2021年02月11日

資本論と統合医療の接点(カフェ追加資料)

 明日のジャングルカフェの課題図書についての追加情報です。明日のカフェに参加される方は是非お読みください。





 内容の読解というより、統合医療との共通点について、私の感想をメモ的に書いてみます。
 
1)「富」が資本主義社会では「商品(貨幣を介した交換対象)」に変化していくわけだが、これを医療のアナロジーで考えると「(現代)医療化された身体」といえる。そこには実感できる「使用価値」ではなく、幻のような「価値」がある。つまり「使用価値」が低くても、売れさえすれば「価値」が実現する、ということ。例えれば、生を実感する丸ごとの「身体」を「使用価値」とするならば、データないしは画像化された身体(情報)は作られた「価値」と対置することができる。すると「使用価値と価値の対立」は、「ホリスティックな身体とデータ化された身体」と読み替えることもできるのではないか。

2)資本主義において金儲けの主軸になるのは、「使用価値」ではなく「価値」であるというのは(1)で考えると理解しやすい。そして「資本」とは「絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動」であるので、それを延々と続けなくてはならない。すると人間も自然もその運動に従属して、利用される存在に格下げされてしまうことで、日々の豊かな暮らしという「富」が搾取されることになる。

3)一見、資本主義は膨大な富をもたらしたように見えるが、我々の欲求や感性はやせ細り貧しいものに成り下がる、この状態を「疎外」とよぶ。これを医療のアナロジーで語るなら、「直観」「身体智」というものが消失し、貧しい「身体像」のみが「真に科学的」とされる状況に近いのではないだろうか。

4)生産過程を細分化する「分業」が労働者を無力化する、という状況は、過度の専門分化の果てに、具体的な「身体」がどんどん見えにくくなっている状況とアナロジーなのではないだろうか。「分業」というシステムは、何かを作る「生産能力」を失わせる、これこそが専門分化の弊害として見えていることなのではないだろうか。またこうした分離を徹底した例が「テイラー主義」で、これは生産に関する知という共有財産の囲い込み行為でもある。これは一見、合理的な良いことのように見えるが、人間らしい関与を奪うガイドライン的なものへのアナロジーでもある。

5)「構想」からの分離は、医療におけるデータと専門家の言説に踊らされるだけの状況と類似しており、自らの「生命」を活かした状態ではない。そのためには、構想と実行の分離を越えて、労働(例えば医療)における自律性を取り戻すことが重要だ。

6)「資本の専制」と「労働の疎外」はいわば従来の「あちらの医学」といえるもので、労働の自立性と豊かさを取り戻す「労働の民主制」は、「こちらの医学」と表現可能で、「こちらの医学」の本質の一端を示すものである。

7)資本主義に代わるものとしてのキーワードが「アソシエート」であり、これは持続可能な形で制御することでもある。つまり、共通の目的のために自発的に結びつき、協同するということであり、この基盤の提供が他でもない「ジャングルカンファレンス」である。(リボン・アソシエーションの構想)

8)マルクスによる否定の否定による将来社会の構想は、「富」をシェアするコミュニズムであり、JC的に述べるなら、「対話による身体(観)の再構築」とでも言えようか。そして社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして自治管理していくことが重要。各人の能力に応じて、必要に応じて。そしてその必要を満たす規模を定常させることが「脱成長」である。つまりJCは、医療におけるアソシエーションの動きでもあるのである。






この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔