2021年09月18日

お城へ To Go (萩城)

 関ケ原敗戦後の毛利の居城、萩城(75・山口)です。押印は平成29年7月23日で、長州藩の歴史探訪旅行としていきました。津和野城からの翌日の訪問になります。
 萩城下の志士関連の史跡めぐりもあわせて行ったので、見どころ満載の旅行でした。高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らの生家を訪れ、それらと松下村塾、松陰生誕地、野山獄、明倫館などの歴史的名所との距離感なども掴めたので非常に勉強になりました。

 萩城は指月山麓にある平城と、山頂部にある山城に分かれ、山麓の本丸には五重天守が建てられていたようです。当初は赤瓦だったようで、白壁との赤白のコントラスト美しい天守とされます。
 縄張り的には、これまでの毛利の二つの居城が雛形とされ、山頂部の詰めの城的な山城部は郡山城に、三方を海に囲まれた平城部は広島城にその原型を求めることができるようです。

 この城のすごいのは、詰めの城は緊急避難的な要素のみであることが多いのですが、結構がっちりとした防御がされており、詰丸として本丸、二の丸があり、ちゃんと一つの城のようです。
 その入り口は要害門として枡形虎口があり、内部には籠城のためか巨大な用水槽もあり、平時においても要害番番士により海陸の監視が行われていたといいます。
 標高143mあり、急峻な要害といった感じで、実際のぼると結構大変です。夏でしたので、汗だくだくで、蚊にさされるは結構大変でした、そのまま観光を続けられず、ホテルへ戻りシャワーを浴びたのを覚えております。

 関ケ原敗戦の後の築城ということで、そうとう幕府を遠慮したということになっていますが、結構厳重な防御が施されており、ちょっと不思議です。それほど幕府も目くじらをたてなかったということなのでしょうか。確かに歴史的には「五郎太石事件」など起きた際にも重臣を厳罰に処したりしているので幕府への警戒は強かった見るべきなのでしょうが、いわゆるびくびくした感じは城からは感じられませんでした。

 世界遺産認定で訪問当時は、大河ドラマ放映の後でもあり、急速に整備された感じでした。古い町並みも保全されているので、ゆっくりと散歩するとちょっとしたタイムスリップ感を味わえるのではないでしょうか。
 ただ、当時宿泊したホテルも現在は廃業しているようで、しだいに斜陽な感じなのですかね。コロナ禍により、さらに寂しくなってしまっているのでしょうか。山口城が未訪問なので、併せてまた再訪したいお城です。












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