2025年08月26日

縮退をめぐるポリローグ(3)

第三回:影との対話――縮退の創造的側面


 
【登場人物】

 

蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。

 

高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。

 

美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。

 

伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。

 

早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。

【反転する視座】

 

蓮見:第二回では、「心地よい牢獄」としての縮退、そして「最適化の罠」という、現代社会が構造的に抱える問題が浮き彫りになりました。そして最後に、この流れに抗う営みは、どこか孤独で困難なものとして終わりました。今日は、この少し重くなった空気を、一度、反転させてみたいと思います。私たちはこれまで、縮退をどちらかと言えばネガティブな、乗り越えるべき対象として語ってきました。しかし、本当にそうなのでしょうか。あらゆる物事に光と影があるように、この「縮退」という現象そのものの中にも、私たちがまだ見出していない、創造的な、あるいは必要不可欠な側面が隠されているのではないでしょうか。美園さん、心理学、特にユングの視点から見ると、「影(シャドウ)」との統合が自己実現の鍵とされます。この「縮退」を、私たちの「影」として捉え直すことは可能でしょうか。

 

美園:蓮見先生、まさに私が申し上げたかったことです。ありがとうございます。ユング心理学では、影とは私たちが意識的に抑圧し、認めたくない自分自身の側面を指します。それはしばしば、醜く、攻撃的で、社会的に受け入れがたい性質を持っています。しかし、影は同時に、生命力、創造性、本能といった、生きる上で不可欠なエネルギーの源泉でもある。影を無視し続けると、私たちは活力を失い、生きた屍のようになってしまう。影と向き合い、対話し、そのエネルギーを意識的に統合して初めて、私たちは真に「全体的な人間(ホールネス)」になることができる。

 

この視点から「縮退」を眺めると、全く違う景色が見えてきます。縮退とは、もしかしたら、ある特定の生き方や価値観に「特化」するために、他の可能性を意図的に、あるいは無意識的に「影」へと追いやるプロセスなのかもしれません。例えば、社会的に成功するために、自分の内なる芸術家的な側面や、傷つきやすい感情を抑圧する。これは、ある意味で「生き方の縮退」です。しかし、この縮退、この「影作り」のプロセスがなければ、その人はその分野で卓越した成果を上げることはできなかったかもしれない。つまり、縮退は、ある種の「焦点化」であり、何かを成し遂げるための、必要悪とも言えるエネルギーの集中なのではないでしょうか。問題は、影に追いやったものを永遠に忘れ去り、自分は光の部分だけでできていると錯覚してしまうこと。そして、その影が、やがて病や心の危機という形で、私たちに「私を忘れるな」と復讐してくることです。

 

高階:美園さんの「焦点化」という言葉、これは物理の世界にも通じます。例えば、レーザー光線。普通の光はあらゆる方向に拡散していますが、レーザーは光の位相を揃え、特定の方向にエネルギーを集中させることで、驚異的なパワーを発揮します。これは、光の持つ多様な可能性を、一つの状態に「縮退」させた結果と言えます。あるいは、超伝導。極低温で、電子が無秩序な動きをやめ、ペアを組んで一斉に同じように動く(縮退する)ことで、電気抵抗がゼロになる。縮退は、たしかに多様性を失わせますが、その代償として、特定の機能においては圧倒的なパフォーマンスを発揮する。

 

生命も同じかもしれません。細胞が分化していくプロセスは、まさに「縮退」です。あらゆる細胞になれる可能性を持った幹細胞が、神経細胞、筋細胞、皮膚細胞といった特定の役割に「縮退」していく。この機能の縮退がなければ、私たちのような複雑な多細胞生物は存在できません。だとすれば、縮退は病理であると同時に、生命が秩序と機能を創り出すための、根源的な原理でもある。蓮見先生の統合医療の文脈で言えば、問題なのは縮退そのものではなく、「縮退の不可逆性」あるいは「縮退からの回復能力の喪失」と表現すべきなのかもしれません。健康とは、必要に応じて縮退し(集中し)、また必要に応じてその縮退を解き、多様な状態に戻れる(リラックスする)、そのダイナミックな往復運動の能力を指すのではないでしょうか。

 

伊吹:なるほど!高階さんの「往復運動」という視点は、私の身体感覚と完全に一致します。アスリートの世界では、まさにその連続です。試合に臨むとき、意識も身体も、極限まで「縮退」させます。感覚を研ぎ澄まし、余計な思考を排し、ただ一点に集中する。これは、パフォーマンスを発揮するために不可欠なプロセスです。しかし、一流の選手ほど、その後の「脱力」がうまい。縮退した状態から、意識的に自分を解放し、緩めることができる。逆に、二流の選手は、試合の緊張を引きずったまま、身体を硬直させ続けてしまう。

 

これは、武術で言うところの「居着き」と同じです。一つの構え、一つの考えに固執し、変化に対応できなくなること。最強の構えとは、特定の形を持つことではなく、あらゆる変化に対応できる「構えのない構え」、つまり、縮退していないニュートラルな状態にあることです。しかし、そのニュートラルな状態から、一瞬で最適な形へと「縮退」できなければ、戦いにはなりません。つまり、重要なのは「縮退していないこと」ではなく、「自在に縮退し、自在に脱縮退できること」。この能力こそが、身体的な知性、しなやかさの本質です。縮退は、それ自体が敵なのではなく、コントロールすべきパートナー、あるいは使いこなすべき道具と考えるべきなのかもしれません。

 

早乙女:皆さんの議論を聞いていて、一つの大きな問いが浮かび上がりました。この「自在に縮退し、脱縮退する能力」、これは一体、誰に許されているのでしょうか。伊吹さんの言う一流アスリートや、あるいは経済的に余裕があり、自己投資に時間をかけられる一部の知識層にとっては、それは実現可能な目標かもしれません。しかし、日々の生活に追われ、非正規雇用で働き、明日の生活さえおぼつかない人々にとって、「非効率な回り道」や「創造的な脱力」は、あまりにも贅沢な理想論に聞こえないでしょうか。

 

社会システムは、人々に「縮退」を強いるだけでなく、その縮退から「脱出する機会」をも不平等に分配しています。例えば、自然豊かな環境にアクセスできるか、良質な教育やカウンセリングを受けられるか、創造的な趣味を持つ時間的・経済的余裕があるか。これらは全て、個人の努力だけではどうにもならない、社会経済的な格差と密接に結びついています。私たちがこの「縮退」という問題を論じる時、この社会構造的な視点を忘れてはならない。さもなければ、この対話は、一種の「自己啓発セミナー」に陥り、縮退から抜け出せない人々を「努力不足」だと断罪する、残酷な言説になりかねません。この「縮退をめぐるポリローグ」が、本当に意味を持つためには、専門家である私たちだけでなく、まさに今、縮退の牢獄の中で苦しんでいる一般の方々、患者さんたちにとって、どのような意味を持ちうるのか。その問いから目を背けてはならないと思うのです。

 

蓮見:早乙女さん、ありがとうございます。本当に、本当に重要なご指摘です。私たちの対話が、特権的な知的遊戯に終わってはならない。その自覚を常に持たなければなりませんね。そして、そのご指摘は、私自身が臨床家として日々感じているジレンマそのものです。患者さんに「もっとリラックスして」「多様な生き方を」と語るのは簡単です。しかし、その方の置かれた現実が、それを許さない場合がなんと多いことか。

 

だからこそ、私はこの対話が重要だと信じたいのです。まず、専門家である私たちが、自らの専門分野の「縮退」から自由になること。医師は身体だけでなく心や社会を、心理士は個人だけでなく身体や制度を、といった具合に、互いの視点を取り入れ、より多元的なレンズで患者さんを見られるようになること。それが第一歩です。

 

そして、この対話のプロセスそのものを、患者さんや一般の方々と共有すること。それは、「これが答えです」と提示するためではありません。むしろ逆です。「私たち専門家にも、簡単な答えは分からないのです。だから、一緒に考えませんか?」と、不確かさの中に、謙虚に、そして誠実に、ご本人を招き入れるためです。縮退からの脱却は、誰かから与えられるものではなく、ご本人が自らの人生の文脈の中で、自らの手で見つけ出していく創造的なプロセスです。そのプロセスは孤独かもしれませんが、もし、私たちが「答えはないけれど、一緒に悩み、考える仲間はここにいる」という場を提供できるなら、それ自体が、希望の光になるのではないか。縮退論とは、専門家が一般の人を啓蒙するための理論ではなく、専門家と一般の人々が、同じ地平で対話するための「共通言語」になりうる。私は、そこに大きな可能性を感じているのです。

 



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