2023年11月26日

医療における最適解と根拠の重要性 歴史小説を皮切りに

 前回、岡崎城のコラムで大河ドラマについてコメントしましたが、史実と歴史小説の関係も難しいですよね。基本的にはフィクションであっても、歴史的な出来事は覆せない、という最低限のルールはあるわけです。これを崩すと、そもそも歴史小説ではなくなってしまうので、どこまで変更するか、妄想を入れてよいか、のさじ加減が難しくなります。

 医療も少し似た事情があるかもしれません。いわゆる通常の医療しか念頭にない場合は「そんなことない!」と言われるかもしれませんが、いわゆる通常のケースであっても、50名以上の会社で義務づけられる産業医はこれに当てはまるでしょう。
 さまざまな検査データがあったとしても、それに対する対応はいわゆるガイドラインそのものではありません。そもそも当人が何らかの症状で困っているというわけでもない場合がほとんどです。また反対に、データが正常だとしても、メンタルの問題やハラスメントなどは、そのまま放置というわけにもいきません。
 個人という従業員と、会社との関係性を真っ先に考慮すべき立ち位置といえます。つまり双方における「最適解」を探るといってもよいでしょう。

 こうしたポジションは、統合医療においても少し似たものがあります。通常診療における、ガイドラインなどいわゆる正解を唯一の真理として見ず、自然医療、代替医療の世界観、ないしは、現代医療への疑問等も内包しながら、その人の「最適解」を求める、というわけです。両者ともに「真理」ではなく「最適解」である点が共通です。

 そしてそこには、両者の決定打となるような「根拠」も必要です。根拠というと即座に「エビデンス!」と反応されそうですが、いわゆる科学的エビデンスに限定する必要はありません。いろいろな意味での根拠です。この辺りは、今度の統合医療学会静岡大会で、京都大学の伊勢田先生が講演して下さる内容になりそうですが、決定には何らかの根拠が必要ということです。

 産業医においては、会社の収益や社会的な役割などがその根拠となっていくでしょう。これに対して統合医療においてはどうでしょうか。私はこれこそが基礎医学的知識であると思うのです。それもガチガチの医学論文で固められた基礎医学ではなく、物理、化学などの一般的な科学知識も含めて、幅広く常識までも含めるような生物学的知識、とでもいえましょうか。当然そこには、物理的な知識も入るので、電子、光子、といった量子的なものや、水分子の挙動やコラーゲン線維の特徴なども含まれます。食品学的な知識も入るでしょう。
 いわゆる「臨床的」と言われる知識より、基礎と言われるものの方がよりラディカルに、新分野を切り開けるということは、かつて糖質制限論争の真っただ中にいたころに強く感じたことでもあります。
 臨床的とされる知識は、どうしても「その時」の趨勢に影響されます。科学史において、真理のありかを探求した結果、パラダイムという理論に至ったという経過に良くあらわされていると思います。つまり時代のパラダイムが変化する中で、真理とされるものも変更を余儀なくされるということなのです。

 我々は常に何らかの「条件」のようなものから、自由であることはできないと言えるのかもしれません。それは「時」の流れのようなものに影響するでしょうし(時代による真理の変遷)、その「時」という物自体が、我々の身体での出来事、経験、体感といったものと無関係ではないのかもしれません。身体と「時」の問題はまた別の機会に譲って、本日はこの辺りで終わります。


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