2023年03月24日

動脈的視座と静脈的視座:プラグマティックな視座とは?

 プラグマティックメディスンという概念を考えるとき、一番の躓きとなると思われるのは、その考え方の方向性であろう。
 通常、事前に得られるエビデンスなどを参照した医学的決断は、これまで蓄積されたデータを、従来の解剖生理的システムにのせて思考するという方向性が取られる。つまり、事前のものへ向かう方向性である。これに対してプラグマティックメディスンは、事後の結果、結実、といった将来へ向かう方向性となる。つまり、スタート地点の方向性が真逆となる。
 現実的な問題としては、両者ともに何らかの推論をして決断する点では、当然、未来志向ともいえるのだが、そのよって立つ論拠が事前と事後でことなるというわけである。
 しかしそれでも、決断の時点(現在)においては推論していることには変わりないので、その時点での何らかの相違点(兆候)は何だろうか、という視点から考えてみたい。

 通常の推論に先立つ思考としては、事前の定理や原則・エビデンスからスタートする思考が一般的といえよう。そして、ここで言う原理やエビデンスは当然「実在」的である。論理と統計的データに基づいて推論し、臨床的な決断にいたるという王道のパターンである。哲学的な言い回しとしては、論理実証的と言えよう。
 これに対して事後の結果や結実を念頭に進行する思考もある。この方向性が「プラグマティズム」の方法論である。プラグマティックメディスンは、この方向性を用いる医療といえる。前者、後者ともに、未来へ向けてのアプローチではあるのだが、論拠となるものへの方向性が真逆となる。

 つまりこれらの考えは、不確定な現在において、実在的な原則に基づいて行動するか、結実に向かう方向性を曖昧な状況の中で緩く選択していくか、といった違いになる。
 そしてこれらは現時点において、前者は、未来に向けて原則からの推進力を得るのに対して(心臓から拍出される動脈のように)、後者は複数のものが自然に合流しながら緩徐に一つの結実に向かう(末梢から心臓へ戻る静脈のように)ともいえる。
 一つのループとしての循環器系のイメージではなく、ある細胞の視点において、駆出された液体が届くか、複数の要素が合流・統合されているか、である。ある一点において、その構成要素の位相がどのようになっているのかが、その相違点となる。
 駆出されたものが目的となる一点に向かうものを仮に「動脈的視座」とすると、身体としてみたときには、複数のベクトルが緩徐ながらも収束していくものが「静脈的視座」といえる。また身体に影響を及ぼす割合としてみると、動脈的視座よりも静脈的視座が圧倒的に多いのは言うまでもない。これは我々の日常的な感覚からしても外れていないのではなかろうか。

 こうした静脈的視座における、統合への方向性は、W.ジェイムズは「私有化」による統合と表現し、主体的な個人においては、その内部で統合への方向性を持った力が駆動されることになるものである。私有化はこうした統合への「力」を有し、主体性をもつようになる。
 そしてそれは主体性における「脈動」となり、「流れ」を形成するものとなる。この統合への脈動は、生命力の発動としても見ることができ、古来、バイタルエナジー、オルゴンエネルギー等の言葉で表現されてきた。そして、G.バタイユが総合的な実存へと回帰しようとしたものでもあるだろう。つまり個体は、私有化により一体化、統合、結合へと向かい、その方向性こそが私有化ともいえる。
 一個体において、統合は必然的であり、それゆえにそれらは内包する宇宙は多元的となる、というのがジェイムズの主張するところなのだろう。
 そしてそれらは、ここで述べた静脈的視座であり、それこそが未来へ向けたプラグマティックな姿勢そのものであろう。

 これらは視点を変えれば、能動態と中動態の対比とも見ることが可能である。動脈的視座が能動態であり、静脈的視座が中動態となる。私たちは日常的に視座というものに無神経であるが、ひとたびこれに注意することで、全く違った視野を得ることも可能である。いま、自分がどの視座にあるのか、この問いがプラグマティックな視点を医学に積極的に導入するうえで非常に重要な契機となるであろう。

 今回はプラグマティックメディスンを展開するにあたっての視座を、動脈的視座と静脈的視座との比較から記述してみた。
 現状の医学には、思った以上にプラグマティックな視点が乏しいことを痛感した。


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