2021年12月11日

お城へ To Go (姫路城)

 泣く子も黙る国宝そして世界遺産、純白の名城、姫路城(59・兵庫)です。押印は平成21年9月22日でした。
 当時は現在の白塗りになる前の、まだ渋い色の天守でしたが、天守がすっぽりと覆われる改修工事の前に見ておこうという駆け込みも多く、長蛇の列でした(今も城ブームに乗って長蛇の列ですが…)。そしてここを見てから、その足で赤穂城に向かいました。帰路に長蛇の列に並ぶ、「城友」に遭遇したのが記憶に新しいです。

 この城はとにかくでかくてきれいなので、いつも混んでいる印象。ちゃんと入れた押印当時は、腹切丸を通るルートで天守に入っていましたが、その後、修理中には「い」「ろ」「は」の門あたりまで入れたもの、そこまでで天守に行けず、とか。その時の状況でいろいろです。
 とにかく混んでるし、「酸っぱい葡萄」の話のように、もういいよ、ってな感じなので、白くなってからは天守内部に入っていません。ただ、姫路に定期的に行く予定もあったので、外からは結構頻繁に見てはいます(笑)

 この城は元はかなりの大規模だったようで、今の姫路駅前くらいまで惣構で囲まれていたようです。駅から城郭まで歩く途中の遺構をみるとその大きさが実感できます。
 近年訪問した時は、押印時と比べても、駅前がかなり開発整備されきれいになった印象でした。かつてのややくすんだ灰色の重みある印象から、白過ぎない?、といった感じの真っ白天守にキレイさに磨きがかかったように思います(まあ建築当初はこうした白色だったようなのですが…)。と同時にくすんだ城が好きなので、ちょっと近寄りがたくもあり、ほとんど行ってません。

 それでも近世城郭の芸術的なまでの完成形を見るには、やはり姫路城をおいて他にはありません。天守にばかり目が行きがちですが、ここのすごいのは、やはり迷宮のような通路です。松山城並みの、心理を突いた小細工の数々(笑)です。これだけ天守へのルートがごちゃごちゃと回り道させられるというのは、もうそれだけで攻める気が失せますね。
 そんな守りのルートに固められた天守ですが、上からは無防備ですので、太平洋戦争時の焼夷弾が落ちるという危機一髪の事態にも遭遇します。幸運なことにこれが不発だったため天守は現存を保つことができました。同様なパターンで焼け落ちてしまった名古屋城と比べると、その幸運を感じざるを得ません。

 現在の大手門から入城し、真っ直ぐに進むと入城ゲートになり、正面に「い」の門、右手に三国堀でそのはるか奥に天守が聳えます。
 左手の後方に進むと「西の丸」に上がれ、ここは百間廊下が囲みます。ここの中を通っていくと千姫の持参金(化粧料)で建てられたといわれる化粧櫓になります。今でも千姫(の人形)が貝合わせをやっております。
 この西の丸御殿は、「鷺山」という山にあり、天守がある「姫山」とは別の山になっています。つまり、姫路城は二つの丘陵を使った平山城ということになります。
 そもそもは赤松円心が、姫山に砦を作ったことが姫路城の始まりとされ、その後、黒田氏によって本格的な築城がなされました。そして黒田官兵衛により、秀吉に姫路城が献上されると、三重四階の望楼型天守が建てられ、近世城郭として拡張されたとされます。
 その後、池田輝政が関ケ原の功により入城すると、西国監視を目的に一大拠点としてさらに整備されていくわけです。その後は、本多、松平、榊原、松平、本多、榊原と譜代・親藩の城主が続き、酒井氏になって明治維新まで続きます。とにかく西国の抑えとして極めて重要な拠点であったことがうかがわれます。

 姫路城天守のみならず、城下には広く遺構が残されているようですので、そうした街歩きをかねた遺構巡りもやってみたいですね。
 とにかく城の完成形を見るならココですね。江戸城の方が確かにもっと完成形ではあるのですが、いかんせん広すぎます(笑)



姫路城まるごとガイドブック
芳賀 一也(著・写真)
集広舎
2019-04-10












 
 


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