2025年08月24日

縮退をめぐるポリローグ(1)

第一回:縮退という亡霊

 

【登場人物】

 

蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。

 

高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。

 

美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。

 

伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。

 

早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。

 

【対話の始まり】

 

蓮見:皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。今日ここにお集まりいただいたのは、他でもない、私がここ数年、臨床の現場で、そして思索の中で捕まえようと格闘してきた、ある種の「亡霊」について、皆さんの知見をお借りしたかったからです。私はそれを、仮に「縮退」と名付けています。本来は多様な可能性に満ちているはずの生命や思考が、なぜか一つの硬直したパターンに収斂し、豊かさを失ってしまう現象。今日は、この捉えどころのない、しかし確実に私たちの時代を覆っている「何か」について、結論を急がず、自由に言葉を交わしていただければと思います。まず、高階さん。物理学、特に複雑系の観点から、この「縮退」という言葉にはどんな響きを感じますか?

 

高階:面白いテーマですね、蓮見先生。「縮退」という言葉は、物理学でも使いますが、少し違う文脈です。量子力学で、異なる状態が同じエネルギー準位を持つことを指したりします。しかし、先生の言う「多様性が失われ、単一パターンに収斂する」という現象は、我々の分野で言うところの「相転移」や「アトラクタへの引き込み」に非常に近いイメージを抱かせますね。水が氷になるように、自由だった分子が秩序だった構造に固定される。あるいは、カオス的な軌道を描いていた点が、最終的に一つの安定点(アトラクタ)に吸い寄せられていく。生命システムは、本来「カオスの縁」と呼ばれる、秩序と無秩序の境界領域で最も創造性を発揮すると言われます。縮退とは、この最も豊かな領域から滑り落ち、硬直した「秩序」、あるいは逆に完全に崩壊した「無秩序」という、どちらかの極に固定化されてしまうプロセスなのかもしれません。マクロな視点で見れば、エネルギー効率の良い安定状態への移行、とも言える。しかし、生命にとっては、その「安定」が「死」を意味することもある。非常に逆説的です。

 

美園:高階さんのお話、とても興味深いです。「アトラクタへの引き込み」という言葉が、私の心に強く響きました。臨床心理の現場では、まさにその「引き込み」と日々向き合っているように感じます。クライエントさんが語る物語が、何度も何度も同じ結末、同じ自己評価にたどり着いてしまう。「私は結局、誰からも愛されない人間なんです」「どうせ何をやっても無駄なんです」というように。これは、その方の人生の物語が、強力な「ネガティブ・アトラクタ」に捕まってしまっている状態と言えるかもしれません。蓮見先生の言う「自己イメージの縮退」ですね。面白いのは、その物語が本人にとって苦痛であるにもかかわらず、同時にある種の「安全」や「馴染み深さ」を提供していることです。未知の、新しい物語を生きることは、恐ろしい。だから、苦しくても慣れ親しんだ古い物語に留まってしまう。縮退とは、もしかしたら、成長の痛みを避けるための、魂の防衛機制なのかもしれません。

 

伊吹:なるほど。物語、ですか。私のアプローチは少し違って、身体から考えたい。美園さんの言う「馴染み深さ」は、身体レベルで言う「癖」や「構え」に相当するように思います。例えば、私たちはストレスを感じると、無意識に肩が上がり、呼吸が浅くなる。この反応が繰り返されるうちに、それがデフォルトの「構え」になる。もはやストレスがあろうがなかろうが、常に肩が緊張し、呼吸が浅い状態。これは、身体の反応パターンが「縮退」した状態です。本来、身体は驚くほど多様な動きや反応のレパートリーを持っています。しかし、現代の生活、特にデスクワーク中心の生活は、その多様性を奪い、ごく限られた動きのパターンに私たちを押し込める。その結果、使われない筋肉は衰え、神経回路は錆びつき、身体全体の連動性が失われる。思考が身体を作るのか、身体が思考を作るのか…おそらく両方でしょうが、この「身体の縮退」は、精神の縮退と分かちがたく結びついている。縮退した身体からは、縮退した発想しか生まれてこない。そんな気がします。

 

早乙女:皆さんのお話、どれも示唆に富んでいますが、私はもう少し引いた視点から、社会構造の問題として考えたいですね。個人の物語や身体が縮退する背景には、それを促す社会的な圧力、あるいは「制度の縮退」があるのではないでしょうか。例えば、教育システム。偏差値という単一の評価軸で子どもたちを序列化し、「良い大学、良い会社」という一本道の成功モデルを提示する。これは、人生の可能性を著しく縮退させる巨大な装置です。あるいは、現代の資本主義。効率性、生産性、利潤の最大化という、これまた単一の価値観が、私たちの労働や生活の隅々にまで浸透している。その結果、私たちは「役に立つかどうか」というモノサシでしか物事を考えられなくなり、芸術や哲学、あるいはただ「ぼーっとする」といった、非生産的な活動の価値を見失ってしまう。個人の縮退は、個人の弱さというより、むしろ、このような縮退した社会システムに過剰適応した結果、と見るべきではないでしょうか。私たちは、縮退を促すシステムの中で、縮退することでしか生き延びられないのかもしれない。

 

蓮見:ありがとうございます。物理的なシステム、個人の物語、身体の癖、そして社会制度。わずかな時間で、「縮退」という亡霊が、様々なレイヤーにその姿を現し始めましたね。高階さんの言う「安定への移行」、美園さんの言う「成長の痛みを避ける防衛機制」、伊吹さんの言う「身体の癖」、そして早乙女さんの言う「社会への過剰適応」。これらは、一見すると異なる説明ですが、どこかで深く繋がっているように感じます。縮退は、一概に「悪」と断罪できるものではないのかもしれない。それは、ある種の「適応」であり、「生存戦略」でもある。しかし、その戦略が、長期的には自らの首を絞め、生命の持つ本来の躍動感、つまり「生きている」という実感そのものを奪っていく…。このジレンマこそが、私たちが今日、探求すべき核心なのかもしれません。さて、ここからどう話を進めましょうか。早乙女さんの提起した「社会構造」の問題は非常に大きいですが、同時に美園さんや伊吹さんの提起した「個人の内側」の問題も無視できない。このマクロとミクロの往復運動の中に、何かが見えてくるような気がします。



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