2022年07月10日

あらためて「江戸城」のご紹介!

 いまさらですが、「江戸城」のご紹介です。四ツ谷三丁目のクリニック移転に伴い、あらためて再録しておきます。2丁目から3丁目の移転なので、少し江戸城からは遠くなったのですが…(笑)

 クリニックが四ツ谷にあるので、毎日、江戸城に行っているようなものですが、それでも100名城としての押印には、東京駅から行きました。そして当時、
押印することで、江戸城本丸の天守台を初めて見ました。堂々たる台座!という印象でした。

 大手門から三の丸に入り、現存する番所である同心番所、百人番所、中の門を通って、大番所と続きます。そこから本丸に上がり、大奥のあった広場を通過し、天守台へ。これまで天守が再建されることがなかった天守台(加賀前田藩)にのぼると本丸全体が見渡せ、とても気持ち良いです。

 コロナでずいぶん現在は違うでしょうが、訪問時は、かなりの外国人で、日本人の方が少ないくらいでした。たしかに自分も、その時まで、ここに来たことはなく、こんなに奥まで入れることも知りませんでした。それもこれも、城巡りをしなければ、一生来ることもなかったかもしれません。
 天守台からは汐見坂から白鳥掘を右手に見ながら、二の丸へ。二の丸庭園を通過して三の丸に戻ります。日本最大の巨大城郭、江戸城として散策してみると、感慨もひとしおです。

 江戸の城の歴史としては、太田道灌築城が有名ですが、厳密には秩父氏が居館を桜田に築いたのが初めということです。この時、秩父重継は「江戸太郎」を称したそうです。その後に、扇谷上杉氏の重臣である太田道灌が、江戸氏の居館跡に、江戸城を築城。そして秀吉の小田原平定後に、徳川家康が入城するという流れになります。

 天守としては慶長度、元和度、寛永度の三度にわたって史上最大の天守が建造されました。家康は当初、秀吉政権下においては、天守を建造しませんでしたが、これは、秀吉存命中であると大坂城を超える建造物は建てられないからといわれ、蒲生氏郷が七重天守を有する中、天守無し、という状態でした。

 これはなるほど納得で、下手に建てれば大坂城より劣ったものにしなければならず、それだと格下であることを印象付けてしまうことになります。それゆえに征夷大将軍に任ぜられた7年後に天守を完成させるのです。

 しかし、こうして建てられた天守もわずか15年しか存在せず、2代秀忠により家康没後一年で取り壊されてしまいます。これは本丸御殿拡張のためといわれますが、さてそれだけなのでしょうか?(徳川期大坂城天守に家康天守は転用されたとも伝わっていますが…)

 そしてさらに、この秀忠の天守を3代家光が14年ほど壊してしまうのです!
 これは家康天守を壊した秀忠への意趣返しといわれていますが、きっとそうなのでしょう。祖父家康を神のように崇めていたといわれますが、単純に家康の子供なのかもしれません。

 ちなみにこれは推測でもなんでもなく、家光自身が家康の子供であると言っているのですが、教科書的には、それは尊敬の念の表れだということになっています。(素直に当人の弁を信用すべきだと思うのですが)
 しかし、この天守の取り壊し戦争をみていると、やはり家康の孫ではなく、実の子供という気がしてなりません。(当然、「光」の字があるのですから、お母様は土岐の血筋ということなのでしょう)
 まあいずれにせよ、家光による寛永度の天守は現在の20階建てのビルに相当するといわれております。


 ちなみに現在の天守台には、新井白石によって4代目の天守が提案されいたようなのですが、実際に建造されることはなく、天守台のまま、今日に至っています。

 とにかく江戸城は大きい。大きさとしては一般的な城郭の100倍ほどもあるわけで、現在の千代田区全体を超える大きさです。
 四ツ谷駅ひとつとっても、地下鉄丸ノ内線が、四ツ谷で一度地上に出た感じになるのは、江戸城の堀の中に駅があるからで、こうしたことも城を知らなければ、結構知られていない事実なのではないでしょうか。

 江戸城の再建という話題が時折出ています。個人的には天守が聳えたつ首都、というものにあこがれもありますが、反対する方々の主張も分からないではありません。
 でもどちらかというと、やはり江戸城の天守、見てみたいですよね…


tougouiryo at 06:00│Comments(0)いわゆるブログ! 

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