2025年08月29日
縮退をめぐるポリローグ(6)
第六回:暗黙知のささやき――言語化できないものをどう聴くか
【登場人物】
蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。
高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。
美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。
伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。
早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。
【言葉の向こう側へ】
蓮見:第五回では、プラグマティズムと「深層医学」という概念を通して、治癒が「答えを探す旅」であり、そのプロセス自体が治療であるという地平にたどり着きました。しかし、伊吹さんと早乙女さんから、このアプローチが現代社会の「効率化」や「言語化への圧力」とどう対峙するのか、という鋭い問いが投げかけられました。今日は、この「言語化できないもの」を、さらに深く掘り下げてみたいと思います。そのためのキーワードとして、科学哲学者マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知(Tacit Knowledge)」という概念を、ここに持ち込みたい。ポランニーは「私たちは、言葉にできる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」と述べました。伊吹さん、身体知の世界は、まさにこの暗黙知の宝庫だと思います。この視点から、縮退と脱縮退について、もう少しお話しいただけますか。
伊吹:ありがとうございます。「暗黙知」、これほど私の感覚にしっくりくる言葉はありません。例えば、自転車に乗ること。どれだけ精緻なマニュアルを読んでも、乗れるようにはなりません。私たちは、転び、バランスを取り、ペダルを漕ぐという一連の身体的実践を通して、言語化不可能な「乗るための知」を、身体そのものに内面化していく。これが暗黙知です。
縮退とは、この豊かで広大な暗黙知の領域が痩せ細り、ごく一部の言語化・マニュアル化された「形式知(Explicit Knowledge)」に依存しきってしまう状態、と捉えることができます。現代人は、自分の身体をまるでマニュアル通りに操作できる機械のように錯覚している。カロリー計算をし、スマートウォッチで心拍数を管理し、「正しいフォーム」で筋トレをする。これらは全て形式知の世界です。もちろん、それらが役に立つ場面もあります。しかし、そればかりを追い求めると、私たちは、自分の身体が発する「なんとなく、この動きは気持ちがいい」「今日はこれ以上やらない方がいい気がする」といった、言語化できない暗黙知のささやきを聴き取る能力を失ってしまう。
脱縮退のプロセスは、この失われた暗黙知との繋がりを、再び取り戻す旅です。それは、頭で「理解」しようとするのをやめ、身体に「委ねる」ことから始まります。例えば、私が指導する時、あえて言葉での説明を最小限にし、「私の動きを感じて、ただ真似てみてください」とだけ言うことがあります。生徒は、最初は戸惑います。しかし、思考を止め、ただ感じることに集中するうちに、その人の身体が、私との関係性の中で、自ら最適な動きを「発見」していく瞬間が訪れる。それは、他者から与えられた「正解」ではなく、その人自身の暗黙知が、他者という触媒を通して目覚めた瞬間です。この「発見の喜び」こそが、人を内側から変える力を持っている。縮退した形式知の牢獄から、広大な暗黙知の野原へと解放される感覚。治癒とは、そういう体験なのではないでしょうか。
美園:伊吹さんのお話、私の仕事と驚くほど重なります。心理療法の対話もまた、言葉(形式知)と言葉にならないもの(暗黙知)の間を、繊細に行き来するプロセスです。クライエントさんが語る言葉の内容そのもの以上に、その声のトーン、話す速さ、沈黙、ふとした表情の変化、身振り手振り…。そうした非言語的な部分にこそ、その方の「暗黙知」が、つまり、本人さえも言葉にできない真実の感情や経験が、滲み出ていることがあります。
セラピストの仕事は、その滲み出てくるものを「あなたは怒っているんですね」「それは悲しいからですよ」と形式知に翻訳し、解釈してしまうことではありません。むしろ、その言葉にならないものの存在を、ただ静かに感じ取り、受け止め、その周りに安全な「間(ま)」を作ることです。例えば、「…そのことを話す時、少し声が震えているように感じますが、今、ご自身の内側で何が起きていますか?」と、解釈ではなく、内的な気づきを促す問いを投げかける。これは、クライエントさん自身が、自分の暗黙知にアクセスするための「足場」を作るような作業です。
縮退に陥っている人は、しばしばこの内なる暗黙知との繋がりが断絶しています。頭では「悲しいはずだ」と思っていても、何も感じられない。あるいは、理由のわからない不安や怒りに振り回される。それは、感情という暗黙知が、意識という形式知のシステムから切り離されてしまっている状態です。セラピーは、この断絶した部分に、ゆっくりと橋を架けていく共同作業です。言葉にならない感覚に、少しずつ言葉を与えていく。しかし、決して急がない。言葉にならないままでいる権利を尊重する。この「言語化への焦りを手放す」という態度、ネガティブ・ケイパビリティそのものが、暗黙知が安心して姿を現すための、最も重要な土壌となるのです。
高階:お二人の話を聞いて、ポランニーが暗黙知を説明する際に用いた「焦点(focal)」と「周辺(subsidiary)」という概念を思い出しました。私たちが何か(例えば、ハンマーで釘を打つこと)に意識を集中している時、その対象が「焦点」となります。しかし、その行為を可能にしているのは、ハンマーの重さやバランス、手の筋肉の感覚といった、意識されていない「周辺」的な気づきの総体です。この「周辺」こそが、暗黙知の領域です。
縮退とは、この「周辺」的な気づきへの感受性が失われ、硬直した「焦点」だけに囚われてしまう状態と言えるでしょう。伊吹さんの言う「形式知への依存」とは、まさにこれです。健康な状態とは、この焦点と周辺が、しなやかに関係しあっている状態。ある時は対象に集中し、またある時は周辺の広大な感覚の海に意識を遊ばせる。このダイナミックな行き来ができること。伊吹さんの言う「自在な縮退と脱縮退」は、この焦点と周辺の往復運動の能力と言い換えられるかもしれません。そして、美園さんの言うセラピーは、クライエントさんが自分の「周辺」に気づくのを手伝うプロセス。非常にクリアな像が結ばれてきました。
早乙女:なるほど。暗黙知と形式知、焦点と周辺。非常にパワフルな分析ツールですね。しかし、社会学者の性(さが)として、私はまたしても構造的な問いを立てざるを得ません。現代の社会システム、特に教育や企業組織は、この「暗黙知」をどのように扱ってきたでしょうか。答えは、ほとんどの場合、「無視する」か、あるいは「搾取する」かのどちらかです。職人の「勘」やベテランの「コツ」といった暗黙知は、長年、組織の重要な資産でした。しかし、近年の経営学は、それをいかに「形式知化」し、マニュアルに落とし込み、誰でも代替可能な状態にするか(つまり、属人性を排除するか)ということに腐心してきました。これは、組織レベルでの「縮退」と言えます。効率化と標準化の名の下に、組織の持つ豊かで多様な暗黙知の土壌が、どんどん痩せ細っていく。
個人のレベルでも同じです。私たちは、SNSなどで、自分の内面や経験を常に言語化し、他者に分かりやすく「提示」することを求められます。沈黙や曖昧さは許されず、常にクリアな意見や感情(のように見えるもの)を発信し続けなければならない。これは、私たちの暗黙知の領域に対する、社会からの絶え間ない「形式知化」の圧力です。この圧力の中で、美園さんの言う「言語化への焦りを手放す」ことや、伊吹さんの言う「身体に委ねる」ことは、一種のラディカルな抵抗行為としての意味を帯びてきます。それは、単なる個人的な癒しにとどまらず、社会の画一化・縮退化の流れに対する、ささやかだけれど、しかし本質的なアンチテーゼとなりうるのではないでしょうか。
蓮見:社会レベルでの縮退、そして暗黙知の尊重がラディカルな抵抗行為になる…。早乙女さん、ありがとうございます。対話がまた一つ、次元を上げたように感じます。私たちのやっていることは、単に個人の健康を取り戻すだけでなく、この社会が失いつつある、あるいは意図的に破壊しようとしている、ある種の「知の生態系」を守り、育む営みなのかもしれません。
暗黙知は、言葉になりません。だから、エビデンスとして提示することも難しい。数値化もできない。それゆえに、現代の「エビデンス至上主義」の医療の中では、常に軽んじられ、無視されてきました。しかし、私たち臨床家が、日々の実践の中で本当に頼りにしているのは、患者さんの顔色、声の響き、身体の微細な反応といった、まさにこの暗黙知の領域から来る情報です。そして、私たち自身の中にある「臨床家の勘」という暗黙知です。
「深層医学」とは、この無視されてきた暗黙知の領域に、意識的に光を当て、その価値を復権させる試み、と言えるのかもしれません。それは、科学を否定するのではなく、科学(形式知)の限界を謙虚に認め、その向こう側に広がる広大な暗黙知の海に対して、畏敬の念を持って向き合う態度。この態度を、患者さんと、そして社会と、どうすれば共有できるのか。私たちの旅は、まだまだ続きそうですね。