2017年02月24日

4つのイズムと確率統計に関するメモ

 長沼先生の記事と、先週末のフューチャーセッションとのコラボから思いついたことの個人的なメモみたいなものですので、ご興味ない方はスルーを。
 
 日曜日に久々に、教条・折衷・統合・多元の4つのイズムについて解説していて気付いたこと。この4つは2つの軸により分類可能であるという点。

 一つの軸は究極的な構成要素の個数について。つまり最終的な構成要素が「一」なのか「多」なのか、という点で分類可能であるということで、教条・統合は、共にその究極的な要素は「一」。対する折衷・多元 は、当然究極的にも「多」となる。

 もう一つの軸は、現時点での「真理(確信といってもよいかもしれない)の有無」について。「有」に関しては、たった一つの真理しか認めないのが「教条」で、複数の真理を認めるものが「多元」。反対に「無」に関しては(換言すれば現時点で真理ないしは確信が無い場合)、たった一つに収束するだろうが現段階での真理がない「統合」と、要素は複数あるものの各々に、真理ないしは確信とでも呼べるものがない「折衷」ということになる。

 つまりまとめると、
一つの軸に   <構成要素数:「一」⇔「多」>
もう一つの軸に <真理・確信:「無」⇔「有」>
・・・ということになる。

この2軸を直交させれば、結果として4つの象限に分かれ、4つのイズムを分類することが可能になる。

 こうした分類を参考にすると、これまでの統合と多元との比較・対立の構図が見やすくなる。つまりそれは、「一」と「多」の対立そのものであったということになる。


 ここで、今考えている医療における確率・統計の意義についての考察のメモ。
 確率統計分野における問題の根底に横たわる「正規分布」というものの解釈について、正しい中間としての「平均」が存在するとすれば、それ以外つまりその周辺は「誤差」ということになる。誤差論から、考えるとこのようになり、いつしかその平均が「善」で、そこからの逸脱が「悪」としての疾病といった考えに転化しうる。(現にケトレは誤差論から、平均人という概念に至っている)
 一方、人間の諸特徴などは、さまざまな要因が重なって(いくつもの分布が重なって)結果として、正規分布に近いものとなることが多い、と考えられる。そしてこれを、長沼伸一郎は『経済数学の直観的方法』において「造物主のベルトコンベアー」によると表現している。そしてさらに、こうしたイメージは、ガウスらによる確率統計学の草創期には、おそらく共有されていたであろうと推測している。つまりこれを敷衍すると、体系の草創期には、前述した「平均人」がもつような善悪の概念は内包されていなかったことが推測される。
 平たく言えば、「みんないろいろあってそれでよい」だったはずが、そこに「良い悪い」が知らぬ間に導入されてしまったことになる。(ハッキングはこれをケトレに起因させている)そしてこうした問題の底流にも、「一と多」の問題があるように思う。
 現代の医学の大きなバックボーンでもある確率統計という一見中立な体系をみるときにも、知らぬ間にこうしたバイアスが存在してしまうのではないかということである。

 こうした議論を詰めていけば、所謂、代替医療が駆逐されることへの反論も可能になるし、「統合医療に科学の光を」といった論調の狭小さがより明確になると思う。正規分布において、その中心部に真理を見るか、万物の散らばり加減に普遍性を見るかの違いであり、散らばりは切られるべき存在であるとは限らず、多様性として評価しうるものでもあるという視点の提供ともみえることになる。
 小さくマイナーな療法であっても、多様性を希求する全体にとっては、無駄なものではない。身体という未知なるものの探究においては、一つの可能性を提供するものとみることができるのである。
 
 


tougouiryo at 07:00│Comments(0)いわゆるブログ! 

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