2020年05月20日

お城へ To Go (島原城)

 島原の乱の発端となった島原城(91・長崎)です。押印は平成26年11月21日です。熊本城を先日に訪問し、熊本泊後、熊本港よりフェリー(オーシャンアロー)で島原外港へ。そこから原城を訪問してから、島原城へ向かいました。車で城内まで入ると、そのまま本丸、なんと天守前で駐車という間近さはここでしか体験できません。加えて、おもてなし隊による歓迎、とインパクト強でした。天守前には土産屋も盛況で、そこでは島原の郷土料理「六兵衛」(サツマイモを原料にした黒いうどんみたいな感じ)を食べました。度重なる飢饉や天災にみまわれた地であるだけに、こうした食により命をつないでいたのでしょう。

 板倉重政により築城された島原城は、4万石という領土に似つかわしくないほどの五層の巨大天守をもち、11基の櫓があったといわれています。高石垣も見事です。現在の天守は昭和39年の再建で白塗りですが、実際は黒い天守だったようですが、天守は大きさに関しての記録はあるものの、外観に関しては不明とのこと。いずれにせよ、熊本城など周辺への睨みのためか、分不相応な重装備といったところでしょう。

 これが、島原の乱を引き起こす一因といわれます。築城のための課役や過酷な年貢がこの一揆の主な原因といわれ、そこにキリシタン弾圧が加わったものというのが現代の見方のようです。それにしても、一揆勢は、城下町まで押し寄せ、あわや一時的に籠城戦にまで追い込まれるまでだったというのですからかなりの攻勢です。結局は原城に立て籠るも、中央からの幕府軍によりようやく鎮圧されることになります。こうした抵抗の強さには、宗教が絡んだのはいうまでもないのでしょうが、それだけではないようで、弾圧以前に飢饉などにより相当追い込まれた状況であったというのが実情でしょう。この乱の結果、ほとんどの住民がいなくなり、あらたに入植のような形で再興せざるをえませんでした(この時に「そうめん」も入ってきたということです)。

 こうしたいきさつがあるにもかかわらず、この再建天守の見事さからからか、結構地域住民に愛されている感じで、歴史を振り返ると複雑な心境になります。なんであろうが市民は、たくましく生きていうということなのでしょう。なお天守内一階はキリシタン資料館になっています。この当時のキリシタンの様相を思うと、なんとも複雑です。当然、純粋に信仰していた人も多かったのでしょうが、一方で欧米列強勢力が、極めて強く極東に関心をもっていたのも事実。きれいな信仰の陰で、多くの人身売買など表に出ない歴史もあり、今日的な視点だけでは「島原の乱」は語れない要素も多いのではないかと思います。














この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔