2020年09月09日
お城へ To Go (首里城)
今回は沖縄編ラストで、首里城(100・沖縄)です。現在は火災により焼失してしまいましたが、押印は平成24年11月2日で、それ以前に一度訪問していたので2度目の訪問時でした。そして残念ながら火災前としてはそれが最後になってしまいました。新婚旅行が沖縄でしたので、首里城はその時に初めて訪問したのが印象的です。
歴史的には、すでに1660年と1709年に失火により焼失しており、1945年太平洋戦争時には米軍の砲撃により焼失、その五年後には城跡が琉球大学になっております。その後平成4年に、復元工事が完了し一般公開されました。
琉球統一の覇者、尚巴志により、当時の拠点である浦添城から本拠を移す形で、現在の首里城が整備されました。
14〜15世紀にかけてのいわゆる「三山時代」においては、中山・南山・北山の勢力が鼎立する戦乱の時代で、これを中山の尚巴志が統一し、琉球統一がなされました。尚巴志は南部の一地方勢力にすぎませんでしたが、浦添城を攻略して中山を手中に収め首里城を中心とし、1416年今帰仁城を拠点とする北山を、1429年島尻大里城を拠点とする南山を平定しました。こうした平定後、ほどなくして「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発しているわけですから当時としては、統治状態が十分固まっていたわけではなかったことがうかがわれます。つまり後知恵では、中山王尚巴志と反乱者阿麻和利、という構図になりますが、ともに小勢力ないしは下級民からの出身と考えると、本土における下剋上のようなものですから似た者同士といえなくもありません。いずれにせよ群雄割拠の動乱期だったでしょうから、当然、城郭の建造が発達し、主な城はこの時代に集中してくるわけです。
首里城を訪問した際は、その正殿の復元の立派さもさることながら、様々な構造の城門に目が行きます。明らかに中国の影響を強く受けたその形態は、本土の城郭との差を強く感じさせてくれます。また城外の御嶽では、訪問時は2度とも、人々が集まって法事ののような祭事が行われていました。その姿がかなり自然で日常的な風景だったのもとても印象に残っています。
ここ以外のグスクでも同様ですが、内部の御嶽が現在でも住民と共にあるような形ですので、これらの宗教的重要性も改めてかんじさせてくれています。
火災前には、首里城前を車で通過したのですが、まさかこうしたことになるとは思わず、次の機会に訪問すればいいやと思い、スルーしてしまったのが今となっては後悔です。新たな復興の日を、心待ちにしております。
歴史的には、すでに1660年と1709年に失火により焼失しており、1945年太平洋戦争時には米軍の砲撃により焼失、その五年後には城跡が琉球大学になっております。その後平成4年に、復元工事が完了し一般公開されました。
琉球統一の覇者、尚巴志により、当時の拠点である浦添城から本拠を移す形で、現在の首里城が整備されました。
14〜15世紀にかけてのいわゆる「三山時代」においては、中山・南山・北山の勢力が鼎立する戦乱の時代で、これを中山の尚巴志が統一し、琉球統一がなされました。尚巴志は南部の一地方勢力にすぎませんでしたが、浦添城を攻略して中山を手中に収め首里城を中心とし、1416年今帰仁城を拠点とする北山を、1429年島尻大里城を拠点とする南山を平定しました。こうした平定後、ほどなくして「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発しているわけですから当時としては、統治状態が十分固まっていたわけではなかったことがうかがわれます。つまり後知恵では、中山王尚巴志と反乱者阿麻和利、という構図になりますが、ともに小勢力ないしは下級民からの出身と考えると、本土における下剋上のようなものですから似た者同士といえなくもありません。いずれにせよ群雄割拠の動乱期だったでしょうから、当然、城郭の建造が発達し、主な城はこの時代に集中してくるわけです。
首里城を訪問した際は、その正殿の復元の立派さもさることながら、様々な構造の城門に目が行きます。明らかに中国の影響を強く受けたその形態は、本土の城郭との差を強く感じさせてくれます。また城外の御嶽では、訪問時は2度とも、人々が集まって法事ののような祭事が行われていました。その姿がかなり自然で日常的な風景だったのもとても印象に残っています。
ここ以外のグスクでも同様ですが、内部の御嶽が現在でも住民と共にあるような形ですので、これらの宗教的重要性も改めてかんじさせてくれています。
火災前には、首里城前を車で通過したのですが、まさかこうしたことになるとは思わず、次の機会に訪問すればいいやと思い、スルーしてしまったのが今となっては後悔です。新たな復興の日を、心待ちにしております。