2025年08月27日
縮退をめぐるポリローグ(4)
第四回:システムの亀裂、身体の叡智
蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。
高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。
美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。
伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。
早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。
【抵抗と創造の萌芽】
蓮見:第三回では、縮退が「焦点化」や「分化」といった創造的な側面を持つこと、そして真の健康とは「自在に縮退し、脱縮退できる」ダイナミックな能力である可能性が示唆されました。しかし同時に、早乙女さんから、その能力自体が社会経済的に不平等に分配されているという、極めて重要な問いが投げかけられました。私たちの対話が、特権的な者の自己満足に終わらないために、そしてこの思考が、今まさに縮退の苦しみの中にいる人々にとっての「共通言語」となりうるために、私たちは何を語るべきか。今日は、この重い問いから始めたいと思います。早乙女さん、もう少し詳しく、その「構造的な壁」についてお話しいただけますか。
早乙女:ありがとうございます、蓮見先生。私が言いたいのは、近代社会のOSそのものが、私たちを縮退へと駆り立て、そこからの脱出を阻んでいるということです。例えば「時間」。私たちは、時計によって細分化され、生産性によって価値付けられる「均質な時間」の中に生きています。このシステムの中では、伊吹さんの言う「脱力」や、美園さんの言う「無駄な寄り道」は、文字通り「時間を無駄にすること」と見なされる。あるいは「空間」。都市計画は、効率的な移動と消費を目的として設計され、私たちの生活は職場と家庭という点の往復に固定化されがちです。自然に触れ、身体を解放できるような「余白のある空間」は、都市からどんどん駆逐されている。
こうした時間と空間の制度的編成の中で、「縮退しない生き方をしろ」というのは、あまりに酷な要求です。それは、設計上、右にしか曲がれないようになっているサーキットで、「自由に左にも曲がってみろ」と言っているようなもの。個人の意識改革や努力を語る前に、まずこのサーキットの設計図そのものを批判的に検討する必要がある。そうでなければ、私たちは、システムが生み出した問題を、個人の心理的な弱さにすり替えてしまうという、暴力的な行為に加担することになります。そして、その結果、「脱縮退」は、一部の富裕層が購入できる高級なライフスタイル商品、ウェルネス産業の新たな市場へと回収されてしまう。私はそれを最も危惧します。
伊吹:早乙女さんのご意見、胸に突き刺さります。私自身、アスリート時代はまさにその「縮退を強いるシステム」の最前線にいましたから。タイム、記録、勝敗。あらゆるものが数値化され、身体は目標達成のための道具として最適化を強いられる。その中で、多くの選手が心身を壊していくのを目の当たりにしてきました。しかし、同時に、その極限状況の中から、別の可能性が生まれてくるのも感じていました。それは、「身体の反乱」とでも言うべきものです。
システムが「もっと速く、もっと強く」と要求し、意識がそれに応えようとしても、身体が「ノー」と言うんです。怪我、オーバートレーニング症候群、あるいはイップスのように、身体が意識のコントロールを離れて、勝手に震えだす。これらは、医学的には「故障」や「異常」と診断されます。しかし、身体哲学の視点から見れば、これは縮退したシステムに対する、身体からの最も根源的な抵抗であり、叡智の発露と捉えることもできるのではないでしょうか。身体は、言葉を持たない代わりに、症状や痛みを通して「この生き方は間違っている」「このシステムは限界だ」と叫んでいる。それは、縮退した牢獄に穿たれた、最初の「亀裂」なんです。
私が今、研究や指導でやろうとしているのは、この「亀裂」を、単なるネガティブな故障として塞いでしまうのではなく、そこから新しい生き方の可能性を読み解く手伝いをすることです。なぜ、身体はこのタイミングで悲鳴を上げたのか?この痛みは、何を教えてくれようとしているのか?身体の声を聴き、それと対話する。そうすることで、選手は、システムから押し付けられた目標ではなく、自分自身の内側から湧き上がる、本当に望む生き方や動き方を発見していくことがあります。早乙女さんの言うように、社会構造の壁はたしかに厚い。しかし、私たちの身体は、その分厚い壁の内側から、常にノックし続けている。その小さな音を聴き逃さないこと。そこに、どんな状況に置かれた人にも開かれた、抵抗と創造の萌芽があるのではないか。私はそう信じたい。
美園:伊吹さんのお話、感動しました。「身体の反乱」が「叡智の発露」であり、「システムの亀裂」である…。これは、心理療法における「症状の逆説的機能」と全く同じ構造です。うつ病による無気力は、過剰な活動を強いられてきた人生に対する、魂のストライキかもしれません。パニック発作は、これまで抑圧してきた「助けて」という叫びが、身体を通して噴出したものかもしれない。症状は、私たちを苦しめますが、同時に、これまで生きてきた「縮退した物語」を破壊し、新しい物語を紡ぐことを強いる、創造的な破壊者でもあるのです。
重要なのは、伊吹さんの言うように、その亀裂をどう扱うかです。従来の医療や社会は、多くの場合、その亀裂を薬や精神論で「塞ぐ」こと、つまり、個人を再び元の縮退したシステムに適応させようとします。しかし、それでは根本的な解決にはなりません。私たちがすべきは、その亀裂を安全な場所で、好奇心をもって、そっと覗き込むこと。その亀裂の向こうに、どんな景色が広がっているのか。どんな声が聞こえてくるのか。クライエントさんと一緒に、恐る恐る探求していく。このプロセスは、まさに早乙女さんの言う「サーキット」の設計図を、個人の内面から書き換えていく試みです。もちろん、社会全体のサーキットを変える力は個人にはないかもしれません。でも、少なくとも、自分の心のサーキットの中で、新しい道を切り開くことはできる。その小さな内的変革が、やがては外部への働きかけに繋がっていく可能性だってあるはずです。
高階:非常に面白い展開になってきましたね。伊吹さんの「身体の反乱」や美園さんの「症状の創造的破壊」。これは、複雑系の言葉で言えば「自己組織化臨界」と呼ばれる現象に近いかもしれません。システムが不安定性を増し、カオス的な振る舞いを見せる状態。それは、一見すると崩壊寸前の危険な状態ですが、同時に、システムがそれまでの構造を脱ぎ捨て、より高次で複雑な新しい構造へとジャンプアップするための、唯一のチャンスでもあります。病や危機は、まさにこの「臨界点」なのではないか。
そして、伊吹さんの言う「身体の叡智」というのも、科学的に説明できる可能性があります。私たちの脳、特に意識的な思考を司る大脳新皮質は、実は非常に情報処理能力が低い。それに対して、生命維持や情動を司る脳幹や大脳辺縁系、そして全身の神経系(腸管神経などを含む)は、私たちが意識できないレベルで、膨大な量の内外の情報を並列処理しています。身体が発する「なんとなく嫌な感じ」とか「こっちの方がしっくりくる」といった直観は、この無意識の巨大なコンピュータが弾き出した、極めて高度な計算結果なのかもしれない。私たちが「縮退」に陥るのは、この身体の巨大な叡智を無視して、頭(意識)だけで物事をコントロールしようとする、傲慢さの表れとも言えます。症状とは、この傲慢さに対する、身体からの最後通牒なのかもしれませんね。
蓮見:自己組織化臨界、そして身体からの最後通牒…。言葉は違えど、皆さんの話が、ある一つの方向を指し示しているように感じます。それは、「縮退」の極致にこそ、「脱縮退」への扉が隠されている、という逆説的な希望です。システムが限界を迎え、悲鳴を上げ、亀裂が入る。その瞬間を、私たちはこれまで「失敗」や「敗北」と捉えてきました。しかし、そうではないのかもしれない。それは、生命が、自らの内に秘めた創造力を発揮し、より高次の秩序へと生まれ変わろうとする、最もダイナミックな瞬間なのではないか。だとすれば、私たちの役割は、その「危機の瞬間」を恐れて回避することではなく、むしろそれを安全に通過できるよう、伴走することにある。患者さん自身が、自らの身体の叡智と繋がり、その亀裂の中から、自分だけの新しい道を創造していくプロセスを、信頼して見守ること。…しかし、言うは易し、行うは難し、ですね。この「伴走」は、具体的にどのようなものであるべきか。そこにこそ、私たちの倫理と技法が問われる気がします。