2020年07月18日

お城へ To Go (甲府城)

 武田家滅亡後、甲州の拠点となった甲府城(25・山梨)です。押印は平成23年の7月3日です。以前、ご紹介した武田氏館の前に訪問し、登城後は、ご当地グルメで有名な甲州鳥モツ煮を駅前で食べて帰りました。
 武田関係の城郭が続きましたが、最後の本拠である新府城(ここも関東最恐の心霊スポットとして有名です)を放棄し、滅亡に至ります。その後の拠点である甲府城は、徳川家康の命により築城された城で、天守台のみで、解説書によっては天守は建てられなかったとされていますが、近年の調査では、鯱瓦の発見により浅野氏による天守が実在したとされているようです。

 駅前というより、駅自体が城郭内にあるというアクセス抜群の城です(甲府駅降りなくても甲府城です)。ガッツリ線路が載っているところは三原城と同様です(三原城の方がドーンと新幹線載ってますが)。関ケ原以前の石垣が大量に残っており、分かり易いので、あまり興味のない方でも楽しめる城郭です。
 本丸の門が近年、次々に復元されており行くたびに新しくなっている印象です。現在、本丸にはオベリスクの「謝恩塔」がたっており、山梨に御料林が下賜されたことを記念して建てられたものだそうです。この重みで土台の石垣が少し孕み出していたのが気になりました。
 天守台からは、甲府一面が眺められ、はっきりとはわかりませんが、武田氏館も見えます。天気の良い日はいつまででも見ていられる眺めの良い場所です。天守台自体が、真四角ではなく、変形した五角形のようないびつな形で、どんな天守なんだろうと感じで、安土城も同様な印象だったのですが、それもそのはず、岡山城と合わせて「日本三大ゆがみ天守」というようです。
 
 武田の支配が終わった後で、新たな時代の拠点として、市内至るとこからでも見えるシンボル的な城郭です。豊臣期には浅野氏により徳川への睨みを利かせる城として整備され、徳川期には親藩として将軍の息子が城主となる重要な城でした。
 こうした城ですから、幕末期はどうなったのかというと、重要拠点ですから近藤勇らも甲陽鎮撫隊として当初は甲府城へ向かっていますが、進軍が遅かったため甲州勝沼で官軍とぶつかり一日で壊滅しています。
 そもそも甲府城代は、現地に赴任しないまま新政府側に恭順しており、板垣退助は易々と無血入城を果たしています。ちなみに、板垣退助は源氏であることをアピールして、甲斐入国を前に(ご当地の人気取りのために)乾から改姓しています。これはその後の転戦においても有利に働いたとされ、新政府側の情報操作の巧みさを感じます。また源氏の正統の武士であるという矜持を見せるためにも、自らにとっても大切だったのでしょう。維新政府側の不安な内面の揺れのようなものが垣間見えるエピソードです。

日本の城 改訂版 87号 (甲府城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-09-11






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