2025年09月03日
生体城郭学のまなざし(100名城から医療を考える) 27.上田城(長野)
真田昌幸が、徳川の大軍を二度にわたって、撃退した知略の城。それが、この上田城です。その戦いぶりは、講談や小説で華々しく、語り継がれ、多くの人々を魅了してきました。
しかし、その語られる「物語」の裏側を、少し冷静に分析してみると、別の風景が見えてきます。
特に、第二次上田合戦。徳川秀忠率いる、主力部隊が、この城の攻略に手間取り、関ヶ原の本戦に遅参したという定説。しかし、本当にそうでしょうか。
もし、秀忠が本気で城を落とそうとしていたなら、なぜ、もっと総力を挙げなかったのか。あるいは、家康は本当にこの重要な別動隊の到着を心待ちにしていたのか。
近年、提唱されている一つの興味深い仮説は、これが、家康と昌幸の間で仕組まれた、一種の「出来レース」だったのではないか、というものです。
家康は、本戦での勝利を確信しつつも、万が一の事態に備え、後継者である秀忠の部隊をあえて安全な後方に留め置きたかった。
しかし、それでは、秀忠の面子が立たない。そこで、旧知の、真田昌幸に一役買わせ、適度に抵抗させ足止めされた、という「言い訳」を作ったのではないか。この仮説に立てば、その後の、真田家の不可解なまでの厚遇にも説明がつきます。
物事の真相は、しばしば公に語られる美しい「物語」の裏側に隠されています。これは、患者さんが語る、自らの病の「物語」(主訴)にも言えることです。「先生、この頭痛さえ、取れればいいんです」。しかし、その言葉の裏には、実はもっと根深い家庭や職場の人間関係の問題が隠されていることが少なくありません。表面的な、症状(物語)に囚われず、その背景にある、本当の問題の構造を読み解くこと。それは、歴史家にも、そして、臨床家にも、等しく求められる、深い洞察力なのです。
この城の、北東の鬼門には、「隅欠け」と呼ばれる、意図的な欠損が作られています。これは、合理主義者の昌幸でさえ、信じた「呪術」の名残だと説明されがちです。しかし、これも、現代人の思い込みかもしれません。
当時、科学と呪術は、まだ未分化でした。彼らにとって、それは極めて合理的で、科学的な、リスクマネジメントの一環だったのです。
現代の、私たちの常識という色眼鏡で、過去を安易に裁断することの危うさ。上田城は、私たちに、常に自らの思考の「前提」を疑うことを求めてきます。それこそが、真に、知的な態度である、と。