2019年08月08日

学ぶことは危険な行為

 自己学習や、研究会などで学んでいると、時に全く違った考えをしないと理解できないことがあり、それを機に全く違った視点を持つことが出来ることがある。
 一見そうしたことは、とても良いことだけのような気がするが、結構そうでもないのかもしれない。それを機にこれまでの周囲とは違った考え方となり、変な軋轢を生むこともあるだろう。

 最近、東大の安富歩教授による『超訳 論語』を読んでいてそれを強く感じた。ここには、これまでの論語の雰囲気とは全く違う訳がまさに超訳されている。論語冒頭の学而第一の訳。

「何かを学ぶことは危険な行為だ。なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから」とある。

 確かに思い当たる節もある。では学ぶことはよくないのか。そうではなかろう。学習内容を自分のとするために努力を重ねていけば、いつかそれは自分のものになる。そして自らの感覚も取り戻せる。これが「習う」ということなのだそうだ。確かにこの「習う」という解釈は画期的で新鮮である。

いま、当院でも月に一度、塾と称して学習会を行っている。ただ学ぶだけでなく、これに参加することでクリニック関係者のつながりが強まっていると感じる。学習は確かに、自らを変容させる。そしてその過程の中で有機的なつながりが醸造されるように思う。

 一つの治療方法に自信を持つことは、良いことだが、そこから一歩も出ずに、そこに固執するセラピストも少なくない。これは医療従事者全般に対しても言えることだろう。

 学習することにより、つながりを強めていくということについて、おいおいここでも考えていこうと思う。なによりジャングルカンファレンス自体がそういう効能があることは肌身で感じていることだから。


超訳 論語
安冨 歩
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2012-12-14



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