2021年08月23日

多則一、一則多の考え方 現象の隠蔽に気づくために

 以前に購入したダビンチの『解剖手稿』を、時間があったので眺めていました。保存などが現在とは比較にならない状況であった当時、血や油にまみれることなく、解剖のデッサンを残すことはかなりの作業だったことでしょう。
 そうした事情もあり、これらのデッサンは体表解剖の後、筋肉・骨格系の段階まで一気に進められていたようで(一部の皮静脈などの描写等を除いては)紙を汚さないような状況まで達してから記録していたようです。
 当然こうした状況では、ファッシアはただの邪魔ものです。特に身体の大きな動きなどを記載するには、筋肉と骨格で十分すぎる情報ですし、ファッシアを考慮したとしても、ただコンタミを増やしているような感じでしょう。

 フッサールがかつてガリレオを評して「隠蔽の天才」といったと伝えられますが、まさに近代科学の生みの親とも言えるガリレオにとっては、大きく物理現象をとらえることでニュートンに至る科学革命を成し遂げることが出来たともいえるでしょう。
 しかし、それを文字通り「真理の発見」のようにとらえるのではなく、隠蔽していることを喝破したフッサールも現象学創始者としての面目躍如たるところでしょう。
 ただここで、注意すべきは、ガリレオは生の世界から真理を掬いだしたのではなくて、何らかの情報を隠蔽することで「真理らしきもの」を記載することができたという視点です。

 この辺りの事情は、科学史において時折現れるものです。ただしギリシャ時代など古代との齟齬であればだれもがすぐに気づくのですが、現代に近づくほど「自らの問題」とも隣接してくるので、そう簡単にはいきません。
 例えば、「エーテル」の存在などは、スーパーヒーローのアインシュタインの存在とあいまって、もはやその実在を口にすることもはばかられるといった状況ではないでしょうか(アインシュタイン物語的には「絶対空間」否定のための大きな盛り上がりですし)。いくら否定的な実験結果が出たとしても、大きな物語が一度完成してしまうとその修正はほぼ困難ということなのでしょう。

 ココマデの状況ではなくても、細胞の基本構造にもこうしたお話はあります。各細胞を隔てるものはいわゆる「脂質二重膜」とされていますが、これすらも「絶対」という状況ではないようです。いくつかの実験では二重膜を仮定しては矛盾する結果もありますし、代替的なモデルも水分子を研究するMRI研究者などからも出ているようです。つまり液体を包んだ袋ではなく、その内部がマトリックスで満たされむしろあまり「水」の自由な状態ではない、というモデルが考えられているようです。
 まあ、このような例は多分他の分野でもいくつかあるように思うのですが、いずれも時の主流の中、ただの「トンデモ」扱いを受けてしまっているのでしょう。

 しかし、そうした扱いにより、明らかに、生の現実界における何らかの「現象」をとり漏らしているだろうこともまた事実。
 医学の単純化へと突き進む流れの中で、解剖においてファッシアは取り残され、それゆえに幾多の「経絡現象」もまた「ないこと」にされてきたのではないでしょうか。

 物事の理解の仕方は、主に単純化への方向性がほとんどですが、それ以外の方法、複雑化へと向かう方向も、また考慮しなければいけない時代に近づいているのではないでしょうか。
 「多」から「一」へと真理探究を進める方向だけではなく、逆に「一」から「多」へと思考を進めることで新たに気づくことも少なくないでしょう。アナトミートレインなどからファッシアを考えるとき、この「一則多」的な方法の重要性を感じます。

 これはダイアローグの思想にも連なるものがあります。とにかく「結論」がひとつへと収束しないことに対して不満を持つ方が少なくない状況において、リフレクションなどのプロセスの結果、共通了解へとつながる流れもこれと同様に感じます。「多」つまり「複雑」な状況に進行させることは、従来は求められていなったものですが、この混迷する時代状況においては多くのヒントをもたらしてくれることも少なくありません。我々は知らないうちに、勝手に物事を単純化(モデル化)して、簡単な答えに飛びつくことのなんと多いことか・・・。

 統合医療における当院の取り組みにおいて、こうした方向性は非常に重要なヒントになります。皆さんの健康な生き方をサポートするにあたり、こうした視点をより明確にしながら取り組んでいきたいと思います。
 そういったオルタナティブな方法の数々を、当院での診療を通して少しでもお伝えしていく所存です!


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