2020年01月09日

ラリー・ドッシー『時間・空間・医療』

 医療における「対話」の意義が強調されつつある中で、前回はその重要性を考えたわけですが、そこでラリー・ドッシーの著作を思いだして、久々に『時間・空間・医療 プロセスとしての身体』を引っ張り出してみました。ラリー・ドッシーには7年ほど前に、沖縄の講演会に参加した際に、懇親対話会でお話をする機会があり(奥様ともお話しすることができました!)、ご著書にサインして頂きました。
 そこには、現在、医療において最も重要視されている「客観性」ということに関して、鋭い文章が書いてあり、読書時も印象に残ったためチェックしてありました。以下、引用してみます。



 科学は、今まで存在せずほんとうに必要でもなかった原理に対する確信を、ひとつひとつ拒絶しながら発展を遂げてきた。たとえば、エーテル、カロリック、フロギストンなどの概念は、よく健全な科学へと向かう努力の中で、初期の時代に全て断念された。しかしこうした修正はもっぱら科学の内容に関係していた。(中略)その結果、医学は大混乱を招くかもしれない。けれども、客観性という幻想がなくなれば、医学は手かせ足かせから解放されることになる。医学は客観的であるべしという要請は、実質的に健康と病気における強力なファクターを否定してきた。


 ここでは「客観性」というのはそろそろ乗り越えられるべき、「フロギストン」のような概念だとドッシーは述べています。これが居座るがゆえに、意識の介入という医学的に大きな展望を逃してしまっている、と述べているのです。
 意識を排除し、絶対的真理のような概念を探求したこれまでの医療に対して、対話がもたらすものは単なるナラティブの復権というようなものをはるかに超えているように思います。絶対的真理ではなく個別の真理、客観的・普遍的ではなく、各々の「場」から生成される価値のようなものを重要視する考え方なのです。そして、我々がそうしたものの生起する場面の代表として捉えているのが「対話」なのではないでしょうか。
 久々に読み返してみて改めて示唆に富む著作だと感じさせられましたので、メモとして書いておきました。


時間・空間・医療―プロセスとしての身体
ラリー・ドッシー
めるくまーる
1997-11



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