2021年02月13日
お城へ To Go (大阪城)
今回は、かつての大坂城、大阪城(54・大阪)です。押印は平成21年11月1日で、天守閣内で押せます。
大坂城には豊臣期と徳川期に二つあるわけですが、豊臣期大坂城天守は、安土城天主に似ていたとされ、二重目を巨大な入母屋造とし、その上に向きを変えた入母屋造を重ねていく構造なのですが、それでもやはり、安土城でひときわ目を引く四重目の形状は踏襲していません。
ただし信長のものよりも豪壮だったようで、当時の宣教師の記載では「安土の比に非ず」と記されているようです。
豊臣期大坂城は、石山本願寺跡地に建築されたわけですが、そもそもこの本願寺は、普通の寺ではなく、堀と土塁を有する「城」だったということを知れば、より納得です。
秀吉自身が居城としていた期間は実は短期間だったといわれますが、その不在の間は正妻である「おね(寧々)」が在城していたようで、秀吉没後に淀君と秀頼が入城してからは、京都新城に移っているようです。
その後迎えた大坂冬の陣では、淀川堤防を決壊させて城外東側を水没させて水城のようにしたため、徳川方の攻撃口が南面に限定され、ここに真田丸が築かれていたということになります(今回調べて初めて知りました!)。武田の丸馬出の城郭化ともとれるこの真田丸を出丸として、激戦が繰り広げられるわけですが、実際には真田丸の形態はよくわからないみたいです。
その後、堀という堀はすべて埋めたてて、丸裸の状態で迎えた大坂夏の陣ですが、当然こうなると難攻不落というわけにはいきません。
当然、真田幸村は京都に家康を入れないように、瀬田の橋を落として迎撃するという戦略を主張するわけですが、結果としては採用されず、局所的な善戦はあったものの結果としては秀頼・淀君の自刃で幕を閉じるわけです。
ただここにも異説が多く語られており、秀頼生存説は結構根強いですね。薩摩経由での逃亡などは地域では語り継がれたりしていますし、琉球や東南アジア方面への逃亡もあるかもしれません。荒唐無稽とされる天草四郎説もまんざらではないのかもしれません。
また大坂の陣の後、徳川方により徹底して城域が破壊され、城内もひろく掘り返されたとも伝えられたにもかかわらず、似たような縄張りで徳川期大坂城が建築されたのも、ちょっと疑問です。
巷間、豊臣への憎しみからだといわれますが、ただそれだけで、そこまでするかは甚だ疑問です。もし憎悪の念からであれば、徹底的に破却したままにしておけばよいと思うのですが、一度更地にしてからまた建てるというのは面倒なだけのように思います。何か城域内で埋蔵物などを捜索していたと考えるのが妥当なような気がします。
また真田の動向も不可解です。これほど徳川家に反発したにもかかわらず、伊達藩はその血筋を保護し、とくに咎めを受けてはいないようです。こう言うのを「男の友情」では済ませられません(笑)
大坂の陣はその他にも多くの疑問が投げかけられうるイベントですよね。
その後家康は、豊臣期を凌駕する天守を建造したものの、その天守は40年足らずで落雷による全焼。そして1931年に現在のコンクリート製天守になるというわけです。ちなみに現在は、徳川の土台の上に、豊臣の天守に似た形状のものが建っているといったところです。