2020年09月16日
お城へ To Go (人吉城)
2020年7月の人吉を含む熊本県南を中心とした豪雨により被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。以前の姿にむけた一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。(本ブログは同年5月に記載しております)
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今回は人吉城(93・熊本)です。鹿児島での学会の帰りに足を延ばしての訪問で、押印は平成25年6月2日で、スタンプは人吉城歴史館にありました。熊本といってもかなり鹿児島よりで、ひっそりとした水のきれいな小京都といった佇まいの街でした。
西南戦争では、薩摩軍がここを拠点に政府軍と戦っていますが、敗退。近隣には西郷隆盛が本陣を設けた永国寺があります。このお寺は通称「幽霊寺」で、幽霊の掛け軸が有名なお寺で、なかなかに気味の悪い幽霊画を見ることが出来ます。
球磨焼酎で有名な地だけに、焼酎蔵もあり、城郭の敷地内に駐車して、散策するのに最適の街でした。球磨川をわたり人吉市街でうなぎ(うな志げ)を食べ、国宝の青井阿蘇神社(司馬遼太郎絶賛ということです)をみて、幽霊寺により、市役所を過ぎたところで、元湯温泉という銭湯に入りました。とてもゆったりとした時間が流れる、いつまでも居たくなる城下町でした。
球磨川ごしの長塀の写真が有名で、城内に入ると、はね出しのある石垣が見どころとされます。これは、幕末導入された工法で、五稜郭やお台場などでは普通にみれますが、旧来の城郭に採用された例としてはこの城が唯一といわれています。
歴史館として「相良清兵衛屋敷」が建てられ、非常に見学もしやすかったです。城郭としては河川に近いところがいわゆる近世城郭で、中世城郭はその奥に平山城として広がっており、かなりの敷地があります。中世人吉城を領した相良氏はそもそも源頼朝の命により、静岡県牧ノ原市相良から地頭として着任したといわれ、現在も姉妹市の関係があるようです。
この相良氏に限らず、こうした地頭の派遣が遠方における領主の起源となっていることは九州では珍しくなく、他にも姉妹関係を結ぶ市が多くあり、その関連の強さがうかがわれます。
どうしてそうしたことになったのかということを考えると少し面白いのですが、古代史を見ると神武東征に代表されるように西から東へと影響力が及んでいくのがふつうです。
それが、鎌倉幕府の成立により、東国から西国へと部下が派遣されるわけです。つまり北方騎馬民族の流れを受けた政権が、それまでの大陸由来の勢力を圧倒していくという構図です。それが戦国期にまで続くわけですから、戦闘能力も統治能力もともに従来勢力をしのいでいたということになるでしょう。
こうしたと東西勢力のうねりのようなものも、城巡りでは感じることができるのが醍醐味ですね。医学もそうですが、内側からの視点だけでは決してみることのできない、外側からの視点により、歴史における構造的な理解を進めることができるわけです。
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今回は人吉城(93・熊本)です。鹿児島での学会の帰りに足を延ばしての訪問で、押印は平成25年6月2日で、スタンプは人吉城歴史館にありました。熊本といってもかなり鹿児島よりで、ひっそりとした水のきれいな小京都といった佇まいの街でした。
西南戦争では、薩摩軍がここを拠点に政府軍と戦っていますが、敗退。近隣には西郷隆盛が本陣を設けた永国寺があります。このお寺は通称「幽霊寺」で、幽霊の掛け軸が有名なお寺で、なかなかに気味の悪い幽霊画を見ることが出来ます。
球磨焼酎で有名な地だけに、焼酎蔵もあり、城郭の敷地内に駐車して、散策するのに最適の街でした。球磨川をわたり人吉市街でうなぎ(うな志げ)を食べ、国宝の青井阿蘇神社(司馬遼太郎絶賛ということです)をみて、幽霊寺により、市役所を過ぎたところで、元湯温泉という銭湯に入りました。とてもゆったりとした時間が流れる、いつまでも居たくなる城下町でした。
球磨川ごしの長塀の写真が有名で、城内に入ると、はね出しのある石垣が見どころとされます。これは、幕末導入された工法で、五稜郭やお台場などでは普通にみれますが、旧来の城郭に採用された例としてはこの城が唯一といわれています。
歴史館として「相良清兵衛屋敷」が建てられ、非常に見学もしやすかったです。城郭としては河川に近いところがいわゆる近世城郭で、中世城郭はその奥に平山城として広がっており、かなりの敷地があります。中世人吉城を領した相良氏はそもそも源頼朝の命により、静岡県牧ノ原市相良から地頭として着任したといわれ、現在も姉妹市の関係があるようです。
この相良氏に限らず、こうした地頭の派遣が遠方における領主の起源となっていることは九州では珍しくなく、他にも姉妹関係を結ぶ市が多くあり、その関連の強さがうかがわれます。
どうしてそうしたことになったのかということを考えると少し面白いのですが、古代史を見ると神武東征に代表されるように西から東へと影響力が及んでいくのがふつうです。
それが、鎌倉幕府の成立により、東国から西国へと部下が派遣されるわけです。つまり北方騎馬民族の流れを受けた政権が、それまでの大陸由来の勢力を圧倒していくという構図です。それが戦国期にまで続くわけですから、戦闘能力も統治能力もともに従来勢力をしのいでいたということになるでしょう。
こうしたと東西勢力のうねりのようなものも、城巡りでは感じることができるのが醍醐味ですね。医学もそうですが、内側からの視点だけでは決してみることのできない、外側からの視点により、歴史における構造的な理解を進めることができるわけです。