2021年06月19日

お城へ To Go (長篠城)

 まさかの飯田線が本丸を走り抜ける、断崖の長篠城(46・愛知)です。押印は平成24年3月19日、長篠城址史跡保存館にて押しました。飯田線の長篠駅から徒歩で訪問しましたが、その後、復元馬防柵のある設楽ヶ原古戦場もあわせていったので、電車の乗り継ぎや駅からの徒歩が長くなり、結構不便でしたので、車での訪問がおすすめです。

 菅沼元成による築城で、武田方についた菅沼氏から家康が攻めとり、徳川の武田への最前線基地の役割を担った城です。
 武田方からの籠城戦を耐え抜き、織田・徳川方を長篠の戦いの勝利へと導いた重要な城になります。二つの川の合流点である三角形断崖上に位置するため、崖側の南側は極めて強固なのですが、北東ががら空きのため、堀と土塁を配置して防御しています。
 現在は宅地化も進んでいるので、当時の様子がよくわからないの、こちら側大丈夫?といった感じなのですが、籠城を耐え抜いた城だけに当時は堅固だったのでしょう。
 ただし、長篠の合戦があまりに激しく、この城郭の損傷も激しかったため、この城は廃城となり、城主奥平氏は新城城を新たに築城し移ったといいます。

 この城で忘れてはならないのが、やはり鳥居強右衛門です。壮絶なその姿は史跡保存館に展示されています。
 武田に包囲された長篠城から、鳥居強右衛門は織田・徳川連合軍へ救援を要請するため脱出。無事その援軍要請の任を全うすると、その成果を伝えるべく再び城内へと帰還しようとするのですが、ここで捕獲されてしまいます。
 武田としては援軍が来ることが籠城内に伝われば、士気が鼓舞され、不利になるわけなので、強右衛門に援軍は来ないという虚偽の伝令をすれば命を助けると持ちかけます。
 しかし、武田によって城の前まで連れてこられた強右衛門は、「援軍到来」を叫んだため磔にされ殺害。近隣には強右衛門磔死之跡があります。これにより、さらに城内の士気は上がり、武田方は落城させることができないまま、設楽ヶ原の戦いへと向かうことになり、敗北します。

 このエピソードをみても、いかに士気の高さが籠城戦に影響するかがわかります。城の強さというと、縄張り的なものを求めるのが定番ではありますが、こうした関わる人物の動向、つまりは人の心情こそが城をめぐる戦闘の要であるということをあらためて気づかされますね。

 商業的にも、施設や建造物が新しく華やかであることが求められますが、そこに集う人たちが団結していなければ、やはりうまくいかないのは言うまでもありません。大規模な資本を投入した施設にもかかわらず、中身の薄いところって、確かにありますからね。





戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦い
設楽原をまもる会
黎明書房
2014-08-01






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