2025年08月25日
縮退をめぐるポリローグ(2)
第二回:心地よい牢獄、あるいは「最適化」の罠
蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。
高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。
美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。
伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。
早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。
【対話の深化】
蓮見:第一回では、「縮退」という現象が、物理、心理、身体、社会という様々なレイヤーに共通して見られること、そしてそれが単なる「悪」ではなく、ある種の「安定」や「適応」という側面を持つことが浮かび上がってきました。美園さんの言葉を借りれば「成長の痛みを避けるための防衛機制」、早乙女さんの言葉では「社会への過剰適応」。このあたりをもう少し掘り下げてみたいと思います。なぜ私たちは、長期的には自らを蝕むと分かっていながら、その「心地よい牢獄」に留まってしまうのでしょうか。伊吹さん、身体感覚の専門家として、この「心地よさ」についてどうお考えになりますか?
伊吹:いい問いですね、蓮見先生。「心地よい牢獄」という表現、まさにその通りだと思います。身体レベルで言えば、それは「慣れ親しんだ不快」とでも言うべき状態です。例えば、慢性的な肩こり。その人にとっては、肩が凝ってガチガチになっているのが「普通」の状態。たまにマッサージなどで緩めてもらうと、かえって「自分の身体じゃないみたいで気持ち悪い」と感じることさえある。これは、脳が長年の身体の歪みや緊張を「正常」と認識し、恒常性(ホメオスタシス)をその不健康な状態で維持しようとするからです。つまり、身体が「縮退した状態」を自ら防衛している。この防衛システムを突破するには、かなりのエネルギーと意識的な努力が必要です。そして、もっと厄介なのは、縮退した身体は、外部からの新しい情報や刺激をシャットアウトする傾向があることです。硬直した身体は、新しい動きを学ぼうとしない。感覚が鈍磨し、自分の身体が発する微細なサインを聴き取れなくなる。これは、ある意味で「楽」なんです。余計な情報に惑わされず、決まりきったパターンを繰り返していればいいのですから。しかし、その楽さの代償として、身体は生命の持つ瑞々しい応答能力を失っていく。
高階:伊吹さんの言う「慣れ親しんだ不快」は、物理学的なアナロジーで言えば、「局所最適解(ローカル・ミニマム)」にトラップされている状態と酷似していますね。システムがエネルギー的に安定な谷間に落ち込んでしまうと、そこから抜け出して、よりエネルギーの低い、本当の「大域的最適解(グローバル・ミニマム)」にたどり着くには、一度、エネルギー的な「山」を越えなければならない。この山を越えるためのエネルギーが、伊吹さんの言う「かなりのエネルギーと意識的な努力」に相当するのでしょう。生命システムは、常にこの局所最適解の罠と隣り合わせです。進化の過程で獲得した生存戦略も、環境が変化すれば、それは不適合な局所最適解になり得る。縮退とは、この「局所最適解からの脱出失敗」と定義できるかもしれません。そして、現代社会、特にテクノロジーは、この局所最適解の「谷」を、どんどん深く、そして「心地よく」しているように思えてなりません。
早乙女:高階さんの「テクノロジーが谷を心地よくしている」という指摘、非常に重要です。私はそれを「最適化の罠」と呼びたい。現代のデジタル・テクノロジー、特にアルゴリズムは、私たちの行動を予測し、私たちにとって「最適」と思われる情報を絶えず提供してくれます。ネット通販は私の好みを完璧に把握し、ニュースアプリは私の見たい記事だけを並べ、SNSは私と似た意見を持つ人々を繋げてくれる。一見、これは非常に便利で快適な世界です。しかし、その裏で何が起きているか。私たちの思考や興味が、アルゴリズムによって作られた「フィルターバブル」という心地よい牢獄の中に、知らず知らずのうちに閉じ込められている。自分と異なる意見や、予期せぬ情報との出会いが徹底的に排除される。これは、蓮見先生の言う「情報収集の縮退」を、社会システムレベルで加速させる巨大なメカニズムです。私たちは、自らの手で検索し、探求するという能動的な行為から解放され、ただ受動的に「最適化」された情報を受け取るだけの存在になっていく。この「楽さ」は、私たちの知的好奇心や批判的精神を、根底から麻痺させる劇薬ではないでしょうか。
美園:早乙女さんのお話を聞いて、ゾッとしました。「最適化」という言葉が、いかに危険な響きを持つか…。心理療法の世界では、むしろ「非効率」や「無駄」「寄り道」といったものの中にこそ、治癒の鍵が隠されていることが多いからです。クライエントさんが、論理的整合性を欠いた夢の話をしたり、本題と関係ないように見える子供時代の思い出をぽつりと語ったりする。そうした「ノイズ」にこそ、その方の無意識からの重要なメッセージが込められている。もし、セラピーを「最適化」しようとして、そうしたノイズを排除し、最短距離で「問題解決」に向かおうとしたら、最も大切なものを取りこぼしてしまうでしょう。縮退からの脱却とは、この「最適化」の流れに抗い、あえて非効率な回り道をすること、自分にとって「心地よくない」情報や感情に触れる勇気を持つことなのかもしれません。しかし、早乙負さんの指摘通り、社会全体が「最適化」を礼賛し、私たちをその牢獄に誘い込もうとしている。その中で個人が抗うのは、並大抵のことではありません。それは、まるで流れに逆らって泳ぐような、孤独な営みになりがちです。
蓮見:皆さん、ありがとうございます。話がぐっと深まりましたね。「慣れ親しんだ不快」「局所最適解」「最適化の罠」。これらは全て、縮退の持つ「心地よさ」と「危険性」という二面性を見事に言い当てています。伊吹さんの身体論から始まり、高階さんの物理学、そして早乙女さんの社会システム論へと、ミクロとマクロが見事に繋がりました。そして美園さんが、その流れに抗うための「非効率の価値」を提示してくださった。どうやら私たちは、近代が信奉してきた「効率性」や「合理性」そのものが、縮退の温床になっている可能性に気づき始めたようです。しかし、だとしたら、私たちはどうすればいいのか。効率性を完全に否定して生きることは、現代社会では不可能です。この「最適化」の甘い誘惑と、どう距離を取ればいいのか。流れに逆らって泳ぐ孤独な営み、という美園さんの言葉が重く響きます。この孤独な営みを、どうすればもう少し、希望の持てるものにできるのか。あるいは、この営み自体に、私たちがまだ気づいていない価値や意味が隠されているのでしょうか。このあたりを、次回、さらに探ってみたいと思います。