注意事項
本HPは「統合医療」に関して、その概念および実際を紹介することを目的とするものであり、個別の疾患や診療内容の相談には応じかねます。また、内容に関しても、実際に個人の判断で適応した際のあらゆる責任は負いかねます。実際の診療に関する事項は、医師にご相談の上、施行されることをお勧めします。
小池統合医療クリニックへ

2021年11月27日

お城へ To Go (湯築城)

 伊予河野氏の居城、湯築城(80・愛媛)です。押印は平成22年12月9日です。今治からまわり、松山に宿泊し、翌日、松山城を訪問しました。
 名前の通り、道後温泉のすぐ近くって感じの城ですが、公園です(道後公園)。城と認識しないとただ公園とだけ思っている人も多いのではないでしょうか。でもしっかりと復元された武家屋敷もあります。
 でもなんだかのんびりした雰囲気があります。温泉場が近いからなのでしょうか。

 さらに少し行くと松山城なので、結構、見どころが大渋滞です。さらに当時は「坂の上の雲」ブームにものって結構盛り上がっていた感じでした。

 14世紀前半に守護の河野通盛により築城されたといわれ、当初は山城として機能していたようですが、徐々に丘陵部の麓部分を城内へと取り込みんでいって平山城として形態になっていったようです。

 西側にある勝山は、現在は松山城があるのですが、こちらもかつては河野氏の防御拠点として機能していたようです。
 秀吉の四国征伐では、小早川隆景が伊予に侵攻、湯築城を包囲し落城。その後、河野氏は滅亡します。
 小早川氏に次いで、福島正則が城主となるも居城を移したため廃城。続く加藤嘉明が伊予を領有すると新たに勝山(味酒山)に「松山城」を築城したため、湯築城の資材を再利用したことで完全に廃城となったのです。中世の城が役目を終え、近世城郭に飲み込まれていく様子、そのままといった感じです。

 この城は、道後温泉のすぐ近くで、「湯月城」とも称され、築城以前から河野氏の別宅「湯の館」があったというくらい温泉とのつながりが濃厚です。
 かつての中央政権における療養所のような意味もあったのかもしれません。温泉と城という一見、場違いなもの同士のようですが、公共施設という意味で、大きなつながりがあってもおかしくないのでしょう。
 そうした古い支配層から、近世の支配層への移行を感じさせます。松山城とセットでとらえるとより興味深いものとなりそうです。














2021年11月22日

お城へ To Go (金田城)

 五島列島の福江城と並んで、続100名城のラスボス、金田城です。NHKの最強の城にも認定されていますが、とにかく行きにくい…。おとなり韓国の方が近い「国境の城」、別名「かなたのき」。実際の由来は違うのかもしれませんが、かなたのき、の方がしっくりとくる城ですね。

 白村江の戦いの敗戦後に、唐の侵攻に備えて建設された古代山城で、大野城や基イ城などに続いて、国境の最前線として防人が配置されました。
 鬼ノ城や、玄蕃尾城に匹敵するハードな運転の行きにくさです。はるばる対馬に到着した上に、なかなかの山道、徐行運転、カーブは減速というよりほぼ停止、ライト点灯、クラクション併用です。到着しても狭い駐車スペースに、わナンバーの駐車群で転回も困難、携帯電話は電波状態悪く使用できません、とのお達し。そこからさらに登山スタートです。
 ただ、そこからは石塁や城戸、石垣が万里の長城のごとくに展開しており、事前に想像していた以上の迫力でした。壮大な石垣の向こうに、黒瀬湾が見え、三つの城戸は威圧感満点です。

 訪問時、ひざを痛めていたので、山頂部の旧軍施設や最高所の石垣など、アンゴルモアでの名場面をみることはできませんでしたが、いわゆる湾からの侵入を防ぐ城戸や主な石塁、さらには主郭にあたるビングシ山など主だったところは見ることができました。

 アンゴルモアで描かれるように「元寇」における活躍はなかったのかもしれませんが、古代の戦争に使用された施設が、近代になっての日露戦争でも軍事拠点となったというのはやはりすごいです。
 現在の見学路が、日露戦争時の軍用道路として用いられたものだからこその、見学のしやすさといったところでしょうか。

 大野城などでも感じましたが、古代山城の規模の大きさには圧倒されます。日本書紀の後半部の話にもかかわらず、現代的にもすごい規模で、いやおうなしに古代とのつながりを感じることができます。
 ある意味、古代山城ができてから中世、戦国の城郭につながったわけですが、知識なしにみたら順序が逆のように感じるのが普通でしょう。当時の国際的な緊張状態を知る上でも、とても勉強になりました。

 「アンゴルモア」のクライマックスとなるお城ですが、原作を読んでから実際に行ってみるとその迫力がさらに強く感じるのではないでしょうか。


#7 金田城
小野賢章
2019-12-13



対馬 日本海海戦とバルチック艦隊
著者:フランク・ティース 訳者:柄戸 正
文芸社
2011-12-01



【PS4】Ghost of Tsushima Director's Cut
ソニー・インタラクティブエンタテインメント
2021-08-20


2021年11月21日

静電三法

 随分古い本なのですが、ちょっと面白そうなので購入しました。それにしても古い本で1958年の出版です(さすがに実際の本は2006年の再販なので新しいですが)。

 まだ未読ですが、ぱらぱらとみる限りなかなか興味深い内容です。アーシングと合わせて、少しこちらの分野が気になっていたので、読んでみたいと思います。電気関連の健康法にご興味ある方にお勧めのような気がします。
 私の生まれる随分前に、既にこうしたことを考える人が結構いたんでしょうね。そう思うと、この分野も進展したような、そうでもないような、複雑な心境ですね。

静電三法
楢崎 皐月
シーエムシー技術開発
2006-07-31



2021年11月20日

お城へ To Go (丸亀城)

 高松城の支城として成立した丸亀城(78・香川)です。現存12天守です。押印は平成22年12月13日、天守にて押しました。
 この城に到着前に、初めて香川県だったので、讃岐うどんの名店をと思い、2つの有名店をはしごしてから登城し、城山を下りてくる時になって気持ち悪くなったのを記憶しております。やはり糖質を急速に、多量に流し込むと胃がもたれるということを実感しました。
 ちなみに、糖質の食物の胃袋での停滞時間は長いので、逆流性食道炎など、酸っぱいものが逆流する症状をお持ちの方は、糖質制限で即座に症状改善されます、城とは関係ありませんが(笑)。

 亀山という小高い山に築城された丸亀城は、全山を圧倒的な石垣で囲まれており、その高さは60mにおよぶ壇上に天守が置かれています。天守自体は備中松山城11mにつぐ、小規模な天守で14.5mですが、こうした壇上にあるため、迫力、存在感は十分で、実際の大きさ以上の威圧感があります。ちなみに備中松山もそうですが、山城の天守は通常それほど大きくする必要もないわけです。

 それでも、結構この城は見せ方にこだわっているように感じます。天守は御三階櫓で、二つの二重櫓に多門櫓で接続したものだったといわれ、下から眺めると相当な威圧感だったのではないでしょうか。内部は居住性は考慮されておらず、景観重視だったようです。
 これは海からの景観も相当に良かったでしょうから、瀬戸内海を行きかう舟にもその威圧感は伝わったでしょうね。当然、そうした意図もあったでしょう。

 この城は元からあった「砦」をもとに、生駒氏が築城したのが始まりです。高松城の支城として築城され、城代が置かれていました。
 その後、一国一城令により、生駒氏は本城を高松としたことから廃城が決まりましたが、取り壊されることはありませんでした。
 生駒騒動により生駒の領地没収後は、讃岐は二分統治され、西讃岐は山崎氏が領主となり、ここに丸亀藩が立藩されます。これにより一度は廃城とされた丸亀城は再興されることになったというわけです。山崎氏断絶後は京極氏が入城、明治に至ります。

 ちなみに丸亀は「うちわ」も有名で、丸亀藩の下級武士に内職として奨励されたという事情から、現在でも代表的な地場産業となっています。そして今でも、全国のうちわの約9割の生産量を誇るようです。
 また、うどん文化も強固で、丸亀製麺がここ丸亀では継続できなかったというのですから、うどんへのこだわりも強い土地なのでしょう(2021現在丸亀製麺HP上は香川県内では高松に2店舗あるようです)。







日本の城 改訂版 53号 (丸亀城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-01-16














2021年11月19日

アンゴルモア 元寇合戦記

 対馬のお城を前回ご紹介しましたが、対馬訪問前に予習していったのが「アンゴルモア」。少し前に話題になっていたのですが、未読でしたのでこの機会に、と思い、10巻読破しました。セラピールームの身心工房リボンに寄贈したのですが、女性スタッフからは「戦闘ものはちょっと…」と不評です。
 ご当地対馬ではアンゴルモアの探訪マップが置かれ、いわゆる聖地巡礼が出来るようになっていました。事前に読んでいたので、金田城をはじめ、小茂田浜神社や清水山城など登場地を楽しめました。
 帰ってからも「対馬」「元寇」に関して少し調べてみたのですが、これまで全く知らなかったことも多く、とても考えさせられました。とくに元寇に関しては、かなり巷間よくあるイメージとはかなり乖離したイメージだということを感じました。








 ↓ こちらもまた違った角度で語られているので興味深かったです。


HISTORY OF TSUSHIMA 元寇と対馬の歴史
英賀 千尋
ビジネス教育出版社
2021-06-18


2021年11月18日

お城へ To Go (金石城・清水山城)

 続100名城のラスボス的な対馬の城です。古代山城の金田城訪問のためなのですが、それだけではもったいないので当然他のお城にも足を延ばしてみました。中心地である厳原にある、宗氏の居城、金石城です。宿泊した東横インからも近く、街中のお城といった感じです。

 観光情報館ふれあい処つしまで、金田城のスタンプを押してから、そこに駐車させてもらい徒歩で大手櫓門に向かいました。遠くからも目を引く立派な門ですが、城内は復元された庭園のみで歴史民俗資料館ともども工事中でした。
 庭園管理のおじさんのお話によると、現在は学校のグランドになっているところに御殿があったようで、将来的には運動施設を移動し、御殿を再建する計画があるようです。
 心字の池がある庭園を(閉園しそうだったのですが)見学させてもらい、搦手門の石垣を見ながら、万松院に行ったのですが、こちらは間に合わず見学できず。金石川に沿って石垣をみながら帰ったのですが、万松院を出たところから猫(ツシマヤマネコではありませんでした笑)が大手門の辺りまで何かもらえると思ってか、しばらくついてきたのが思い出です。人懐っこいツンデレネコでした。

 翌日の早朝には、詰めの城的な位置にある清水山城へ。観光情報館では盛んに三の丸までで十分ですよと言われたのですが、そうはいきません。全部見ます。
 確かに厳原港を押さえる目的での城だけに、港が一望出来てとても景色が良いところでした。そこからは連郭式になっているので、二ノ丸、一ノ丸とまっすぐに登っていきます。ただ背後の有明山への登山ではないのでそれほど大変ではなく登れます。
 途中、枡形虎口などもよく残っており、一ノ丸では先ほどの三ノ丸以上の素晴らしい眺望でした。ここはそもそも秀吉による文禄・慶長の役における、朝鮮半島との中継拠点として築城されたもので、かの地に出兵した加藤清正ら多くの武将たちもこの風景を見たのかと思うと感無量でした。
 対馬は朝鮮半島から50kmもない位置ですので、ここまで戻った時には多くの出兵した武将たちはホッと安堵したことでしょう。かつて訪問した肥前名護屋城から、壱岐勝本城を経由して、いよいよここから出撃していったというまさに国境の城です。

 対馬の夜は、漫画「アンゴルモア」でも紹介されている居酒屋「対玄」で、アナゴをたくさん食べました。作者のたかぎ七彦先生のサイン色紙も飾られていました。
 以前は韓国からの旅行者であふれていたようですが、コロナ禍の影響でそうした旅行客も全くおらず、ゆっくりと歴史探訪ができました。白村江の戦い、文禄・慶長の役、日露戦争、と歴史上、地政学的に重要な位置を占め、さらには倭寇の拠点でもあった対馬は、少し遠いのですが機会がればまた再訪したい地となりました。


街道をゆく 13 壱岐・対馬の道
司馬遼太郎
朝日新聞出版
2014-10-07










2021年11月16日

地図でスッと頭に入る 古事記と日本書紀

 古事記・日本書紀についての簡単な解説書などをみていると、いつも神様の名前が次々に増え、その関連性が混乱していき、常に分かったようなわからないようなという状況が続いていました。

 そんな中でこの本はすごく分かり易いです。人物の関連図が分かり易く「表」になっているうえに、地図で有名な昭文社の出版だけに地理的な関係もしっかりと書かれているので、一気に読めて、かなり整理されました。
 今年は城郭巡りの中でも古代山城を訪れる機会が多かったので、「乙巳の変」や「白村江の戦い」に至るまでの流れがすっきりとしました。

 医学的なこととは無関係なようですが、我が国におけるさまざまな特殊性を理解するうえでも、古事記の世界観は不可欠なように思います。ぜひご一読を!




2021年11月15日

来月のジャングルカフェ課題図書

 来月のジャングルカフェの課題図書です。少しこれまでとは違って、テーマは認知症。それも少し違った角度で認知症の人から見える世界の歩き方。認知症において、その疾患の特徴を形作る構造を分析し、認知科学的に捉え直して「世界」を描いて見せた新刊です。

 初めはただ面白そうだなと思って、書店で手に取ったのですが、まさにこの発想は、以前このブログでも展開した「こちらの医学」の構想そのものです。
 自らの内面を形成する「構造」的な問題と、それを認知科学的な用語で記述するという発想。ケン・ウィルバーの四象限で言うところの「I」における外面(構造主義的視点)と、「It」における内面(認知心理的用語)とが交差する世界観です。
 当事者の主観(ナラティブ)と、疾患の客観的記載(EBM的・科学的記載)の2つが主に重視される現在の思潮の中で、忘れられがちなもう一つの視点として「こちらの医学」としてかつて主張したもの。これが「認知症」という大きな関心を持たれる疾患への具体例として展開され、出版されていることへの驚きも含めて、今回のカフェの課題図書としました。

 認知症についてのみならず、ここで展開される視点(観測点)の面白さ、大切さを感じて頂けたらと思います。

 こちらの医学との関連性については、また後日、こちらで書いていきたいと思います。


認知症世界の歩き方
認知症未来共創ハブ
ライツ社
2021-09-15


2021年11月14日

ファシア論の広がり なぜ統合医療なのか?

 ファシアは統合医療において非常に重要な概念であると思います。解剖学的に述べると、皮膚と筋肉の間や、各臓器の連携、またミクロでは細胞ひとつひとつの間隙を埋める細胞外マトリックスなどを含む大きな概念といえます。
 そのため、意味するところはかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。

 とりわけ近年、関心が高まっているのが経絡への科学的解釈に対しての補助線的な役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。

 この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流がが発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。(この概念はそのまま「アーシング」などの説明にも直結するので非常に重要です)

 この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。

 ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
 この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
 こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。


 加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
 またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。


 またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
 特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
 現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。


 つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。


2021年11月13日

お城へ To Go (高松城)

 堀に鯛が泳ぐ海城、高松城(77・香川)です。押印は平成22年12月12日、徳島城のあとに訪問しました。現在は、城郭の主要部は「玉藻公園」として整備され、なんと堀で鯛のエサやりが出来ます。その名も「鯛願城就」!
 100円で購入したエサを、願いを込めて投げ込む、というわけです。鯛が、鯉みたいに足元に集まるのですごく楽しいです!

 高松城は、生駒親正により3年の歳月をかけて築城されました。瀬戸内海の海水を堀に引き入れた水堀を巡らせた縄張りです。
 当初は望楼型の天守だったものを、後に松平によって老朽化にともない層塔型の天守となりました。この時、小倉城を参考として、最上階を張り出す「南蛮造」の天守だったといいます。
 建築当時は、層塔型の完成期にあり、南蛮造を取り入れた造形的に成功した天守だったようです。現在は何もないので、想像するだけですが。ただし天守台が残っているので、分かり易いです。

 また月見櫓は、現存の建造物で当初は瀬戸内海に面した三重櫓で舟の到着を監視する役目がありました。現在は埋め立てにより、道路沿いなのですが、ここまで海面が来ていたのかと、想像することはできます。

 築城した生駒氏は、秀吉により讃岐一国を与えられ、当初は引田城に入るですが、あまりに東に偏っているため聖通寺城へと居城を移します。
 しかしここも山城のため不便であるということで、野原という港町に築城し、地名を「高松」にあらためたのがこの城の由来となります。
 生駒氏はその後、「生駒騒動」により国替えさせられ、徳川光圀の兄の松平頼重が入城し、増改築を行い、この形で明治を迎え現在に至ります。

 街中の水堀の豊富な静かな公園、という感じで、鯛願城就もたのしく、三回ほどやってしまいました!














2021年11月11日

お城へ To Go 番外編

 「お城へ To Go」として、お城のブログとして、医療ブログとは一線を画して連載していますが、じつは医療とは全く無関係とは考えていません。ウィルバーの4象限の「ITS」(客観・複数)の実例でもあるのは、これまで書きましたが、多元主義理解のための実例でもあるのです。

 教条、折衷、多元、統合という、複数のカテゴリーの括り方の差異について、統合医療という概念は極めてあいまいであり、それゆえに現在でもその概念の混乱がある、というのがこれまでの(これからも)私の主張です。こ の説明の具体例として、結構、城の分類が役に立つというわけです。

 いわゆるお城を時代的に大きく分類すると、古代山城、中世山城、近世城郭に大別できます。少なくても100名城などの城巡りでは、これらのどこに分類されるのかを意識しながらめぐることで、見どころポイントを外さずに済みます。(類型化には多くの問題もありますがやはり分かり易いというのが最大のメリットではあります)

 古代山城に関しては、大和朝廷の対外政策の関連(大野城・鬼の城・金田城)なので、少し例外的で、東アジアにおける世界情勢に大きく影響されます。それゆえに大規模ではありますが、築城の意図などは明確で、統合医療のモデルにしては極めて単純なものになります。(「正しい統合医療」といった言説に近いでしょうか)
 それに対して、中世山城となるとまさに「折衷」から「多元」への移行、そしてその発展としての近世城郭は「多元」から「統合」への移行、を象徴しているように思います。

 応仁の乱以降の混乱期から、戦国時代へと突入、次第に吸収合併が進んでいくさまは、まさに折衷状態が、力の強さによって統合へと向かう様子そのものとも見れます。この過程がまさに中世山城的です。
 それから織田信長による安土城築城から、統合への意図がちらほらと透けて見えるようになります。それでも、各地の大名が群雄割拠した政局が続くため「多元的」状況が続き、或る意味そのまま近世江戸期に入ります。そしてこの幕藩体制そのものが、「多元的」政体とも言えます。幕府自体は中央集権化しておらず、天領など直轄地からの税収で運営されいると考えられるので、多元の要素を多くもつわけです。つまり、近世城郭は「多元」の象徴とみなすことが出来そうです。
 そして明治政府の樹立により近代国家が形成され、廃藩置県が断行されることで、「統合」(そしてある種の「教条」)が完成されたと見ることもできるわけです。中央集権という言葉にそれが象徴されているわけです。


 これまで、多元と折衷の違いなどでは歴史的視点で解説してきたのですが、城との関連で今回は解説してみました。
 いずれにせよ、こうしたモノサシ📏の導入により城も統合医療も、混乱を少しはのぞけるのではないか、という試みです。少し「恣意的」な感じもしますが、結構良いモデルなのではないかと自負しています。
 ちなみに統合医療の臨床連携のモデルとしては「離島」をモデルとして昨年の統合医療学会で発表しました。抽象的な概念や仕組みついては、やはりモデルによる「比喩」が分かり易いですね。

 本日はジャングルカンファレンスのオフラインでのリアル開催です!


 参加希望の方はこちらからどうぞ!

2021年11月10日

統合医療の意義 JCのリアル開催に際して思うこと

 統合医療という方法論の意味を考えてみたいと思う。現代正統医療と伝統代替医療の双方を取り込むことで、正統でないことからインチキだとか、はたまた唯一の正しい統合医療はこれだとか、一面的な判定がなされることが多い。

 これは一方で、異質のものを取り込むことで、明らかに現実に対抗可能な、もしくは非常に有効な方法論を提供しているという面も無視できない。
 異質のものだけが合わさって、結論は出るのか、正解が出なければ意味がないし机上の空論だ、という議論は、これまでも「ジャングルカンファレンス」の総論を語る中で幾度となく批判が展開された。しかし、「オープンダイアローグ」の概念が(海外発という形で)広がる中で、この批判が適切ではないことも次第に明らかになるであろう。
 つまり現実世界での多元的なせめぎ合いの中で、何らかの方向性は決まっていく。プラグマティズムの真理観もこうした点を指摘している。カントが言う「物自体」を直接把握できないまでも、現実における現象・事象の衝突により、我々はその実態を垣間見ることぐらいはできる。
 真実・真理といったものは、エビデンスとされる渇いた事実として取り出されるものではなく、こうしたダイナミックな過程により垣間見えるものではないかと思う。

 知識の統合的な分野における発見なども同様であろう。統合医療的な領域としては、俗に西洋医学と東洋医学の架け橋的な概念といわれる「ファシア」が象徴的だろう。
 かつては(専門家によっては)全く否定的に捉えられてきた「経絡」や「ツボ」という概念が、今、ファシア論としてその本態に肉迫している。完全なる一致といえるかはおいておいて(当然例外的な事象はあるわけなので)、ニアリ―イコールくらいには証拠がそろってきていると言えるのではないだろうか。
 これこそは過去の専門家による絶え間ない努力、つまり異質なものを(正・反・合的に)統合しようとする成果である。現在、ファシアの賛同者であっても、一部の統合医療的要素に疑問を呈する方が散見されるが、部分的には理解できるものの、自らの立脚する概念の歴史を再考する視野の広さが必要ではあるまいか。
 ここにもやはり確定的な真理という形ではなく、異分野の接触といういわば「邂逅」とも言える真理への接近が、そしてわずかに開陳される瞬間があるように思えてならない。

 異質なるものの接触、そしてその前提として現状の正統として展開される「現象」への懐疑、昨今の世相を反映してあらためて「物事を深く考える」ということを考えさせられる。現状の「現象」を、いわば「代替」的にひっくり返すまではしないものの、別の可能性を懐中に秘めることで、我々は新たな観測点を得ることができる。それこそが「統合医療」という概念が我々に与えてくれるものであると感じている。

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 コロナ禍の様々な影響で、ジャングルカンファレンスのオンライン開催も久しかったのですが、明日はいよいよリアルな開催との「ハイブリッド」です。
 かつては当協会も支部を積極的に形成してスカイプでの接続を目指していましたが、それも今や「当たり前」化しています。明らかにこの面では進展したと言っていいでしょう。オンラインでの接続の賛成・反対で議論していた数年前を思うと、昔日の出来事のようです。反対勢力も今や存在しえない社会状況です。何が正しいかは議論ではなく、こうした社会的な時の流れの中で変容し、ごく自然に受容されていくことを痛感します。現在の世相も同様なのかもしれません。
 こうした中でも「肌感覚」というような身体感覚こそが、真なる世界への小窓のように感じています。そこに統合医療の意義をあわせて考察してみました。

2021年11月06日

お城へ To Go (徳島城)

 阿波蜂須賀家の居城、徳島城(76・徳島)です。押印は平成22年12月12日です。徳島大学での統合医療学会参加の翌日に押印しています。前日に、徳島に入り、アリゾナ大学統合医療プログラムの同窓生たちと夜に会合したのが思いだされます。当時、なんとなく幹事が私でしたので、徳島市内で飲み会の適当な居酒屋が見つからず、結構探した記憶があります(笑)

 徳島城は、河口の三角州の城山にある平山城です。もともと二つの城を合わせた大規模な城郭で、秀吉の命により築城されました。
 現在の徳島駅の裏手に位置し、徒歩で鷲の門(復元)から三木曲輪に入り、大手枡形を抜けると広い城内に入ります。ここにかつては御殿があり、現在は徳島城博物館があります。
 そこから東二の丸である天守跡となります。ここの天守は石垣上に建てられず平地に直接建てられたといわれます。さらにここは本丸から一段下になっている形で天守があったとされており、少し上がって本丸になります。
 この本丸東部には城内最古の石垣が確認されており、この本丸を頂きとして反対側へと今度は下がっていきます。西二の丸、西三の丸、西の丸と下がり、山の反対側に降りてきます。
 かつては二つの大きな川に挟まれたこの城山、まさに天然の要害といった感じだったのでしょう。いまは街中、駅近の街のシンボルといった感じですが。

 戦国期は次々に支配者がかわった阿波ですが、秀吉の四国平定により蜂須賀氏が領有してから徳島と称されるようになり明治まで継続します。
 この蜂須賀の統治下で安定した徳島で、築城にたずさわった者への労いとして城下の者に大盤振る舞いし、これに民衆が大騒ぎしたことで「阿波踊り」が誕生したと伝えられます。
 不安定な時代を経て、安定した政権の到来を迎えた民衆のほっとした気持ちの表れなのかもしれませんね。
 

週刊 名城をゆく 45 徳島城・洲本城
日本アート・センター
小学館
2004-12-28



徳島 城と町まちの歴史
河野 幸夫
聚海書林
1982-04T



徳島あるある ご当地あるある
山口敏太郎
TOブックス
2017-01-10





2021年10月31日

ファシアとカンファレンスから「統合医療の意義」を考える

 統合医療の意義について。一般的には、「代替医療」の言い換え的な用法が跋扈しているため、医療者においてさえも、なお統合医療はインチキとかいった物言いが広がっている。
 だがしかし、統合医療が現代医療をも内包していることから、原則としてはインチキとかインチキでないとかいう対象ではないことは言うまでもなかろう。

 では、統合医療という概念を用いる必要性は何なのだろうか。よく言われる「多様性」への対応であるというのは極めて単純な解釈ではある。確かに医療における多様性の実現であるが、実際に臨床を行っている立場からすると、それだけではない「何か」が含まれる気がしてならない。

 ここに哲学者、ケン・ウィルバーの「四象限」という考えがある。あらゆる視点を統合的(インテグラル)に捉えるために用いられる「道具」といってもいいかもしれない。
 これは学問の諸領域を整理するため、もしくは概観する目的にも利用可能である。「I(主観・単数)」、「WE(主観・複数)」、「IT(客観・単数)」、「ITS(客観・複数)」の4つの視点に分別することで、インテグラルな視点を確保する方法である。これに統合医療の意義を重ね合わせてみたい。

 まずは、WE(主観・複数)の視点。これは統合医療に関わる複数のメンバーによる内的な世界観とも言えるもので、我々が「ジャングルカンファレンス」として実践しているものに他ならない。その他にも、ある種の統合医療という概念を共有するグループの理念も含まれるだろう。
 多職種連携を基盤とする昨今の医療思想において、統合医療の提案しうる新たな連携の在り方がここにあると思う。私はこれは精神科医療における「オープンダイアローグ」に匹敵する概念であると考えている。

 次に、IT(客観・単数)の視点。単純な図式でいうと、現代西洋医学と、伝統を踏襲する東洋医学などの代替医療との理論的統合の先に見えてくる新たな「知見」である。
 具体的なテーマでいうと、総合診療領域や、「整形内科」という新領域を開拓するグループにおいて、特に注目される「ファシア」の研究である。これなどはまさに東洋と西洋という視点の交差により、明確になってきた研究領域といっても良いだろう。
 そしてこれは従来、神秘的とされた東洋医学の「気」や「経絡」といった諸理論を西洋医学的に解明する端緒、ないしは「本丸」といっても良い概念である。この理論的研究のためには、統合医療という複眼的な領域は不可欠であると考えている。

 これら二つが当面の、提示しやすい医療の新展開における「統合医療の意義」といえよう。そしてそこから必然的に発展していく「社会的な仕組み」などが、ITS(客観・複数)として表現されるものになるだろう。異種のものを統合することで、新たな視界が開け、そこから新たな仕組みや制度が生れてくる、という社会医学的な視点は、これまでも統合医療学会において語られ続けたことではある。

 そして最後の4つ目が、I(主観・単数)の視点、つまり個人からの視点である。自らの視点が展開される環境としての「構造」と、自らが見えている「現象」、時に「ナラティブ」と表現してもよい領域である。
 異質なものを統合するという行為から、導き出される自らの「姿勢」がどのような視点を展開するのか。私としては実践を足場とする統合医療の立場は、まさに「プラグマティズム」に基づく姿勢がその基本になるように思う。
 哲学界隈では「プラグマティズム」というと、昨今、見直されつつあるものの、一般的風潮では、古臭い思想として一蹴されることも少なくない。しかし、現実への取り組み、瞬間への爪痕から、ナマの感覚を会得するその姿勢は、プラグマティズムという言葉でしか表現しようがないものであると実感している。個に基づいた「唯一無二の対象への応答」を模索するためにこそ、前述したWE・ITの視点が必要になってくるものと思う。

 統合医療の実践の意義、それは唯一無二の自らの対応を、カンファレンスによる多職種連携の在り方や、ファシアなど学際領域の研究により高めていくことにあるのだとあらためて痛感する。
 こうした統合医療の本来的意義をともに考えていく同志の「ジャングルカンファレンス」への参加を強く希望し、本稿を終えたい。

2021年10月30日

お城へ To Go (今治城)

 藤堂高虎考案の新式五重天守、今治城(79・愛媛)です。押印は平成22年12月9日です。今治城はこれまでに2度ほど行っております。海城なのですが、堀は広いものの街中にあるので、あまりそのような印象はありませんね。でも堀の水は海水だそうですから海城なのです。
 二度目の訪問時、しまなみ海道から車で行ったのですが、今度は是非、自転車で挑戦したいものです。

 今治城は、藤堂高虎が関ケ原の功績により、国分山城に入城した後、瀬戸内海の制海権を考慮して、海辺に新たに築城されました。
 河口付近に位置するため、海路、水路ともに押さえ水陸の要衝の地となりました。瀬戸内から吹き上げられた海砂を集めて築城されたことから「吹揚城」とも称されます。

 ただ高虎は完成直後に伊勢・伊賀に国替えとなってしまうのですが、その後も今治2万石は飛び地として領有を認められます。城としてはやはり高虎の城で、城内には馬に乗った高虎の銅像もあるので、その印象が強いですね。かなり大柄なひとだったようです。
 移封後は養子の高吉を城代としておいたのですが、その高吉も伊賀へ移った後は、松平が入城し、明治に至ります。

 今治の天守についてはいろいろと謎があり、天守完成後に伊賀への国替えの際、伊賀上野城への移築を目的に短期間で解体されたといいます。
 しかしその後、家康の命により丹波亀山城の天下普請として献上され、結果、亀山城の天守となったようです。天守建造において高虎ブランドが当時からあったようですね。でも現在、今治城には天守台がないことから、そもそも天守はなかったとする説もあり、真相は分かっておりません。
 そんな中で昭和55年に、現在の模擬天守が建造されました。本丸の跡は、現在では吹揚神社となっています。

 一度目はここから大洲城へと向かいましたが、二度目の訪問時は、しまなみ海道から入って今治に泊まり、夜は「健寿司」さんで瀬戸内の海の幸を堪能しました。とても親切にして頂き、後日、ミカンを箱で送って頂きました。とても思い出深いお寿司屋さんでした。











2021年10月29日

アーシングのすすめ

 コロナ禍における感染者数の減少に伴い、外出する機会もふえてくるのではないでしょうか。急に寒くなる日もありますが、温かい日中、ひと時でも裸足の時間を設けてはいかがでしょうか、という提案です。「アーシング」といわれる方法です。

 アーシングについては以前からも時折ジャングルカンファレンスなどで話題にされておりましたが、外出のありがたさを思う時、あらためて注目したい健康法です。

 関連の測定機器に注目が集まりやすい分野ですが、その基本は何といっても自然、とりわけ大地とのふれあいにあることはいうまでもありません。
 方法はとても簡単ではありますが、都会生活の中では、そう簡単なものでもないというのが実情でしょうか。それでも土の地面を探して、旅行先など自然に囲まれて、アーシングの機会を持つというのはおすすめです。

 先日も地方への出張の折、私も誰もいない神社や遺跡でアーシングしてみました。裸足という本来は当たり前の状況が、極めて特異な体験のように感じてしまう自分に逆に驚きました。
 その時は天気も良かったので、青空と太陽、芝生の大地、その間に自分が存在するという当たり前ながら、刺激的な体験でした。まさに「天地人三才理論」の実践そのものです。

 科学的に解釈するなら、まさに電圧ゼロの地面にアースしているわけですから、身体内部における静電気が抜けてリセットされているわけです。ただそうした理論的な感覚を超えて、原初的感覚に戻れる行為ですので、論より証拠、皆さんも試してみてはいかがでしょうか。




2021年10月28日

当院の6つの診療内容 (どのような診療を実践しているのか)

 当院の診療内容について、インテグラル理論に基づいて、その診療内容をご紹介しましょう。まずはその武器となる方法論は6つ、この組み合わせを、各々の症状や要望に合わせてお勧めするというのが、おおよその当院の臨床形式です。

(1)栄養・サプリメント

 糖質制限やたんぱく摂取などの栄養指導。健康増進のためのサプリメントの活用。分子整合医学(オーソモレキュラー医学の応用)による副腎疲労などの不調の解除、など。普段何を食べているか、といった食事記録表を基にして「食」からの健康をアドバイスしていきます。興味のある方に関してはファスティング(断食)もご紹介しております。
 自分の健康にとって、何を摂って、何を摂らないかというのは、最も基本的な問題であると考えます。

(2)鍼灸・刺絡・ファッシア

 通常の鍼灸に加え、体に停滞した瘀血を針とカッピングなどで取り除く刺絡療法。さらには頑固な深い痛みに対して超音波(エコー)により確認しながらファッシア(筋膜)のリリース、灸頭鍼や電子焼鍼など、様々な方法で痛みを取り除きます。この他にも、やや古めかしいですが良導絡による測定や、それを用いた微細な刺激(ハペパッチ等)による疼痛軽減法、パルス波や直流電流による経穴刺激なども併用しています。
 各人にとってどのような刺激が効果的か、方法論の選択も「鍼灸」における重要な要素であると考えます。

(3)漢方・養生法

 エキス剤や煎じ薬や、中医薬なども用いながら、主にがん(各種悪性腫瘍)の再発防止や、アトピー性皮膚炎、関節リウマチ、更年期障害などに対応しています。また東洋医学的な視点をいかした養生指導(温めや食事指導など)も行っています。特に漢方薬に関してはエキス剤でも、単味のエキスを併用することで、煎じのような個別対応を心掛けています。
 漢方は近年、ガイドライン的な一律の方向性を有するようになっていますが、どのように個人の身体を解釈するかにより、本来は大きくその処方は変わります。ファッシアなど近縁の理論や、古典的な視点、統合医療的解釈などを用いた柔軟な処方姿勢が重要であると考えます。

(4)ホメオパシー・エネルギー療法

 統合医療的なホメオパシーの処方に加え、アイソパシーによる体質改善(花粉症対策など)やその他エネルギー医学的な相談も行っています。ホメオパシーは専門医の資格を活かして、英国直輸入の医師専用レメディを処方しております。またホメオパシーをメインの治療としてではなく、統合医療における自発的治癒力発動の1アイテムとして位置づけ、積極的な併用療法も行っています。
 ホメオパシーの持つ異端的な要素を強調するのではなく、微量な要素による「生体の反応」の発露に注目して、レメディの統合医療における新たな役割を模索しております。

(5)心理・スピリチュアル

 各種、心理療法との連携を通じて、メンタル・スピリチュアルの影響を考慮した統合医療を展開しております。インテグラルな視点から幅広く、心理学・哲学・霊学の視点を考慮していきたいと考えています。当院の統合医療指導の基本としても、行動療法や現代催眠などの考えを導入して実践しております。
 心理的なアプローチとしては連携する統合医療施設である「リボン」において、通常の心理カウンセリングに加え、行動分析的アプローチやスピリチュアル的な方法論も幅広く採用しております。ご興味ある方は一度ご相談ください。

(6)内科学・現代医療・臨床検査医学

 総合内科専門医ならびに臨床検査専門医の資格を活かして、現代医療との境界領域のご相談にも幅広く対応しております。また持参された人間ドックなどのデータ説明や、気になる検査項目、現在の栄養状態や健康状態を採血検査(当院で採血できます)により詳細に説明いたします。このほかにも統合医療において、現代医療・通常医療とのバランスは不可欠なものです。現役の内科専門医として、こうした境界領域におけるご相談にも応じております。
 統合医療は「代替医療の言い換え」ではありません。通常医療と代替医療の境界に立ち、そのバランスを考慮しながら、新たな方針を模索していく医療なのです。そのためにも現代医療的な視点は重要、不可欠なものと考えます。


2021年10月23日

お城へ To Go (大洲城)

 層塔型の四重天守、大洲城(82・愛媛)です。押印は平成22年12月10日、宇和島城へ行く前に訪問しました。藤堂高虎の築城で考えると、宇和島、大洲、今治となります。築城年を逆行する形で、連続訪問しています。

 宇都宮氏による地藏ヶ嶽城が、その前身といわれ、秀吉の四国平定により小早川隆景が入城します。以後、戸田、藤堂、脇坂、加藤と城主が変遷し、脇坂の時代に大津城から「大洲城」へと名称の変更があったようです。
 藤堂高虎は、板島丸串城に城代をおき、大洲城を居城としました。以後、今治城の普請を開始してからは、藤堂高吉を城代としてこの大洲に入れ、このころから城下町の整備が進んだといいます。以後、脇坂を経て加藤氏の治世で明治維新を迎えます。

 大洲城は、藩校明倫堂跡にある駐車場からスタートし、本丸へ向かって上がっていきます。町割りは今も当時を踏襲しているようなのですが、道幅も狭く、運転しずらい街中でした。
 現在の天守は、2004年に木造復元されたもので、四重天守を忠実に再現したものといわれます。復元前には、櫓二つは残っていあたのですが、さすがにそれだけですと当時の写真からも天守の迫力は全く伝わりません。
 この二つの櫓をつなぐ形での天守は何としても復元したかったという気持ちはよくわかります。本丸から城下町が一望でき、その背後には肱川が流れ、当時の大きな堀があれば一山が、水にぐるりと囲まれた形になります。
 小さな城下町なのですが、当時の繁栄を誇りに思う気持ちが強く伝わるお城でした。


日本の城 改訂版 91号 (大洲城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-10-09










2021年10月22日

11月のJCはオフラインを予定しています!

 11月のジャングルカンファレンスは、いよいよオフラインで代々木会場での開催を予定しています!
 
 一年以上のオンライン開催でしたが、直接、これまでの代々木会場での開催を考えていますので、しばらくお休みしていた方もこの機会にぜひご参加を!

 このJCの前の週は統合医療学会主催のカンファレンスですので、11月上旬はカンファレンスウィークとなります(笑)





2021年10月16日

お城へ To Go (宇和島城)

 宇和島湾を望む景勝地にそびえる宇和島城(83・愛媛)です。押印は平成22年12月10日です。これまで二度ほど訪問していますが、その度に城下で「鯛めし」食べております。

 この宇和島城からブログ記事三つほど、築城の名手、藤堂高虎の関連する城が続きます。宇和島城の前身は、藤原純友の乱の際の砦が原型とされ、「板島丸串城」と呼ばれるようになりました。その後、長曾我部、小早川などの領有を経て藤堂高虎が入城します。これにより丸串城を利用して、宇和島城の大改修が開始されました。

 高虎による慶長期の天守は、望楼型なのですが、後の層塔型の特徴も備えていたといわれます。この天守は複雑巧妙な建築といわれ、破風や屋根が入り組み、この地方の風雨の多さから、雨漏りの原因にもなったのではないかといわれています。復原図などを見るとたしかに、どこかで雨漏りしそうです。

 また「平山城」の形態なのですが、二面を海に面した「海城」とみることもでき、後の海城の代表である今治城への系譜を見ることができます。
 何故、藤堂高虎がここまで築城に秀でたのかという問題はさておき、こうした築城遍歴を重ねることで着実に築城に関しての知識を蓄積していったことは確かです。

 宇和島城の縄張りは、海に面した扇状地における不等辺の五角形しており、曲輪の配置は梯郭式で、高石垣による防御を強めたつくりとなっています。

 高虎によって近世城郭として確立され、その後関ヶ原での功績により高虎が伊予に移封されると、伊達秀宗が入城、地名が宇和島と変更され、城名も宇和島城となります。

 以後、伊達家により老朽化した天守などの大改修がなされ、現在の層塔型の天守が完成し、明治を迎えます。
 そしてこの天守は、狭間が一切見られないことから太平の世の天守の代表とされているのです。宇和島湾の望む小山の頂上にたたずむ、その姿はちょっとかわいい印象です。

 ちなみに駐車場から、一気に駆け上がると結構な急斜面で、高石垣の上から見下ろされる感じは、天守の印象と違ってなかなか厳しい印象もあります。
 また宇和島は真珠の産地としても有名ですので、近隣で真珠を買ったりしてもいいですね!




日本の城 改訂版 33号 (宇和島城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-08-29





 

2021年10月10日

行動分析を考える

 食事ノートやら体調チェックやらで、行動分析的な方法は臨床では非常に使える方法です。始めはなかなかとっつきにくい面もありますが、考え方自体は難解なモノではないので、コツコツ読んでいけば、とても便利でパワフルな技法です。

 私もはじめはなかなかなじめなかったのですが、大学院の講義で推薦図書などを教えてもらい丁寧に読んでいくと、とても強力な技法であることがわかりました。










 とくに島宗先生の本では、「じぶん実験」という名で、具体的に取り組みやすく紹介されておりますので、おすすめします。奥田先生の本も、当時ベストセラーになりました。

 行動分析はプラグマティズムとの技術的な関連からしてもとても興味深い方法論です。いわゆる心理っぽくない心理学ですから、ハウツー好きのかたには特におすすめです。とくに深層心理とかフロイト関係は「トンデモ」と思われる方には受けがいいようです。

 ただ、人間って、けっこう簡単な原理で動いているような気がして、けっこう複雑な気持ちにもなります。知らないうちにこうした方法論や考え方に乗せられるという不快感や不安感のようなものも感じないわけではありません。(この辺りは催眠にも同様の感じがありますね)

 今度のジャングルカフェの課題図書「群集心理」との関係でも、考えさせられるテーマです。(集団の在り方としてこれまでのジャングルカンファレンスの歴史を改めて考えさせられます。こうしたネタも敢えてカフェでは扱ってみたいと思います)

 群集としての個人に自由な選択はあるのか、そして、そもそも自由などというものがあるのか、ということを考えさせられるテーマです。

 行動分析のバイブルとされる書籍を以下に挙げておきます。好き嫌いが分かれるでしょうが、ご興味ある方はどうぞ!


自由と尊厳を超えて
B・F・スキナー
春風社
2013-04-12





2021年10月09日

お城へ To Go (津山城)

 一二三段の石垣が素晴らしい津山城(67・岡山)です。押印は平成28年9月3日です。津山駅から歩いて10分ほどで行けるのでアクセスいいです。

 室町時代に山名忠政が築いた鶴山城が基盤となり、森忠政(この人も忠政!)が改修し、鶴山(つやま)から津山と改名して津山城となりました。
 応仁の乱以降、この地の支配者は次々と変遷していったのですが、関ケ原の後、小早川が領有、取り潰しになったことで、信濃川中島から森忠政が入り、居城としたわけです。

 この築城にあたっては面白い話があります。森忠政は九州小倉城の天守を理想とし、家臣に現地調査させたところ、怪しまれ捕えられてしまいます。しかし、事情を聴いた城主細川忠興は、今度は一転して調査を許可し図面まで与えて、この家臣を津山へ帰したとされます。そして天守完成の時には、天守最上階に飾る釣り鐘を寄贈したというから親切な人ですね。

 ちなみに、この忠政は森蘭丸(本当は乱丸)の弟で、5人の兄がすべて早世したために家督相続となったという人です。その後もこの森家は跡継ぎに恵まれず、5代目が発狂し、そのまま所領没収という結構不幸な系図です。その後は結城秀康の系列の松平氏によって幕末まで続くことになります。

 この巨大な平山城は12年もの歳月をかけて築城され、全体が雛壇のように造成され、高石垣で形成されています。関ケ原直後の軍事的緊張を反映した要塞といわれるゆえんです。
 実際に城内を歩くと、高石垣がそびえたつ横を進み、複雑な折れ曲がりや石段が次々と現れるさまは、技巧が凝らされて感動です。天守曲輪などはちょっとした迷路のようで、圧倒的な軍事力へのこだわりを感じます。
 こうして天守台に至るわけですが、2013年には美作建国1300年として18日間限定で、発泡スチロール製の天守が復活していたようです(実物の二分の一だったようですが)。実際の津山城の天守は、明治の廃城令により取り壊されているようです。

 ちなみにこの津山の地は、津山ホルモンうどんで有名なことに加え、八つ墓村の原案ともされる「津山30人殺し」の地でもあります・・・


絵図で歩く津山城下町
尾島 治
吉備人出版
2016-07-27














津山事件の真実(津山三十人殺し)
事件研究所
フローマネジメント
2011-08-15



2021年10月06日

ユナニ医学についての参考書

 ヒポクラテス、ガレノスと続けて拾い読みしているのですが、こうした流れは、真っ直ぐに現代西洋医学につながるわけではありません。むしろルネッサンス期からの流れとは一線を画して、その本質ともいえる流れはアラビア半島を中心とする医学に息づくことになります。そうした意味で「ユナニ医学」「アラビア医学」「イスラム医学」など様々に称せられる、この医学はある種「統合医療」の原型としても、多くの関心を持たれるべき医学なのではないかと思うのです。
 少し古い文献なのですが参考に掲載しておきます。

 多くのエピソードとともにアラビア医術の息吹が伝わるような内容です。






 


 武道医学を修める著者が、アヴィセンナの大著『医学規範』の概略を紹介しています。
 






 

 アヴィセンナの『医学規範』とならび、その普及版的な位置づけとされた著作の完訳本です。

アヴィセンナ「医学の歌」
AVICENNA
草風館
1998-11T


2021年10月05日

解剖生理に立ち返る(6)実施系

 単なる推進運動から、手足を用いた複雑な表現運動へと変化していくというのが運動系(実施系)の進化の流れである。受容系から伝達系を経て、いよいよこの実施系により動き出すことになる。

 運動系は、骨格系と筋肉系に大別される。このうち骨格系は脳脊髄を保護する脳頭蓋と脊柱からなる。そこから四肢に続く骨は、脊柱に続く部分(上肢帯・下肢帯)と、その先の部分(上腕骨・前腕骨・手骨、大腿骨・下腿骨・足骨)に分かれる。

 動物の上陸により、推進運動の役割を胴体の筋肉から、2対のくびれから生じる手足にゆずり、それらが胴体を持ち上げるようになる。こうしてできた上肢の筋肉は、胴体全面から起このに対して、下肢の筋肉は骨盤からしか起こらないのが特徴である。

 脊髄神経後枝の支配をうける背側筋群は、骨盤から頭蓋まで一気に走行する。これに対し前枝の支配である腹側筋群は、首・胸・腹・骨盤においてその姿を変える。つまり、顔、口、喉の筋肉は「鰓」の機能を転換した植物性機能の筋肉となり、胸壁の筋は酸素を取り込む呼吸運動を行い、腹壁の筋は腹圧を作って排出運動を担うことになる。またしっぽの退化とともに骨盤底に移動し、骨盤内臓を下支えする骨盤隔膜を形成する。また頭頸部の筋肉は眼球を動かす筋肉、舌を動かす筋肉、首を動かす筋肉となりその下端が胸の底まで下がり、「横隔膜」を形成する。

 上肢と下肢は上陸に伴いひれから発達したものである。上肢の主要な筋をその機能から見ていく。様々な表現を可能にする運動ができる構造になっている。(機能によるまとめは『美術解剖学ノート』を参照)

腕全体を引き上げる筋肉(三角筋・烏口腕筋)
腕全体を曲げる筋肉(上腕筋・上腕二頭筋・腕橈骨筋)
腕全体を広げる筋肉(上腕三頭筋)
腕全体を回転させる筋肉(棘上筋・棘下筋・小円筋・大円筋・肩甲下筋)

 特に前腕部の筋肉は覚えにくいので、機能と併せて触りながら覚えると覚えやすい。前腕を回旋させ、手首を曲げる、そらせる。曲げるのは内側上顆から、反らすは、外側上顆から起始する。手指を曲げる、伸ばす(広げる)。手指を曲げるのは前腕骨の屈側、広げるのは、伸側だが親指とそれ以外の指に分けて考えると覚えやすい。

前腕を回旋させる筋肉(円回内筋・方形回内筋・回外筋)
指を曲げる筋肉(深指屈筋・長母指屈筋・浅指屈筋)
手首を曲げる筋肉(尺側手根屈筋・長掌筋・橈側手根屈筋)
親指以外の指を広げる筋肉(総指伸筋・小指伸筋・示指伸筋)
親指を広げる筋肉(長母指伸筋・短母指伸筋・長拇指外転筋)
手首をそらせる筋肉(長橈側手根伸筋・短橈側手根伸筋・尺側手根伸筋)

 下肢は、上肢と比較して見ると理解しやすい。肘を膝と考え、尺骨を脛骨として比較して見ると以下のようになる。

三角筋 ⇔ 大殿筋・大腿筋膜張筋
上腕三頭筋 ⇔ 大腿四頭筋
上腕二頭筋 ⇔ 大腿二頭筋
総指伸筋 ⇔ 長趾伸筋
橈側手根屈筋・浅指屈筋 ⇔ 腓腹筋・ヒラメ筋

 それでは主な下肢の筋肉を機能と併せて見ていく。

脚全体を内転させる筋肉(内転筋群:大内転筋・薄筋・短内転筋・長内転筋・恥骨筋)
脚全体を広げる(蹴り上げる)筋肉(大腿四頭筋)
あぐらをかくための筋肉(縫工筋)
脚を外側に持ち上げる(直立を維持する)筋肉(大腿筋膜張筋・大殿筋)
脚全体を曲げる筋肉(ハムストリング:大腿二頭筋・半膜様筋・半腱様筋)
かかとを引き上げる筋肉(下腿三頭筋)
足の甲や指を引き上げる筋肉(前脛骨筋・腓骨筋群・趾伸筋群:長拇趾伸筋・長趾伸筋)



(補)動物系から植物系へのフィードバック (身体のマトリックスとしてのファッシア)

 運動器は以上だが、運動に伴うファッシアの連動が、内臓系をはじめとして全身至る所に影響を及ぼす。また反対に、ファッシアにより運動自体が制限されることもある。そしてこのファッシアを通して、植物性器官へも影響を及ぼすと考えることができる。つまり、ファッシアに張力がかかった状態が経絡現象として考えられるし、ファッシアの張力を身体の捻じれ等により発生させ、身体のみならず精神面までも影響を及ぼすのがヨーガととらえることもできる。各種整体の理論的基礎もここにあると考えることが出来る。いわば解剖学的器官の「補集合」とも言えるファッシアは、それゆえに代替医療の諸概念を説明しうる概念と考えられるのである。

 『アナトミートレイン』によるホリスティックネットワークの考えによれば、神経の時間的記憶、体液の情動的記憶に対して、ファッシアを成すコラーゲン線維は信念体系との関連が指摘されている。ファッシアは空間的構造を成すものであり、それゆえに身体の空間認識に重要な役割を持つとも考えられる。メルロ・ポンティの現象学の基盤にもなりうるのではないだろうか。

 このファシアにより我々の視点は、再度、動物性から植物系器官へと回帰することができる。つまり動物性器官と植物性器官との円環構造を形成することができたのである。

2021年10月04日

2011年の統合医療カンファレンスの記事を読み返して

 統合医療学会主催でのカンファレンスが来月3日に開催予定です。こうしたカンファレンスは実は初めてではなく、かつてそれも10年以上前に一度開催されていました。

 ただこの段階では、学会での発表時も、重鎮の先生方をはじめとしたベテランの先生方に「統合医療」という特殊領域でのカンファレンスの在り方が周知されていなかったので、かなりの混乱のもとに開催され、二度目はなく一度きり、という状況になりました。
 こうした状況を振り返りながら、当時のブログを以下に、再録してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当院で2年以上前から行っている「統合医療カンファレンス」が、理事の先生方のご理解のもとに、いよいよ統合医療学会主催で行われることになりました。これを機会に、代替医療=統合医療という誤解が少しでも解けてくればいいなあ、と考えております。

 実際にどのように統合医療が行われているか、現在のところ、先生がたによってさまざまな解釈で行われているわけですが、学会によりある程度の共通項が出来てくると、これから始める先生方には大いに参考になるのではないでしょうか。

 カンファレンスのファシリテーターの先生方は今回は合計4名で行います。ご興味ある方は以下のページをご覧ください。

http://imj.or.jp/member/gakkai/conference110313


(以上、2011年2月4日当ブログ再掲)

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 こうした環境がどこまで改善、理解されるようになったかは、今度実際に開催してみるまでは分かりませんが、とにかく、こうした取り組みが重要だという認識が醸成されてきたことだけは確かなように思います。

 統合医療というと何か特殊な医療を展開している、特殊な主義主張の医療というイメージが我が国においては依然として強いようです。
 アマゾンでの関連書籍などを見てもこうした傾向は容易にみてとれますし、先日も、ある催眠関連の書籍を読んでいたら、催眠はアメリカでは統合医療であるが日本では統合医療学会に認められていないというような記載がありました。これなどもそうした誤解の一つなのですが、催眠であろうが、ユナニ医学であろうが、心霊療法であろうが、統合医療という概念はそれらを排除していないというのが、私の考える統合医療です。こうした射程の広さこそが、多元的な「統合医療」の基礎をなすとかんがえています。

 しかし一部の先生方では、こうした意見に反対で、自分の関連する団体しか認めないというような考えの方もおられるという噂は耳にしますが、すべてを全面的に認めろとは言いませんが、虚心坦懐に評価をすべきであると思うのです。
 そうした意見交換の場が、私たちにとっての「統合医療カンファレンス」なのです。そしてそれを実際に展開してきたものこそ「ジャングルカンファレンス」に他なりません。

 統合医療は様々な方法論が多元的に錯綜する医療です。そこには多くの健康問題を有する患者さんと、それらに対応しようとする多くの医療従事者・セラピストがいます。何か一つの代替医療を押し出すというのではなく、こうした広い視野で、多彩な患者さんの訴えを解決していこうとする姿勢こそが統合医療の本質ではないかと考えるのです。


2021年10月03日

統合医療における「効率化」を考える

 10年以上前の記事ですが、少し書き換えながら改めて「効率化」を考え直してみました。
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 速さを求められる現代、なぜスローが重要かを少し考えてみたいと思います。統合医療にける「効率化」の意義です。

 物事のスピードアップは、無駄なことを省いてより短い経路で物事を遂行していきます。結果「無駄」がなくなるので、経済的なわけです。
 しかし、この調子で続けていけば何事も際限なく、スピードがあがるわけで、人間の本来持つ速さ(もしくは対応可能な速度)を上回るような日が来てもおかしくないわけです(AIによりこれらは確実に実現していますね)。現に、それに対応すべく、さまざまな機器が発達し続けているわけです。


 こうした速度の上昇は一方で、その経路を短くもします。わかりやすくいうと、株の取引などで極めて短時間に超多額のお金がパソコン上を動くわけです。一昔前とはその速度が異なるわけで、これにより一部の人が大金持ちになり、社会の二極化も速度を増すというわけです。

 こうしたことは人間の体でも起こってはいないでしょうか。いろいろな薬が出来たことにより、症状の改善(もしくは変化)がよりスピードアップしうる時代になりました。
 しかし、一方ではそのための問題も散見されるようになったわけです。こうした健康への素朴な疑問や心配が、スローダウンの風潮の基底にあるように思います。

 効率化に関しては、サプリメントなどが良い例です。なぜサプリが必要になってきたか、それは、昔は米を食べるとしてもきれいに精米して食べるということはないわけです。一見無駄なものが、たくさん付いていたわけです。
 しかし効率化によりエッセンスのみを取り出すようになるなかで、以前はゴミと思われていたものの中に、大切な栄養素がたくさん含まれていたというわけです。無駄を切り捨てるなかで、本当に必要なものも捨ててしまっていた、ということもあるわけです。これこそまさに短絡化することの弊害と考えて良いと思います。(この辺りは「分かりやすさ」を過剰に求める風潮との関係で今月のジャングルカフェでも対話していきたいところです)


 人の身体も同様で、一見面倒な生活改善をせずに、薬物による短絡化を安易に取り入れることの弊害もありそうです。何事も簡略化・短絡化が最良というわけではないのです。
 統合医療といういわばEBMからはみ出した医療について考えるにあたって、こうした効率化の功罪を考えてみることは新たな視点をもたらしてくれるだろうと思います。


 10月14日のジャングルカフェは100分de名著の『群集心理』を扱います。こうした効率化と合わせて、社会現象から一緒に統合医療について考えてみましょう!

 参加希望の方はこちら!!


2021年10月02日

お城へ To Go (備中松山城)

 唯一現存する山城天守、備中松山城(68・岡山)です。押印は平成23年11月21日、鬼ノ城訪問の前に行きました。山麓からの高さが350mあり、険しい山上に築かれており、不便であるにもかかわらず、幕末まで存続し、天守が現存しているというのがこの城のスゴイところ。

 通常、明治になってから払い下げや取り壊しなどになるのですが、ここはあまりに山上なので搬出などの費用がかさむなどの理由で放置。それゆえに倒壊寸前にまでなっていたところを、昭和になってから二重櫓などを含めて解体修理がなされ、昭和16年には旧国宝にまで指定されています。

 駐車場から20分ほど山道を登っていきます。中太鼓櫓を経由してさらに上ると、自然の岩盤を取り込んでそびえたつ高石垣が見えます。
 この城が難攻不落といわれる、その雰囲気を味わうことが出来るまさに絶景です。そこから本丸に入ると現存天守が、こじんまりとした感じで建っています。二重なのですが、角度によっては三重に見える天守で、側面の「廊下」から天守に接続しています。
 内部は現存なので簡素なつくりなのですが、一階奥には一段高い「装束の間」があり、城主の自刃の場として用いられるという解説がありました。
 また二階には神棚が祀られ、多くの神々を祀ってあり、この多さはこの松山城のみとされています。山上の城ですので、とても静寂な中での見学でしたので、とても神聖な気持ちになったのを記憶しています。「装束の間」もすごく雰囲気あります…

 この天守は、臥牛山の4峰の中で「小松山」に建造されており、戦国期山城としては、さらに奥の大松山に大松山城がありました。
 この手前に大池という貯水槽もあり、忠臣蔵の大石内蔵助がここに滞在した折には屋根もかけられていたという記録があるようです。
 そもそも初めに臥牛山に築城した秋庭重信は、この大松山に築城したのでした。その後、三村氏により小松山と連続した一大城塞として整備されていきました。

 そしてこの三村氏が織田方についたため、毛利氏との戦闘の前線基地となり「備中兵乱」という戦乱が繰り広げられました。この騒乱を、智将、小早川隆景が制し、三村氏は滅亡、毛利領となります。その後、毛利の関が原の敗戦により、徳川直轄地となった後、池田氏により備中松山藩が立藩、一時期、赤穂藩に管理されることになり、この時に大石内蔵助が城番として在城したわけです。

 幕末期、この藩からは、老中板倉勝静が出て、慶喜の信任が厚かったことから、朝敵とされるところを藩の執政であった山田方谷により新政府に恭順、無血開城を行いました。
 この山田方谷は陽明学者として当時から高名で、長岡藩士河井継之助の師としても有名で、藤田東湖、佐久間象山とともに幕末三傑にも挙げられる偉人です。
 維新後は、新政府の出仕の誘いも断り、再仕官することはなかったという筋の通った人物といわれます。新政府の本質を理解していたとも言われます。
 城としては蛇足ですが、この方谷は、朱子学と陽明学の利点と欠点を心得ていたといわれ、陽明学の欠点として挙げている点は、現在の通俗的なプラグマティズム批判にも通じる面があり、現代でも意義があるものだと思います。






備中松山城 猫城主 さんじゅーろー
西松 宏
ハート出版
2019-07-21




日本の城 83号 (備中松山城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-08-11







運命をひらく山田方谷の言葉50 (活学新書)
方谷さんに学ぶ会
致知出版社
2017-06-27


2021年09月28日

解剖生理に立ち返る (5)伝達系

 受容系と運動系とを伝達する、神経細胞の「鎖」である。この鎖の末端で、外界からの刺激を受けるところが受容系であり、伝わった刺激を運動へと変換するのが実施系とすると、その中間にある媒体が神経系(伝達系)ということになる。

 大きく分けると、受容系からの刺激を知覚性の末梢神経が伝達し、情報の介在・処理を行う中枢神経を経由して、運動性の末梢神経を介して実施系の筋肉へと伝わっていく。
 受容系から実施系への介在となる神経細胞が次々と連鎖して、進化の過程で変化し構造化したものが中枢神経系である。

 中枢神経は、感覚器との関連で、前・中・後脳が形成され(鼻ー前脳、眼ー中脳、耳ー後脳)それよりも後方の部分である脊髄と区別され、人間の中枢神経の原型を成す。感覚系からの情報は、統合され感覚中枢と運動中枢が形成されるが、これらの場所が進化の過程で、後脳(原始魚類)→中脳(高等魚類・鳥類)→前脳(哺乳類)と、次第に「頭進」し、前脳が極度に発達して大脳半球が形成される。

 中枢神経は脊髄から発生し、そこから延びる脊髄神経は内臓や体壁の動脈に絡みつきながら末梢に至る。進化により首や手足の発達とともに、これらは「神経叢」を形成しながら皮膚や筋肉へと延びていくのである。

 続く「延髄」は、鰓脳として発生し、鰓弓神経(三叉・顔面・舌咽・迷走神経)が出入りする。これらは植物性運動のみならず、表現運動においても重要な働きを有する。また植物性過程の後半部は仙髄に中枢があり、骨盤内臓神経により排尿や排便などを司り、延髄と極性の関係を持つ。

 延髄の背側部には、平衡をとり運動を円滑に行うために「小脳」が発達する。これは延髄の動物性知覚部ともいえる。小脳(耳脳)は、胴体に関連した旧小脳が、四足に関連した小脳半球・新小脳に挟まれて小脳虫部を形成している。また随意運動を行う人類では小脳と大脳との連結が強まり、「橋」が発達してくる。延髄と小脳を併せて「後脳」という。

 続く「中脳」は視覚器に関連し眼脳といえる。魚類と鳥類では視索が中脳半球に収束しているが、哺乳類になると視索の大部分は「間脳」に終わり、中脳半球は上丘へと退化し、聴覚を中継する下丘とともに四丘体を形成する。また中脳被蓋には運動に関連した「赤核」や「黒質」が現れ、大脳からの伝導路(大脳脚)が大きく発達することになる。

 前脳は鼻に関連し鼻脳ともいえ、嗅脳と嗅球からなる。これが爬虫類において著明に変化し、嗅覚以外の全ての感覚が一つの場に集合し、「新皮質」が形成される。これが哺乳類では左右に膨大し、ここから脊髄まで一気に下がる随意運動の経路である錐体路が完成する。一方で嗅脳としてあった古皮質は、新皮質の陰で見えなくなり、「大脳辺縁系」として植物性過程の中枢となる。

 以上が三木成夫の解説を軸にした神経系の発達段階であり、文字のみであると分かりにくいが、複雑な構造を有する中枢神経系を理解するには、こうした進化の視点からアトラスなどを併用しながら理解するのが最もわかりやすいだろうと思う。
 

<神経>
神経線維と伝達物質
神経線維(Aαβγδ、B、C)、代表的神経伝達物質(アセチルコリン、ノルアドレナリン、セロトニン、ドパミン、ヒスタミン、グルタミン酸、GABA、サブスタンスP)

中枢神経
大脳半球、大脳皮質、大脳髄質、大脳基底核、間脳、中脳、橋、延髄、脳幹網様体、小脳、脊髄

伝導路
遠心性:錐体路(皮質脊髄路・皮質延髄路)、錐体外路(網様体脊髄路・前庭脊髄路・赤核脊髄路・視蓋脊髄路)
求心性:温痛覚(外側脊髄視床路)振動覚・位置覚(意識型深部感覚)、小脳系(非意識型深部感覚・脊髄小脳路)

脳血液循環
大脳の動脈分布、脳底動脈とウィリス動脈輪、脳の静脈分布、

末梢神経
脳神経:三大感覚(機Ν供Ν次法運動神経相当(掘Ν検Ν此Ⅻ)、鰓器官(后Ν察Ν宗Ν勝Ⅺ)
末梢神経:前根・後根とベル・マジャンディの法則、前枝・後枝とデルマトーム、脊髄神経叢
自律神経:交感神経、副交感神経、内臓痛覚、内臓感覚(頸動脈洞・頸動脈小体を含む)、腸管神経系


2021年09月25日

お城へ To Go (鬼ノ城)

 神籠石系の謎の古代山城、鬼ノ城(69・岡山)です。押印は平成23年11月21日、鬼城山ビジターセンターにて押しました。備中松山城と同日に訪問しました。

 レンタカーで鬼城山を上がっていきましたが、とにかく道幅が狭い。すれ違いの対向車が来たら、もうダメというドキドキ感の中での運転でした。城巡りはこうしたリスクがつきもので、100名城巡りでも忘れたころに、この恐怖に襲われます。最近では玄蕃尾城への山道にいたるまでの片側通行(!)のトンネルが最恐で、十数分に一度の交互通行の上、激狭のトンネルがトラウマに残っていますが、これ以前は、ダントツでこの鬼ノ城の山道でした。

 そんな怖い思いをしながら、何とか上って訪問しました。それだけに山頂からの眺望は抜群で、白村江の敗戦の後、唐・新羅への防御施設として築城されたというのも納得です。
 岡山のこれほど奥地にまで、これだけのものを建造したのですから、当時の敗戦のインパクトは相当な恐怖を引き起こしたものだったのでしょう。

 現状は、西門周辺に版築土塁、高石垣、角楼などが復元され、朝鮮式の意匠とともに異国情緒あふれる建造物を見ることができます。
 この同時期に、筑紫では水城、大野城や、対馬での金田城など古代山城が次々と建造されたようなのですが、みなこのような意匠だったのでしょうか。であれば、われわれがイメージするよりもずいぶんと西国は異国情緒あふれる雰囲気だったのかもしれません。

 ぐるっと城壁を巡る見学路が整備されて、眺望の良い中を歩けるのは素晴らしいのですが、途中、「マムシ注意!」の看板を見つけた瞬間にテンション下がりました(まあこうしたパターンも城巡りあるあるです!)。この山頂は平坦で水場も多いので、確かにいそうです…。
 こうした平坦な場で多くの礎石が見つかっており、かなり大規模な要塞といった感じだったのでしょう。

 また同時期における、畿内政権の地方支配を徹底するための威嚇的な軍事施設でもあったようで、対外、対内の両側面へのアピールと考えるとこの規模は納得です。

 吉備津彦命と戦った鬼の一族「温羅」の居城であったという伝説も、こうした建築意図からすれば当然だったのでしょうね。ちなみにこれらが岡山での桃太郎伝説へとつながるようです。
 戦国の山城とは全く違った見方が必要な古代山城、たまに違った雰囲気に包まれるにはもってこいです。でもやはり中世山城の方が好みです・・・。



鬼ノ城と吉備津神社—「桃太郎の舞台」を科学する (シリーズ『岡山学』)
岡山理科大学『岡山学』研究会
吉備人出版
2009-12-12



鬼ノ城と大廻り小廻り〔吉備考古ライブラリィ2〕
村上 幸雄.乗岡 実
吉備人出版
1995-02-09








2021年09月24日

ルルドの泉について

 先日、患者さんと鍼灸治療中に、イギリスにはお化けがよく出るけど、フランスは奇跡(や奇蹟)がおきますね〜という話をしていて、そういえば、と昔の記事を思い出し引っ張り出してみました。ルルドの泉ついての記事です。この手の情報としては、それでも結構新情報で、いまでも新鮮味があると思います。
 どうぞ!

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はじめに

 1858年、フランス南部ピレネー山脈麓の町ルルド(Lourdes)は、少女ベルナデッタ(Bernadette)がマリアの降臨を告げて以来、癒しの町として世界的に名高い。シーズン中には、フランス国内でパリに次ぐ宿泊者数となり、小さな田舎町としては似つかわしくないほどの賑わいを見せる。敬虔なカトリック教徒にとって、重要な聖地であるのは言うまでもないが、むしろわが国においては、癒しの泉湧く地として有名である。この地に多くの人々が関心を持つ奇跡は、大きく2つの意義に分けられるかと思う。一つは、一人の少女に聖母マリアがこの地に姿を現したことの意味、つまり何故ベルナデッタであったのかということを含めた宗教的な意義である。もう一つは、聖母マリア出現の際に告げられた泉から湧出した水による、奇跡的治癒の数々に関してである。私自身は、特定の宗教を持つ者ではなく、また、医師であるということから、後者の意義に関して、特に強い関心があった。そしてこの度、2003年と2005年の2回にわたってルルドを訪れ、かつ奇跡的治癒を認定する奇跡認定医のパトリック・テリエ先生(Decteur Patrick THEILLIER)に2度にわたってお話を伺うことができた。

 

聖地ルルドと奇跡的治癒

 1858211日、少女ベルナデッタの前に聖母マリアが出現したことから一連のエピソードは始まる。当初は、ベルナデッタ自身、聖母マリアであるという認識はなく「ご婦人」という認識であったという。その後225日の9回目の出現のとき、泉の位置が示され、「ルルドの泉」の湧出となる。はじめ泥水であった泉はこんこんと湧出するうちに、みるみる澄んでいったという。そしてこの日のうちにくみ上げられた水により、すでに最初の治癒例が確認されている。そして325日の16回目の出現時に、この婦人は「無原罪の宿り」と名乗ることとなる。はじめはベルナデッタ自身もそれが聖母マリアを示すものとは知らず、町の神父の指摘により知ることになった、ということである。これ以後、今日に至るまで奇跡的治癒は続き、世紀の変わり目までに二百万人もの患者が訪れ、うち6784例の治癒が記録され、バチカンの設定した厳密な基準を満たす「奇跡的な治癒」は66名を数える。しかし、これらはあくまでも申告されたものであり、自覚的にも他覚的にも治癒していながらここに記されていない(申告していない)人数はさらに多くいると考えられる。

 

ルルド探訪

ルルドへは、パリから空路であれば、ルルドタルベ空港ないしはポー空港からタクシーを使用して行くことができる。陸路でも、在来線を乗り継ぎ、ルルド駅へ行くことができる。町の中心は言うまでもなく、大聖堂であり、その周辺には観光客を目当てにたくさんの土産物屋が軒を連ねる。古くは、防衛の要衝であった地であるだけに、威厳ある要塞が町を眺める。大聖堂を背に右手には、ゴルゴダの丘を模した「十字架の道」があり、イエス受難の像が山道を登りながら見ることができる。そして左手には川が流れ、この川と大聖堂の間に泉の湧出する洞窟がある。ここが「ルルドの泉」である。泉の湧き出るところが実際に見ることができ、そこから出た水は少し離れた水のみ場で自由に飲むことができる。水は無料で提供されており、シーズンにはたくさんの人たちが、ペットボトルや水筒を手に列を成す。洞窟からさらに奥に進むと沐浴場があり、シーズン中であれば、車椅子やストレッチャーの方でいっぱいになる。敷地内にはこの他、ルルドの歴史を説明する映画館や、関連する書籍を販売する書店、医療事務局もこの敷地もある。

 

奇跡認定医テリエ先生

医療事務局には「奇跡」を認定する医師パトリック・テリエ先生がいる。先生とはこれまで2度お会いしているが、一度目の訪問(200311月)では、一般的な解説から、奇蹟の認定基準に関して教えて頂いた。このとき先生は、信仰がその治癒の中心的役割を示すと強調されていた。同時に他の信仰をもつ者であっても、生命の連続性を認識している人であれば治癒しうる、というお話は非常に興味深かった。「水」という物質にのみ効果を帰する見方ではなく、その背景としてのスピリチュアリティーにこそ重点を置くべきであるという見方であり、大いに感銘を受けた。

二度目(20056月)は、一対一の個人的会談という形で、お時間を取って頂いた。そのために、なかなかお聞きすることができないお話もうかがうことができた。それは、ホメオパスでもある医師としての先生にとって、ここでの治癒を先生自身どのようにとらえているのか、ということである。医師として、治癒困難な疾病が実際に治ることに対する見解、さらには、ホメオパシーの効果を、身を持って経験している医師として、治癒と水の持つエネルギー、そしてスピリチュアリティーとの関連に対する見解、などである。また先生は、多発性硬化症などの難病の治癒メカニズムにも非常に興味をもっておられて、生化学や遺伝子などの理論を駆使して同僚の医師と共著の著作も出版されている。信仰との関連も重要であるが、治癒することそれ自体にも重要な意味があり、その点もさらに研究が進むべきである、と強調されていたことも、印象的であった。そしてルルドの奇跡においては、水の果たす役割はきわめて大きいのではないだろうか、ともお話されていた。

 

ルルドの奇跡とは

 信仰に基づく「スピリチュアリティー」と、それを伝達する媒体としての「水」、そしてその作用点ともいえる「自然治癒力」。この三者の連携から織り成されるものが「ルルドの奇跡」と言われるものなのだろう。そこには単純な還元主義では解決されえない問題が多く横たわるが、「奇跡」が我々に見せる魅力は限りない。それは、ルルドの奇跡の元来もつ力に加え、多数の巡礼者をはじめとした訪問者の祈りによるところも少なくないように思う。聖地ルルドから、我々、統合医療を目指すものが得ることができるものは限りなく多い。「統合医療」の更なる発展を考えるとき、ここに多くのヒントがあるような気がする。