2020年09月19日

お城へ To Go (根城)

 今回は陸奥における南朝の拠点、根城(5・青森)です。押印は盛岡城の訪問後、平成23年2月11日です。この一か月後の震災により、この根城は地割れにみまわれてしまうので、地割れ前に訪問することが出来ました。
 当時は雪降る中の訪問で、この後、八戸城跡にも立ち寄りました。現在は地割れは復旧されているようです。現在は馬淵川にそった丘にあるような形ですが、かつては、両側を沢に囲まれ、各曲輪も堀切で仕切られていたようです。1994年に復元が完成したばかりで、とてもよく整備されていました。

 築城の歴史は古く、鎌倉幕府滅亡の翌年1334年建武元年、南部師行によります。南部氏はそもそも甲斐源氏の出で、甲斐の巨摩郡南部牧を領したことから南部といったようで、この師行が北畠顕家に同行して最初に陸奥へと赴いたようです。ちなみに九州諸城の城主が静岡由来が多いのに対し、こちらは山梨です。こうして中央の権威が地方へと拡散していく様子がみてとれます。

 南朝方の根本となる城という願いで名づけられたものの、師行が北畠顕家ともども高師直に敗戦、戦死すると、弟の政長が家督を継ぎ、その後、政光の代には甲斐の所領を離れてこの根城に移ってきています。
 ここから八戸南部が成立し、八戸氏、七戸氏となったのですが、後に秀吉に近づいた三戸南部によりその支配下に組み込まれてしまいました。さすが時の権力者にすり寄ったものがちですね。
 ちなみに、ここ八戸は青森県なのですが、こうした歴史から見ると明らかに、盛岡のある岩手県と密接な関連があることがうかがわれます。本来なら岩手県となっていても良いような土地柄です。新幹線に乗っても八戸から新青森は山深いためほとんどがトンネルで真っ暗です。つまり津軽と八戸は本来別とも言える地域で、さらには津軽氏との確執も加わり、現在でも、そうした感情は地域の方には根強いようです。
 私の行きつけのすし屋の大将は、この根城近くの方なのですが、津軽への八戸の複雑な思いをお聞きしたことがあります。明治維新後の廃藩置県に伴っていろいろな事情があったのでしょう。こうしたご当地の事情も、実際に廻ってみて初めて知ることばかりです。ちなみにこの時に行った八戸駅の居酒屋は、再訪時には再開発されてなくなっており、昨年八戸に行った時には、駅前のビルで海藻ラーメンとヒラメ丼を食べました。

八戸根城と南部家文書
根城史跡保存会
国書刊行会
1989-05T





いちご煮 415g
味の加久の屋



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