2021年09月11日

お城へ To Go (広島城)

 毛利輝元により築城され、原爆により倒壊した天守、広島城(73・広島)です。押印は平成27年11月21日で、吉田郡山城の訪問後です。
 毛利の居城の変遷でみると、元就時代の吉田郡山城から始まり、交易や規模拡大の必要性から輝元により広島城へ移り、毛利氏の頂点をむかえます。その後、関が原の敗戦により、萩城へと移り、幕末の混乱の中、幕府に無断で山口城に移転し明治を迎えます。そう考えるとちょうど、城の変遷の順に訪問していたことになります。山口城はまだ未訪問ですが…。

 広島城の五重天守は戦前まで残っていて、岡山城天守とともに建築史上重要な天守だったのですが、終戦間際まで火災にもあわずに残存したにもかかわらず、最後に原爆で吹き飛んでしまったのは本当に残念です。
 現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもので、往時の小天守などは復元されていません。つまり元々の連結式天守にはなっていません。またかつては88基の櫓を有していたといわれ、相当な重装備の城郭だったことがうかがわれます。

 縄張りとしては、本丸が上段・下段の二段構えになっており、二の丸はそこからの出撃口的な馬出の形状をしています。
 そしてそれらを三の丸が囲うようになっており、堀は河川を利用した直線的な水堀となっています。またさらに外郭は、そもそも太田川の三角州に築城されたために自然の太田川に囲まれ、天然の防御態勢となっています。
 また縄張りの原型は、秀吉の聚楽第にきわめて似ており、その外郭を福島時代にさらに拡張したのが、全景と考えられます。

 戦略的には、いざとなると北側から逃走し、従来の吉田郡山城を詰めの城として利用し、敵勢に対して迎撃態勢に移れることも念頭に置かれていたようです。いずれにせよ、この築城により、河口のデルタ地帯であった広島が埋め立てが進み、現在の形への基盤となったわけで、文字通り広島発展の基盤とも言える城郭なのです。

 毛利氏が萩へと移った後は、福島正則が入城、城郭や城下の拡張、さらには年貢負担も軽くして善政を敷いたとされます。しかしこれがかえって幕府との関係を微妙にし、家康の死後、台風による破壊を無断で補修したことなどを詮議され、いざこざの末、領土没収となります。
 その後は徳川との関係の深い浅野氏が入城し、明治まで継続していきます。

 原爆ドーム、平和祈念館とともに、倒壊した天守をしのびつつ、再度来訪してみたいですね。倒壊というと本日は、9月11日。WTC倒壊の日でもありました。9月10日にツーソンにワイル先生に会いに行き、そのまま飛行機が飛ばず、日本に帰れなくなった日を思い出します。あれからもう20年なんですね。皆さんは、あの時何されてましたか?





日本の城 改訂版 11号 (広島城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-03-28



広島ご城下 歴史たび
原田 邦昭
南々社
2020-04-09







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