2021年08月17日
電子が意志を持つという説
以前にも、量子力学における山田廣成先生の「電子が意志を持つ」説を擬人化の例としてご紹介しました。そしてこの説には「擬人化」ではとどまらない大きな意味があるように感じましたので、再度メモしておきたいと思います。ちなみに擬人化というと、非科学的というレッテルが即座に貼られてしまいますが、これもあくまでも「近代知」から見た一つの見解でしかありません。我々は、伝統医学の歴史から、近代知誕生前の、万物から人間を理解するという「陰陽五行説」などの古の視点に戻る必要があるのかもしません。
山田先生のこのご著書は、副題が「電子にも意志があるとしたら貴方はどうしますか?」というのですが、まさにこれまでの視点を大きく転換させるものでもあります。私も個人的にとても関心のある「観測問題」から、電子を考えると、その実態は「粒子でもあり波動でもある」ということになります。
ここから統合医療、代替医療における「波動」の様々な領域が展開していくことになるのですが、それはある種の「無形」なものにすべてを還元するという意味で、「生きる」ということへの空白地帯を形成しかねない危うさをも有するものを生み出しているようにも感じていました。(あらゆる概念を過剰に物理的な用語へ変換しすぎているのではないか、ということ)
誤解のないようにいうと、「スピリチュアリティ」などの諸概念を否定しているわけではありません。
むしろケン・ウィルバーらの言うところの「スピリチュアリティ」は積極的に肯定するのですが、あらゆるものを波動へと還元させる風潮への懸念といったところでしょうか。こうした考え方の基底をなしているのが、この電子の波動性の問題なのです。つまり身体は電子によって形成されていますから、身体や物質の波動性といえることにもなります。
詳細は山田先生の著作を読んでいただきたいのですが、まずは電子の存在を示す基本的な(現在までわかっている)実験結果を提示して、思い込みなしで事実を判定してほしいと迫ります。(どこまでこれまでのイメージから離れられるか、個人差は大きいでしょう。この辺りは井口和基博士の論法で言うところの19世紀の物理へ帰れと言った感じでしょうか)
虚真にデータを見たとき、確かに提示されるデータからは明らかに物質だということが確認されるというのも納得です。
ではなぜ「波動」ということになるのか。それは電子が集団となった時に、干渉などの現象が現れ、それゆえに「波動性」をもつというわけです。
当然ながら、これが電子ではなく、意志を持つ人間であれば、互いに干渉しながら影響するので、統計的に処理すれば、結果として生じた現象において波動性があるものの、それは統計的なふるまいであって、実態を有する人間そのものが波動だという結論にはなりません。これは、いわゆる「渋滞」などの現象で日常的にみられることです。集団行動の予測が、物理的にシュミレーションできることからも理解できます。
それでは今度は、視点を反転させて電子が人間のように、個々が意志を持っていたらどうなるかと思考実験したのが、山田先生の理論展開となります。
すると非常に難解な、モノでもあって波でもあるという「量子の二重性」という概念を持ってこなくても、電子同士が意志をもって対話していたとしたら、結果として「波動性」を持っているように見えるというわけです。
それゆえに量子力学において基礎的な「波動方程式」は、対話方程式もしくは干渉方程式と呼ぶべきだと、山田先生は主張されます。(人であれば個人と社会をわけて考えるのは確かに当然なことです)
つまり電子が意志をもつという考えを受け入れることができれば、少なくても量子力学のもっとも理解しにくい難所を、クリアすることが出来るわけです。「教える」という立場においては、この便宜も非常に重要なことだということになります。
これを統合医療的な分野にもってくると、人間の波動性という無形化した概念の導入よりは、電子という存在が意志(われわれが実感している意思とは少し違うのでしょうが)をもつということの方が、実はすんなりと受け入れやすいのではないかと思うのです。そしてこれは「対話」という行為においてもより大きな意味を見出すことにつながります。
明治期の霊術の展開などを見ると、当時の最新科学である「放射線」の影響を強く感じられるように、代替医療領域は、その時代の最新科学の影響を強く反映します。
そう考えると現在の波動の風潮の基盤は、間違いなく現在の量子力学の解釈に依存していますから、ここの解釈を反転させることは、この医学領域の発想の転換を余儀なくさせるものでもあるわけです。
個人的な興味としては、意志や干渉においても当然「階層」があるでしょうから、それを基盤として漢方薬やレメディの作用点も階層があるはずです。
また電子の意志を仮定することが可能であれば、レメディの意志というものも可能であるかもしれません。そして単なる「対話」が、往々にして「スピリチュアリティ」との関係を深く印象付けることも、こうした考えとリンクしていることだと思います。
対話に関しても、往々にしてただ仲良く話し合えば良い、という程度に捉えられることが多いのですが、マクロにおけるコヒーレントな状態を形成するという大きな意義があるということをあらためて考えさせられました。
山田先生のこのご著書は、副題が「電子にも意志があるとしたら貴方はどうしますか?」というのですが、まさにこれまでの視点を大きく転換させるものでもあります。私も個人的にとても関心のある「観測問題」から、電子を考えると、その実態は「粒子でもあり波動でもある」ということになります。
ここから統合医療、代替医療における「波動」の様々な領域が展開していくことになるのですが、それはある種の「無形」なものにすべてを還元するという意味で、「生きる」ということへの空白地帯を形成しかねない危うさをも有するものを生み出しているようにも感じていました。(あらゆる概念を過剰に物理的な用語へ変換しすぎているのではないか、ということ)
誤解のないようにいうと、「スピリチュアリティ」などの諸概念を否定しているわけではありません。
むしろケン・ウィルバーらの言うところの「スピリチュアリティ」は積極的に肯定するのですが、あらゆるものを波動へと還元させる風潮への懸念といったところでしょうか。こうした考え方の基底をなしているのが、この電子の波動性の問題なのです。つまり身体は電子によって形成されていますから、身体や物質の波動性といえることにもなります。
詳細は山田先生の著作を読んでいただきたいのですが、まずは電子の存在を示す基本的な(現在までわかっている)実験結果を提示して、思い込みなしで事実を判定してほしいと迫ります。(どこまでこれまでのイメージから離れられるか、個人差は大きいでしょう。この辺りは井口和基博士の論法で言うところの19世紀の物理へ帰れと言った感じでしょうか)
虚真にデータを見たとき、確かに提示されるデータからは明らかに物質だということが確認されるというのも納得です。
ではなぜ「波動」ということになるのか。それは電子が集団となった時に、干渉などの現象が現れ、それゆえに「波動性」をもつというわけです。
当然ながら、これが電子ではなく、意志を持つ人間であれば、互いに干渉しながら影響するので、統計的に処理すれば、結果として生じた現象において波動性があるものの、それは統計的なふるまいであって、実態を有する人間そのものが波動だという結論にはなりません。これは、いわゆる「渋滞」などの現象で日常的にみられることです。集団行動の予測が、物理的にシュミレーションできることからも理解できます。
それでは今度は、視点を反転させて電子が人間のように、個々が意志を持っていたらどうなるかと思考実験したのが、山田先生の理論展開となります。
すると非常に難解な、モノでもあって波でもあるという「量子の二重性」という概念を持ってこなくても、電子同士が意志をもって対話していたとしたら、結果として「波動性」を持っているように見えるというわけです。
それゆえに量子力学において基礎的な「波動方程式」は、対話方程式もしくは干渉方程式と呼ぶべきだと、山田先生は主張されます。(人であれば個人と社会をわけて考えるのは確かに当然なことです)
つまり電子が意志をもつという考えを受け入れることができれば、少なくても量子力学のもっとも理解しにくい難所を、クリアすることが出来るわけです。「教える」という立場においては、この便宜も非常に重要なことだということになります。
これを統合医療的な分野にもってくると、人間の波動性という無形化した概念の導入よりは、電子という存在が意志(われわれが実感している意思とは少し違うのでしょうが)をもつということの方が、実はすんなりと受け入れやすいのではないかと思うのです。そしてこれは「対話」という行為においてもより大きな意味を見出すことにつながります。
明治期の霊術の展開などを見ると、当時の最新科学である「放射線」の影響を強く感じられるように、代替医療領域は、その時代の最新科学の影響を強く反映します。
そう考えると現在の波動の風潮の基盤は、間違いなく現在の量子力学の解釈に依存していますから、ここの解釈を反転させることは、この医学領域の発想の転換を余儀なくさせるものでもあるわけです。
個人的な興味としては、意志や干渉においても当然「階層」があるでしょうから、それを基盤として漢方薬やレメディの作用点も階層があるはずです。
また電子の意志を仮定することが可能であれば、レメディの意志というものも可能であるかもしれません。そして単なる「対話」が、往々にして「スピリチュアリティ」との関係を深く印象付けることも、こうした考えとリンクしていることだと思います。
対話に関しても、往々にしてただ仲良く話し合えば良い、という程度に捉えられることが多いのですが、マクロにおけるコヒーレントな状態を形成するという大きな意義があるということをあらためて考えさせられました。