いわゆるブログ!
身の維新 ジャングルカフェの4月課題図書と参考図書
課題図書は一見とっつきににくそうですが、主人公的な和方医はなんと「るろうに剣心」でもおなじみの赤報隊隊長、相楽総三の右腕と言われた人物なのです。ここまで読んで興味を持った方は、是非、御一読を! また、みんなで読みたい方は、カンファレンス協会までご連絡を(笑)(当協会にご興味ある方は「ジャングルカンファレンス」で検索!)
参考文献として、ここに書かれた浅田宗伯とはかなり違った別解釈のものが以下です。漢方関係者は以下の本の解釈が好みだろうなぁ。
この時代と丸々被るマンガもあります。言わずと知れた巨匠、手塚治虫の名作です。
こうした歴史の流れから、今日の統合医療的な流れへの源流をみるには以下のものも面白いでしょう。オカルト好きには是非(笑)
統合医療総論の構築 (総論の脱構築による組織運営論への第一歩)
前回、少し記載した統合医療の総論について解説してみましょう。内容が内容ですので、分かり易いとは言い難いのですが、出来るだけ簡易に述べてみたいと思います。
内容の性質上、以下、である調で述べます。
統合医療の総論の骨子として、大きく三つのカテゴリーに大別して考えることにする。
第一は、統合医療が「統合医療」であるための最低限の要素、つまり「原則(プリンシプル)」。
第二は、実際の在り方、つまり診療を中心とした医療としてのモデル、さらには実社会への適用としての社会モデルといった「適用(モデル)」。
第三は、個々人が有する統合医療というものに対しての、考えうる理想としての体系、これはある種の信念体系であるが、その中でもこれまでの議論の中で適切であろうと考えられる三つを、「体系(システム)」として提示した。
以下がそのまとめである。
<まとめ>
1.原則(プリンシプル)
1)補完性
2)多元性
2.適用(モデル)
1)医療モデル
2)社会モデル
3.体系(スタイル)
1)統合主義
2)多元主義
3)モード2
1.原則(プリンシプル)
補完性とは、CAMを扱うことに加え、正統に対峙する補完的要素を反映させることであり、そのまま医療の方法論の多様性へと開かれる概念である。
またそれはCAM独自の位置づけを重んじた立場でもあり、加えてそれに携わる人々の多様性にも通じることから、さらに多元性といった二つ目の概念も導かれる。
つまり、補完性と多元性という二つの概念が、統合医療の原則となりうるものであり、その他の諸概念はここから導かれてくる。
1)補完性
統合医療とは、あまた存在する補完医療や伝統医学を内包したものであることから、補完性が原則であることはいうまでもない。
唯一とされる「正統」に対して、補完的・代替的なもう一つの立場を認めるということは、あらゆる統合医療のこれまでの定義とも整合性がある。つまり、統合医療をそれたらしめる最も重要な概念である。
2)多元性
統合医療において、教条的な唯一の正統といった立場をとらないということは、その「多様性」を認めるということに他ならない。そしてその在り方は、各々の個性を重視する「多元的」思想であるべきである。
これは介入の方法論における多元性に止まらず、それにかかわる人々の多元性と、二重の意味合いがあり、ここから多職種連携の必要性も導かれることになる。ただしこの概念は、悪しき相対主義と背中合わせでもあり、多様性の思想の難しさである。
2.適用(モデル)
適用(モデル)には、実際に統合医療を行うにあたって個別の診療場面を想定する「医療モデル」と、社会システムとしての場面を想定する「社会モデル」がある。
その他にも、セルフケアなどを主題とする「生活モデル」等も考えられるが、それを医療の個人への適応として、未病対策のように捉えるなら、現段階としては医療モデルの亜型として扱うことが可能であろう。よって、ここでは二つのモデルとして扱うことにする。
1)医療モデル
統合医療が、医療の方法論として、どのように個人に適用されるのか、といったモデルの在り方である。つまり統合医療としてのその内容や効果など、医療現場において用いられる疾病治療の体系そのものである。そうしたことから「狭義の統合医療」と称されることもある。加えて、患者中心主義はこのモデル内の概念として捉えることができる。
2)社会モデル
実社会においての統合医療的介入や発想をもとに、適用された施設や取り組みである。つまり社会における団体や仕組みそのものを対象としている。これは多様な地域住民の生活の質の向上を目指し、結果として地域の活性化につながるものであり、「広義の統合医療」と称されることもある。
3.体系(スタイル)
これまでに述べた共通の「原則」と「適用」を踏まえながらも、統合医療を展開するにあたっては、個々人の信念体系とも言える考え方が大きく影響する。
こうした信念の相違が、時に大きな対立を生じるものでもある。そうした広範な信念体系の中から、二つの原則に矛盾しない形で大別すると、以下の三つの体系が抽出しうる。
まずは心理・精神医学の領域にその範を求め、精神科医ナシア・ガミーの議論を基にした多要素併存の在り方を分類した四つの主義を援用する。これは、教条主義(dogmatism)、折衷主義(eclecticism)、統合主義(integrationism)、多元主義(pluralism)である。この四つのうち教条主義と折衷主義は、先に掲げた原則に合わないので、必然的に統合主義と多元主義が残ることになる。
続いて科学や知識の在り方を示したモードといった考えに基づいたモード1とモード2といった視点である。従来の正統とされる科学の在り方(例えば古典物理学)であるモード1に対して、その乗り越えとして提示されたものがモード2であり、双方向コミュニケーションなどモード2を構成する概念と統合医療の実情を考え合わせると、明らかに後者となる。
よってこの三つの体系が、現状としては原則に矛盾しないものと考えられる。ただしこの「体系」は、「原則」と「適用」と異なり、時代の流れの中で、その背景を成す思想・哲学の更新により、逐次改訂されうるものと理解されたい。
1)統合主義
四つの主義のうち、教条主義は一つの考えのみを認め他を認めない考えであり、折衷主義もまた、原則における多元性と相いれないため棄却される。こうして統合主義と多元主義が抽出されてくるのであるが、このうち将来的に一つに収束する思想が統合主義である。現状においては伝統医学の科学的解釈(近年の経絡ファシア論などが代表的)に、その典型を求めることができる。
2)多元主義
医療において広く多様性を考えた場合、四つの主義においては折衷主義と多元主義の二つになる。そしてこの二つの本質的な相違点は、多様な中での選択に伴って十分な吟味や熟慮があるか否かという点である。つまりそこに十分な吟味のもとでの選択・決断があれば「多元主義」であり、ただ吟味もなく並列されているのであれば「折衷主義」となる。
つまり「吟味・選択」がその分水嶺となる。統合医療において、主体的選択が重要なものであるならば、それを内包するものが多元主義であると表現することもできる。
3)モード2
科学という営みに対して、従来の学術的探究の文脈をモード1とする一方、その応用としての文脈はモード2として表現される。ギボンズらの研究から、伊勢田哲治はモード2科学の特徴として、応用の文脈、超領域性、組織の異種混合性、社会的説明責任と反射性、質のコントロールのための追加の基準、の5つを挙げ、そのコミュニケーションの方法として「双方向モデル」を提示している。これらの要素は、いずれも統合医療という新たな医療の形を描写するにあたって不可欠の概念である。
ただしここで注意すべきは、モード1より優位なものがモード2ではないという自覚である。モード1では、エビデンスにより確定した基礎を有することから、その信頼性を強く担保される。しかしそれはモード2では必ずしも当てはまらない。それゆえに我々はモード2にあっても、モード1的な検証システムをないがしろにしてはいけないのである。こうした考えは、学問としての統合医療の確立にとって不可欠のものであり、ここに「統合医療学」の確立の意義がある。
以上が、統合医療総論の概略になります。まだ試行錯誤段階の原稿ですので、後日、統合医療学会誌においてもう少しまとまった形式で発表する予定ですが、現状の記録として、ここに記載しておきました。
こうしたメタ思考的な領域は、興味ない方にはつまらないものとなりますが、これもまた「統合医療」という未発達な若い学問領域にとっては、非常に重要なものでもあるのです。そして、こうした思考がなければ、具体的な臨床的な実践は、ともすれば空中分解してしまう事にもなります。
新たな医療を模索するという事は、いろいろと面倒なプロセスを要するということでもあるのです。
こうした総論に基づいて、ファシア論などの医療モデルに止まらず、これからは社会モデルとしての組織論を書いていきたいと思っております。
組織運営論としての「統合医療総論」という考え方
何も統合医療は別に万能だという考えや実感もないのですが、硬直した組織や考え方、もしくは新たな方向性の模索をするにあたっては実に有効な面が多くあるのです。
その第一が、原則の1でもある「補完性」という概念。何かと確定的なものを求めてしまいがちな中で、緩さとともに多くの可能性を有するものでもあります。
さらにそこから導かれる原則の2である「多元性」の概念。これは個々の自立性を重んじるもので「連携」の重要性につながるものです。(総論の概略については、統合医療学会のニュースレターに発表し、今後、学会誌にも公開していく予定なのですが、ここでも後日説明していきたいと思っております。)
この二つの原則の導入により、正統(常識?)に過度に依拠し、一元的な組織モデルになってしまっているケースに対しては、かなりのカンフル剤にもなるのではないでしょうか。ただし、それほどの劇的なものでもないので、考え方ひとつで、いろいろと応用可能なものでもあります。
具体的には、カンファレンスなどの会話・対話や学びの場、企業を健康経営へと向ける産業医的な介入、職場や日常におけるメンタルやストレスへの対応策など、いくつも挙げることができるでしょう。詳細はまた後日にしますが、統合医療的、つまりは補完的な視点を導入するという事は、意外にも多くの分野でブレークスルーをもたらす一つのテクニックになるのではないか、といった話題でした。
お城コラム 犬山城
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現存最古といわれる国宝天守、犬山城(43・愛知)です。押印は平成23年11月19日、城郭内休憩所で押しました。名古屋から犬山線に乗って犬山遊園駅から徒歩でいけます。
これまで最古の天守については、丸岡城説が有力だったようですが、近年、慶長以降の築城とする説が有力になり、犬山城とするようです。また変わるかもしれませんが。
荻生徂徠によって「白帝城」とも称された城で、直下を木曾川が流れるさまを「長江」と見立て、三国志の劉備玄徳終焉の地になぞらえた別名となっています。
つまり縄張りとしては、城郭の北側が木曾川で守られ、南側は惣構により防御されていたようです。また二の丸を約70mの大手道が直線的に伸びるさまは、まさに安土城といってよい構造です。
信長のおじ織田信康によって築城されたといわれ、数々の合戦の舞台となっています。その後、信長との対立により、信康の子信清が城を追われると、池田恒興が入城。その後も、紆余曲折あって秀吉政権下では、石川貞清が城主に、さらに徳川期になり最終的には尾張藩付家老、成瀬正成が城主となり、成瀬氏が幕末まで続くことになります。
とにかくこの城郭のすばらしさは、天守からの眺望につきます。眼下の木曾川の流れに加え、晴れたら岐阜城、小牧山城、名古屋城までも見えるというくらい濃尾平野を一望できます。
訪問時も、窓を開け放たれた天守は、気持ちの良い風が通過し絶好の眺望でした!
ここに赤絨毯が敷かれていたのも、印象的で、後で調べてみると、7代城主がオランダ商館長から入手した貴重なものらしく、城主が最上階に上ることを前提にしてしかれていたらしいのです。
つまりほとんどの天守最上階は上る前提でないことが少なくない中、城主が訪れる前提での最上階だったということがわかります。
これほどの眺望ですから、やはり城主ですからみてみたいですよね。赤絨毯にそこまで意味があるとは、訪問時は分かりませんでした。
ほんとに「これぞ天守!」という気持ちなれるお城です。天気の良い日にぜひ再訪したい名城です。
立花宗茂残照
そんな中、年末に、最強の誉れ高い戦国武将、立花宗茂の小説を読んでおりました。新書などの解説でもとびきり興味深い武将なのですが、小説だとまた少し味わいが異なって、また良いのです。
『尚、赫赫たれ』という小説なのですが、全盛期の宗茂ではなく、江戸時代になってから、つまり晩年の回想も交えた内容になっています。雰囲気はちょっと違いますが「葬送のフリーレン」みたいな感じもあります。つまり、最大の戦いは、既に終わり、それを回想できる友人もほぼいない。そんな中でも、現状にはいくつかの問題が発生する。それを回想と共に、またそれなりに解決していく、みたいな感じです。 関ケ原の戦いを少し考え直すのにも参考になります。
ご興味ある方、ぜひどうぞ(^-^;
統合医療の総論を考えるということ
12月の統合医療学会から、統合医療とは、という総論の作成に時間をとられておりました。まったくもって一般の方々には、関心がないであろうテーマなのですが、実は、統合医療に携わる人にとっては避けては通れないテーマでもあるのです。
統合医療って何、と聞かれたときに多くの方(有名な先生方も含めて)はなんとなく代替医療や伝統医療などを含めた、優しさあふれる医療、みたいなイメージを持たれると思います。それはそれで間違いではないのでしょうが、では、普通の医療とどう違うの?と問われると、ふと止まってしまうのではないでしょうか。
かつて10年以上前でしょうか、統合医療の概念が医療界隈で話題になったとき、こうしたイメージ先行型の説明が横行したため「通常の医療といわれる我々の方が愛にあふれている」みたいな反論が医師会あたりから出てきたことがありました。それはそれで妥当な反論だと思います。
たしかにコトー先生や、失敗しない女医さんだって、統合医療という枠ではないけど、愛にあふれているわけで、ことさら愛を強調するのは、統合医療の本質というよりは、医療そのものの本質であるように思うのです。つまりこれでは、統合医療というものの特徴とは言えないわけです。
では我々は何をもって、統合医療をしています、という信念を持つことが出来るのか、これこそが「総論」というものの存在意義ではないでしょうか。
私も、こうした総論の模索という作業の中で、あらためて統合医療をしているというコトを確認することができました。さらには、これまで統合医療ではないように思えて、心理的に避けてきた業務についても、実はそうではない、ということに気づかされたという展開もありました。
いろいろあった昨年から、今年は運気が少しはいいようですので、新たなことにいろいろと挑戦していきたいと思います。
そのための第一歩が、統合医療の総論の確立だったわけです。大学院で修士論文から始まった、統合医療とは何かという本質への問いが、今年中には論文として公開できるかと思います。
年始の決意みたいなのが、遅れて1月の末になりましたが、今年は大きく自らの統合医療を展開したいと思っております。
マトリックス医学への道(4)
慢性炎症の果てに、実質細胞が欠落し、間質細胞が増殖しこれが線維化を招く。こうした機序において真っ先に思いつくのが、線維芽細胞の増殖である。フィブリンの蓄積にともなって、張力が働く方向にフィブリンが並ぶのに伴い、同方向に線維芽細胞が増殖し、コラーゲン線維が形成されていく。
また慢性炎症の状態であるから、そこにはマクロファージやリンパ球なども集積して免疫反応も生じる。同時に血管も集まり、その周辺には細胞外マトリックスとしてのコラーゲン線維も増加し、炎症性物質を内包するプレリンパも多く存在することが推測される。
こうした状況の中、組織破壊が進行し、修復のバランスが破綻していけば、微細な環境における恒常性は破綻し、線維化による再構築が生じることになる。つまり、ここでファシア瘀血として述べてきた現象は、この線維化においてその主たる経過に大きく関与することになるのである。
そして、ここで期待されるのが、不可逆とされた線維化が可逆的に変化しうるという可能性である。つまり、このマトリックス医学の紹介の中で展開される様々な介入により、線維化への有効な対応策が見出される可能性が高いと言えよう。
言うまでもなく全身に張り巡らされたファシアは、一つのネットワークとして連続している。そしてそこにはプレリンパをはじめとして、多くの線維化に関与するプレーヤーもまたふくまれている。
ある部位に、強いファシア重積が形成されたとすると、その付近と影響する部位における運動が制限されるだけでなく、神経や血管もまた機能不全に陥る可能性が高い。
つまり、ファシア瘀血による慢性炎症の温床が形成されてしまう。それは直流電流によるファシア本来の通電性による機能を不全にさせ、実質細胞に悪影響を及ぼすであろうことが推測される。
またファシアの増殖により局所的な循環不全を招く可能性もある。また近年、慢性腎臓病の進展に対しての三次リンパ組織(TLS)の役割も見逃せない。これは線維芽細胞が実質細胞に集積するなかで、リンパ球を動員・増殖させ、さらにその周辺へと炎症を拡大させるものである。つまり線維化の病変がさらなる病態の悪化を招くということであり、こうした線維化をどのように解消していくかは、実質臓器の悪化を防ぐうえでも極めて重要な介入となる。
これらは詳細なプロセスは、肝臓や肺、皮膚や脂肪組織など各臓器で異なるものの、概ね同様の方向で進展していくとされる。つまりこれまでのような臓器別、つまりはここの実質細胞への対応策では、有効な対策はとりにくいことになり、ポジ・ネガの反転のような対策が必要とされる。これが、マトリックス医学とした理由である。従来の注目されていたもの「でない方」に視点を変える、ということになる。
我々はこれを、これまで伝統医学や補完代替医療の活用、という表現で理解してきたのであるが(それゆえに統合医療という名称にもなるのであるが)、そこに具体的な現代科学的イメージを重ね合わすことが可能になったということである。
また、マトリックスという時、それはいわゆるファシアよりも大きな概念になることはいうまでもない。これも広い意味でのポジ・ネガである。
こうした考え方の変化には、その時代時代に要請される「まなざし」の変化が根底にあると言わざるを得ない。
このまなざしの変化は、意識に対する無意識であるし、日常に対してのトランスでもあり、ニューロンに対してのグリアでもある。こうした時流の中での実質臓器にたいするそれ以外の部分、つまりはマトリックスということになる。
やや脱線するが、こうした変換はマトリックス内部においても生じる。ファシアの機能的な表現形式として説明した「経絡」概念の変遷がまさにあてはまる。
おそらく歴史的には、はっきりと実感しやすいアナトミートレインのような形で「経筋」として理解されていたものが、内臓との関連へと理論展開し、微細な感覚を伴って「経別」の源流となる概念になっていく。それが湯液など内服薬の充実により、内臓へのアプローチが「裏」へとまわると、さらに洗練された形で、多くの経穴を伴って「経絡(正経)」として成立。その後、進展した別形式としての「奇経」が生れ、再度、以前から存在していた経筋・経別などの概念を取り込みながら、整理してきたものが今日の経絡システムであるとする考えである(『東洋医学と潜在運動系』山田新一郎・佐藤源彦の記述をもとに記載)。つまりここでも、歴史的なまなざしの変化により大きな概念の変遷があったということである。
統合医療はそれ自体が大きな視点の変化を伴うものである。そうした中でも、統合主義的な視点でまとめたマトリックス医学という切り口は、より具体的な形で現代医療への新たな視点を提供しうるものであると確信する。個の内面から発する「プラグマティックメディスン」と合わせてご理解いただければ幸いである。(ケン・ウィルバーの四象限で表現すると「I」の視点がプラグマティックメディスンで、「It」の視点がマトリックス医学という分け方になる)
マトリックス医学への道(3)
これにより、ファシア重積など、マクロ的にボディワークによって解消される病態の原因が推測され、それは本ブログにおいては「Bファシア」と称してきました。一方、ミクロ的に、エネルギーワーク的な微細な介入によって改善される病態の基礎を「Eファシア」としました。つまり末梢循環における病態を示すファシア瘀血という概念は、このBファシアとEファシアの境界に位置し、双方の説明原理ともなるものだということが示されたわけです。
それではまず正常ファシアの解剖から始め、ファシアの病態へと進んでいきましょう。
Steccoらによるファシア関係の基本用語として、人体の水平関係をO-F単位、垂直関係を A-F配列が、4つの分節された腔に配置され、経絡との対置が行われる。この理解に加えて、線状の構造ではないファシアに、経絡のラインが当てはまる理由は、張力によるものである。
張力によってコラーゲン線維が引き伸ばされ、そのライン上を直流電流が走ることによって、情報の伝達がなされるわけである。
こうしてできた流れとしては、アナトミートレイン的な解釈が一番近く、とりわけ「経筋」の流れは、この典型と言える。またエネルギー療法的な視点から発展したものと推測されるのが「経別」であろうと考えられる。その後それらを総合する形でいわゆる「正経」が成立し、別ルートである「奇経」が認識されることになったのであろう。
いずれにせよ、体表から内臓に至るまで全身あらゆる部位と連続性をもつファシアであることが、こうした複数ルートとなりうる理由であろう。
またこうした鍼灸系統のルートとは別に、湯液系統のルートも想定しうる。これは、明かなルートとしては伝承されていないが、傷寒論の条文から帰納的に推測された江部経方医学における、UFO図とも呼ばれる気のルートがこれにあたるであろう。
このルートは隔を中心として、体内で発生した熱がどのように体外へと放出され、どのように体表を巡り、どこから内部へと環流されるかという流れで、ファシアを通じて伝播される熱のルートとしても解釈することができる。
またこれらの体表部における流れの層は三層構造になっており皮・肌・身として、表皮・真皮・皮下組織(筋肉)と対応していると考えられる。
こうした流れが慢性炎症によって生じた瘀血によって、ファシアの重積などの病態へと変化し、神経・血管を巻き込んで幾多の症状となって発現するわけである。
発現した病態像によって、ファシア瘀血をメインに、コンパートメント症候群的な状態である時には減圧を伴う「刺絡」が著効するし、一方では、血管や神経を巻き込んで絞扼、重積して物理的障害となっている場合は、生理的食塩水を局所注入する「ハイドロリリース」が著効することになる。
これらは局所的効果を発現するだけでなく、ファシアの該当部位からの連続体として、諸々の臓器にまで影響すると考えられる。絞扼された神経・血管が解放されることに加え、ファシアによるプレリンパの流れやコラーゲン線維の微量直流電流の改善がその機序として推測される。
これにより筋・骨格系のみならず、広く内臓全てに好影響を及ぼしうるし、本来の自発的治癒力の発揮へとつながる道筋となるであろう。がん治療においては、従来の免疫機序の賦活というストーリーにとどまらず、絞扼や圧縮といった物理的圧力からの開放や、電気的に良好な微小環境の形成を通じて、本来の治癒力発現へとつなげる道筋である。(がんは物理的圧力下において増大・転移しやすい)
ファシアの病態は以上のように、異常な局所の病態を改善して正常な「局所性」を取り戻し、それによって病的な連動を断つことで健全な「連動性」を復活させる、という2つの大きな改善を図ることができるのである。
またファシア内の電流のペースメーカーとして「脳波」が想定されているが、それに加えて「腸管」におけるペースメーカーも重要な役割を担うはずで、これには当然、腸内マイクロバイオ―タとのなダイナミックな関係性が大きく影響するはずである。
また腸管それ自体も、腸管膜根からフレアスカート状に大きな腸間膜が一塊として垂れ下がり、この構造と「丹田」との関連も強く示唆される。生体における解剖学的な位置を深く考察した肥田春充による「聖中心」も、このファシアによる考察を加えることで解明へとつながるのではないだろうか。
この辺りは非常に多くの可能性が秘められた議論が展開しうるであろう。いわゆる伝統医療・補完代替医療といわれる領域の統合的解釈における「ファシア」という概念の魅力は尽きることはなかろう。
マトリックス医学への道(2)
末梢循環のモデルとしては動脈が枝分かれして次第に毛細血管へ移行し、ガス交換の後に、静脈へと合流していく。そこではガス交換に限らず、栄養やホルモンといった物質の移動も行われ、組織外液は一部、盲端となっているリンパ管に吸収され静脈へと環流される。これが通常の解剖生理学における末梢循環の説明である。
しかし近年、この細胞外液のエリアにおいて、プレリンパと称される液体を内包する管が生体の直接観察により判明した。いわゆるコラーゲン線維に囲まれ内皮様の細胞の内側に、このプレリンパが存在する。つまり、ただ外液として存在しているのではなく、管様の構造物内を液体が通っていることになる。
またファシア内部にも液体が存在するから、毛細血管周辺には血管内の血液だけでなく、リンパ管のリンパ液、さらにはファシアの内包するプレリンパが大量に存在することになる。とりわけ、血管周辺にはファシアが多く存在するから、「瘀血」と言われるうっ血がある場合には、その周辺もまた液体がうっ滞していることになる。
こうした環境は、うっ滞がひどくなれば、毛細血管観察鏡では不明瞭な毛細血管像として観察される。また、毛細血管のうねりや湾曲などの変形像も、周辺の微細なコラーゲン線維の束により生じた引きつりと考えれば、後天的な変化として説明がつく。
では不明瞭にさせているものは何か。今度は光学顕微鏡や、暗視野顕微鏡にて観察可能な新鮮血で考える。ここでは病的状態として、赤血球の連銭形成がみられ、毛細血管通過困難な状況から血管像の消失(ゴースト血管)を生じたり、またフィブリン網が藻状構造物として観察されることから、それらが血管外で析出して血管不明瞭像を形成すると考えられる。これらはいわゆる従来の「瘀血」といった概念だけでは、明確な説明になっておらず、コラーゲン線維の集合体としてのファシアを念頭に置かないと説明しにくい。
これは実際の刺絡治療において、多くの瘀血が引かれることや、それらの粘性が極めて高いことなどの説明として不可欠である。つまり従来の瘀血は、その実態としては血管内部の停滞した血液に加え、血管外かつファシア内のプレリンパも大量に混在していることになる。
こうした末梢血液の環境により、「瘀血」が形成される可能性が高いので、むしろ血だけの問題ではなくファシアが大きく絡むことから「ファシア瘀血」と称することが妥当であると考える。
こうしてファシア瘀血という概念を導入することにより、慢性炎症などからファシア重積などのファシア病変へと連続する筋道が立ったことになる。この末梢循環の理解を基礎として、いよいよファシアの病態、さらには線維化へと解説を進めていくことにする。
2024年 新年あけましておめでとうございます!
昨年末は統合医療学会静岡大会でした。ジャングルカンファレンスや、基礎医学検定、統合医療総論の哲学などを発表し、新しいメンバーも参加してくれました。本年は、宇都宮大会です。また新たな発表に向けてスタートしたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします!
マトリックス医学への道(1)
まずはコラーゲンから。コラーゲンに限らずすべてのタンパク質の分子には、水分子が寄り添っている。つまり生体マトリックスを構成する分子にも、水分子が常に付随し、そこには当然ながら相互作用が認められる。
コラーゲン周辺の水分子に、ある一定のエネルギーが作用するとそこには、秩序が生じ、水分子がそろってスピンする。これが「コヒーレント」といわれる状態である。コヒーレントの状態は、エネルギーを放出することができ、そこで発生したエネルギーをフローリッヒ波と称する。そしてこれにより、比較的無秩序な基底状態へと戻る。が、再度エネルギーを吸収すれば、コヒーレントの状態へ復帰することが出来る。(この過程において組織特異的な振動数を特定し、生体へ放射すれば量子医学として説明されるQPAないしはAWGといった波動治療器の原理説明となる)
この時のコヒーレントな状態というのは、コラーゲンを含めた周辺環境において「健全」な状態にあると仮定される。(量子医学においてはエバネッセント光としてウイルス等から生体を防御していると推測している)こうした振動による状態の改善においては、波動治療器に限らず、ホメオパシーなど広義のエネルギー医学的方法においても説明可能である。
つまり簡単にまとめると、ホメオパシーや波動医学などエネルギー医学系統は、主にコラーゲン周辺の水分子の(局所的な)コヒーレント状態を目標にしていることになる。
裏を返せば、これを妨害するものが、疾患への道筋となり、この段階で直接的に影響するのが「電磁波」であろう。電磁波によりコヒーレントな状態が妨害されれば、コラーゲンを介する生体のエネルギー伝達システムが異常となり、ひいては免疫機序の低下につながることが容易に推測される。これへの対応策がいわばアーシングであろう。
健全なコラーゲンの周辺ではコヒーレントな状態に近いと考えられ、それにより成長・損傷修復・防御反応、さらには各組織・臓器の活動を調和させると推測できる。
反対に不協和な状態であれば、慢性炎症のもととなり、その結果である線維化まで進行しうる。特に急性炎症からの遷延化である「慢性炎症」においては、好中球増加などの環境下から、フリーラジカルの発生がしやすく、安定した分子から酸素を奪い「酸化」した、いわば不健康な酸化ストレス状態へと導きやすくなる。
コラーゲンの集積した結合組織においては、直流電流が全身に流れているとされ、その流れのペースメーカー的な役割が「脳波」であると考えられている。そしてここでさらに想像をたくましくするなら、自律神経たる腸管神経系を司る腸のペースメーカーも関与しているのかもしれない。それはおそらく腸内マイクロバイオ―タと密接に連携しながら、外胚葉由来の脳と、内胚葉由来の腸とで、主に中胚葉由来の結合組織、ファシアに影響を与えていると考えると理解しやすいのではないだろうか。
そしてここから、感情や記憶といったものの起源を、脳のみに起因させるのではなく、全身に分散したモデルで考えることも可能になるのではないだろうか。
まずは、ファシアを話題にする前に、その素材であるコラーゲンとその周囲の水分子の状態から、解きほぐしてみた。このメカニズム理解には、ホメオパシーなど広くエネルギー医学を理解するポイントや、アーシングや環境における電磁波対策、個々の住居の在り方、さらには地球規模におけるシューマン共鳴にまで応用しうるものであることを指摘しておく。
お城コラム 駿府城
岡崎城に引き続き、再掲載コラムシリーズは、徳川家康隠居の城、駿府城(41・静岡)です。100名城の押印は平成22年5月23日、東御門の券売所でした。駿府城に向けて歩いていると、山岡鉄舟が、勝海舟の命を受けて新政府軍と遭遇した場所を通過したのを覚えています。「鉄舟。ここでまにあったんあだなぁ」と思ったものでした。そして今年はここ静岡が統合医療学会会場。宿泊ホテルも駿府城付近に取りました(笑)
駿府城は、かつては六重七階の天守が聳えていたといわれ、現在も大きな巽櫓と東御門が復元され、その威容が偲ばれます。
高麗門と櫓門を合わせた枡形は、その絶対的な防衛力の高さから威圧感もハンパないです。中に入ると、現在は駿府城公園になっているので、のんびりとした広場が広がるのですが、かつてはこの中心部に六重の天守があったというのですから、相当な迫力だったのでしょう。(と、かつて書きましたが、現在ではかなり発掘作業が進行しており、見学ポイントも限られてきそうですね…)
家康としては相当の思い入れのある城郭で、今川の人質時代に12年間住んだ、心情的に複雑な土地でもあります。それゆえに自分が領有することになった際、この地に築城し、浜松から本拠を移しているわけです。
かつて人質だった身から、領主になって戻ったということを実感したかったのでしょうね。ドヤって感じです、共感できます。
しかし、秀吉の小田原平定後、江戸へ移されてしまいます。その後、秀忠に将軍職を譲り大御所となってから、再度、隠居城として天下普請での大改修を行って戻ります。
ここに戻ることで「故郷に錦を飾る」的な誇らしさがあったのでしょうね(見返してやったぜ、みたいな)。その後江戸幕府は、江戸と駿府の二元政治が布かれることになります。そして家康は、この駿府城で没します(本当にタイの天ぷらだったのでしょうか?、私個人としてはその前の大阪夏の陣後に槍で一突き説を信じていますので、ここで死んでるのは影武者、それゆえに死因は何でもよかったのではないでしょうか。家康が漢方フリークだったこととも矛盾しないですし)。
その後は3代将軍家光の因縁の弟、駿河大納言忠長が入城するも、家光により乱心の嫌疑をかけられ、秀忠没後、高崎に移送され、かの地で自刃に追い込まれます(高崎で飲んだ時はわざとこの墓所の寺前を通過したりします…なんとなく)。その後、天領となりますが、火災でほとんどの建造物が焼失、再建されませんでした。
時代は下って、幕末期には、江戸へ向かって進軍する新政府軍、西郷隆盛と会見すべく、山岡鉄舟が江戸からここで新政府軍と遭遇した地でもあります。歴史的に極めて重要な土地なわけです。勝海舟でないところがポイントです、やはり山岡鉄舟なのであります。
いよいよ大河ドラマも佳境です。家康、最初と最後のお城の紹介コラムでした。
医療における最適解と根拠の重要性 歴史小説を皮切りに
医療も少し似た事情があるかもしれません。いわゆる通常の医療しか念頭にない場合は「そんなことない!」と言われるかもしれませんが、いわゆる通常のケースであっても、50名以上の会社で義務づけられる産業医はこれに当てはまるでしょう。
さまざまな検査データがあったとしても、それに対する対応はいわゆるガイドラインそのものではありません。そもそも当人が何らかの症状で困っているというわけでもない場合がほとんどです。また反対に、データが正常だとしても、メンタルの問題やハラスメントなどは、そのまま放置というわけにもいきません。
個人という従業員と、会社との関係性を真っ先に考慮すべき立ち位置といえます。つまり双方における「最適解」を探るといってもよいでしょう。
こうしたポジションは、統合医療においても少し似たものがあります。通常診療における、ガイドラインなどいわゆる正解を唯一の真理として見ず、自然医療、代替医療の世界観、ないしは、現代医療への疑問等も内包しながら、その人の「最適解」を求める、というわけです。両者ともに「真理」ではなく「最適解」である点が共通です。
そしてそこには、両者の決定打となるような「根拠」も必要です。根拠というと即座に「エビデンス!」と反応されそうですが、いわゆる科学的エビデンスに限定する必要はありません。いろいろな意味での根拠です。この辺りは、今度の統合医療学会静岡大会で、京都大学の伊勢田先生が講演して下さる内容になりそうですが、決定には何らかの根拠が必要ということです。
産業医においては、会社の収益や社会的な役割などがその根拠となっていくでしょう。これに対して統合医療においてはどうでしょうか。私はこれこそが基礎医学的知識であると思うのです。それもガチガチの医学論文で固められた基礎医学ではなく、物理、化学などの一般的な科学知識も含めて、幅広く常識までも含めるような生物学的知識、とでもいえましょうか。当然そこには、物理的な知識も入るので、電子、光子、といった量子的なものや、水分子の挙動やコラーゲン線維の特徴なども含まれます。食品学的な知識も入るでしょう。
いわゆる「臨床的」と言われる知識より、基礎と言われるものの方がよりラディカルに、新分野を切り開けるということは、かつて糖質制限論争の真っただ中にいたころに強く感じたことでもあります。
臨床的とされる知識は、どうしても「その時」の趨勢に影響されます。科学史において、真理のありかを探求した結果、パラダイムという理論に至ったという経過に良くあらわされていると思います。つまり時代のパラダイムが変化する中で、真理とされるものも変更を余儀なくされるということなのです。
我々は常に何らかの「条件」のようなものから、自由であることはできないと言えるのかもしれません。それは「時」の流れのようなものに影響するでしょうし(時代による真理の変遷)、その「時」という物自体が、我々の身体での出来事、経験、体感といったものと無関係ではないのかもしれません。身体と「時」の問題はまた別の機会に譲って、本日はこの辺りで終わります。
お城コラム 岡崎城
そうした中でも、歴史的遺物に関しては、論外です。そこに間違いなく歴史は存在していたし、どのような物語であったとしても、そこを舞台として展開したことは間違いありません。こうした意味で、「城」というのは大きな意味を持つなあ、と改めて感じる次第です。
そこで今回紹介するのは、家康誕生の地、岡崎城(45・愛知)です。100名城押印は平成23年11月18日、学会で名古屋に行ったついでに、名鉄にのって足を延ばしました。
岡崎城は、三河守護代の西郷頼嗣により築城され、その後、松平氏の攻撃を受け支配下となり、松平清康により城郭整備が行われ、松平の本拠地となりました。
その後「守山崩れ」により、清康が暗殺、息子の広忠になるも権力は安定せず、松平の弱体化した時代に生誕したのが、竹千代、後の徳川家康です。
しかし父、広忠も暗殺され、竹千代は6歳で織田家、8歳で今川家に人質として出されてしまいます。これに伴い、岡崎城も今川から城代が入ることになります。しかし、桶狭間の戦いの後に、徳川家康は今川から独立、以後、岡崎城を拠点とします。
こうした苦難に満ちた家康の幼少期ですが、その後のサクセスストーリーから、この城には伝説が残されています。
本丸内の龍城神社に家康誕生の際、黄色の龍が現れたといわれます。龍は岡崎城創建の際も現れ、守護神となることを約束したというから、よく龍が出現する城です、それゆえに別名、龍ヶ城というわけです。神君家康公誕生の城であることから、後付けの伝説なのか、この地の松平の苦境から「伝説」の一つも作らないとやってられなかったのか、不明ですが、まあそういうことなのでしょう。
また城内には、家康の誕生にともなっての産湯の井戸や、胎盤を埋めた「えな塚」もあり、生誕した二の丸は誕生曲輪といわれるほどです。まあ現在では家康生誕一本、といったところでしょうか。
城全体としては少し立て込んだ、ごちゃっとした印象です。訪問時は内堀や青海掘りも、少しうっそうとした印象でした。(大河ドラマ効果で少し変わっているかもしれませんが)
しかしここの城代は江戸期においては、譜代大名の誉といわれ、いわば創業の地のような名誉な地だったことは間違いないのでしょう。近くには「三河武士のやかた」など見どころも豊富です。
真理ではなく、実践もしくは最適解である、ということ
そこで、自分の考える「統合医療」の実態に一番近い用語、概念を見つけようと考えたのが、かつて自書(『武術と医術』)の中でも公開した「プラグマティックメディスン」という概念です。
思いついた当初は、まだそれほど内容が固まっていたわけではないので、しばらく自分の中で醸造していましたが、徐々に形になってきたのでここらでまとめておこうと思います。
プラグマティックメディスンは本来、pragmatism supported medicine(プラグマティズムが支える医療)ともいえる概念ですが、長くなるので、とりあえず「プラグマティックメディスン」と称しておこうと思います。(これを本ブログ内で別角度から表現してきたのが、可能性のための医療や、こちらの医療、ということになります。少し意味合いが違うところもありますが…)
いずれにせよ、プラグマティズムという思想が支える医療で、これは合理主義に基づく論理実証主義が原則とする医療(EBMの概念もこちら)との相違は、そこに絶対的な真理なるものを想定するか否かの違いとなります。これはプラグマティズムという思想・哲学に由来するものともいえます。(どこかに「真実」があるかという点が最大の分水嶺となります)
プラグマティズムにおける真理の多元性が、ジェームスのいう「多元的宇宙」という世界観であり、これは当然、教条主義的な「真理一元論」とは大きく異なるものになります(ちなみにみせかけの多元である折衷主義は教条主義へと縮退するのですが、これもここだけでは分かりにくいですね)。
真理一元論は、我々の素朴な世界観そのものですから(真実は一つ!)、この辺りが一番誤解されそうな難所になります。
ここで、統合主義はどう解釈されるかというと、これは多元主義の要素内での融合の一形態と見ることができ、また別解釈としては多元主義的な状態そのものをも意味するといっても良いように思います(ウィルバーのインテグラル理論などはこちらに近いでしょう)。つまり統合という語は、人によってかなりの解釈の幅があることに気づかされます。
それでは「プラグマティックメディスン」としての要諦は何でしょうか。それはなにより「プラグマティズム」という思想なのですが、これがまたまた誤解の多い用語で、問題ありなのです。
そもそもプラグマティズムには、提唱者が事実上2人いるような状態で、かつその後の展開においてもかなり人によっての解釈が異なります。加えて、結果よければすべてよし、みたいな浅薄な解釈が広く流布されているので、さらに誤解は広がります。
そうした中で、ここではウィリアム・ジェームズのプラグマティズムの格率に基づくとしておきましょう。これにより世界観としては「多元的宇宙」が採用され、多元主義に基づいた展開になります。
しかしこれだけでは効能・効用主義的な側面だけが強調されかねないので、その補強的な観点も不可欠です。
それが近年、ケアの世界に新たな視点を与えたと言われる「中動態」の思想です。國分功一郎氏によって脚光を浴びた概念で、主に言語学的な考察から引き出されたものですが、それゆえに我々の「意志」や「責任」というものへの理解の根本を揺るがせるものでもあります。出来事の流れ・自然の勢い、というものの重要性というか、根源性をあらためて感じさせてくれるようにも思います。
個人的にはジェームズの言う根本的経験論や純粋経験といった概念との強い関連性も感じさせられます。これにより、いかにもな「エビデンス」のみならず、またいわゆる「意志」によらず、「選択」するという本来自然な出来事の肯定がなされることになります。
これは選択肢の決定が重要な意味を持つ統合医療分野において、決定的な意義を有することになると思います。統合医療臨床について考える際、とりわけ医師の立場においては、多元的な選択肢から選択が、その中核となるのはいうまでもないでしょう。それゆえに、プラグマティズムと中動態の思想が、中心となるわけです。これが、まさにこの医学体系の要諦です。(そしてそれは何を根拠にするべきかということが、最大の問題となるわけです)
大枠としてはここまでで良いのですが、私自身の具体的方策も示しておきましょう。(これはあくまでもプラグマティックメディスンとしての一展開例でこれこそがプラグマティズムという意味ではありませんので誤解無きように)
まずは中動態的な対話、大きな方針の模索という意味において、オープンダイアログ・ジャングルカンファレンスといった会話・対話の方策です。
続いて生体観としては通常の解剖生理はさることながら、それらの図と地の反転として、無意識を司りうるものとして、トランス、ファシア、腸内環境(脳腸相関)を挙げておきます。
ファシアは、さらには「皮膚」との関連も密接ですし、腸内環境は「栄養」とも大きな関連を持ちますので、これらも重要な要素となります。(ファシア・腸内細菌は最大の臓器でもあり、同様に皮膚・脂肪も最大臓器といえる)
また、ある種の無意識の取り扱いとしてトランスは重要です。意識領域より無意識ははるかに大きいもので、マインドフルネスをはじめ様々な技法も考慮されます。
その他にもいろいろな展開があるのでしょうが、現実の診療においてはこのようなところでしょうか。いずれにせよ、この医療体系は、換言すれば、現実(瞬間・実際)の身体の流れに従う医療、ということになります。つまり、プラグマティズムの要諦である現実の選択を、多元主義に基づいて、「意志」ではなく身体の流れによる「選択」に従う(これは無意識の領域といえるのではないだろうか)、ある種の「従病」とも言える医療の姿勢です。
こうした考えは、脳科学的に「自由意志」の存在が疑問視される中で、我々自身の生命を育む新たな思考体系の試みとして、一つの選択の根拠になると考えられます。
当然、この他にも多くの根拠がありうるわけで、いわゆる科学的データとしてのエビデンスのみならず、何らかの根拠によって、統合医療の選択が行われるべきである、ということの重要性は科学哲学者の伊勢田哲治教授も、先日、述べられておりました。
何をもって根拠として選択していくのか、という問題は、その方法論としての科学論のみならず、実践哲学としてのプラグマティズムからも考察していかなければいけない大きな問題です。これは日常診療における問題では、通常の診療医と、産業医の業務の違いなどにも生じる問題で、真実は何か、という問いではなく、その時の「最適解」は何か、という問いになるものであるということです。つまり、統合医療においても同様に求められるのは、唯一真理ではなく、時に応じて変化する「最適解」であるわけです。
こうした点が、産業医を最近学ぶ中で大きな気づきとなった点で、統合医療的視点は、すでに産業医的な視点の中にあったということを改めて発見した、というわけです。
瘀血から線維化現象への推定仮説
まずは、血管や血球の観察から知れる瘀血の病変について。赤血球の形態変化のしやすさ、連銭の形成状態、プラークの遊離、フィブリンネッツと思われる藻状構造体による血球の捕捉、これらがいわゆる粘性度をあげ、末梢の毛細血管における血流を妨げ、ときに血管外に漏出、もしくはファシアの空胞内部に充填され、瘀血・水滞、ファシア瘀血を形成する。
毛細血管観察像を不明瞭化させるこうした漏出物、おそらくはフィブリンネッツおよびグロブリン・マクロファージと思われる炎症性物質により、微小な線維化(線維の相互の架橋等)を形成すると考えられる。これらの集合により、時に線維化(症)へと発展する、もしくはファシアの重積といった形でエコー下で観察されることになる。これがファシアの病態となり、おそらくミクロには慢性炎症を惹起する物質を排出、慢性炎症の温床となると推測される。
こうした病変がいわゆる経絡学説の経別として内臓と接続し、炎症性物質が伝播、もしくは内臓の線維化からの逆伝播を生じ、体表観察を可能とする。この一部が、上層の皮膚に影響し、皮膚病変として認識されることもあるだろう。近年、デルマトロームとして関心を持たれているものの機序にあたると思われる。
これらの事象は、従来の臨床検査ないしは画像検査ではなかなか捉えにくいものであったが、補完的な検査が適するものと考えられる。つまり末梢における瘀血発生の母地として、毛細血管像・末梢新鮮血観察により概略を捉えることができるし、また微小なファシアレベルでの異常は、経絡現象の応用として良導絡など経絡測定器で推測できるし、脈診・背腹診といった伝統的診察法も応用可能である。また、より大きな重積に関してはエコーにてリアルタイムでの観察もでき、ハイドロリリースとして治療介入にもつながる。
当然、より大きな病変ないしは内臓での検索はMRIにて、全身レベルで行うことができ、さらに大きなエネルギーレベルでの偏りなどは、アーシングの対象にもなりうるし、バイオレゾナンスなどのエネルギー的な検索も可能になるだろう。
以上が、現段階における線維化(症)への流れの推測モデルである。
統合的研究テーマとしての「マトリックス医学」
内科系の学会の基礎的な話題をみていると、かつてはあまり興味を持って語られなかった「線維化」について多く議論されているようです。線維化において重要な細胞外マトリックスなどは、以前から話題になっていましたが、炎症の最終ステージとしての線維化現象が、従来、不可逆と思われていたのが可逆的だということが多くの興味を惹いているようです。
特に、外野からでも面白そうなのは、腸内細菌との関連、さらには血管内皮との関連です。また免疫細胞との関係では、マクロファージのみならず、好酸球・好塩基球も大きな役割を有し、臓器横断的に新たな展開が期待できそうです。ただこうした基礎的な研究方法のみに限定すると、それだけになってしまいますが、このテーマはそれ以上に広がりを持ちそうな分野でもあります。
ここでもたびたび話題に挙げている「ファシア」が、その一つ。広い意味でのコラーゲン線維という共通点もさることながら、ファシアに生じる病態を臓器レベルに展開するときに、線維化の視点はとても重要な気がします。
また、科学論的に見ても、やや代替医療的な視点を有する「ファシア」に対し、基礎医学的な概念である線維化は、両者の橋渡し的な役割にもなりそうです。
この辺りの議論はここでも、ファシア瘀血学、そしてファシア学として解説してきましたが、いわゆる整形内科的な疾患の縛りを超えて、より大きな議論に接続できる可能性を感じます。瘀血の概念からの分析としては、毛細血管像の観察や、その中身としての血液像の観察において、「瘀血」概念を形成する構造物が見つかっており、これらと線維化との関連は、直に生体との接続を可能にするものである気がしています。今のところこの辺りの詳細は、少しぼかさざるを得ないのですが、いずれにせよ基礎的なレベルでの医療の「統合」を可能にする研究領域と言えるでしょう。
科学哲学的な視点で考えると、近年、こうした大きな意味での「統合」傾向が、意識するとしないにかかわらず進行しているように感じます。個々の研究者は、自らの領域の科学的な整合性を強調していくでしょうが、俯瞰した時に、それらの思惑とは違った大きな潮流のようなものを感じざるを得ません。統合医療の概念的な問題(総論構築問題も含む)に関心を持ちながら、ジャングルカンファレンスやオープンダイアローグといった組織体の在り方に興味を持つのも、また同時にファシアや末梢循環環境の研究に惹かれるのも、みな同根といったことなのです。
これまでざっくりとした雰囲気でしか、捉えてこなかった複数の概念の関係が、ここにきて次第に言語化できるようになってきました。おおきな統合の動きを、基礎的な考察においても展開していきたいものです。
こうした考えから、線維化についてもトピックスとして記述しながら考えていこうかと思ったのですが、それよりも大きな概念でまとめたほうがよさそうに思えてきました。そこで考えたのが「マトリックス医学」という概念。かつて縮退現象について考えたていたときに、同様の名前を思いついたのですが、縮退関連ですと「行列」としての意味合いしかなくなるので、今回とは異なります。それを含んだ、より大きな概念とでもいえましょうか。つまり細胞外マトリックスを基礎とした、広く生体の基質全体を視野に入れる医療の考えとでもいえましょうか。実質臓器との関連で言えば、まさに正統と代替の統合、そのものを体現する概念にもなりそうです。
何言っているかわからん、と思った方、ご安心ください。今後、少しずつこの概念の例や解説をしていきたいと思います。今日のところはメモですので…。
統合医療学会静岡大会 12月16日17日開催です!
第27回 日本統合医療学会学術大会 12月16日・17日開催(静岡県・グランシップ)
今回は、現在まだ準備中なのですが3つのワークショップやシンポジウムに関わっております。
1日目午前としては「基礎医学検定」開催に先立ってのパイロットテストの意見交換会。ここでは基礎医学の重要性と、その学習方法について参加者の皆様と意見交換をするとともに、今後開催予定の検定試験のありかたを考えていきたいと思います。午後は、統合医療カンファレンスです。テーマは食と健康長寿としますが、ひろくカンファレンス開催の意義のようなものにまで言及していく予定です。
2日目は、科学哲学の伊勢田哲治教授によるメイン講義を柱とした、統合医療総論構築に関するシンポジウムです。
これらの準備などで、こちらのブログが最近、お留守になっていますが、ご了承ください。是非とも一人でも多くの方に静岡大会して頂きたいと思います。学会会場でお待ちしております(^-^;
三木解剖学「実施系」の復習 (講義参考用)
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運動系は、骨格系と筋肉系に大別される。このうち骨格系は脳脊髄を保護する脳頭蓋と脊柱からなる。そこから四肢に続く骨は、脊柱に続く部分(上肢帯・下肢帯)と、その先の部分(上腕骨・前腕骨・手骨、大腿骨・下腿骨・足骨)に分かれる。
動物の上陸により、推進運動の役割を胴体の筋肉から、2対のくびれから生じる手足にゆずり、それらが胴体を持ち上げるようになる。こうしてできた上肢の筋肉は、胴体全面から起こるのに対して、下肢の筋肉は骨盤からしか起こらないのが特徴である。
二対のくびれから生じた四肢は、二足歩行により上下、つまり手足になる。ここで、二足歩行になったにもかかわらず、当初の設計図はそのままで進化を続行する。(これまでの情報にはとらわれず「今」の情報に基づいて、進化が続行される。これがマルコフ連鎖で、進化には欠かせない視点)
脊髄神経後枝の支配をうける背側筋群は、骨盤から頭蓋まで一気に走行する。これに対し前枝の支配である腹側筋群は、首・胸・腹・骨盤においてその姿を変える。つまり、顔、口、喉の筋肉は「鰓」の機能を転換した植物性機能の筋肉となり、胸壁の筋は酸素を取り込む呼吸運動を行い、腹壁の筋は腹圧を作って排出運動を担うことになる。
またしっぽの退化とともに骨盤底に移動し、骨盤内臓を下支えする骨盤隔膜を形成する。また頭頸部の筋肉は眼球を動かす筋肉、舌を動かす筋肉、首を動かす筋肉となりその下端が胸の底まで下がり、「横隔膜」を形成する。
上肢と下肢は上陸に伴い「ひれ」から発達したものである。上肢の主要な筋をその機能から見ていく。様々な表現を可能にする運動ができる構造になっている。(機能によるまとめは『美術解剖学ノート』を参照)
ちなみに上肢と下肢を相対させながら理解すると分かり易い(ワニのように四足になった感じで相対させると良い)
肘を膝と考え、尺骨を脛骨として比較すると・・・
三角筋 ⇔ 大殿筋・大腿筋膜張筋
上腕三頭筋 ⇔ 大腿四頭筋
上腕二頭筋 ⇔ 大腿二頭筋
総指伸筋 ⇔ 長趾伸筋
尺側・橈側手根屈筋・浅指屈筋 ⇔ 腓腹筋・ヒラメ筋
それでは、四肢の筋肉全体を概観してみよう。
腕全体を引き上げる筋肉(三角筋・烏口腕筋)
腕全体を曲げる筋肉(上腕筋・上腕二頭筋・腕橈骨筋)
腕全体を広げる筋肉(上腕三頭筋)
腕全体を回転させる筋肉(棘上筋・棘下筋・小円筋・大円筋・肩甲下筋)
特に前腕部の筋肉は覚えにくいので、機能と併せて触りながら覚えると覚えやすい。前腕を回旋させ、手首を曲げる、そらせる。曲げる(屈筋)のは内側上顆から、反らす(伸筋)は、外側上顆から起始する。
手指を曲げる、伸ばす(広げる)。手指を曲げるのは前腕骨の屈側、広げるのは、伸側となる。とくに親指とそれ以外の指に分けて考えると覚えやすい。
前腕を回旋させる筋肉(円回内筋・方形回内筋・回外筋)
・・・
(屈筋)内側上顆から
指を曲げる筋肉(深指屈筋・長母指屈筋・浅指屈筋)
手首を曲げる筋肉(尺側手根屈筋・長掌筋・橈側手根屈筋)
・・・
(伸筋)外側上顆から
親指以外の指を広げる筋肉(総指伸筋・小指伸筋・示指伸筋)・親指を広げる筋肉(長母指伸筋・短母指伸筋・長拇指外転筋)
手首をそらせる筋肉(長橈側手根伸筋・短橈側手根伸筋・尺側手根伸筋)
まとめると
「手」の屈筋は内側、伸筋は外側から起始する。
それでは、次は脚を動きと絡めて概観する。
脚全体を内転させる筋肉(内転筋群:大内転筋・薄筋・短内転筋・長内転筋・恥骨筋)
脚全体を広げる(蹴り上げる)筋肉(大腿四頭筋)
あぐらをかくための筋肉(縫工筋)
脚を外側に持ち上げる(直立を維持する)筋肉(大腿筋膜張筋・大殿筋)
脚全体を曲げる筋肉(ハムストリング:大腿二頭筋・半膜様筋・半腱様筋)
かかとを引き上げる筋肉(下腿三頭筋)
足の甲や指を引き上げる筋肉(前脛骨筋・腓骨筋群・趾伸筋群:長拇趾伸筋・長趾伸筋)
趾を曲げる(長拇趾屈筋・長趾屈筋・後脛骨筋)
まとめると
趾伸筋は「足の甲」を通り、趾屈筋は「内顆」をくぐる
三木解剖学におけるファシアの位置づけ
植物機能として、消化系と呼吸系を合わせた形で「吸収系」があり、泌尿・生殖器系が「排泄系」、そして両者を媒介しているのが血液・循環器系として「循環系」となっています。
動物機能は、皮膚・感覚器の「感覚系」、実際の運動を実施する「実施系」、両者を遠心性・求心性神経で仲介し、その折り返しにて中枢神経として情報処理を行う「伝達系」となります。
両機能において循環系と伝達系が、媒介として働くわけですが、この両機能とも内包し、さらに大きく取り込んで媒介機能を果たすのが、「ファシア系」となります。いわばすべての梱包材的な位置であり、マトリックスといってもよい役割です。
その機能としては、線維として物理的伝達を担うのはもちろんのこと、循環系的に、ファシア空胞内の液体を介する伝達、加えて、神経伝達的にコラーゲン線維におけるビアゾ電流としての直流電流、の2つの側面も併せ持つことになります。植物、動物のさらに基礎としての機能といっても良いでしょう。
今回の解剖生理の講義では、まずは通常の教科書をベースに講義せざるを得ないので、その順序で話していきますが、毎回最後の方で少しずつ、こうした最近の見解も紹介していこうと考えています。
ファシアについての知識は、何より、セラピストにとって即戦力につながる実践的な側面が強いので、すべて理解できなくても、いつかは必ず得をする知識でもあるからです。機会があればここでも紹介していきますが、過去記事を追って頂いても、概略はつかめるかと思いますので、関心のある方はどうぞ!(^^)/
統合医療学会 静岡大会まであと2ヶ月です!
我々JIMCから今年は、2演題の発表です。ジャングルカンファレンスの開催形態も大きく変更しましたので、少し演題は少ないですが、来年には以前のような数で臨もうと思います。
本年は、私としては3つのシンポジウムに関係しており、例年通り、統合医療カンファレンスも開催予定です。ジャングルカンファレンスを基にして、統合医療における連携の在り方を、カンファレンスを通して実現化していく実践的なものを予定しておりますので、是非ともご参加ください。実際のカンファレンス開催のコツやキモもお話したいと思います。
加えて、本年11月に、学会の認定制度委員会主催で、基礎医学の実力判定、もしくは日々の学習のメルクマールとなる「基礎医学検定」を開催します。本年はパイロットテストですが、その報告と次回への意見交換会を企画しました。多彩な分野が集う統合医療において、共通言語となる基礎医学の重要性は言うまでもありません。その学習の目標となるような検定試験にしたいと考えております。
3つ目は純粋に学問的なシンポジウムです。統合医療というものは各自がそれぞれのイメージで、それぞれの領域を扱ってきましたが、全体として、一体何なのか、という「そもそも論」を議論していく「シンポジウム:統合医療学総論の構築」を企画しました。
エビデンスがあるということ、ないということ、その根本から、京都大学の哲学教授である、伊勢田哲治先生にご講演頂きます。エビデンスの強い治療法だけが統合医療だ、とか、スピリチュアルセラピーこそが統合医療だ、とか、色々な考えがあると思いますが、ここで改めて、科学哲学など周辺学問を考慮しながら、統合医療とは何かを再考するシンポジウムにしたいと考えております。「そもそも論」に興味ある方、是非ともご参加ください!
諸理論による身体の循環的イメージ
これまでのいろいろな身体へのまなざしの整理、というか総括的に一巡りしてみました。良くも悪くも学際的です(笑)
1.万能の受容器としての皮膚を起点
2.感覚神経の分布としてのデルマトーム、さらには交感神経分布としてのもう一つのデルマトーム
3.交感神経幹を通しての内臓への分布(いわゆる交感神経分布図)
4.もう一つのデルマトームに広がる皮膚交感神経の分布は、皮膚およびその下層のファシアにおける電子の状態を反映し、通電量を変化させる(良導絡における抵抗の変化)
5.この電子の分布状態の連続が、ピエゾ電流を基礎とする身体構造上の良導絡であるファシアの連絡となり、アナトミートレインもしくは経絡一般を形成する
6.経絡はいわゆる12正経のみならず、奇経(立位における別流)、マイオファシアによる経筋、そして臓腑との連携を成す経別等を形成し、内外の連絡路を形成する
7.内部臓器への影響としては、いわゆる西洋医学的解剖生理の基礎(オステオパシー的影響も含む)を形成するのみならず、内経的ないしは経方的内臓知識(いわゆるUFO図)へも接続
8.隔を中心としたUFO図は、当然、横隔膜を中心とした体幹部ファシアと連合し、そこからの体温も伝播させる。これがアトピー治療における寒熱の調整基盤となる。皮膚・ファシアにける熱伝導
9.ファシアを介する伝導とは別に、ATP生成の基礎となる栄養の伝播ルートである血管系は心・心包を中心に循環し、広範囲な末梢循環系の基礎となる
10.末梢循環系は、毛細血管像(CVO)の直接観察による周辺を含む外面からの視点と、新鮮血観察(FBO)による血管内容物(主に血球)からの内部の視点によって推測可能
11.腹部臓器の伝統的視点としての「ハラ」は、マイクロバイオ―タの議論を展開しながら脳腸相関の基礎を形成する。プロバイオ・プレバイオ・ポストバイオや食物酵素と関連しながら、全身、とりわけ血液状態に大きく影響する。そしてこれが脳、さらには精神状態へとつながる。
12.胸腹といった体幹と頭部との関連は、チャクラの関係にも展開できる。さらには小周天・大周天といった循環とも関連し、環境との相関関係を形成する。マイナスイオン分布やアーシング効果に見て取ることができる(ガイア的思想への展開)
13.大きな環境から、電子や分子の状態への影響(天人相関説の別解釈)を考慮することでホメオパシーや量子医学的解釈が可能になる(エーテル学説への接近も可能となる)
内⇔外、近⇔遠、小⇔大、といった両極に振れながら、一巡りしてみました。
10月のジャングルカフェご案内 テーマは「疑似科学」
静岡大会での、統合医療概論のシンポジウムで伊勢田哲治先生に「疑似科学と科学の哲学」をご講演頂く予定ですので、その予習として、今回のカフェから2回にわたって「疑似科学と科学の哲学」を読んでみたいと思います。
今回は、代替医療を題材とした第4章を中心に読んでみたいと思います。そして直前の12月のカフェにて通しで残りを読了する予定です。今回は医学概論に造詣の深い統合医療学会理事の小野先生にもご参加頂き、本書のコメントや対話に参加していただこうと思います。
カフェでは久しぶりの「代替医療」を前面に扱った内容になります。科学哲学、科学史などに関心のある方、是非ともお気軽にご参加ください。
なお、ジャングルカフェの参加方法は、ジャングルカンファレンスと同様ですので、HPをご確認下さい!
『科学を語るとはどういうことか』読後メモ
対談本で「けんか腰」の姿勢が見られることはほとんどありませんが、この本はまさにそれ。かつての「朝まで生テレビ」を彷彿とする言い合いです。(分からず屋に対してキレかかるところはなかなか通常の本ではお目にかかれません)
巻末の方で、伊勢田氏が書かれているように、読者の反応も真っ二つに分かれるようで、「科学」というものへの姿勢の違いが如実に現れます。(と、解説されますが私個人としては、須藤氏が理解してなさすぎ。物理学の権威者としての威圧を随所に感じます)
私自身は、伊勢田氏の見解に大賛成なので、須藤氏の反論は言いがかりにしか聞こえず、頭が固いにもほどがある、という感想を終止感じました。よくもここまでの「分からず屋」に、伊勢田氏は粘り強く、丁寧に説明できるものかと感心しどおしです。「科学」という概念を確立したものとして固定的にとらえるか、ある種の歴史的産物として軟らかくとらえるか、が両者の大きな相違点と言えるかもしれません。
科学哲学・科学史的な書籍を読んでいた大学時代、ガチガチの古典物理的な同級生に「非科学的だ」と非難されたときの不快感が、30年以上の時を経て(笑)蘇ってくるようでした。こうしたことから、読了までに疲労感を強く感じたのかもしれません。また「科学」という語のもつある種の巨大な権威も、あらためて再確認できました。
そもそも著者の一人の伊勢田先生(ここからは敬称変更します)は、今年の統合医療学会(静岡大会)に講師として招聘する先生でもあるので、『疑似科学と科学の哲学』などを読み直していた際に、アマゾンで見つけたのが本書でした。初版は2013年なので、決して新しい書籍ではないのですが、全く時間の経過を感じさせない内容で、改訂版巻末には2021年の再対談も増補されており、こちらも本文と時間差を感じない後日談といった雰囲気でした。
私が伊勢田先生のご著書に関心を持つ理由は、先生の科学哲学への姿勢が、私にとっての統合医療への姿勢に重なって見えることです。本書の出版後、須藤氏との対談で触発され、科学哲学史の再検討に入るといったこだわり(当然私はここまでのレベルではございませんが…)や、科学哲学界自体にまとまりがないというコトを率直に認めるところなど、大いに共感しました。これは当然、統合医療の学問的曖昧さ、様々な立場の林立、そして抜本的再検討の必要性、などと重なって見えてくるわけです。
また疑似科学という問題に真正面から取り組むには、伊勢田先生の著作は避けては通れないものでもあります。伊勢田先生の招聘に関しても、統合医療=代替医療派からは、大いに反対が予想され、ここでの対談の「医療版」が静岡でも展開する可能性もあるわけです。(良いか悪いかは全く分かりません)いずれにせよ、そうした問題に対応できるアタマの状態に持っていくには絶好の対談本でした。
また後日、別角度からも本書の内容は取り上げてみたいと思います。最近は産業医の講習会に、バタバタとあちこち参加しているので、久々のブログ記事になりました。これもふくめて、統合医療の解釈が根本的に拡大していきそうですので、ぼちぼちそんなことも書いていこうかと考えております。
お城コラム 松山城 再掲載
江戸末期に再建された現存天守、松山城(81・愛媛)で、最初の訪問は、平成22年12月10日、湯築城の翌日に訪問しました。
現在でも現存と復元あわせて50基の建造物が建つ迫力満点の城です。さらに重要文化財も姫路城に次ぐ21棟もあります。
加えて充実の山麓部の二の丸御殿もあり、見どころ満載です。城下町には、道後温泉、路面電車、正岡子規博物館や「坂の上の雲」関連施設などなど、城だけにとどまらない再訪したい街です。
築城者は、賤ヶ岳の七本槍のひとり加藤嘉明です。湯築城の前衛基地であった勝山にあらたに築城し、このときに「松山」と改称しました。
しかし加藤嘉明はその後、会津への国替えとなったため城の完成を見ることはなかったといいます。ここに代わって入城したのが、蒲生氏郷の孫、蒲生忠知です。会津ゆかりの蒲生家が会津国替え後の松山に入ったわけです。交換したみたいですね。
ただこの忠知も、二の丸を完成させたものの病没し、蒲生家は断絶します。そして親藩である松平が入り明治に至ります。いいところはいつも松平がとっていくようです。
ここの天守は、加藤嘉明が五重天守を完成させたのですが、その後、三重に改修され、それも落雷により焼失。しばらくは(60年以上)天守無しだったのですが、幕末になり復興され現在の天守となっています。
現存天守は幕末期の復興ですが、当時も築城当初の文献に基づいて建造されたようで、建て方も古風なものとなっているようです。
また昭和になってから多くの櫓などが復興され、現存建築と合わさり往時の迫力が伝わります。居住空間とされる二の丸御殿は、それ自体で一つの城といった感じで、山上の本丸とが登石垣(松山城見どころの一つ!)でつながる様は圧巻です。二つの城、といった感じでしょうか。
また姫路城同様に仕掛けの多い城で、防御施設としての強固さにこだわった造りとなっています。門をくぐるたびにUターンさせたり、あえて戸無しの門にして敵を誘導したり、また隠門から敵の背後を狙ったり、と仕掛け満載です。近世城郭の完成期の見事な仕掛けの数々です。
こうしたところを、解説してもらいながら見ると、城の面白さが初心者に分かり易いでしょうね。テレビなどでもよく取り上げられるネタではあります。
城の知識が増えてきたところで、是非とも再訪したいお城です。(ということで、今回の再訪問、となりました)
産業医の業務というのは、似ているようで臨床医とは大きく異なります。これは統合医療が通常の医療と距離がある様子と極めて似ている状況で、この両者の関係は非常に近しいものであると確信しております。この辺りの話題は、また日を改めて書いてみたいと思います。
今年の統合医療学会は静岡です!
1つ目は「基礎医学検定」に関するワークショップ。検定自体は2024開催を目指していますが、本年、11月にそのためのパイロットテストを予定しています。何問を、どのくらいの時間で解くのか、皆様のご希望を伺うワークショップとなりそうです。
2つ目は、統合医療カンファレンス。本大会でのテーマは「食と統合医療」です。カンファレンスの内容もそうなのですが、どのようにカンファレンスを進行するのか、といった具体的なところもお話できれば、と考えております。
3つ目は、統合医療総論の構築のためのシンポジウムです。基調講演として、疑似科学との線引き問題という大きなテーマを京大の伊勢田教授にご講演をお願いしました。学会内部でもとくに関心の薄い領域で、かつ誤解も受けやすいテーマです。やりがいと不安の半々の状況です。(^_^;)
いずれも、一般の方の興味を持ちにくいところばかりなので恐縮なのですが、関心のある方はどうぞ!大会自体もオンラインを脱し、4年ぶりやっとの対面開催です。
ガレノスの自然力 主軸を縮退させる強み
そんなこんなで、以前のガレノスについての記事のメモ的な再録です。ご興味ある方はどうぞ!
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いま、私たちが見ている現代医療的な「身体像」は、唯一の正しいものというわけではないでしょう。この人類と少し異なった別の人類があったとしたら、すこし異なる科学体系を形成していたかもしれませんし、そこから生まれた医学もまた様相を異にしたものとなっていたでしょう。
別な人類を想定しないまでも、文明の異なりによる伝統医学の相違をみれば、異なる体系の創出はむしろ自然なこととも言えます。
ヒポクラテスによって形成された医学が、ガレノスによって発展・整理され、ひとまずの完成となり、体系化された古典医学が、ルネッサンスを経由して科学的な「医学」に変貌する、というのが通常の医学史の概略になります。(このあたりは世界史をどのように解釈するかといった問題も含まれるので非常に興味深い領域です)
こうした解釈では古いものの代表のような扱われ方となりますが、果たしてそうなのだろうか、という疑問と共に原典を読んでいくと、そうした風景とはまた違った景色が広がります。
ガレノス『自然の機能について』を読んで感じるのは、ガレノスの理屈っぽさというより議論の強さです。
次々に敵対する学派を、容赦なく論破していきます。詳細な論点は、つかめていないのですが、ヒポクラテスの記載を読み込み、それを目的論的に体系化し、敵対する学派の矛盾を突くといった感じです。
いわば原典であるヒポクラテスの記述を、詳細に読み込んだ上に体系化しているといった感じ。ここに一つの「自然力」という概念を用いて、一大医学体系の基盤としているのです。
つまり他の学派はこうした基盤となる「力」を想定しない代わりに、血液過多病因論を形成する「空虚再充填説」や、体液を微細化された粒子でその流れの途絶などが病因を形成する「微細分化説」などにより、現実の医療行為の説明とします。それに対してガレノスは目的論的な「自然力」により自説の正当性を主張していくのが『自然の機能について』の内容です。
一読して感じるのは、説明原理としては「ホメオスターシス」などの現代医学における説明原理としてもあまり違和感がない、というよりは根底においては、議論展開を好む医学者の論理そのもののようにも感じます。
印象的には、現代の病態生理学的な説明に極めて近い印象です。現代医学の「おり」のようにべったりと、その「底」にガレノスの影響が残っているのかもしれません。
このガレノスの体系は、こののちにイスラム医学を経由して、現代の欧州の医学体系の基礎を形成するわけですから、さもありなんといったところでしょうか。
また、ガレノスに敵対するアスクレピアデス学派や方法学派の医学思想については、二宮陸雄先生は、中国医学思想に近いと指摘しているのも興味深いです。
つまりガレノスの勃興により、これらの伝統医学的な様相が異なってくる一因にもなったかもしれないわけです。
いずれにせよガレノスの「自然力」「自然生命力」といった概念は、かなり根深く私たちに根付くとともに、改めてこの思考法を研ぎ澄ますことが、日々の診療の新展開につながるように感じました。ヒポクラテスとの関連から、よりガレノスの独自性が見えてくるのかもしれません。この強い思想をもう少し見ていきたいと思います。
ちなみにガレノスへの興味はこれにとどまらず、当院での実際の診療の形態にも類似点を見ることができます。具体的には、ガレノスは疾患への対応として、栄養の補給に加えて、瀉血を重要視した点が挙げられます。
静脈からの大量の瀉血に限らず、ソフトなものまでいろいろなバージョンがあったようで、自然生命力の発揮を目的に、栄養と瀉血を組み合わせていたというのは驚きでした。まさに現代医療の中で当院は、ガレノス医学を知らないうちに実践していたということになりますね。これに関してはファシアとその栄養という観点でも整理できそうです。
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今年の統合医療学会は静岡での開催です。いま、大会での講演抄録を書いているところなのですが、今年は3演題の予定です。一つ目は「基礎医学検定」に関するワークショップ。検定自体は2024開催を目指していますが、本年、11月にそのためのパイロットテストを予定しています。2つ目は、統合医療カンファレンス。本大会でのテーマは「食と統合医療」です。3つ目は、統合医療総論の構築のためのシンポジウムです。
一般の方の興味を持ちにくいところばかりなので恐縮なのですが、関心のある方はどうぞ!
今週はジャングルカフェです! 四象限のメモを載せておきます
ウィルバーの四象限について、臨床的な事柄とあわせて振り返ります。メモ的なものですので、わけわからない方はスルーしてくださいませ!
第一象限:これはいわゆる「客観」の視点、「It」と称されるものです。いわゆる客観的・科学的に記載されるものです。ここでは生理学的な新知見として、ファシア、自律神経、免疫、内分泌などをあげておきます。詳細としては有髄迷走神経(腹側迷走神経)もここの分類です。これらは全ていわゆる客観的な事項なので「外部」。「内部」としては、認知心理学的な用語が当てはまります。安保理論を刷新しうる新しい自律神経・免疫・内分泌学や、経絡理論を発展させるファシア学などは視点としては全てここの分類としてよいでしょう。
第二象限:これは「私」という一人称に関するもので、自分の中で展開される精神や無意識など主観的な領域といえます。哲学的な分類でいうと、「内部」は自らの内側から湧き上がるものですから実存主義、「外部」はそうした湧き上がるものを規定している構造ですので構造主義といったところでしょうか。また幅広くNBM的領域とすることもできます(厳密には「内部」になるでしょう)。発展的に考えると、第一第四と第二第三との対立をEBMとNBMとの関連として捉えることも可能です。
第三象限:これは「私たち」で、二人称・三人称の主観的な視点です。ダイアローグにおいて展開されるものが代表的でしょう。とりわけオープンダイアローグやジャングルカンファレンスにおいて、各人の内面に去来するものが「内部」です。そして、そうした対話の「場」を構造的に規定しているものが「外部」となります。会話の場を成り立たせている雰囲気やルールのようなものでしょうか。総じて、一人称の時には思ってもみなかったものが「やってくる」場、とも言えます。対人の関係性の中から、「個」を超越して創出されると表現してもいいかもしれません。ある種のスピリチュアルな療法(ホメオパシーやフラワーエッセンスなど)の妙味もここに関連すると考えています。(この療法には事実と価値の分離の問題が絡んでいるのではないでしょうか)
第四象限:社会における関係性の客観的記載、社会システムみたいなところです。ここは普通に考えると「外部」が想定しやすいので、それのみのようにも感じますが、理論的にはというか原理的に考えると、ここでも「内部」というものを考えることが出来ます。この象限自体が、ベイトソンが問題意識を持ったサイバネティクスが適合します。最近の潮流として、サイバネティクスの内面から記載という視点も注目されており、これが「ネオサイバネティクス」と称される分野だそうです。ここでは、撃たれたミサイルを迎撃しようとする戦闘機のパイロットの内面における試行錯誤、のようなものを想定しているようです。いずれにせよサイバネティクス的な視点は「統合医療」という複眼的なものを扱うにあたってはとても重要な概念になりうるでしょう。ヒト・モノ・コトの関連として特にホメオパシー的な視点にも応用できるのではないかと考えています。
加えて、第四象限での社会システムは当然、第三象限の間主観性と共に、社会系神経(第一象限的概念である有髄迷走神経)の影響を介して、第二象限(とりわけ構造主義)として一巡し帰還することになるわけです。こうして全部の象限がつながることになります。つまり、止揚されないこうした「つながり」こそが、ウィルバーのいうインテグラル(統合)ということなのでしょう。
こういうつながりは日本語の感覚だと「統合」というよりは「多元」という語感に近いのでしょうが、外国文献はこの辺りは「統合」的な解釈をしているように思います。
今週木曜日はジャングルカフェです。今回は堤美香のショックドクトリンを読んでいきます。マイナ保険証の問題がニュースを騒がせていますが、まさに時期的にはぴったりの書籍選択となりました。
ダイアローグ、ファシア、コヒーレンス そして多分ホロン
よく使う初めの二つ、ファシアもダイアローグも、そこには物理用語の「コヒーレント」が重要概念となってくるので、相互に関連しており、並列した概念ではないのですが、まあいいでしょう。これらを使って当院での診療内容や、いわゆる量子医学との関連性を考えてみます。
思考とダイアローグについて、すこし再考してみたいと思います。物理学者ボームは思考のクセのようなところを指摘し(彼は思考の明白な問題点は「断片化」にあるといいます)、それを自覚することの重要性を述べます。また、あらゆる問題はすべて思考の中で起こるとも述べています。まあたしかに言われてみればそうでしょう。
そして、こうした思考のクセのようなものを自覚する方法が「ダイアローグ」にあるというのです。そこからは「洞察」も得ることができると述べています。この洞察により、自らの思考を自覚し、そのインコヒーレントな点を超越して「コヒーレント」な状態に至ることができるというわけです。より調和した状況になるということでしょうか。
一人だけでは容易に到達できない状態に、集合体となることで可能になるということです。つまり、興味深い挙動の発現(物理的にも社会的にも)もこれを基盤として発動してくるのです。このあたりは栗本慎一郎のいう「生命」の意味論にも通じるところで、社会それ自体の生命としての機能、として捉えるべきことなのかもしれません。(またケストラーのヤヌスとしてのホロン概念も統合の立場から念頭に置くべきことを指摘しておきましょう)
少し違った観点ですが、このようなことはいわゆるエネルギー医学の領域においても、かつてから指摘されていました。
一例として、ラグビーやサッカーのような集団競技の試合中に負傷者が出た場合のケースが、あるエネルギー系医療の解説書に紹介されていました。その際、応急処置がとられるのは言うまでもありませんが、それと同時にチームのメンバーが集結して、その負傷者に対して祈りを行うことで、状況の好転や回復の早まりが起こるという解説がありました。さらにその後、試合続行時においてもメンバー間の意思疎通が良好になるという「付加的」な事態も生じるらしいのです。それこそ、このチームという集団が「コヒーレント」な理想的調和の状況になっているということだと思います。
我々の経験でも、ジャングルカンファレンスや、相談者を含めたジャングルカフェといった状況においてあてはまる経験があります。(この辺りの感覚が、経験者と説明を聞いただけの人との大きな隔たりとなります。つまり実体験の有無が大きいわけです)
つまり集団が、「首尾一貫した良好な状態」になっているとき(まさにレーザー光線のような状態にあるとき)、それは「コヒーレント」な状態であるといえます。これは社会的な集団のみのことではなく、我々の身体における細胞・組織の集団においても適応できます。つまり一個の身体としてもコヒーレントな状態となりうるのです。
こうしたすべてのシステムに超越したものとして、血管、神経を凌駕して想定されている物質的な基礎が「ファシア」といえます。
進化論的にも、他の組織に比べて出現が早いことは言うまでもありません(広義には細胞外マトリックスも含まれるいわけですから)
これはエネルギー系の書籍では、何らかのエネルギーを媒体する生体マトリックスやら軟部組織と称されることがありますが、概念の統一を図るとすれば、現時点では「ファシア」として捉える方が分かり易いでしょう。ただし厳密には「生体マトリックス」という用語で表現するべきだと思いますが…。
ファッシアに関連する(周辺に存在する)水分子、さらには生体を構成する他の諸分子が、コヒーレントな状態になっていることが、健康的な状態といってよいでしょう。(ちなみにボームは『ボームの思考論』において「ガン」はインコヒーレントであると述べています)これらの分子の状態を差異化して画像にしたものが、MRIですから当然と言えば当然です。
このように考えると不調の状態(インコヒーレントな状態)を、コヒーレントな状態へと復調させる方法、例えばホメオパシーをはじめとするエネルギー医学の特徴がとらえやすくなるのではないでしょうか。
当然、一定の仮定が想定されるわけですが、プラグマティックには「アリ」としてよいでしょう。つまりその挙動は、漢方やハーブのように大きめの分子レベルで作用しているのではなく、量子レベルでの挙動となるわけです。(電子、陽子の状況が関与するので)
直接、ファシアを復調させる徒手療法のみならず、こうしたエネルギー的な観点も許容しながら、生体における「コヒーレンス」ということを考えていかなければならないのではないでしょうか。その方法論の違いが、ホメオパシーであったり、波動・量子医学系の器機であったりするわけです。(こうした点で階層の考え方が重要になります)
こうした考え方は同時に、現在のファシア研究(や紹介)が、ややもすると限定的な徒手療法の視点からのみで展開されていることにも注意していかなければなりません。つまり想定されるよりも、はるかに大きな射程を有する問題だということです。
確かにファシアはエコーにより可視化されたことで、その存在がクローズアップされたことは否めませんが、世界的な研究の流れから見ると、エネルギー医学との密接な関係は無視することはできないものです。(この辺りが我が国における今後の展開の分岐となるでしょう。本来であればこうした領域こそ統合医療の必要性が要請されるべきなのですが…)
ダイアローグを再考するということは、ファシアという概念を単なる徒手療法の一用語としてとどめることなく、コヒーレンスという視点から再認識することにもつながるのです。(ここも多くの誤解があり、ただ話せばダイアローグになるというわけではないのです)
コヒーレンスに関しては、最近は、身体内部における定常状態において共鳴する周波数や、ホメオパシー、経絡現象論とあわせて具体的な治療論ともリンクしてきています。その流れの中にQPAをはじめとした波動系器機も位置付けられるでしょう。
一見違ったもののように見えますが、結構共通点が多く、診療においては私の個人内部では矛盾しないのですが、まだなかなか連続しにくいかもしれません。
ダイアローグ、コヒーレンス、ファシアについて最近の考えをまとめてみました。
三木解剖学への誘い(4)排出系
消化管としての直腸からの排出に加え、尿の排泄器官である膀胱もまた、その直腸から発生したものとされます。また生殖器も発生学的に尿精管から発生します。つまり生殖器もまた排出系として考えることができるわけです。
そしてこれらは全て総排泄口を起源としているものなので、すべて排出系としてまとめて扱うことができます。
治療方法論として考えると、取り入れること(栄養吸収)をメインにする西洋医学系に対して、汗・吐・下といった出すこと(排出)を中心にした方法論は東洋医学系である、と三木は指摘しています。しかしこのあたりの事情は、個人的には東西の医療論というより近代における差異や、時代背景の影響が大きいように思います。
腎臓の進化学的な役割としては大変大きく、上陸に伴う陸上の乾燥に対して、ナトリウム保持により水分保持を可能にしました。つまり、糸球体にて一度ろ過した水分を、尿細管で再吸収することにより水分と必要な成分の喪失を防ぎます。この過程は、ヘンレの係蹄において、尿細管外部のナトリウム濃度を高めることで、尿細管の外側を高浸透圧の状態とし、水を再吸収していることにより行います。
そのため脱水に陥ることなく、生命の陸生が可能になったと考えられます。このことは、さらには非常に乾燥した砂漠地帯においても、人類が生存可能となったことを意味しており、進化におけるその重要性が分かります。
加えて、腎臓は肺とともに、酸塩基平衡を司り、内部環境の酸性度を調整していることも重要で、この両者の関係は、呼吸器である肺が吸収系であり、腎臓が排出系であることを考えると分かり易くなります。つまり出入り口において(ときにその出入り口を逆転させて)酸塩基平衡という大きな内部環境を調整しているのです。
あらためて、排出系としての生殖器を考えたとき、進化過程での体外受精から体内受精への移行は大きな変化でした。中枢神経は進化に伴って「頭進」するのに対して、精巣は下降する(逆行している)ことも進化の過程では特徴的です。
出産にあたっては、ヒトは進化の過程で直立したことにより、体軸に対して縦に重力を受けるため、流産が多くなった、といわれます。しかし、その代わりに自由になった両腕によって、抱いて哺乳することが可能になりました。このために母子のつながりは、乳房を介して生まれ落ちてからも長く持続することになった、と三木は指摘しており、ヒトの独自性をそこに見ています。
母子関係やこどもの成長に大きな関心を寄せる記載が多いのも、三木解剖学の大きな特徴です。
吸収、循環、排出と植物性器官を概観し、この後は動物性器官へと移ります。受容系、伝達系、実施系という独自の分類による記載になりますが、その中心的なものとしてはやはり伝達系、いわゆる神経系です。大脳も当然そこに分類されるのですが、循環の中心である心臓同様、疾患形成において大きな役割をもちます。
そして現在において、こうした血管・神経といったネットワークシステムにあらたに加わってくるのがファシアとなります。『アナトミートレイン』では3大ネットワークとしてこれら三つを挙げていますが、当然、三木の存命期間中には話題になっていなかったものですので、三木解剖学には記載がありません。ただ生前、鍼灸への強い興味を持っていた三木成夫だけに、現在のファシア関連情報を知れば、この大きな体系の中に取り込んだことは間違いないでしょう。
動物性器官に関しては、こうした補足的な推測も交えて記載していきたいと思います。
三木解剖学への誘い(3)循環系
循環系は、そもそもは栄養を吸収する腸管の付属物として血管が現れ、全身に食物や酸素を配るための器官として発達してきました。そして中身である血液は、生命上陸後もその起源となる環境を保持するため、海水に類した組成となっています。内部に母なる「海」を有していると言われるゆえんです。
循環系は、初めは細胞間を不規則に流れていたものが、次第に発達し通路を形成するようになったことに由来するとされます。つまり開放系であったわけです。
それゆえに、造血の場も、腸管からはじまり、脾臓、骨髄、リンパ系組織と、その場を移していくことになります。免疫機能が、その7割を腸管に依存し、腸内のマイクロバイオ―タなどの腸内環境に大きく影響されるのは、まさにこうした事情によるわけです。
結果として造血の場となる骨髄は、脊椎動物の上陸に伴う骨の軽量化により、骨の内部に「空き」が出たことによるとされています。つまりその理由は「たまたま」というわけなのです。真の理由は、神のみぞ知る、なのでしょうが、こうした偶然によって左右されることというのは案外少なくないのかもしれません。
また、動物系器官の発達により、媒介の中心をなす心臓・脳が発達し、結果、血管の分布に無理を生じることになります。つまり、臓器の肥大によって、ロジスティックとしての毛細血管においては、前線への補給路の過度な延長を強いられるため、これが現代病といえる狭心症・脳卒中を招く一因となるわけです。
出産に伴う循環動態の変化は、酸素を肺から取り入れる必要がない状態から肺呼吸への変化であるため、生命の上陸に伴う肺呼吸への進化の様子を推察することができます。つまり個体発生から系統発生(宗族発生)を推測することができるわけです。
人間も動物として動き回る中で、闘争・逃走における止血は重要な機能となります。闘争などで出血した際、速やかな止血ができなければ、命を失うことになります。
こうした重要な「止血」は、緊張状態における交感神経と不可分の関係にあるともいえます。これが現代においては、狩猟や敵対する動物との闘争・逃走が減っているにも関わらず、社会的・精神的ストレスの増大により、結果として、狩猟と同様の過度の交感神経興奮をもたらし、止血システムが実際の出血がないにもかかわらず、いわば誤作動を起こしたようになり、不必要な止血過剰をもたらしてしまうのです。つまり進化の過程における、負の面が疾患を形成すると考えら、進化医学における重要な視点を提供しています。
免疫系においては、当然、異物の入り口である消化管において発達してくることになります。ここに免疫と腸管との密な関係が形成される理由があります。
こうした免疫系は、現代社会における寄生虫の減少などの環境の変化により、その本来あるシステムを誤作動させ、結果としてアレルギーや自己免疫疾患といった疾患につながります。
また近年では免疫システムは、自律神経系との密接な関係が知られるようになり(交感神経系と顆粒球、副交感神経系とリンパ球)、ストレスや精神状態との関連が注目されています。そして、これも植物性機能に対する、動物性機能の過剰な進出(侵略)として捉えることもできます。三木の言う「われとわが身の争い」ということになります。(ちなみにここでポリヴェーガル理論に関して少し補足しておくと、腹側迷走神経複合体は横隔膜より上部、咽頭にかけて有髄神経として分布しているのですが、これもその存在場所および様式から進化的には新たなものと推測できます。つまり上陸後の過酷な生存条件において集団におけるコミュニケーション能力の高まりが、迷走神経の機能分化を推し進めたのではないでしょうか)
循環器は、栄養や酸素の運搬に加え、様々な情報も伝達する機能も有します。これがホルモンを用いた内分泌系といえます。
多彩な機能を持つ内分泌系であるが、極論すると「生殖」と「運動」という植物性・動物性の最終目的に大きく関与するもので、その調節は極めて重要な働きと言えます。つまり神経の電気的なネットワークとは別に、生命に重大な影響を持つ機能の調整を行っている路線、ロジスティックでもあるのです。
三木解剖学への誘い(2)吸収系
まずは吸収系から。生物の上陸に伴って、消化器が咽頭部から枝分かれするような形で、呼吸器が形成されてきます。それゆえに、これらをまとめて吸収系と称するのですが、ここが少し初めは分かりにくいと思います。しかし、栄養、酸素、ともに身体の内部に吸収することを考えれば、特に不思議ではないわけです。
吸収系はいわゆる、消化器系と呼吸器系であり、各々栄養と呼吸をつかさどる器官で、共に「生命の炎」を燃やすところで、ミクロに考えれば、ともにエネルギー代謝における重要な素材ということになります。これがミトコンドリアでのATP生成の源となるわけです。
腸管は「鰓腸」といわれる器官から進化したもので、そこから、生命体が上陸し空気中の酸素を取り入れる呼吸を行うために、一部が膨隆して、肺が形成されてきたと考えられます。
つまり腸管から付随するような形で、呼吸を行うために肺が突出して形成されてきたのであり、これが消化管である咽頭から、喉頭・気管が分かれる理由と考えるとわかりやすいでしょう。
現状の生理的な機能から見ると、消化と呼吸には大きな隔たりがありますが、最終目的のエネルギー通貨としてのATP生成のための進化と考えると納得できるわけです。
また吸収系という器官だけでなく、人間においては、二足歩行により解放された「手」による「料理」という機能も忘れてはなりません。
脳機能の発達をベースにしたこの高度な機能は、「火」や「道具」の使用により、消化機能を補助し、多くのものを消化することを可能にしたと考えわれます。これを「頭進」と三木は呼びます。人間における吸収機能においては、こうした手を用いた動物的機能もまた、非常に重要なものとなるわけです。
呼吸に関してはATP産生に不可欠な酸素の取入れを行うとともに、吸収の対となる排出系である「腎臓」とともに酸塩基平衡を担います。つまり吸収・排出の協働が、内部環境の調整に大きな役割を果たすのです。これなどは三木解剖学のほうが通常の解剖生理における説明よりも必然性を感じます。
加えて、呼吸運動は、無意識に行われ、不随意的であるが、横紋筋支配によるため意識により随意的でもある。これにより、植物的機能への意識の介入が可能になります。つまりこれもまた動物的機能の植物的機能への介入であり、これが呼吸法の意義でもあります。
消化と呼吸を吸収系として捉えた場合、両者の境界に生じる問題もまた忘れてはなりません。つまり口腔においては共通していた食物の道と、空気の道が交差することになります。しかし一方では、これが発声を可能にしているのですが、同時に合流時のトラブルといえる「誤嚥」をもたらす構造的弱点にもなります。
つまり我々は「声」を得る代償として、誤嚥性肺炎という老齢期におけるリスクを背負うこととなったわけです。。何事にも得るものがあれば、失うものがある、ということなのかもしれません。
伏線回収としての解剖生理学 三木解剖学への誘い(1)
解剖生理学に関しては、細かなことを網羅的に知ることよりも、一つ一つの事柄を記憶に留めやすい形で理解するために、大きな物語(ストーリー)が必要です。
そうした流れを持っているのが、いわゆる三木解剖学(三木成夫による解剖学)だと感じました。試験などでは個々の要素(知識)が重要ですが、自らの健康増進に役立てるには、全体を一つの物語として理解することはとても重要です。
そのためには、「進化」の視点を盛り込みながら、植物性と動物性という二極の相互作用(陰陽)として説明する三木成夫の視点が最適であると考えました。(先日、進化生態医学を先導される未来医療研究機構の長谷川敏彦先生にお会いしてきましたが、進化という視点は今後の人口動態変化に基づいた新たな医療体制を考えるに当たっても不可欠であるというお話を伺い、ますますその重要性を感じました)
三木はまず、生命の基本構造として一本の管「土管」の構造を示します。そしてそこでの機能を植物性として吸収・循環・排泄の順に解説していきます。ついで、それが逃げる、闘うといった動物性の機能を有するようになり、それを受容・伝達・実施として解説しています。そして、進化の最終形として人間は二足歩行し、文化・社会を形成します。
そこで問題となってくるのが、動物性器官の植物性器官への介入です。これにより狭心症や脳卒中などの疾患が生じてくるしくみも三木は説明しています。そして、これは逆に癒しの方法論として、動物性器官によって植物性器官へ介入することが可能である、ということも意味しています。それが呼吸法で、健康法の代表といってもよいでしょう。
このように統合医療という、通常の医療よりも広範な医療を射程に入れるには、三木成夫の解剖学の視点が最適であると思います。まずは、解剖生理の概略をみてみましょう。
それぞれの「系」では、細かい説明は成書に譲り(つまり細かな事柄の学習は各自のテキストなどで自習してみてください)、膨大な解剖生理の世界で迷子にならないように、大きな道筋としての一つの「物語」を提供してみたいとおもいます。これにより全体像がつかみやすくなると思います。
昨今、分かり易い世界史の本が多く出版されていますが、現代社会における国際事情や、地理的な知識など、時間軸を動かして理解すると分かり易いのはいうまでもありません。とくに現在の国際問題などは、世界史的知識を伏線として考え、伏線回収として理解することでかなり分かり易くなりそうです。身体に関しても同様です。現在の完成形である解剖生理を、進化的知識を伏線として回収していく。こうした時間軸を含めた理解は、医療に幅広い解釈を可能にするのではないでしょうか。
解剖生理の「図と地」 最新トピックスへの俯瞰
まずは、大方忘れているのでその復習的な意味合い。加えて、従来の重要事項から外れたところで出現している、現在のトピックス。「図」ばかりの学習に目が行っていた学生時代と異なり、トピックスと言われるものは、その「地」から発生していることがほとんどです。最近のファシア、マイクロバイオ―タなどはまさにそのいい例。
筋骨格ばかりに注意していると、その「地」であるファシアには気づきにくいもの。従来、気のせいとか、ストレス・自律神経とか、臨床的になんとなく思い付きのストーリーで処理されている諸症状の多くが、ファシアなど「地」的な概念によって、かなりが説明可能です。
そこへの具体的なアプローチとして漢方や鍼灸、その他ハイドロリリースなどを適応していくと考えると、無理に東洋医学の「併用」とか「統合」といった肩ひじを張らなくても、必然的に、実践、統合されていくように思います。
腸内環境におけるマイクロバイオ―タの役割も同様で、消化器疾患の諸症状のみならず、内臓疾患幅広く、炎症、腫瘍などあらゆる面での深い影響がうかがわれます。
現状としては、まだ限定された疾患だけですが、その重要度も含めて、より影響力は強まっていくでしょうし、これまでの病態生理的な説明の逆転もあるかもしれません。とりわけ、糖尿、ダイエット、肥満などは、その摂取カロリーでの議論が久しいですが、遺伝子以上に、「体質」として扱われていた不確定要素へのマイクロバイオ―タの重要度は増すばかりではないでしょうか。
また、免疫系の本質と消化器系の役割、生命の源としての腎の役割なども、中医学で言うところの先天・後天の気という概念にもつながってきます。とりわけ、近年の長寿遺伝子としてのクロト―遺伝子の役割から展開してきた腎臓の(とりわけ老化物質としてのリン排泄の)役割は、まさに先天の器としての腎そのものと言えそうです。
無意識への関与に関しても、思弁的なものに限定されず、グリア、とりわけアストロサイトの役割や、脳腸相関の知見、ニューロセプションの概念などは、その具体的なアプローチを可能にしていくのではないかと考えられます。
「図」としての解剖生理に対して、「地」としての視点から眺めたトピックスを含めて、今月は統合医療学会主催の認定講演会としてのパート5「解剖生理」も開催予定です。2時間という短時間ですが、問題演習をふくめて、ここで述べたトピックスも駆け足で紹介する予定ですので、ご興味のある方は、統合医療学会のホームページをご覧ください。
6月のカフェ課題図書は100分で名著「ヘーゲル 精神現象学」です
さまざまな場面での「分断」をどう乗り越えるか、論破ではない、対話からの相互承認の在り方を考えていきます。なぜジャングルカンファレンスは論破型ではないのか、真理追求型ではないのか。改めて参加した皆さんと考えてみたいと思います。
ヘーゲルについては、少し100分のテキストとは違ったテイストですが、以下のものもおススメです。ともに、いかにこの精神現象学が誤読されてきたか、が分かるような気がします。
臨床現場の統合医療(2) 考える身体、変わりうる身体
60代女性、乳がんの術後で化学療法中のAさんです。発症前からあまり「肉類」は食べなかったとのことで、ごはん・野菜を中心とした食事だったようです。術後も、肉は体に悪いのではないかと思い、避けていたということでした。腸内環境を考える中で、過度にタンパク質とりわけ動物性たんぱくを制限する方は少なくないように思います。自然医療的な視点では、多くの場合、そうした指導がされることも多く、治療全体のバランスを考えたとき多くの問題を投げかけています。
Aさんもこうした状況で、化学療法による体調の不良と、現状に対しての不安や医療への不信など、精神的ストレスを強く抱えている状態で受診されました。
それでも一時期は相当のストレスだったようで、心理カウンセリングにてかなり改善の方向には進んでいるようでしたが、とにかく心身ともにエネルギーが不足しているといった印象でした。
こうした方には、まず「食事記録」をとって頂きます。どのようなものを毎日食べているかを、詳細にチェックします。これによりAさんは、肉類をはじめとしたタンパク質の摂取が極めて少ないことが分かりました。であれば、当然、糖質過多もあるわけです。
一般に肉類を以前からあまり食べ慣れていない方にとっては、タンパク質をとれといってもなかなか急には摂取できないのが現状です。また、考え方としても肉類を摂取するということが受け入れられない状態です。確かに身体の酸化を進めてしまうという面はありますが、免疫力の根底を形成するアミノ酸摂取を阻んでしまっては元も子もありません。こうした状態の考え方のバランスは、本当に難しいところです。
しかし、肉類の摂取に抵抗がある方でも、卵や魚などは、比較的摂取しやすいようです。なかでもアミノ酸スコアを考慮すると、卵はかなり有効です。1日に2〜3個いけるとかなり体調改善が実感されてきます。とりわけオムレツなどが食べやすいようです。
それでも実際には、十分なタンパク摂取は難しいという方も少なくありません。こうした場合、液体でのプロテイン摂取をおすすめすることもあります。いわゆる「プロテイン」です。最近は、かなり味のバリエーションも多く、各社特徴が様々あるのですが、基本的には、いくつか試してみて、飲めそうなものを選択してもらうというのが良いようです。当然、普通に食事から摂取するのがいいわけですが、ほぼ食べられない場合は仕方ありません。
無理に食べていたご飯(糖質)の量を少し減らしてでも、タンパク質摂取を心掛けると、体調はめきめき改善することは少なくありません。プロテインで慣れてきたら、卵などの食品でのタンパク摂取にも抵抗がなくなるようです。この辺りは、やはり慣れの要素が強いように感じます。私個人としては、エネルギーバランスの法則と呼んでいるのですが、自分のエネルギーに従って、食物のもつエネルギーを摂取することが出来るようです。当然、野菜よりは動物の方がエネルギーのレベルは高いと思われるので、それを食するだけのパワーがこちらにも必要というコトになります。「特異動的作用」として考えても良いのかもしれません。
また、これと同時に、ビタミン・ミネラルの摂取も必要です。当院では十分なサプリメントの摂取も併せておすすめします。これまでの食事内容から、エネルギー代謝に不可欠なビタミンB群の不足が多く認められ、これが十分でないとせっかく摂取したタンパクも有効利用できないわけです。
こうした栄養の補給で、これまでの化学療法などの治療の続行を躊躇っていた方でも、前向きに治療続行が可能になってきます。A さんも、力がついてきたということで、現代医療との併用に、日々前向きに取り組まれています。確かに食に関しては、好みが大きく作用しますが、一度精神的にも回復すると、こうした食の摂取にも前向きになる方は少なくありません。人は一度変わることで、それまでの思考の主体となった身体もかわり、考え方も変わりうるという例は少なくないように思うのです。
ただし、これだからと言ってタンパク質ばかりという食事が推奨されるというわけではありません。毎日のお通じの状態などを考慮し、腸内環境の調整もまた重要です。腸内環境が免疫状態を左右するのも、また事実。大きな体調不良をかかえたときには、こうしたバランスについて抜本的に考え直す良い機会なのかもしれません。そうした意味では万人向けの理論というのは厳密には存在しえない、というjことでしょうね。
GW終盤! 医学とお城のおすすめ本
とりわけ、実際の診療においては、当たり前の「前提」として解剖生理があるわけですが、なかなか難しいケースであれば、当然その前提により易々と解決されるようなものではないわけです。となると、それ以外(つまり従来の解剖生理の補集合的な)概念を必要とするわけです。
ただしここでは、スピリチュアルやエネルギーといった代替医療性が強いものをいきなり導入する、ということではなく、通常の総合診療的な枠組みで扱いうるものとします。そうするとどんなものが挙げられるのでしょう。
そうした通常診療の補集合的な概念として、まとめたものが次のようになります。とりあえずは、皮膚・ファシア・自律神経・マイクロバイオ―タの4つです。(個人的には統合医療的な診療の隠し玉と考えています。無意識のテトラとも関連させてます)
皮膚といっても、通常の皮膚科的な意味合いではなく、触れるということから皮膚の多彩な機能から演繹されるものですし、ファシアもただの結合組織的なものではなく、引き伸ばした時のアナトミートレイン的な状況も含めてのものです。当然、自律神経も通常の二重・拮抗支配といったストーリーのみならず、腸管神経系、さらには無髄迷走神経の働きも考慮したポリヴェーガル理論なども射程に入っていますし、マイクロバイオ―タとしては腸管に限定されず、皮膚表面なども広く考慮したプラネタリーヘルス的な視点も考慮されるべきでしょう。
ちょうどGWで、時間もありましたので、これをまとめて考えてみようと思い、以下のような本をまとめて読んでいました。学生時代に学んだ医学と比べて更なる広がりを感じることができました。
と、医学の話はここまでで…
ちなみに今年のGWは遠出せず、近場の城のリア攻めです。関東の戦国史に思いをはせながら、滝ノ城、山口城、立川城(立川氏館)、滝山城、を廻っておりました。
関東戦国史は、結構複雑でなかなか分かりにくいのですが、以下の歴史人5月号増刊、良かったです。
また、関東近隣のお城めぐりとしては、西股先生の以下の書籍がホント、おすすめです!滝ノ城では特に参考になりました。
疫学的視点で考えること、プラグマティックに考えること
もう15年前に書いた記事を見つけましたので、再録。このころもGWに出かけていないことが分かります(笑) 紹介している本も当然ながら今ではかなり古いものですので、悪しからず。
ゴールデンウィークですが、特にどこへも出かけず、本など読んでいます。その中で考えたことを少し・・・。
「誰も教えてくれなかった診断学」(野口善令・福原俊一著・医学書院)を先日ふと手にとって面白そうだなと思い、買って帰りました。内容はいわゆる診断学の教科書とはかなり違って、実際のデキる医師の問題解決方法を具体的に解説した面白い内容でした(一般向けではありません。総合診療を志す研修医にはお勧めだと思います)。
思考過程を客観的に考える機会は少ないので、統合医療も視野に入れて考えたとき、非常に参考になりました。(この本は純粋な西洋医学的「総合診療」が対象なので「統合医療」については書いてありません。念のため)
この中で、著者は診断を自信をもって行うために病態生理を一生懸命勉強した時期があったが、それではあまり自信につながらず、確率的な疫学的観点を取り入れてから、自信を持って診断できるようになった、ということを書いています(細かな記憶違いあったらスミマセン)。これはある意味、非常に興味深い指摘で、実際の臨床の最前線では、いわゆる機械論的な病態生理学的観点よりもむしろ、対象を非決定論的なブラックボックスとして捉え、確率論として事象(診療場面)を捉える方が実践的だと言っているわけです。(この指摘は今になっても当たり前なのですがとても重要に思います)
これは統合医療として扱うときのCAMの扱いにも応用できます。代替医療を論ずると、現段階ではつねにそのメカニズムの合理性も同時に議論されます。しかし、これを症状改善というアウトプットから評価したらどうでしょうか。
何も結果よければすべてよし、などと言うわけではありませんが、非常に重要な視点であることも事実です。漢方など東洋医学はいいが、ホメオパシーはちょっと・・・というときにはたぶんにこうした思考が働いていないでしょうか。(まさにこの視点がプラグマティズム、そのものです)
現実の臨床場面では、理論どおりにことが運ぶことの方が稀といっても過言ではありません。そうした中で、疾病志向性の強い現代西洋医学ですら、確率的推論の重要性が指摘されています。ましてや、疾病に反応する生体そのものを対象にすることの多い代替医療を包括する統合医療を考えるとき、従来のようないわゆる理論偏重型では足りないような気がするのです。(EBMが出始めの時のベテランドクターらの違和感の弁を思い出します)
漢方をはじめ代替医療にはたくさんの、それでいて奥深い理論体系がたくさんあります。一人の臨床家が生涯をかけても1つですらも極めつくすことは困難でしょう。しかし、だからといって「一つだけ」でなければいけない、というのも一面的にすぎます。
一つだけを生涯追い続ける専門家は必要です。しかし、横断的にいくつかの療法を理解する臨床家もこれからは同時に必要だと思います。これは、腎臓なら腎臓の専門家が遺伝子から最先端治療まで熟知する反面、総合診療的にみる家庭医も腎臓病についての一定の知識を求められることと同じように思います。
こうした見方のシフトを促進する動きとして前述の「診断学」の本が捉えることができるように思えます。
統合医療の包括する代替医療の世界はいまだ混沌とした百花繚乱の時代です。統一的な理解をする必要はありませんが、ある程度の、生体側に働きかけるアプローチとしての整合性が今後必要になってくるように思えます。
総合診療領域における「仮説演繹的」な方法論が、統合医療領域の生体の自発的治癒へのアプローチにおいても出現してくることが望まれます。
・・・・・・
といった感じの記事ですが、いまでもほぼ同感です。当時はEBMとの整合性をとろうとした文体ですが、今では少し進んで、それ自体が新たな概念である「プラグマティックメディスン」といった感じになりました。両方とも未来、将来への視点であるのですが、その意味するところはわずかに異なります。以前書いたところの目的と目処の違い、といったところです。われわれはおおよその目処を立てながら、進むしかないように思うのです。
これらの総論的な事項に関しては、統合医療学会においても少しづつ扱ってくれそうなので、この15年間の進展をわずかながらも感じております。
統合医療における「基礎医学」の重要性
これは代替医療を扱う統合医療領域において、じつはとても大切で、どこがいわゆる現代医療の盲点、ないしはニッチなのか、ということを把握するということでもあるのです。通常の医療を行っている際にはどこが盲点になるのか、また、代替医療を扱っていると逆にどこが盲点なのか。それらは往々にして表裏一体です。図と地の関係、と言っても良いかもしれません。
それゆえに統合医療、代替医療を扱う際には、通常以上に基礎医学的な知識を気にしなければならないと思うのです。伝統医療や代替医療には独自の視点があり、それゆえに通常見逃されがちな不調にも対処しやすいといった面があります。というコトは、反対に、通常の視点を見逃しやすくなっているという自覚もまた必要ということになります。
我々、統合医療を志す者は、こうしたことにたいしてもっと意識的であるべきです。これが統合医療領域において私が基礎的知識を重視する理由でもあるのです。
臨床現場の統合医療(1) 所見と検査の応用
当院の受診歴は2年ほどで、大学病院での診療を受けながらの統合医療併用を希望されて来院されました。化学療法と併用する形で、栄養補充のサプリメントと漢方処方に加えて、体調管理を目的とした鍼灸治療を行っていました。当院では、主たる疾患の治療を妨げない形で、各種伝統医療などを取り入れた統合の形式を取り入れています。
化学療法の進展や、健康状態の変化に伴い、これまで様々なアプローチを行ってきましたが、最近は、白血球、血小板の大幅な低下を伴う汎血球減少により、鍼灸などのやや侵襲的な治療が行えずにいました。
ご自分でも何か健康に良いことを、ということで、食べ物などの工夫に加え、腰腹を中心とした身体の温めを丁寧に行っておりました。(こうした腹を中心とした温めだけでなく、プロバイオティクスやプレバイオティクスを用いた腸内環境の立て直しも同時に行うとより効果的でしょう。特に本例では自前の腸内細菌を助けるプレバイオティクスが有効と考えます。温めとの相乗効果で免疫機能の向上が期待できます)
化学療法との併用、並びに原疾患による体調の変動が激しく、お自分で行っているセルフケアの方法に、これで正しいのかというような不安を抱えるようになってきました。当院でも非侵襲的な治療を中心に行っていたので、何か、現状を肯定する方法はないものかと思い、良導絡を用いてみました。これは治療法としても有効ですが、経絡(良導絡)の様子を知るには簡便で、かつ客観性もありとても良い方法です。
ファシアの研究や勉強をするようになって、さらにこの良導絡の意味するところが明確になっていたので、理論的に再評価していたところでした。経絡の計測において、ファシアを想定することで電気的な測定の意義がはっきりしてきました。
実際に計測すると肝経(F2) 胃経(F6)の高値と、腎経の低値ならびに左右の乖離が測定されました。腹診においても胃部と胸脇部が固く触れる所見で、刺さない鍼である打鍼により軟化するものの、良導絡の測定結果を示すものとして捉えるができます。
実際のメカニズムの説明としても、上部消化管の不調が反射弓を介して関連痛ならびに硬結といった形で反映していると考えられるので、打鍼により軽快するシステムも説明できます。また、このメカニズムは当然、このブログで言うところの「ファシア瘀血」も形成してくるので診断的治療も可能になります。現在であれば、観血的な方法をとらずとも、QPAなどの波動的治療(低周波)を併用することも良いように思います。この仕組みからは、振動により瘀血での赤血球連銭形成の解除や、細胞レベルでのドロプレットの解除に伴う代謝や遺伝子発現の変化なども期待できそうです。
本例においては、ご家庭で常に温めているところを中心にお灸などで温め、瘀血が疑われところに軽めのカッピングをかけるなどの非侵襲的なアプローチを行い、施術後に再度、電気的な測定を行いました。
これにより、施術前の値が落ち着きデータの左右差の改善も認められ、セルフケアにおける腎への温めの効果も肯定的にとらえることができ、大変喜んでおられました。全例このようにうまくいくわけではありませんが、うまいタイミングで検査という介入が功を奏することはままあります。
いろいろな検査機器はありますが、こうしたセルフケアをサポートする役割も検査としてはとても大切なものです。大学教官時代は、こうした検査による健康増進機能を「未病臨床検査」として研究していたので、早期発見の意義のみならず、臨床の一技法としても評価しております。
当然こうした電気的な変化は病態把握にとっても重要な情報ですが、日々の治療やセルフケアの再評価としても、見直す良い機会にもなりました。
こうした事例において、逆にめったやたらと検査するマイナス要素も当然考慮されるべきです。波動的な検査は、その出力される情報量も多いので、すべてが合理的に説明されるわけではありません。こうした際には、実際に施行する医療者の説明技量が問われてくるので、ただ行うというわけにはいかないことになります。
統合医療領域において、伝統医療的もしくは代替医療的説明のみならず、現代医療的な説明が求められる一要因でもあるのです。
統合医療におけるファシアの重要性 ファシアと結合水、時々ドロプレット
そのため、意味するところもかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。
とりわけ近年関心が高まっているのが、経絡への科学的解釈に対しての「補助線」として役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。
この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流が発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。この概念はそのまま「アーシング」における帯電の説明にも直結するので非常に重要で、様々なエネルギー医学への応用を可能にします。
この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。また、この過程で前回述べた「相分離生物学」におけるドロプレットにも影響しうることもここで指摘しておきましょう。
つまりファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。と同時に、細胞内部におけるドロプレットにも作用しうるわけです。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。
つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。
加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。
つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。今後の統合医療の発展はまさに、こうした境界領域に現れてくることでしょう。
相分離生物学の冒険 相分離というファシアからの発想の転換
本屋で立ち読みしているときにたまたま見つけたのですが、なんか面白そうだなと思い少し読んでみると非常に重要な感じがひしひしと伝わってきました。4,5年前から専門書は出ているようなのですが、基礎から遠い臨床医の立場では、こうした分野があること自体知りませんでした。
代謝が円滑に進行するためのメタボロンの概念や、がんにおけるシャペロンの意義、神経細胞になぜアミロイド蓄積が見られるのか、またそれと長期記憶保持の関連についてなどなど。これまでの生理学、生化学では明快な説明がつけられていない箇所の解明は、目から鱗です。またアルギニンやATP産生に関わるコエンザイムQ10などの物質の意義も、従来のサプリの知識以上の解釈が出来そうです。
現在は基礎的な分野なので、こうした飛躍は嫌がる研究者も多いのでしょうが、個人的には注目の分野となりました。
冒頭にも書きましたが、ファシアとの関連が個人的には大きく考えさせられたところですが、これは本書では一切触れていない私の独断的解釈なのでご注意下さい。
ただこれまで未解明だったルート(経絡)を、全く新しいモノではなく従来からあるモノの再解釈で解明していく、というのはまさにメタボロンにおいても同様なものを感じます。とりわけオシュマンによるエネルギー医学の総論においては、解糖系などの代謝ルートを何らかの細胞骨格などの線維で説明しようとしており、それなりの妥当性を感じてはいました。しかし、現在に至るまで全くそうした進展を耳にすることはなかったので、さすがに無理も感じていました。
そうした中でのメタボロンの仕組みはなるほど納得でした。これであれば近年、解糖系によって生じた乳酸が一度細胞外へ出てから、再度細胞内に入りミトコンドリアへと取り込まれるという知見と矛盾しないことになります。
またすべてをファシアで説明しようとしていたのとは違い、より細胞機能の多様性が示されたような気がします。ファシアのようにかなり有力な論が登場すると、それによりほかの現象も説明づけたくなるものです。しかし、ホメオパシーなどを説明するには、場合によっては相分離の概念の方がしっくりくるのもまた事実。
相分離は、代替医療、統合医療領域にも大きなヒントを与えてくれる概念だと思いました。とくにファシアとの関連はまた別の機会に、あらためてここでも書いてみたいと思います。
目的と目処 プラグマティックメディスンの哲学的基礎
まずは以前述べました「動脈的視座」と「静脈的視座」の対比です。この対比から、この医学の特徴が明確になってきます。
この対比に近い概念を挙げていくと、統計学では記述統計の考え方とベイズ統計の考え方の相違に近くなります。つまりすべてのデータを網羅してから結論を導くか、現時点での現在進行形の不十分な状態から推測していくか、です。
これらは総合診療の領域などではいわゆる「エビデンス」と、現場における臨床決断の方法論の違いとして扱われることが一般的ですが、プラグマティックメディスンの射程はもう少し広がりを持ちます。そうした意味では能動態と中動態の対比で議論される領域の方が近いでしょうか。
能動態と中動態との対比は、自由意志による責任と、漠とした選択との対比とも言え、いわゆる目的を持つということにも関連してきます。つまり「目的」を持つということは、そこに明確な意思が働いているわけで、当然「手段」も発生してくることになります。
明確な目的を持つというコトは、明確な手段に基づくというコトになりますので、それは確固たるデータに裏打ちされているに越したことがない、となるでしょう。とすれば、エビデンス重視といった姿勢までもう一息です。
この辺りが「プラグマティズム」という思想の難しさ、曖昧さなのでしょうが、これもある意味で「事後」の結果を重視するということでもあります。パースのいうプラグマティズムの格率は、こちらに近いように思いますし、それゆえに科学思想の基盤としても使える考えなのでしょう。それに対して、ジェイムズのプラグマティズムは、結局は内面的なモノを重視したところにその特徴があります。
それゆえに、彼の思想を敷衍すると「多元的宇宙」の考えに到達していくことになります。代替医療の発展、ならびにその後の統合医療への展開は、歴史的にも、哲学的にも、こちらのジェイムズ思想に親和性をもつと考えられるので、ここではプラグマティックメディスンの基本はジェイムズの思想によるということにします。
目的合理性の考えは、当然我々に染み付いているわけですから、それらをなくすなんてことは到底できませんし、その必要もありません。しかし、それ以外の(オルタナティブな)視点が、時に存在することも必要です。医療においては、確たる目的にすべてを還元させては、様々な場面で問題が生じてくるように思います。
今回のコロナ禍における、いびつな意味での(医療的)生命至上主義です。さまざまな価値観が並行的に存在する現在の社会において、価値観の多元性を一切認めないという姿勢に対しては「生存以外にいかなる価値をも持たない社会とはいったい何なのか?」といった疑問がアガンベンから呈されている通りです。
すべてのモノに明確な目的と手段を求めなければならないのか、プラグマティックメディスンは、この姿勢へのオルタナティブな解答例とも言えるかもしれません。いわば確たる目的ではない、漠とした目処、といったところでしょうか。この姿勢を、ここでは中動態を援用して説明してきました。
つまり確定的意志があるわけではなく、漠たる選択により進むことも時に必要ではないか。確たる目的にすべてを還元させることなく、中動態的に流れの中で決まっていく。
明らかに間違っていると思うものは選択しないが、明らかに正しいか否かには必要以上に執着しないという姿勢です。これは絶対正しいというものを指摘することはできないが、絶対違うというものは指摘できる、という姿勢でもあるわけです。
また方法論、つまり手段に固執しないという面もあります。正しいから一つの方法を選択するというよりは、その方法論が好きだから選択する、という姿勢をも肯定するわけです。何かのためのゲーム、という視点ではなくゲームのためにゲームを楽しむ、ということになります。例えるなら猫好きが、ネズミを捕る猫だから愛するのか、ただ猫だから愛するのか、といったところでしょうか。(まあ令和にネズミ捕り目的なんてないでしょうが(笑)
直感や第6感など、我々はいろいろな用語でこうした感じを説明することが可能ですが、もはやその目的を至上としなければ、そうした説明原理を駆使する必要すらありません。
明確な意思による「目的」である必要はないわけです。目処が立つ、と外的に表現されるような、中動態的な表現で用いられる「目処」くらいの感じです。やや遠くに漠とした希望する将来、そしてそこに辛うじて焦点するようなベクトルを有する方法論。
この緩やかな、それでいて縮退しないシステムこそが、プラグマティックメディスンと表現するモノに近いのではないか、と思います。
國分先生の著書で紹介されているアーレントやベンヤミンによる「目的なき手段」と称されるものの議論はこうした感じに近いのではないだろうかというのが、今のところの私の考えです。
別角度から見れば、曖昧なモノを擁護するような理論展開ではありますが、マクロ的に考えたときこれらはあらゆる縮退する現象に抵抗するモノであることに気づきます。
プラグマティックメディスンの考えは、縮退の流れに抵抗する方法論の一つであるということにあらためて気づかされるわけです。
無意識のテトラのメモ
それでは、プラグマティズムによってどのような視点が具体的にはもたらされるのか。事後を見据えるといっても、原理的には予測でしかないところをどうやって具体的な行動に結びつけていくか。つまり選択の発動の基底となる無意識は、具体的にどのように発動させるかという方法論をか考えてみます。
この辺りの具体的な理論展開は、厳密にはもっと深く必要なのですが、今はそこで立ち止まらずメモ的に疾走していきます。(まあ、このようなブログ記事を読んで頂いてる方にはテレパシー的に(笑)伝わっていることでしょう)
ここでは、意識されないものを扱うためのツールになるであろうと思われる概念を、無意識のテトラとして、4つ取り上げてみます。これらはもっと言えば、自由意志ではない選択の要諦ともいえるでしょう。中動態的な選択の基底にもなりえます。
1.ファシア
2.ポリヴェーガル
3.マイクロバイオ―タ
4.ケラチノサイト(皮膚)
各々の詳細はこの段階では省きますが、ジャングルカフェなど砕けた勉強会の場などで、実際に説明していこうと思います。
少し補足すると、ここでいう無意識は、意志の作用ではなく「選択」の視点の基底となるもの。その姿勢は、まさに中動態的な視点と言えるもので、真理といった絶対的なスタート地点(動脈的視座の始点)ではなく、一定の曖昧さを有した未来、ゴールへの視点(静脈的視座の終点)です。これはプラグマティックな考え方の基本となる姿勢です。
これまで展開してきたキーワードで、当院のホームページでも載せている「可能性のための医療」ですが、これも可能性=未来志向としてとらえると、方向性としてはプラグマティズムそのものとなります。考えた当初、ここまで想定していたわけではないのですが、結果として合流した概念です。
さらに「こちらの医学」はどうでしょう。この視点の要点は「内」の視点です。「内/外」の対立でとらえると、中動態/能動態の説明と重なるものです。これはウィルバーのいう左上象限で、その意味では客観的(外)ではない領域となります。大きな意識的な選択なく、自然にそうなってしまう選択、そう見える世界です。現象学的還元といった視点といっても良いかもしれません。
一応、簡単にまとめると… プラグマティックメディスンによる姿勢とは、無意識のテトラなどやや曖昧なものを扱いつつ、望ましい不確定な未来(帰結)へトボトボと歩むイメージでしょうか。それにより「生命」の発動を阻害することなく、イキイキと生きる。統合医療とは何かという考察の先に、独自なものが発想されたとすれば、このような医療の姿勢である気がしたので、とりあえずまとめてみた、といった感じです。
本日はジャングルカフェです。テトラの中のマイクロバイオ―タを題材に、テキストを読み進めたいと思います。
プラグマティックメディスンの「まなざし」
これは現代の視点からすれば、客観的データとしてのEBMへの接続の先駆けともいえる視点です。良い悪いということではなく、ここでの「死体」つまりは病理解剖的視点は、明確な「事前」への視点ともいえるでしょう。
通常、病態生理学的視点とEBM的な視点は対立的な軸として捉えられますが、この場合の「まなざし」からはともに「事前」のものとして考えられるわけです。
こうした事前・事後という対立軸でとらえた場合、プラグマティックメディスンは、まなざしの(時間的)方向の変化、判断基準の方向性の変化として見ることが出来ます。プラグマティックというやや不慣れな思考法を考えるとき「まなざし」という視点は重要です。つまりプラグマティックメディスンの視座は、従来の事前に対して「事後」へのまなざしということになるわけです。
また、「まなざし」という視座は、こうした事前と事後という時間軸だけでなく、大きな時代的な「隔絶」を理解する際にも重要になります。
唐突ではありますが、明治の文明開化期における伝統的な武術の衰退もこれでの説明が可能だと思います。官民ともに大規模な西洋的まなざしの導入により、もはや時間経過の中で、それ以前の様相を想像することすら困難になる様は、まなざしそれ自体の変化としか言えないように思うのです。
さらには、こうした「まなざし」というもののの意図的な「揺さぶり」により、新たな展開となる出来事が、「ダイアローグ」と考えることも出来そうです。オープンダイアローグにおいて起きている事態はまさに、結果としてのまなざしの変化です。
また大規模なプロパガンダの発動なども、社会全体のまなざしの強制的な変成として捉えると、また違った発想も得られるのではないでしょうか。つまり、まなざしは意識されることなく、根源的に時代の視座を動かすことになり、かつ、そのことに多くの人は気づかないわけです。まさに「物事は静かに大きく動く」といったところでしょうか。
まなざしの視点からプラグマティックメディスンの時間的方向性の差異について考えてみました。次回はまなざしの方向性の差異がもたらす方法論の違いとして、具体的な事項から考えてみたいと思います。
動脈的視座と静脈的視座:プラグマティックな視座とは?
通常、事前に得られるエビデンスなどを参照した医学的決断は、これまで蓄積されたデータを、従来の解剖生理的システムにのせて思考するという方向性が取られる。つまり、事前のものへ向かう方向性である。これに対してプラグマティックメディスンは、事後の結果、結実、といった将来へ向かう方向性となる。つまり、スタート地点の方向性が真逆となる。
現実的な問題としては、両者ともに何らかの推論をして決断する点では、当然、未来志向ともいえるのだが、そのよって立つ論拠が事前と事後でことなるというわけである。
しかしそれでも、決断の時点(現在)においては推論していることには変わりないので、その時点での何らかの相違点(兆候)は何だろうか、という視点から考えてみたい。
通常の推論に先立つ思考としては、事前の定理や原則・エビデンスからスタートする思考が一般的といえよう。そして、ここで言う原理やエビデンスは当然「実在」的である。論理と統計的データに基づいて推論し、臨床的な決断にいたるという王道のパターンである。哲学的な言い回しとしては、論理実証的と言えよう。
これに対して事後の結果や結実を念頭に進行する思考もある。この方向性が「プラグマティズム」の方法論である。プラグマティックメディスンは、この方向性を用いる医療といえる。前者、後者ともに、未来へ向けてのアプローチではあるのだが、論拠となるものへの方向性が真逆となる。
つまりこれらの考えは、不確定な現在において、実在的な原則に基づいて行動するか、結実に向かう方向性を曖昧な状況の中で緩く選択していくか、といった違いになる。
そしてこれらは現時点において、前者は、未来に向けて原則からの推進力を得るのに対して(心臓から拍出される動脈のように)、後者は複数のものが自然に合流しながら緩徐に一つの結実に向かう(末梢から心臓へ戻る静脈のように)ともいえる。
一つのループとしての循環器系のイメージではなく、ある細胞の視点において、駆出された液体が届くか、複数の要素が合流・統合されているか、である。ある一点において、その構成要素の位相がどのようになっているのかが、その相違点となる。
駆出されたものが目的となる一点に向かうものを仮に「動脈的視座」とすると、身体としてみたときには、複数のベクトルが緩徐ながらも収束していくものが「静脈的視座」といえる。また身体に影響を及ぼす割合としてみると、動脈的視座よりも静脈的視座が圧倒的に多いのは言うまでもない。これは我々の日常的な感覚からしても外れていないのではなかろうか。
こうした静脈的視座における、統合への方向性は、W.ジェイムズは「私有化」による統合と表現し、主体的な個人においては、その内部で統合への方向性を持った力が駆動されることになるものである。私有化はこうした統合への「力」を有し、主体性をもつようになる。
そしてそれは主体性における「脈動」となり、「流れ」を形成するものとなる。この統合への脈動は、生命力の発動としても見ることができ、古来、バイタルエナジー、オルゴンエネルギー等の言葉で表現されてきた。そして、G.バタイユが総合的な実存へと回帰しようとしたものでもあるだろう。つまり個体は、私有化により一体化、統合、結合へと向かい、その方向性こそが私有化ともいえる。
一個体において、統合は必然的であり、それゆえにそれらは内包する宇宙は多元的となる、というのがジェイムズの主張するところなのだろう。
そしてそれらは、ここで述べた静脈的視座であり、それこそが未来へ向けたプラグマティックな姿勢そのものであろう。
これらは視点を変えれば、能動態と中動態の対比とも見ることが可能である。動脈的視座が能動態であり、静脈的視座が中動態となる。私たちは日常的に視座というものに無神経であるが、ひとたびこれに注意することで、全く違った視野を得ることも可能である。いま、自分がどの視座にあるのか、この問いがプラグマティックな視点を医学に積極的に導入するうえで非常に重要な契機となるであろう。
今回はプラグマティックメディスンを展開するにあたっての視座を、動脈的視座と静脈的視座との比較から記述してみた。
現状の医学には、思った以上にプラグマティックな視点が乏しいことを痛感した。
プラグマティックメディスンの概略
この体系は具体的には、従来の伝統医学・代替医療と親和性を持つものであることが多い。つまりCAMそのものか、そこに接続する医学的・科学的概念をあわせて対象にしている。
従来のいわゆる解剖生理を基礎とする「西洋医学」的知識は、要素還元主義に基づいた分析的方法により得られた知見であることは言うまでもない。それは原理原則に基づいた分析的知識であり、何らかの行動の「事前」にデータとしてわかっている知識ともいえる。(それゆえに基礎医学と称されるのだろう)
これに対して理論面がブラックボックス化しているが、知識体系が存在する。現時点ではその結果が評価されて再認識されたり、世に認められたりすることで出現してきたもので、伝統医学や代替医療、いわゆるCAMであると見ることができる。つまり事後の結果が重視された領域である。
当然、CAMとされるそれぞれの分野においては、純粋な教条主義的立場も展開されるが、現状としては、学問理論として成長発展している主なものは科学的知見であるので、この科学とCAMの比較においては、いわゆる科学側からの接近が現実的かつ、学問的、説得的であるといえる。
そしてこれが成し遂げられつつある、もしくはそれを目的とする医学領域を「統合医療」として理解することも可能である。
だとすれば、統合医療において展開される医学は、多分にブラックボックス化した医学体系に接近する正統科学からのベクトルを有するものとならざるをえない。
すると、現代科学的な方法論をベースとしつつも、結果を重要視する伝統医学・代替医療的(CAM的)なものへ接近する医学を、事後の結果を重要視する方向性の医学として、プラグマティックメディスン、ないしはプラグマティズム指向型の医療(POM)と表現することも可能かもしれない。
プラグマティックメディスンに分類されうる概念は、いろいろと挙げることが出来ようが、ここではとりあえず、ファシア・ポリヴェーガル・マイクロバイオ―タ等を挙げておく。その他に、皮膚の新知見から見たケラチノサイトや、脳科学におけるグリアの機能などもこうした領域と考えられよう。いわゆる従来「学際的」といわれる領域ともいえる。
こうした領域を、統合医療という枠組みからだけでなく、プラグマティックメディスンという視点から再認識することで、これらのさらなる再評価につながるのではないかと考えている。
これが統合医療を別角度から表現した用語でもある「プラグマティックメディスン」の概略となる。この分野は、特定のCAM、代替医療への思い入れの強さからその方法論のアピールや、医学論一般からの典型的全体論という無難な議論が展開されることがほとんどである。そうした中で、治療においての選択の方向性を示す、プラグマティズムという概念の導入は、新たな視点を提供することになる。哲学的な思考に慣れない向きからは、難解だとの批判を受けることも多くなるだろうが、ケアの分野における「中動態」概念の導入が新たな展開を迎えつつあることも鑑み、心ある多くの医療者に考えてもらいたいテーマである。
花粉症にはホメオパシー!に加えてプロバイオも!
ちなみに当院では、引き続きスギ花粉のレメディ処方を行っておりますので、ホメオパシーでの花粉症治療をご希望の方は、クリニックまでご連絡ください。来月下旬くらいからは、ヒノキの花粉症もスタートしそうですので、ヒノキのレメディも準備万端です。
こうしたホメオパシーの花粉症治療に加え、例年は漢方処方も大いに活用していたのですが、今年はそれに加え、シーズン到来前に導入したプロバイオティクスなどマイクロバイオータを意識した治療が奏功しております。
便通の状態を確認しながら、十分な量のプロバイオの服用により、花粉症の不快症状に対してかなりの手ごたえを感じております。
今月からは腸内細菌のゲノムを読み取るショットガン方式のマイクロバイオータ検査を導入していることもあり、プロバイオの効果を改めて再確認しております。
いわゆる「見えない力」を駆使するホメオパシーに加え、体内における「他力」である腸内細菌のパワーにより、新たな花粉症へのアプローチが見えてきたような気がしています。
こうした流れの中ですので、今度のジャングルカフェの課題図書は以下にしたいと思います!かつては大判だったものですが、今では文庫版として出ていますので、これにします。参加希望の方は読んでおいてください!
肥田式聖中心との関連で見るファシア・ポリヴェーガル・腸内細菌叢
そこで、ファシアと肥田式との関連について、昨年掲載したものを少し改編して再掲してみたいと思います。細菌の観点からとは少し違った観測点から、考え直してみたいと思い、読み返してみました。
肥田春充は、いわゆる丹田とされる「聖中心」を、自ら創出した技法の中心にしていったわけですが、その位置を、解剖学的構造ではなく、幾何学的な説明により提示していました。つまりランドマークは解剖的な構造ですが、聖中心というものを示すには「円」を規定しその中心としました。
そしてその中心を、腰椎からの直線が通過している説明図を提示しています。つまり考え方によっては、それぞれの解剖的な構造物との関係性、位置を規定する張力のようなもの、と考えてもよいのかもしれません。これまでのファシア理論からすると「O-F」にあたる関係です。
また、甲野先生からの示唆で気づいたのですが、腹部に球状の円(球)が規定されているのですが、これには何らかの実体があるのではないか、という考え方もできます。
ここ(球)に臓器の実態を当てるとすれば、それはまさに「腸管」、特に腸間膜に吊り下げられえた小腸となります。(甲野先生は腸管の何らかの膨張を想定されているようですが…)
この小腸は後腹壁から「フレアスカート」状に吊り下げられ、斜め下方向に集塊をなす様は「球」といえなくもありません。
学生時代の解剖学での記憶と合わせても、この「聖中心」と考えても矛盾なさそうに思います。
ただしここで注意すべきは、聖中心が腸管であるか否かという問題ではなく、肥田春充が幾何学的に表現したものの位置に、そうしたものが存在するという意味だけです。安易な同一化をしようとするものではありません。
こうした問題は「三焦」の捉え方にも適応できます(三焦を東洋医学の教科書的に捉えるだけでなく、腹腔動脈、上腸間膜動脈、下腸間膜動脈から腸間膜が栄養されるさまを三焦としたのではないか、という視点も実際の解剖所見からするとアリなのではないかとも思います)。
機能総体としての三焦ではなく、何らかの「実体」を古人は捉えていたのではないかという考察です。これは大きな塊のように見える腸間膜と周辺の脂肪組織を古人は一塊の臓器として捉えていたのではないか、そしてそこには臓器としては当時認識されていない「膵臓」も含まれてきます(実際の解剖所見としては全てが一塊に見えます)。それゆえに三焦=膵臓説もあるわけです。
そしてこのフレアスカートの吊りあげている視点が「腸間膜根」となり、後腹壁を左上から右下へ向けて、腰椎を跨いで下降しているのです。解剖的に腰椎1番2番あたりから下降しているので、横隔膜後脚が3番あたりまで来ていますので、呼吸におけるファッシア的な連動は十分考えられます。
そしてその終結は右側の仙腸関節上部に至ります。つまりここもファッシア的な接続を考えることができます。つまり骨盤調整との連動の可能性です。この「根」は当然、腰椎4番5番あたりで腰椎を跨いでいるので、いわゆるヤコビー線と腰椎との交点を、肥田春充が示唆しているのと関連するようにもみえます。腸間膜根の吊り上げ作用の重心が、腰椎4番5番の意識や調整と直接関連することは容易に示唆されるわけです。
なぜ肥田春充が、こうした幾何学的な説明によりその位置を示そうとしたのか。それこそが当時(今もそれほど大きな変わりはありませんが)の解剖学がファシアの存在を、半ば無視していたことと無関係ではないように思います。
解剖実習を行った経験がある人であれば、すぐわかることですが、解剖実習とはこの「ファシア」から、いかにして目的の「臓器」取り出すか、つまり見やすくするかにつきます。ファシアは取り除かれるべき「不要物」であり、臓器の「背景」にしか過ぎないというわけです。それが解剖というものなのです。
解剖するという行為の究極が、解剖学の図譜や教科書ですから、そこには当然ファシアの記載はありません。いくら肥田春充が超人であったとしても、当時の(今も?)解剖図に記載されていないものを、実体として認識していたとは思えません。これは近年、「ニューズウィーク」誌に皮膚を上回る「巨大な臓器」としてファッシアの発見が報道されたことからも、「存在していた」にも関わらず「認識されていなかった」臓器であることがうかがわれます。
春充は当時、自らの体感と、熟読した解剖書とを見比べて、その関係の体感を幾何学的に示そうとしたのではないでしょうか。これは眼光紙背に徹するかの如く解剖書を読み込んだであろう春充の、正確な解剖的知識があればこそ、「そこにないもの」を記載することが出来たのではないかと考えます。
「在る」ものを強く意識するほどに、認識の反転が生じた際に「ないはずのもの」がより強烈に認識されてくるのではないか。「図と地の反転」を基盤として考えるべき、ファシアとの関連がここに出てくるように思います。
春充の聖中心の体感の瞬間などは、まさにこの認識の反転として捉えることで、理解できるのではないでしょうか。
腸間膜根から壁側腹膜として折れ返ることで、腸管の状態が全身へと接続されます。これはまさにファシア論でいう「O-F」の引張構造で説明されます。
室町時代に隆盛を極めた「腹部打鍼術」が、腹部のみの刺激で、全身のあらゆる症状に対応していた事実からも、この関係は意外に大きな連携を有していることが推測されます。
進化学的にも体幹である「腹」から四肢が形成されてきたことを思うと、その中心が「腹」の「腸管」にあることも矛盾しません。ここに「火事場の馬鹿力」発揮のカギがあるようにも思えます(甲野先生のご指摘による)。
こうした身体(とりわけ四肢)の関係のみならず、近年は「脳腸相関」として神経系との関連が最新医学のテーマとしても注目されています。神経伝達物質において、脳→腸、または腸→脳の関連が、詳細に研究されています。この連関に関与する「迷走神経」の更なる研究や新解釈が待たれるばかりです。(ポリヴェーガル理論の今後の展開が注目です。最近は少しづつですが学術誌でも見かけるようになってきました!)
こうした関連においても、腸管の占有する位置が、その機能に関係する可能性は大いにありそうです。
腹腔内での腸間膜と腸管を一塊としたものの位置により、四肢における運動能力が大きく影響される可能性を、聖中心は持っているように思われます。
そして加えて、それらの正しい位置関係が、「脳腸相関」においても生体に有利に働く可能性も想定されます。筋膜の張力の均等化や、結合組織表面における水分子の量子的ふるまいの正常化、等が要因として考えられます。ファシア論、ポリヴェーガル理論との総合化が待たれるばかりです。
筋トレにおける筋肉のイメージのように、腸の塊の鮮明なイメージ化によって身体的かつ精神的な超絶した能力の開花が可能になるのではないか、そんな可能性を「聖中心」は与えてくれるのではないでしょうか。
そしてこの「聖中心」をひとつの軸とすることでことで、腸内マイクロバイオ―タ、ファシア臓器(腸間膜塊としての三焦)、腹側迷走神経等のキーワードが、相互作用している様子が見えてくるようではないでしょうか。
プラグマティックメディスンとは何か? 統合医療の新展開
そこで、自分の考える「統合医療」の実態に一番近い用語、概念を見つけようと考えたのが、かつて著書の中でも公開した「プラグマティックメディスン」です。思いついた当初は、まだそれほど内容が固まっていたわけではないので、しばらく自分の中で醸造していましたが、徐々に形になってきたのでここらでまとめておこうと思います。
プラグマティックメディスンは本来、pragmatism supported medicine(プラグマティズムが支える医療)ともいえる概念ですが、長くなるので、とりあえず「プラグマティックメディスン」と称しておこうと思います。(これを本ブログ内で別角度から表現してきたのが、可能性のための医療や、こちらの医療、ということになります。少し意味合いが違うところもありますが…)
いずれにせよ、プラグマティズムという思想が支える医療で、これは合理主義に基づく論理実証主義が原則とする医療(EBMの概念もこちら)との相違は、そこに絶対的な真理なるものを想定するか否かの違いとなります。これはプラグマティズムという思想・哲学に由来するものともいえます。
プラグマティズムにおける真理の多元性が、ジェームスのいう「多元的宇宙」という世界観であり、これは当然、教条主義的な「真理一元論」とは大きく異なるものになります(ちなみにみせかけの多元である折衷主義は教条主義へと縮退するのですが、これもここだけでは分かりにくいですね)。真理一元論は、我々の素朴な世界観そのものですから(真実は一つ!)、この辺りが一番誤解されそうな難所になります。
ここで統合主義はどう解釈されるかというと、これは多元主義の要素内での融合の一形態と見ることができ、また別解釈としては多元主義的な状態そのものをも意味するといっても良いように思います(ウィルバーのインテグラル理論などはこちらに近いでしょう)。つまり統合という語は、人によってかなりの解釈の幅があることに気づかされます。
それでは「プラグマティックメディスン」としての要諦は何でしょうか。それはなにより「プラグマティズム」という思想なのですが、これがまたまた誤解の多い用語で、問題ありなのです。そもそも提唱者が事実上2人いるような状態で、かつその後の展開においてもかなり人によっての解釈が異なります。加えて、結果よければすべてよし、みたいな浅薄な解釈が広く流布されているので、さらに誤解は広がります。そうした中で、ここではウィリアム・ジェームズのプラグマティズムの格率に基づくとしておきましょう。これにより世界観としては「多元的宇宙」が採用され、多元主義に基づいた展開になります。
しかしこれだけでは効能・効用主義的な側面だけが強調されかねないので、その補強的な観点も不可欠です。それが近年、ケアの世界に新たな視点を与えたと言われる「中動態」の思想です。國分功一郎氏によって脚光を浴びた概念で、主に言語学的な考察から引き出されたものですが、それゆえに我々の「意志」や「責任」というものへの理解の根本を揺るがせるものでもあります。出来事の流れ・自然の勢い、というものの重要性というか根源性をあらためて感じさせてくれるように思います。個人的にはジェームズの言う根本的経験論や純粋経験といった概念との強い関連性も感じさせられます。これにより、いかにもな「エビデンス」のみならず、またいわゆる「意志」によらず、「選択」するという本来自然な出来事の肯定がなされることになります。
これは選択肢の決定が重要な意味を持つ統合医療分野において、決定的な意義を有することになると思います。統合医療臨床について考える際、とりわけ医師の立場においては、多元的な選択肢から選択がその中核となるのはいうまでもないでしょう。それゆえに、プラグマティズムと中動態の思想が、中心となるわけです。これが、まさにこの医学体系の要諦です。
大枠としてはここまでで良いのですが、私自身の具体的方策も示しておきましょう。これはあくまでもプラグマティックメディスンとしての一展開例で、これこそがプラグマティズムという意味ではありませんので誤解無きように。
まずは中動態的な対話、大きな方針の模索という意味において、オープンダイアログ・ジャングルカンファレンスといった会話・対話の方策です。
続いて生体観としては通常の解剖生理はさることながら、それらの図と地の反転として、無意識を司りうるものとして、トランス、ファシア、腸内環境(脳腸相関)を挙げておきます。
ファシアは、さらには「皮膚」との関連も密接ですし、腸内環境は「栄養」とも大きな関連を持ちますので、これらも重要な要素となります。(ファシア・腸内細菌は最大の臓器でもあり、同様に皮膚・脂肪も最大臓器といえる)
また、ある種の無意識の取り扱いとしてトランスは重要です。意識領域より無意識ははるかに大きいもので、マインドフルネスをはじめ様々な技法も考慮されます。
その他にもいろいろな展開があるのでしょうが、現実の診療においてはこのようなところでしょうか。いずれにせよ、この医療体系は、換言すれば、現実(瞬間・実際)の身体の流れに従う医療、ということになります。つまり、プラグマティズムの要諦である現実の選択を、多元主義に基づいて、「意志」ではなく身体の流れによる「選択」に従う(これは無意識の領域といえるのではないだろうか)、ある種の「従病」とも言える医療の姿勢です。
脳科学的に「自由意志」の存在が疑問視される中で、我々自身の生命を育む新たな思考体系の試みをまとめてみました。
統合医療という一般的なワードを越えて、自らの診療の指針の中心としていきたいと思います。メモ的な散文でしたが、今後も少しづつまとめていきたいと思うテーマです。