2020年09月05日

お城へ To Go (久保田城)

 今回は久保田城(9・秋田)です。押印は平成23年8月20日です。秋田なので秋田城と思うところですが、秋田城は「あきたのき」と称された大和朝廷の拠点で、駅からも遠い別の場所にあります。いわゆる戦国のお城ではありません。

 そもそもこの辺りは安東氏の領有地だったのですが、関が原による国替えにより佐竹氏が入り、今でも佐竹氏がトップですね。佐竹義宣が、出羽湊城に当初入り、翌年にこの久保田城を築城しております。度重なる火災を受けている割には戊辰戦争の戦火は免れ、消失せずに明治を迎えたようですが、明治13年の火災によりほぼ全焼したようです。
 そのため写真に使われる三重の天守のような建造物は、新兵具御隅櫓でこれも実際は二重だったようです。本当の天守の代用は出御書院という二階建ての建造物だったようなのですが、これは全焼してしまったようです。

 佐竹の国替えについてはいろいろと俗説が言われていますが、一番有名なのは、水戸から美人をすべて連れて行ったので、秋田には美人が多く、水戸はその反対になった(笑)というもの。
 加えて、この久保田城も関ケ原の敗戦を受けて、幕府に遠慮した結果、豪壮な石垣などを用いないように建造したというもの。なんとなくそれっぽい理由がついているのですが、実際は、穴太衆のような石垣を組める職人集団がいなかったというのが実情なようで、元が関東の権力者ですから、土塁による築城がメインです。加えて見た目は地味ですが、実勢においては石垣よりも土塁の方が防御力も高いといわれ、思い込みの要素が強いのでしょう。
 こうした観点は歴史を知るうえでとても重要で、時折、史跡の解説などもどうしたことか明らかに間違ったこうした俗説のようなものが書いてあることはめずらしくありません。いろいろと総合的に考えて判断するということは、医学だけでなくさまざまな場面で大切だという証左ですね。

 ちなみに秋田美人が多いというのはロシア方面の遺伝子が入っていることも理由の一つとされますが(ハーフでもないのに青い目の人ってたまにいますよね)、昔は鎖国なのにそんなことないとか考えていましたが、結構、古来より行き来は盛んだったようで、その可能性は高いと思います。はじめに紹介した秋田城には、外国人向けの水洗トイレもあったといわれるくらいですから。
 さらに、近年、鎖国というシステムは従来、教科書に書かれているほど厳密でないことも話題になっていますね。教科書から削除されるか、といったことが話題になっていましたね。江戸時代の鎖国や士農工商(これも当時ことばとして使われていなかったらしいですし)といったイメージも思い込みの要素も少なくないのかもしれません。
 実際の様子は、教科書だけではわからないのですから、洞察力をたかめて想像をたくましくしていかなければわからないことも多いのかもしれません。城巡りの醍醐味も、そうした洞察と妄想が、最高の武器になると思います(笑)











佐々木希写真集/「ささきき」
佐々木 希
集英社
2013-09-05




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