2020年02月27日

悲しみの秘儀

 ボームの言葉をここでしばらく引用していると、読んでいる時とは異なった感覚になることがしばしばでした。ただ引用しているだけにもかかわらず、ダイアローグやカンファレンスという行為に対して、深く考えさせられます。
 数日前から若松英輔『悲しみの秘儀』を読んでいるのですが、そこからこの引用ということにも考えさせられました。ちなみの俵万智さんは、著者を「引用の達人」と称賛しています。

誰かの言葉であっても書き写すことによってそれは、自らのコトバへと変じてゆく(中略)
引用は人生の裏打ちがあるとき、高貴なる沈黙の創造になる。そこに刻まれた言葉は人がこの世に残しうる、もっとも美しいものにすらなりうる。


 若松先生の本は『本を読めなくなった人のための読書論』を読んでから、その独自の視点と優しい文体から何冊か読んでいますが、今回、この引用についての文章と、さらにはカンファレンスの在り方について考えさえられたのですこしメモすることにします。

 医療における通常のカンファレンスでは、当然今後の方針など具体的なことを決定していくので、感傷的なことばかりでは進まないのですが、ジャングルカンファレンスにおいてはそれとは少し違った印象をわたしはもっています。代替医療、統合医療の場には、通常の医療からふるい落とされた悩みや不調が数多く現れます。
 これに対して、いわゆる通常の「医療従事者」的な言葉だけでは、寄り添うことが出来ない場面も多々あるはずです。様々な意見を多元的に取り扱う理由はそこにもあるわけです。しかし、それだけなのかということです。そこにはふるいにかけられ、既存の枠組みでは掬い上げられることのない悲痛な訴えがあります。そこにどのように共感していくのか、ということもとても重要に思います。若松先生の以下の文章が、印象的でした。

人生には悲しみの扉を通じてしか見ることのできない地平がある。人は、悲しみを生きることによって、「私」の殻を打ち破り、真の「わたし」の姿をかいま見る。また、悲しみを経て見出された希望こそが、他者と分かち合うに足る強度を持っている、とも思う。悲しみを生きるとは、朽ちることのない希望を見出さそうとする旅の異名なのではないだろうか。

 ジャングルカンファレンスにおける、対話の中で交わされた言葉が、何らかの「強度」を持つとしたら、こうした悲しみへの共感が大きいのではないだろうか、たとえどんな形でカンファレンスが展開されようとも、こうした共感なしでは、その基礎がないといっても仕方がないのではなかろうか、といったことを強く感じた文章でした。

 また普通は受け身ととられがちな「読者」についても書かれていました。カンファレンスなど欧米系の考えでは何か発言しなければならないとされますが、ただ聞いているだけでも多くの人のない内部では、実は大きなうねりが生じているものです。そうしたことと考え合わせながら。

読者とは、書き手から押し付けられた言葉を受け止める存在ではない。書き手すら感じ得なかった真意を個々の言葉に、また物語の深層に発見していく存在である。こうした固有の役割が、読み手に託されていることを私たちは書物を開くたびに何度となく想い返してよい。


悲しみの秘義 (文春文庫)
若松 英輔
文藝春秋
2019-12-05



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