2017年03月24日

操体法とプラグマティズム

 前回、操体について書きましたが、操体法の細かい技法はさておき、その原理について少し考えてみたいと思います。メモ的なものですのでご興味ない方はスルーを。
 
 「気持ちいいことなら何をしてもいい」というのがいわゆる操体の基本となる考えです。これは、いわゆるこうした医療について触れていると至る所で耳にするもので、大いに魅力的な考えでもあります。自分も、学生時代などは大いに魅了されました。
 いわゆる「快」を肯定しこれを道標とし、理論・理屈を先行させず、親試実験を行っていくわけです。しかし当然こうした考えには、反論もあるわけで、よくあるものが、いわゆる「快」におぼれた結果体を壊したらどうするのだ、というもの。
 これに関しては、橋本敬三先生自身もよく問われていたようで、ご著書の中でもこれへの解答が散見されます。以下のような感じです。

「気持ちのいいことは何をしてもいい。苦しい方、痛い方に動くのではなく、ラクな方、気持ちのいい方へ動けばいい。だけどもね、その時にはうんと気持ちよくっても、後になって気持ちが悪くなる、つまり、後味が悪いっていうのがあるが、それは 本当の気持ちよさとは違う」『からだの設計にミスはない(橋本敬三著)』より

 なるほどと思う反面、少し、うまく言いくるめられたような釈然としない面も否定できません。こうした医学に否定的な人と議論すれば、一瞬で否定されてしまう論理でしょう。後のことは簡単には予測できないのではないか、わかっていてもやめられない「依存」はどうなのか、等々の理由で。
 ここを橋本先生が言っているのだから!という論理で押すと、内輪の人には通るものの、外野の人には説得力がないでしょう。
 安易なキーワードで統合医療を語る危険性もここにあります。耳にやさしい一元的なキーワード、例えば、「愛」「真理」や「患者様のため」 等々、すばらしい考えではありますが、反面、様々な問題を隠蔽することにもなりうるのです。
 安易な単純化や理想化の問題点です。これは確かフッサールだかが、ガリレオを評して隠蔽の天才と称したことと通じるように思います。つまり「真理」という名の科学的法則により、自然そのものの姿がみえなくなってはいまいか、という指摘です。
 誤解ないように繰り返しますが、「愛」や「真理」、「患者様」が悪いと言っているのではありません。むしろ口に出すことはなくても、最も大切な概念であることはいうまでもありません。しかしこれらによって深く医療を考える 際に、障壁となりうることもあるのではないか、という可能性の指摘です。こうした側面が「快」にもあるのではないか、と思うのです。
 一見、魅力的な言葉は、反面、大きな問題も抱えます。ここでは論じませんが、これまでいろいろと主張してきた「折衷」と「多元」の相違などもこれに通じます。 

 さらに「快」が指摘している良い面は、あらかじめ「真理」のようなものを措定していない、ということです。冷やすのがいいか温めるのがいいか、と言った問がなされますが、まさにこれです。どこかに真理があるという考えが前提にあるのです。橋本先生は、これにたいし「気持ちがいい」ものがいいんだと述べておられます。
 しかし、気持ちがいいと判断するためには 、それが行為されていなければなりません。つまり操体の考えの根底には、行為が前提にあることになるのです。これはまさしく、プラグマティズム的思考です。この思考自体が、ある種、東洋的であるので当然といえば当然です。
 何らかの直観に支えられて、実践する、その結果の判定を自らにゆだねる。その判定基準を「快」とする。ただしこの「快」を近い目的におくか、遠い目的におくかで大きく分かれます。
 やや専門的なお話しになりますが、プラグマティズムの二つの源流、パースとジェイムズの相違点の一つもそんなところにあると考えます。
 この場合、依存など の問題を考慮すると、もしくは橋本先生自身の記述から判断するとジェイムズの説くプラグマティズムが、これに最も近いように思います。

 この問題はまたの機会に、さらに述べてみたいと思います。今日はここまで。


「プラグマティックメディシン」についてはこちら↓

 


tougouiryo at 07:56│Comments(0)いわゆるブログ! 

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