2022年04月25日

「一」から「多」への方向性、あらためて「オルタナティブ」を希求する

 ダビンチの『解剖手稿』を眺めていて感じたのですが、遺体の保存などが現在とは比較にならない状況であった当時、血や脂にまみれることなく、記録としての解剖のデッサンを残すことはかなりの作業だったと思います。

 そうした事情もあり、当時これらのデッサンは体表解剖の後、筋肉・骨格系の段階まで一気に進められていたようで(一部の皮静脈などの描写等を除いては)紙を汚さないような状況まで達してから、つまり作業的にひと段落してから記録していたようです。
 当然こうした状況では、ぞうきにまとわりつく「ファシア」はただの邪魔ものです。特に身体の大きな動きなどを記載するには、筋肉と骨格で十分すぎる情報ですし、そこにわざわざファシアを考慮したとしても、ただコンタミを増やしているような感じだったことでしょう。本質に対してのノイズといったところでしょうか。

 フッサールがかつてガリレオを評して「隠蔽の天才」といったと伝えられますが、まさに近代科学の生みの親とも言えるガリレオにとっては、大きく物理現象をとらえることで、ニュートンに至る「科学革命」を成し遂げることが出来たともいえるでしょう。真理の追求のみちのりです。
 しかし、それを文字通り「真理の発見」のようにとらえるのではなく、特定の事実を隠蔽している、ということを喝破したフッサールもまた現象学創始者としての面目躍如たるところでしょう。
 ただここで、注意すべきは、ガリレオは生の世界から(ノイズを除去して)真理を掬いだしたのではなくて、何らかの情報を隠蔽することで「真理らしきもの」を記載することができたという視点です。

 この辺りの事情は、科学史において時折現れるものです。ただしギリシャ時代など古代との齟齬であればだれもがすぐに気づくのですが、現代に近づくほど「自らの問題」とも隣接してくるので、そう簡単にはいきません。
 例えば、「エーテル」の存在などは、物理学のスーパーヒーロー、アインシュタインの存在とあいまって、もはやその実在を口にすることもはばかられるといった状況ではないでしょうか。アインシュタイン物語的には、旧来の「絶対空間」否定における「ラスボス」に位置付けられるわけですから。そして後世、いくらエーテルに対して否定的な実験結果が出たとしても、大きな物語が一度完成してしまうとその修正はほぼ困難ということなのでしょう。壮大な物語を誰も崩したくはないでしょうからね。

 ココマデの状況ではなくても、細胞の基本構造にもこうしたお話はあります。各細胞を隔てるものはいわゆる「脂質二重膜」とされていますが、これすらも「絶対」という状況ではないようです。
 いくつかの実験では二重膜を仮定しては矛盾する結果もありますし、代替的な膜モデルも水分子を研究するMRI研究者などからも出ているようです。それは、液体を包んだ袋ではなく、その内部がマトリックスで満たされむしろあまり「水」の自由な状態ではない、というモデルが考えられているようです。例えるなら海ブドウ状に、ファシア近辺を水分子が取り巻くようなイメージでしょうか。

 まあ、このような例は多分他の分野でもいくつかあるように思うのですが、いずれも時の主流の中、ただの「トンデモ」扱いを受けてしまっているのでしょう。ただ、実際は我々が考えるよりも、簡単には割り切れないことも多いわけです。例えば、飛行機が飛ぶ理由などもそうで、専門家によれば「揚力」を仮定する現在の説明モデルは実際には否定的だそうです。でも実際に飛ぶことは可能。麻酔のメカニズムも、学術的には諸説ありながらも、実際の手術は出来るというわけです。

 しかし、そうした扱いにより、明らかに、生の現実界における何らかの「現象」をとり漏らしているだろうこともまた事実。
 医学の単純化へと突き進む流れの中で、解剖においてファシアは取り残され、それゆえに幾多の「経絡現象」もまた「ないこと」にされてきたのではないでしょうか。
 物事の理解の仕方は、主に単純化への方向性がほとんどですが、それ以外の方法、複雑化へと向かう方向も、また考慮しなければいけない時代に近づいているのではないでしょうか。(時代はさらに単純化へと突っ走っているようではありますが…)

 いわゆる「多」から「一」へと真理探究を進める方向だけではなく、逆に「一」から「多」へと思考を進めることで新たに気づくことも少なくないでしょう。アナトミートレインなどからファッシアを考えるとき、この「一則多」的な方法の重要性を感じます。いわば「逆張り」的な方向性ですね。

 これはダイアローグの思想にも連なるものがあります。とにかく「結論」がひとつへと収束しないことに対して不満を持つ方が少なくない状況において、リフレクションなどのプロセスの結果、共通了解へとつながる流れがそれです。
 「多」つまり「複雑」な状況に進行させることは、従来の真理探究においては求められていなったものですが、この混迷する時代状況においては多くのヒントをもたらしてくれることも少なくありません。
 我々は知らないうちに、勝手に物事を単純化(モデル化)して、簡単な答えに飛びつくことのなんと多いことか。そしてそこから取りもれることのなんと多いことか。


 統合医療における当院の取り組みにおいて、こうした方向性は非常に重要なヒントになります。
 皆さんの健康な生き方をサポートするにあたり、こうした視点、つまり「一」から「多」へと至るプロセスをより明確にしながら取り組んでいきたいと思います。この業界では、さまざまな治療法におけるオルタナティブにばかり関心がむきますが、発想におけるオルタナティブみたいなところは、ほぼほったらかし状態といえそうです。
 デカルトにはじまる真理探究の単純化のパラダイムを超えて、大きな方向性でのオルタナティブを展開するのが、統合医療本来の役割であり、魅力であるとあらためて考えます。



 


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