2021年08月20日

対話・共通了解そして真理について 

 「オープンダイアローグ」や「ジャングルカフェ」といった当院が中心となって開催している取り組みは、近年の「対話」重視の流れを積極的に取り入れたものといえます。
 これらは、診療ではありませんが、10年以上前から取り組んでいるジャングルカンファレンスに連なる系譜とも言えます。

 ただ「傾聴」していることが対話のようにとらえられることも少なくないのですが(そうした面もないわけではありませんが)「対話」といった時には、少し異なった大きな意味も含まれるように思います。(この辺りが非常に難しく、ただ全員の意見をまんべんなく聞くことがJCだと思い込んでいる人がいるのも事実です…)

 これに加えて、多元主義的な統合医療を主張すると、「なんでもいいのね」とか「相対主義だね」といった感想をいただくこともあります。
 哲学の議論としてもこの辺りは結構ややこしくなるのですが、結論からいうと、対話により現実にアクセスすれば、相対主義には陥らない、といえると思うのです。(これも実のある対話がJCで本当に交わされるのであれば…)

 JCなどの対話を、実際に行わず頭だけで考えた場合、どうやって結論に至るのか明確に構造化されていない、といった批判がなされるのですが、これこそ、ガイドラインがあればすべての問題が解決される的な安直な思考といって過言ではありません。現実はもっと流動的で、急性期などを除けば絶対的な視点などは思っているほどあてになるものではありません。(なぜかこうした構造化されたモデルを強く求める先生方は多いようです。一応モデル提供するのですが、その方たちが実際にやるかというとそうではないことがほとんど。つまり自分の脳内での「安心」「安泰」をえるために不要なモデルを当方に要求しているだけのように思えます。実際に臨床をされていない先生方がほとんどのように感じています)


 価値の問題なども、相対主義的な陥穽に陥りそうに思いますが、実際のケースに基づいて考えれば、概ね一つの結論に収束することも稀ではありません。
 このあたりのことは哲学史的にも大きな問題ですが、ソクラテス、プラトンの昔から共通の了解として、認識されていたことといってよいようです。良心に基づいた対話を展開すれば、人はおのずと結論めいた「共通了解」に至るという実感があります。


 あらゆる方法論のベースに、現在は客観性のデータが最も重要視されておりますが、本当にそれだけなのでしょうか。または肩書・職位などにより大きくその方向性がゆがめられていることはないでしょうか。共通了解という一見当たり前な概念の重要性が、かつてないほどに高まっているように感じられるのです。

 「対話」というもののの再認識の中で、統合医療のみならず、医療全体が大きなパラダイム変換を行っているように感じます。「やまのあなた」にある理想の真理ではなく、使い勝手の良い、それでいて幸福を感じる数が最大数となるような結論への道筋を我々は今一度考え直す時にきているのではないでしょうか。


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