2020年10月24日
お城へ To Go (多賀城)
今回は多賀城(7・宮城)です。押印は平成22年6月27日です。訪問時は東日本大震災の前年ですので、無傷の状態での見学でした。来訪時は、仙台から仙石線で、多賀城へと行き、塩釜で寿司(「しらはた」にて)を食べて帰りました。
多賀城は東北最大の大和朝廷の拠点といわれ、まさに中央支配の象徴とも言える施設です。国府と鎮守府が置かれ、いわば軍事拠点兼行政府といった極めて重要な場だったわけです。蝦夷など東日本の朝廷支配に従わない勢力を、抑えるための最前線基地で、当時の状況が偲ばれます。
おそらくはそれよりはるか前には東日本で独立した国家体制があったようですから、そうした勢力の衰退期に、奥へ奥へと調停勢力が版図を広げた結果なのでしょう。以後、坂上田村麻呂により胆沢城が築城され、軍事機能はそちらへ移動されていましたが、前九年・後三年の役においては再度、軍事拠点として利用されていたようです。
その後、建武新政においては陸奥将軍府がおかれるなどしていたが、南北朝の動乱により落城したようです。いずれにせよかなりの長期間、現役の機能を維持した軍事施設であったようです。
現在は、当然、政庁跡や外郭の跡などしかないので、のんびりとした、だだっぴろい史跡といった感じです(笑)
秋田城もそうですが、かなり東北奥部まで当時の大和朝廷の影響が及んでいる様は、戦闘力によるものなのか、政治力なのか分かりませんが圧倒的な差がついていたことがうかがわれます。
当然、東西で並び立っていた時代もあったでしょうが、どこからかこうした差がついたのでしょうね。鎌倉幕府の西国への影響の強さをみると、それほど東国側が軍事的に劣っていたような気もしないのですが。また蘇我氏も東日本出身説もありますから、かなり早いうちに中央と合体、もしくはその上層を押さえていたりしたのかもしれませんね。
古代史関係は、前提となる歴史的知識をかなり大胆に外して予想するという大技ができるので、いろいろと楽しい妄想が出来ますね。
多賀城は東北最大の大和朝廷の拠点といわれ、まさに中央支配の象徴とも言える施設です。国府と鎮守府が置かれ、いわば軍事拠点兼行政府といった極めて重要な場だったわけです。蝦夷など東日本の朝廷支配に従わない勢力を、抑えるための最前線基地で、当時の状況が偲ばれます。
おそらくはそれよりはるか前には東日本で独立した国家体制があったようですから、そうした勢力の衰退期に、奥へ奥へと調停勢力が版図を広げた結果なのでしょう。以後、坂上田村麻呂により胆沢城が築城され、軍事機能はそちらへ移動されていましたが、前九年・後三年の役においては再度、軍事拠点として利用されていたようです。
その後、建武新政においては陸奥将軍府がおかれるなどしていたが、南北朝の動乱により落城したようです。いずれにせよかなりの長期間、現役の機能を維持した軍事施設であったようです。
現在は、当然、政庁跡や外郭の跡などしかないので、のんびりとした、だだっぴろい史跡といった感じです(笑)
秋田城もそうですが、かなり東北奥部まで当時の大和朝廷の影響が及んでいる様は、戦闘力によるものなのか、政治力なのか分かりませんが圧倒的な差がついていたことがうかがわれます。
当然、東西で並び立っていた時代もあったでしょうが、どこからかこうした差がついたのでしょうね。鎌倉幕府の西国への影響の強さをみると、それほど東国側が軍事的に劣っていたような気もしないのですが。また蘇我氏も東日本出身説もありますから、かなり早いうちに中央と合体、もしくはその上層を押さえていたりしたのかもしれませんね。
古代史関係は、前提となる歴史的知識をかなり大胆に外して予想するという大技ができるので、いろいろと楽しい妄想が出来ますね。