いわゆるブログ!
解剖生理の「図と地」 最新トピックスへの俯瞰
まずは、大方忘れているのでその復習的な意味合い。加えて、従来の重要事項から外れたところで出現している、現在のトピックス。「図」ばかりの学習に目が行っていた学生時代と異なり、トピックスと言われるものは、その「地」から発生していることがほとんどです。最近のファシア、マイクロバイオ―タなどはまさにそのいい例。
筋骨格ばかりに注意していると、その「地」であるファシアには気づきにくいもの。従来、気のせいとか、ストレス・自律神経とか、臨床的になんとなく思い付きのストーリーで処理されている諸症状の多くが、ファシアなど「地」的な概念によって、かなりが説明可能です。
そこへの具体的なアプローチとして漢方や鍼灸、その他ハイドロリリースなどを適応していくと考えると、無理に東洋医学の「併用」とか「統合」といった肩ひじを張らなくても、必然的に、実践、統合されていくように思います。
腸内環境におけるマイクロバイオ―タの役割も同様で、消化器疾患の諸症状のみならず、内臓疾患幅広く、炎症、腫瘍などあらゆる面での深い影響がうかがわれます。
現状としては、まだ限定された疾患だけですが、その重要度も含めて、より影響力は強まっていくでしょうし、これまでの病態生理的な説明の逆転もあるかもしれません。とりわけ、糖尿、ダイエット、肥満などは、その摂取カロリーでの議論が久しいですが、遺伝子以上に、「体質」として扱われていた不確定要素へのマイクロバイオ―タの重要度は増すばかりではないでしょうか。
また、免疫系の本質と消化器系の役割、生命の源としての腎の役割なども、中医学で言うところの先天・後天の気という概念にもつながってきます。とりわけ、近年の長寿遺伝子としてのクロト―遺伝子の役割から展開してきた腎臓の(とりわけ老化物質としてのリン排泄の)役割は、まさに先天の器としての腎そのものと言えそうです。
無意識への関与に関しても、思弁的なものに限定されず、グリア、とりわけアストロサイトの役割や、脳腸相関の知見、ニューロセプションの概念などは、その具体的なアプローチを可能にしていくのではないかと考えられます。
「図」としての解剖生理に対して、「地」としての視点から眺めたトピックスを含めて、今月は統合医療学会主催の認定講演会としてのパート5「解剖生理」も開催予定です。2時間という短時間ですが、問題演習をふくめて、ここで述べたトピックスも駆け足で紹介する予定ですので、ご興味のある方は、統合医療学会のホームページをご覧ください。
6月のカフェ課題図書は100分で名著「ヘーゲル 精神現象学」です
さまざまな場面での「分断」をどう乗り越えるか、論破ではない、対話からの相互承認の在り方を考えていきます。なぜジャングルカンファレンスは論破型ではないのか、真理追求型ではないのか。改めて参加した皆さんと考えてみたいと思います。
ヘーゲルについては、少し100分のテキストとは違ったテイストですが、以下のものもおススメです。ともに、いかにこの精神現象学が誤読されてきたか、が分かるような気がします。
臨床現場の統合医療(2) 考える身体、変わりうる身体
60代女性、乳がんの術後で化学療法中のAさんです。発症前からあまり「肉類」は食べなかったとのことで、ごはん・野菜を中心とした食事だったようです。術後も、肉は体に悪いのではないかと思い、避けていたということでした。腸内環境を考える中で、過度にタンパク質とりわけ動物性たんぱくを制限する方は少なくないように思います。自然医療的な視点では、多くの場合、そうした指導がされることも多く、治療全体のバランスを考えたとき多くの問題を投げかけています。
Aさんもこうした状況で、化学療法による体調の不良と、現状に対しての不安や医療への不信など、精神的ストレスを強く抱えている状態で受診されました。
それでも一時期は相当のストレスだったようで、心理カウンセリングにてかなり改善の方向には進んでいるようでしたが、とにかく心身ともにエネルギーが不足しているといった印象でした。
こうした方には、まず「食事記録」をとって頂きます。どのようなものを毎日食べているかを、詳細にチェックします。これによりAさんは、肉類をはじめとしたタンパク質の摂取が極めて少ないことが分かりました。であれば、当然、糖質過多もあるわけです。
一般に肉類を以前からあまり食べ慣れていない方にとっては、タンパク質をとれといってもなかなか急には摂取できないのが現状です。また、考え方としても肉類を摂取するということが受け入れられない状態です。確かに身体の酸化を進めてしまうという面はありますが、免疫力の根底を形成するアミノ酸摂取を阻んでしまっては元も子もありません。こうした状態の考え方のバランスは、本当に難しいところです。
しかし、肉類の摂取に抵抗がある方でも、卵や魚などは、比較的摂取しやすいようです。なかでもアミノ酸スコアを考慮すると、卵はかなり有効です。1日に2〜3個いけるとかなり体調改善が実感されてきます。とりわけオムレツなどが食べやすいようです。
それでも実際には、十分なタンパク摂取は難しいという方も少なくありません。こうした場合、液体でのプロテイン摂取をおすすめすることもあります。いわゆる「プロテイン」です。最近は、かなり味のバリエーションも多く、各社特徴が様々あるのですが、基本的には、いくつか試してみて、飲めそうなものを選択してもらうというのが良いようです。当然、普通に食事から摂取するのがいいわけですが、ほぼ食べられない場合は仕方ありません。
無理に食べていたご飯(糖質)の量を少し減らしてでも、タンパク質摂取を心掛けると、体調はめきめき改善することは少なくありません。プロテインで慣れてきたら、卵などの食品でのタンパク摂取にも抵抗がなくなるようです。この辺りは、やはり慣れの要素が強いように感じます。私個人としては、エネルギーバランスの法則と呼んでいるのですが、自分のエネルギーに従って、食物のもつエネルギーを摂取することが出来るようです。当然、野菜よりは動物の方がエネルギーのレベルは高いと思われるので、それを食するだけのパワーがこちらにも必要というコトになります。「特異動的作用」として考えても良いのかもしれません。
また、これと同時に、ビタミン・ミネラルの摂取も必要です。当院では十分なサプリメントの摂取も併せておすすめします。これまでの食事内容から、エネルギー代謝に不可欠なビタミンB群の不足が多く認められ、これが十分でないとせっかく摂取したタンパクも有効利用できないわけです。
こうした栄養の補給で、これまでの化学療法などの治療の続行を躊躇っていた方でも、前向きに治療続行が可能になってきます。A さんも、力がついてきたということで、現代医療との併用に、日々前向きに取り組まれています。確かに食に関しては、好みが大きく作用しますが、一度精神的にも回復すると、こうした食の摂取にも前向きになる方は少なくありません。人は一度変わることで、それまでの思考の主体となった身体もかわり、考え方も変わりうるという例は少なくないように思うのです。
ただし、これだからと言ってタンパク質ばかりという食事が推奨されるというわけではありません。毎日のお通じの状態などを考慮し、腸内環境の調整もまた重要です。腸内環境が免疫状態を左右するのも、また事実。大きな体調不良をかかえたときには、こうしたバランスについて抜本的に考え直す良い機会なのかもしれません。そうした意味では万人向けの理論というのは厳密には存在しえない、というjことでしょうね。
GW終盤! 医学とお城のおすすめ本
とりわけ、実際の診療においては、当たり前の「前提」として解剖生理があるわけですが、なかなか難しいケースであれば、当然その前提により易々と解決されるようなものではないわけです。となると、それ以外(つまり従来の解剖生理の補集合的な)概念を必要とするわけです。
ただしここでは、スピリチュアルやエネルギーといった代替医療性が強いものをいきなり導入する、ということではなく、通常の総合診療的な枠組みで扱いうるものとします。そうするとどんなものが挙げられるのでしょう。
そうした通常診療の補集合的な概念として、まとめたものが次のようになります。とりあえずは、皮膚・ファシア・自律神経・マイクロバイオ―タの4つです。(個人的には統合医療的な診療の隠し玉と考えています。無意識のテトラとも関連させてます)
皮膚といっても、通常の皮膚科的な意味合いではなく、触れるということから皮膚の多彩な機能から演繹されるものですし、ファシアもただの結合組織的なものではなく、引き伸ばした時のアナトミートレイン的な状況も含めてのものです。当然、自律神経も通常の二重・拮抗支配といったストーリーのみならず、腸管神経系、さらには無髄迷走神経の働きも考慮したポリヴェーガル理論なども射程に入っていますし、マイクロバイオ―タとしては腸管に限定されず、皮膚表面なども広く考慮したプラネタリーヘルス的な視点も考慮されるべきでしょう。
ちょうどGWで、時間もありましたので、これをまとめて考えてみようと思い、以下のような本をまとめて読んでいました。学生時代に学んだ医学と比べて更なる広がりを感じることができました。
と、医学の話はここまでで…
ちなみに今年のGWは遠出せず、近場の城のリア攻めです。関東の戦国史に思いをはせながら、滝ノ城、山口城、立川城(立川氏館)、滝山城、を廻っておりました。
関東戦国史は、結構複雑でなかなか分かりにくいのですが、以下の歴史人5月号増刊、良かったです。
また、関東近隣のお城めぐりとしては、西股先生の以下の書籍がホント、おすすめです!滝ノ城では特に参考になりました。
疫学的視点で考えること、プラグマティックに考えること
もう15年前に書いた記事を見つけましたので、再録。このころもGWに出かけていないことが分かります(笑) 紹介している本も当然ながら今ではかなり古いものですので、悪しからず。
ゴールデンウィークですが、特にどこへも出かけず、本など読んでいます。その中で考えたことを少し・・・。
「誰も教えてくれなかった診断学」(野口善令・福原俊一著・医学書院)を先日ふと手にとって面白そうだなと思い、買って帰りました。内容はいわゆる診断学の教科書とはかなり違って、実際のデキる医師の問題解決方法を具体的に解説した面白い内容でした(一般向けではありません。総合診療を志す研修医にはお勧めだと思います)。
思考過程を客観的に考える機会は少ないので、統合医療も視野に入れて考えたとき、非常に参考になりました。(この本は純粋な西洋医学的「総合診療」が対象なので「統合医療」については書いてありません。念のため)
この中で、著者は診断を自信をもって行うために病態生理を一生懸命勉強した時期があったが、それではあまり自信につながらず、確率的な疫学的観点を取り入れてから、自信を持って診断できるようになった、ということを書いています(細かな記憶違いあったらスミマセン)。これはある意味、非常に興味深い指摘で、実際の臨床の最前線では、いわゆる機械論的な病態生理学的観点よりもむしろ、対象を非決定論的なブラックボックスとして捉え、確率論として事象(診療場面)を捉える方が実践的だと言っているわけです。(この指摘は今になっても当たり前なのですがとても重要に思います)
これは統合医療として扱うときのCAMの扱いにも応用できます。代替医療を論ずると、現段階ではつねにそのメカニズムの合理性も同時に議論されます。しかし、これを症状改善というアウトプットから評価したらどうでしょうか。
何も結果よければすべてよし、などと言うわけではありませんが、非常に重要な視点であることも事実です。漢方など東洋医学はいいが、ホメオパシーはちょっと・・・というときにはたぶんにこうした思考が働いていないでしょうか。(まさにこの視点がプラグマティズム、そのものです)
現実の臨床場面では、理論どおりにことが運ぶことの方が稀といっても過言ではありません。そうした中で、疾病志向性の強い現代西洋医学ですら、確率的推論の重要性が指摘されています。ましてや、疾病に反応する生体そのものを対象にすることの多い代替医療を包括する統合医療を考えるとき、従来のようないわゆる理論偏重型では足りないような気がするのです。(EBMが出始めの時のベテランドクターらの違和感の弁を思い出します)
漢方をはじめ代替医療にはたくさんの、それでいて奥深い理論体系がたくさんあります。一人の臨床家が生涯をかけても1つですらも極めつくすことは困難でしょう。しかし、だからといって「一つだけ」でなければいけない、というのも一面的にすぎます。
一つだけを生涯追い続ける専門家は必要です。しかし、横断的にいくつかの療法を理解する臨床家もこれからは同時に必要だと思います。これは、腎臓なら腎臓の専門家が遺伝子から最先端治療まで熟知する反面、総合診療的にみる家庭医も腎臓病についての一定の知識を求められることと同じように思います。
こうした見方のシフトを促進する動きとして前述の「診断学」の本が捉えることができるように思えます。
統合医療の包括する代替医療の世界はいまだ混沌とした百花繚乱の時代です。統一的な理解をする必要はありませんが、ある程度の、生体側に働きかけるアプローチとしての整合性が今後必要になってくるように思えます。
総合診療領域における「仮説演繹的」な方法論が、統合医療領域の生体の自発的治癒へのアプローチにおいても出現してくることが望まれます。
・・・・・・
といった感じの記事ですが、いまでもほぼ同感です。当時はEBMとの整合性をとろうとした文体ですが、今では少し進んで、それ自体が新たな概念である「プラグマティックメディスン」といった感じになりました。両方とも未来、将来への視点であるのですが、その意味するところはわずかに異なります。以前書いたところの目的と目処の違い、といったところです。われわれはおおよその目処を立てながら、進むしかないように思うのです。
これらの総論的な事項に関しては、統合医療学会においても少しづつ扱ってくれそうなので、この15年間の進展をわずかながらも感じております。
統合医療における「基礎医学」の重要性
これは代替医療を扱う統合医療領域において、じつはとても大切で、どこがいわゆる現代医療の盲点、ないしはニッチなのか、ということを把握するということでもあるのです。通常の医療を行っている際にはどこが盲点になるのか、また、代替医療を扱っていると逆にどこが盲点なのか。それらは往々にして表裏一体です。図と地の関係、と言っても良いかもしれません。
それゆえに統合医療、代替医療を扱う際には、通常以上に基礎医学的な知識を気にしなければならないと思うのです。伝統医療や代替医療には独自の視点があり、それゆえに通常見逃されがちな不調にも対処しやすいといった面があります。というコトは、反対に、通常の視点を見逃しやすくなっているという自覚もまた必要ということになります。
我々、統合医療を志す者は、こうしたことにたいしてもっと意識的であるべきです。これが統合医療領域において私が基礎的知識を重視する理由でもあるのです。
臨床現場の統合医療(1) 所見と検査の応用
当院の受診歴は2年ほどで、大学病院での診療を受けながらの統合医療併用を希望されて来院されました。化学療法と併用する形で、栄養補充のサプリメントと漢方処方に加えて、体調管理を目的とした鍼灸治療を行っていました。当院では、主たる疾患の治療を妨げない形で、各種伝統医療などを取り入れた統合の形式を取り入れています。
化学療法の進展や、健康状態の変化に伴い、これまで様々なアプローチを行ってきましたが、最近は、白血球、血小板の大幅な低下を伴う汎血球減少により、鍼灸などのやや侵襲的な治療が行えずにいました。
ご自分でも何か健康に良いことを、ということで、食べ物などの工夫に加え、腰腹を中心とした身体の温めを丁寧に行っておりました。(こうした腹を中心とした温めだけでなく、プロバイオティクスやプレバイオティクスを用いた腸内環境の立て直しも同時に行うとより効果的でしょう。特に本例では自前の腸内細菌を助けるプレバイオティクスが有効と考えます。温めとの相乗効果で免疫機能の向上が期待できます)
化学療法との併用、並びに原疾患による体調の変動が激しく、お自分で行っているセルフケアの方法に、これで正しいのかというような不安を抱えるようになってきました。当院でも非侵襲的な治療を中心に行っていたので、何か、現状を肯定する方法はないものかと思い、良導絡を用いてみました。これは治療法としても有効ですが、経絡(良導絡)の様子を知るには簡便で、かつ客観性もありとても良い方法です。
ファシアの研究や勉強をするようになって、さらにこの良導絡の意味するところが明確になっていたので、理論的に再評価していたところでした。経絡の計測において、ファシアを想定することで電気的な測定の意義がはっきりしてきました。
実際に計測すると肝経(F2) 胃経(F6)の高値と、腎経の低値ならびに左右の乖離が測定されました。腹診においても胃部と胸脇部が固く触れる所見で、刺さない鍼である打鍼により軟化するものの、良導絡の測定結果を示すものとして捉えるができます。
実際のメカニズムの説明としても、上部消化管の不調が反射弓を介して関連痛ならびに硬結といった形で反映していると考えられるので、打鍼により軽快するシステムも説明できます。また、このメカニズムは当然、このブログで言うところの「ファシア瘀血」も形成してくるので診断的治療も可能になります。現在であれば、観血的な方法をとらずとも、QPAなどの波動的治療(低周波)を併用することも良いように思います。この仕組みからは、振動により瘀血での赤血球連銭形成の解除や、細胞レベルでのドロプレットの解除に伴う代謝や遺伝子発現の変化なども期待できそうです。
本例においては、ご家庭で常に温めているところを中心にお灸などで温め、瘀血が疑われところに軽めのカッピングをかけるなどの非侵襲的なアプローチを行い、施術後に再度、電気的な測定を行いました。
これにより、施術前の値が落ち着きデータの左右差の改善も認められ、セルフケアにおける腎への温めの効果も肯定的にとらえることができ、大変喜んでおられました。全例このようにうまくいくわけではありませんが、うまいタイミングで検査という介入が功を奏することはままあります。
いろいろな検査機器はありますが、こうしたセルフケアをサポートする役割も検査としてはとても大切なものです。大学教官時代は、こうした検査による健康増進機能を「未病臨床検査」として研究していたので、早期発見の意義のみならず、臨床の一技法としても評価しております。
当然こうした電気的な変化は病態把握にとっても重要な情報ですが、日々の治療やセルフケアの再評価としても、見直す良い機会にもなりました。
こうした事例において、逆にめったやたらと検査するマイナス要素も当然考慮されるべきです。波動的な検査は、その出力される情報量も多いので、すべてが合理的に説明されるわけではありません。こうした際には、実際に施行する医療者の説明技量が問われてくるので、ただ行うというわけにはいかないことになります。
統合医療領域において、伝統医療的もしくは代替医療的説明のみならず、現代医療的な説明が求められる一要因でもあるのです。
統合医療におけるファシアの重要性 ファシアと結合水、時々ドロプレット
そのため、意味するところもかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。
とりわけ近年関心が高まっているのが、経絡への科学的解釈に対しての「補助線」として役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。
この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流が発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。この概念はそのまま「アーシング」における帯電の説明にも直結するので非常に重要で、様々なエネルギー医学への応用を可能にします。
この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。また、この過程で前回述べた「相分離生物学」におけるドロプレットにも影響しうることもここで指摘しておきましょう。
つまりファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。と同時に、細胞内部におけるドロプレットにも作用しうるわけです。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。
つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。
加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。
つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。今後の統合医療の発展はまさに、こうした境界領域に現れてくることでしょう。
相分離生物学の冒険 相分離というファシアからの発想の転換
本屋で立ち読みしているときにたまたま見つけたのですが、なんか面白そうだなと思い少し読んでみると非常に重要な感じがひしひしと伝わってきました。4,5年前から専門書は出ているようなのですが、基礎から遠い臨床医の立場では、こうした分野があること自体知りませんでした。
代謝が円滑に進行するためのメタボロンの概念や、がんにおけるシャペロンの意義、神経細胞になぜアミロイド蓄積が見られるのか、またそれと長期記憶保持の関連についてなどなど。これまでの生理学、生化学では明快な説明がつけられていない箇所の解明は、目から鱗です。またアルギニンやATP産生に関わるコエンザイムQ10などの物質の意義も、従来のサプリの知識以上の解釈が出来そうです。
現在は基礎的な分野なので、こうした飛躍は嫌がる研究者も多いのでしょうが、個人的には注目の分野となりました。
冒頭にも書きましたが、ファシアとの関連が個人的には大きく考えさせられたところですが、これは本書では一切触れていない私の独断的解釈なのでご注意下さい。
ただこれまで未解明だったルート(経絡)を、全く新しいモノではなく従来からあるモノの再解釈で解明していく、というのはまさにメタボロンにおいても同様なものを感じます。とりわけオシュマンによるエネルギー医学の総論においては、解糖系などの代謝ルートを何らかの細胞骨格などの線維で説明しようとしており、それなりの妥当性を感じてはいました。しかし、現在に至るまで全くそうした進展を耳にすることはなかったので、さすがに無理も感じていました。
そうした中でのメタボロンの仕組みはなるほど納得でした。これであれば近年、解糖系によって生じた乳酸が一度細胞外へ出てから、再度細胞内に入りミトコンドリアへと取り込まれるという知見と矛盾しないことになります。
またすべてをファシアで説明しようとしていたのとは違い、より細胞機能の多様性が示されたような気がします。ファシアのようにかなり有力な論が登場すると、それによりほかの現象も説明づけたくなるものです。しかし、ホメオパシーなどを説明するには、場合によっては相分離の概念の方がしっくりくるのもまた事実。
相分離は、代替医療、統合医療領域にも大きなヒントを与えてくれる概念だと思いました。とくにファシアとの関連はまた別の機会に、あらためてここでも書いてみたいと思います。
目的と目処 プラグマティックメディスンの哲学的基礎
まずは以前述べました「動脈的視座」と「静脈的視座」の対比です。この対比から、この医学の特徴が明確になってきます。
この対比に近い概念を挙げていくと、統計学では記述統計の考え方とベイズ統計の考え方の相違に近くなります。つまりすべてのデータを網羅してから結論を導くか、現時点での現在進行形の不十分な状態から推測していくか、です。
これらは総合診療の領域などではいわゆる「エビデンス」と、現場における臨床決断の方法論の違いとして扱われることが一般的ですが、プラグマティックメディスンの射程はもう少し広がりを持ちます。そうした意味では能動態と中動態の対比で議論される領域の方が近いでしょうか。
能動態と中動態との対比は、自由意志による責任と、漠とした選択との対比とも言え、いわゆる目的を持つということにも関連してきます。つまり「目的」を持つということは、そこに明確な意思が働いているわけで、当然「手段」も発生してくることになります。
明確な目的を持つというコトは、明確な手段に基づくというコトになりますので、それは確固たるデータに裏打ちされているに越したことがない、となるでしょう。とすれば、エビデンス重視といった姿勢までもう一息です。
この辺りが「プラグマティズム」という思想の難しさ、曖昧さなのでしょうが、これもある意味で「事後」の結果を重視するということでもあります。パースのいうプラグマティズムの格率は、こちらに近いように思いますし、それゆえに科学思想の基盤としても使える考えなのでしょう。それに対して、ジェイムズのプラグマティズムは、結局は内面的なモノを重視したところにその特徴があります。
それゆえに、彼の思想を敷衍すると「多元的宇宙」の考えに到達していくことになります。代替医療の発展、ならびにその後の統合医療への展開は、歴史的にも、哲学的にも、こちらのジェイムズ思想に親和性をもつと考えられるので、ここではプラグマティックメディスンの基本はジェイムズの思想によるということにします。
目的合理性の考えは、当然我々に染み付いているわけですから、それらをなくすなんてことは到底できませんし、その必要もありません。しかし、それ以外の(オルタナティブな)視点が、時に存在することも必要です。医療においては、確たる目的にすべてを還元させては、様々な場面で問題が生じてくるように思います。
今回のコロナ禍における、いびつな意味での(医療的)生命至上主義です。さまざまな価値観が並行的に存在する現在の社会において、価値観の多元性を一切認めないという姿勢に対しては「生存以外にいかなる価値をも持たない社会とはいったい何なのか?」といった疑問がアガンベンから呈されている通りです。
すべてのモノに明確な目的と手段を求めなければならないのか、プラグマティックメディスンは、この姿勢へのオルタナティブな解答例とも言えるかもしれません。いわば確たる目的ではない、漠とした目処、といったところでしょうか。この姿勢を、ここでは中動態を援用して説明してきました。
つまり確定的意志があるわけではなく、漠たる選択により進むことも時に必要ではないか。確たる目的にすべてを還元させることなく、中動態的に流れの中で決まっていく。
明らかに間違っていると思うものは選択しないが、明らかに正しいか否かには必要以上に執着しないという姿勢です。これは絶対正しいというものを指摘することはできないが、絶対違うというものは指摘できる、という姿勢でもあるわけです。
また方法論、つまり手段に固執しないという面もあります。正しいから一つの方法を選択するというよりは、その方法論が好きだから選択する、という姿勢をも肯定するわけです。何かのためのゲーム、という視点ではなくゲームのためにゲームを楽しむ、ということになります。例えるなら猫好きが、ネズミを捕る猫だから愛するのか、ただ猫だから愛するのか、といったところでしょうか。(まあ令和にネズミ捕り目的なんてないでしょうが(笑)
直感や第6感など、我々はいろいろな用語でこうした感じを説明することが可能ですが、もはやその目的を至上としなければ、そうした説明原理を駆使する必要すらありません。
明確な意思による「目的」である必要はないわけです。目処が立つ、と外的に表現されるような、中動態的な表現で用いられる「目処」くらいの感じです。やや遠くに漠とした希望する将来、そしてそこに辛うじて焦点するようなベクトルを有する方法論。
この緩やかな、それでいて縮退しないシステムこそが、プラグマティックメディスンと表現するモノに近いのではないか、と思います。
國分先生の著書で紹介されているアーレントやベンヤミンによる「目的なき手段」と称されるものの議論はこうした感じに近いのではないだろうかというのが、今のところの私の考えです。
別角度から見れば、曖昧なモノを擁護するような理論展開ではありますが、マクロ的に考えたときこれらはあらゆる縮退する現象に抵抗するモノであることに気づきます。
プラグマティックメディスンの考えは、縮退の流れに抵抗する方法論の一つであるということにあらためて気づかされるわけです。
無意識のテトラのメモ
それでは、プラグマティズムによってどのような視点が具体的にはもたらされるのか。事後を見据えるといっても、原理的には予測でしかないところをどうやって具体的な行動に結びつけていくか。つまり選択の発動の基底となる無意識は、具体的にどのように発動させるかという方法論をか考えてみます。
この辺りの具体的な理論展開は、厳密にはもっと深く必要なのですが、今はそこで立ち止まらずメモ的に疾走していきます。(まあ、このようなブログ記事を読んで頂いてる方にはテレパシー的に(笑)伝わっていることでしょう)
ここでは、意識されないものを扱うためのツールになるであろうと思われる概念を、無意識のテトラとして、4つ取り上げてみます。これらはもっと言えば、自由意志ではない選択の要諦ともいえるでしょう。中動態的な選択の基底にもなりえます。
1.ファシア
2.ポリヴェーガル
3.マイクロバイオ―タ
4.ケラチノサイト(皮膚)
各々の詳細はこの段階では省きますが、ジャングルカフェなど砕けた勉強会の場などで、実際に説明していこうと思います。
少し補足すると、ここでいう無意識は、意志の作用ではなく「選択」の視点の基底となるもの。その姿勢は、まさに中動態的な視点と言えるもので、真理といった絶対的なスタート地点(動脈的視座の始点)ではなく、一定の曖昧さを有した未来、ゴールへの視点(静脈的視座の終点)です。これはプラグマティックな考え方の基本となる姿勢です。
これまで展開してきたキーワードで、当院のホームページでも載せている「可能性のための医療」ですが、これも可能性=未来志向としてとらえると、方向性としてはプラグマティズムそのものとなります。考えた当初、ここまで想定していたわけではないのですが、結果として合流した概念です。
さらに「こちらの医学」はどうでしょう。この視点の要点は「内」の視点です。「内/外」の対立でとらえると、中動態/能動態の説明と重なるものです。これはウィルバーのいう左上象限で、その意味では客観的(外)ではない領域となります。大きな意識的な選択なく、自然にそうなってしまう選択、そう見える世界です。現象学的還元といった視点といっても良いかもしれません。
一応、簡単にまとめると… プラグマティックメディスンによる姿勢とは、無意識のテトラなどやや曖昧なものを扱いつつ、望ましい不確定な未来(帰結)へトボトボと歩むイメージでしょうか。それにより「生命」の発動を阻害することなく、イキイキと生きる。統合医療とは何かという考察の先に、独自なものが発想されたとすれば、このような医療の姿勢である気がしたので、とりあえずまとめてみた、といった感じです。
本日はジャングルカフェです。テトラの中のマイクロバイオ―タを題材に、テキストを読み進めたいと思います。
プラグマティックメディスンの「まなざし」
これは現代の視点からすれば、客観的データとしてのEBMへの接続の先駆けともいえる視点です。良い悪いということではなく、ここでの「死体」つまりは病理解剖的視点は、明確な「事前」への視点ともいえるでしょう。
通常、病態生理学的視点とEBM的な視点は対立的な軸として捉えられますが、この場合の「まなざし」からはともに「事前」のものとして考えられるわけです。
こうした事前・事後という対立軸でとらえた場合、プラグマティックメディスンは、まなざしの(時間的)方向の変化、判断基準の方向性の変化として見ることが出来ます。プラグマティックというやや不慣れな思考法を考えるとき「まなざし」という視点は重要です。つまりプラグマティックメディスンの視座は、従来の事前に対して「事後」へのまなざしということになるわけです。
また、「まなざし」という視座は、こうした事前と事後という時間軸だけでなく、大きな時代的な「隔絶」を理解する際にも重要になります。
唐突ではありますが、明治の文明開化期における伝統的な武術の衰退もこれでの説明が可能だと思います。官民ともに大規模な西洋的まなざしの導入により、もはや時間経過の中で、それ以前の様相を想像することすら困難になる様は、まなざしそれ自体の変化としか言えないように思うのです。
さらには、こうした「まなざし」というもののの意図的な「揺さぶり」により、新たな展開となる出来事が、「ダイアローグ」と考えることも出来そうです。オープンダイアローグにおいて起きている事態はまさに、結果としてのまなざしの変化です。
また大規模なプロパガンダの発動なども、社会全体のまなざしの強制的な変成として捉えると、また違った発想も得られるのではないでしょうか。つまり、まなざしは意識されることなく、根源的に時代の視座を動かすことになり、かつ、そのことに多くの人は気づかないわけです。まさに「物事は静かに大きく動く」といったところでしょうか。
まなざしの視点からプラグマティックメディスンの時間的方向性の差異について考えてみました。次回はまなざしの方向性の差異がもたらす方法論の違いとして、具体的な事項から考えてみたいと思います。
動脈的視座と静脈的視座:プラグマティックな視座とは?
通常、事前に得られるエビデンスなどを参照した医学的決断は、これまで蓄積されたデータを、従来の解剖生理的システムにのせて思考するという方向性が取られる。つまり、事前のものへ向かう方向性である。これに対してプラグマティックメディスンは、事後の結果、結実、といった将来へ向かう方向性となる。つまり、スタート地点の方向性が真逆となる。
現実的な問題としては、両者ともに何らかの推論をして決断する点では、当然、未来志向ともいえるのだが、そのよって立つ論拠が事前と事後でことなるというわけである。
しかしそれでも、決断の時点(現在)においては推論していることには変わりないので、その時点での何らかの相違点(兆候)は何だろうか、という視点から考えてみたい。
通常の推論に先立つ思考としては、事前の定理や原則・エビデンスからスタートする思考が一般的といえよう。そして、ここで言う原理やエビデンスは当然「実在」的である。論理と統計的データに基づいて推論し、臨床的な決断にいたるという王道のパターンである。哲学的な言い回しとしては、論理実証的と言えよう。
これに対して事後の結果や結実を念頭に進行する思考もある。この方向性が「プラグマティズム」の方法論である。プラグマティックメディスンは、この方向性を用いる医療といえる。前者、後者ともに、未来へ向けてのアプローチではあるのだが、論拠となるものへの方向性が真逆となる。
つまりこれらの考えは、不確定な現在において、実在的な原則に基づいて行動するか、結実に向かう方向性を曖昧な状況の中で緩く選択していくか、といった違いになる。
そしてこれらは現時点において、前者は、未来に向けて原則からの推進力を得るのに対して(心臓から拍出される動脈のように)、後者は複数のものが自然に合流しながら緩徐に一つの結実に向かう(末梢から心臓へ戻る静脈のように)ともいえる。
一つのループとしての循環器系のイメージではなく、ある細胞の視点において、駆出された液体が届くか、複数の要素が合流・統合されているか、である。ある一点において、その構成要素の位相がどのようになっているのかが、その相違点となる。
駆出されたものが目的となる一点に向かうものを仮に「動脈的視座」とすると、身体としてみたときには、複数のベクトルが緩徐ながらも収束していくものが「静脈的視座」といえる。また身体に影響を及ぼす割合としてみると、動脈的視座よりも静脈的視座が圧倒的に多いのは言うまでもない。これは我々の日常的な感覚からしても外れていないのではなかろうか。
こうした静脈的視座における、統合への方向性は、W.ジェイムズは「私有化」による統合と表現し、主体的な個人においては、その内部で統合への方向性を持った力が駆動されることになるものである。私有化はこうした統合への「力」を有し、主体性をもつようになる。
そしてそれは主体性における「脈動」となり、「流れ」を形成するものとなる。この統合への脈動は、生命力の発動としても見ることができ、古来、バイタルエナジー、オルゴンエネルギー等の言葉で表現されてきた。そして、G.バタイユが総合的な実存へと回帰しようとしたものでもあるだろう。つまり個体は、私有化により一体化、統合、結合へと向かい、その方向性こそが私有化ともいえる。
一個体において、統合は必然的であり、それゆえにそれらは内包する宇宙は多元的となる、というのがジェイムズの主張するところなのだろう。
そしてそれらは、ここで述べた静脈的視座であり、それこそが未来へ向けたプラグマティックな姿勢そのものであろう。
これらは視点を変えれば、能動態と中動態の対比とも見ることが可能である。動脈的視座が能動態であり、静脈的視座が中動態となる。私たちは日常的に視座というものに無神経であるが、ひとたびこれに注意することで、全く違った視野を得ることも可能である。いま、自分がどの視座にあるのか、この問いがプラグマティックな視点を医学に積極的に導入するうえで非常に重要な契機となるであろう。
今回はプラグマティックメディスンを展開するにあたっての視座を、動脈的視座と静脈的視座との比較から記述してみた。
現状の医学には、思った以上にプラグマティックな視点が乏しいことを痛感した。
プラグマティックメディスンの概略
この体系は具体的には、従来の伝統医学・代替医療と親和性を持つものであることが多い。つまりCAMそのものか、そこに接続する医学的・科学的概念をあわせて対象にしている。
従来のいわゆる解剖生理を基礎とする「西洋医学」的知識は、要素還元主義に基づいた分析的方法により得られた知見であることは言うまでもない。それは原理原則に基づいた分析的知識であり、何らかの行動の「事前」にデータとしてわかっている知識ともいえる。(それゆえに基礎医学と称されるのだろう)
これに対して理論面がブラックボックス化しているが、知識体系が存在する。現時点ではその結果が評価されて再認識されたり、世に認められたりすることで出現してきたもので、伝統医学や代替医療、いわゆるCAMであると見ることができる。つまり事後の結果が重視された領域である。
当然、CAMとされるそれぞれの分野においては、純粋な教条主義的立場も展開されるが、現状としては、学問理論として成長発展している主なものは科学的知見であるので、この科学とCAMの比較においては、いわゆる科学側からの接近が現実的かつ、学問的、説得的であるといえる。
そしてこれが成し遂げられつつある、もしくはそれを目的とする医学領域を「統合医療」として理解することも可能である。
だとすれば、統合医療において展開される医学は、多分にブラックボックス化した医学体系に接近する正統科学からのベクトルを有するものとならざるをえない。
すると、現代科学的な方法論をベースとしつつも、結果を重要視する伝統医学・代替医療的(CAM的)なものへ接近する医学を、事後の結果を重要視する方向性の医学として、プラグマティックメディスン、ないしはプラグマティズム指向型の医療(POM)と表現することも可能かもしれない。
プラグマティックメディスンに分類されうる概念は、いろいろと挙げることが出来ようが、ここではとりあえず、ファシア・ポリヴェーガル・マイクロバイオ―タ等を挙げておく。その他に、皮膚の新知見から見たケラチノサイトや、脳科学におけるグリアの機能などもこうした領域と考えられよう。いわゆる従来「学際的」といわれる領域ともいえる。
こうした領域を、統合医療という枠組みからだけでなく、プラグマティックメディスンという視点から再認識することで、これらのさらなる再評価につながるのではないかと考えている。
これが統合医療を別角度から表現した用語でもある「プラグマティックメディスン」の概略となる。この分野は、特定のCAM、代替医療への思い入れの強さからその方法論のアピールや、医学論一般からの典型的全体論という無難な議論が展開されることがほとんどである。そうした中で、治療においての選択の方向性を示す、プラグマティズムという概念の導入は、新たな視点を提供することになる。哲学的な思考に慣れない向きからは、難解だとの批判を受けることも多くなるだろうが、ケアの分野における「中動態」概念の導入が新たな展開を迎えつつあることも鑑み、心ある多くの医療者に考えてもらいたいテーマである。
花粉症にはホメオパシー!に加えてプロバイオも!
ちなみに当院では、引き続きスギ花粉のレメディ処方を行っておりますので、ホメオパシーでの花粉症治療をご希望の方は、クリニックまでご連絡ください。来月下旬くらいからは、ヒノキの花粉症もスタートしそうですので、ヒノキのレメディも準備万端です。
こうしたホメオパシーの花粉症治療に加え、例年は漢方処方も大いに活用していたのですが、今年はそれに加え、シーズン到来前に導入したプロバイオティクスなどマイクロバイオータを意識した治療が奏功しております。
便通の状態を確認しながら、十分な量のプロバイオの服用により、花粉症の不快症状に対してかなりの手ごたえを感じております。
今月からは腸内細菌のゲノムを読み取るショットガン方式のマイクロバイオータ検査を導入していることもあり、プロバイオの効果を改めて再確認しております。
いわゆる「見えない力」を駆使するホメオパシーに加え、体内における「他力」である腸内細菌のパワーにより、新たな花粉症へのアプローチが見えてきたような気がしています。
こうした流れの中ですので、今度のジャングルカフェの課題図書は以下にしたいと思います!かつては大判だったものですが、今では文庫版として出ていますので、これにします。参加希望の方は読んでおいてください!
肥田式聖中心との関連で見るファシア・ポリヴェーガル・腸内細菌叢
そこで、ファシアと肥田式との関連について、昨年掲載したものを少し改編して再掲してみたいと思います。細菌の観点からとは少し違った観測点から、考え直してみたいと思い、読み返してみました。
肥田春充は、いわゆる丹田とされる「聖中心」を、自ら創出した技法の中心にしていったわけですが、その位置を、解剖学的構造ではなく、幾何学的な説明により提示していました。つまりランドマークは解剖的な構造ですが、聖中心というものを示すには「円」を規定しその中心としました。
そしてその中心を、腰椎からの直線が通過している説明図を提示しています。つまり考え方によっては、それぞれの解剖的な構造物との関係性、位置を規定する張力のようなもの、と考えてもよいのかもしれません。これまでのファシア理論からすると「O-F」にあたる関係です。
また、甲野先生からの示唆で気づいたのですが、腹部に球状の円(球)が規定されているのですが、これには何らかの実体があるのではないか、という考え方もできます。
ここ(球)に臓器の実態を当てるとすれば、それはまさに「腸管」、特に腸間膜に吊り下げられえた小腸となります。(甲野先生は腸管の何らかの膨張を想定されているようですが…)
この小腸は後腹壁から「フレアスカート」状に吊り下げられ、斜め下方向に集塊をなす様は「球」といえなくもありません。
学生時代の解剖学での記憶と合わせても、この「聖中心」と考えても矛盾なさそうに思います。
ただしここで注意すべきは、聖中心が腸管であるか否かという問題ではなく、肥田春充が幾何学的に表現したものの位置に、そうしたものが存在するという意味だけです。安易な同一化をしようとするものではありません。
こうした問題は「三焦」の捉え方にも適応できます(三焦を東洋医学の教科書的に捉えるだけでなく、腹腔動脈、上腸間膜動脈、下腸間膜動脈から腸間膜が栄養されるさまを三焦としたのではないか、という視点も実際の解剖所見からするとアリなのではないかとも思います)。
機能総体としての三焦ではなく、何らかの「実体」を古人は捉えていたのではないかという考察です。これは大きな塊のように見える腸間膜と周辺の脂肪組織を古人は一塊の臓器として捉えていたのではないか、そしてそこには臓器としては当時認識されていない「膵臓」も含まれてきます(実際の解剖所見としては全てが一塊に見えます)。それゆえに三焦=膵臓説もあるわけです。
そしてこのフレアスカートの吊りあげている視点が「腸間膜根」となり、後腹壁を左上から右下へ向けて、腰椎を跨いで下降しているのです。解剖的に腰椎1番2番あたりから下降しているので、横隔膜後脚が3番あたりまで来ていますので、呼吸におけるファッシア的な連動は十分考えられます。
そしてその終結は右側の仙腸関節上部に至ります。つまりここもファッシア的な接続を考えることができます。つまり骨盤調整との連動の可能性です。この「根」は当然、腰椎4番5番あたりで腰椎を跨いでいるので、いわゆるヤコビー線と腰椎との交点を、肥田春充が示唆しているのと関連するようにもみえます。腸間膜根の吊り上げ作用の重心が、腰椎4番5番の意識や調整と直接関連することは容易に示唆されるわけです。
なぜ肥田春充が、こうした幾何学的な説明によりその位置を示そうとしたのか。それこそが当時(今もそれほど大きな変わりはありませんが)の解剖学がファシアの存在を、半ば無視していたことと無関係ではないように思います。
解剖実習を行った経験がある人であれば、すぐわかることですが、解剖実習とはこの「ファシア」から、いかにして目的の「臓器」取り出すか、つまり見やすくするかにつきます。ファシアは取り除かれるべき「不要物」であり、臓器の「背景」にしか過ぎないというわけです。それが解剖というものなのです。
解剖するという行為の究極が、解剖学の図譜や教科書ですから、そこには当然ファシアの記載はありません。いくら肥田春充が超人であったとしても、当時の(今も?)解剖図に記載されていないものを、実体として認識していたとは思えません。これは近年、「ニューズウィーク」誌に皮膚を上回る「巨大な臓器」としてファッシアの発見が報道されたことからも、「存在していた」にも関わらず「認識されていなかった」臓器であることがうかがわれます。
春充は当時、自らの体感と、熟読した解剖書とを見比べて、その関係の体感を幾何学的に示そうとしたのではないでしょうか。これは眼光紙背に徹するかの如く解剖書を読み込んだであろう春充の、正確な解剖的知識があればこそ、「そこにないもの」を記載することが出来たのではないかと考えます。
「在る」ものを強く意識するほどに、認識の反転が生じた際に「ないはずのもの」がより強烈に認識されてくるのではないか。「図と地の反転」を基盤として考えるべき、ファシアとの関連がここに出てくるように思います。
春充の聖中心の体感の瞬間などは、まさにこの認識の反転として捉えることで、理解できるのではないでしょうか。
腸間膜根から壁側腹膜として折れ返ることで、腸管の状態が全身へと接続されます。これはまさにファシア論でいう「O-F」の引張構造で説明されます。
室町時代に隆盛を極めた「腹部打鍼術」が、腹部のみの刺激で、全身のあらゆる症状に対応していた事実からも、この関係は意外に大きな連携を有していることが推測されます。
進化学的にも体幹である「腹」から四肢が形成されてきたことを思うと、その中心が「腹」の「腸管」にあることも矛盾しません。ここに「火事場の馬鹿力」発揮のカギがあるようにも思えます(甲野先生のご指摘による)。
こうした身体(とりわけ四肢)の関係のみならず、近年は「脳腸相関」として神経系との関連が最新医学のテーマとしても注目されています。神経伝達物質において、脳→腸、または腸→脳の関連が、詳細に研究されています。この連関に関与する「迷走神経」の更なる研究や新解釈が待たれるばかりです。(ポリヴェーガル理論の今後の展開が注目です。最近は少しづつですが学術誌でも見かけるようになってきました!)
こうした関連においても、腸管の占有する位置が、その機能に関係する可能性は大いにありそうです。
腹腔内での腸間膜と腸管を一塊としたものの位置により、四肢における運動能力が大きく影響される可能性を、聖中心は持っているように思われます。
そして加えて、それらの正しい位置関係が、「脳腸相関」においても生体に有利に働く可能性も想定されます。筋膜の張力の均等化や、結合組織表面における水分子の量子的ふるまいの正常化、等が要因として考えられます。ファシア論、ポリヴェーガル理論との総合化が待たれるばかりです。
筋トレにおける筋肉のイメージのように、腸の塊の鮮明なイメージ化によって身体的かつ精神的な超絶した能力の開花が可能になるのではないか、そんな可能性を「聖中心」は与えてくれるのではないでしょうか。
そしてこの「聖中心」をひとつの軸とすることでことで、腸内マイクロバイオ―タ、ファシア臓器(腸間膜塊としての三焦)、腹側迷走神経等のキーワードが、相互作用している様子が見えてくるようではないでしょうか。
プラグマティックメディスンとは何か? 統合医療の新展開
そこで、自分の考える「統合医療」の実態に一番近い用語、概念を見つけようと考えたのが、かつて著書の中でも公開した「プラグマティックメディスン」です。思いついた当初は、まだそれほど内容が固まっていたわけではないので、しばらく自分の中で醸造していましたが、徐々に形になってきたのでここらでまとめておこうと思います。
プラグマティックメディスンは本来、pragmatism supported medicine(プラグマティズムが支える医療)ともいえる概念ですが、長くなるので、とりあえず「プラグマティックメディスン」と称しておこうと思います。(これを本ブログ内で別角度から表現してきたのが、可能性のための医療や、こちらの医療、ということになります。少し意味合いが違うところもありますが…)
いずれにせよ、プラグマティズムという思想が支える医療で、これは合理主義に基づく論理実証主義が原則とする医療(EBMの概念もこちら)との相違は、そこに絶対的な真理なるものを想定するか否かの違いとなります。これはプラグマティズムという思想・哲学に由来するものともいえます。
プラグマティズムにおける真理の多元性が、ジェームスのいう「多元的宇宙」という世界観であり、これは当然、教条主義的な「真理一元論」とは大きく異なるものになります(ちなみにみせかけの多元である折衷主義は教条主義へと縮退するのですが、これもここだけでは分かりにくいですね)。真理一元論は、我々の素朴な世界観そのものですから(真実は一つ!)、この辺りが一番誤解されそうな難所になります。
ここで統合主義はどう解釈されるかというと、これは多元主義の要素内での融合の一形態と見ることができ、また別解釈としては多元主義的な状態そのものをも意味するといっても良いように思います(ウィルバーのインテグラル理論などはこちらに近いでしょう)。つまり統合という語は、人によってかなりの解釈の幅があることに気づかされます。
それでは「プラグマティックメディスン」としての要諦は何でしょうか。それはなにより「プラグマティズム」という思想なのですが、これがまたまた誤解の多い用語で、問題ありなのです。そもそも提唱者が事実上2人いるような状態で、かつその後の展開においてもかなり人によっての解釈が異なります。加えて、結果よければすべてよし、みたいな浅薄な解釈が広く流布されているので、さらに誤解は広がります。そうした中で、ここではウィリアム・ジェームズのプラグマティズムの格率に基づくとしておきましょう。これにより世界観としては「多元的宇宙」が採用され、多元主義に基づいた展開になります。
しかしこれだけでは効能・効用主義的な側面だけが強調されかねないので、その補強的な観点も不可欠です。それが近年、ケアの世界に新たな視点を与えたと言われる「中動態」の思想です。國分功一郎氏によって脚光を浴びた概念で、主に言語学的な考察から引き出されたものですが、それゆえに我々の「意志」や「責任」というものへの理解の根本を揺るがせるものでもあります。出来事の流れ・自然の勢い、というものの重要性というか根源性をあらためて感じさせてくれるように思います。個人的にはジェームズの言う根本的経験論や純粋経験といった概念との強い関連性も感じさせられます。これにより、いかにもな「エビデンス」のみならず、またいわゆる「意志」によらず、「選択」するという本来自然な出来事の肯定がなされることになります。
これは選択肢の決定が重要な意味を持つ統合医療分野において、決定的な意義を有することになると思います。統合医療臨床について考える際、とりわけ医師の立場においては、多元的な選択肢から選択がその中核となるのはいうまでもないでしょう。それゆえに、プラグマティズムと中動態の思想が、中心となるわけです。これが、まさにこの医学体系の要諦です。
大枠としてはここまでで良いのですが、私自身の具体的方策も示しておきましょう。これはあくまでもプラグマティックメディスンとしての一展開例で、これこそがプラグマティズムという意味ではありませんので誤解無きように。
まずは中動態的な対話、大きな方針の模索という意味において、オープンダイアログ・ジャングルカンファレンスといった会話・対話の方策です。
続いて生体観としては通常の解剖生理はさることながら、それらの図と地の反転として、無意識を司りうるものとして、トランス、ファシア、腸内環境(脳腸相関)を挙げておきます。
ファシアは、さらには「皮膚」との関連も密接ですし、腸内環境は「栄養」とも大きな関連を持ちますので、これらも重要な要素となります。(ファシア・腸内細菌は最大の臓器でもあり、同様に皮膚・脂肪も最大臓器といえる)
また、ある種の無意識の取り扱いとしてトランスは重要です。意識領域より無意識ははるかに大きいもので、マインドフルネスをはじめ様々な技法も考慮されます。
その他にもいろいろな展開があるのでしょうが、現実の診療においてはこのようなところでしょうか。いずれにせよ、この医療体系は、換言すれば、現実(瞬間・実際)の身体の流れに従う医療、ということになります。つまり、プラグマティズムの要諦である現実の選択を、多元主義に基づいて、「意志」ではなく身体の流れによる「選択」に従う(これは無意識の領域といえるのではないだろうか)、ある種の「従病」とも言える医療の姿勢です。
脳科学的に「自由意志」の存在が疑問視される中で、我々自身の生命を育む新たな思考体系の試みをまとめてみました。
統合医療という一般的なワードを越えて、自らの診療の指針の中心としていきたいと思います。メモ的な散文でしたが、今後も少しづつまとめていきたいと思うテーマです。
お城へTo Go(仙台城・再掲)
押印は多賀城同様、平成22年6月27日です。仙台は学会などの開催が多いので、ちょいちょい訪問していたお城ですが、この時も震災前でしたので城内の石垣崩落前に見学することができました。ちなみに当時は(今でも?)本丸跡に、実際の石垣を用いた石垣の組み方のモデルが、年代別に展示してあり、とても勉強になりました。(ここはしばしば崩落しているのですが、石垣好きにとっては石垣の積み方の説明が充実したとても良いお城なのです)
仙台市街から、ぐっと高台に上がるので、とても気持ちよい眺望の城郭です。もう20年以上前になりますが、今ほど城ブームでもなく、また本丸跡が政宗公の銅像付近も含め整備中で壁の仕切りなどもあった頃ですが、二度ほど仙台から出航する「オリエントビーナス」というクルーズ船に乗ったことがあります。その乗船前に、仙台に到着したので、コンビニでおにぎりなどを買い、仙台城からの眺望を楽しみながら食べました。
ちなみにクルージングを楽しむためでなく、当時ほぼフリーランス状態でしたので船医として乗船していました。当時は医局の力もなかなか強大で、今となってはウソのようです。船医としては、1回目はクリスマスクルージングで、2回目はグアムへの青少年の船への乗り込みでした。その間は、停泊している船に泊まり込み状態です。
それにしても、いま思うとまだ医師4年目なのですが、それゆえに怖いもの知らずだったのでしょうね、そんな思い出のある仙台の城です。
仙台城への登城ルートは2つあり、車で行くと真っ直ぐに上がる「大手門ルート」と、三の丸を巡って山道を曲がりくねって上る「巽門ルート」となります。
行きは真っ直ぐ大手門ルートから上がり、帰りは巽門ルートで降りるのがおススメです。 途中に立派な石垣をたくさん見ることが出来、石垣好きにはたまらないお城です。
そもそも築城者の独眼竜政宗は、岩出山城を居城としていたのですが、伊達領としては西側に偏った最上領に近い立地だったこともあり、不満があったといわれています。その後、関が原合戦ののちにようやく仙台城の築城にかかることになります。
この城の特徴は、天守は元からないのですが、広大な城域に三重の隅櫓が4基もあり、加えて懸造(かけづくり)の「眺エイ閣」がありました。
懸造というのは、崖からせり出した建物を床下から長い柱で支える「清水の舞台」の構造です。当然、見てくれが優雅なことに加え、城下を一望でき、防御としても「横矢」をかけられるという優れものです。復元模型でみるとそのすごさが伝わります。下手な天守よりインパクトあり、といった感じだったでしょうね。
現在は、二の丸は青葉山公園と東北大学があり、三の丸には仙台市博物館となっており、その広大な縄張りを堪能することができます。最近、仙台を通過することが多いのですが、また久しぶりに尋ねてみたいですね。城の初心者にもおすすめの見やすい城郭です。
お城へTo Go (山形城・再掲)
山形城(10・山形)、押印は平成22年8月20日で、最上義光歴史観にてスタンプを押しました。ここは、市街地の公園型の城郭で、歴史館から城へ向かうと奥羽本線をまたいで大手口に至ります。中には体育館やら博物館、野球場までありました。訪問時は本丸など中央部を含め、整備中でしたので、現在はかなり充実しているのではないでしょうか。(と、当時書いているのですが、今回の訪問で完成しているでしょうから、再訪が楽しみです)
かなり規模の大きなお城で、最上57万石時の大改修後、鳥居忠政の整備により現在の形になったとされ、奥羽地方最大規模の城郭です。
全国でも五指に入るといわれ、城内にはご当地の英雄、最上義光公の躍動感あふれる騎馬像があり、大手口を出たところにはその歴史館もあります。一押し感が伝わります。地元としては大河ドラマの主人公、といきたいところですが、なかなかその道は遠そうです。個人的には東北の戦国時代ドラマは大変みたいのですが・・・一般受けしないでしょうね。
歴史館では、スタンプを押して早々に城内へ行きたかったのですが、これまたご当地あるあるで、地域の英雄、最上義光公を愛してやまない説明ボランティアさんにつかまり、延々と二時間以上も解説されたのを今でも覚えております(笑)。ご当地の最上愛が伝わります。
あまりに規模が大きかったにも関わらず、江戸時代になってからは石高の小さな大名しか城主とならなかったことで、整備に手が回らず、荒廃していったようです。さらには天保の改革の失敗に伴う水野忠精の入城に見られるように、一種の左遷の地として見られていたようで、とにかく頂点は最上時代なわけです。
歴史的には「東北の関が原」とも称される長谷堂城の戦いが重要です。関ケ原の前段として、直江兼続が最上領に進軍し、本城である山形城に攻めあがるはずが、長谷堂城で手間取っている間に本戦関が原での決着がついてしまい、結果として落とせず、会津若松にまで撤退しています。
一説では、上杉・石田による挟撃戦が模索されたとも言われますが、結局は東西において西軍敗北となってしまうわけです。但し、挟撃説は現在では疑問視されていますが・・・どうなのでしょうね。(八百長説までありますよね)とにかく、歴史小説では前半のクライマックスですよね。
まなざしの変化について
先日、甲野善紀先生とお話した時に、剣は主に右手持ちの方が遣えるのではないか、ということを伺いました。
いわゆる「平等」的な発想では陰陽バランスで、両手遣いになりそうですが、右手重視(つまり常識とは反対)になるという「逆転」する意味について、私の「統合医療の哲学」でも展開した「折衷と多元との相違」と極めて似ているのではないか考えました。いわゆる「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」的な考え方といってもよいかもしれません。右手も左手も平等に、ではなく、左手ではなく右手、といった選択です。
こうした武術など身体技法の伝承が途絶えやすい説明の一つに「まなざし」の変化という現象があるように感じています。
身体に関する「まなざし」の変化は、それに対しての認識の変化というコトにとどまらず、その実践的な動きにまでその影響が及ばざるを得ません。
この理屈はフーコーという哲学者から拝借したもので、医学は「死体解剖」を視点に導入した18世紀を境に、制度も含めてすべてが変貌したということが『臨床医学の誕生』で述べられています。つまり進展というのは、それまでの医学体系を取り込みながら複合していくのではなく、異質のものへと変成されていくということで、この契機を「まなざし」の変化に求め、具体的には「不可視なる可視性」として説明しています。フーコーは、このまなざしの決定的な変化の契機を、夭折した天才ビシャの病理解剖に見ており、これにより「死」からのまなざしにより、今日の「臨床医学」が誕生したというのがあらすじとなります。
私はこの考えは、医学史や武術的なものに限らず、近年のファシアと通常の解剖生理との関係にも適応出来るのではではないかと思います。
つまりファシアという視点は、病態生理への新たな知見の導入にとどまらず、ファシアの変化をむしろその一歩手前の段階として「疾患」というものを根本からとらえ直すことで、全く新たな視点を得られるのではないか。これは現在展開されている「折衷的な」ファシア論とは一線を画すはずで、まなざしの大きな変化を伴うものです。
これは本質的には新知見の導入ということに留まらない可能性を有するものです。つまり「あれもこれも」ではない「まなざし」の変化は、大きな「対立軸」をもたらすものでもあります。これこそは「剣の持ち方」から「ワクチン問題」まで、わずかな相違を含みつつも、大きな共通基盤になるような気がしてなりません。
そして現代における大きな問題は、歴史的なまなざしの変化によるものより、大資本による意図的なまなざしの変成のようにも思えます。そして、そうした基盤ゆえに、科学的な論調を飛び越えて「議論」されてしまう面があるように思います。
またオープンダイアログでは、この「まなざし」への揺さぶりが関与しているのでしょう。ファシアによる視点の変更とあわせて、昨今、関心のある事は、こうした「まなざしの転換」と解釈することも出来そうです。
以上、年末年始に考えたことを、メモ的に書き出してみました!
EBMの対となるのは、本当に「NBM」なのだろうか?
いずれにせよ、これらは主に総合診療分野において基本的な枠組みを提供するもので、広く一般的な「医療」においても同様です。2つは文字も似ているし、ゴロもいいので、特段これに対しての反論はこれまで耳にしたことがないように思います。しかし、冷静に考えると、本当にそうでしょうか。
別に「語り」という人文的な要素に文句があるわけではありません。ただ、エビデンスの対として「ナラティブ」が挙げられることへの違和感です。
データに対しての「コトバ」なので、ある意味、その通りなのですが、本質を考えるとデータという時は、医学・医療そして人体(身体)を評価する軸としての数値的なデータとなります。
それは生体(ないしはその集団)にとっては、受動的に評価されたものであり、それゆえに「客観的」でもありうるわけです。これに対して、対となりうる概念は「主観的」なものとなります。
主観的という時に、言語的な側面のみを対象とすれば「語り」となりますが、言語化できないような「感覚」「体感」なども含めれば、当然、改善を目的とするならば「治癒」「自発的治癒」「自然治癒」といった概念になるはずです。生体側の(多くの場合好ましい)中動態的な流れとも表現できるかもしれません。第三者的な介入によって客観的に評価したデータとは当然、対照的な概念となります。
語りとしていわれるナラティブは、むしろこうした流れの一例として挙げることが出来るのではないでしょうか。
人が語りの中で、治癒(もしくは望ましい方向)へと向かうことは当然ですが、それのみということはありません。あらゆる介入がそこには考えられるわけです。
しかし、それを一般化すると、文学など文化的かつ高尚な?ものは良いのですが、代替医療など一部怪しいとされる概念を含めざるをえなくなります。それゆえに、安全な概念である「語り」までに、思考をとどめているように感じざるをえない、という側面もあります。
つまり、ナラティブに限定すると、そこには人文的な(もしくは言語的な)アプローチに矮小化されてしまうわけです。
これは、ケン・ウィルバーの言う「四象限」で考えると分かり易く、そこでの「I」と「 It」の違いということになります。一人称の「I(アイ)」は、言語的な評価に限定されず、生命の感覚的なものを幅広く含む概念ですから、望ましい方向である「治癒」へ向かうものが全て含まれるべきです。
それではここまでの議論のまとめとして、エビデンスというデータに対となるのは、中動態的な治癒への方法、ないしは介入といえるのではないでしょうか。
まわりくどい表現になりますが、分かり易く言えば、幅広い治癒への介入といえるでしょう。とするならば、これこそが統合医療が考慮している広義のCAMそのものともいえるでしょう。EBMとNBMという自明な対の概念であることに疑問を向けることで、現状の総合診療的な視点の、矮小さ、もしくは死角というものが明確になるのかもしれません。
医療というものへの「まなざし」の差異から、私たちはこれまで自明であると思い込んでいた「死角」ないしは「盲点(スコトーマ)」というものに気づくことも少なくありません。少しそういったことも考えていこうと思います。これからのジャングルカフェでの選定図書などに反映していきたいと思います。
今年のお城はどこ行こう?
年末年始は、ずいぶんと時代劇・歴史ドラマが減りましたが、特番的なお城の番組はNHKを中心に充実していましたので、楽しむことが出来ました。以前はこうした城番組も行ったことがないところが多く、実感が涌きにくかったのですが、さすがに200を登城すると、ほぼ行ったことがある城郭となるので、その時の思い出とあわせて、二度おいしい、といった感じです。
今年は、それでも天候などで十分登り切れていないお城もあるので、それらをおさらいしていくのが今年の抱負です。とりあえず、今月は小田城・土浦城など茨城方面のお城と、ヒルや熊などで難攻不落の滋賀県の鎌刃城あたりを目標にしています。また青森統合医療研究会も予定されているので、弘前方面も制覇したいのですが、当たり前ながら浪岡城などは雪に埋もれているので、冬ではまたダメそうです。
ちなみにもう少しすると100名城の登城証明書が届くので、四ツ谷の移転したクリニックに置いておこうと思います。ご覧になりたい方はお声がけ下さい(笑)
新年あけましておめでとうございます!
新クリニックへの移転後、初めての新年を迎えることが出来ました。本年は身心工房リボンのメンバーも増え、より充実した「統合医療」を提供していきたいと考えております。
新年は、5日㈭から通常通り診療を開始いたします。ご予約お問い合わせ等はお電話にてお願い申し上げます。
本年も何卒、よろしくお願い申し上げます。
2023年 元旦 小池統合医療クリニック 小池弘人
2022年、皆さまお世話になりました!
移転にあたっては、患者様をはじめ、関係者の方々にはご迷惑をおかけすることも多かったと思います。あらためて、年の瀬ではありますが、深謝致します。
来年2023年は、移転の件も落ち着いたので、新たな診療体制をより整備し、皆様により良い「統合医療」を提供できるクリニックにしていきたいと考えております。具体的なことは、このブログを始め、リニューアルしましたホームページなどをご参照して頂けますと幸いです。
年明け早々には甲野善紀先生にお会いする予定を始め、12日㈭は新年一発目の「ジャングルカンファレンス」も始まり、ホリスティック医学協会の方々の取材も入る予定です。
さらに今年は、読書会としてのジャングルカフェの内容をさらに充実するとともに、JIMC日本統合医療センターとして、メンバーシップ制度を開設していこうと思います。
また、統合医療学会関連としては、従来の統合医療カンファレンスの拡充とともに、基礎医学講座(解剖生理)の拡充、統合医療の実践と理論の総論講義などが予定されています。関心のある方々の参加を心待ちにしております。
その他にもいろいろと企画しておりますので、来年もまた小池統合医療クリニック、日本統合医療センターをよろしくお願い申し上げます。
それでは良いお年を!
ファシアについてのシンポジウムが統合医療学会で開催されました
ファシアについてのシンポジウムは当学会では初めての企画で、これまで取り上げてこなかったのが不思議なくらいのテーマです。須田万勢先生と上馬塲和夫先生に私を加えた3人で、各々の得意分野からファシアの現状を繙いてみました。
須田先生からは、昨今のエビデンスや整形内科学会での研究のが現況、さらには先生の考えるファシア像まで幅広く興味深いテーマが講演されました。上馬塲先生のご講演では、ファシアの病態評価のためのコラーゲン検査の可能性に加え、アーユルヴェーダ理論との関連性、さらには先生の展開するバトソン静脈叢の意義から発想した「静脈ハブ理論」まで、実に充実した内容でした。その後の総合討論も、通常のシンポジウムに見られがちな盛り上がらない討論ではなく、シンポジスト間の質問が飛び交う、あついシンポジウムとなりました。
とくに印象的だったのが、須田先生が質問されたハイドロリリースでうまくいかないケースに関しての血液の鬱滞の可能性(コンパートメント症候群との関連性)について。つまり内圧が高まった病態においてはハイドロリリースによって悪化する可能性と、その鑑別j方法についてです。
私の臨床的な感覚では、病態についての質問内容吟味に加えて、やはり刺絡をかけたときの出血の様子です。年に数回おめにかかる吹き出すような刺絡による出血のケースでは、かなりの内圧が上昇している病態が推測されます。つまりこうした環境に生理食塩水を注入することは、その圧力自体を増してしまう可能性があるので、当然病態も悪化しうるわけです。こうした実際臨床に沿った討論が、実際の経験豊富な先生方とできたというのが大きな収穫となりました。
ジャングルカンファレンスの実践も非常に良い体験となりましたが、こちらについてはまた後日、改めて述べたいと思います。
須田先生のご著書はこちら! ↓ ↓ ↓
統合医療連携の見学会 プチセミナー&説明会のおしらせ
下記の時間内、身心工房リボン(小池統合医療クリニックの上、三階です!)にて開催しておりますので、ご自由にお越しください。皆様のご来場を心待ちにしております!
12月9日金曜:12:00〜17:00
12月10日土曜:14:30〜17:00
ジャングルカフェ課題図書 12月はルボンの群集心理です
NHKとしてはどのような意図でこれを取り上げたのか分かりませんが、どのような立場においても読み替えが可能な、まさに古典といえる名著だと思います。ヒトラーの愛読書として、時にそうした権力に対抗する書籍として、様々な立場での読解が可能な書籍です。
昨今の事情と合わせて、色々な立場から読み解いてみましょう!
ファシア概念の整理メモ
ファシア関連の概念のまとめ
ファシアを考える際には、様々な階層の話題が交錯し、どのレベルで話をしているか現在地を把握しながらでないと混乱しやすい分野である。
そのため「筋膜束」という概念で全体像をまずは把握する
これは4つの主要な層にわけて理解する
筋膜層(脂肪層・浅筋膜):眼窩・鼻腔・口・肛門を除いて全身を覆う
軸性筋膜(脂肪層深部・深筋膜):軸上(背側)筋・軸下(腹側)筋を取り囲む
髄膜筋膜:神経系を取り囲む
内臓筋膜:内臓組織から派生し、胸膜・心膜・腹膜として体腔を取り囲む。身体の正中で頭蓋底から骨盤腔まで延びる縦隔を形成
上記の内臓筋膜を機能的に分類し、経絡との関連を示唆したものがSteccoらによる、懸垂線(カテナリー)に基づく「器官・筋膜(a-f)配列」である。以下、3配列と経絡の関係である。
内臓配列(内胚葉由来 肺経・胃経・大腸経・脾経)
血管配列(中胚葉由来 心経・小腸経・膀胱経・腎経)
腺配列(外胚葉由来 心包経・三焦経・胆経・肝経)
次にこれらの「a-f配列」を含む体幹腔を6つの隔膜が分節し、4つの腔(頸部・胸部・腰部・骨盤部)を収容する。6つの膜は以下の通り。(大小の骨盤底が共に骨盤部の最底辺を形成するので腔は4つ)
咽頭・脳底隔膜
胸頸部隔膜
胸腰部隔膜
結腸間膜隔膜
腹膜隔膜(大骨盤底)
骨盤隔膜(小骨盤底)
各腔内で、特定の機能を遂行する体内の分節内臓器と、これらの臓器を一緒に結合する筋膜を「臓器・筋膜(o-f)単位」とする。これらは4つの分節された腔にそれぞれ3配列があるので、計12単位となる。ここに各内臓が配当され、それに相当する筋膜が治療対象となる。(これは経絡というよりは経別の意義に近いのではないか)
浅筋膜より上層はいわゆる表層の瘀血を形成する場で、表皮・真皮・皮下組織のうち、皮下組織内に浅筋膜は存在する。浅筋膜が皮下における瘀血の直接的な原因になりうるので、これにより真皮内の毛細血管が(ファシア重積などにより)鬱滞し、三日月湖状態を形成することになる。そして刺絡はこの部位が治療点となるわけである。
以上が、ボディワークにおける介入ポイントと重なることから、いわゆる「Bファシア」の概略となり、ファシアの主な解剖生理的な議論の場となる。
ここにホメオパシーや量子学的なより微細な「Eファシア」と、武術における重心や横隔膜、デュアル神経系との関連などで重視される「Mファシア」の概念が追加される。これらは、先述した構造的ファシアに対して、機能的ファシアの分類と言えるだろう。
・・・・・・
この辺りの議論にご興味のある方は、12月17日㈯開催される日本統合医療学会(オンライン開催)のシンポジウム2「ファシア:東西医学の架け橋」(13時〜15時)にて詳細を発表しますので是非ご参加ください。
ホームページ写真追加しました!
小池統合医療クリニック
11月10日ジャングルカンファレンスです!
10年ほど前のカンファ開始の頃は、こうした取り組みを学会発表しても、最後にエライ先生が「論理的な結論に至っていない」ということばかりを攻め立て、あまり共感を得られなかったのですが、そんな学会からも最近はカンファレンスの要望が来るくらいですからずいぶんと雰囲気が変わりました。
こうした思想的な流れは、哲学史としては「コミュニケーション的転回」と表現されつつありますが、これが医療へと流れ込んでいるのが、私たちのやっているジャングルカンファレンス、ということになります。
ただし一般的に(つまり多数派として)なっているわけではないので、当然、あらゆる場面で理解が得られないことは珍しくはありません。またすべての分野の医療において、必須というわけでもありません。救急医療など一刻を争う領域では、不要というより害となるかもしれない、というコトは知っておくべきでしょう。でも、だからといって慢性期における諸問題の解決においても同様、ということにはなりません。分野において、領域において、重要なことは異なるということです。これは意思決定などにおいても同様で、唯一の方法論によって統一的に解決されるというコトの方が珍しいのではないでしょうか。
こうした流れは昨今のコロナ禍においても散見されるように感じています。一つの視点から、全領域への理論的な拡大、こうした方法のもたらす弊害はいうまでもありません。多元主義的な思想は、こうした方向性への、引き留め的な方法論でもあります。
多元的なカンファレンスを開催することで、大きくこうした潮流が変わることもないでしょうが、「アリの一穴」として小さなコミュニケーション的転回を発展させていきたいと考えています。
ホームページ、リニューアルしました!
まだ改訂作業中なのですが、とりあえずの公開です。作成の方の作業が遅れており、一部診療時間などが間違って記載されておりますことをお詫び申し上げます。診療ご希望の方は、直接、クリニックにお電話でご確認ください。また途中、どこの病院の写真かわからない(笑)病室の写真が挿入されていますが、作成中のダミーなので早急に入れ替えます、申し訳ございません。93室も病室ありません・・・
主な診療時間の訂正は下記のようになります。
誤)診療時間10時〜13時、13時〜18時 → 正)10:30〜18:00
誤)月水は第2第4の診療 → 正)水曜日のみ第2第4の診療
ブログのバナーからも飛べますが、念のため…
小池統合医療クリニック
統合医療の現状と可能性(動画)
「統合医療」の現状を知りたい方、私の視点からの偏見にみちた(笑)見解ですが、30分ほどですので、是非ともごらん下さい。
動画はこちら ↓ ↓ ↓
お城コラム再録(対馬・金田城)
五島列島の福江城と並んで、続100名城のラスボス、金田城です。NHKの最強の城にも認定されていますが、とにかく行きにくい…。おとなり韓国の方が近い「国境の城」、別名「かなたのき」。実際の由来は違うのかもしれませんが、かなたのき、の方がしっくりとくる城ですね。
対馬・金田城は、白村江の戦いの敗戦後に、唐の侵攻に備えて建設された古代山城で、同時代の大野城や基イ城などに続いて、国境の最前線として防人が配置されました。
城めぐりとしては、鬼ノ城や、玄蕃尾城に匹敵するハードな運転を強いられ、行きにくさ抜群です。
プロペラ機ではるばる対馬に到着した上に、なかなかの山道、徐行運転、カーブは減速というよりほぼ停止、ライト点灯、クラクション併用です。到着しても狭い駐車スペースに、「わ」ナンバーの駐車群で転回も困難、携帯電話は電波状態悪く使用できません、とのお達し。そこからさらに登山スタートです。
ただ、そこからは石塁や城戸、石垣が万里の長城のごとくに展開しており、事前に想像していた以上の迫力でした。壮大な石垣の向こうに、黒瀬湾が見え、三つの城戸は威圧感満点です。
訪問時、ひざを痛めていたので、山頂部の旧軍施設や最高所の石垣など、アンゴルモアでの名場面をみることはできませんでしたが、いわゆる湾からの侵入を防ぐ城戸や主な石塁、さらには主郭にあたるビングシ山など主だったところは見ることができました。(ブラタモリでは湾から登城するルートが紹介されており、通常ルートと異なるのでとても興味深かったです)
アンゴルモアで描かれるように、実際「元寇」における金田城の活躍はなかったのかもしれませんが、古代の戦争に使用された施設が、近代になっての日露戦争でも軍事拠点となったというのはやはりすごいです。(またNHKスペシャル「新幕末史」ではロシア軍により幕末に島の一部が占領されていたというのも驚きです。まさに国境の島!)
現在の城への見学路が、日露戦争時の軍用道路として用いられたものというのもすごい。だからこその、見学のしやすさといった感じです。
大野城などでも感じましたが、古代山城の規模の大きさには圧倒されます。日本書紀の後半部の話にもかかわらず、現代的にもすごい規模で、いやおうなしに古代とのつながりを感じることができます。
ある意味、古代山城ができてから中世、戦国の城郭につながったわけですが、知識なしにみたら順序が逆のように感じるのが普通でしょう(古代のものの方がデカいので)。当時の国際的な緊張状態を知る上でも、とても勉強になりました。
「アンゴルモア」のクライマックスとなるお城ですが、原作を読んでから実際に行ってみるとその迫力がさらに強く感じるのではないでしょうか。タモリも言ってましたが、夜は当然「アナゴ」を食べました!
カンファレンス開催について思うこと 造りこまないということ
前回の参加者から、しっかりとした資料の作成が希望されたとのことですが、しっかりとしたものを作成してしまうと、まずは参加者は安心してしまい、カンファレンスに「参加」するという感覚が希薄になってしまう。ただ「講義」を聞いている感覚に近くなってしまう。リアルのカンファレンスでは、「指す」こともできるのですが、オンラインですとこれがうまくいかない。どうしても一方通行的なものになりやすいという特徴があります。
また、独自にカンファレンスを開催してもらう流れを形成しようとする意図からも外れてしまう。しっかりとした造りこみは、初めの数回はいいのですが、結局はその負担に押しつぶされて、そのうち会が開催されなくなってしまうことがほとんどです。
先日も、こうした事情から、開催者自身が疲れてしまい、カンファレンスが閉会するというお話を聞いたばかりでした。
いかに負担を軽く、会自体を盛り上げるか。カンファレンスという従来の「イメージ」をいかに書き換えられるかが、その成否を分けているのです。
ジャングルカフェの課題図書 ひとりも死なせへん2
尼ケ崎の開業医として、コロナと格闘した長尾先生の見解をみんなで共有しながら、立場による医療への見解の相違について、対話していきましょう!
お興味ある方は、IMCI統合医療カンファレンス協会まで!
「会話を哲学する」のご紹介
この本は、マンガや小説にその多くの題材をとっており、実際の「会話」というコト(もしくはモノ)を考える際にとても参考になりそうです。とくにはじめに展開されている「コミュニケーション」と「マニピュレーション」という概念は、それだけでも会話の持つ複雑さが浮き彫りにされます。なんとなく経験しているが、言われてみないと気づかなかったようなことが、次々に言語化されていて、とても新鮮な視点が得られそうです。
今週はジャングルカフェです。会話、対話について考えてみたい方は、ぜひどうぞ!
来週はオンライン講義で,、統合医療について、「Dialogue」と「Fascia」を軸にお話をする予定です。静岡の統合医療の研究会さんの主催です。
診療の6本柱(改訂版)
何か特殊な代替医療もしくは、院長(私)の突飛な考えに基づいているのではなく、「統合医療」という本来の概念に基づいての診療スタイルです。つまりガイドライン重視の通常の内科クリニックスタイルでもなく、奇異を衒った特殊療法のみを提供するスタイルでもありません。
では、具体的にはどういう視点を重視して診療しているのか。普段は自分でもなかなか客観視する機会は少ないのですが、ここであらためて見直してみたいと思います。
これまでの15年の診療を振り返ると、大きく分けて6つの視点からの診療と言えるのではないでしょうか。現在、ホームページの大幅改定中ですので、その準備も兼ねて、各々について説明していきましょう。
(1)栄養・サプリメント 〜栄養系〜
糖質制限やたんぱく摂取などの栄養指導。健康増進のためのサプリメントの活用。分子整合医学(オーソモレキュラー医学の応用)による副腎疲労などの不調の解除、など。普段何を食べているか、といった食事記録表を基にして「食」からの健康をアドバイスしていきます。興味のある方に関してはファスティング(断食)もご紹介しております。
自分の健康にとって、何を摂って、何を摂らないかというのは、最も基本的な問題であると考えます。
また、現在の体調、栄養状態を客観的に評価するために各種血液検査も実施しております。大学病院時代の専門が臨床検査医学でしたので、こうした検査データの説明の経験は豊富です。こうしたデータに基づいて栄養指導を行っています。
(2)鍼灸・刺絡・ファッシア 〜身体・ファッシア系〜
通常の鍼灸に加え、体に停滞した瘀血を針とカッピングなどで取り除く刺絡療法。さらには頑固な深い痛みに対して超音波(エコー)により確認しながらファッシア(筋膜)のリリース、灸頭鍼や電子焼鍼など、様々な方法で痛みを取り除きます。最近はアースを用いて電位をゼロ化するアース鍼にも取り組んでいます。
この他にも、やや古めかしいですが良導絡による測定や、それを用いた微細な刺激(ハペパッチ等)による疼痛軽減法、パルス波や直流電流による経穴刺激なども併用しています。
各人にとってどのような刺激が効果的か、方法論の選択も「鍼灸」における重要な要素であると考えます。
独自のファッシア、生体マトリックス理論により、整形外科的な疾患のみならず、内臓疾患への重要なアプローチとして位置づけています。
(3)漢方・養生法 〜東洋医学系〜
エキス剤や煎じ薬や、中医薬なども用いながら、主にがん(各種悪性腫瘍)の再発防止や、アトピー性皮膚炎、関節リウマチ、更年期障害などに対応しています。また東洋医学的な視点をいかした養生指導(温めや食事指導など)も行っています。
特に漢方薬に関してはエキス剤でも、単味のエキスを併用することで、煎じのような個別対応を心掛けています。
漢方は近年、ガイドライン的な一律の方向性を有するようになっていますが、どのように個人の身体を解釈するかにより、本来は大きくその処方は変わります。ファッシアなど近縁の理論や、古典的な視点、統合医療的解釈などを用いた柔軟な処方姿勢が重要であると考えます。
和漢・中医学を適宜使い分け、具体的には小川瘀血理論、江部経方理論を組み合わせながら東洋医学的に「身体」を解釈しております。
(4)ホメオパシー・エネルギー療法 〜エネルギー系〜
統合医療的なホメオパシーの処方に加え、アイソパシーによる体質改善(花粉症対策など)やその他エネルギー医学的な相談も行っています。ホメオパシーは専門医の資格を活かして、英国直輸入の医師専用レメディを処方しております。
またホメオパシーをメインの治療としてではなく、統合医療における自発的治癒力発動の1アイテムとして位置づけ、積極的な併用療法も行っています。(そうした意味ではプラクティカルといっても良いのかもしれません)
ホメオパシーの持つ異端的な要素を強調するのではなく、微量な要素による「生体の反応」の発露に注目して、レメディの統合医療における新たな役割を模索しております。
また各臓器・組織での水分子の共鳴現象であると解釈して、量子医学的な機序を想定して量子医学的器機として注目されるQPA(かつてAWGと称されていた器機)も、ご希望により治療にとりれることが出来ます。(器機を用いたホメオパシー的な使用法と考えています)
(5)心理・スピリチュアル 〜心理系〜
各種、心理療法との連携を通じて、メンタル・スピリチュアルの影響を考慮した統合医療を展開しております。インテグラルな視点から幅広く、心理学・哲学・霊学の視点を考慮していきたいと考えています。
当院の統合医療指導の基本としても、行動療法や現代催眠(エリクソン的方法論)などの考えを導入して実践しております。
心理的なアプローチとしては、連携する統合医療施設である「リボン」において、通常の心理カウンセリングに加え、行動分析的アプローチやスピリチュアル的な方法論も幅広く採用しております。ご興味ある方は一度ご相談ください。
(6)内科学・現代医療・臨床検査医学 〜現代医療系〜
総合内科専門医の資格を活かして、現代医療との境界領域のご相談にも幅広く対応しております。
また持参された人間ドックなどのデータ説明や、気になる検査項目、現在の栄養状態や健康状態を採血検査(当院で採血できます)により詳細に説明いたします。
このほかにも統合医療において、現代医療・通常医療とのバランスは不可欠なものです。現役の内科専門医として、こうした境界領域におけるご相談にも応じております。
統合医療は「代替医療の言い換え」ではありません。通常医療と代替医療の境界に立ち、そのバランスを考慮しながら、新たな方針を模索していく医療なのです。そのためにも現代医療的な視点は重要、不可欠なものと考えます。
いわば陰と陽のバランスの取れた医療こそが「統合医療」です。そのためにも幅広い可能性を活かし、皆様と共に創り上げる医療を展開していきたいと思います。そのための6つの方法論が、以上の6つということになるのです。
図と地の関係 ファシアとトランスの関連への考察
これは「医療」という体系を分類するにあたっても重要で、従来のいわゆる現代西洋医学的なもの(生理学とか薬理学とか)は、その理論的な基盤を細胞生物学においています。
つまり細胞のどこに効いているか、どこを阻害しているか、等々。抗生物質であれば、細菌の細胞壁の破壊であったり、エネルギー代謝の促進であったり、核内における遺伝子への直接作用であったり、という具合です。
これに対して、ファシアの観点は、細胞のいわば「外殻」、もしくはそれを梱包する充填剤としての「マトリックス」となります。それゆえに正統とされる現代医療においては、注目されてこなかったものでもあります。あくまでも本体ではなく、充填剤ですから当然です。
しかし、ファシアに注目することでその関係性が逆転します。見えてくる医学の方法論や、基礎的な考え方すべてが、これによって「反転」します。
まずは脂質二重膜によって水の塊が包まれているという従来の細胞モデルに変更が加えられます。細胞質内に縦横無尽に生体マトリックスが張り巡らされているモデルで、袋状ではなく、ゲル状の塊といったところでしょうか。それがインテグリンを介して、細胞外マトリックスと連絡し、いわばマクロの「ファシア」と接続します。
このファシアには、このブログでも紹介した「Bファシア」と「Eファシア」の二側面を捉えることができ、張力のかかった状態では「経絡」やボディマッサージではBファシア、エネルギー医学や振動医学的にはEファシア、と使い分けることができます。(その他に、腸間膜塊などの解剖学的な塊(Mass)としての「Mファシア」も想定しています)
いずれにせよともに「代替医療性」のつよい概念となります。視点が、細胞本体とそれ以外、ということであれば、こうした代替医療における正統医療との相違も当然ということになります。
またハーブや漢方といった生薬の分野が、これらの中間にあたることも、このモデルで理解しやすくなります。いわゆるサイエンス漢方的な現代医療的な漢方解釈は、アクアポリンによる五苓散の解釈に代表されるように、細胞生物学をベースに分かりやすくなる一方、おそらくファシアの硬度などに由来するであろう「腹診」や「脈診」的な視点は、細胞外であるファシアベースとなります。(腹背診の解剖学的基礎がファシアということ)
つまり、両側面を有する体系ということになり、それゆえに生薬の分野の複雑性をしめすベースにもなります。
この細胞と細胞外という二つの視点を意識することの最大のメリットは、大方の代替医療の方法論をひとつの「身体」の中に位置づけることが可能になるということです。とくにEファシアの導入により、ホメオパシーをはじめとしたエネルギー医学、波動系の器機の合理的解釈が可能になるメリットは大きいでしょう。(ファシア近辺の結合水ということになるでしょうか)
これらの概念が身体という一つの地図のなかに、同時に位置付けられる意義は大きく、実臨床において応用性を高めることができます。様々な体系は、折衷的に存在するだけではいわゆる「とっちらかった」状態になってしまいます。それを幾分か整理して使いやすいように区分けすることが、こうした統合医療の諸概念を考える意味となるわけです。
細胞本体とそれ以外、という視点は、今後のファシア理解において、極めて明快な視点を提供するとともに重要な二極の概念となっていくと考えています。
それは数学的に言えば、Aという集合と、その補集合とでもいえる関係で、まさにあわせて「全体」「全て」ということになります。
ここまで述べてくると、冒頭に意識と無意識の話題を少し書きましたが、その共通点についても感じられるのではないでしょうか。
つまりわれわれは、「ファシア」と「無意識」というこれまで正統な領域では補集合として、重要視されないできたものによってこそ、はじめてその本体に別な視点を提供できるのではないでしょうか。
無意識の入り口を「トランス」ととらえれば、「ファシア」への(とりわけEファシア)への接近法としてのヒプノーシスの意義も捉えられるのではないでしょうか。
可能性志向の医療(POM)
そこで、思いついたのが「可能性志向の医療」です。そもそもクリニックの標語として「可能性と共創」を掲げていたのですが、それをさらに分かり易くしたような形です。エリクソン催眠のオハンロンの提唱する「可能性療法」へのリスペクトも込めてあります。
EBMでのエビデンスベースという言い回しは、いわばエビデンス至上主義的に捉えられることも多く、どこか「外部」からの制約を強く受けるような印象を持ってしまいます。それに比べて、可能性を前面に出した場合、当事者本人の可能性ですから、いわば「内部」もしくは「内面」からの要請のような形になるわけです。
外部からの制約ではなく、内側からの迸り、とでもいえるような意味が込められるように思います。EBM的に英語表現するなら「Possibility-Oriented Medicine」といったところでしょうか。
この「可能性」を医療の目的にすえることで、雑多な療法の統合というようなニュアンスから、理想的ゴールへの可能性を模索するための、複数の方法論の統合、という意味につなげることが出来そうです。
すると、この統合は自然と「多元的」な意味合いを持つようになり(可能性に向けて吟味しているので)、悪しき「折衷」を避けることが出来ます。まあ、こんなことを考えながら、可能性志向の医療としてみました。
最近、実際の臨床における方法論が、アースを用いた電気的瀉法をはじめ、その数を増しつつあるので、そうした状況を自分として納得できるためにも、新語創出の必要がありました。
久々に松本城をみて、その帰りの「あずさ」車中で思いついたのでメモしました。松本の往復はいつも新鮮な思い付きが多く、大切な時間です(^^)/
「マトリックス」という概念 ファシア・ダイアローグ・無意識をつなぐもの
マトリックスとは、医療分野では「基質」として訳されることが多い用語です。ミクロにおけるファシアともいえる「細胞外マトリックス」などはこうした用法の一つです。
そもそもの原意としてはラテン語での「母」という意味で、何かを生み出す背景というニュアンスを持つもので(ウィキペディアによる)、ここから転じて、箱に何か「モノ」を詰めるときの「充填剤」的な使われ方もします。近年注目される「ファシア」における用法はこれに近いように思います。
大切な「モノ」に対しての充填剤ですから、陰陽論でいうと「陽」に対しての「陰」とも捉えられます(本体ではないので…)。となると陰は「母」的な意味とも重なるので、原意に近くなります。
そしてファシアの関連でいうと「〜以外全部」といった「補集合」的な意味合いにも用いられます。こうした観点から、自分の分野との関連を探ると、まさに定義が困難な「代替医療」という用語は、正統な医療に対しての「補集合」ですから、極めてマトリックス的と言えそうです。
自分の興味・関心も、当然そうした方向に向けられるので、よくよく振り返ってみると、このマトリックスという概念とかなり重なることに気づきました。
こうした考えをウィルバーの四象限に対応させてみると、「We」の領域における人と人とのコミュニケーションでは、その空間で紡がれる「何か」、オープンダイアローグでの治癒をもたらす「何か」にあたると考えられます。対話の「場」と考えてもよいでしょう。
そして客観的な概念である「It」は幅広い意味合いですが、医学、身体という面では、まさに「ファシア」がこれにあたり、それゆえに別称として「生体マトリックス」とも称されているわけです。
おそらく細胞外マトリックスなども含めて、広く議論するときは「ファシア」としての概念よりも「生体マトリックス」の方が適しているのではないかと考えます。(「遺伝子」と「DNA」の用法の違いに似ているでしょうか)
それでは「I」の領域は何か。自我を支える大きな基盤・母体といえば、まさにエス・無意識・潜在意識と称されるものではないでしょうか。
我々の意識できる部分はごくわずかで、その膨大な根底部分は計り知れない大きさを有する領域なわけです。これは時に集団的無意識を相互に反応しながら、より大きなものとのつながりももつ。これを展開すれば「Its」の領域へも拡張しうる概念にもなりそうです。
このように考えていくと、マトリックスという用語により、ファシア、ダイアローグ、無意識(エス)というものが、ひとつながりの概念としてまとめられることになります。
これらに共通する「何か」が、まさに補完医療的には「キモ」になる領域でしょうし、私にとっても最も関心のある概念でもあります。
ファシア・ダイアローグ・無意識をつなぐ、キーワードとして「マトリックス」という語についてメモしてみました。
日本ホームヘルスコーチ協会主催の講演会 お知らせ
当院でのケースの紹介やジャングルカンファレンスの入門編にもなっておりますので、よろしければご視聴ください。
統合医療になじみのない方を対象にしておりますので、内容は初心者向けになっていますが、実際の統合医療について具体的に分かり易い内容にする予定です。
概略、お申込みはこちら! ↓ ↓ ↓
健幸支援勉強会 統合医療とジャングルカンファレンス
お城コラム 夏!沖縄編(中城城・勝連城)
<中城(ナカグスク)城>
今回は中城城(99・沖縄)です。押印は平成24年11月2日ですが、それからも2度ほど訪問しています。
城自体は14世紀ごろ、今帰仁城城主の子孫が築城したとされています。その後、座喜味から移った名将、護佐丸により大規模に改修され、王府の直轄地を経て、なんと戦前まで村の施設として使用されていたようです。最初の沖縄ジャングルカンファレンスの際に、旧メンバーでレンタカーで訪問したのが懐かしいです。
中山王下の名将護佐丸が、当時急速に台頭してきた勝連城の阿麻和利への抑えとして入城し、郭を増築し防御を固めました。
このとき増築された北の郭は、重要な水源であるウフガー(大井戸)を取り囲む形で築城され、このウフガーは三の郭の横から、下へ階段を下りていくと現在でも水をたたえています。立派な大井戸がちゃんと城内にあるんだ、という印象が強く残っています。(多孔質の岩石を通過して地層の境目のところに水が溜まっているそうです)
駐車場から、管理棟を経て上っていくと、三、二、一の郭の順に連郭式になっており、各々の横に北、西、南の郭が位置しています。訪問時は一の郭、南の郭が一部発掘調査中でした。当然ながら眺望の良いところに築城されていて、太平洋が一望でき、街道の往来も良く見えたことでしょう。
これほどの築城をした護佐丸でしたが、当時、天下奪取の野望を抱く阿麻和利による陰謀(謀反の企みありとする密告)により、王府から討伐軍が向けられ、抵抗することもなく自害したといわれます。忠臣が、はめられて落命するというストーリーは、なんとなく三国志をはじめとする中国の歴史の流れを彷彿とするものですね。文化的な影響も大きかったのでしょうね。
<勝連城>
続いて、勝連城(続200・沖縄)です。押印は2019年9月29日で、二度目の訪問時でした。100(200)名城の最終番号のお城です。
城跡の道路向かいにある休憩所に駐車して、登城するのですが、初見での印象の極めて強いお城です。白い城壁が、半島の丘陵をうねるように上っていくさまは遠方からもはっきりと見え、さすが世界遺産、といった感じです。
かつては駐車場から、西原御門を経て、四の曲輪へ真っ直ぐに歩いて行けたのですが、押印時の訪問では、かなり手前から見学用の階段が設置され、そこから三の曲輪へと上がる新たなルートができていました。見学はしやすいかたちになったといえるでしょうが、少し手がかかりすぎたような感じもしました。
護佐丸を追い落とした阿麻和利の居城で、謀略による護佐丸排除後、自らもまた謀反が発覚し追い落とされてしまうという運命です。護佐丸を中心に見ると、悪者的立ち位置なのですが、この阿麻和利は優れた人物であることは間違いないようで、農民の地位からこの地方の首長にまでのしあがり、その勢いをかって中山王の支配を奪取しようと画策しました。結局は失敗するので「護佐丸・阿麻和利の乱」のようなくくりになってしまいますが、歴史が少し違った流れになっていれば、一時代を画す英雄となったとも言えるのではないでしょうか。
時は室町時代に重なるので、本土の歴史で言えば下剋上の時代ですから、歴史的には日本史としてシンクロした流れといえるでしょう。阿麻和利討ち死にの後は、この城は廃城となってしまいますが、城内には御嶽があり、信仰の対象として存続していったようです。本土の城と同様に、信仰の場が城郭に吸収された経緯があるのでしょうから、そうした意義としては共通点を感じますね。
見学後、近くの漁港で海鮮丼を食べたのですが、エビの海鮮丼を注文してみるとエビが揚っていたのは衝撃でした。南方における鮮度の問題もあるのでしょうが、漁港でも海鮮を揚げてしまうのですから、ご当地の方はやはりそうとう揚げ物好き、とうことなのでしょう。
解剖生理的 身体への「気づき」
そこには内臓を明瞭にイメージする力が求められますが、これこそがまさに解剖生理の知識の活用、というわけです。
まずは、吸収系における消化器系です。内胚葉から発達してくるまさに吸収の代表格です。以下のようなワークで消化管全体を具体的に意識します。
1)水を飲む:飲水するにより、嚥下から消化管への流れ込みを感じる。
2)舌を動かす:口を閉じて、舌を口唇と歯茎の間を右回り、左回りに回転させ、唾液が出るのを感じ、嚥下する。
3)かいうべ(あいうべ)体操:舌および関連する筋肉の運動。舌骨への意識。
4)按腹:臍周辺を圧迫し、その後、腹部全体を按ずる。
5)肛門括約筋を意識
吸収系の呼吸系です。後腸を中心とした消化管に対して前腸が中心である呼吸器です。発生的には消化管から突出する形で形成されます。気体である酸素の取入れを意識してみましょう。
1)副鼻腔・気管の意識
2)耳引っ張り:蝶形骨と横隔膜の連動を意識した呼吸
3)呼気を長く:ガス漏れ音のような呼気により腹圧をあげる
4)肋骨を意識:上部及び下部肋骨を意識した呼吸
5)腕を使った深呼吸・自律訓練(呼吸調整)
循環系はポンプと管である脈管系とその中身である血液からなります。全身くまなく流れる血液とそれを送り出す心臓のイメージが重要です。
1)大循環(左心系)の意識:後面にまわり、全身へ血液を供給する大循環をイメージする。
2)門脈・肺循環(右心系)の意識
3)井穴刺激(手足)
4)自律訓練(第1-2公式・重温感)
5)自律訓練(心臓調整)
血液に関しては、鉄欠乏対策とサラサラ対策が重要。
1)十分な水分、タンパク、ヘム鉄、ω3
2)井穴による交感神経の緊張緩和(H6F4)
排出系は泌尿・生殖器を中心として骨盤内へのアプローチでもあります。
1)下腹の按腹(瘀血の蝕知)
2)腎への手当て
3)骨盤のワーク
受容系、いわゆる目、鼻、耳などの感覚器系です。中枢神経からの出先機関であるこれらとの、脳とのつながりが重要になります。
1)鼻根・篩骨をゆるめる
2)片目交互・遠近交互・閉眼の意識
3)耳引っ張りによる内耳の刺激
4)遠聞:遠くの音を聞き、遠くの香りを嗅ぐ
5)軟蘇の法
伝達系として、中枢神経、末梢神経、自律神経を扱います。
1)脳と脊髄の位置関係の意識
2)C1横突起の意識
3)頭蓋骨をゆるめる
4)マリオネットとしっぽのイメージ
5)自律訓練(前額部調整):額が涼しい
6)首まわし、脊椎の前後・左右・捻じり、足首まわし
実施系は四肢の筋骨格系が中心になるので幅広い運動が挙げられますが、全身への代表的なものをメモします。
1)筋弛緩法(腕・顔・首・肩・脚・全身)
2)両手足合掌
3)両手足把握歩行
4)歩行マインドフルネス(筋肉構造の復習)
かつて解剖生理学の勉強の時に、話した内容のメモですが、何かの参考に、ビビッとくる方もいらっしゃるかと思い再録しました。日々の健康探究にお役に立てれば幸いです。
何言っているのかわからん、という方は直接、お尋ね下さい、説明します(笑)
お城コラム 夏!沖縄編(今帰仁城・座喜味城)
<今帰仁城>
100名城としては3つ、続100名城として2つの城郭が認定されていますが、どちらも当然ながら本土のものとはかなり文化の違う感じです。また歴史も中世が中心なのでやや隔絶感がありますが、独立した歴史の流れとして見てみたいと思います。なので、100名城だけでなく続100名城と合わせて琉球の歴史を5つの城から見てみたいと思います。
ポイントとしては、琉球王国による統一前は、三国(北山・南山・中山)での覇権争いがあり、これを中山の尚巴志が首里城を拠点として、1429年琉球統一を成し遂げます。
その後、統一後の混乱期が、15世紀中頃に「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発。その関連する城郭として、座喜味城、勝連城、中城城があがります。今回は三国統一前、沖縄本島北部の巨城、今帰仁城(98・沖縄)を取り上げます。
「美ら海水族館」のついでに立ち寄ったのですが、事前に思っていたよりも迫力のある壮大な城郭でした。一見したところでは、本土の戦国の城郭よりも、堅固な構えに見えるのですが、尚巴志にあっけなく負け、その後の薩摩の軍事侵攻にも負け、廃城となり、その見かけの立派さとは正反対の残念な歴史を辿ったようです。
東シナ海につきだす半島に築城され、1km先に海岸線を見渡せる絶好のロケーションで、城好きでなくても十分楽しめる史跡です。また万里の長城をほうふつとさせる、本土の城郭ではまず見られないうねるような石垣はインスタ映え間違いなし、といったところでしょうか。
近隣には美ら海水族館があるので、北部やんばる地域と合わせて回れば一日観光コースです。こちらは南部と異なり、海岸線の城郭が少なく、ただただ「自然」といった感じです(笑)どこかにヤンバルクイナもいることでしょう。ただ南部と比較すると、訪問時、お店も閉店しているところが多くちょっと寂しい印象ではありました。
その後、大雨での一部石垣の崩落などもあったようですが、眺望としては琉球の城で第1位をつけたい城郭で、個人的にも、のんびりしていて琉球の城、綜合第1位です!
<座喜味城>
今回は座喜味城(続199・沖縄)です。押印は2019年9月28日で、この時は二度目の訪問でした。歴史民俗資料館がリニューアルオープンされており、かつてよりこぎれいに整備された印象でした。
この時は沖縄ジャングルカンファレンスで、第1日目が読谷村診療所での開催でしたので、その開始前に訪問してきました。(この時は読谷村診療所の多鹿先生と近隣の鍼灸師の野口先生のお力添えにて、カンファレンスが成功裏に終了しました。その後、2人の先生にはスカイプを用いた遠隔カンファレンスにもご協力いただき現在のオンライン形式の基本とすることが出来ました。ここにあらためて感謝したいと思います)
この城は、琉球の築城名手といわれた護佐丸による築城とされます。彼は尚巴志に従い、北山の今帰仁城攻めの後に入城したといわれ、その後、勝連城の動きを監視するため中山王の命により中城城へと移ったとされます。
しかし、ここに阿麻和利との確執が始まり、阿麻和利の計略にはまった護佐丸は中山王に討伐されてしまいます。ここだけ聞くと、一方的にかわいそうな話しなのですが、一説では中城湾における交易の利権をめぐる双方の覇権争いだったというのですが、そちらが実態に近いのでしょう。
城の形態としては、複雑な曲線を組み合わせた縄張りで、星形のようにも見えるので変形版の五稜郭みたいに見えなくもありません。複雑に曲がらせることで横矢をかけやすくするという意図なのでしょうか。内部の構造としてもアーチ門をくぐって内部に入り込む形で、構造的にも複雑で、かつとても美しい建造物です。
今回訪問時は、欧米人の撮影隊が何やら撮影しておりましたが、そうした映像にもとても映える建造物だと思います。
未病・先制医療外来のススメ
何らかの不調があったことで、体全体が結果として快調になったということでした。本当なら不調になる前に来たかったんですけどね、という内容でした。
たしかに、こうしたうれしいご意見を伺うことがあるのですが、やはり不調になっていない人に、こうしたメッセージは届きにくいもの。
なんとなく不調というような人は多いにもかかわらず、具体的な方策も一般にはそれほど多くないので難しいところです。
こうした方々に訴求する用語としては「未病」がもっとも知られているものでしょうか。しかし、これでも、自分は病気ではないからなぁという方も多いかと。
とくに責任あるお仕事の方には、なかなか未病という用語も刺さらない中、最近では新たなパワーワード「先制医療」が注目されています。現状の意味合いとしては、遺伝子情報や、がん体質の診断などに特化している印象がありますが、未病も含めた病的状態を先んじて制圧する、という意味合いでは戦う企業人や経営者へのインパクトは一段上のような気がします。
統合医療という時、用いる側の手段をテーマにしたネーミングであるのですが、利用者側、特に健康という自らの財産を保守するという視点では「先制」はなかなかその本質をついているように思います。
医療はこれからますます多様性が増してくることでしょう。AIの進展に伴い、診療の状況も一変してしまいそうです。そうした中で先制医療という視点は、積極的な予防を意味するパワーワードになりそうです。
当院では、こうした内容の外来については、まず第一に血液検査等を用いて栄養状態を評価し、必要な栄養指導ならびにサプリメントを推奨してきました。ついで第二に、身体局所の瘀血の除去、具体的には首・肩・背中・腰等々の凝りや痛みに対して、刺絡治療を施す、という方針です。
この2つの方法論でかなりの方の「身体」への感じ方は変わると実感しています。その他、精神的要因にはホメオパシーの併用や、病巣感染の関与が疑われる病態には上咽頭擦過療法など、多くのバリエーションによって実際には対応しています。
まだまだ暑い日が続き、コロナ関連の不調もいろいろと出現しています。このようなな不調に対して「先制」することで積極的な健康を勝ち取る、という姿勢はますます重要性を増しているのかもしれませんね。
夏休み、お盆休み中も通常通り診療しております
お問い合わせ、ご予約はお電話にてお願いします。
暑い日が続きますが、皆さま、お体に気をつけて夏を乗り切ってくださいね!
メタ思考と縮退についてのメモ
これによりデカルト的思考を超越し、新たな思考パターンへと展開できるというわけです。この辺りはベイトソンの学習理論にも依拠しており、いわゆる「学習1」から「学習3」へのプロセスで、いわゆる「回心」への道のりなど明らかにデカルト的ではありません。
それでいて、ライヒによるオルゴンエネルギーの仮説よりは納得(共感)しやすい、というのもポイントかもしれません。
また、このメタ思考の視点の導入は、縮退の視点からも重要で、これ自体が階層の異なる視点を導入していることにより、縮退とは反対の方向へのベクトル性を有することとなります。
メタコミュニケーションについても同様で、縮退と反対のベクトルによってより細やか関係性が導かれると考えることもできます。
縮退の視点からも、メタ思考の重要性が認識されることのメモでした。
近日中に「縮退」についてのシリーズ(「臨床縮退学」の予定)を始めようと考えています。
ベイトソンと「縮退」
それにしても、この縮退という概念は、色々な視点で身体を考えていくと、何度でも戻ってきてしまう便利なというか、不思議な概念です。明日も縮退概念と健康についての取材を受ける予定なのですが、少し振り返ってみたいと思います。
すると改めて、統合医療というより、健康・身体というものを広く考えようとする時には魅力的な概念といえます。
遺伝子・細胞から語る要素還元論でもなく、生気論的な神秘思想を用いるでもない、その両者をいわば統合したような形で、それでいて全く新しい様式で「身体」「対話」などを語ることができるものとでもいえましょうか。
縮退は、まずは作用マトリックスという長沼先生発案の数学的方法がベースとなります(これは『物理数学の直観的方法』で詳説されます)。
この作用マトリックス内の関係性を示すつながりが一種のループを形成し、それが長いループであればあるほど稀少で(低確率的で)、短いほど高確率に生じやすくなります(蓋然性が高いとでもいえましょうか)。ここに時間の流れを導入すると、長いループは次第に短く狭い範囲で繰り返すループへと縮小していく傾向が現れます。これが縮退です。
医学的に考えるときに「何をループとして捉えるか」なのですが、長沼先生は、細胞間・組織間の関連を挙げているのですが、具体的には、内分泌系におけるフィードバックのループ(視床下部・下垂体・副腎皮質など)のような関係性を想定すると良いのではないでしょうか。
ホルモンのフィードバックそのものでは最低限の単位なので縮退は生じにくいでしょうが、そのような関連性といイメージであれば、身体内部にいろいろと「関係性」が存在することは明らかですので、生体内の一般的な関連性のループとでも表現できるでしょうか。
こうしたループは自他の関係にも拡張可能で、対話グループや社会にも適応できそうです。社会的なレベルにまで広げると、ベイトソンの主張するような人類学的な関連性、もしくはダブルバインドに代表される人間関係(家族関係)なども、このループのイメージです。身体内の関係性も、こうしたループで表現できるので、ベイトソンのサイバネティックス的といえるのかもしれません。
こうして考えていくとデカルト的な思想を超越しようとするベイトソンの思想の理解として、縮退が便利なモノとして使えそうです。実際、分裂生成といった用語で表現しようとしていることは、本質的には縮退そのものであると思います。
またこうした身体内外に、サイバネティックなループを想定することで、生理学的な仕組みと、対話的なコミュニケーションを一連のものとして表現することが可能になり、「健康」という概念の理解にも資することになるでしょう。
縮退についてはまた別な機会にゆっくりと論じていきたいと思いますが、これから仕事ですので本日はここまで。
長沼先生の世界史の新刊はこちら ↓ ↓ ↓
統合の意味するもの 統合医療を原点から再考する必要性
こうした中であらためて「統合医療」という概念を考える機会がありましたので、メモしておきます。それにしても、何故こう頻繁にこのブログで「統合医療」とは何か、という問を繰り返すのか。その理由は、この言葉に対しての正確な定義がないからです。確かに、学会や省庁から一応の定義は出ているものの現状での意味合いとどうしても差異が出てしまう、というか、臨床現場としてあまりしっくりと来ないものであるからです。
あらゆる理想を盛り込もうとして「統合医療」を定義すると、その理念が大きすぎて全体像がぼやけてしまい、何を言っているのかわからない状態となってしまいます。そこに思い入れを持った各人の統合医療観が入ってくると、元が曖昧なモノだけに、今度は各人の強いキャラに引っ張られてしまうといった状況になります。
こうした状況はつとに「統合」のみならず「ホリスティック」「包括」といった用語を、用いるときにも同様の事態となるように思います。
こうしたことの理由の一つに、「統合する」ということの意味の取り方の相違があるように思います。
これは以前からの議論で言うところの四つの主義で説明すると、「一」的な教条に対して、「多」的な折衷と多元があるのですが、このうち折衷はバラバラの乱雑な結果「一」的なものへと縮退していくことが予想されます。では統合はどこかというと、統一的な意味合いでは「一」、多元的な意味での統合であれば「多」となります。
このうち一般的理解としては、統合といえば統一的な意味合いですから「一」的な印象が強いと思います。ところが、ケン・ウィルバーのいうインテグレイティブ(統合)は明らかに意味合いとしては、ここでいう「多元」的な様子を示しています。(これはクワドラントに関する説明から明確です)。英語的にはIntegrativeという語がどちらの意味合いが強いのかは、英語学の知識がないので不明ですが、どうも医療における使われ方をみると「多」的な統合のように思うのです。
これに対して日本での「統合」は、天下統一的な意味で「一」として捉えられることが多いのではないでしょうか。
混乱を避ける意味で、私個人としては多元的統合という使い方をしているのですが、多くの方は「一」的統合という用法ではないでしょうか。つまり「一」的な用法であるがゆえに、何か真なる統合医療というようなものがどこかにあるという「錯覚」を持つ方が多いのではないでしょうか。(山のあなたの空遠く…)
個人的にはどのような用法で用いても、そこに自覚的であれば構わないと思うのですが、それを忘れると(もしくは考えたことがないと)正しい統合医療、間違った統合医療という、正邪の区分を設定してしまうのではないかと思うのです。
こうなると自分は正しく、他者は偽りであるという、まさに「教条」的な判定基準に陥ってしまい、類似する思想を持つ者との争いが絶えない状況に陥ることでしょう。なかにはそうした諍いのどちらか一方に与することで、利益を得ようという流れも出てくることでしょう。そうした諍いをなくすことが目的であった統合医療という概念が、こうなると反対にこうした対立の火種そのものになってしまうわけです。(こうした対立的な二元論は「サタンを生み出す」とまでウィリアム・ブレイクは言っているようです)
ここでいう統合の意味の取り方の違いは、グレゴリー・ベイトソンのいう「論理階型」の違いといえるかもしれません。(ちなみに加速度と速度でいうと加速度の方が論理階型が高次ということになります)こうした違いを気づかずに同次元の事象として議論することで、議論は大きく混乱します。統合医療とは何かという問題も、こうした構造(論理階型の違い)が大きく関与していそうです。
グレゴリー・ベイトソンは『精神と自然』において、無意識的にしみ込んだ部分を含む認識論として、デカルト的二元論を挙げ、そこからの脱却を強く主張しました。いわゆるカウンターカルチャーの旗手であるベイトソンの主張ですから、その系譜に位置付けられる統合医療もこうした「論理階型」に注意深く対処していていいはずですが、約40年もの歳月の経過でも、あまり変わらないどころか大きく退歩さえしているのかもしれません。(心ある関係者は、統合医療への歴史的潮流をもう一度振り返る必要があると考えます)
最近、統合医療について考えるとともに、アメリカにおけるカウンターカルチャーの思想群を再度、読み直しています。おそらく現在の混乱の端緒と結末、すべてがそこに示されているように思うからです。
そしておそらく当時すでにそれへの解決策まで示されていたはずで、今日でも繰り返す当該分野の諸問題に対して、再発見されるのを待っているようにも思うのです。つまり今の時代が、まだまだ当時の先端思想に追いついていないということを再発見することになるのではないか、と思うのです。
こむら返りの記事 エクラの第2回です!
エクラの『こむら返り』の記事はこちら!!