2025年08月31日
縮退をめぐるポリローグ(8)
第八回:現代の錬金術――縮退した「鉛」を「黄金」に変える
蓮見(はすみ):司会進行役。統合医療を実践する医師。これまでブログなどで「縮退」の概念を発信してきた人物。穏やかだが、対話の核心を突く問いを投げかける。
高階(たかしな):物理学者。長沼伸一郎氏の著作に影響を受け、複雑系科学の視点から生命や社会を分析する。論理的で、マクロな視点を持つ。
美園(みその):臨床心理士。ユング心理学やナラティヴ・セラピーを専門とし、個人の内面世界、物語、神話に関心が深い。共感的で、言葉の裏にある感情を読み解く。
伊吹(いぶき):元アスリートで、現在は身体論を研究する身体哲学者。武術やダンスにも造詣が深く、身体感覚や非言語的な知性を重視する。
早乙女(さおとめ):社会学者。現代社会の制度、テクノロジー、共同体の変容を研究している。批判的な視点で、個人の問題を社会構造と結びつける。
【賢者の石を求めて】
蓮見:第七回では、私たちは壮大な地点にたどり着きました。支配的な形式知である「マトリックス」と、しばしば未分化な暗黙知の現れである「オルタナティブ」との間に創造的な対話の場を開き、個人が自分だけの世界観、自分だけの「赤いピル」を調合する手助けをすること。これが統合医療のラディカルな役割ではないか、と。この「調合」という言葉を聞いて、私は、ある古く、そして深遠な営みを連想せずにはいられません。それは「錬金術」です。かつて錬金術師たちは、卑金属である「鉛」を、貴金属である「黄金」に変えようとしました。この試みは、近代科学の視点からは迷信として退けられましたが、カール・ユングは、これを物質的な変容の試みであると同時に、術者の魂が変容し、統合されていく、深遠な心理的プロセスの象徴だと読み解きました。今日は、この錬金術のメタファーを借りて、縮退という「鉛」を、いかにして脱縮退という「黄金」へと変容させうるか、その現代的な方法論を、皆さんと一緒に模索してみたいと思います。美園さん、まず専門家として、この錬金術のプロセスについて、少し解説していただけますか。
美園:ありがとうございます、蓮見先生。まさに、この対話そのものが、錬金術的な試みですね。ユングが読み解いた錬金術のプロセスは、非常に複雑ですが、いくつかの重要な段階があります。まず、第一質料(プリマ・マテリア)の特定から始まります。これは、変性の出発点となる、混沌とした、価値のない、見捨てられた物質です。心理学的に言えば、これは私たちが直面する症状、コンプレックス、あるいは「影」そのものです。まさに、縮退した、重苦しい「鉛」の状態ですね。
次に重要なのが、分離(セパラチオ)と結合(コンフンクチオ)という、相反する操作の繰り返しです。分離とは、混沌とした第一質料の中から、対立する要素(例えば、意識と無意識、思考と感情、男性性と女性性)を分析し、区別していく作業です。そして結合とは、分離されたそれらの要素を、より高次のレベルで再び結びつける作業。この分離と結合のプロセスは、錬金術の容器(フラスコ)の中で、何度も何度も繰り返されます。この容器は、外部からの影響を遮断し、内的な変容のプロセスを安全に保持するための、いわば心理療法における「セラピーの枠組み」や、安全な治療関係そのものです。
そして、このプロセスを経て、最終的に生み出されるのが「賢者の石(ラピス・フィロソフォルム)」です。これは、単なる黄金ではなく、あらゆるものを癒し、変容させる力を持つ、究極の統合の象徴。心理学的には、自己(セルフ)の実現、つまり、意識と無意識が統合され、個人が真に全体的な存在となる状態を指します。重要なのは、錬金術師が「鉛」を捨てるのではなく、鉛そのものを原料として、黄金を生み出すということです。症状や影を敵として排除するのではなく、それと向き合い、対話し、変容させていく。これこそが、縮退への処方箋としての錬金術の核心です。
伊吹:美園さんのお話、身体のプロセスとして、手に取るように分かります。第一質料、それはまさに、私の言う「慣れ親しんだ不快」な身体、縮退して硬直した身体そのものです。重く、鈍く、自由を失った鉛のような身体。そして、分離と結合のプロセス。これは、まさに私たちが身体の再教育で行うことです。
例えば、歩くという動作。私たちは無意識に歩いていますが、その中には、股関節の動き、膝の屈伸、足首の柔軟性、腕の振り、体幹の安定といった、無数の要素が混沌と一体化しています。身体の「分離」とは、まず、これらの要素を一つひとつ意識化し、その動きの質を感じ分けていく作業です。股関節はスムーズに動いているか?足首は硬くなっていないか?と。これは、分析的で、非常に意識的な作業です。
そして「結合」。分離して意識化した要素を、再び、より調和のとれた、効率的な「歩き」という一つの流れへと統合していく。しかし、この時の「結合」は、以前の無意識な結合とは全く質が異なります。それは、各部分の働きを「知った」上での、意識的な再統合です。この、「無意識的な混沌」→「意識的な分離」→「より高次の統合」という螺旋的なプロセス。これを身体レベルで何度も繰り返すことで、鉛のように重かった身体は、まるで無重力かのように軽やかで、どんな状況にも対応できる、しなやかな「黄金」の身体へと変容していく。錬金術の容器は、まさに、集中を可能にする稽古場やスタジオの空間そのものですね。
高階:科学者の立場からすると、錬金術という言葉には抵抗を感じる部分もありますが(笑)、その「プロセス」の記述は、驚くほど科学的、特に自己組織化する複雑系の振る舞いに似ています。美園さんの言う「分離と結合の繰り返し」は、システムが安定状態と不安定状態を行き来しながら、より複雑で高次の秩序を自己生成していくプロセスそのものです。特に重要なのが「容器」の役割。外部からのノイズを遮断し、内部の温度や圧力を適切にコントロールする。これがなければ、変容のプロセスは起こらず、ただ混沌が広がるか、あるいはシステムが崩壊してしまう。
これは、生命の誕生にも通じます。原始のスープという混沌(第一質料)の中で、脂質の膜(容器)が偶然でき、その内部で特殊な化学反応が保護され、自己複製システムが生まれた。蓮見先生の言う「深層医学」における治療関係、あるいは伊吹さんの言う「稽古場」が、この変容を可能にする「膜」あるいは「境界条件」として機能しているのでしょう。そして「賢者の石」。これは、特定の物質というより、「自己触媒的なプロセスそのもの」と考えるとしっくりきます。つまり、一度、鉛を黄金に変えるプロセスを成功させると、そのプロセス自体が触媒となって、他の鉛をも次々と黄金に変えていく能力を獲得する。一度、脱縮退の仕方を身体で覚えると、他の様々な場面でも、そのスキルを応用できるようになる。治癒とは、単に症状が消えることではなく、この「自己変容能力(=賢者の石)」を、その人が獲得することなのかもしれません。
早乙女:非常に深遠な議論ですね。しかし、私はまたしても社会学者の悪癖で、この美しいメタファーに現実の冷や水を浴びせたくなります。この錬金術のプロセス、特に「容器」の存在は、現代社会において、いかに稀で、特権的なものであるか。安全なセラピーの枠組み、集中できる稽古場、そして何より、混沌と向き合い、試行錯誤するための「時間」。これらは、早乙女さんが以前指摘したように、経済的な余裕や文化資本を持つ人々に、偏って分配されています。
多くの人々は、「容器なき錬金術」を強いられているのではないでしょうか。日々の生存競争の中で、自分の内なる混沌(プリマ・マテリア)に直面させられながら、それを安全に保持し、変容させるための保護された空間も時間も与えられない。その結果、変容は起こらず、混沌はただ精神を蝕み、人々はアルコールや薬物、あるいは過激な思想といった、安易な「偽の賢者の石」に救いを求めてしまう。
だとすれば、私たちの社会的な課題は、個人に錬金術師になることを求めるだけでなく、この「錬金術の容器」を、いかにして社会の中に、より公平に、よりアクセス可能な形で埋め込んでいくか、ということになるはずです。それは、医療や教育制度の中に、効率性とは別の価値基準を持つ「待つ時間」「試す空間」を保障することかもしれない。あるいは、地域コミュニティの中に、人々が安心して弱さを見せ、互いの混沌を支え合えるような、ピアサポートの場を作ることかもしれない。個人レベルの錬金術と、社会レベルでの「容器作り」。この両輪が揃って初めて、縮退への処方箋は、一部の特権階級のものではなく、万人のためのものになりうるのではないでしょうか。
蓮見:美園さんの心理的錬金術、伊吹さんの身体的錬金術、高階さんの科学的再解釈、そして早乙女さんの社会学的錬金術…。見事な多重奏です。ありがとうございます。早乙女さんのご指摘は、まさに核心を突いています。「容器なき錬金術」という言葉、あまりにも痛切です。私たち臨床家は、しばしば個人の内面というミクロな容器作りに集中しがちですが、その容器自体が、社会というマクロな嵐に常に晒されていることを忘れてはなりません。
しかし、ここにこそ希望もあると私は考えたい。錬金術のプロセスは、何も特別な実験室だけで行われるわけではありません。私たちの「日常」こそが、最大の錬金術の容器になりうる。例えば、日々の食事。何を、どのように食べるかという選択は、私たちの身体という鉛を、少しずつ変容させる実践です。あるいは、身近な人との対話。もし、私たちが互いの言葉の奥にある暗黙知に耳を澄まし、安易な結論を急がず、相手の混沌と共にいることを選ぶなら、その対話の場は、ささやかだけれども、極めて強力な「容器」となる。
現代の錬金術とは、特別な秘儀ではなく、日常のありふれた営みの中に、意識的に「分離」と「結合」の視点、つまり、分析的な気づきと、愛ある統合の眼差しを持ち込むこと。そして、社会が強いる効率化と標準化の圧力に対し、自分たちの生活の中に、意図的に「聖なる非効率」、つまり、変容のための「間」を確保していく、地道な実践の積み重ね。それこそが、私たちが今、手にすることができる、「賢者の石」への道なのかもしれません。この対話のように、結論を急がず、多様な声が響き合う場を、社会のあちこちに作っていくこと。それ自体が、現代における最も重要な「容器作り」の試みなのではないか。そんな気がしてなりません。