本HPは「統合医療」に関して、その概念および実際を紹介することを目的とするものであり、個別の疾患や診療内容の相談には応じかねます。また、内容に関しても、実際に個人の判断で適応した際のあらゆる責任は負いかねます。実際の診療に関する事項は、医師にご相談の上、施行されることをお勧めします。

2021年01月23日
お城へ To Go (安土城)
誰もが知る、絢爛豪華であったであろう安土城(51・滋賀)です。押印は平成26年11月2日受付にて行っています。唯一「天主」と表記される城と思っていたのですが、大河ドラマ『麒麟がくる』では坂本城も天主と表現されているようですね。信長グループのお偉方が使用可能だったのでしょうか(笑)
安土城は、普請奉行を丹羽長秀として急ピッチで築城され、築城開始から約3年で「天主」が完成し、早々に信長が岐阜城から移り住んでいます。
鳥観図でみると一目瞭然ですが、背後に広大な観音寺城を有する観音寺山があり、一方では(当時は)琵琶湖に張り出すような形になっています。
築城にあたっては、六角氏の観音寺城に大きく影響されたとされますが、見ようによってはアピールしやすいように琵琶湖湖畔に近づき、背後の詰めの城的な役割を観音寺城が担うようなイメージでもあります。
後世の幾多の名城の原型でもあるこの城は、その消滅の仕方も劇的で、天主完成から3年後には本能寺の変が勃発、原因不明のまま焼失してしまいます。
この原因については様々な憶測がありますが、どれもパッとしません。現在では織田信雄が本丸に火を放ったという説が有力らしいのですが、どうなのでしょうか。廃城ののちは、豊臣秀次により八幡山城の部材として転用されているようです。
天主を実際に見てきたわけではないのですが、この城の最も目を引くポイントは四重・五重のド派手な建築様式です。ほかに類似する城郭がないのですから、本当?という疑問をいつも持ってしまいます。
いくら信長が特別だからと言って全く後世に類似したものがないというのも腑に落ちません。それほど信長は特別なんだから、と言われれば仕方ないのですが。(豊臣期大坂城が一応これに似せているといわれてはいます)
この城郭は当然、天主などは現存していないのですが、大手道をまっすぐに上がるダイナミックな縄張りは、城好きでなくても十分楽しめる歴史スポットだろうと思います。
特に城が好きというわけでもない友人が、安土城は良かった、と連発していたので間違いないと思います。
実際に訪問すると、本当に「見せ方」にこだわったんだろうな、ということが実感できます。
2021年01月22日
鼻うがいの様々な疾患への応用
コロナの付着部としても、注目されている上咽頭ですが、この部位を、簡単に洗浄できるのが「鼻うがい」です。生理的食塩水を作成して洗浄するもよし、もっと簡便に専用の洗浄液を薬局で購入するもよし(ハナノア等)、です。もっと上咽頭局所の治療としてやるのであれば、専用のリノローションなどもあります(こちらは医療用なので医療機関での購入が必要ですが)。
いずれにせよ、上咽頭の清浄化のみではなく、その部位の適度な刺激にもなり、自律神経(とりわけ迷走神経)への刺激や調整機能として捉えることもできます。つまり呼吸法などと並んで、ポリヴェーガル理論でいうところの有髄の迷走神経への介入にもなるのではないでしょうか。
こうした刺激は、安保理論なども考え合わせれば、難病やがんなどの難治性疾患における、免疫の調整や賦活にもつながることが予測されます。いずれにせよ、安全な健康法の一つとして、免疫賦活や調整の手軽な方法になりうるものですから、漢方やホメオパシー、サプリメントなどの従来の方法論と合わせて積極的に用いてみることをおすすめします。
2021年01月18日
スギ花粉のレメディ 花粉症のホメオパシー
例年のこの時期からおすすめしているのが、花粉症のレメディです。ホメオパシーなので、科学的嗜好が強い方はアレルギーを持つかもしれませんが(笑)、こと花粉症対策としては、是非ともおすすめのアイテムです。(ちなみに当クリニックでは月ごとに、ホワイトボードに健康増進のためのおすすめアイテムを掲示しています!)
薄めたものを用いる、その利用方法は、舌下免疫療法においても発想は同じですが、生成方法や希釈濃度などに若干の差があります、というより法的な差異が最も大きいといえるかもしれません。いずれにせよ、日本のスギ花粉から作られたレメディを、舌下に毎日1粒ずつとるだけですから、負担は極めて少ない療法です。毎日1粒、2か月ほどの継続が通常の方法となります。
このレメディに関しては、仙台の朴沢先生らにより既に研究発表がされています。19施設125名の患者さんを対象にした研究の結果、対照群では半数の患者さんがほぼ毎日抗アレルギー薬を服用せざるをえなかったのに対して、レメディ服用群では42.6%の方が1週間で0〜2錠の抗アレルギー薬服用で症状を抑えることができていたというものです。これが単年の結果なのですが、さらに継続すると結果が良くなります。つまり、2年3年と継続することで有効性が高まり、4年経過時点で、80%の方が抗アレルギー薬を全く服用しなくなったという結果が出ているのです。
この治療はホメオパシーのカテゴリーですので、いわゆる「代替医療」枠の治療法ではありますが、海外の報告もあわせるとかなり良い結果がすでにあるので、ただ漫然と「抗アレルギー薬」に頼っている方にはぜひとも試して頂きたい治療法です。ホメオパシーが嫌いでも、この花粉症レメディは、かなりの方に効果を実感して頂けるのではないかと感じています。
ご興味ある方は、当クリニックまで、お問い合わせ、ご予約下さい。個々の体調に合わせた診察の上、処方可能です。
ちなみにこの方法は、他のアレルギーにも応用可能で、レメディの種類を変えることで、スギやヒノキに限らず、ハウスダストや、犬や猫のアレルギーなどにも効果的です。当院でもアレルギー治療として用いております。スギ以外のアレルギーの方もご相談ください。
2021年01月17日
お城へ To Go 統合医療編 (折衷と多元から「城」をみる)
教条、折衷、多元、統合という、複数のカテゴリーの括り方の差異について、統合医療という概念は極めてあいまいであり、それゆえに現在でもその概念の混乱がある、というのが私の主張なのですが、これの具体例として、結構、城の分類が役に立ちます。
いわゆるお城を時代的に大きく分類すると、古代山城、中世山城、近世城郭に大別できます。少なくても100名城などの城巡りでは、これらのどこに分類されるのかを意識しながらめぐることで。ポイントを外さずに済みます。
古代山城に関しては、大和朝廷の対外政策の関連なので、少し例外的なのですが、中世山城はまさに「折衷」から「多元」への移行、近世城郭は「多元」から「統合」への移行、を象徴しているように思います。
応仁の乱以降の混乱期から、戦国時代へと突入、次第に吸収合併が進んでいくさまは、まさに折衷状態が、力の強さによって教条(統合)へと向かう様子そのものとも見れます。この過程がまさに中世山城的です。
それから織田信長による安土城築城から、統合への意図がちらほらと透けて見えるようになります。それでも、各地の大名が群雄割拠した政局が続くため「多元的」状況が続き、或る意味そのまま近世江戸期に入ります。そしてこの幕藩体制そのものが、「多元的」政体とも言えます。
このようにして見ると近世城郭を「多元」とみなすことが出来そうです。そして明治政府の樹立により近代国家が形成され、廃藩置県が断行されることで、「統合」(そしてある種の「教条」)が完成されたと見ることもできるわけです。
これまで、多元と折衷の違いなどでは歴史的視点で解説してきたのですが、城との関連で今回は解説してみました。ご興味ある方は、直接聞いてください。もっと分かり易く説明します(笑)
いずれにせよ、こうしたモノサシ📏の導入により城も統合医療も、混乱を少しはのぞけるのではないでしょうか。でも、こうした混乱で困っていないという方に提案しても、あまり必要性は感じないかもしれませんね…年末の学会発表での「統合医療の可視化」も、ほとんど諸先生方の反響ないままなので・・・(T_T)
2021年01月16日
お城へ To Go (彦根城)
「ひこにゃん」で有名な彦根城(50・滋賀)は小谷城と合わせて訪問していますので、押印は平成26年11月3日、彦根城表門券売所にてスタンプを押しています。
この城は、関ケ原の戦いの後、井伊直政が佐和山城を破却して、新たにその近在に築城したことが始まりとされます。
天守は国宝で、譜代筆頭の井伊家の格式に見合う華麗な三重天守です。それでも玄宮庵からの天守の姿は、最上層の華頭窓が「目」のようになり、笑っているようなキャラクターの顔にも見えるので親しみやすくもあります。
城全体は平山城で、その山麓には大規模な御殿が復元されており、総石垣の素晴らしい近世城郭になっています。
築城にあたっては天下普請とされますが、築城者の井伊直政が計画の二年後に亡くなるなどしたこともあり、20年の歳月を経て完成に至ります。
この城が現存しているのは、明治維新において彦根藩が新政府側についたことや、明治天皇が巡行された折、破却されることを惜しみ保存を命じたからとされます。
いずれにせよ井伊家の天皇家との並々ならぬ深い縁を感じさせるエピソードではあります。また、築城に貢献した直勝が安中藩に移封され(病弱のため大阪の陣に参陣出来なかったことが理由とされる)二代藩主に直孝がつくあたりの事情も、通説通りではないような雰囲気を感じます。
非常に見どころも多く、きれいなお城です。天秤櫓など建築による防御を考えるときにとても参考になります。また、井伊直弼ゆかりの「埋木舎」は、不遇をかこった人物の若き日々が偲ばれ、ここから天守を見上げたのかななど考えると、感慨深いです(直弼がその後の運命をどこまで知っていたのかは不明ですけど)。
ちなみに年末の「やりすぎ都市伝説」で、お龍の(龍馬の後の)夫が、彦根藩出身であるという事実は、驚きました。お龍をたどるといろいろありそうですね。詳細はしらべてみてくださいませ。
2021年01月13日
明日のジャングルカンファレンス 追加資料
これまで、リアルのカンファレンス形態に準じて、オンライン開催をしてきましたが、若干の間延びした感じがしてしまい、実際の対面での開催と差異が生じてもいました。そこで、これまでリアルな開催では、自分の職種などの自己紹介くらいしか発言の枠に制限を設けてきませんでしたが、新たな「型」のようなものを設けたいと思います。
今回からの試行錯誤ですが、参加される方は少し考えてきてください。具体的には、3つの質問形式を自分なりに答えを出して発言して頂きます。以下のような3つです。
(1)うまくいくであろう方法論を3つほど挙げる(現代医療でも、オルタナティブでもOK)
(2)うまくいかないであろう方法論を3つほど挙げる(現代医療でも、オルタナティブでもOK)
(3)自分がうまくいかない場合を3つほど挙げる(現代医療でも、オルタナティブでもOK)
ここにはあえて、自分がうまくいくというパターンは挙げていません。当然うまくいくであろう見通しがあるから自分が行うわけですから、あえて問い直すという作業をいれません。この過程のキモは、内観療法で言うところの「迷惑をかけられたこと」があえて抜けているということと、同義です。(わからない方は明日JCにて質問してください!)
うまくいくパターンの主張ですと、各自がそれを次々展開するだけなので、同じ展開になることが多くなるのと、正統すぎる現代医療的なコメントで議論が先に進まないからです。
これまでもいろいろなカンファレンス展開を見てきたのですが、色々な方法論の紹介がでてきても、それらへの総括的なコメントなしで先に進めて、現代医療的な見解のみ出してしまうと、いわゆる多元的統合医療のカンファレンスにはならないからです。「こころ」の問題をさんざん議論した後に、精神科受診を勧める結論だけでは、せっかくの参加者のモチベーションも下がるのみでしょう。
そうならないためにも多元的に複数の方法の是非を、全員に供覧して、みなで多元的に考えてみるのです。すこし最初は難しいかもしれませんが、これこそがジャングルカンファレンス開催の意義そのものですし、こうした多元的な視点を持つように訓練する道場が「ジャングルカンファレンス」なのですから、この3つを考えることは基本に立ち返ること、そのものでもあるのです。
明日は一時間ほど、こうした形式に基づいてカンファレンスを試行してから、今、もっとも関心があるであろう非常事態宣言下での各自の治療院等の運営についても意見の交換をしてみたいと思います。
また偶数月開催のジャングルカフェについても、カンファレンス同様、若干の変更を加えようと思います。
これまで症例検討以外の事項をいろいろと話し合ってきましたが、それに加えて、課題図書的なテキストを用いて、広く多元的な統合医療について、話題にしながら展開していく予定です。やってしまえば、特段難しい内容ではないので、まずは参加してみてください!
オンライン開催になり、統合医療カンファレンスの本当の意義が改めて問われているように思います。「統合医療」は多彩な施術を含めた代替医療の「かっこいい言い替え」ではありません。この大きな枠に自らの方法論を入れ込むことで、その技法自体が進化していくというものでなくてはならないのです。ある方法論の勉強会のみでは早晩パターン化し固着する思考を、「多元的統合」の大きな枠内で進化させ、新時代に適合できるような形態にメタモルフォーゼしていくことが究極の目的です。
お城ブログ(お城へToGo)を連載していますが、お城めぐりにもこうした読み違いがあります。お城を訪問した際、100名城であれば、そこのスタンプを押印するのですが、人によってはこの「押印」という手段が、目的に転化してしまうようなものです。つまりスタンプを押せば城をみなくても良い、というような状態です。
別に100名城であればそれも一つの楽しみ方ではありますが、統合医療の実践であれば、それでは困ります。というか、それだと何ら面白みがありません。
ただ統合医療と称する場に行ったことがある、というだけで何ら自分の技法の向上につながらないのですから。我々はスタンプも押すけれども、城も満喫する、という状況を目指したいと思います。
統合医療の場に一度行ったことがある、というだけでなく、多元的な統合医療の思想に触れ、自分のものにして自らの技法をより向上させていく一助にする、ということを目的にしたいと思うのです。
2021年01月12日
『身体構造力』から考えたこと
身心工房リボンのメンバーとともに、内輪のカンファレンスを年始に開催した折にも、各自のセラピーへの思いに関して、本書と齟齬があるか、あるとすればどのような点なのか、など各人で考えてみるようにテーマを出しました。
私自身、「愛」と「宇宙」のような安易なキーワードを用いることの問題点や、あくまでも「身体」にこだわるという視点を重要視するという点は、甲野先生の著作や、先生との時折の会談などを通じて、よく語ることではあるのですが、近代主義的世界観から整然と説明している本書の意義は極めて大きいと思うので、あらためて課題図書的に紹介しました。
私個人の問題意識としては、明治期の霊術的な事柄の分析が近代思想の理解への、図と地の反転のように使える可能性を感じることができ、このあたりをまたもう一度勉強しようという気になっております。
自らの流派の方法論において、スピリチュアル系への過度な傾倒を問題視していたセラピストも非常に関心を持って、この書籍の紹介を聞いてくれていたようですので今後の展開が楽しみです。
とくにセラピストの方々には全3章のうち、第2章を重点的に考えてみると良いのではないでしょうか。
とても参考になるフレーズがいくつかあるのでが、今回はその一部をご紹介し、また後日、さらに追加して皆様と供覧してみたいと思います。
まずは整形外科的な治療などについて。EBMの視点と合わせ、よりベストなものを探求するにあたっての記述。
「制度上それしか打つ手がないために行われるはずの処置」が「医療判断として最善」だという誤解に至ってしまうのには、そんなに時間はかかりません(114頁)
というところ。知らず知らずのうちに行われる思考停止を指摘したこの文章は、バックミンスター・フラーも『宇宙船地球号操縦マニュアル』にて
船が難破したとしよう。救命ボートもすべてなくなった。見るとピアノの上板が流れてくる。これがつかまっても十分浮力があるものなら思いもかけない救命具になる。といって、救命具の最良のデザインがピアノの上板というわけじゃない。
と記載しているのと一脈通じるように思う。私たちは日々、こうした思い込みの中にいることを改めて感じる感覚を忘れていけないように思うのです。
また機会を見つけて、気になった文章を備忘録的にピックアップしてみたいと思います。
2021年01月11日
江戸城を歩く! 城をひとつ!
古地図と現代のコースが具体的に12コース示してあり、1〜2時間で各々めぐることが出来るという、まさに実践的ガイドブックです!
アースダイバーなんてのもありましたが、これまでとは違った東京を、コロナ禍の後にでもゆっくりと味わいたいものです。
城攻めといえども、人間模様が重要、ということをあらためて感じる歴史小説です。攻城は敵の心を攻めるという、なのです。春風亭昇太師匠、絶賛の一冊です!
2021年01月10日
2021年1月の非常事態宣言を受けて、予定の変更等
まず、本年1月の開始予定でした「基礎医学塾」は、栄養・生化学の分野の学習予定でしたが、1月の開始を延期し、2月の下旬開催予定といたします。詳細は、本ブログにて再度掲示しますので。マメに見て頂けたら幸いです。内容は、以前お知らせしたものと変わらない予定ですので、参考図書やテキストもそのまま同じです。(すでに購入された方はご心配なく)
今月開催予定の「ジャングルカンファレンス」について。開催日は今月14日木曜日で変更ありませんが、代々木開催予定でしたがオンライン開催に変更いたします。参加希望の方へは個別にアクセス方法をご連絡いたします。(昨年5月非常事態宣言時のカンファレンス形態と同様です)
小池統合医療クリニックにおける診療は概ね予定通りではありますが、初診など、今後の予約を希望される方は、予約枠を「密」にならないように設定してありますので、少し予約が取りにくくなるかもしれませんので、お早めにお電話にてご予約お願いいたします。なお、既にご予約いただいている方は、特に変更はありませんので、ご心配なく。
なお、日本統合医療センター・身心工房リボンに関してましては、担当のセラピストによって担当時間等が異なりますので、お電話にてお問い合わせください。
ジャングルカンファレンスについてはこちら!
2021年01月09日
お城へ To Go (小谷城)
新年あけてからはしばらく「近畿編」でいきます。
今回は小谷城(49・滋賀)です。平成26年11月3日に訪問しました。レンタカーにてまずは小谷城戦国歴史衣資料館で押印し、その後、番所跡まで車であがりそこから歩いて登城しました。
浅井家は、久政の代に六角氏に敗れて以来、六角氏に服属していましたが長政の代になり、六角義賢に野良田の戦いで勝利し自立を勝ち取ったとされます。その後、六角氏との関係で優位に立つべく織田に接近、これにより長政はお市の方と結婚し、浅井三姉妹をもうけました。
しかし、織田信長が越前朝倉を攻めると、金ヶ崎の戦いにおいて織田に反旗を翻し、姉川の戦いで朝倉とともに織田と激突します。この戦いで織田は勝利するものの、本拠・小谷城までは落とせず、信長との対立が続くことになりますが、こうした最後の舞台となったのが小谷城です。
小谷城は、浅井の居館や家臣団屋敷があったとされる清水谷から見上げると、右手に本丸、左手に山崎丸がみえ、その中央に詰めの城としての「大嶽」が位置しています。
この大嶽は容易には落ちず、織田軍は相当苦戦しているようです。しかしその後、ここも最終的には制圧され、山崎丸、福寿丸も落ちると清水谷から総攻撃をかけ、浅井久政・長政は自刃し、落城に至るというわけです。本丸の下部には赤尾屋敷跡があり、ここで長政は自刃したと伝えられています。
この城の特徴としては、本丸より上段に、守護の京極氏を迎え入れたとされる京極丸、さらには地域で信仰される地主神を祀る山王丸があり、地域社会の統治においての配慮がみられるのが大きな特徴とされています。浅井の人間関係の機微のようなものが垣間見えますね。城郭から地域の人間関係が透けて見える良い例とえいるでしょう。
ここもクマ出没注意がなされていたので、熊鈴をもっての登城となりました。くれぐれも皆さんもご注意ください。