのは一般にはあまり知られていません。定番の奈良観光に加えて、一度訪れてはいかがでしょうか。鹿だけでなく、猪にも会えるかもしれません(笑)






高取城
2017-01-30