2021年10月02日

お城へ To Go (備中松山城)

 唯一現存する山城天守、備中松山城(68・岡山)です。押印は平成23年11月21日、鬼ノ城訪問の前に行きました。山麓からの高さが350mあり、険しい山上に築かれており、不便であるにもかかわらず、幕末まで存続し、天守が現存しているというのがこの城のスゴイところ。

 通常、明治になってから払い下げや取り壊しなどになるのですが、ここはあまりに山上なので搬出などの費用がかさむなどの理由で放置。それゆえに倒壊寸前にまでなっていたところを、昭和になってから二重櫓などを含めて解体修理がなされ、昭和16年には旧国宝にまで指定されています。

 駐車場から20分ほど山道を登っていきます。中太鼓櫓を経由してさらに上ると、自然の岩盤を取り込んでそびえたつ高石垣が見えます。
 この城が難攻不落といわれる、その雰囲気を味わうことが出来るまさに絶景です。そこから本丸に入ると現存天守が、こじんまりとした感じで建っています。二重なのですが、角度によっては三重に見える天守で、側面の「廊下」から天守に接続しています。
 内部は現存なので簡素なつくりなのですが、一階奥には一段高い「装束の間」があり、城主の自刃の場として用いられるという解説がありました。
 また二階には神棚が祀られ、多くの神々を祀ってあり、この多さはこの松山城のみとされています。山上の城ですので、とても静寂な中での見学でしたので、とても神聖な気持ちになったのを記憶しています。「装束の間」もすごく雰囲気あります…

 この天守は、臥牛山の4峰の中で「小松山」に建造されており、戦国期山城としては、さらに奥の大松山に大松山城がありました。
 この手前に大池という貯水槽もあり、忠臣蔵の大石内蔵助がここに滞在した折には屋根もかけられていたという記録があるようです。
 そもそも初めに臥牛山に築城した秋庭重信は、この大松山に築城したのでした。その後、三村氏により小松山と連続した一大城塞として整備されていきました。

 そしてこの三村氏が織田方についたため、毛利氏との戦闘の前線基地となり「備中兵乱」という戦乱が繰り広げられました。この騒乱を、智将、小早川隆景が制し、三村氏は滅亡、毛利領となります。その後、毛利の関が原の敗戦により、徳川直轄地となった後、池田氏により備中松山藩が立藩、一時期、赤穂藩に管理されることになり、この時に大石内蔵助が城番として在城したわけです。

 幕末期、この藩からは、老中板倉勝静が出て、慶喜の信任が厚かったことから、朝敵とされるところを藩の執政であった山田方谷により新政府に恭順、無血開城を行いました。
 この山田方谷は陽明学者として当時から高名で、長岡藩士河井継之助の師としても有名で、藤田東湖、佐久間象山とともに幕末三傑にも挙げられる偉人です。
 維新後は、新政府の出仕の誘いも断り、再仕官することはなかったという筋の通った人物といわれます。新政府の本質を理解していたとも言われます。
 城としては蛇足ですが、この方谷は、朱子学と陽明学の利点と欠点を心得ていたといわれ、陽明学の欠点として挙げている点は、現在の通俗的なプラグマティズム批判にも通じる面があり、現代でも意義があるものだと思います。






備中松山城 猫城主 さんじゅーろー
西松 宏
ハート出版
2019-07-21




日本の城 83号 (備中松山城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
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