2025年08月30日
縮退をめぐるポリローグ(7)
第七回:赤いピルを飲むということ――マトリックスからの脱出
【登場人物】
蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。
高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。
美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。
伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。
早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。
【仮想現実の裂け目】
蓮見:第六回では、マイケル・ポランニーの「暗黙知」を補助線に、縮退が「形式知への過剰な依存」であり、脱縮退が「言語化できない暗黙知との再接続」であるという、非常に豊かな議論が展開されました。そして早乙女さんからは、現代社会が組織的に暗黙知を軽視し、形式知化への圧力を強めているという、構造的な問題提起がありました。この「形式知に支配された世界」というイメージ、皆さんは何かを思い起こさせませんか?私は、どうしてもあの映画、ウォシャウスキー姉妹の『マトリックス』を連想してしまいます。
あの映画で描かれたのは、人類が、機械によって作られた精巧な仮想現実(マトリックス)の中で、それが現実だと信じて生きている世界でした。人々が見て、触れて、感じているものは全て、脳に直接送られる電気信号、つまり、究極の「形式知」です。一方で、モーフィアスたちが生きる荒廃した「現実世界」は、ザイオンという最後の拠点をのぞけば、冷たく、不快で、しかし紛れもない身体的な実感(暗黙知)に満ちている。高階さん、このアナロジー、物理学者としてどう思われますか?
高階:非常に刺激的なアナロジーですね、蓮見先生。『マトリックス』の世界は、まさに「縮退」のメタファーとして完璧に機能します。マトリックス内の世界は、いわば、物理法則という形式知だけで構成された、完全にシミュレート可能な閉じた系です。そこには、予測不可能なゆらぎや、言語化できない身体感覚のノイズは存在しない。まさに、早乙女さんの言う「最適化」された、心地よい牢獄です。
主人公のネオが感じていた「世界のどこかがおかしい」という違和感。これが、伊吹さんの言う「身体の叡智」であり、システムに完全に回収されきらない「暗黙知のささやき」なのでしょう。そして、モーフィアスが差し出す「赤いピル」と「青いピル」。青いピルを飲めば、形式知の心地よい世界に留まれる。しかし、赤いピルを飲めば、不快で厳しいかもしれないが、「真実」の、つまり暗黙知に満ちた身体的な現実へと目覚めることができる。脱縮退とは、この「赤いピル」を飲むという、実存的な選択なのかもしれません。面白いのは、映画の中で、裏切り者のサイファーが「真実なんてうんざりだ。マトリックスに戻してくれ。金持ちで有名人にして。何も覚えていない状態で」と言う場面です。彼は、一度は赤いピルを飲んだにもかかわらず、暗黙知の持つ厳しさや不確かさに耐えきれず、再び形式知の快適な嘘に戻ることを選ぶ。縮退の引力がいかに強力か、そして脱縮退がいかに継続的な意志を要するかを象徴しています。
早乙女:高階さんの分析、見事ですね。サイファーの選択は、まさに現代人のジレンマそのものです。そして、私がここで問いかけたいのは、なぜ、一部の人々が、サイファーとは逆に、「赤いピル」を、つまりオルタナティブな世界観を欲望するのか、という点です。近年、スピリチュアルな思想、陰謀論、あるいは様々な代替医療が、一部で熱狂的に受け入れられています。これらは、科学的な視点から見れば、しばしば非合理的で、「怪しい」ものと見なされる。しかし、それらを単に「知性の低い人々の迷信」と切り捨ててしまうのは、あまりにも傲慢ではないでしょうか。
私は、この現象の背後に、支配的な形式知(マトリックス)に対する、根源的な不信と渇望があるのだと考えています。現代社会が提示する「公式の現実」――科学が保証し、メディアが報道し、政府が運営する世界――は、多くの人々にとって、もはや自分の実感と乖離してしまっている。経済成長を謳いながら、自分の生活は一向に楽にならない。安全・安心を謳いながら、未来への不安は増すばかり。このギャップの中で、「この世界は、どこかおかしい」「何か、重要なことが隠されているのではないか」という、ネオのような感覚を抱く人々が増えている。オルタナティブな世界観は、このシステムの「亀裂」から漏れ出してくる、もう一つの現実への希求に応えるものなのです。それは、たとえ非合理的であっても、公式の現実が与えてくれない「意味」や「物語」、そして「主体的に世界を読み解いている」という感覚を与えてくれる。だからこそ、人々はそこに強く惹きつけられるのではないでしょうか。
伊吹:早乙女さんの話を聞いて、身体のレベルで腑に落ちました。オルタナティブな世界への欲望は、結局のところ、「実感」への渇望なのだと思います。形式知だけで構成されたマトリックスの世界には、予測不能な「手応え」がない。全てが滑らかで、清潔で、安全にコントロールされている。しかし、私たちの身体は、本能的に、ザラザラした、生々しい、抵抗のある現実を求めている。土の匂い、風の感触、筋肉の疲労感、他者との身体的な触れ合い。これらはすべて、言語化できない暗黙知であり、私たちが「生きている」という実感の源泉です。
例えば、多くの代替医療、特に手技療法がなぜ人気を博すのか。それは、施術者の「手」という、極めて身体的で、暗黙知に満ちたメディアを通して、他者と直接的に触れ合う体験だからです。そこには、診断名や検査数値といった形式知を超えた、身体と身体のコミュニケーションがある。その「手応え」が、たとえプラセボ効果であったとしても、患者にとっては、マトリックス化された現代医療が失ってしまった、極めて重要な「治癒的な体験」となりうる。人々は、怪しいと分かっていても、そこに「本物らしさ(オーセンティシティ)」の断片を感じ取るのではないでしょうか。縮退した身体が、自分を解放してくれるかもしれない「赤いピル」の可能性に、必死で手を伸ばしている姿に見えます。
美園:実感への渇望、そして本物らしさへの希求…。本当にその通りだと思います。心理の領域でも、同じことが言えます。合理性を重んじる認知行動療法のようなアプローチも非常に有効ですが、一方で、占いや前世療法、あるいはシャーマニズム的な儀式に心の救いを求める人が後を絶ちません。それはなぜか。これらのオルタナティブなアプローチは、多くの場合、神話的・象徴的な言語を用います。タロットカードの絵柄、夢のイメージ、守護霊のメッセージ。これらは、私たちの合理的な意識(形式知)を迂回し、無意識の広大な領域(暗黙知)に直接働きかける力を持っています。
私たちの魂は、論理的な説明だけでは満足しないのです。魂は、物語を、イメージを、そして「意味」を栄養として生きています。現代の合理主義的な世界観(マトリックス)は、この魂の栄養を枯渇させてしまいました。だから、人々は、たとえ「非科学的」と非難されようとも、魂を潤してくれる神話的な世界観を、砂漠で水を求めるように探し求める。セラピストとしての私の立場は、その真偽を問うことではありません。むしろ、その人が見つけ出した物語やイメージが、その人自身の「暗黙知」とどう響き合っているのか、その響きの中から、どんな新しい力が生まれようとしているのかを、共に見届けることです。それは、マトリックスの中で目覚めようとしているネオの、最初の混乱した夢を、一緒に見守るような作業なのかもしれません。
蓮見:皆さんのお話を通して、「縮退」と「マトリックス」のアナロジーが、単なる比喩ではなく、現代を読み解くための極めて強力なレンズであることが、ますます明らかになってきました。形式知が支配するマトリックスの中で、私たちは「実感」と「意味」を渇望している。そして、オルタナティブな世界観への欲望は、その健全な、しかししばしば危険を伴う現れである、と。だとすれば、私たちの課題は、人々を「怪しい」オルタナティブから引き離し、「正しい」科学的現実に引き戻すことではない。むしろ、マトリックス(支配的な形式知)とオルタナティブ(しばしば未分化な暗黙知)の間に、創造的な対話の場を開くこと。そして、患者さんやクライエントさん自身が、自分だけの「赤いピル」――つまり、形式知と暗黙知を統合した、自分自身の身体感覚と実感に根差した、オーダーメイドの世界観――を、安全に調合する手助けをすること。これこそが、統合医療や深層医学が担うべき、真にラディカルな役割なのかもしれません。この「調合」というプロセス、次回はここをさらに探ってみたいですね。