統合医療とは何か

「統合医療の哲学」を読み解く! 第6章をめぐる対話




西村:皆さん、第六章の対話の場へようこそ。この章は「コミュニケーション的転回」という非常に興味深いテーマで、医療における「真理」のあり方や、集団での意思決定、そして統合医療の未来について深く考察されています。特に、カントのアンチノミーから始まり、ジェイムズの多元的倫理、オルテガの「大衆」の問題提起まで、哲学的な視点が満載です。

田中教授:そうですね。この章は、単に医療の現状を分析するだけでなく、その根底にある哲学的思想を掘り下げている点が非常に評価できます。特に、カントの認識論におけるアンチノミーという問題提起から、コミュニケーションによる解決へと舵を切る「コミュニケーション的転回」という概念は、現代医療が抱える複雑な問題に対する新たな視点を示唆しています。

鈴木医師:私としては、EBMを重視する立場から、この「コミュニケーション的転回」という概念が、具体的にどのように医療現場に導入され、エビデンスと両立しうるのかという点に強い関心があります。章中にもEBMからNBMへの重心移動が述べられていますが、その過程で科学的妥当性がどのように担保されるのか、という疑問も感じました。

加藤さん:私は代替医療に関心があり、実際に利用した経験もあるのですが、この章で述べられている「みんな」による「共通知」という考え方にとても共感しました。やはり、医療は専門家だけのものではなく、患者も含めた多様な視点から「何が正しいのか」を考えていくべきだと思います。ただ、「大衆」の問題という点では、私たち患者側も安易に情報に流されないよう、気をつけなければならないとも感じました。

西村:ありがとうございます。ではまず、この章の冒頭で示される「コミュニケーション的転回」について掘り下げていきましょう。田中教授、カントのアンチノミーと、それに対するコミュニケーションによる解決という流れについて、もう少し詳しくご説明いただけますか?

田中教授:はい。カントのいうアンチノミーとは、理性によって導き出される結論が、しばしば相互に矛盾する二つの命題として現れる状況を指します。例えば、「世界は始まりを持つ」と「世界は永遠である」といった宇宙論的命題などがその典型です。医療においても、生命の尊厳と医療資源の有限性、個人の選択の自由と公衆衛生の必要性など、理性的にどちらも正しいと思えるにもかかわらず、対立する問題が山積しています。この章では、このような矛盾を孕む状況に対し、対話、つまりコミュニケーションを通じて合意形成を目指すことが「コミュニケーション的転回」であると提唱しています。これは、論理や科学的根拠のみでは解決しえない問題に対して、言語を基軸としながらも、その意味を固定せず、立場や価値観を異にする者同士が意見交換を行うことで、新たな合意に至るという、非常に実践的なアプローチだと理解できます。

鈴木医師:そうですね。確かに医療現場では、EBMだけでは割り切れない倫理的な問題や、患者さんの価値観に関わるデリケートな問題に直面することが多々あります。そうした場面では、一方的な情報提供や指示だけでは解決せず、医師と患者、あるいは多職種の医療者間での丁寧な「会話」が必要不可欠だと痛感します。しかし、それが「真理」の代替となる「共通知」を生み出すという点については、慎重な議論が必要だと感じます。

加藤さん:「共通知」という言葉は、私にとってはとても希望を感じさせる言葉です。私自身、病気と向き合う中で、医師からの一方的な説明だけでなく、家族や他の患者さんとの情報交換を通じて、安心したり、新たな選択肢に気づかされたりすることがありました。もちろん、専門家の意見は重要ですが、最終的に自分の体に何をするかは、自分自身が納得できる「みんな」の知恵も参考にしたいと思うんです。

西村:鈴木医師の懸念も理解できますし、加藤さんの実体験からの期待もよく分かります。この章では、「共通知」の基底として、カントの定言命法とハーバーマスの妥当要求が挙げられていますね。この点について、田中教授、ご説明いただけますか?

田中教授:定言命法とは、カント哲学における「〜せよ」という無条件の命令です。「汝の行為の格率が汝の意思によって普遍的自然法則となるべきであるかのように行為せよ」という格率は、自らが従うルールが世界全体のルールとなるように行動せよ、と解釈できます。つまり、各人が倫理的な責任を持って行動するならば、その集合体である「みんな」によるコミュニケーションもまた、正しさを担保されるという考え方です。さらに、ハーバーマスの妥当要求、すなわち「正当性」「真実性」「誠実性」が満たされることによって、「共通知」は単なる多数決ではなく、確かなものとして成立すると論じています。これは、集団決定が抱えるリスク、例えば「社会的手抜き」や「ただ乗り」といった問題を克服し、質の高い合意形成を促す上で非常に重要な要素となります。

鈴木医師:ハーバーマスの妥当要求が前提となるのであれば、単なる「馴れ合い」や「感情論」ではない、建設的な「共通知」が生まれる可能性は理解できます。特に「真実性」と「誠実性」は、EBMが目指す科学的根拠と、患者さんへの誠実な説明責任に通じるものがあると感じます。ただ、すべての医療現場で常にこれらの要求が満たされるとは限りません。時間的制約や情報の非対称性など、現実的な障壁も多いのが現状です。

加藤さん:私は「誠実性」が特に大切だと感じます。以前、ある治療法について尋ねたとき、担当医が正直に「まだエビデンスは十分ではないが、あなたの希望も踏まえて一緒に考えていきましょう」と言ってくださったんです。その言葉に、信頼と安心感を覚えました。たとえ明確な答えがなくても、誠実に向き合ってくれる姿勢が、患者にとっては大きな支えになります。

西村:まさに、信頼関係の構築がコミュニケーションの肝ですね。しかし、この章の後半では、オルテガのいう「大衆」の問題が提起されています。特に、専門家でありながら「知者ではない」という批判は、鈴木医師のような現場の専門家にとっては耳の痛い話かもしれません。この点について、どのように受け止められましたか?

鈴木医師:オルテガの「大衆」に関する指摘は、非常に考えさせられるものでした。専門家である医師が、自分の専門領域以外のことについては無知であるにもかかわらず、傲慢な態度で臨むという批判は、確かに我々医師が常に自戒すべき点だと感じます。EBMを重視するあまり、個々の患者さんの背景や価値観、あるいは代替医療に対する興味を軽視してしまうような姿勢は、「知者ではない専門家」と言われても仕方がないかもしれません。しかし、それは決して医師の「悪意」からくるものではなく、医療の専門分化が進み、個々の医師がカバーできる範囲が限られているという構造的な問題も大きいと感じます。だからこそ、多職種連携や患者さんとの対話を通じて、自分に足りない知識や視点を補っていく努力が必要だと改めて認識しました。

田中教授:オルテガの指摘は、専門知が細分化される現代社会において、普遍的な知見や倫理的視点を見失いがちな専門家の陥りやすい罠を鋭く突いています。医療の領域においても、専門化が進むことで、臓器別、疾患別に「部分」しか見ない傾向が強まり、患者全体、あるいはその人生という「全体」を見失う危険性があります。この章が提唱する「コミュニケーション的転回」は、このような専門家の限界を乗り越え、多様な視点を取り入れることで、より包括的な医療を実現するための道筋を示すものだと解釈できます。

加藤さん:オルテガの言う「大衆」の問題は、私たち患者側にも当てはまるように感じました。インターネットで得た情報を鵜呑みにしたり、自分の都合の良い情報だけを受け入れたりして、正しい判断ができないことがあります。専門家が傲慢になるのと同じように、私たちも知ったかぶりをして、本当に必要な情報や対話の機会を逃してしまうこともあるのかもしれません。だからこそ、医療者と患者が互いに誠実に向き合い、信頼関係を築くことの重要性を強く感じます。

西村:非常に示唆に富むご意見をありがとうございます。それでは、ジェイムズの多元的倫理が、この「大衆」の問題や、多元的な社会における倫理観にどのように対処しうるのか、という点について田中教授からご解説いただけますでしょうか。

田中教授:ジェイムズの多元的倫理は、現代の多元的な状況において非常に有効な視点を提供します。彼は世界を、無数の小さな宇宙が集まって一つのハーモニーを奏でる「連邦共和国」のようなものとして捉えました。これは、個々の差異を認めつつも、相互に影響を与え合い、分断ではなく「共生」を目指す姿勢を強調しています。つまり、各人が「汝の行為の格率が汝の意思によって普遍的自然法則となるべきであるかのように行為せよ」というカントの定言命法に従うことで、オルテガが問題視した「大衆」による悪しき影響を避け、全体として調和した社会を築くことが可能になる、と論じているのです。これは、統合医療が目指す「多様な療法が並立し、その中で対話を通じて最善の方法論を照らし出す」という理念にも通じるものであり、コミュニケーション的転回を支える重要な哲学的基盤であると言えます。

鈴木医師:ジェイムズの多元的倫理は、EBMNBMの統合、あるいは西洋医学と代替医療の共存といった、統合医療が抱える多様性の問題を解決する上で、非常に重要な視点を与えてくれますね。異なる専門性や価値観を持つ人々が、それぞれの役割を尊重しつつ、共通の目標に向かって協力し合う。そのような「連邦共和国」のような医療システムを構築できれば、患者さんにとって最適な医療を提供できる可能性が広がると感じます。

加藤さん:多様な楽器が美しいハーモニーを奏でる、という例えはとても素敵ですね。私たちがそれぞれ違う存在であることを認めつつ、一つの目標に向かって協力し合う。それが、医療だけでなく、社会全体にも言えることだと感じました。統合医療が目指す方向性も、まさにそういう「共生」の形なのだと理解できました。

西村:なるほど。この章では、最終的に「統合医療的転回」という言葉で締めくくられています。これは、単なる医療の方向転換ではなく、社会全体がプラグマティズム的な姿勢で変化に適応していく中で、統合医療がその羅針盤となるべきだ、という強いメッセージだと感じました。鈴木医師、この「統合医療的転回」について、現場の視点からどのような展望をお持ちでしょうか。

鈴木医師:私にとって「統合医療的転回」は、EBMの限界を認識しつつ、NBMや多様な代替医療の知見を柔軟に取り入れ、患者中心の医療を追求していくという、非常に現実的な課題だと捉えています。章中で述べられている「ジャングルカンファレンス」のような「会話」の場は、異なる専門性を持つ医療従事者が互いの知識や経験を共有し、患者さんの状況に合わせた最適な治療計画を collaboratively に作り上げていく上で、非常に有効な手段だと考えます。将来的には、「統合医療」という言葉自体がなくなるほど、これらのアプローチが医療の当然の姿として組み込まれることが理想的だと感じます。その過程で、我々医師も、オルテガが指摘したような「知者ではない専門家」に陥らないよう、常に学び続け、患者さんとの対話を重視する姿勢を持ち続けることが重要だと考えています。

田中教授:まさに、プラグマティズムが重視する「実践」こそが、この「統合医療的転回」を推進する原動力となるでしょう。古典的プラグマティズムが現代において再び注目されているのは、まさに現代社会の混沌とした状況において、その実践的な姿勢が有効であることの証左です。統合医療は、単なる複数の療法を組み合わせるだけでなく、その根底に流れる多元主義とプラグマティズムという哲学的基礎を持つことで、変化し続ける社会や医療環境に柔軟に適応し、新たな価値を生み出す可能性を秘めていると言えます。この章は、その確固たる理論的裏付けを与えてくれたと感じています。

加藤さん:「統合医療的転回」という言葉は、未来への希望を感じさせます。私が代替医療に関心を持ったのも、既存の医療だけでは解決できない問題に直面したからです。この転回が実現すれば、もっと多くの患者さんが、それぞれの状況に合った「最善の医療」を受けられるようになるのではないでしょうか。私も、患者として、あるいは一般の生活者として、この転回を支える「会話」の場に積極的に参加していきたいと思います。

西村:皆さま、活発な議論をありがとうございました。第六章の「コミュニケーション的転回」は、単なる医療の問題に留まらず、現代社会のあり方、さらには人間存在の根源的な問いにまで踏み込んだ、非常に奥深いテーマでした。カントのアンチノミーに始まり、ハーバーマスの妥当要求、オルテガの「大衆」の問題、そしてジェイムズの多元的倫理、そして最終的な「統合医療的転回」への提言。これらすべてが、これからの医療が目指すべき方向性を示唆していると言えるでしょう。特に、「ジャングルカンファレンス」に代表されるような、対話と合意形成を重視する実践の場の重要性が強調されたことは、読者の皆さんにとっても、明日からの行動を考える上で大きなヒントになったのではないでしょうか。

これで第六章の対話を終了いたします。お疲れ様でした。


tougouiryo at 2025年10月06日06:00|この記事のURLComments(0)

「統合医療の哲学」を読み解く! 第5章をめぐる対話





西村(編集者):
皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。今回は「統合医療からみた現代医療の再考」と題して、現代医療が抱える問題点を深く掘り下げた章を読んでいただきました。特に「診断」「統計学」「会話」「医療倫理」、そして「アンチノミー」という五つのキーワードを通して、現代医療の根底にある哲学的課題が提示されていましたね。読者の皆さんにも、この議論の核心をより身近に感じていただくために、ぜひ皆さんの視点から活発な意見を交わしていただければと思います。

田中教授(大学教授・医学史専門): ありがとうございます。非常に興味深い章でしたね。特に診断が「診立て」から「診断」へと変化してきたという指摘は、医学の歴史を紐解くと、科学的客観性を追求する過程で失われたものが何なのかを改めて考えさせられます。古代ギリシャのヒポクラテスの時代から、医師は患者の個別の体質や環境、生活習慣を総合的に見て病状を推し量る「診立て」を重視してきました。それが、19世紀以降の微生物学や生理学の発展によって、病気の原因を特定し、それを「診断名」として確定することで、普遍的な治療法を適用するという流れが主流になっていった。この変化は、医学の進歩に大きく貢献した一方で、個別の文脈や患者の主観的な経験という豊かな側面がどうしても後景に退いてしまったのだと、改めて感じ入りました。

鈴木医師(若手医師・EBM重視): 私はEBMを重視する立場から、統計学のセクションに特に注目しました。頻度主義とベイズ主義の対立、そしてそれぞれの適用場面が詳細に示されていたのは、EBMの限界と可能性を考える上で非常に示唆に富んでいました。EBMは「正しい判断」を追求しますが、医療の現場では常に完璧な情報があるわけではなく、むしろ「不確実な状況下での意思決定」が日常です。行岡医師の「正しいと確信する判断」という言葉は、私たちの日々の診療における実感と深く重なります。エビデンスは重要ですが、それだけでは患者さん一人ひとりに最適な医療を提供することは難しい。その間のギャップを埋める思考として、ベイズ主義や「診立て」の考え方が、今後さらに重要になってくるだろうと感じました。

加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり): 私も代替医療に関心がある者として、この章は深く頷ける部分が多かったです。「診立て」という言葉に、患者の個別性に寄り添う医療の姿を感じましたし、統計学だけでは測れない「了解」の重要性もよく理解できました。実際に私自身も、数値だけでは説明できない体調の変化を経験していますから。例えば、西洋医学的な検査では異常が見つからないのに、体がだるかったり、頭痛が続いたりすることがあります。そんな時、漢方医の先生は私の体質や生活習慣、感情の動きまで丁寧に聞いて、全体のバランスを見て「診立てて」くれます。すると、それまで抱えていた不安が和らぎ、治療にも前向きになれるんです。この章で語られていた「納得を確かめ合う言語ゲーム」という言葉は、まさにそうした経験を表していると感じました。

西村: ありがとうございます。皆さんの視点から、すでに章の核心部分に触れる議論が始まっていますね。ではまず、第1節の「診断をめぐる問題」についてもう少し掘り下げていきましょうか。この章では「診断」が「真理」のように扱われがちであることに対し、「診立て」という暫定的な判断の重要性が指摘されていました。特に、わが国の保険制度が「診断」を強く求める構造になっている点も問題提起されていましたが、この現状について鈴木医師はどうお考えですか?

鈴木医師: はい。日本の医療制度において、確かに診断名がなければ医療行為が保険適用されないという現実は、私たち医師が常に直面する課題です。特に「不定愁訴」と呼ばれる、明確な診断基準に当てはまらない患者さんの場合、医師は「何か診断名をつけなければ」というプレッシャーを感じることが少なくありません。一時的な症状や、原因が特定しにくい心身の不調に対しても、無理に既往症に関連付けたり、あるいは「〇〇症候群」といった暫定的な診断名を使うこともあります。これは、患者さんの症状を真摯に受け止める「診立て」の精神とは異なる、システム側の要請に引きずられている側面があると感じています。本来、診断は「終わりのない動的なプロセス」であるはずなのに、一度診断名がつくと、それが患者さんのアイデンティティの一部となり、治療の方向性を硬直化させてしまうこともあります。

田中教授: 非常に現実的な問題ですね。診断名が持つ社会的な意味合いも大きい。患者さんは診断名によって、自分の病状を理解し、治療への道筋を見出すと同時に、周囲からの理解や支援を得る手がかりにもなります。しかし、それが一人歩きし、「あなたは〇〇病だ」と烙印を押されたかのように感じてしまうと、かえって自己回復力を阻害することにもなりかねません。精神科のDSM批判もまさにこの点にあります。症状群を操作的に分類することで客観性は高まりますが、その人の人生の物語や、病がもたらす意味が見えにくくなる。医学の客観性と、患者の主観性という、この永遠のテーマが診断という行為に凝縮されていると言えるでしょう。

加藤さん: 私も、診断名がついたことで、どこかホッとしたと同時に、「この病気と一生付き合っていくのか」と絶望した経験があります。診断名があることで、インターネットで情報を調べたり、同じ病気の人とつながったりできるのは良いことですが、それが「自分はこうあるべきだ」という固定観念につながることもありました。医師から「診立て」として、病気の原因が一つではない可能性や、状態が変化しうることを丁寧に説明してもらえれば、もっと柔軟に病気と向き合えたかもしれません。

西村: 診断の持つ両義性、光と影の部分がよく見えてきましたね。次に、第2節の「統計学をめぐる問題」について議論を移しましょう。EBMの基礎となる統計学も一枚岩ではなく、頻度主義とベイズ主義の対立があるという指摘は、医療の「科学性」を多角的に捉え直す視点を提供してくれました。鈴木医師、この点についてもう少し詳しく聞かせてもらえますか?

鈴木医師: はい。EBMは、大規模臨床試験のデータに基づいた頻度主義的なアプローチが主流です。これは、特定の治療法がプラセボや他の治療法と比較して、統計的に有意な効果があるか否かを判断するのに非常に有効です。例えば、新しい降圧剤が多数の患者に対して、既存薬よりも血圧を低下させる効果があるかを評価する際には、この頻度主義が力を発揮します。これにより、多数の患者に対する標準治療を確立し、治療成績全体の向上に貢献してきました。しかし、統計学者のソーバーが指摘するように、統計学自体が「塹壕戦」の様相を呈していることからもわかるように、すべてを頻度主義で割り切れるわけではありません。

鈴木医師: 特に、個々の患者さんの状態は多様で、まさに「モンティ・ホール問題」のように、刻々と変化する状況の中で最適な判断を下すには、過去の経験や現在の状況を加味して確率を更新していくベイズ主義的な思考が求められる場面も多々あります。例えば、ある患者さんが珍しい症状を訴えた時、過去の経験や関連する疾患の知識(事前確率)を基に、追加の検査結果(新しいデータ)を考慮しながら診断の確信度を更新していくのは、まさにベイズ主義的なプロセスです。特に希少疾患や、個別の体質を考慮するオーダーメイド医療の文脈では、ベイズ主義の重要性が増すでしょう。頻度主義は「全体としての効果」を語るのに対し、ベイズ主義は「個別の状況における確信度」を語る。両者は医療において車の両輪のように機能すべきだと思います。

田中教授: 統計学が持つ「説明」の側面は科学にとって不可欠ですが、患者の苦しみや主観的な経験といった「了解」を必要とする人文科学的側面も医療には大きく存在します。カンギレムが指摘したように、近代医学が生理学に準拠しすぎた結果、患者個人の苦しみが医学のまなざしから消えてしまったという話は、この「説明」と「了解」のバランスを欠いた結果だと言えるでしょう。統計データは平均値を語りますが、患者さんの「苦しみ」には平均値はありません。一人ひとりの苦しみは、その人にとって固有で絶対的なものです。統合医療が患者中心を謳い、その人の生活史や価値観を重視するのは、この「了解」の復権を目指しているとも解釈できます。統計学の限界を認識し、それを補完する「了解」の重要性を理解することは、よりホリスティックな医療を考える上で不可欠な視点だと思います。

加藤さん: まさにその通りだと思います。私たちが知りたいのは、統計的な平均値だけでなく、「私のこの症状が、なぜ起きているのか」「この治療で、私の体はどう変わるのか」という、私自身の「了解」なんです。統計データは確かに重要ですが、それだけで全てが決まるわけではない。例えば、ある治療法が「80%の患者に効果があった」と聞いても、私がその20%に入ってしまう可能性もゼロではありません。医師が私の話をしっかり聞いて、私なりの言葉で説明してくれることで、初めて納得して治療に取り組めるんです。代替医療では、そうした対話を通じて、自分自身の治癒力を高めるという「了解」が得られることもありますし、数値では測れない「体感」を重視することも多いです。クリフォードの「不十分な証拠をもとに信じることは誤り」という言葉もわかりますが、パスカルやジェイムズが言うように、証拠が何も語らなくても信じる権利が、私たち患者にはあると強く感じます。

西村: 「説明」と「了解」の二つの側面を使い分け、各個に適応していくことの重要性が改めて浮き彫りになりましたね。そして、その両者を結びつけるのが、次の議論のテーマとなる「会話」だと思われます。それでは、第3節の「会話をめぐる問題」、そして「コミュニケーション的合理性」という概念について議論を進めましょう。ローティやハーバーマスが「合意」や「会話」の重要性を指摘している点について、加藤さんはどうお感じになりましたか?

加藤さん: 私は、医師との「会話」こそが医療の要だと感じています。一方的に診断名や治療法を告げられるだけでは、どこか置いてけぼりにされたような気持ちになります。私の不安や期待、生活習慣についても話せることで、初めて医師との間に信頼関係が生まれます。代替医療の施術者の方々は、時間をかけてじっくり話を聞いてくれる方が多い印象です。それが「コミュニケーション的合理性」につながるのかもしれません。医学的な真理も大切ですが、患者と医師の間で「合意」が形成されることが、治療を成功させる上では最も重要ではないでしょうか。私は、例えば治療方針を決める際に、いくつかの選択肢とそのメリット・デメリットを丁寧に説明してもらい、最終的に私が「これなら納得できる」と思える方法を選ぶことで、治療への主体性が高まり、結果的にも良い方向に向かうことが多いと感じています。

鈴木医師: ハーバーマスの「システムによる生活世界の植民地化」という言葉は、EBMやガイドラインが重視される現代医療の現状を言い当てていると感じました。効率性や標準化を追求するシステムの中で、患者さんの個別性や生活史、その人なりの「意味」といった「生活世界」が軽視されがちになっている。しかし、患者さんを「個体」としてではなく「人間」として捉え、対話を通じて「合意」を形成するプロセスこそが、患者中心の医療には不可欠であると、この章を読んで再認識しました。特に、診断や治療が困難なケース、あるいは終末期医療の現場では、医学的な正しさだけでなく、患者さんやご家族の意向を尊重し、最善の「合意」を探ることが何よりも大切になります。真理を巡るローティとハーバーマスの対立軸が「真理VS幸福」と表現されていたのも興味深く、医療現場では「患者の幸福」を第一に考える視点が不可欠だと改めて感じました。

田中教授: ローティの言う「反本質主義」とハーバーマスの「コミュニケーション的合理性」は、異なる思想的系譜を持ちながらも「合意」という点で交差するのが面白いですね。医学が絶対的な真理を追求するデカルト的な認識論から、患者と医療者の間で意味が生成される「会話」へと転回していく。これは、西洋医学が歴史的に軽視してきた「癒し」の側面を再評価する動きともリンクすると言えるでしょう。医学の父ヒポクラテスも、「医者は言葉の力で患者を治療する」と述べたと言われています。つまり、言葉による「納得」や「共感」が、治療効果に大きく影響することを、昔の医師たちは経験的に知っていたのです。現代社会における「コミュニケーション的転回」は、そうした医療の根源的な側面への回帰とも捉えられます。医療者が一方的に「治療してやる」という姿勢ではなく、「共に病と向き合う」という姿勢こそが、これからの医療に求められるのだと思います。

西村: コミュニケーションが、単なる情報伝達ではなく「意味生成の場」であるという視点は、これからの医療を考える上で非常に重要ですね。特に、「他者をいわば単体の『あなた』から、複数の『みんな』へと拡張する転回、そしてここに公共知とも言えるものが立ち現われる」という「コミュニケーション的転回」の究極的な意義は、統合医療の目指す姿と重なる部分が多いと感じました。続いて、第4節の「医療倫理をめぐる問題」に進みましょう。生殖医療や臓器移植の問題を例に、医療技術の善悪だけでなく、その前提となる知識体系の不完全性や「線型性」への過信が指摘されていました。この点について、特に倫理的な問題に関心の深い田中教授に伺いたいです。

田中教授: 医療倫理の問題は、しばしば「光と影」という二項対立で語られがちですが、本章で指摘されているように、その根底には「中立なる医学体系」や「完全なる予測可能性」という、暗黙の前提が横たわっていることを見過ごしてはなりません。例えば生殖医療における遺伝子選択の是非や、臓器移植の成功例に偏した言説の裏には、生命現象が持つ「三体問題」のような予測不能性への意識の欠如がある。我々は、医学の進歩によって遺伝病を回避したり、臓器移植で命を繋いだりすることが可能になった素晴らしい時代に生きていますが、それによって全てをコントロールできるという「合理主義的楽観論」は、カンギレムが批判したように、個人の尊厳を置き去りにし、科学万能主義に陥る危険性を常に孕んでいます。生命現象は、複数の要因が複雑に絡み合い、相互作用する「複雑系」であり、単純な原因と結果の「線型性」では捉えきれない部分が多々あるのです。

鈴木医師: 確かに、インフォームド・コンセント一つとっても、医師が「正しい」と信じる情報を提供するだけでは不十分で、患者さんが何を重視し、何を不安に感じているのかを対話を通じて引き出す努力が必要です。遺伝病の回避一つとっても、医学的に「正しい」選択が、必ずしも患者さんやその家族にとっての「幸福」につながるとは限りません。例えば、ダウン症の出生前診断を例に挙げると、診断の技術は向上していますが、その結果に基づいて「どのような選択をするべきか」という問いは、医学だけでは答えられません。そこには家族の価値観、社会的な受容、生命の意味といった多角的な視点が必要となります。医学の限界を認識し、不確実性の中で患者さんと共に最善を探る姿勢こそが、新しい医療倫理には求められるのだと思います。

加藤さん: 優生思想の話は、非常に考えさせられました。医学が進歩して、病気の赤ちゃんが生まれるリスクを事前に知ることができるようになるのは良いことだと思います。でも、それによって「完璧な赤ちゃん」を求めすぎる社会になってしまうのではないかという不安も感じます。医学が提供できる情報と、私たち個人がどう生きるか、どんな命を大切にするかという価値観は、本来別々のものですよね。医師の先生方には、その線引きを常に意識してほしいと願っています。臓器移植の問題でも、成功例ばかりが語られがちですが、移植後の生活の質の変化や、ドナーの方への思い、家族の葛藤など、語られない側面もたくさんあるはずです。医療技術が進歩すればするほど、私たち患者が「何を基準に、どう選択していくか」という問いは重くなります。その際、一方的な情報提供ではなく、じっくりと対話を通じて「納得」できる選択をサポートしてくれるような医療が望ましいです。

西村: 医療倫理の議論は、科学的な「説明」と人文科学的な「了解」が最も複雑に絡み合う領域だと感じます。そして、この領域において、私たちが無意識のうちに陥ってしまう「理性の誤作動」が、最後のテーマである「アンチノミー」でしたね。それでは、第5節の「アンチノミーをめぐる問題」について意見を交わしましょう。カントの二律背反を引き合いに出し、科学万能主義への過信が陥りやすい「理性の誤作動」が指摘されていました。鈴木医師、この点はいかがですか?

鈴木医師: サイモン・シンのような代替医療批判者の姿勢は、まさに究極の判断基準を統計学に置き、すべてを善悪で二分しようとする点で、カントの言うアンチノミーに陥っているように見えます。世界は有限か無限か、自由は存在するかしないか、といった答えの出ない問いに、一方的な答えを出そうとするような。EBMを重視する私自身も、そうした「アンチノミーの罠」に陥らないよう、常に「方法論的自覚」を持って診療にあたらなければならないと強く感じました。例えば、現代医学が万能であるというテーゼに対し、代替医療は全く効果がないというアンチテーゼをぶつける。しかし、その根底には「唯一絶対の正しい医療が存在する」という前提があり、それ自体がカントが否定した理性の限界を超えた問いである、ということですね。この章を読んで、自分の思考の癖や、無意識のうちに科学主義に傾倒していないかを常に反省するきっかけになりました。

田中教授: 科学万能主義は、医療に限らず現代社会全体に根深く存在します。しかし、カントが示したように、理性には限界があり、極限や絶対を求めると矛盾に陥る。医療の世界においても、例えば「命の始まりはどこか」「死とは何か」といった問いは、医学的な定義だけでは決して答えが出ません。あるいは「人間の健康とは何か」という問いも、数値化できる病気の有無だけでなく、精神的、社会的、霊的な側面を含む多次元的な概念です。そうしたアンチノミーを認識し、矛盾をも飲み込むような「多元主義」の視点から生命を捉えることの重要性が改めて強調されたと思います。ヘーゲルの「矛盾」とカントの「アンチノミー」の区別も非常に重要な指摘で、安易な「統合」は、この理性の限界を見過ごすことにつながりかねません。私たちは、このアンチノミーの罠から逃れるために、カントの「コペルニクス的転回」に匹敵するような、医療全体における視点の大転換が必要なのだと思います。

加藤さん: 私は、今まで医学と哲学を別々のものとして考えていましたが、この章を読んで、実は深くつながっているのだと驚きました。「正しい答え」を一つに決めつけるのではなく、いろんな考え方があることを認める「多元主義」は、患者の選択肢を広げる統合医療の考え方にも通じると思います。例えば、ある病気で、西洋医学的な治療法が合わないと感じた時、代替医療の中に自分に合う方法を見つけることができるかもしれません。その選択肢を「科学的ではないから」と一方的に否定されるのではなく、きちんと対話の中で、自分の体がどう反応しているのか、どんな効果を感じているのかを聞いてもらえれば、患者としては救われます。医師の先生方には、常にそうした哲学的な視点も持って、私たちの話を聞いてくれることを期待しています。そして、一つの「真理」に囚われず、患者一人ひとりの「幸福」を最大化するための道を探ってほしいと強く願います。

西村: 皆さん、本日は貴重なご意見を本当にありがとうございました。「診断」が「診立て」へと、「統計学」が「説明」と「了解」の使い分けへと、そして「医学的真理」が「会話による合意」へと転回していく。この「コミュニケーション的転回」こそが、現代医療が抱えるアンチノミーの罠を乗り越え、より患者中心の、プラグマティックな医療へと回帰するための鍵となるということが、深く理解できたと思います。統合医療は、この大きな転換を象徴する存在として、今後ますますその重要性を増していくでしょう。医療の根本を問い直し、新たな医療倫理を構築するためには、私たち一人ひとりが、理性と感情、科学と人文科学の境界を意識し、常に「方法論的自覚」を持って、患者さんと向き合う姿勢が求められる。そうした医療の未来を、読者の皆さんにも、この対話を通じて共に考えていただくきっかけになれば幸いです。本日は誠にありがとうございました。


tougouiryo at 2025年10月05日06:00|この記事のURLComments(0)

「統合医療の哲学」を読み解く! 第4章をめぐる対話





西村(編集者): 皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。第4章のテーマは「プラグマティズム」。パース、ジェイムズ、デューイ、ローティといった思想家たちの視点から、統合医療における多元主義や選択の基準について深く掘り下げていきたいと思います。特に、読者の方々が「効けば何でもいい」といった通俗的な理解に陥らないよう、より本質的な議論をお願いします。

田中教授(大学教授・医学史専門): プラグマティズムは、アメリカという多様な人種のるつぼの中で、南北戦争後の思想的対立を解消しようとする中で生まれた思想ですから、科学と非科学の対立が顕著な統合医療にとって、非常に示唆に富む視点を提供してくれるでしょう。

鈴木医師(若手医師・EBM重視): 私は現代医療の現場にいるので、どうしても「科学的エビデンス」を重視してしまいます。しかし、代替医療の中にはEBMだけでは評価しきれないものがあるのも事実です。プラグマティズムが、そうした「目に見えないもの」をどう扱うのか、非常に興味があります。

加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり): 私自身、代替医療を利用した経験があるので、この「効けば何でもいい」という批判には直面したことがあります。治癒という結果を重視するプラグマティズムが、私のような患者側の立場から見て、どのように選択の指針を与えてくれるのか、期待しています。


西村: まずはパースのプラグマティズムから見ていきましょう。彼の「プラグマティズムの格率」は、概念を明晰にするために、それが行動に関係するどんな効果をもたらすかを考察することだと述べられていますね。

田中教授: そうですね。パースは技術者としてのバックグラウンドもあり、実験によって結果が観察されることを予期しています。彼の考えは後に論理実証主義へとつながるもので、まさに科学的探究の基礎を築いたと言えるでしょう。

鈴木医師: EBMの考え方にも通じるものがありますね。「どんな効果があるか」という検証は、まさに臨床研究や治験で求めているものです。ただ、パースは「私たち(we)」という共同観察学の視点を重視しています。現代医療においても、多職種連携やカンファレンスで、客観的な事実に基づいた合意形成を目指す姿勢は非常に重要だと感じます。

加藤さん: 「効けば何でもいい」というよりも、「何がどう効いているのか」を突き詰める姿勢ですね。患者としては、その治療が自分にどういう変化をもたらすのか、具体的に知りたいです。


西村: 次にジェイムズです。彼はパースのプラグマティズムを、より広範な領域に拡大解釈しました。特に「真理有用説」は、統合医療にとって大きな意味を持つのではないでしょうか。

田中教授: まさにその通りです。ジェイムズは神秘主義の研究者を父に持ち、自身も心理学、哲学、そして宗教や心霊現象にまで関心を示した多彩な人物です。彼のプラグマティズムは、実験から得られる経験だけでなく、情緒的な反応をも含む幅広いものを対象としました。

鈴木医師: 「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という「ジェイムズ=ランゲ説」は有名ですね。彼の思想が、単なる客観的事実だけでなく、個人の主観的な経験や感情も重視するというのは、現代医療だけでは捉えきれない、スピリチュアリティや祈りといった代替医療の要素を理解する上で非常に重要だと感じます。

加藤さん: 「信じることが有益である限りは真である」という考え方は、患者にとって大きな希望になります。たとえ科学的エビデンスが確立されていなくても、その治療法が自分にとって有益だと感じられれば、それは真実であると。これは、画一的な治療法ではなく、個々の患者に寄り添う統合医療の根幹をなす考え方だと思います。

田中教授: ジェイムズは「軟らかい心の人」と「硬い心の人」の対立を仲裁しようとしました。科学と宗教、経験論と合理論。統合医療をめぐる対立構造そのものですよね。彼の思想は、まさにその両者を調和させ、大衆の要求に応えるものであったと言えるでしょう。

西村: ジェイムズの考え方は、統合医療が「多元的統合医療」と称されるべき理由にもつながりますね。合理論的な一括救済ではなく、部分的な救済、個別性を重視する。

加藤さん: 私の経験でも、一種類の治療法が万人に効くわけではないと感じています。様々な選択肢の中から、その時の自分の状態に合ったものを選ぶ、まさに個別医療だと思います。


西村: 続いてデューイの「道具主義」について議論しましょう。思考や行動を「道具」として捉えるこの考え方は、統合医療をどう活用していくべきか、具体的な指針を与えてくれそうです。

田中教授: デューイはパースやジェイムズの思想を受け継ぎつつ、教育哲学や民主主義論を展開しました。彼にとって、考えること自体が環境をコントロールするための道具なんですよね。

鈴木医師: 医療行為も、身体という環境をコントロールするための「道具」と捉えることができますね。現代医療だけではなく、代替医療の様々な治療法も、それぞれが問題解決のための「道具」であると。これは非常に納得できます。

加藤さん: 「道具」という言葉は、少し冷たい印象を受けるかもしれませんが、私としては「選択肢」と言い換えられると思います。その選択肢の中から、自分で熟慮して、責任を持って選ぶ。その結果に対する責任も自分で引き受ける、ということですよね。

西村: そうです。「結果に対する責任」という点が非常に重要ですね。デューイは「決断したことに対する責任と併行して、こうした所為を支持し、それにその究極の帰結と性質とを与えてくれる、全体に対する、責任の重荷から、気持ちよく開放してくれるものが伴うかも知れぬ」と述べています。

田中教授: デューイの健康観も素晴らしい。「いかに健康に生きるかは、人によってちがう問題である」と。統合医療が目指す個別性そのものです。

鈴木医師: 確かに、病気の治療だけでなく、患者さんの「生き方」まで含めて考えるのが統合医療の目指すところだとすれば、この健康観は非常に重要です。

西村: しかし、デューイの道具主義は、アドルフ・マイヤーのように安易な折衷主義に陥る危険性も指摘されていますね。

田中教授: ええ、そこは注意が必要です。デューイ自身は責任の重要性を説いていますが、「道具」という即物的なイメージが、深く考えずに安易な組み合わせを許容してしまうことにもつながりかねません。一つの道具を選ぶということは、その道具の背景にある世界観をも選ぶことだ、という認識が不可欠です。


西村: 最後にローティの「ネオ・プラグマティズム」です。彼の提唱する「解釈学的転回」や「会話の継続」は、多様な集団での連携や、個々の問題解決がうまくいかない場合の対処法に大きな示唆を与えてくれると思います。

田中教授: ローティは哲学の主流であった認識論の終焉を宣告し、その後継として解釈学を提唱しました。そして、真理の発見ではなく、「会話の継続」こそが重要であると述べました。

鈴木医師: 現代医療においても、患者さんの「語り(narrative)」を重視するNBM(ナラティブ・ベイスト・メディスン)が注目されています。これはまさにローティの言う「解釈学的転回」の一端ですよね。客観性だけでなく、一人ひとりの患者さんの内面的な世界に焦点を当てる。

加藤さん: 私は、主治医の先生だけでなく、代替医療の施術者の方ともよく話します。それぞれが違う視点を持っているので、私自身の病気や体調について、多角的に考えることができるのは非常に心強いです。ローティの言う「会話の継続」は、まさに患者と医療従事者、そして様々な治療法の専門家が対話する場そのものだと思います。

西村: ローティは「反本質主義」「事実と価値の区別に対する拒否」「会話という制約以外には探求には一切の制約がない」という三つの特徴を挙げています。特に「強制によらない合意」という概念は、統合医療のカンファレンスのあり方そのものと共通しますね。

田中教授: まさに「ジャングルカンファレンス」の概念につながります。複数の異なる医療体系を専門とする者が集まり、患者さんの問題を討議する。医療的に明らかな危険行為は指摘しつつも、そうでない見解は認め、自由な会話を通じて合意に至る。

鈴木医師: 患者さん自身もカンファレンスに参加できるというのは素晴らしいですね。自分の身体のことですから、自分で選択し、決断する。デューイの道具主義で言えば、責任をもって道具を選択する、ということにもつながります。

加藤さん: 私は、自分の病気について色々な情報を集め、最終的にどの治療法を選ぶか、自分で決めるようにしています。もちろん、専門家の意見は参考にしますが、最後は自分の感覚や直感を信じることも大切だと感じています。ローティの考え方は、そうした私の経験を肯定してくれるようです。

西村: プラグマティズムは、単に「効けば何でもいい」という浅薄な折衷主義ではなく、結果に対する責任を伴い、多様な世界観を尊重し、そして対話を通じて合意を形成していく、深い哲学に基づいていることが分かりました。統合医療が目指す姿と、プラグマティズムの思想が非常に密接に関連していることを改めて確認できました。本日はありがとうございました。


tougouiryo at 2025年10月04日06:00|この記事のURLComments(0)

「統合医療の哲学」を読み解く! 第3章のまとめ

 今回の第3章は、あえてまとめも載せておきましょう。そもそもこの「統合医療の哲学」を書こうと思ったのは、折衷・多元・統合に対する用語の大きな誤解が原因でした。当時、ガミーのこの著作をベースに統合医療を論じる流れがあったのですが、それらは「統合主義」こそが理想で、多元はその未熟な段階だという主張でした。ガミーの著作を精読すれば、実はそうではないのですが、偏見を持って流し読みするとそう読めてしまうわけです。これに関しては、訳をされた京都大学の村井教授も私と同様の意見で、それゆえに当時、この書籍に対して推薦文まで頂いたという経緯があります。それほどに、誤解の多い第3章ですので、あえて「まとめ」を作成してみました。





【第3章のまとめ】

この対話を通じて、ガミーが提唱する「多元主義」が、統合医療における課題解決の鍵となることが明確になりました。

  • 教条主義: 単一の方法や理論が唯一の正解であるとし、他を否定する排他的な一元論的アプローチ。頑迷で古臭いイメージが強く、政治的には専制政治に例えられる。統合医療の文脈では、自らの代替療法のみを絶対視し、他を排斥する立場。

  • 折衷主義: あらゆる理論や方法に等しい価値を認め、無自覚に並列・混在させるアプローチ。一見柔軟だが、明確な指針を欠き、無秩序状態に陥り、最終的には教条主義に引きずり込まれる危険性を持つ。ガミーはこれを「心の無秩序状態」とし、政治的にはアナーキズムに例える。EBMNBMの両輪モデルも、単なる並列では折衷主義となりうる。過度の寛容は、危険な治療を容認する可能性も秘める。

  • 統合主義: 異なると思われたものが、地道な研究や発見によって矛盾が解決され、より高次の概念へと止揚される未来志向のアプローチ。理想的だが、現実の臨床への適用は時間を要し、理論的かつ限定的な立場。

  • 多元主義: 特定の状況に対して、ある方法が他の方法よりも適正であると考えるアプローチ。複数の方法から最も優れたものを選択し、その都度、純粋に単一の方法を用いる。優劣を前提とし、自らが依拠する方法論を「方法論的自覚」をもって使い分ける。ガミーはこれを「民主的」と喩え、自然科学的な「説明」と人文科学的な「了解」を適切に使い分ける重要性を説く。

 ガミーの指摘する「折衷主義の問題」は、統合医療の領域にも同様に存在し、特に「過剰なものの包摂」という危険性をはらんでいます。EBMNBMの両輪モデルも、単に両方を並列させるだけでは折衷主義となり、明確な指針を欠くという批判を受けます。

 真の多元主義とは、単なる「効けば何でもよい」という安易なプラグマティズムではなく、各々の方法が持つ「世界観」を尊重し、自覚的に最も適切な方法を選択していく姿勢にあります。一つの方法に深く入り込み、その世界観を理解することで、初めてその効果を最大限に引き出せる、というメッセージが込められています。この多元主義的な視点は、詐欺やカルト的な代替医療から患者を保護するためにも不可欠であり、医療者が常に自覚的に吟味し、患者の真の利益を追求する姿勢を促します。


tougouiryo at 2025年10月03日06:00|この記事のURLComments(0)

「統合医療の哲学」を読み解く! 第3章をめぐる対話




 

参加者

  • 西村(編集者)今回の原稿の担当編集者。読者への分かりやすさを重視し、多角的な視点からの議論を促す。
  • 田中教授(大学教授・医学史専門)統合医療の歴史的背景や文化的側面に関心がある。
  • 鈴木医師(若手医師・EBM重視)現代医療の現場に身を置く立場から、エビデンスに基づいた議論を重視する。
  • 加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり)実際に代替医療の利用経験があり、患者目線での疑問や期待を抱いている。

 

 

西村(編集者): 今回、執筆いただいた第3章「多元主義」について、読者の皆さまにさらに分かりやすく、そして多角的な視点から理解を深めていただくため、対話形式で内容をまとめていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

田中教授(大学教授・医学史専門): 統合医療における「多元主義」という概念は、非常に興味深いですね。特に、精神医学との類似性から論じている点が、学術的にも深い洞察を与えてくれます。医学の歴史を紐解くと、こうした多様な治療体系や思想の共存、あるいは対立は、常に繰り返されてきたテーマだと感じます。

鈴木医師(若手医師・EBM重視): 私は日々の臨床でEBMを重視しています。第3章では、EBMNBMの両輪モデルが折衷主義として批判されていましたが、そのあたりの具体的な問題点について、皆さんと議論できることを楽しみにしています。私としては、エビデンスに基づいた医療が患者さんにとって最善であると信じていますが、この章を読んで、その考え方にも盲点があることを知りました。

加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり): 私自身、代替医療に興味があり、実際に試したこともあります。この章を読んで、代替医療と現代医療がどう共存していくべきなのか、改めて考えさせられました。患者としては、結局何が一番良いのか、安心できるのか、というところが知りたいです。特に、怪しいと感じる代替医療と、そうでないものの区別がどうつくのか、気になります。

西村(編集者): ありがとうございます。それでは早速、この章の核となる「教条主義」「折衷主義」「統合主義」「多元主義」という4つの主義について、まずはその特徴を整理することから始めましょう。田中教授、まずは教条主義について、歴史的背景も踏まえてご説明いただけますか?

田中教授: はい。教条主義とは、平たく言えば「自分たちの方法こそが唯一の正解である」と信じて疑わない立場のことです。歴史を振り返ると、医学のあらゆる時代において、特定の学派や治療法が「絶対」とされ、それ以外のものを排斥しようとする動きが見られました。例えば、古代ギリシャのヒポクラテス医学が主流だった時代も、特定の診断法や治療法が「唯一」とされ、非科学的な民間療法を退ける傾向がありました。近代精神医学における生物学派と精神分析諸派の対立は、まさに教条主義同士のぶつかり合いだったと言えるでしょう。どちらか一方が正しいと主張し、他方を否定する、非常に硬直した姿勢です。統合医療の文脈では、自らの行う代替療法が万能であると主張し、現代医療や他の代替療法を全て否定するような立場がこれに当たります。

鈴木医師: 現代医療の現場でも、特定の治療法やガイドラインが絶対視されすぎると、教条主義的な側面が出てしまうことがあります。例えば、ある疾患に対して確立された治療法がある場合、それ以外の可能性を考慮しなくなる、といった状況ですね。患者さんの個別性が見過ごされかねない危険性もありますし、新たな知見が生まれにくくなる可能性も否定できません。

加藤さん: 私が代替医療を探していた時も、「この治療法でどんな病気も治る!」と謳っているところがありました。病名まで特定して、「あなたは○○だから、この治療しかない」と言われると、藁にもすがる思いで信じてしまいそうになります。それが教条主義ということなんですね。なんだか少し怖いなと感じたこともあります。そうした強固な信念を持つ人たちが、必ずしも良い結果をもたらすとは限らないのですね。

西村(編集者): なるほど。教条主義が持つ排他性や硬直性がよく分かりました。では次に、現代において多くが「正統」と認め、主流とされる「折衷主義」について、鈴木医師から、その特徴と、なぜそれが問題視されるのか、という点を中心にお願いできますでしょうか。特に、ガミーが批判する「BPSモデル」との関連も踏まえてお願いします。

鈴木医師: はい。折衷主義は、多くの大学の精神医学教室で中心を占めている「生物・心理・社会モデル(BPSモデル)」に代表される立場です。このモデルは、ロチェスター大学のエンゲルが提唱し、すべての疾患が生物学的、心理学的、社会的な側面を持っているという見解であり、国際的に広く普及しました。一見すると非常に柔軟で、患者さんの「全人的」な側面を捉えようとする理想的な考え方に見えます。良いところを組み合わせて統合しようという考え方ですね。
しかし、この章ではガミーが「無自覚に混在させ盲目的に組み合わせている」と批判しています。つまり、複数のアプローチを無造作に並列させることで、個々の療法の良さが損なわれたり、どれもこれも良しとするため、結局何も選択できず、場当たり的な治療になってしまう危険性があるというのです。ガミーは、これを「心の無秩序状態」と呼び、政治的には「アナーキズム(無政府主義)」に例えています。そしてアナーキズムが見かけ上寛容であっても、いつの間にか最も強いものに支配され、専制政治に陥るように、折衷主義も結局は教条主義へと容易に引きずり込まれると警告しています。

加藤さん: 確かに、「効けば何でもいい」という言葉はよく聞きますし、私自身もそう思ってしまうことがあります。患者としては、選択肢が多いのは嬉しいけれど、逆に多すぎてどれを選べばいいのか分からなくなることもあります。結局、何が効果的なのか、医師に教えてほしいと思ってしまいます。特に、統合医療という言葉を聞くと、何でもかんでも取り入れているようなイメージを持つこともあります。それが良いことばかりではない、ということなんですね。

田中教授: 折衷主義は、対立する学派の緩衝地帯として一時的な平和をもたらすことはできましたが、根本的な解決には至らないという点は、歴史が示唆するところでもあります。例えば、中世ヨーロッパの医学では、ガレノスの体液説と民間療法、そして信仰療法などが混在していましたが、それらを単に「並べる」だけでは、効果的な医療体系を確立するには至りませんでした。また、ガミーが指摘するアドルフ・マイヤーの例は、非常に示唆に富んでいますね。寛容な折衷主義者であったマイヤーが、結腸切除療法や前頭葉切除術といった、現代から見れば明らかに危険な身体的治療の認可に重要な役割を果たしたという事実は、過度の寛容が招く危険性を雄弁に物語っています。当時は「何でもあり」の状況が、かえって危険な実験を許容してしまった、という悲劇と言えるでしょう。

西村(編集者): その混乱が、最悪の場合「危険な状態を招き入れる」とまで言われていますね。過剰なものの包摂、つまり不必要な治療や効果の薄い治療、さらには詐欺的な療法まで許容してしまう危険性も指摘されていました。これは統合医療の現場においても、非常に重要な警告だと感じます。では、折衷主義を乗り越えようとする試みの一つである「統合主義」とは、どのようなものなのでしょうか?田中教授、お願いします。

田中教授: 統合主義は、この章で述べられている「統合医療」における「統合」とは、少し意味合いが異なります。ガミーの言う統合主義は、異なると思われた二つのものが、研究の進展とともにその関連が明らかになり、矛盾が解決されて「止揚(アウフヘーベン)」されるという立場です。これは非常に未来志向で、地道な研究によって一つ一つ「点線のかかわりを実線に変えていく」ようなアプローチと言えます。例えば、東洋医学のハーブに含まれる有効成分が科学的に単離され、現代医療の薬剤として組み込まれるようなケースがこれにあたります。精神医学では、心理的な心の事象と生物的な脳の事象が関連していることを解明しようとする研究、例えばエリック・カンデルによる精神分析の神経生物学的基礎の追求などがこれに当たります。これは未だ実現していない、いわば将来の理想像として語られることが多い立場です。

鈴木医師: 統合主義は、EBMを追求する私たちにとっても非常に魅力的で、最終的な目標とも言える考え方です。科学的な根拠が積み重なることで、より確実で効果的な治療法が確立されていくのは理想的だと思います。ただ、現状ではまだ多くの代替医療が科学的に検証されていないため、膨大な時間と労力がかかることも理解しています。すべての治療法をこの「統合」の枠組みに組み込めるわけではない、という現実もまた認識しておく必要がありますね。

加藤さん: 確かに、そうやって科学的に効果が証明されて、現代医療に取り入れられるのは安心できますね。でも、まだ科学で説明できないけれど、実際に効いていると感じるものもあるので、そこはどうなるのかな、という疑問もあります。例えば、鍼灸やアロマセラピーなど、リラックス効果や自己治癒力を高めるようなものは、一概に科学的な説明だけで割り切れない部分もあるように感じます。そうしたものが、未来には統合されていく、ということなのでしょうか。

西村(編集者): その疑問に答えるのが、この章の主題である「多元主義」ということになりますね。田中教授と鈴木医師、そして加藤さんの疑問も踏まえつつ、この多元主義について、ご説明いただけますでしょうか。特に、ガミーがなぜ多元主義を「民主的」と喩え、折衷主義と区別するのか、その本質的な違いにも触れていただけるとありがたいです。

田中教授: はい。多元主義は、教条主義の「専制」や折衷主義の「アナーキー」に対し、「民主的」であると喩えられています。これは、特定の状態や状況に対して、何らかの方法は他の方法に比べてより適正である、という考え方です。折衷主義のようにすべてを無秩序に混在させるのではなく、複数の方法の中から最も優れたものを選択し、その都度、純粋に単一の方法を用いることが重要だとされています。

鈴木医師: ガミーは、折衷主義が「すべての方法が価値において平等である」と仮定するのに対し、多元主義は「優劣が生じることが前提」だと主張します。つまり、闇雲に組み合わせるのではなく、個別の問題に対して最も有効な方法を見極め、それを単一で用いることを目指します。例えば、胃がんの早期発見なら外科手術が最適解であり、そこに不必要な代替医療を混ぜることはしない。しかし、手術後の不安軽減には心理カウンセリングが有効かもしれない。このように、それぞれの治療法が持つ「最も適正な領域」を見極めることが多元主義の肝です。

加藤さん: なるほど。私としては、やはり「これが一番良い」とプロに言ってほしい気持ちがあります。でも、それは状況によって変わる、ということなんですね。例えば、風邪なら市販薬で様子を見るけれど、重い病気なら専門医の指示に従う、というような使い分けでしょうか。それが、漠然と何でもありにするのではなく、きちんと選んで使う、ということなんですね。

田中教授: その通りです。多元主義の鍵となるのが、ガミーがパースのプラグマティズムに基礎を置いた「方法論的自覚」です。これは、ヤスパースが精神医学において提唱した「説明(Erklaren)と了解(Verstehen)」の概念に通じます。説明とは、客観的な因果関係を解明する自然科学的なアプローチ。了解とは、意味理解を通じて現象の個別的な側面に目を向ける人文科学的なアプローチです。多元主義は、この両者を適切に使い分けることを主張します。つまり、今、自分がどのような方法論に依拠しているのかを常に自覚し、目の前の患者さんの状態に合わせて、どちらのアプローチがより適切なのかを自覚的に選択する。これが、真の多元主義的な医療と言えるでしょう。

鈴木医師: 私たちがEBMを重視する背景には、客観的なデータに基づいて「説明」責任を果たしたいという思いがあります。しかし、患者さんの苦痛や背景にある「物語」を「了解」することも、同じくらい重要です。特に精神科領域や慢性疾患の患者さんを診る中で、EBMだけでは拾いきれない側面があることを痛感しています。多元主義は、EBMNBMを単に並列させるのではなく、両者の特徴と限界を理解した上で、状況に応じて自覚的に使い分けることを促します。これは、現代の医療者が目指すべき姿だと強く感じます。

加藤さん: 患者としては、結局のところ、医師が「なぜこの治療法を選ぶのか」をきちんと説明してくれれば、安心できます。そして、私の「病気」だけでなく、私自身の「人生」や「気持ち」も理解しようとしてくれる医師に出会えると、とても心強いです。多様な選択肢がある中で、自分に合ったものを、医師がプロの視点から選んでくれる。それが多元主義の医療だとすれば、とても期待できます。そして、もし代替医療を取り入れたいと相談した時も、頭ごなしに否定するのではなく、私の状態に合わせて「これは有効かもしれない」「これは危険だからやめておこう」と、具体的な根拠をもってアドバイスしてほしいです。

西村(編集者): ありがとうございます。皆さんの対話から、多元主義が単なる折衷とは一線を画し、より深い洞察と自覚的な選択に基づいた医療であることを明確に理解できました。EBMNBMの両輪モデルについても、単なる両論併記ではなく、それぞれの有効性を理解した上で、患者中心の医療においてどう統合し、使い分けていくべきかという視点が必要なのですね。
ガミーが著書のタイトルで「現代精神医学原論」と名付けたように、これは現代医療、そして統合医療の「原論」とも言える重要な概念だと感じます。
最後に、この多元主義の考え方が、詐欺やカルト的な代替医療から患者を守る、という側面にもつながるという点について、田中教授から補足いただけますでしょうか。

田中教授: はい。多元主義は、すべての方法を平等に扱う折衷主義とは異なり、優劣を認めるため、危険な治療や効果の薄い治療を排除する基準を持つことができます。過度の寛容は、マイヤーの例のように、時に非常に危険な結果を招きます。統合医療という名の下に、科学的根拠が乏しく、時に有害な代替療法が蔓延することを防ぐためには、この多元主義的な視点が不可欠です。どの方法を用いるにしても、それが患者にとって本当に利益をもたらすのか、リスクはないのかを、常に自覚的に吟味する必要があります。これは、身体的な危険性だけでなく、経済的・社会的な側面からも患者を保護する役割を担うことになります。安易な反科学主義に陥ることなく、しかし科学の限界も認識した上で、真に患者の幸福を追求する姿勢が、多元主義には求められます。

西村(編集者): 大変重要なご指摘、ありがとうございます。患者さんの心身の健康だけでなく、社会的な側面も含めて守っていくのが、多元主義の担う大きな役割なのですね。
今日の対話を通して、第3章「多元主義」の核心と、それが現代医療、特に統合医療においてどのような意味を持つのか、深く理解できたと思います。読者の皆さまにも、この議論が、医療との向き合い方を考える上で、新たな視点を提供できたことを願っています。
本日は誠にありがとうございました。今回はとくに重要なので、最後に「まとめ」を記載しておきましょう。


tougouiryo at 2025年10月02日06:00|この記事のURLComments(0)

「統合医療の哲学」を読み解く! 第2章をめぐる対話




参加者

  • 西村(編集者)今回の原稿の担当編集者。読者への分かりやすさを重視し、多角的な視点からの議論を促す。
  • 田中教授(大学教授・医学史専門)統合医療の歴史的背景や文化的側面に関心がある。
  • 鈴木医師(若手医師・EBM重視)現代医療の現場に身を置く立場から、エビデンスに基づいた議論を重視する。
  • 加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり)実際に代替医療の利用経験があり、患者目線での疑問や期待を抱いている。

 

 

西村: 皆さん、第2章もお疲れ様でした!今回のテーマは「統合医療」ということで、さらに深掘りしていきましょう。特に「第一境界」と「第二境界」という概念が興味深かったですね。読者の皆さんも、このあたりが一番気になったのではないでしょうか。

田中教授: ええ、まさに。医療の世界にこんなにも複雑な境界線があるとは、改めて驚かされました。特に「正統」と「非正統」という言葉の使い方が、一筋縄ではいかない医療の現実を表しているように感じましたね。医学史の観点から見ても、この「正統化」のプロセスは非常に興味深いです。

鈴木医師: 僕もその点に注目しました。科学的であることが「正統」とされる現代医療の中にも、実は「科学的とは言えない事情」が少なからずある、という記述が印象的でしたね。しかし、ここではあえてその問題に触れず、科学と非科学という枠組みで考える、という著者の姿勢も、議論を整理する上では分かりやすかったと感じています。

加藤さん: そうですね。でも、その割り切り方が、私のような一般の人間にとっては、少し寂しく感じる部分でもあります。病気になった時、科学的な説明だけでは割り切れない感情や不安も大きいものですから。

西村: 加藤さんのご意見、よく分かります。そうした読者の視点も踏まえつつ、まずはこの「第一境界」から、もう少し詳しく見ていきましょうか。資料によると、第一境界は「正統か否かを分割する科学か非科学かという境界線」とされています。つまり、現代医療と代替医療を分ける線ですね。

田中教授: ええ。国家によって法的に認められ、さらに近代科学の成立以降は「科学的であること」が「正統」として求められるようになった、という歴史的背景も説明されていました。医療が制度化される過程で、時の為政者や社会の価値観が大きく影響していることが分かります。

鈴木医師: 確かに、僕たちが「医療」と聞いてまず思い浮かべるのは、病院で行われるような、科学的な根拠に基づいた治療ですよね。薬や手術なんかは、まさにその「正統医療」の典型例と言える。EBMEvidence-Based Medicine)が重視される現代においては、この「科学的であること」が医療の根幹をなすと言っても過言ではありません。

加藤さん: でも、資料では「混沌とした多元的な状態から、近代科学との関連を核として、あたかも結晶が析出するかの如く、正統医学が形成されてきた」と表現されていたのが、とても印象的でした。私は、病気になった時に、西洋医学では改善しない症状に苦しんで、藁にもすがる思いで代替医療を試した経験があるのですが、その時の気持ちを考えると、「結晶」から取り残された「溶媒」という表現は、なんだか切ないですね。

西村: 加藤さんの実体験を踏まえたご意見、ありがとうございます。まさにその「結晶」と「溶媒」の間に引かれるのが「第一境界」というわけですね。日本におけるこの境界の目安として、「保険診療ないしは最先端医療と、いわゆる代替医療一般の境界が第一境界にあたる」と明記されていました。

田中教授: 歴史的に見ても、保険制度の導入は医療の「正統性」を決定づける大きな要因となりましたね。保険が適用されるか否かが、一般の認識においても「正統な医療」と「それ以外の医療」を分ける大きな境界線となっているのは確かでしょう。

鈴木医師: はい。保険診療は、その有効性や安全性が公的に認められている、という側面がありますから。患者さんにとっても、費用の面だけでなく、信頼性という点で大きな安心材料となるはずです。

加藤さん: そうですね。でも、いくら保険が効くと言われても、自分に合わない治療では意味がないと思うんです。私の場合も、保険診療だけでは解決しなかったので、別の方法を探しました。

西村: 加藤さんのそうしたご経験も踏まえると、この境界も「厳密な線引きができるという意味合いではなく、むしろ全体が白から黒へグラデーションにより変化している」と書かれていたのが、まさに現実を表しているように感じますね。完全に白か黒か、ではない。

田中教授: そのグラデーションの話は、まさに次に説明される「第二境界」につながる重要な概念ですね。第一境界は「白と灰色の境界」で、第二境界は「灰色と黒の境界」という比喩もされていました。

鈴木医師: 第二境界は、「代替医療内部の境界」と説明されていますね。正統医療に近い代替医療と、そこから遠い代替医療を分ける、あいまいかつ恣意的な境界線、と。具体例として、前者は「エビデンスのしっかりしたハーブ」で、後者は「科学的検証にのらないエネルギー医学」が挙げられていましたが、この違いは、臨床の現場に立つ僕らからすると非常に大きいと感じます。

加藤さん: そうですね。ハーブや漢方なんかは、普段から生活に取り入れている人も多いですし、病院で処方されることもありますから。私も風邪の時に漢方薬を飲んだりしますし、体に良いと言われるハーブティーを飲むこともあります。でも、エネルギー医学と聞くと、さすがにちょっと構えてしまいますね。

田中教授: 加藤さんのそうした感覚は、非常に正直で、多くの人が抱くものだと思います。エビデンスの有無や科学的検証に対する姿勢による分類、と言い換えても良い、とありましたね。正統医学に近い代替医療として、ハーブ以外にも「保険診療としてもカバーされている漢方薬」や「効果の確立されたビタミン・ミネラルによる栄養療法」が例として挙げられていましたね。これらは、比較的、現代医療との親和性も高いと言えるでしょう。

鈴木医師: はい。漢方は日本の伝統医学として長年の経験に基づいた知見がありますし、ビタミンやミネラルも、その欠乏が疾病の原因となることは明らかですから。これらは、現代医学の視点からも一定の評価ができるものが多いです。

西村: 逆に、非正統の極みと言えるのが「目に見えないエネルギーを扱うエネルギー医学」とありました。「波動・エネルギー・祈り・スピリチュアリティ」といった切り口で紹介されるもので、現状の科学ではそのメカニズムの説明が困難なもの、と。

加藤さん: 祈りやスピリチュアルケア、ですか。これは確かに、私のような一般の人間でも「医療」とは少し違う感覚を持ちます。でも、例えば末期がんの患者さんが、心の平穏を求めてスピリチュアルケアを受ける、という話を聞くと、それがその人にとっての「癒し」になるのであれば、否定はできないな、とも感じます。

田中教授: 加藤さんのご意見は、非常に重要な視点ですね。科学的なメカニズムは解明されていなくても、患者のQOL(生活の質)向上に寄与する可能性は否定できません。近代医療が全てを解決できるわけではない、という現実も我々は認識しておく必要があります。

鈴木医師: しかし、「似非医療」と称されるものも存在する中で、「明確なエビデンスを有する代替医療と、そうではないものとを合わせて議論するものではないという批判に備えるため」に、この第二境界を設定する意義がある、というのは、僕らの立場からすると非常に理解できます。玉石混淆の中から、本当に患者さんのためになるものを見極める視点は不可欠です。

西村: まさにそこが、統合医療が「バランサー」としての機能を持つことにつながる部分でしょう。統合医療は、あらゆる代替医療に関して正面から取り組み、その適否の判断を下すことを目標としている、と。

田中教授: そうですね。「ある種の代替医療を勧めることもあれば、逆に中止するよう促すこともある」という記述は、統合医療が単なる代替医療の擁護ではないことを明確に示していますね。これは、統合医療の健全な発展のためには不可欠な姿勢だと思います。

鈴木医師: 危険な方法や詐欺・カルトから患者を守る、という「消極的なコーディネート」の意義が強調されているのも、臨床医としては非常に共感できます。患者さんは、病気という不安な状況の中で、あらゆる情報に触れることになりますから、正しい情報とそうでないものを見極める手助けは、僕らの重要な役割です。

加藤さん: 私も、病気になった時に、色々な情報に振り回されそうになった経験があります。効果がありそうなことなら何でも試してみたい、という気持ちになる一方で、本当にこれで大丈夫なのだろうか、という不安もありました。だからこそ、信頼できる専門家が「これはやめた方がいい」と教えてくれることは、とてもありがたいことだと思います。

西村: 加藤さんのそうした実体験を踏まえると、この「コーディネート」機能の重要性がより明確になりますね。大多数の医師が代替医療に関心がないからと、無視の立場をとっていることにも言及されていましたが、その点でも、統合医療の担う役割は大きいと感じます。

田中教授: 医療の歴史を見ても、新しい治療法や概念が登場する際には、常に賛否両論が巻き起こり、その中で淘汰されたり、あるいは主流になったりするものです。統合医療もまた、そうした試練の中にあり、この「コーディネート」機能は、その信頼性を確立する上で不可欠な要素となるでしょう。

西村: では、ここで一度、第一境界と第二境界、そしてその中間に位置する代替医療の特徴を整理してみましょうか。まず第一境界は「科学か非科学か」という明確な線で、現代医療と代替医療を分ける境界。これは、保険診療の有無が一つの目安になると。

鈴木医師: はい。そして第二境界は、代替医療内部に引かれる、あいまいな境界線ですね。正統医療に近い、比較的エビデンスが豊富な代替医療と、科学的検証が困難なエネルギー医学など、そこから遠い代替医療を分ける線です。

加藤さん: その中間に位置する代替医療、というのは、エビデンスが確立されているものから、まだ研究途上のもの、あるいは科学的な説明は難しいけれど、経験的に効果が認められているようなものまで、本当に幅広いということですよね。私たちが「代替医療」と一括りにしているものの中にも、これだけのグラデーションがある、ということが今回の原稿でよく分かりました。

田中教授: そうですね。資料にあった「どれがどちらに入るかは、個々の見解により大きく異なるが」という言葉が、この中間領域の複雑さをよく表していると思います。一概に「良い」「悪い」と決めつけられないのが、この分野の難しさであり、また奥深さでもある。

西村: 統合医療は、この第一境界と第二境界を意識しながら、医療全体を「一元的状態VS多元的状態」という新たな対立軸で捉え直そうとしている、とありました。従来の「白VS黒」の極端な対立ではなく、「白黒(一元的状態)VS灰色(多元的状態)」という見方ですね。

田中教授: 「究極の答えを求める姿勢」が共通する「極端な左派は極端な右派とその挙動が似てくる」という政治的な比喩も面白かったです。医療の議論においても、とかく感情的な衝突に終始しがちな傾向が見られますから、この視点は非常に示唆に富んでいると感じました。

鈴木医師: 統合医療は、この「灰色」の部分を重視している、ということですよね。あいまいさを許容し、様々な要素が併立して混じりあった「多元的状態」として医療を捉える。これは、EBMを重視する僕ら現代医療の人間にとっては、ある種の挑戦とも言えるかもしれません。エビデンスが明確でないものまで、どうバランスを取るのか、という課題が生まれますから。

加藤さん: でも、私のような患者にとっては、その「灰色」の部分にこそ、希望を感じることもあります。西洋医学で「もう手がない」と言われた時、その「灰色」の中に、もしかしたら自分に合うものがあるかもしれない、と。

西村: 加藤さんのそうした声があるからこそ、この「多元的状態」の許容が重要になるのでしょうね。だからこそ、「現代医療と代替医療の統合された体系であること」と「『個別性』と『全体性』を重視していること」という、統合医療の二つの主要な概念が導き出されるわけです。特に(A)の「現代医療と代替医療の統合された体系であること」は、名付けの本来的な意味合いから、最低限必要な概念だと強調されていました。

田中教授: アリゾナ大学のアンドルー・ワイル氏の統合医療プログラムも、この多元的アプローチを体現していると言えるでしょう。中国医学、オステオパシー、ホメオパシー、エネルギー医学など、様々な専門家が「同等の立場で意見を述べる」というカンファレンスの様子が描写されていましたが、これはまさに「多様性の併存」を実践している姿ですね。

鈴木医師: プラグマティックな場でもあった、とありましたね。患者が実際に試してみて、その有効性の有無を判定するという。ただ紹介するだけでなく、その治療法が不適切であれば再検討される、という点が、医師として非常に重要だと感じました。エビデンスがない、あるいは効果が不確かな治療を漫然と続けることは、患者さんの不利益につながる可能性もありますから。

加藤さん: 医師の先生が、きちんと見極めてくれるというのは、患者としては本当に安心できます。何でもかんでも「統合医療だから」と勧められるのは、かえって不安になりますから。

西村: つまり、ワイル氏は「医師を軸にしながら現代医療と代替医療を多元的に扱っていこうとする」意図を持っていた、ということですね。科学的な正統医療と、宗教的な代替医療の協調路線を模索する、というジェイムズの思想的萌芽も興味深かったです。

田中教授: ジョン・ロックの第一性質・第二性質への類比や、ハーバーマスの「生活世界の植民地化」という概念まで持ち出して、統合医療の意義を深く考察しているのは、非常に学術的で、私好みですね。特に、第一境界における統合医療の役割として、「ハーバーマスの言う生活世界の植民地化を防ぐという機能」が挙げられていたのは、非常に哲学的な視点だと感じました。

鈴木医師: はい。「身体というものが、科学を含めたシステムによって支配されること」への無意識の反抗の姿勢を、代替医療に見出す、という考え方ですね。ワクチン反対や検診義務化反対といった比較的過激な代替医療の主張も、この視点から見ると、単なる反科学というよりも、別の文脈で捉えることができるかもしれません。

加藤さん: そうですね。自分の身体のことなのに、システムに押し付けられるような感覚になる、というのは、私も経験したことがあります。病院の先生に言われた通りにするしかない、という時に感じる、あの息苦しさのようなものです。

西村: 加藤さんのそうした感覚を踏まえると、統合医療は「生活世界の援護として機能している」と見ることもできるわけですね。結局、統合医療は、必要性に応じて適宜、科学というものを有効活用しながらも、科学一元論的な状態に陥らぬようにしている「バランサー」である、という結論に落ち着くわけですね。

田中教授: 「バランサー」という表現は、非常に的を射ていますね。医療が社会や文化と深く結びついていることを考えれば、一元的な価値観だけで全てを律しようとすることには限界があります。

鈴木医師: しかし、この「バランサー」としての機能は、非常に高度な知識と判断力が求められることになります。科学的な知見と、患者さんの個別の状況、そして多様な代替医療に関する深い理解がなければ、適切な「コーディネート」はできません。僕たち医療従事者にとっては、常に学び続ける姿勢が不可欠だと改めて感じます。

加藤さん: その「併存の在り方」が問題となる、という指摘も興味深いテーマですね。ただ雑然と併存しているだけでは意味がない、という言葉が印象的でした。次章の精神医療の議論も楽しみです。きっと、今回の「多元的併存」というキーワードが、また重要な意味を持ってくるのでしょうね。

西村: 皆さん、ありがとうございます!第一境界と第二境界、そして統合医療の果たす役割について、かなり深く掘り下げられたと思います。資料の難しい概念も、皆さんの多角的な視点から、より鮮明になりましたね。特に加藤さんの患者目線でのご意見は、読者にとっても非常に参考になると思います。

田中教授: ええ。特に統合医療が単に「代替医療を勧める」だけではなく、「中止するよう促す」こともあるという点が、多くの人のイメージを大きく変えることになるでしょう。

鈴木医師: 「バランサー」という表現が、統合医療の複雑さと重要性を的確に表していると感じました。EBMを重視する僕らも、このバランサーとしての役割を、どう担っていくべきか、深く考えるきっかけになりました。

加藤さん: 次章の精神医療の議論も楽しみだわ。今回の「多元的併存」というキーワードが、きっとまた重要な意味を持ってくるのでしょうね。自分の心や身体の不調と向き合う上で、きっと大切なヒントが得られると期待しています。

西村: では、今日の対話はここまでとしましょう。皆さん、また次回もよろしくお願いします!


tougouiryo at 2025年10月01日06:00|この記事のURLComments(0)

「統合医療の哲学」を読み解く! 第1章をめぐる対話

それでは、今回から「統合医療の哲学」を対話形式で読み解いていきましょう!

まずは第1章から!

参加者

  • 西村(編集者): 今回の原稿の担当編集者。読者への分かりやすさを重視し、多角的な視点からの議論を促す。
  • 田中教授(大学教授・医学史専門): 統合医療の歴史的背景や文化的側面に関心がある。
  • 鈴木医師(若手医師・EBM重視): 現代医療の現場に身を置く立場から、エビデンスに基づいた議論を重視する。
  • 加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり): 実際に代替医療の利用経験があり、患者目線での疑問や期待を抱いている。

 

西村(編集者): 皆さん、本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。今回の新刊の第1章「代替医療」について、より読者の皆さんに深く理解していただくため、様々な立場からのご意見を伺い、対話形式で内容を掘り下げていきたいと考えております。まずは、本日お読みいただいた原稿の第一印象からお聞かせいただけますでしょうか。

田中教授(大学教授・医学史専門): ありがとうございます。非常に多岐にわたる代替医療の概念と歴史的背景を丁寧にまとめていらっしゃるという印象ですね。特に、欧米と日本における代替医療の成り立ちの違い、そして「補完医療」と「代替医療」の用語の変遷についても触れられている点は、医学史を専門とする私としては大変興味深く読みました。現代医療がいかにして「正統」となり、それ以外の医療が「非正統」とされてきたのか、その制度化の過程がよく理解できます。

鈴木医師(若手医師・EBM重視): 私からは、現代医療の現場にいる者としての率直な意見を。代替医療がこれほど多様な治療法を含んでいることに改めて驚きました。特に、生物学的治療法が現代西洋医学の範疇で理解可能でありながら、まだ「正統医学」としてコンセンサスが得られていないという記述は、今後の医療の方向性を考える上で示唆に富んでいると感じました。一方で、やはり科学的根拠が乏しいとされる療法群に対しては、医師として慎重にならざるを得ないというのも正直なところです。

加藤さん(一般の読者代表・代替医療に関心あり): 私自身、以前に体調を崩した際に、現代医療ではなかなか改善が見られず、友人の勧めで鍼灸やアロマセラピーを試した経験があります。その時は、心身ともに楽になった感覚がありました。この原稿を読んで、私が経験したような心身療法や徒手療法が、代替医療の広いカテゴリーに含まれることを知りました。サイモン・シンの批判やEBMからの反論といった難しい部分も書かれていましたが、患者としては、科学的根拠だけでなく、「実際に効いた」「安心できた」という実感が大きいんですよね。

西村: 皆さん、ありがとうございます。それぞれの立場からの貴重なご意見、大変参考になります。田中教授が指摘された歴史的背景、鈴木医師が提起された科学的根拠の問題、そして加藤さんの患者としての実感を踏まえ、もう少し具体的に掘り下げていきたいと思います。

まず、田中教授に伺いたいのですが、欧米と日本における代替医療の歴史的展開の違いについて、原稿では明治政府の医制による急速な西洋化が日本の特徴として挙げられています。この点が、今日における「混合診療」といった制度問題に繋がっているという記述がありましたが、もう少し詳しくご説明いただけますでしょうか。

田中教授: はい。原稿にもある通り、日本の近代医療は明治政府による医制によって、短期間で西洋医学が制度として確立されました。この時、既存の漢方医の多くを医師資格として取り込んだり、鍼灸、按摩、柔道整復といった職種を制限付きながらも制度内に組み込んだりしました。これは、欧米、特にアメリカが、非正統的医療を一度制限・排除した後に、患者の人権運動などを背景に再び広がっていったという歴史とは対照的です。

この日本の歴史的経緯が、現代の混合診療問題に繋がっていると考えることができます。つまり、多様な医療が存在することを政府がある程度許容し続けてきたため、現代医療と代替医療が完全に切り離されず、また完全に統合もされきらないという「あいまいな共存」の状況が生まれたのです。欧米では、代替医療が完全に保険適用外であるか、あるいは医師と同等の教育を受けたオステオパシーのように「正統」として扱われるか、といった線引きが比較的明確です。しかし日本では、制度的な枠組みの中で代替医療の一部が細々と存続してきたため、どこまでを保険診療として認めるか、という線引きが常に曖昧で、それが患者の自己負担や医療選択の自由といった問題と複雑に絡み合っていると言えるでしょう。

西村: なるほど、日本の医療制度の歴史的特殊性が、今日の混合診療問題の根底にあるということですね。非常に分かりやすい解説です。ありがとうございます。

次に、鈴木医師と加藤さんに、代替医療の分類についてお伺いします。原稿では米国国立補完代替医療センターの分類にならい、「代替医療システム」「心身療法」「生物学的治療法」「徒手療法や身体を介する療法」「エネルギー療法」の5つに大別されていました。この中で特に注目された点、あるいは疑問に感じた点はありますでしょうか?

鈴木医師: 私が最も注目したのは、「生物学的治療法」の項目です。ハーブやビタミンC大量点滴、キレーション療法などがこれに分類されており、これらは「生物学を中心とした科学的知見により説明可能な療法群」と記述されています。つまり、現代西洋医学の延長線上にあると考えられ、科学的検証もしやすい。もし効果が明確に示され、安全性が担保されるのであれば、積極的に現代医療に取り込まれる可能性も高いと感じました。この領域は、今後の統合医療の進展において、最も具体的な進展が期待できる部分ではないでしょうか。一方で、「エネルギー療法」のように「微細エネルギー」など、現代科学では特定されないものが含まれる領域は、エビデンスを重視する立場からすると、やはり慎重な姿勢を崩すことはできません。

加藤さん: 私も心身療法と徒手療法には特に興味を持ちました。鍼灸やアロマセラピーの経験もそうですし、普段からストレスを感じやすいので、瞑想やヨガなども試してみたいなと思っています。原稿に「これらは現代医療のカテゴリーとして、心療内科やリハビリテーションなどで用いられているものも少なくない」と書かれていたように、心療内科で受けられるものもあると知り、少し安心しました。ただ、「エネルギー療法」については、正直なところ、具体的なイメージが湧きにくく、「手かざしによる癒し」という言葉だけだと、少し戸惑ってしまうのが正直な感想です。

西村: 鈴木医師からは「生物学的治療法」への期待と「エネルギー療法」への慎重な姿勢、加藤さんからは「心身療法」「徒手療法」への関心と「エネルギー療法」への戸惑い、という意見が出ましたね。この「エネルギー療法」については、田中教授から補足いただけますでしょうか。原稿では「生気論的な意味合いをもつ要素も多分に含まれている」とありますが、これは具体的にどのような考え方なのでしょうか?

田中教授: 「エネルギー療法」は、現代科学ではまだ解明されていない、あるいは測定できない「見えない力」や「生命エネルギー」の存在を前提とした治療法です。原稿にもあるように、中国医学の「気」、アーユルヴェーダの「プラーナ」、西洋代替医学の「バイタルフォース」といった概念に共通するもので、これらは古くから様々な文化圏で生命の根本原理として考えられてきました。

「生気論」とは、生命現象が、物理学や化学では還元できない「生命力」や「気」のような特別な原理によって説明されるべきだという思想です。現代医療は、生命現象を物理的・化学的な反応の集合体として理解しようとする「機械論的」なアプローチが主流ですが、伝統医学や一部の代替医療は、この生気論的な視点を強く持っています。メスメリズムの「動物磁気」もその一つですね。患者さんの中には、そうした「目に見えない力」によって癒されるという感覚を強く持たれる方もいらっしゃるので、一概に非科学的と切り捨てるのではなく、文化的な背景や患者さんの主観的な体験として理解することも重要だと考えています。

西村: なるほど、生気論という概念を理解すると、より深く代替医療の根底にある思想が理解できます。ありがとうございます。

さて、原稿の後半では、サイモン・シン氏による代替医療批判と、それに対するEBMからの反論が述べられています。鈴木医師、このサイモン・シン氏の批判と、EBMからの反論について、現場の医師としてどのように受け止めていらっしゃいますか?

鈴木医師: サイモン・シン氏の批判は、統計学的データに基づいているという点で、非常に説得力があると感じました。特に、私たち医師が患者さんに治療を提案する際、常に「エビデンスはあるのか」という問いがつきまといます。効果が明確に証明されていない治療法を勧めることは、患者さんの時間や費用を無駄にするだけでなく、場合によっては健康を損なうリスクすら伴います。その意味で、代替医療に対しても厳密な科学的検証を求める彼の姿勢は、医療従事者として当然の視点だと思います。

しかし、原稿に書かれているEBMからの反論、つまり「大規模スタディの結果であっても、そのままの形で個々の例に安易に適用すべきでない」という点も、まさにその通りだと実感しています。EBMは確かに統計データを重視しますが、同時に患者さんの背景や意向、そして医療者の経験も加味して治療法を決定するものです。例えば、ある薬が大規模研究で統計学的に有意な効果を示したとしても、目の前の患者さんには副作用が強く出たり、特定の病態には合わなかったりすることは日常茶飯事です。

また、「現代医療そのものにおいても、RCTを経ていないものが少なくない」という記述には、耳が痛い思いです。風邪薬の使用や外科手術の評価など、確かに経験則に基づいて行われている治療も多く、完璧な科学的証明が常に存在するわけではありません。サイモン・シンの批判が、正統医学の「イデア」を前提としているとすれば、現実の医療は常にそのイデアと現実のギャップの中で行われている、ということになります。

加藤さん: 鈴木医師のお話は、患者としてもよく分かります。私も、ある症状で病院に行ったとき、検査の結果「特に異常なし」と言われたのに、本人はつらい、という経験があります。そういう時に、統計データ上は効果が低いとされていても、個人にとっては「効いた」と感じる代替医療があるのは、とても大切なことだと思うんです。

原稿にあった「語りを重視する」という代替医療の特徴も、まさにその通りだと感じました。現代医療の診察では、忙しい先生に短い時間で症状を伝えなければならず、なかなか自分の状態を深く理解してもらえているのか不安になることがあります。代替医療の施術者の方は、じっくり話を聞いてくれることが多く、それだけでも安心感や信頼感が生まれます。これが「癒し」につながる部分なのかもしれませんね。

田中教授: 加藤さんのご意見は、代替医療が持つ「個別性」と「語り」の重要性をまさに示していると思います。サイモン・シンの批判が、多数の患者を対象とした統計学的視点から行われるのに対し、代替医療は、個々の患者の全体性、つまり身体だけでなく、精神、生活習慣、価値観までも包括的に捉えようとする傾向が強い。これは、現代医療が病気の原因を特定し、排除することに特化する「要素還元主義」的なアプローチとは異なります。

EBMも本来は、統計データという客観的な情報と、患者の価値観や医療者の経験といった主観的な情報を統合する試みです。しかし、往々にして統計データのみが強調されがちです。代替医療は、まさにこのEBMの「情報の患者への適応」や「医療者の経験」といった部分、あるいは「語り」を通して引き出される患者の自己治癒力を信じるという点で、現代医療に欠けている部分を補完する可能性を秘めていると言えるでしょう。

西村: 大変興味深い議論です。サイモン・シンの批判は、統計学的データの重要性を提起する一方で、個人の多様性や主観的な経験を見落とす危険性もはらんでいる、ということですね。そして、EBMもその欠点を認識し、個々の患者への適応を重視していると。

では最後に、この第1章のまとめにもある「統合医療」という概念について、皆さんの現時点での期待や課題についてお聞かせください。原稿では、「混沌とした正統と非正統の関係をどのように扱っていくべきなのか。こうした問題意識の下に、両者のコーディネートを目指して、現実的対処として『統合医療』という概念が生まれる」と締めくくられています。

鈴木医師: 統合医療は、私たち医師にとっても非常に重要なテーマです。例えば、がん治療における補完代替医療の利用はすでに現実のものであり、患者さんが選択された場合に、それを頭ごなしに否定するのではなく、安全性を考慮しつつ、現代医療とどう組み合わせるか、という視点が求められています。しかし、最も大きな課題はやはり「科学的根拠」だと思います。全ての代替医療を闇雲に受け入れるのではなく、生物学的治療法のように検証可能なものは積極的に研究し、エビデンスを積み重ねていくことが、医療者としての責任だと感じています。そして、患者さんにも、効果とリスクについて正確な情報を提供することが不可欠です。

加藤さん: 私は、統合医療には大きな期待を寄せています。現代医療では対応しきれない、例えば慢性的な痛みや原因不明の体調不良で悩む人は少なくありません。そういう時、現代医療の知識を持った医師が、代替医療の選択肢も提案してくれたり、連携して治療計画を立ててくれたりしたら、患者としてはとても心強いです。ただ、今は情報が多すぎて、何を選べばいいのか分からないという不安もあります。だからこそ、信頼できる情報を提供し、適切に導いてくれる「統合医療」という形が、本当に必要だと感じています。

田中教授: 統合医療の目指すところは、まさに「医療の多元性」を認めることにあると思います。現代医療が優れている点、代替医療が持つ独自の強み、それぞれを理解し、患者さんの状態や価値観に応じて最適な組み合わせを見つける。これは、単に治療法の選択肢を増やすだけでなく、患者さんのウェルビーイング(well-being)全体を支えるという、より包括的な医療の実現へと繋がるはずです。

しかし、課題も多い。原稿でも指摘されているように、経済的問題や制度の問題、そして何よりも「科学VS非科学」という根深い対立をいかに乗り越えるか。これは医療従事者だけでなく、社会全体で議論し、理解を深めていく必要がある問題だと考えています。

西村: 鈴木医師、加藤さん、田中教授、本当にありがとうございました。皆様の多角的な視点からの議論は、この第1章の主題をより深く、立体的に理解する上で非常に示唆に富んでいました。特に、科学的根拠の重要性と、個別性や患者の主観的経験の価値、そして歴史的・制度的背景が複雑に絡み合っている点が浮き彫りになったと思います。

この対話を通じて、統合医療が単なる医療技術の統合に留まらず、患者中心の医療、そして医療が持つ社会文化的側面を再考する契機となる可能性を強く感じました。この対話の内容は、書籍の「より深い理解のための課題」の解答例や、読者向けのコラムとして活用させていただき、読者の皆さんがこの複雑なテーマについて、多角的に考えを深めるきっかけにしたいと思います。本日は誠にありがとうございました。


tougouiryo at 2025年09月30日06:00|この記事のURLComments(0)

明日から、「統合医療の哲学」を読み解く! を始めます

 かつて、多元主義による統合医療の妥当性を、理論的に説いた「統合医療の哲学」ですが、読みにくい面もあったので、これを対話篇で解説したいと思います。4人の登場人物により、解説的な対話が繰り広げられます。

 何故、統合医療が統合主義ではなく、多元主義なのか。多元主義と折衷主義はどう違うのか。多元主義は統合主義へと進化するのか。統合医療の基本にして、本質的な問いに関して、真正面から考えてみたいと思います。

 そもそも「統合医療の哲学」は、統合医療という概念に対して一般的な見解が揺れている時代において、より普遍的な概念を求めて、哲学分野から「統合医療」というものを再定義しようとした試みでした。
 しかし十分理解されたという状況でもなく、時は経過しましたが、次第に当時よりは「多元主義」であることの意味が、周知されてきたようにも感じています。そうした2025年の雰囲気を受けて、もう一度、多元的統合医療の意義を問うという意味で、対話篇を作成しました。

 原本の文章は載せていませんが、ご興味ある方は、Amazon等でお買い求めいただけましたら幸いです。ちなみにNOTEにおいて、統合医療の哲学を読みやすくリライトしたものを有料記事として上げるつもりですので、ご興味ある方は是非ともお読みください。



tougouiryo at 2025年09月29日23:40|この記事のURLComments(0)

組織運営論としての「統合医療総論」という考え方

 最近、統合医療総論の作成に係っており、そのために内面で統合医療とは、という問いに向き合うことが多くなっています。そうした中で、診療とは別に、色々な組織やらカンファレンスに関わる機会も増え、次第に、組織の運営にも統合医療総論が役立つのではないか、と思うようになりました。
 何も統合医療は別に万能だという考えや実感もないのですが、硬直した組織や考え方、もしくは新たな方向性の模索をするにあたっては実に有効な面が多くあるのです。

 その第一が、原則の1でもある「補完性」という概念。何かと確定的なものを求めてしまいがちな中で、緩さとともに多くの可能性を有するものでもあります。
 さらにそこから導かれる原則の2である「多元性」の概念。これは個々の自立性を重んじるもので「連携」の重要性につながるものです。(総論の概略については、統合医療学会のニュースレターに発表し、今後、学会誌にも公開していく予定なのですが、ここでも後日説明していきたいと思っております。)

 この二つの原則の導入により、正統(常識?)に過度に依拠し、一元的な組織モデルになってしまっているケースに対しては、かなりのカンフル剤にもなるのではないでしょうか。ただし、それほどの劇的なものでもないので、考え方ひとつで、いろいろと応用可能なものでもあります。
 具体的には、カンファレンスなどの会話・対話や学びの場、企業を健康経営へと向ける産業医的な介入、職場や日常におけるメンタルやストレスへの対応策など、いくつも挙げることができるでしょう。詳細はまた後日にしますが、統合医療的、つまりは補完的な視点を導入するという事は、意外にも多くの分野でブレークスルーをもたらす一つのテクニックになるのではないか、といった話題でした。

tougouiryo at 2024年03月21日09:52|この記事のURLComments(0)

統合医療の総論を考えるということ

 マトリックスの記事を年末年始にかけて書いてから、しばらくこちら開店休業でした。m(__)m

 12月の統合医療学会から、統合医療とは、という総論の作成に時間をとられておりました。まったくもって一般の方々には、関心がないであろうテーマなのですが、実は、統合医療に携わる人にとっては避けては通れないテーマでもあるのです。

 統合医療って何、と聞かれたときに多くの方(有名な先生方も含めて)はなんとなく代替医療や伝統医療などを含めた、優しさあふれる医療、みたいなイメージを持たれると思います。それはそれで間違いではないのでしょうが、では、普通の医療とどう違うの?と問われると、ふと止まってしまうのではないでしょうか。

 かつて10年以上前でしょうか、統合医療の概念が医療界隈で話題になったとき、こうしたイメージ先行型の説明が横行したため「通常の医療といわれる我々の方が愛にあふれている」みたいな反論が医師会あたりから出てきたことがありました。それはそれで妥当な反論だと思います。

 たしかにコトー先生や、失敗しない女医さんだって、統合医療という枠ではないけど、愛にあふれているわけで、ことさら愛を強調するのは、統合医療の本質というよりは、医療そのものの本質であるように思うのです。つまりこれでは、統合医療というものの特徴とは言えないわけです。

 では我々は何をもって、統合医療をしています、という信念を持つことが出来るのか、これこそが「総論」というものの存在意義ではないでしょうか。  
 私も、こうした総論の模索という作業の中で、あらためて統合医療をしているというコトを確認することができました。さらには、これまで統合医療ではないように思えて、心理的に避けてきた業務についても、実はそうではない、ということに気づかされたという展開もありました。

 いろいろあった昨年から、今年は運気が少しはいいようですので、新たなことにいろいろと挑戦していきたいと思います。  
 そのための第一歩が、統合医療の総論の確立だったわけです。大学院で修士論文から始まった、統合医療とは何かという本質への問いが、今年中には論文として公開できるかと思います。

 年始の決意みたいなのが、遅れて1月の末になりましたが、今年は大きく自らの統合医療を展開したいと思っております。

tougouiryo at 2024年01月28日19:08|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go 番外編

 「お城へ To Go」として、お城のブログとして、医療ブログとは一線を画して連載していますが、じつは医療とは全く無関係とは考えていません。ウィルバーの4象限の「ITS」(客観・複数)の実例でもあるのは、これまで書きましたが、多元主義理解のための実例でもあるのです。

 教条、折衷、多元、統合という、複数のカテゴリーの括り方の差異について、統合医療という概念は極めてあいまいであり、それゆえに現在でもその概念の混乱がある、というのがこれまでの(これからも)私の主張です。こ の説明の具体例として、結構、城の分類が役に立つというわけです。

 いわゆるお城を時代的に大きく分類すると、古代山城、中世山城、近世城郭に大別できます。少なくても100名城などの城巡りでは、これらのどこに分類されるのかを意識しながらめぐることで、見どころポイントを外さずに済みます。(類型化には多くの問題もありますがやはり分かり易いというのが最大のメリットではあります)

 古代山城に関しては、大和朝廷の対外政策の関連(大野城・鬼の城・金田城)なので、少し例外的で、東アジアにおける世界情勢に大きく影響されます。それゆえに大規模ではありますが、築城の意図などは明確で、統合医療のモデルにしては極めて単純なものになります。(「正しい統合医療」といった言説に近いでしょうか)
 それに対して、中世山城となるとまさに「折衷」から「多元」への移行、そしてその発展としての近世城郭は「多元」から「統合」への移行、を象徴しているように思います。

 応仁の乱以降の混乱期から、戦国時代へと突入、次第に吸収合併が進んでいくさまは、まさに折衷状態が、力の強さによって統合へと向かう様子そのものとも見れます。この過程がまさに中世山城的です。
 それから織田信長による安土城築城から、統合への意図がちらほらと透けて見えるようになります。それでも、各地の大名が群雄割拠した政局が続くため「多元的」状況が続き、或る意味そのまま近世江戸期に入ります。そしてこの幕藩体制そのものが、「多元的」政体とも言えます。幕府自体は中央集権化しておらず、天領など直轄地からの税収で運営されいると考えられるので、多元の要素を多くもつわけです。つまり、近世城郭は「多元」の象徴とみなすことが出来そうです。
 そして明治政府の樹立により近代国家が形成され、廃藩置県が断行されることで、「統合」(そしてある種の「教条」)が完成されたと見ることもできるわけです。中央集権という言葉にそれが象徴されているわけです。


 これまで、多元と折衷の違いなどでは歴史的視点で解説してきたのですが、城との関連で今回は解説してみました。
 いずれにせよ、こうしたモノサシ📏の導入により城も統合医療も、混乱を少しはのぞけるのではないか、という試みです。少し「恣意的」な感じもしますが、結構良いモデルなのではないかと自負しています。
 ちなみに統合医療の臨床連携のモデルとしては「離島」をモデルとして昨年の統合医療学会で発表しました。抽象的な概念や仕組みついては、やはりモデルによる「比喩」が分かり易いですね。

 本日はジャングルカンファレンスのオフラインでのリアル開催です!


 参加希望の方はこちらからどうぞ!

tougouiryo at 2021年11月11日08:54|この記事のURLComments(0)

統合医療の意義 JCのリアル開催に際して思うこと

 統合医療という方法論の意味を考えてみたいと思う。現代正統医療と伝統代替医療の双方を取り込むことで、正統でないことからインチキだとか、はたまた唯一の正しい統合医療はこれだとか、一面的な判定がなされることが多い。

 これは一方で、異質のものを取り込むことで、明らかに現実に対抗可能な、もしくは非常に有効な方法論を提供しているという面も無視できない。
 異質のものだけが合わさって、結論は出るのか、正解が出なければ意味がないし机上の空論だ、という議論は、これまでも「ジャングルカンファレンス」の総論を語る中で幾度となく批判が展開された。しかし、「オープンダイアローグ」の概念が(海外発という形で)広がる中で、この批判が適切ではないことも次第に明らかになるであろう。
 つまり現実世界での多元的なせめぎ合いの中で、何らかの方向性は決まっていく。プラグマティズムの真理観もこうした点を指摘している。カントが言う「物自体」を直接把握できないまでも、現実における現象・事象の衝突により、我々はその実態を垣間見ることぐらいはできる。
 真実・真理といったものは、エビデンスとされる渇いた事実として取り出されるものではなく、こうしたダイナミックな過程により垣間見えるものではないかと思う。

 知識の統合的な分野における発見なども同様であろう。統合医療的な領域としては、俗に西洋医学と東洋医学の架け橋的な概念といわれる「ファシア」が象徴的だろう。
 かつては(専門家によっては)全く否定的に捉えられてきた「経絡」や「ツボ」という概念が、今、ファシア論としてその本態に肉迫している。完全なる一致といえるかはおいておいて(当然例外的な事象はあるわけなので)、ニアリ―イコールくらいには証拠がそろってきていると言えるのではないだろうか。
 これこそは過去の専門家による絶え間ない努力、つまり異質なものを(正・反・合的に)統合しようとする成果である。現在、ファシアの賛同者であっても、一部の統合医療的要素に疑問を呈する方が散見されるが、部分的には理解できるものの、自らの立脚する概念の歴史を再考する視野の広さが必要ではあるまいか。
 ここにもやはり確定的な真理という形ではなく、異分野の接触といういわば「邂逅」とも言える真理への接近が、そしてわずかに開陳される瞬間があるように思えてならない。

 異質なるものの接触、そしてその前提として現状の正統として展開される「現象」への懐疑、昨今の世相を反映してあらためて「物事を深く考える」ということを考えさせられる。現状の「現象」を、いわば「代替」的にひっくり返すまではしないものの、別の可能性を懐中に秘めることで、我々は新たな観測点を得ることができる。それこそが「統合医療」という概念が我々に与えてくれるものであると感じている。

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 コロナ禍の様々な影響で、ジャングルカンファレンスのオンライン開催も久しかったのですが、明日はいよいよリアルな開催との「ハイブリッド」です。
 かつては当協会も支部を積極的に形成してスカイプでの接続を目指していましたが、それも今や「当たり前」化しています。明らかにこの面では進展したと言っていいでしょう。オンラインでの接続の賛成・反対で議論していた数年前を思うと、昔日の出来事のようです。反対勢力も今や存在しえない社会状況です。何が正しいかは議論ではなく、こうした社会的な時の流れの中で変容し、ごく自然に受容されていくことを痛感します。現在の世相も同様なのかもしれません。
 こうした中でも「肌感覚」というような身体感覚こそが、真なる世界への小窓のように感じています。そこに統合医療の意義をあわせて考察してみました。

tougouiryo at 2021年11月10日11:53|この記事のURLComments(0)

ルルドの泉について

 先日、患者さんと鍼灸治療中に、イギリスにはお化けがよく出るけど、フランスは奇跡(や奇蹟)がおきますね〜という話をしていて、そういえば、と昔の記事を思い出し引っ張り出してみました。ルルドの泉ついての記事です。この手の情報としては、それでも結構新情報で、いまでも新鮮味があると思います。
 どうぞ!

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はじめに

 1858年、フランス南部ピレネー山脈麓の町ルルド(Lourdes)は、少女ベルナデッタ(Bernadette)がマリアの降臨を告げて以来、癒しの町として世界的に名高い。シーズン中には、フランス国内でパリに次ぐ宿泊者数となり、小さな田舎町としては似つかわしくないほどの賑わいを見せる。敬虔なカトリック教徒にとって、重要な聖地であるのは言うまでもないが、むしろわが国においては、癒しの泉湧く地として有名である。この地に多くの人々が関心を持つ奇跡は、大きく2つの意義に分けられるかと思う。一つは、一人の少女に聖母マリアがこの地に姿を現したことの意味、つまり何故ベルナデッタであったのかということを含めた宗教的な意義である。もう一つは、聖母マリア出現の際に告げられた泉から湧出した水による、奇跡的治癒の数々に関してである。私自身は、特定の宗教を持つ者ではなく、また、医師であるということから、後者の意義に関して、特に強い関心があった。そしてこの度、2003年と2005年の2回にわたってルルドを訪れ、かつ奇跡的治癒を認定する奇跡認定医のパトリック・テリエ先生(Decteur Patrick THEILLIER)に2度にわたってお話を伺うことができた。

 

聖地ルルドと奇跡的治癒

 1858211日、少女ベルナデッタの前に聖母マリアが出現したことから一連のエピソードは始まる。当初は、ベルナデッタ自身、聖母マリアであるという認識はなく「ご婦人」という認識であったという。その後225日の9回目の出現のとき、泉の位置が示され、「ルルドの泉」の湧出となる。はじめ泥水であった泉はこんこんと湧出するうちに、みるみる澄んでいったという。そしてこの日のうちにくみ上げられた水により、すでに最初の治癒例が確認されている。そして325日の16回目の出現時に、この婦人は「無原罪の宿り」と名乗ることとなる。はじめはベルナデッタ自身もそれが聖母マリアを示すものとは知らず、町の神父の指摘により知ることになった、ということである。これ以後、今日に至るまで奇跡的治癒は続き、世紀の変わり目までに二百万人もの患者が訪れ、うち6784例の治癒が記録され、バチカンの設定した厳密な基準を満たす「奇跡的な治癒」は66名を数える。しかし、これらはあくまでも申告されたものであり、自覚的にも他覚的にも治癒していながらここに記されていない(申告していない)人数はさらに多くいると考えられる。

 

ルルド探訪

ルルドへは、パリから空路であれば、ルルドタルベ空港ないしはポー空港からタクシーを使用して行くことができる。陸路でも、在来線を乗り継ぎ、ルルド駅へ行くことができる。町の中心は言うまでもなく、大聖堂であり、その周辺には観光客を目当てにたくさんの土産物屋が軒を連ねる。古くは、防衛の要衝であった地であるだけに、威厳ある要塞が町を眺める。大聖堂を背に右手には、ゴルゴダの丘を模した「十字架の道」があり、イエス受難の像が山道を登りながら見ることができる。そして左手には川が流れ、この川と大聖堂の間に泉の湧出する洞窟がある。ここが「ルルドの泉」である。泉の湧き出るところが実際に見ることができ、そこから出た水は少し離れた水のみ場で自由に飲むことができる。水は無料で提供されており、シーズンにはたくさんの人たちが、ペットボトルや水筒を手に列を成す。洞窟からさらに奥に進むと沐浴場があり、シーズン中であれば、車椅子やストレッチャーの方でいっぱいになる。敷地内にはこの他、ルルドの歴史を説明する映画館や、関連する書籍を販売する書店、医療事務局もこの敷地もある。

 

奇跡認定医テリエ先生

医療事務局には「奇跡」を認定する医師パトリック・テリエ先生がいる。先生とはこれまで2度お会いしているが、一度目の訪問(200311月)では、一般的な解説から、奇蹟の認定基準に関して教えて頂いた。このとき先生は、信仰がその治癒の中心的役割を示すと強調されていた。同時に他の信仰をもつ者であっても、生命の連続性を認識している人であれば治癒しうる、というお話は非常に興味深かった。「水」という物質にのみ効果を帰する見方ではなく、その背景としてのスピリチュアリティーにこそ重点を置くべきであるという見方であり、大いに感銘を受けた。

二度目(20056月)は、一対一の個人的会談という形で、お時間を取って頂いた。そのために、なかなかお聞きすることができないお話もうかがうことができた。それは、ホメオパスでもある医師としての先生にとって、ここでの治癒を先生自身どのようにとらえているのか、ということである。医師として、治癒困難な疾病が実際に治ることに対する見解、さらには、ホメオパシーの効果を、身を持って経験している医師として、治癒と水の持つエネルギー、そしてスピリチュアリティーとの関連に対する見解、などである。また先生は、多発性硬化症などの難病の治癒メカニズムにも非常に興味をもっておられて、生化学や遺伝子などの理論を駆使して同僚の医師と共著の著作も出版されている。信仰との関連も重要であるが、治癒することそれ自体にも重要な意味があり、その点もさらに研究が進むべきである、と強調されていたことも、印象的であった。そしてルルドの奇跡においては、水の果たす役割はきわめて大きいのではないだろうか、ともお話されていた。

 

ルルドの奇跡とは

 信仰に基づく「スピリチュアリティー」と、それを伝達する媒体としての「水」、そしてその作用点ともいえる「自然治癒力」。この三者の連携から織り成されるものが「ルルドの奇跡」と言われるものなのだろう。そこには単純な還元主義では解決されえない問題が多く横たわるが、「奇跡」が我々に見せる魅力は限りない。それは、ルルドの奇跡の元来もつ力に加え、多数の巡礼者をはじめとした訪問者の祈りによるところも少なくないように思う。聖地ルルドから、我々、統合医療を目指すものが得ることができるものは限りなく多い。「統合医療」の更なる発展を考えるとき、ここに多くのヒントがあるような気がする。



tougouiryo at 2021年09月24日08:00|この記事のURLComments(0)

賢者の石は「卵」だった!?

 錬金術の第五元素について考えていたところ、その抽出材料として用いられていたのは「卵」だったということを知りました! 第五元素というのは、対立するものを結合させ、物資を自由につくり変えることができる「賢者の石」そのものなのです。
 つまり「卵」はあれほど安価ながら、既に賢者の石を含有している素晴らしい食材ということになります。

 あらためて卵料理に感謝したいと思います! 健康増進の秘薬、タマゴを召し上がれ!





日本一の卵レシピ[愛蔵版]
プレジデント社
2018-02-28




まいにちタマゴ専門家が教える最高の食べ方
タマゴ科学研究会
池田書店
2021-05-14




tougouiryo at 2021年08月24日19:28|この記事のURLComments(0)

電子が意志を持つという説

 以前にも、量子力学における山田廣成先生の「電子が意志を持つ」説を擬人化の例としてご紹介しました。そしてこの説には「擬人化」ではとどまらない大きな意味があるように感じましたので、再度メモしておきたいと思います。ちなみに擬人化というと、非科学的というレッテルが即座に貼られてしまいますが、これもあくまでも「近代知」から見た一つの見解でしかありません。我々は、伝統医学の歴史から、近代知誕生前の、万物から人間を理解するという「陰陽五行説」などの古の視点に戻る必要があるのかもしません。

 山田先生のこのご著書は、副題が「電子にも意志があるとしたら貴方はどうしますか?」というのですが、まさにこれまでの視点を大きく転換させるものでもあります。私も個人的にとても関心のある「観測問題」から、電子を考えると、その実態は「粒子でもあり波動でもある」ということになります。

 ここから統合医療、代替医療における「波動」の様々な領域が展開していくことになるのですが、それはある種の「無形」なものにすべてを還元するという意味で、「生きる」ということへの空白地帯を形成しかねない危うさをも有するものを生み出しているようにも感じていました。(あらゆる概念を過剰に物理的な用語へ変換しすぎているのではないか、ということ)

 誤解のないようにいうと、「スピリチュアリティ」などの諸概念を否定しているわけではありません。
 むしろケン・ウィルバーらの言うところの「スピリチュアリティ」は積極的に肯定するのですが
、あらゆるものを波動へと還元させる風潮への懸念といったところでしょうか。こうした考え方の基底をなしているのが、この電子の波動性の問題なのです。つまり身体は電子によって形成されていますから、身体や物質の波動性といえることにもなります。

 詳細は山田先生の著作を読んでいただきたいのですが、まずは電子の存在を示す基本的な(現在までわかっている)実験結果を提示して、思い込みなしで事実を判定してほしいと迫ります。(どこまでこれまでのイメージから離れられるか、個人差は大きいでしょう。この辺りは井口和基博士の論法で言うところの19世紀の物理へ帰れと言った感じでしょうか)

 虚真にデータを見たとき、確かに提示されるデータからは明らかに物質だということが確認されるというのも納得です。
 ではなぜ「波動」ということになるのか。それは電子が集団となった時に、干渉などの現象が現れ、それゆえに「波動性」をもつというわけです。

 当然ながら、これが電子ではなく、意志を持つ人間であれば、互いに干渉しながら影響するので、統計的に処理すれば、結果として生じた現象において波動性があるものの、それは統計的なふるまいであって、実態を有する人間そのものが波動だという結論にはなりません。これは、いわゆる「渋滞」などの現象で日常的にみられることです。集団行動の予測が、物理的にシュミレーションできることからも理解できます。

 それでは今度は、視点を反転させて電子が人間のように、個々が意志を持っていたらどうなるかと思考実験したのが、山田先生の理論展開となります。
 すると非常に難解な、モノでもあって波でもあるという「量子の二重性」という概念を持ってこなくても、電子同士が意志をもって対話していたとしたら、結果として「波動性」を持っているように見えるというわけです。

 それゆえに量子力学において基礎的な「波動方程式」は、対話方程式もしくは干渉方程式と呼ぶべきだと、山田先生は主張されます。(人であれば個人と社会をわけて考えるのは確かに当然なことです)
 つまり電子が意志をもつという考えを受け入れることができれば、少なくても量子力学のもっとも理解しにくい難所を、クリアすることが出来るわけです。「教える」という立場においては、この便宜も非常に重要なことだということになります。

 これを統合医療的な分野にもってくると、人間の波動性という無形化した概念の導入よりは、電子という存在が意志(われわれが実感している意思とは少し違うのでしょうが)をもつということの方が、実はすんなりと受け入れやすいのではないかと思うのです。そしてこれは「対話」という行為においてもより大きな意味を見出すことにつながります。

 明治期の霊術の展開などを見ると、当時の最新科学である「放射線」の影響を強く感じられるように、代替医療領域は、その時代の最新科学の影響を強く反映します。
 そう考えると現在の波動の風潮の基盤は、間違いなく現在の量子力学の解釈に依存していますから、ここの解釈を反転させることは、この医学領域の発想の転換を余儀なくさせるものでもあるわけです。

 個人的な興味としては、意志や干渉においても当然「階層」があるでしょうから、それを基盤として漢方薬やレメディの作用点も階層があるはずです。
 また電子の意志を仮定することが可能であれば、レメディの意志というものも可能であるかもしれません。そして単なる「対話」が、往々にして「スピリチュアリティ」との関係を深く印象付けることも、こうした考えとリンクしていることだと思います。

 対話に関しても、往々にしてただ仲良く話し合えば良い、という程度に捉えられることが多いのですが、マクロにおけるコヒーレントな状態を形成するという大きな意義があるということをあらためて考えさせられました。



tougouiryo at 2021年08月17日17:12|この記事のURLComments(0)

統合医療における漢方・鍼灸

 日本での「統合医療」のありかたについて、漢方・鍼灸の視点から少し考えてみたいと思います。

 言うまでもなく今日用いられる「統合医療」という言葉は、近年の代替医療の台頭を背景として欧米で使用されてきた言葉の和訳です。
 こうした動向を知らない一部の方の中には「統合」という日本語にひっかかって、もしくはその前段階の「代替」という言葉にひっかかって、統合とは?代替とは?というような禅問答に持ち込む人も少なくありません。しかし、訳語であることから、あまりそこにこだわっても仕方ないのです。ここでも、その議論はすでに学会などでやりつくされているので避けることにします。

 では「統合医療」という言葉は、本当に欧米由来のみ、なのでしょうか。日本では古くから「漢方」「鍼灸」の歴史があり、保険適応されていることから、現代西洋医学と伝統医学との併用問題は存在していました。
 近隣の中国・韓国はそれぞれ別個の資格を有する医師がいるわけですが、日本では、医師免許をもつ医師のみが両者を併用することが法的に可能である点が大きく異なります。

 こうした状況下で、一部では「漢方こそが正当で、西洋医学が代替なのだ」とか「CAMに漢方は分類されない」といった主張がされ、一方に偏る論調もありましたが、一部では、未来の日本の医学では西洋医学と東洋医学の理想的な共存を思い描く東洋医学関係者も少なからず存在していました。

 こうした流れのなかで早くも1978年に明確に「統合医療」概念を提唱したのが広島県の外科医、小川新先生でした。小川先生は腹診発展に寄与した著名な漢方医でもあり、まさに東西の医学を実践されていた先生でした。私にとっては学生時代ならびに、卒後数年の休みの時には、医院(小川外科)にて臨床を教えていただいた恩師でもあります。

 こうしたわが国での東洋医学関係者の永きに渡る努力が、今日の日本での「統合医療」理解の素地になったことはいうまでもないでしょう。
 われわれは、こうした背景から、欧米の統合医療の動向を理解しつつも、わが国独自の「統合医療」を形成していかなければならないでしょう。私自身も自分のクリニックで、漢方・鍼灸を重視するのはこうした理由からです。もちろん、非常に有力なサプリメントやホメオパシーも大切なのはいうまでもありません。
 しかし、概念ではなく、臨床モデルとしての日本の「統合医療」をしめすにあたり、漢方・鍼灸を主軸にすえることの重要性を感じています。これにより「統合医療」概念のブレが少しは減るのではないでしょうか。




tougouiryo at 2021年07月25日08:00|この記事のURLComments(0)

災害時のビタミン・ミネラル不足

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遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。


 大型連休も最終日ですが、緊急事態宣言も延長となり、まだまだ外出自粛が継続となっていきそうですね。自宅での外出自粛が長くなると、同じような食事が増えたり、内容も糖質ばかりになったり、と災害時と似たような食事情になってきます。また昨夜も、深夜に地震があり、自然災害にも改めて注意する必要があることを思い出させられました。
 そこで今回は災害時の栄養素の不足について。とりわけ肉類、魚介類、卵、緑黄色野菜、果物などが不足する状況が続いてしまうことが想定されます。

 そうした状況でのビタミンの不足では、ビタミンA(体内貯蔵期間120日)、ビタミンB1・B2(体内貯蔵期間30日)、ビタミンC(体内貯蔵期間40日)が代表的。さらにはストレス下ではアドレナリン分泌なども増加するためビタミンB6や、外出が減ることにより太陽光を受けないことからビタミンDの欠乏も懸念されます。

 不足しがちなミネラルとしては、なんといってもカルシウム。通常時においても日本人のカルシウム摂取は不足傾向にあるといわれますので、それがさらに拍車がかかってしまうわけです。また普段からの欠乏という点では女性の鉄欠乏も深刻です。健診などで特段、貧血などの指摘がなくても欠乏状態に近い人が多いことが推測されています。これらが災害時などにはより拍車がかかってしまうということになるのです。さらに亜鉛やマグネシウムの欠乏も、体調不良につながってしまいます。

 感染予防という点での外出自粛の中で、不調が増幅されないように、摂取カロリーのみではなく、そこに含有されるビタミン・ミネラルについても関心を持っていただきたいと思います。


食事でかかる新型栄養失調
食品と暮らしの安全基金
三五館
2010-12-17





tougouiryo at 2020年05月06日11:37|この記事のURLComments(0)

サプリメント・漢方の飲むタイミング

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 当院では、サプリメントや漢方などいろいろなカテゴリーのものを出すので、その飲むタイミングについてよく聞かれます。これらの一般的な飲み方について、説明しましょう。

 まずは、水溶性ビタミン。これは食事とともに吸収されるため、食後に摂取するのが良いとされ、体内での滞留時間が短いため、一度に取るのではなく複数回に分割するのがおススメです。
 次は脂溶性ビタミン。油分があると吸収しやすいため、特に油を多く含む食事の後に摂取するのがおススメです。こちらは水溶性とは反対に複数回に分割せず、一度にまとめてとるのが良いといわれます(分けても問題ありません)。
 ミネラルは一般に食後の摂取が良いとされます。特に、非ヘム鉄は、ビタミンCやクエン酸、動物性たんぱく(一部)が一緒だと吸収が良いといわれますが、反対にヘム鉄は空腹時が最も吸収が良いとされます。しかし人によっては、胃腸の不快感や便秘などになることもあるので、こうした場合にはやはり食後がおススメとなります。亜鉛は、有機酸と結合したグルコン酸亜鉛であれば、空腹時摂取がよいのですが、これもヘム鉄同様、不快症状がある場合は食後となります。
 アミノ酸は一般に空腹時が良いとされますが、食事に含まれるアミノ酸スコアを高める目的であれば、食後の摂取となります。目的によって時間帯が異なるといってよいでしょう。
 その他、脂溶性の栄養素は、脂溶性ビタミン同様に食後の摂取がおすすめとなります。

 これに対して、漢方薬は一般に食間といわれます。つまり食後二時間です。お腹に何も入っていない状態で、漢方単独で入る方がよいというわけです。但し、食欲がない時に食欲亢進を目的にしていれば、食前ですし、食後の腹痛には食後となりますから(アニサキス疑いの腹痛時の安中散など)、これはやはり専門家の指示に従ってください。体質改善目的で長期に処方されている場合、飲み忘れを防ぐ意味で食後というのも良いと思います。

 ホメオパシーのレメディは、一般に歯磨きや飲水などが終わって30分以上ということなので、就寝前がベストでしょうか。アレルギー対策であれば、朝起きてすぐ、というのも良いでしょう。朝でも夜でも、心静かにレメディをとれる時間帯がおすすめです。漢方やサプリとはまた違った注意点といったところでしょうか。




tougouiryo at 2020年05月03日06:00|この記事のURLComments(0)

花粉症レメディとその周辺

 いよいよ花粉症のシーズンとなってきました。当院にも、花粉症の治療の問い合わせが増えてきました。

 花粉症についてはとりわけ今年は朴澤先生のアイゾパシーの本が出版されたので、ここで紹介されているスギ花粉レメディの希望が多いです。朴澤先生は、レメディによる花粉症治療を二重盲検法を用いて有効性を証明された先生で本書↓で、その実験データが公開されています。



 当院ではこのレメディに加え、Bスポット療法(EAT)による上咽頭の炎症治療、漢方による対症療法と体質改善治療、糖質制限による炎症の鎮静化とビタミンD補充による栄養療法なども行っており、各人の体質と併せて用いるとより効果的です。

 またホメオパシーについては、現在社会問題化している新型肺炎コロナウイルスに対して、インド政府がワクチンなど有効な治療法の開発に至るまでの治療法として、レメディのクラシカルな方法で予防法を提示しております。インドはそもそもAYUSH省というアーユルヴェーダやホメオパシー等に特化した省庁を有していることから、他国と比較してかなり特殊な立ち位置ではありますが、政府による興味深い取り組みとして、その効果を見守っていきたいと思います。ちなみにインドの首相はこのAYUSH省の設立をした当人であるということです。また今回、推奨されているレメディはArsenicum album 30Cで、ホメオパシーを使い慣れた人にとってはそれほど珍しいものではありませんが、言われてみると、なるほど、といったレメディでもあります。


tougouiryo at 2020年02月11日19:31|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(1)

Gノート 付説「多様な療法とのつきあい方」

 では前回、予告しましたように元原稿を分割しながら掲載していきます。編集の方が読みやすいようにしてくれたのが出版されたものですので、それの「元」ですから当然、言い回しなどいろいろと読みにくところがあると思いますが、ご容赦ください。



Point

・統合医療の要諦は多職種連携にある

・統合医療は補完医療に対して否定的側面も有する

・統合医療カンファレンスでは、現代医療的な注意を払いつつ、多元的な構えが重要である

・多様な療法とのつきあいにおいては、多元的な立場に基づいて相互了解していかなければならない

・「真なるもの」を前提としない多元主義は、多職種連携の思想的基盤である

 

Keyword

カンファレンス 多職種連携 信念対立 多元主義

 

1.はじめに

 

医師が補完医療を考えるにあたって、「統合医療」という概念を抜きにしては考えられません。統合医療とは、我々医師が通常イメージする現代医療に加えて、補完医療を統合した医療体系です。すると、ただでさえ広範な現代医療に、さらに雑多な補完医療を加え、莫大な領域の医療であるかのような印象を与えてしまいますが、統合医療とは決してそのような博物学的知識の集成ではありません。

さらに、具体的な補完医療に対して何一つ知識を持ち合わせていなかったとしても、問題ないものなのです。ではその意義とは何なのでしょうか。私は、「多職種連携」がその答えであると考えています1)

 本稿では統合医療という分野において、その基礎となる多様な補完的な療法、ならびにそれを扱う療法士(師)との在り方(距離の取り方?)を考えてみたいと思います。そしてさらには、こうしたつきあいの在り方が、医師が最も優先させるべき「患者さんの保護」につながるものであることも述べてみたいと思います。


tougouiryo at 2016年12月08日10:00|この記事のURLComments(0)

腰痛の漢方

 今回は腰痛についてです。いわゆる筋膜性腰痛でも東洋医学的には、いろいろなわけ方が可能です。

 

 腰痛の漢方を考える場合、急性の痛みか慢性的なものなのかは重要です。ギックリ腰のような急性の腰痛では、一般に芍薬甘草湯がよく用いられます。そして慢性的な腰痛では、老化(東洋医学的な「腎」の衰え)と瘀血が大きな原因となります。

 

老化をメインとした症状では、「腎」の気を高める「附子」を用いた処方である八味地黄丸や牛車腎気丸などが用いられます。こうした適応の方には冷えがあり、冷えの程度により専門の医師は、附子の量を調節します。

 

 また瘀血をベースにした腰痛も少なくありません。末梢循環の不良がベースにあるわけですから、腰部にも十分な血流が回らなくなり、痛みを生じるのです。こうした腰痛には桂枝茯苓丸や桃核承気湯など、いわゆる駆瘀血剤が有効です。また冷えのぼせの状態が強いときには五積散も有効です。

 セルフケア講座(↓)の申し込み、まだ残席ありますのでお早めにお電話にてお申し込みください。


tougouiryo at 2009年02月02日18:00|この記事のURLComments(0)

統合医療は一診療科目名なのか?

 「統合医療」というのは、医療の一診療科目名なのでしょうか、それとも医療の今後の理想形なのでしょうか。これを、ただ単に一診療名とのみ捕らえている方がいるようでしたら、解説したいと思います。

 現状としては、両者ともに間違いではありません。また、認知度からしても一診療科目として現在、理解されているのもしかたのないことです。しかし、本来の意味からすれば、これは「ホリスティック医療」や「全人的医療」と同じカテゴリーにあるものであり、目標とすべき理想形でもあるのです。

 「医療」というものが本来全人的であるのが当たり前なように、ある「正式」とされるカテゴリーの医療のみで、医療が構成されること自体に問題があるといわざるをえません。一見、「正統医学」はすべて科学的検証がすんでいるように考えられますが、実際はその一部のみと言わざるをえません。また、医療とは本来、経験主義的なものであることからも、伝統医療を除外することこそ不自然といえるでしょう。

 「統合医療」の議論において、問題となることは、医療それ自体が今世紀に(必然的に)ぶつかるべき一群の問題群でもあるのです。そうした意味で「新たなる医療」を考える際、「統合医療」問題は大きな位置を占めることは間違いありません。そうした意味で、最近、「あらたなる医療」として思考しているのですが、来年からは、こうした医療問題一般として、統合医療を考える連載を企画しています。連載誌など、確定しましたら随時。このブログ内でご案内していきますので、いましばらくお待ちください。

 最後に、なんでこうした総説的な話が多いのかと聞かれることが多いので、お答えしておきます。昼間の診療時間においては、患者さん一人一人の「具体的な」症状に対して「具体的に」治療しているため、夜などの空いた時間には、むしろ昼とは反対の、総論的な思索をすることが多くなるのです。風邪のときは?関節痛は?というものをご期待の方にはすみません。ただし、実際にお困りの方は、HPから「問い合わせ」メールなどで受診に関して、お問い合わせください。本来は実地診療が専門なので、ベストを尽くして対応させていただきます。


tougouiryo at 2007年10月06日00:34|この記事のURLComments(0)

統合医療の機能的分類

 統合医療に関して、いろいろと疑問を呈されることが少なくないのですが、どれも単純に、この「統合医療」という概念の理解不足が原因のことがほとんどです。

 ただ、これからの新しい形の医療であるので、期待も合わさり、思いだけが膨張するということもあるかもしれません。そうした方に、少し理解しやすいように、統合医療をいくつかに分類してみました。機能別に大きく分類することで、必要とする統合医療が実は人によって異なっていることがわかると思います。(大前提として統合医療とは、現代医療と代替医療を統合しようとするもの、です。決して科学批判でもなければ、あやしい宗教的癒しなどでもありません。念のため)

(1)相談型統合医療:何らかの医療問題(身体や精神の不調)が生じたとき、現代医療のみで対処すべきか、代替医療を考慮しても良いのか、などを相談するようなケース。どの代替医療がベストかという観点もありますが、場合によっては現代医療のみを優先することもあるわけです。代替医療併用是非型と代替医療選択型に大別されます。

(2)支援型統合医療:生活習慣病やあらゆる未病に対応して、セルフケアに努めようとする人たちを支援・アドバイスする立場です。行っている健康法は効果的か、人間ドックなどのデータから明らかな病気はないが生活の注意点を知りたい、など。こうしたニーズには、現状の通常の外来診療ではなかなかきめ細かく対応できないのが実際です。こうした状況に、ただ運動・栄養、だけでなくさまざまな代替医療の可能性アドバイスするものです。セルフケア支援型と未病対策型に大別されます。

(3)治療型統合医療:悪性腫瘍(がん)や関節リウマチ、アトピー性皮膚炎、そのほか原因不明の体調不良、など現代医療的難病を、現代医療を取り入れながらも、漢方・鍼灸などさまざまな代替医療的アプローチを用いることで、治療していこうとするもの。実際のニーズは圧倒的にこれが多いので、当院でも、こうした難病の方がたくさん来られます。また、ネットなどでみる統合医療という使い方の場合、ほとんどがこのカテゴリーの使い方です。単一型と複数型に大別されます。

 ・具体的には単一の特殊な療法を取り入れるものや、サプリメントの併用のみというものと、複数の療法をコーディネートするものに大別されます。ちなみにアリゾナ大学のいう統合医療は、こうした複数の代替医療を如何に組み合わせるかのコーディネーター的機能を前面に出したものでした。

 以上のような分類です。統合医療を利用しようという方は、どの段階が自分のいまのもんだいなのかという認識があれば、より効果的に統合医療診療を受けられると思います。当院では、(自分で提唱している概念でもありますので)3段階すべてに対応しております。(実際、これまで受診された方のカルテから、この分類を考えてみました)


tougouiryo at 2007年09月30日19:07|この記事のURLComments(0)

私の考える「統合医療モデル」

 「看護技術」最新刊が発売されました。今月は「手技療法」ついて、一般的なことを解説しました。日本においては、どうした代替医療が国家資格であるのか、ないのか、など大学で学生に講義をしているとき、かなり理解されていない内容を解説しました。ご興味ある方は、是非ごらんください。

 この連載ももう10回を迎え、残りあと2回です。次回は「サプリメント」について、その社会的影響や健康生成などの観点から解説していきます。最終回は、現在、執筆中ですが、取り上げられなかった代替医療の解説をしながら、この領域を総括し、さらにはその先に見える(であろう)「統合医療」への展望を解説していく予定です。

 一年間の連載は、当初はかなりの量のように感じましたが、幅広い代替医療の世界を、自分なりに噛み砕いて解説するには、実際、意外に短い期間でもありました。独自な解説を心がけた分、マイナーな領域の解説には手が回りませんでしたが、そうした百科事典的なものはいろいろと出ているかと思いますので、これはこれで良かったのかな、とも思います。

 時代はどんどん進んでいます。これまでは目新しかった「代替医療とは何か」という問いも、もうそれほど目新しいものではありません。代替医療の中身の理解から、そろそろ一歩踏み出す頃でもあります。それが「統合医療」でもあるのですが、前途は多難です。いろいろな統合医療モデルが出され、より混乱をきわめるのもこれからでしょう。そうした中で、より実際的なモデルの提出がこれからの大きなテーマのひとつと考えています。このブログをはじめ、雑誌や出版媒体などさまざまな場で考えて行きたいと思います。

 ちなみに、先日、ある方から「統合医療とは、さまざまな代替医療を総合的にナビゲートすることなのか」と聞かれました。ある意味「正解」です。こうした統合医療の解釈はアメリカ的のような気がします。アリゾナのワイル博士の提出する統合医療モデルはまさにこうした形式を目指すものとも言えるでしょう。医療におけるゼネラリストが認知されるアメリカになじみやすいモデルでしょう。私のクリニックもこうした機能を果たしていることはいうまでもありません。

 では、日本ではどうでしょうか。もちろん、こうしたモデルは一部の人にはちゃんと認知されるでしょう、が、一般的にはまだまだ難しいと思います。さまざまセラピーが並立する中で、「結局、何をしてくれるんだ」という要望がやはりもっとも強く出てきます。結局、どんな変わったことをしてくれるのか、という問いの段階です。おそらく、これは文化的、社会的背景の相違によるもので、優劣の問題ではありません。しかし、アメリカ型をそのまま導入するわけにもいかない、という問題はここにあるのです。そのため、当院ではメインの療法として、漢方・鍼灸・ホメオパシー・サプリメントなどを行っています。つまりナビゲーター機能に加え、スペシャリスト的機能も持っている、という形式としています。そしてこれが私の現状考える、日本に適した統合医療モデルでもあるのです。

 統合医療という概念は確かに広すぎます。だからこそさまざまなモデルを、現実の医療問題と合わせて考えていかなければなりません。そして、こうした患者さん主体の医療がむしろ普通になって、「統合」という言葉要らなくなる段階に到達したいものです。そうした意味で統合医療を考えることは、新たな時代の「医療」そのものを考えることに他ならないのです。


tougouiryo at 2007年09月22日20:52|この記事のURLComments(0)

統合医療についての誤解

 さまざまな代替医療があるなかで、統合医療というものの存在意義のようなものは何か、分かっている方も多いかと思いますが、あらためて少し書いてみようと思います。

 よく勘違いされるのは、漢方、鍼灸、ホメオパシーいろいろな分野の専門家がいるのに、いいとこどりだけで、そんなものでいいのか!というもの。それぞれの専門の方がいて、それを深めるのはいいことですし、異論はありません。ましてや、それぞれの奥深い専門を、完全に理解しているなどとも思っていません。だからこそ、それぞれの領域の代替医療のみを(例えばアロマならアロマ、鍼なら鍼)求める方は、そうした専門家が適しているといえるでしょう。

 しかし、現実の臨床では、どれにかかったら良いのか、どれが自分にあっているのか、といった代替医療の領域横断的な相談が多いのも特徴です。そもそも代替医療だけで良いのか、という問題もまた大きく存在します。だからこそ代替医療のみに組みすることのない「統合医療」という概念があると思います。

 だからこそ私のクリニックでは複数の代替医療を扱う形式にしています。それでも、それぞれの専門家がいるのだからおこがましい、という意見も聞かれます。しかし、境界領域も実際にはニーズが多いのです。つまり、しっかりとした精神科医がいて、しっかりとした内科医がいたとしても、やはり心身相関を注視する心療内科医はまた別に必要なのです。多様化するニーズの中、さまざまなものに対応することも大切なことです。どれかひとつだけに限定しなければいけないというのは、タコツボ的な基礎研究でもない限り、現実としてはありえないものです。これは臨床に携わるものでしたらだれでもわかることといえるでしょう。

 つまり、広く浅くでも、代替医療をナビすることで、その人に適するものを探し出すことができれば、それも私の考える統合医療の目的といえます。ちなみに「統合医療」はまだ未熟な概念です。よって解説する方によっては異なった解釈をするかたもいるかと思います。なのでこのサイトで、私の主張する「統合医療」は私の考える統合医療」であることをお断りしておきます。

 また一部の方は、統合医療を「アンチ科学」「アンチ現代医療」のように捕らえている方もいるようですが、これは完全な誤解です。「統合」と称しているのは(実際に難しいことですが・・・)現代医療と代替医療の双方の立場を否定しない、ということの現れです。これは代替医療という言葉を使わない一番の理由でもあります。なので、私のクリニックでも手術や薬物療法が必要であればお勧めするのはいうまでもありません。また、代替治療だけでも大丈夫な状態であれば、ニーズにしたがってサポートさせていただくのもいうまでもありませんが・・・。

 クリニックでは、こうした私の「統合医療」の考えに加えて、十分な時間をとった診療によりナラティブ(患者さん一人一人の語り)を重視した診療をこころがけています。理想はまだ遠いのでしょうが、医療の基本は相互関係にあると考え、丁寧な診療を続けて行きたいと思います。

 今回は、誤解されやすい統合医療の側面についてと私のクリニックでの考え方を少し紹介しました。蝉の声も消え、だんだんと秋の気配ですね。


tougouiryo at 2007年09月10日00:05|この記事のURLComments(0)

漢方・鍼灸と統合医療

 今回は、日本での「統合医療」のありかたについて、少し考えてみたいと思います。

 言うまでもなく今日用いられる「統合医療」という言葉は、近年の代替医療の台頭を背景として欧米で使用されてきた言葉の和訳です。こうした動向を知らない一部の方の中には「統合」という日本語にひっかかって、もしくはその前段階の「代替」という言葉にひっかかって、統合とは?代替とは?というような禅問答に持ち込む人も少なくありません。しかし、訳語であることから、あまりそこにこだわっても仕方ないのです。ここでも、その議論はすでに学会などでやりつくされているので避けることにします。

 では「統合医療」という言葉は、本当に欧米由来のみ、なのでしょうか。日本では古くから「漢方」「鍼灸」の歴史があり、保険適応されていることから、現代西洋医学と伝統医学との併用問題は存在していました。近隣の中国・韓国はそれぞれ別個の資格を有する医師がいるわけですが、日本では、医師免許をもつ医師のみが両者を併用することが法的に可能である点が大きく異なります。

 こうした状況下で、一部では「漢方こそが正当で、西洋医学が代替なのだ」とか「CAMに漢方は分類されない」といった主張がされ、一方に偏る論調もありましたが、一部では、未来の日本の医学では西洋医学と東洋医学の理想的な共存を思い描く東洋医学関係者も少なからず存在していました。

 こうした流れのなかで早くも1978年に明確に「統合医療」概念を提唱したのが広島県の外科医、小川新先生でした。小川先生は腹診発展に寄与した著名な漢方医でもあり、まさに東西の医学を実践されていた先生でした。私にとっては学生時代ならびに、卒後数年の休みの時には医院にて臨床を教えていただいた恩師でもあります。

 こうしたわが国での東洋医学関係者の永きに渡る努力が、今日の日本での「統合医療」理解の素地になったことはいうまでもないでしょう。われわれは、こうした背景から、欧米の統合医療の動向を理解しつつも、わが国独自の「統合医療」を形成していかなければならないでしょう。私自身も自分のクリニックで、漢方・鍼灸を重視するのはこうした理由からです。もちろん、非常に有力なサプリメントやホメオパシーも大切なのはいうまでもありません。しかし、概念ではなく、臨床モデルとしての日本の「統合医療」をしめすにあたり、漢方・鍼灸を主軸にすえることの重要性を感じています。

 それぞれの「統合医療」というものがあっていいと思います。ただあまりに「統合医療」ということばの氾濫が多いような気がしたことと、日本からも30年も前にすでにこの概念が発信されていたことを知っていただきたくて今回はこうした内容にしてみました。


tougouiryo at 2007年04月12日00:07|この記事のURLComments(0)

鍼灸のエビデンス

 鍼灸について、原稿を書いていたので、EBMの観点から見直してみたいと思います。「刺す」という行為のため、なかなか薬剤とちがってランダム化比較試験しにくい治療法ですが、「偽鍼」などを用いて着実にエビデンスが蓄積されつつあります。

 米国国立衛生研究所(NIH)の合意声明書においては、鍼が有効であるという有望な結果が得られているものとして、術後や薬物療法時の嘔気・嘔吐、歯科の術後痛、妊娠時の悪阻、が挙げられています。 また、英国医師会の報告書においては、背部痛、歯痛、片頭痛、嘔気・嘔吐に関しては適切な患者さんに適応できるエビデンスがある、とされています。

 一方ではこうした検証では、あまりに治療手法が単純化されているという批判もあり、鍼本来の研究としての問題点も指摘されています。しかし、「気」や「経絡」といった、いかにも代替医療という概念を用いた鍼灸にこれだけのエビデンスが蓄積しつつあるというのは、これからの統合医療発展に大きな力となるでしょう。統合医療研究のさらなる発展が期待されますね。


tougouiryo at 2007年03月15日16:45|この記事のURLComments(0)

花粉症追加・アロマセラピー

 花粉症についてさらに追加します。アロマセラピーをご存知の方には当たり前なのでしょうが、知らない方には良い情報。

 ティートリーという精油がこの時期の花粉症対策にはもってこいです。これで一発で治るというわけにはいきませんが、症状緩和は望めます。

 当クリニックでも、ペパーミントなどとあわせてディフューザーで香らせています。家庭用としては、入浴時に香らすと良いかと思います。殺菌効果もつよく、除菌スプレーとしても使えます。以前、これらの除菌効果を実験していたのですが、消毒用アルコールなどと比べても遜色のないすばらしい効果だったのが印象的でした。(この成果は大学発ベンチャーでプライムミストとして現在製品化されています。)

 空気清浄にも役立つ「ティートリー」を花粉のこの時期、試してみてもいいかもしれませんね。(ただし無農薬の安全安心なものを選ぶことが重要です)


tougouiryo at 2007年03月01日09:44|この記事のURLComments(0)

漢方薬の品質について感じたこと

 漢方薬についての解説を書いていました。意外に知られていないのが、エキス剤と湯液の2種類がある、ということでしょうか。
 一般に病院で出される粉薬のかたちが「エキス剤」です。一方、漢方薬局で出されるイメージなのが、生薬そのままの「湯液」です。湯液は煎じる手間があるので、一般にはエキスが普及しています。ただ本来の効果は湯液であるのはいうまでもありません。

 では、生薬が出されれば、なんでもよく効くのでしょうか。値段が高ければ、よく効くのでしょうか。ここは非常に難しいところで、生薬を見る鑑定能力が、それらを左右するのです。
 一般の人はどうすればいいの?どうすればいいものとわかるの?いろいろと疑問は出るかと思います。ただ、一般の方がこれを見極めるのは非常に難しいといわざるをえません。

 結局のところ、信頼できる医療機関を自分の感覚で探すしかないというのが現状です。ですから、ただ高い、とか、すごそう、とかいうのはあまり参考にはならないのです。私のクリニックでも生薬については、こだわっていいものをと気をつけておりますが、これからは、利用者の側の理解も進むことが必須です。

 いわゆる自然医療は「自覚的な健康意識の高い人」には優しい医療なのです。だからこそ、ひとりひとり、ただのお任せでない姿勢も重要なのです。

 そうした「自覚的な健康意識の高い人」への参考になる情報をここで、これからさらに提供していきます。サイト名もクリニック関連と分け「統合医療医 小池弘人の統合医療サイト」とでもしていこうかと思ってます。


tougouiryo at 2007年02月18日20:02|この記事のURLComments(0)

時代背景から考える統合医療

 今回は統合医療というものを、私(小池弘人)の意見として、その時代背景から再認識してみたいと思います。いわゆる現代西洋医学が壁にぶつかって、その限界を超えるべく代替医療と総合されて生まれた、という、これまでのストーリーだけで語れるものなのでしょうか。

 医学概論研究において著名な中川米造によると、医学の要求される課題による時代区分としては次の4つに分けられるという。(中川米造「学問の生命」)

(1)侍医の医学:特権階級をその生活の中で体調の変化を細やかに見ていくもの。各種の伝統医学は基本的にこの見方によっている。こう考えると「未病」という古くて新しい概念が伝統医学に根付いているのも、納得する。対象はきわめて限られている。

(2)開業医の医学:特権階級よりは広がるが、まだ不特定多数が対象ではない。(1)と(3)の中間的位置。

(3)病院の医学:宿泊所ではなく、重病者の収容施設的な病院を中心とした医学の段階。社会的費用により医療が行われ、客観的方法論により「医学」が急速に発展していく。こうした過程のなかで、「病人」から「病気」へと対象がシフトしていくとも考えられる。「病気」という共通要素がよりクローズアップされる段階。

(4)社会の医学:さらには、環境や福祉といった社会的な要因が強まり、社会と医学の関連に進む。現代の高齢化社会などの諸問題などもここの範疇といえよう。

 こうした医学の流れの中で、統合医療は明らかに(4)の中で誕生している概念である。統合医療の中に自然環境との関連するセラピーも多いことが分かるだろう。では、それだけであろうか。統合医療関連の講演を聴いていて、感じる基本概念は「患者中心主義」である。これは(4)の範疇としていいのだろうか。

 ここに、自分を個々の生活の流れの中で捉えてもらいたいという気持ちが含まれている、と考えられるのではないだろうか。すると(1)の範疇に近くなる。いうまでもなく統合医療を形成する大きな柱は伝統医学である。また、病気を未然に防ぐことを目的に「未病」への関心も高まっている。これらはまさに(1)の再来ではなかろうか。「特権階級」というと聞こえが悪いが、自分を細やかに見てもらいたいという希望はまさに(1)における基本的な感情である。

 (4)の段階に入りつつも、ただただ「社会」という広い対象に広がり続ける、というわけではないのが人間の性。ここにあらたな形での(1)への回帰運動が生じるのも自然な流れといえよう。統合医療希求の底流にはこうした、背景もあるのではないだろうか。中川氏の区分による(4)から(1)への回帰(ただしこれは全くの回帰ではない。らせん状に段階は上がっているのかもしれない)ともいえる流れに統合医療は位置するのではないだろうか。きわめて個人的な医学体系でありながら、いわゆる「エコ」的要素を強く持つ。統合医療誕生の背景にはこうした時代のうねりが感じられる。

 ただ統合医療は新しい医学だ、と言っているばかりでなく、その時代的位置づけもそろそろ冷静に考える段階に入っている、といえる。

 なんでもくっつければ良い医学、という能天気な考えではなく、その意味するところを少しでも深く考えてみたいと思い、今回はこんな内容にしてみました。


tougouiryo at 2006年10月17日23:51|この記事のURL

統合医療的漢方講座(2)

五行と六病位

 

 陰陽の概念から、東洋医学、中国医学の考え方の基本を学び、気・血・水の概念から中国医学特有の生体の概念を学習しました。それでは次の見方、五行はどのように考えればよいでしょうか。これは5つの類型に人を分類する方法と見ることができます。つまり、体調と性格の両面から大きく5つに分類することになります。すべてが、この5つにきれいに分類されるわけではありませんが、それらの複合したものと考えれば、かなりの適応が可能であろうと思います。五行に対応するそれぞれのタイプを見てみましょう。自分はどれとどれに一番近いでしょうか。

 

「木」・・・イライラした怒りと緊張の状態  怒りによる陽性のストレス状態・不穏

「火」・・・傷つきやすく神経質で心配性  焦燥感による動悸・不安・不眠

「土」・・・ウジウジといつまでも考え依存的  神経性の消化不良・胃もたれ・下痢

「金」・・・憂鬱で後悔も多く悲観的  虚弱をベースにした呼吸器疾患・咳・鼻水

「水」・・・無気力で自信喪失、漠然とした不安  疲労・老化をベースにした気力低下

 

五行のそれぞれの相関関係が相生・相克となります。この関係性から、ただ単に5つに分類するだけでなく、違った角度からのアプローチをも可能にします。そしてそれらを元の健やかな状態へと戻していくことができます。それでは元の健やかな状態とはどのようなものなのでしょうか。理想的な五行の状態を見てみましょう。

 

「木」・・・相手に同情心を持てる、適応力のあるまとまった性格(同情)

「火」・・・愛情ある、繊細な楽しい性格(愛情)

「土」・・・相手に共感できる、思慮深い性格(共感)

「金」・・・相手に敬意を払える会話好きな活力ある性格(敬意)

「水」・・・知恵のある臨機応変で賢明な性格(知恵)

 

以上が体質のタイプ別としての五行の概略です。それでは次に、六病位はどうでしょうか。これは病に対する生体の対応と考えられます。つまり、何らかの生体に対するストレスへの対応の違いと言えるでしょう。対応力の強い三陽と、弱くなっている三陰の6通りの対応に分けられます。本来の古典的意義としては、病の進行のステージ的意味合いが強いのですが、日本漢方のとらえ方では慢性疾患にも適応される概念だけに、広く対応の違いとしてとらえる方がいいようです。「ステージ」より幅を持たせた理解をすべきでしょう。

 

ここで、ここまでの基礎概念をまとめてみます。ただの総論ではなく、実際に人を診るときにどのように応用されるのだろう、という観点で見直してみることが必要です。今までの理解と比べてどうですか?

 

陰陽:二元論に基づく世界観(二元論でみる)

気血水:生体を構成する三要素(生体の構成要素からみる)

五行(五臓):体質の5パターン(性格・体質別でみる)

六病位:疾病への対応の6パターン(対応法の違いでみる)

 

これらの見方を駆使して、実際には漢方相談に当たります。人をどのように見るか、そこからして違いがあることを知っていただくことが重要です。


tougouiryo at 2006年08月29日22:41|この記事のURL

統合医療的漢方入門(1)

 

世界の様々な伝統医学には、それぞれに異なる生体観があります。たとえば、中国医学では「気・血・津液」、アーユルヴェーダでは「ヴァータ・ピッタ・カファ」といった生命の構成要素により成り立っていると考えています。それらは科学的には何にあたるの、というような疑問はもたず、そうした科学的概念のない時代の見方にこちらから近づいていくようにするのも、こうした伝統医学の理解には不可欠です。

 

これらの中でも特に、際立ったもの、つまりは伝統医学特有の概念は「気」「エネルギー」と称されるものでしょう。生命を生命たらしめているものの概念であり、それぞれの伝統医学における根幹をなすものともいえるでしょう。それゆえに伝統医学を学ぶ際にこうした概念は、最も興味深く感じる人も多い反面、難解さを感じる人も少なくありません。ある意味で相補代替医療を学ぶ醍醐味がある、とも言えるでしょう。

 

まずは、漢方特有の生体の3要素になれるようにしましょう。生体を皮膚、筋肉、血液、骨格…というようには分けずに、気・血・水の3つに分けるように考えます。

 

     気…生命エネルギー

     血…生体を構成する赤い液体

     水…生体を構成する透明な液体

 

各要素において、それぞれを以下の観点から考えてみます

     量の多少

     流動性の悪化

     病的偏在

 

 自分の体を、気・血・水の3要素でみる訓練をします。(気・血・水メガネでみる)

どの成分が、どのようであれば「健康」ですか。

 いきなりどの処方がいいのか、という観点ではなく、まず、生体をどう見るかという観点が先であるはずです。次にそうした見方に基づいて、処方が決定されていくべきです。

処方の構成を考えるとき、「作る側」に立って考えることも時に必要です。

 

付)陰陽の理解について

陰陽五行は中国医学において大変重要な概念です。あくまでも相対的なものとして、何が陰で、何が陽であるのか、具体例で考えてみることも大切です。これを通して、中国伝統医学におけるモノの見方が理解できるようになるのではないでしょうか。


tougouiryo at 2006年08月18日22:16|この記事のURL

統合医療の定義・概念について

 

ここでは「統合医療」といわれるものの定義・概念について考えてみたい。統合医療という概念は様々な人により、その人なりの言葉で語られることが多い。そうした意味では、ここでの私の議論もそのひとつとして位置づけられるであろう。それぞれの人が、それぞれの思いを込めて語られた統合医療があるわけであり、それ自体は悪いことではない。しかし、様々な意味が込められることからくる混乱もないわけではない。そこで、ここでは少し引いた立場でこの「統合医療」の概念について考えてみたい。

まず第一に、その根幹をなす概念は「現代医療と相補代替医療の統合された医療体系」である。

そして次に、そこから派生してくる概念が加わるとみていい。つまり現代医療についてはわざわざ説明することもないが、相補代替医療の持つ背景が加わることに大きな意味合いがある。巷間語られる「統合医療」のイメージはこちらの影響が大きい。誤解のないように述べておくが、基本的にはそのどちらにも傾くべきではないが、いわゆる現代医療との比較において統合医療は、相補代替医療より、になるといえる。これを色彩で説明してみよう。つまり、「白色」=「現代医療」、「黒色」=「相補代替医療」(白黒に別に意味はない)とすると「統合医療」は「灰色」になる。これは、「無色」の側からすれば「有色」である。しかしあくまでも「灰色」であってすべての絵の具を混ぜた結果の「黒色」とはことなる。こういった事情に近いのではないだろうか。あるから、時折「無色」の側から「有色」全体へ批判がなされる。ひとつの健康食品のために「相補代替医療」全体へ非難されることも珍しくはない。この辺の事情は、薬害があったとしても「現代医療」全般が批判されないことと対照的である。

そこで相補代替医療により付加される概念とは、どのようなものであろうか。それは「患者中心主義」ないしは「受診者側主導」という言葉に代表されるであろう。受診者側が主体であるから、医師の側はあくまでも、脇役である。ガーデニングを行う庭師、とも言える。主体である人が主体性を持って、決定し、実行していくのである。さらに要素還元主義への懐疑や持続可能性といったキーワードもここに含まれてくる。つまり、統合医療を議論するときに出てくる、様々なキーワードはここに起因するといえる。こうした事情が、ワイルの著作の翻訳者でもある上野圭一氏の指摘する「統合医療の軸足は代替医療にあるべき」という点ではなかろうか。

上記の議論を簡略にまとめると以下のようになる。

 

概念1:統合医療とは現代医療と相補代替医療の統合された医療体系である。

 

概念2:相補代替医療は、受診者中心で治療者は庭師、という視点をもち(ここから必然的に現代医療のパターナリズムが批判される)これらが統合医療へ継承される。(相補代替医療独自の事情)

 

通常、概念1のみでは不足といわれ、概念2が入るとそれぞれの思いが交錯して議論が宙に浮いてしまうことの一端がおわかりいただけたように思う。専門家以外はどうでもいいようなことではあるが、概念の混乱は、今後、あまりいい影響を及ぼさないだろうから、ここで整理しておく意味もあろう。これはまた、逆の抑止力ともなる。つまりあらゆる現代医療批判や怨念の中、統合医療がさも完全・最高であるかのような思い込みを持ってしまうことの危険性に対してである。あらゆる理想を盛り込んだ医療が「統合医療」ではないのである。ここのところの誤解が無いように、ここであらためて「概念」について考えてみた。


tougouiryo at 2006年08月17日23:06|この記事のURL

アロマセラピー

 アロマセラピー(芳香療法)は、その名の示すとおり芳香を持つ精油を用いた治療一般を指す。芳香を用いた治療の歴史は古いが、アロマセラピーという名前は、精油により自らの火傷を治したフランスの化学者ルネ・モーリス・ガトフォセに端を発する。主なものは、精油をディフューザーなどで拡散させ、その芳香を楽しむ芳香浴。精油をキャリアオイルでのばしてマッサージを行うアロママッサージ(リフレクソロジー・リンパドレナージュも含む)等である。それぞれ、嗅覚や皮膚を介して、精油成分が体内に吸収されることにより効果を示す、とされる。また有効成分の効力のみならず、原初的感覚である嗅覚に直接アプローチする点も特色といえ、植物医学的な面のみならず、精神的・霊的治療にも応用される。ただし、多数の製造業者が存在するため、粗悪品も流通しており、購買者は、品質に関して厳しい選択の目を要求される。100%天然で無農薬(ないしは有機農法)、産地や抽出部分などが明記されていること、などである。

 

メカニズム

嗅覚を介して大脳辺縁系へ直接作用し、リラクゼーション効果を及ぼす。経皮吸収により、血流にのり全身的効果も及ぼす。

 

メリット

芳香がベースのためなじみやすく、特に芳香浴は簡易で安全性が高く、セルフケアに適する。とりわけ呼吸法との組み合わせにより相乗効果も期待される。


tougouiryo at 2006年07月28日18:27|この記事のURL

鍼灸

  わが国において、漢方と双璧をなすCAMはいうまでもなく「鍼灸」である。アメリカでは中国伝統医学(TCM)として、漢方薬と一緒に扱われることが多いが、日本では、漢方は医師・薬剤師、鍼灸は鍼灸師、と分かれているのが一般的である。統合医療時代の鍼灸は、その即効性をふくめた特殊性の中で、非常に重要な位置をしめるであろうと思われる。

漢方とは違って、体の局所へ選択的に作用させることが可能であり、かつ全身調整としても有効である。具体的には、毎日の健康維持、免疫力の向上、肩・腰・膝の痛み、など実に幅広く対応可能である。また施術者が直接的に、患者さんに影響を及ぼすことができるという点も大きい。日々の痛みなどの不調から、免疫向上まで、広いニーズを満たす鍼灸は、わが国の統合医療発展に不可欠の存在であるといえよう。

 

メカニズム

経絡という独特のシステムを介して、局所の他に、自律神経系、免疫系、内分泌系へ幅広く作用。

 

メリット

体の局所治療に適する上に、全身調整も行うことができる。施術者とのコンタクトがある。


tougouiryo at 2006年07月28日18:24|この記事のURL

漢方

  わが国で「漢方」というとき、大きく分けて2つの流れを考えなければならない。一つは、中国から伝来した医学が日本独自に展開した、いわゆる「漢方」と、本家中国における「中医学」である。また日本漢方としても、大きく二派に分けることができる。「後世派」と江戸期に勃興した「古方派」である。現在は、中医学を含め、それぞれの系統の単独継承もあるが、一般には折衷・統合されたかたちで実践されている。また、これらから発展した形で、近年、「経方理論」などの新理論も誕生している。

一般に漢方は、細粒の「エキス剤」と生薬を煮出す「煎じ薬」が使われることが多いが、それ以外の剤形も増加している。医療現場においては、その利便性から「エキス剤」が一般化しているのが現状である。どちらにしても漢方的な診断である「証」など東洋医学的診断により処方されることが望まれる。単純な病名と処方との対応では不十分といえる。そうした意味でも、しっかりとした伝統医学的思考に基づいた処方を受けることが必要になる。また、漢方処方の良い点は、オーダーメイドである点である。症状や症候にもとづいて、構成生薬を考慮しながら加減していくことが最も理想的であるといえる。ひとりひとりにきめ細かく内容を考慮することこそ、漢方の最大の強みともいえよう。そのためにも必要であれば、面倒ではあるがエキスよりも煎じ薬が、より適しているであろうことは言うまでもない。天然の植物の持つ癒しの力を取り入れる、という点でも煎じ薬は魅力的である。統合医療の観点からも、最大級の治療体系であるといえよう。

 

メカニズム

生薬の有効成分や相互作用による薬理効果。

 

メリット

現代医療的病名を越えて、独自の診断システムにより治療が可能。加減によりオーダーメイドの処方が可能。わが国においては馴染み深い治療方法。


tougouiryo at 2006年07月28日18:22|この記事のURL

癒しの聖地ルルドを訪ねて

 ここでは、統合医療とスピリチュアリティーの関連として、その具体的な「場」である「ルルドの泉」を紹介したい。そこで起こる奇跡の数々は、広く統合医療に大きな示唆を与えるであろう。

 

はじめに

 1858年、フランス南部ピレネー山脈麓の町ルルド(Lourdes)は、少女ベルナデッタ(Bernadette)がマリアの降臨を告げて以来、癒しの町として世界的に名高い。シーズン中には、フランス国内でパリに次ぐ宿泊者数となり、小さな田舎町としては似つかわしくないほどの賑わいを見せる。敬虔なカトリック教徒にとって、重要な聖地であるのは言うまでもないが、むしろわが国においては、癒しの泉湧く地として有名である。この地に多くの人々が関心を持つ奇跡は、大きく2つの意義に分けられるかと思う。一つは、一人の少女に聖母マリアがこの地に姿を現したことの意味、つまり何故ベルナデッタであったのかということを含めた宗教的な意義である。もう一つは、聖母マリア出現の際に告げられた泉から湧出した水による、奇跡的治癒の数々に関してである。私自身は、特定の宗教を持つ者ではなく、また、医師であるということから、後者の意義に関して、特に強い関心があった。そしてこの度、2003年と2005年の2回にわたってルルドを訪れ、かつ奇跡的治癒を認定する奇跡認定医のパトリック・テリエ先生(Decteur Patrick THEILLIER)に2度にわたってお話を伺うことができた。

 

聖地ルルドと奇跡的治癒

 1858211日、少女ベルナデッタの前に聖母マリアが出現したことから一連のエピソードは始まる。当初は、ベルナデッタ自身、聖母マリアであるという認識はなく「ご婦人」という認識であったという。その後225日の9回目の出現のとき、泉の位置が示され、「ルルドの泉」の湧出となる。はじめ泥水であった泉はこんこんと湧出するうちに、みるみる澄んでいったという。そしてこの日のうちにくみ上げられた水により、すでに最初の治癒例が確認されている。そして325日の16回目の出現時に、この婦人は「無原罪の宿り」と名乗ることとなる。はじめはベルナデッタ自身もそれが聖母マリアを示すものとは知らず、町の神父の指摘により知ることになった、ということである。これ以後、今日に至るまで奇跡的治癒は続き、世紀の変わり目までに二百万人もの患者が訪れ、うち6784例の治癒が記録され、バチカンの設定した厳密な基準を満たす「奇跡的な治癒」は66名を数える。しかし、これらはあくまでも申告されたものであり、自覚的にも他覚的にも治癒していながらここに記されていない(申告していない)人数はさらに多くいると考えられる。

 

ルルド探訪

ルルドへは、パリから空路であれば、ルルドタルベ空港ないしはポー空港からタクシーを使用して行くことができる。陸路でも、在来線を乗り継ぎ、ルルド駅へ行くことができる。町の中心は言うまでもなく、大聖堂であり、その周辺には観光客を目当てにたくさんの土産物屋が軒を連ねる。古くは、防衛の要衝であった地であるだけに、威厳ある要塞が町を眺める。大聖堂を背に右手には、ゴルゴダの丘を模した「十字架の道」があり、イエス受難の像が山道を登りながら見ることができる。そして左手には川が流れ、この川と大聖堂の間に泉の湧出する洞窟がある。ここが「ルルドの泉」である。泉の湧き出るところが実際に見ることができ、そこから出た水は少し離れた水のみ場で自由に飲むことができる。水は無料で提供されており、シーズンにはたくさんの人たちが、ペットボトルや水筒を手に列を成す。洞窟からさらに奥に進むと沐浴場があり、シーズン中であれば、車椅子やストレッチャーの方でいっぱいになる。敷地内にはこの他、ルルドの歴史を説明する映画館や、関連する書籍を販売する書店、医療事務局もこの敷地もある。

 

奇跡認定医テリエ先生

医療事務局には「奇跡」を認定する医師パトリック・テリエ先生がいる。先生とはこれまで2度お会いしているが、一度目の訪問(200311月)では、一般的な解説から、奇蹟の認定基準に関して教えて頂いた。このとき先生は、信仰がその治癒の中心的役割を示すと強調されていた。同時に他の信仰をもつ者であっても、生命の連続性を認識している人であれば治癒しうる、というお話は非常に興味深かった。「水」という物質にのみ効果を帰する見方ではなく、その背景としてのスピリチュアリティーにこそ重点を置くべきであるという見方であり、大いに感銘を受けた。

二度目(20056月)は、一対一の個人的会談という形で、お時間を取って頂いた。そのために、なかなかお聞きすることができないお話もうかがうことができた。それは、ホメオパスでもある医師としての先生にとって、ここでの治癒を先生自身どのようにとらえているのか、ということである。医師として、治癒困難な疾病が実際に治ることに対する見解、さらには、ホメオパシーの効果を、身を持って経験している医師として、治癒と水の持つエネルギー、そしてスピリチュアリティーとの関連に対する見解、などである。また先生は、多発性硬化症などの難病の治癒メカニズムにも非常に興味をもっておられて、生化学や遺伝子などの理論を駆使して同僚の医師と共著の著作も出版されている。信仰との関連も重要であるが、治癒することそれ自体にも重要な意味があり、その点もさらに研究が進むべきである、と強調されていたことも、印象的であった。そしてルルドの奇跡においては、水の果たす役割はきわめて大きいのではないだろうか、ともお話されていた。

 

ルルドの奇跡とは

 信仰に基づく「スピリチュアリティー」と、それを伝達する媒体としての「水」、そしてその作用点ともいえる「自然治癒力」。この三者の連携から織り成されるものが「ルルドの奇跡」と言われるものなのだろう。そこには単純な還元主義では解決されえない問題が多く横たわるが、「奇跡」が我々に見せる魅力は限りない。それは、ルルドの奇跡の元来もつ力に加え、多数の巡礼者をはじめとした訪問者の祈りによるところも少なくないように思う。聖地ルルドから、我々、統合医療を目指すものが得ることができるものは限りなく多い。「統合医療」の更なる発展を考えるとき、ここに多くのヒントがあるような気がする。


tougouiryo at 2006年07月28日18:20|この記事のURL

統合医療的漢方講座の紹介

 ここでは、私が主に担当している漢方講座の概略を紹介する中で、統合医療における漢方のあり方を考えてみたいと思います。内容的には、女性薬剤師を主な対象とした初心者向き「漢方入門講座」です。講義のあらましをご紹介します。

http://www.dayspa.co.jp/seminar/course3.html 

 

1回:東洋医学概論

統合医療から見た東洋医学概論を以下のようなポイントで解説していく

(1)   相補代替医療と統合医療(漢方は代替医療?)

(2)   薬剤師にとっての統合医療のあり方

(3)   代替医療先進国アメリカでの統合医療の現在

(4)   「西洋医学」と「漢方」の視点の相違

(5)   「漢方」は独立した存在なのか(他の伝統医学との関連は?)

統合医療としての漢方の枠組みを総論的に解説していく内容。

 

2回:漢方の生体のとらえ方<1>(気血水と五臓)

相補代替医療・伝統医療に広く共通する概念である「気」を中心に、漢方独自の生体観を紹介する。気血水と五臓を用いて人間を観察するきっかけを作りながら、現代医療とは別な視点があることを学習する。またこうした伝統医学的概念を、現代医療的に考えられるようにしたい。

(処方紹介1)桂枝湯・麻黄湯・葛根湯の解説

 

3回:漢方の生体のとらえ方<2>(五臓六腑と六病位)

前回に引き続き、漢方的な生体把握法に慣れるようにする。今回は、五臓六腑と六病位を中心に学習する。また六病位から、疾病に対する生体の反応を「健康生成論」の立場から俯瞰する。次回からの診察法の準備も合わせて行う。

(処方紹介2)桂枝湯からの展開

 

4回:実践!漢方診察法

自己観察からスタートして、具体的な体験として診察法を学習する。脈・舌・腹の観察から東洋医学での生体の見方を実践的に学習し、伝統医学的な視点に慣れる。

(処方紹介3)女性のための3処方の紹介

 

5回:女性3処方を基礎とした頻用処方解説

 前回学習した女性3処方を基礎として、気血水を具体的な生薬の観点から復習しながら、よく使われる処方を解説する。ただの暗記にならないように、それぞれの処方の持つ意義を考えながら解説する実践的内容。多数の処方解説を行う。

 

6回:生薬の総括と漢方学習法

 これまで学習してきた漢方の総論的内容を、生薬の観点からもう一度復習する中で、各処方のもつ意味を再考する。また実践的に漢方相談を行うにあたっての注意点もあわせて学習する。あわせて、他の相補代替医療との併用のポイントも統合医療の観点から解説する。総括として、講座終了後の漢方の学習をどうやっていくべきか、質問形式での解説も行う。

 

 

講座全体として…

講座全体としては、実際にテイスティングやカウンセリングの実践もあり、実践的な内容がふんだんに取り込まれている講座です。また学習にあたっては、パターン認識に終始するのではなく、漢方的発想で考えることができるように講義していきます。そうした中で、広く伝統医療的な視点をもつことができることを目的とし、統合医療的薬剤師を育成したいと考えております。


tougouiryo at 2006年07月25日22:58|この記事のURL

サプリメント総論

 代替医療の中でもとりわけ、現在われわれ日本人になじみあるものといえば、サプリメントであろう。サプリメントとは本来、補充するという意味で、日常の体に必要な成分を補完するもの、ということになる。いわゆる一般に健康補助食品、栄養補助食品と称されるものである。したがって、あくまでもしっかりとした食事が前提としてあり、それを補助するという役割になるわけである。

よって、サプリメントのみに依存する食事では、健康上大きな問題となりうる。だからこそサプリメントとの良い関係が、これまでになく求められていると言えよう。そのためには、他のサプリメントや医薬品との相互作用にも注意する必要がある。サプリメントには医薬品と同じまたは類似する成分が含まれることもあり、相互作用を及ぼす可能性は十分に考えられる。相互作用において報告例があるものをいくつかあげると、セントジョーンズワートによるジゴキシン、ワ―ファリン、テオフィリンなどの薬物の減弱効果、イチョウ葉エキス服用による抗血小板薬、抗血液凝固薬内服時の出血傾向亢進の可能性など、重要なものも少なくない。

 サプリメントは、広く代替医療の範疇に入るものであるが、代替医療利用率は米国においては国民の50%近くにおよび、その費用は総医療費の50%を超えると言われる。ここまでの影響を持つに至った背景は、現代の健康意識の高さと無関係ではないと考えられ、これがサプリメントの急速な成長の背景にある。しかし、そればかりが原因とは言えない。米国においてサプリメントは1994DSHEADietary Supplement Health and Education Act)法により「ハーブ、ビタミン、ミネラル、アミノ酸等の栄養素を1種類以上含む食事を補助する製品」として定義された。そしてこのDSHEA法により効能効果の表示が可能になったのである。結果、米国において2兆円を超える市場を形成するに至った。しかしこの法律には、安全性についての販売責任が会社側にないなどの問題点も指摘されている。

こうした米国での流れを受けて、わが国においても今日の広がりに至ったわけだが、これをただ闇雲に否定するという立場は好ましくない。一人一人のセルフケア意識を高め、健康生成のサポートをしていくには、サプリメントは重要な役割を持つものだからである。ただし、医療従事者として、テレビの健康情報番組などの様々な情報を無批判に受け入れることは避けなければならない。しかし、こうした情報が氾濫する背景には、前述したように国民の健康意識の高まりがあることを無視してはならない。だからこそ我々医療者は、その高まりを萎えさせることなく、健康生成を積極的にサポートする方向へ導く必要がある。

こうしたことはサプリメントについてのみならず、代替医療全般に対しても言えることである。本来の治療を妨げる場合、明らかに医学的に不適切である場合、経済的に支障になっている場合などを除いては、必ずしも十分なエビデンスがなくても、あからさまな否定はせず、容認することも必要であろう。現代医療とサプリメントをはじめとした代替医療との理想的な関係の形成から、さらなる「統合医療」の発展に期待したい。


tougouiryo at 2006年07月24日08:47|この記事のURL

統合医療とは

 ヨガや太極拳などの運動、サプリメントや健康食品、さらには漢方などの伝統医学、これらをまとめて「相補代替医療」(Complementary and Alternative Medicine:CAM)という。この相補代替医療を、現代の通常医学(いわゆる現代西洋医学)とあわせて、患者中心主義に基づき理想的に統合したものが「統合医療」(Integrative Medicine:IM)である。近年、相補代替医療に期待する多くの一般市民の支持を得て、注目を集めている概念である。相補代替医療と同義ではない。

米国国立補完代替医療センターよる「代替医療」の定義

w国立補完代替医療センターによると 「代替医療とは現時点では通常医学の一部としては一体化していないヘルスケアあるいは医療をさす。一般には代替医療は、医師(MD)やオステオパシー医師(DO)によって行われてはいない医療であり、現代西洋医学や主流医学などとは異なる。なお代替医療として分類される医療行為のリストは、社会情勢や科学的根拠などに基づいて変更され続けるものである。」

 

相補代替医療の種類

w民族療法・・・漢方医学、アーユルヴェーダ、ユナニ医学、自然療法、ホメオパシー

w食事・ハーブ療法・・・栄養補助療法、花療法、ハーブ療法、ビタミン療法

wバイオフィードバック、催眠療法、リラクゼーション、イメージ療法

wアニマルセラピー、園芸療法

w温泉療法、太極拳、ヨガ、気功

wアロマセラピー、芸術療法、音楽療法

w指圧、カイロプラクティック、リフレクソロジー

wその他

 

相補代替医療の本質

w各国の伝統医学

w現代医学に対抗して生まれた比較的新しい医学体系

w民間療法

w心身のコントロール技法

 

 


tougouiryo at 2006年07月24日08:36|この記事のURL