2021年09月25日
お城へ To Go (鬼ノ城)
神籠石系の謎の古代山城、鬼ノ城(69・岡山)です。押印は平成23年11月21日、鬼城山ビジターセンターにて押しました。備中松山城と同日に訪問しました。
レンタカーで鬼城山を上がっていきましたが、とにかく道幅が狭い。すれ違いの対向車が来たら、もうダメというドキドキ感の中での運転でした。城巡りはこうしたリスクがつきもので、100名城巡りでも忘れたころに、この恐怖に襲われます。最近では玄蕃尾城への山道にいたるまでの片側通行(!)のトンネルが最恐で、十数分に一度の交互通行の上、激狭のトンネルがトラウマに残っていますが、これ以前は、ダントツでこの鬼ノ城の山道でした。
そんな怖い思いをしながら、何とか上って訪問しました。それだけに山頂からの眺望は抜群で、白村江の敗戦の後、唐・新羅への防御施設として築城されたというのも納得です。
岡山のこれほど奥地にまで、これだけのものを建造したのですから、当時の敗戦のインパクトは相当な恐怖を引き起こしたものだったのでしょう。
現状は、西門周辺に版築土塁、高石垣、角楼などが復元され、朝鮮式の意匠とともに異国情緒あふれる建造物を見ることができます。
この同時期に、筑紫では水城、大野城や、対馬での金田城など古代山城が次々と建造されたようなのですが、みなこのような意匠だったのでしょうか。であれば、われわれがイメージするよりもずいぶんと西国は異国情緒あふれる雰囲気だったのかもしれません。
ぐるっと城壁を巡る見学路が整備されて、眺望の良い中を歩けるのは素晴らしいのですが、途中、「マムシ注意!」の看板を見つけた瞬間にテンション下がりました(まあこうしたパターンも城巡りあるあるです!)。この山頂は平坦で水場も多いので、確かにいそうです…。
こうした平坦な場で多くの礎石が見つかっており、かなり大規模な要塞といった感じだったのでしょう。
また同時期における、畿内政権の地方支配を徹底するための威嚇的な軍事施設でもあったようで、対外、対内の両側面へのアピールと考えるとこの規模は納得です。
吉備津彦命と戦った鬼の一族「温羅」の居城であったという伝説も、こうした建築意図からすれば当然だったのでしょうね。ちなみにこれらが岡山での桃太郎伝説へとつながるようです。
戦国の山城とは全く違った見方が必要な古代山城、たまに違った雰囲気に包まれるにはもってこいです。でもやはり中世山城の方が好みです・・・。
レンタカーで鬼城山を上がっていきましたが、とにかく道幅が狭い。すれ違いの対向車が来たら、もうダメというドキドキ感の中での運転でした。城巡りはこうしたリスクがつきもので、100名城巡りでも忘れたころに、この恐怖に襲われます。最近では玄蕃尾城への山道にいたるまでの片側通行(!)のトンネルが最恐で、十数分に一度の交互通行の上、激狭のトンネルがトラウマに残っていますが、これ以前は、ダントツでこの鬼ノ城の山道でした。
そんな怖い思いをしながら、何とか上って訪問しました。それだけに山頂からの眺望は抜群で、白村江の敗戦の後、唐・新羅への防御施設として築城されたというのも納得です。
岡山のこれほど奥地にまで、これだけのものを建造したのですから、当時の敗戦のインパクトは相当な恐怖を引き起こしたものだったのでしょう。
現状は、西門周辺に版築土塁、高石垣、角楼などが復元され、朝鮮式の意匠とともに異国情緒あふれる建造物を見ることができます。
この同時期に、筑紫では水城、大野城や、対馬での金田城など古代山城が次々と建造されたようなのですが、みなこのような意匠だったのでしょうか。であれば、われわれがイメージするよりもずいぶんと西国は異国情緒あふれる雰囲気だったのかもしれません。
ぐるっと城壁を巡る見学路が整備されて、眺望の良い中を歩けるのは素晴らしいのですが、途中、「マムシ注意!」の看板を見つけた瞬間にテンション下がりました(まあこうしたパターンも城巡りあるあるです!)。この山頂は平坦で水場も多いので、確かにいそうです…。
こうした平坦な場で多くの礎石が見つかっており、かなり大規模な要塞といった感じだったのでしょう。
また同時期における、畿内政権の地方支配を徹底するための威嚇的な軍事施設でもあったようで、対外、対内の両側面へのアピールと考えるとこの規模は納得です。
吉備津彦命と戦った鬼の一族「温羅」の居城であったという伝説も、こうした建築意図からすれば当然だったのでしょうね。ちなみにこれらが岡山での桃太郎伝説へとつながるようです。
戦国の山城とは全く違った見方が必要な古代山城、たまに違った雰囲気に包まれるにはもってこいです。でもやはり中世山城の方が好みです・・・。