2022年07月20日

統合の意味するもの 統合医療を原点から再考する必要性

 新しい形でクリニックをスタートしてから、来週で一か月となります。でも、まだ内装やら細かな造作が未完成なのところもあるので、日々改装中といった感じでしょうか。

 こうした中であらためて「統合医療」という概念を考える機会がありましたので、メモしておきます。それにしても、何故こう頻繁にこのブログで「統合医療」とは何か、という問を繰り返すのか。その理由は、この言葉に対しての正確な定義がないからです。確かに、学会や省庁から一応の定義は出ているものの現状での意味合いとどうしても差異が出てしまう、というか、臨床現場としてあまりしっくりと来ないものであるからです。

 あらゆる理想を盛り込もうとして「統合医療」を定義すると、その理念が大きすぎて全体像がぼやけてしまい、何を言っているのかわからない状態となってしまいます。そこに思い入れを持った各人の統合医療観が入ってくると、元が曖昧なモノだけに、今度は各人の強いキャラに引っ張られてしまうといった状況になります。
 こうした状況はつとに「統合」のみならず「ホリスティック」「包括」といった用語を、用いるときにも同様の事態となるように思います。

 こうしたことの理由の一つに、「統合する」ということの意味の取り方の相違があるように思います。
 これは以前からの議論で言うところの四つの主義で説明すると、「一」的な教条に対して、「多」的な折衷と多元があるのですが、このうち折衷はバラバラの乱雑な結果「一」的なものへと縮退していくことが予想されます。では統合はどこかというと、統一的な意味合いでは「一」、多元的な意味での統合であれば「多」となります。
 このうち一般的理解としては、統合といえば統一的な意味合いですから「一」的な印象が強いと思います。ところが、ケン・ウィルバーのいうインテグレイティブ(統合)は明らかに意味合いとしては、ここでいう「多元」的な様子を示しています。(これはクワドラントに関する説明から明確です)。英語的にはIntegrativeという語がどちらの意味合いが強いのかは、英語学の知識がないので不明ですが、どうも医療における使われ方をみると「多」的な統合のように思うのです。
 これに対して日本での「統合」は、天下統一的な意味で「一」として捉えられることが多いのではないでしょうか。

 混乱を避ける意味で、私個人としては多元的統合という使い方をしているのですが、多くの方は「一」的統合という用法ではないでしょうか。つまり「一」的な用法であるがゆえに、何か真なる統合医療というようなものがどこかにあるという「錯覚」を持つ方が多いのではないでしょうか。(山のあなたの空遠く…)

 個人的にはどのような用法で用いても、そこに自覚的であれば構わないと思うのですが、それを忘れると(もしくは考えたことがないと)正しい統合医療、間違った統合医療という、正邪の区分を設定してしまうのではないかと思うのです。
 こうなると自分は正しく、他者は偽りであるという、まさに「教条」的な判定基準に陥ってしまい、類似する思想を持つ者との争いが絶えない状況に陥ることでしょう。なかにはそうした諍いのどちらか一方に与することで、利益を得ようという流れも出てくることでしょう。そうした諍いをなくすことが目的であった統合医療という概念が、こうなると反対にこうした対立の火種そのものになってしまうわけです。(こうした対立的な二元論は「サタンを生み出す」とまでウィリアム・ブレイクは言っているようです)

 ここでいう統合の意味の取り方の違いは、グレゴリー・ベイトソンのいう「論理階型」の違いといえるかもしれません。(ちなみに加速度と速度でいうと加速度の方が論理階型が高次ということになります)こうした違いを気づかずに同次元の事象として議論することで、議論は大きく混乱します。統合医療とは何かという問題も、こうした構造(論理階型の違い)が大きく関与していそうです。
 グレゴリー・ベイトソンは『精神と自然』において、無意識的にしみ込んだ部分を含む認識論として、デカルト的二元論を挙げ、そこからの脱却を強く主張しました。いわゆるカウンターカルチャーの旗手であるベイトソンの主張ですから、その系譜に位置付けられる統合医療もこうした「論理階型」に注意深く対処していていいはずですが、約40年もの歳月の経過でも、あまり変わらないどころか大きく退歩さえしているのかもしれません。(心ある関係者は、統合医療への歴史的潮流をもう一度振り返る必要があると考えます)

 最近、統合医療について考えるとともに、アメリカにおけるカウンターカルチャーの思想群を再度、読み直しています。おそらく現在の混乱の端緒と結末、すべてがそこに示されているように思うからです。
 そしておそらく当時すでにそれへの解決策まで示されていたはずで、今日でも繰り返す当該分野の諸問題に対して、再発見されるのを待っているようにも思うのです。つまり今の時代が、まだまだ当時の先端思想に追いついていないということを再発見することになるのではないか、と思うのです。


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