2020年05月30日

お城へ To Go (山中城)

 今回は、一時的に東海の城、山中城(40・静岡)です。前々回からの小田原攻めシリーズで、東海道上にある、小田原への最後の要とも言える城です。

 100名城押印は平成21年の6月28日です。駐車場に車を止め、道路向かいの売店にスタンプがありました。当時は、まだ城めぐりを始めたばかりでしたが、「最近、100名城の人が結構いらっしゃいますね、かなり廻られたのですか」とお店の人に声をかけられたのを覚えています。ここは沼津、三島によく行っていた時があるので、そのたびに幹線上に位置するアクセスの良い城なので、何度も行きました。近年では、独特の形状をした「障子堀」が大人気で、お城好きからはベルギーワッフルとも称されております。どこかの歴女が「好きなお堀は障子堀!」とも言っておりました(笑)。

 この城はまさに東海道上に両側から挟むように縄張りで、まさに「関所」のように位置しています。豊臣の天下統一の締めくくりとして小田原城へと向かうには、通らざるを得ない位置です。既に天下統一へと向かっていた時期ですから、戦国の世と比べると戦闘がずいぶんと減り、逆に手柄を立てる機会もまたぐっと減っていた時期でもあります。そうした意味でも、華々しい業績を上げるめったにない機会といった意味合いが、この山中城をめぐる戦いからは見えてきます。
 
 この城も八王子城同様、戦闘までに整備が間に合わず、未完成のまま戦闘に入ります。東海道を上ってくると右手側に位置する出丸(岱崎出丸)で戦闘が開始され、豊臣側の一柳直末が討ち死(三の丸跡のお寺にお墓があります)。しかし攻城側の多数の兵により二の丸、三の丸と次々におち、山中城はその日のうちに落城します。障子堀をはじめ、いくつもの技巧を駆使した北条の築城技術が盛り込まれた城郭ですが、やはり大群にはひとたまりもないということでしょう。

 この小田原攻めの際には関東各地の城が落ちていくわけですが、どれもこれまでの築城の様々な技法にも関わらず、圧倒的な豊臣軍の数にはかなわないわけです。そうした意味で、小田原の喉元とも言える立地の山中城は、凄まじい勢いで飲み込まれる運命の城だったといえるのではないでしょうか。

 近くには旧東海道の石畳の街道もあり、城自体も駐車場完備で、よく整備され、歴史に興味がなくても障子堀の美しさは一見の価値ありです。少し足を延ばせば、三島大社、そして三島のうなぎが食べられます。






 


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