2025年08月28日
縮退をめぐるポリローグ(5)
第五回:深層医学とプラグマティズムの交差点
蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。
高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。
美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。
伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。
早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。
【治癒の道具箱をひらく】
蓮見:第四回は、まさにスリリングな展開でした。「縮退の極致にこそ、脱縮退への扉がある」という逆説的な希望。そして、病や危機を、生命がより高次の秩序へと生まれ変わろうとする「自己組織化臨界」の瞬間として捉え直す視点。これは、私たち臨床家にとって、日々の実践を根底から問い直すような、力強い光を与えてくれるように思います。しかし、同時に私は最後に「この『伴走』は具体的にどうあるべきか」という、極めて実践的な問いを投げかけました。今日は、この問いを深めるために、美園さんと私の専門領域である、心理と医療の現場に焦点を当ててみたいと思います。美園さん、症状という「亀裂」を前にした時、私たちは具体的に、どのようにクライエントさんと向き合うのでしょうか。そこには、どんな哲学が必要とされるのでしょう。
美園:ありがとうございます、蓮見先生。それは、セラピストが常に自問自答し続ける、最も重い問いです。私が拠り所としているものの一つに、思想家ウィリアム・ジェームズに始まるプラグマティズムの哲学があります。プラグマティズムは、真理を、固定された絶対的なものとしてではなく、「それが私たちの生にとって、具体的にどのような効果(帰結)をもたらすか」という観点から考えます。ある信念や物語が「真実」かどうかを問うのではなく、その信念を生きることが、その人をより力づけ、より豊かにし、より多くの可能性を開くかどうかを問うのです。
この視点は、症状を扱う上で、私たちを大きな自由へと解き放ってくれます。例えば、クライエントさんが「自分は前世で犯した罪のせいで苦しんでいる」という物語を語ったとします。科学的・医学的な視点から見れば、それは「妄想」あるいは「非合理的信念」として退けられるでしょう。しかし、プラグマティズムの立場に立てば、問うべきは、その物語の真偽ではありません。問うべきは、「その物語を信じることが、今、この人にとってどんな意味を持っているのか?」「その物語は、その人の生を停滞させているのか、それとも、実は前に進むための何かを与えているのか?」ということです。もしかしたら、その物語は、本人にも理解できない罪悪感に意味と形を与え、向き合うことを可能にするための、魂が必死で紡ぎ出した「仮説(ワーキング・ハイポセシス)」なのかもしれない。
私たちの仕事は、その物語を否定することではなく、まずその物語の世界に敬意をもって足を踏み入れることです。そして、クライエントさんと一緒に、その物語を少しだけ違う角度から眺めてみる。「もし、その罪を償う方法があるとしたら、それはどんなことでしょう?」「その経験から、あなたが学んだことは何ですか?」と。そうやって対話を進めるうちに、物語は少しずつ変容し、より柔軟で、より多くの可能性を含む、新しい物語へと書き換えられていくことがあります。重要なのは、「正しい答え」を外から与えるのではなく、その人自身の内側から、より「役に立つ真理」が生まれてくるプロセスを、信頼して待つこと。これが、プラグマティックな伴走の神髄だと考えています。
蓮見:プラグマティズム…。「それが私たちの生にとって、どう役に立つか」。これは、私が統合医療を実践する上での、まさに指針そのものです。西洋医学、栄養療法、漢方、心理療法。私は、これらのアプローチのどれが絶対的に優れているかを議論することには、あまり興味がありません。そうではなく、目の前の患者さんという、唯一無二の存在にとって、今、この瞬間に、どの「道具」が、あるいはどの道具の組み合わせが、最もその方の生命力を引き出し、苦しみを和らげ、より豊かな生へと繋がるのか。それだけを考えています。
これは、私が密かに「深層医学(Depth Medicine)」と呼んでいるアプローチとも繋がります。これは、美園さんの言うユング心理学における「深層心理学(Depth Psychology)」のアナロジーです。深層心理学が、意識の背後にある広大な無意識の領域を探求するように、深層医学は、目に見える症状や検査データの背後にある、生命の多次元的な深層を探求しようとします。そこには、個人の生活史、家族の物語、抑圧された感情、満たされていない実存的な願い、そして伊吹さんの言う「身体の叡智」や、高階さんの言う「自己組織化臨界」のダイナミズムが渦巻いている。
従来の医学が、症状という「表層」に薬というパッチを貼る対症療法に偏りがちだったのに対し、深層医学は、なぜその症状が「今、ここ」に現れる必要があったのか、その症状の持つ「意味」や「目的」を問います。それは、プラグマティズムの問いと同じです。この症状は、この人の人生の物語の中で、どんな「役割」を果たそうとしているのか?と。例えば、ある方の自己免疫疾患は、過剰な自己犠牲と他者への奉仕という「縮退した生き方」に対する、免疫系(自己と非自己を区別するシステム)からの根源的な問いかけ、「あなたは、あなた自身を大切にしていますか?」というメッセージかもしれません。
そう考えると、治療とは、症状を消し去ることだけが目的ではなくなります。むしろ、症状という「声」を、患者さんと一緒に聴き、その声が指し示す、生き方の変容へと繋げていくプロセスそのものが治療となる。栄養指導も、ハーブの処方も、カウンセリングも、すべてはその大きなプロセスをサポートするための「道具」に過ぎません。どの道具を使うかは、その都度、患者さんの身体と心の反応という、プラグマティックなフィードバックに耳を澄ませながら、試行錯誤していく。そこには、絶対的なプロトコルは存在しません。あるのはただ、一回性の出会いと、共同の探求だけです。
伊吹:蓮見先生の「深層医学」、そして美園さんのプラグマティズム。どちらも、結局は「答えは外にはなく、内にある」という地点に行き着くのですね。そして、その「内なる答え」は、固定されたものではなく、対話や実践を通して、常に生成・変化していくものだと。これは、身体知の世界とも深く共鳴します。例えば、達人の動きは、マニュアル化して教えることはできません。弟子は、師の動きを模倣し、試行錯誤し、師との対話(手合わせ)を通して、自分自身の身体の中に、自分だけの「答え」を見つけ出していくしかない。そのプロセスは、非効率で、言語化できない「暗黙知」に満ちています。
しかし、現代社会は、この「暗黙知」や「生成的なプロセス」を待つことができない。すぐに言語化できる「形式知」を求め、マニュアル化し、効率化しようとする。蓮見先生の言う「深層医学」が普及するには、この社会全体の「待てなさ」という病理と、どう向き合うかが大きな課題になりそうですね。
早乙女:まさに、伊吹さんのご指摘通りです。プラグマティズムも、深層医学も、その理念は非常に美しい。しかし、それが現実の医療システムの中でどう機能しうるのか。現在の診療報酬制度は、短時間で診断を下し、標準化された治療を行うことを前提に設計されています。蓮見先生や美園さんのような、時間をかけた丁寧な対話や、試行錯誤のプロセスは、経済的に評価されにくい。むしろ、「非効率」として切り捨てられかねない。
また、患者さん側にも、このアプローチを受け入れる準備が必要かもしれません。私たちは長年、「医者が答えを知っている」「薬が治してくれる」という、受け身の医療モデルに慣らされてきました。そこに、「答えはあなたの中にあります。一緒に探しましょう」と言われても、戸惑い、「責任を放棄された」と感じる人もいるでしょう。この「深層医学」の哲学を社会に根付かせるためには、医療制度の改革というマクロなアプローチと同時に、患者さん自身の意識、つまり「健康観」そのものを、時間をかけて変えていくという、地道な文化的な活動が必要不可欠です。この対話も、その小さな一歩なのかもしれませんが。
蓮見:ええ、本当に。制度の壁と、人々の意識の壁。その両方があります。だからこそ、焦ってはいけない。プラグマティズムが教えてくれるように、私たち自身もまた、この「深層医学」という理念が、私たちの社会の中でどうすればより「役に立つ」形になりうるのかを、試行錯誤し続けるしかないのでしょう。絶対的な理想郷を目指すのではなく、今ある現実の制約の中で、それでもなお、目の前の一人ひとりにとって最善の「道具」は何かを探し続ける。そのプラグマティックで、地道な実践の積み重ねの中にしか、道はないのかもしれませんね。