部分と全体:統合医療基礎論

ジャングルカンファレンスは多元的な「道場」である

 前回述べた諸批判に対するお答えとして、ジャングルカンファレンスとはどういう場なのか、を述べてみたいと思います。

 これはいわゆる通常のカンファレンスと異なり、臨床的な意思決定の場ではないということです。しぶしぶ参加しなければいけない義務の場ではなく、自らが統合医療の基本姿勢といえる「多元主義」を学ぶための「道場」である、ということです。つまりそれは自主性に任すものなので、参加者が金銭を要求するものではないことになります。つまりいわゆるコスト問題は生じません。
(論文投稿にあたっての反論)

 そして意思決定を主な目的にしないことから、 多数決に代表される手っ取り早い解決法をとりません。遠回りであっても「熟議」を重ねる中で、各々の参加者が自らの内面深くへと入っていける「道場」なのです。熟議は当然、効率の良いものではありません。そもそも医療における効率という問題を再考しなければならないと考えております。(医学哲学学会での質問への反論)

 現代医療の原則優先 など、現代社会における正当性を優先します。つまり哲学的な相対主義の立場ではありません。これは全ての補完医療を手放しに推奨するものでもなく、一定の判断が求められることになります。完全平等のいわばアナーキズムにもとづくのではなく、様々な立場が現実社会に適合しうる形で一定の構造をとるという考えです。つまり荒唐無稽な補完医療を無理やり押し付けるというものではないことは明白です。(医学哲学学会での質問への反論)

 次にここで考えられるセルフケア像についても述べてみましょう。

 患者指導などに対しても、セルフケアの重視は言うまでもないのですが、完全に「自給自足」的な医療的行為排斥(不要)論にも与しません。 当然、自らの選択で他者からの介入を全く拒否するというのであれば、それは容認されますが、実際には多くの人がそのような過激な独善論をとることはないでしょう。医師をはじめ様々な専門家の助力を受けるでしょう。つまり「間接民主制」に近い形と言って良いのかもしれません。身体機能に関してまとまった知識を有する人たちに、いざというときには助けをかりるということです。これは裏を返せば、専門家はその当人もしくはその家族に成り代わった真剣さでこれに臨まなければいけないということでもあるのです。

(注:こうした論理で言うとここでいう直接民主制に近い医療の運動は「はだしの医者」や「ポピュラーヘルス運動」にもつながる概念といえます。そしてこれは医療者排除へとつながる流れだという指摘があることも忘れてはなりません。様々な高度な医療体系の継承という意味からも将来に向けて問題であることは理解されるでしょう。)

 つまりまとめると、極めてイデオロギー的な教条主義に陥ることなく、一見物分かりが良いが容易にアナーキズムに陥ってしまう折衷主義に堕することもなく、自らの立ち位置を常に振り返る「多元主義」を模索するというのがこのカンファレンスの姿勢といえます。そしてこうした多元主義を背景としつつ、個々のケース(症例・実例)に関しては絶妙な「統合」の形を、個別に選択し、組み合わせ、編み出していくのです。これを我々は理想的な統合医療の在り方と考えているのです。
 このあたりは専門家でも誤解の多いところで、「良い(正しい)統合(主義)」や「最適の編成」なるものが、どこかにあるわけではありません。何故なら、そうしたものの実在を仮定したとたん、その姿勢は論者本人の 意図とは別に新たな「教条主義」を生み出すことに他ならないからなのです。
 こうした安易な理想論への誘惑にのらない、ということは非常に困難ではありますが、我々はそれでもそうした方向性を模索していかなければならないと考えています。


 先日、一つの組織が崩壊する様子を見る機会がありました。安易な平等主義と、独善的な正義感をかざし、全体での話し合いを拒絶することで、組織というものは容易に崩壊する。関係者は自らの正統性を述べますが、(つまり自分たちに悪気はないむしろ組織のためを考えた等々)やはり熟議 がなければ、組織という生命体は生きながらえることができないということをあらためて感じさせられました。新たな復興を祈るばかりです。
tougouiryo at 2017年01月03日06:00|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(8)

まとめと引用・参考文献です。

今日はクリスマス。ですが私は統合医療学会です・・・

8.まとめ

 

 医師として必要なことを述べながら、同時に補完医療の持つ世界観に耳を傾ける。そうした関係を専門領域や地域社会において地道に形成していくことが、これからの多様化する医療における多職種連携の要となっていくことでしょう。そうした姿勢の試金石が、この統合医療という領域の役割なのかもしれません。

多様化する現代社会の潮流の中で、真に患者さんの保護を目的とした「主治医力」を上げるために、一人でも多くの医師がこの多元的な「統合医療」という概念に関心を抱いていただければ幸いです。

 
 
引用文献

 

1)小池弘人 : 多職種連携と生涯教育におけるジャングルカンファレンスの意義. 日本統合医療学会誌, 8(1): 56-64, 2015

2)小池弘人 : 米国における統合医療の実際. Kitakanto Med J, 53: 63-66, 2003

3)小池弘人 : プラグマティズムの系譜からみた統合医療の本質. 日本統合医療学会誌, 9(1): 35-46, 2016

4)「現代精神医学原論」(ナシア・ガミー / . 村井俊哉 / ). みすず書房. 2009

5)「現代精神医学のゆくえ」(ナシア・ガミー / . 山岸洋. 和田央. 村井俊哉 / ). みすず書房. 2012

6)小池弘人 : 多元主義からみた統合医療の在り方‐「多元的統合医療」の提唱‐. 日本統合医療学会誌, 9(2): 163-174, 2016

7)「医療関係者のための信念対立解明アプローチ」(京極真 / ). 誠信書房. 2011

 

 

参考文献

 

・「統合医療の考え方活かし方 新しい健康デザインの実践」(小池弘人 / ). 中央アート出版社. 2011

・「武術と医術 人を活かすメソッド」(甲野善紀. 小池弘人 / ). 集英社. 2013

・「精神医学の実在と虚構」(村井俊哉 / ). 日本評論社. 2014

・「自分を知るための哲学入門」(竹田青嗣 / ). 筑摩書房. 1993

・「人間科学におけるエヴィデンスとは何か」(小林隆児. 西研 / 編著). 新曜社. 2015


 


tougouiryo at 2016年12月24日07:00|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(7)

多様化の波は医療においても押し寄せています。そうした議論です。


7.医療における多様化の波

 

 医師一人一人の信条や好みとは別に、今後ますます多くの補完医療が「医療」の現場に出現してくるでしょう。こうした際に、ただやみくもに否定ないしは無視をする態度では、患者さんを保護することはできません

また、「語り」を強調するNarrative-based Medicine (NBM)といった概念の重要性も求められる中で、正統医療以外の視点に耳を傾ける柔軟さも、これからの医師には求められてくることでしょう。世界的には補完医療として扱われる「漢方」が、統合医療のみならず家庭医療の領域で再評価されつつある昨今、不定愁訴や社会的問題として片付けられてきた問題に、多彩な補完医療がヒントを与えてくれることがあるのではないでしょうか。そのためにも我々は一定の見識と信条を持ちながら、多様な「他者」に耳を傾けていかなければならないのです。そしてそれが生物多様性を皮切りに、医療分野においてこれから押し寄せてくるであろう、多様化の波を乗り切る方策であるのは言うまでもないことなのです。

 多様な療法との付き合い方に一定の決まりはありません。ただジャングルカンファレンスにおける「多元的な構え」で示されるような点に留意しながら、誠意をもって相互了解に努めるということが重要なのです。なお本稿における「多元」と「折衷」の解釈は、ナシア・ガミーの著作4)5)に拠っており、関心のある方は是非とも原著にあたられることをお勧めします。

 ガミーの主張するところ6)をまとめると、一元的と多元的の両観点から、諸療法の並立問題を考えており、幼稚な一元論である教条主義や、あまりに理想的に過ぎる統合主義に対しては、実際の臨床的ではないとする論を展開していることになります。それゆえに複数の医療体系の並立においては、多元主義こそが目指すべき姿勢であるとし、対照的に悪しき並立の在り方として「折衷」を批判しています。本論はこの主張に従い、多職種連携の要諦を多元主義とし、話し合いに価値を置いて展開してきました。そして実際の臨床的な組み合わせや方策の選択は、この思想的基盤の上にしかありえないことは言うまでもありません。

絶対者の示す真理ではなく、共に試行錯誤しながら道を探る、そこにこそ諸々の医療現場において問題となる信念対立7)を解決する連携が構築されていくのではないでしょうか。これこそが浅薄な「正しさ」を超える多様な療法との付き合い方と言えるでしょう。



 


 


tougouiryo at 2016年12月23日08:00|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(6)

 多元的であることについて。専門家も含め、多くの誤解がある領域です。折衷との概念の違いや、統合への未熟な段階といった誤解の中、その意義を論じています。
 今後も多くの議論を巻き起こすであろう概念ですが、じつは非常に明瞭で、素直に受け取れば難解な概念ではないのです。
 これについては今月発刊の「鍼灸OSAKA」 においても論じております。ご興味ある方はこちらもどうぞ。

鍼灸OSAKA123号 産前産後の鍼灸治療
鍼灸OSAKA編集委員会
森ノ宮医療学園出版部
2016-12-13




 6.多元的であること

 

こうしたカンファレンスから治療家との関係性を考慮することは「医療従事者−患者さん」といった従来の軸とはまた異なる、第三極を考慮することにもなります。つまり多職種連携における新基軸ということもできるでしょう。また、これにより地域医療へも新たなアプローチをかけることも可能になります。例えば広く医療に関心をもつ地域の治療家を、現代医療的安全性を担保した形で、地域医療や保健に取り込むことが可能になります。そうした際に医師がリーダーシップをとって彼らをコーディネートする必要があり、ここで示した「多元的な構え」が応用できるのではないでしょうか。

つまり、このカンファレンスは一元的な通常の学術的カンファレンスと異なり、多元的であることから、その目的は結論を得るということより、広く医療従事者にとって学習の場であるとともに、相互了解の上での連携を強めることにもなるのです。これは多職種連携の思想的基盤が多元主義であることから明白です。

 ここで注意したいのは、多元的な立場とは、すべてのものは相対的だから正しい答えなど何もないということではありません。ましてや、エビデンス至上主義との混同や、コーディネートの有無等の問題として議論することは全くの誤解・曲解という他ありません。

 多元の意味するところは、「真なるもの」といった一元的かつ教条的な発想ではなく(「真」という一元的な発想は常に対立を生じ、実際の連携の妨げになることは言うまでもありません)あらゆる可能性を認めることであり、独我的な発想とは峻別されるべきものであることを忘れてはなりません。

しかし、臨床場面においては常に可能性の強弱があり、現実の医療としてのバランスも重視すべきです。それゆえに、現代医療的に危険性のあるものは排除していかなければならないという一面も含まれるのです。もしすべてを容認するということであれば、あらゆる方法論をコーディネートせずに取り入れてしまう、「折衷」という無節操な立場もありえます。我々は、こうした安易な折衷という立場に陥らぬよう注意しながら、多様な職種と相互了解していかなければならないのです。

つまりここから導かれる多元的な立場は、地域医療における多職種連携に新たな可能性をもたらすでしょうし、また結果、深い患者理解を可能にし、補完医療の負の側面から患者さんを保護することにもつながると考えられます。安易な「正しさ」を振りかざす一元的なこだわりを捨て、現在ある資源を活用し、柔軟な姿勢で時に応じて対応する、これこそが多元であることの特徴でもあるのです。


tougouiryo at 2016年12月22日14:20|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(5)

いよいよジャングルカンファレンスについての解説です。どうぞ!

 5.ジャングルカンファレンス

 

 筆者は2008年から自院にて、2か月に1度のペースで補完医療の治療者を中心とした医療従事者を集め、統合医療カンファレンスを開催してきました。そして2015年にはこれを母体に、「一般社団法人統合医療カンファレンス協会」を設立し、広く治療家に呼びかけ、あらゆる医療従事者が自由に参加できる「ジャングルカンファレンス」を定期開催しています。

このカンファレンスは、症例を中心としたいわゆる臨床的な「問題」を、3040名ほどの参加者とともに自由に意見を述べながら考えるという形式です。様々な補完医療の職種から参加されているので、参加者相互に各々の用いる専門用語を解説しながら、つまり一定の「相互了解」を確認しながら意見を交換していくことになります。参加者は毎回異なりますが、内科医・外科医や看護師をはじめ、栄養士・臨床心理士・鍼灸師・整体師・気功師・ヨーガ療法士・アロマセラピスト等、実に多職種となるので相互了解が特に重要となるのです。

通常、医師がイメージするカンファレンスであれば、唯一の正解とも言える「診断」へ帰結するものですが、ここでは多様な職種の参加する多元的な立場で進行するため、唯一の結論へは至らないことも少なくありません。つまり、ここでは結果を得ることを目的としていないことになります。

このカンファレンスでは、多くの医療者が共通して抱くであろう疑問を「問題」として定式化し、様々な意見を併置させた上で参加者が「相互了解」をしていきます。結論が出なければ、臨床上有効ではないとする意見もあるでしょうが、これは一施設における(いわば通常の)カンファレンスではないため、当然その結論に拘束力はありません。つまり各々が自施設において最終的に決断することになるわけですから、無理にその場で結論を出すこともないのです。

では実際にはどのようなものなのか、以下にジャングルカンファレンスにおけるルールとして掲げている注意点をいくつか述べます。

 

・基本的にはあらゆる人の発言がしやすいように、「多元主義」の立場から会を進行します。

・一方で明らかに医療的、倫理的に問題がある場合は、その場で指摘し、方向を修正します。

・発言に際しては「〜〜分野では、〜〜と考えます」「私の考えでは〜〜です」といった形式をとります。

・各々の症例へのコメントとしては、なるべく(どのような所見)があるので、(どういう状態)が考えられる、という発言形式をとるようにします。

・「〜〜だから〜〜だ」という一方的な打ち負かし型にはしないようにします。

・あくまでも各々の臨床実践のためであることを認識し、衒学的な議論に陥らないように注意します。

・臨床に直結するよう、効果を第一に考える思想である「プラグマティズム」を基本姿勢とします3)

 

 以上のような「多元的な構え」を各々が意識しながらカンファレンスが進行します。全体としては参加者の発言が一人に集中しないよう、ファシリテーターが注意しながら発言を促すことも重要です。とりわけ医師が関係する場合、現代医療的視点から問題がないか、というチェック機能は極めて重要になります。

 


tougouiryo at 2016年12月15日07:00|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(3)

 今回は、統合医療というと、CAMを行うことと同じことだと考える方(いわゆる学会の専門家であっても)が依然として多い中で、そこには否定的な側面もあるのだという議論です。


3.統合医療は補完医療に対して否定的側面も有する

 

 このように述べると、補完医療を加えて地域連携を考慮することの必要性はなんとなく理解されるかもしれません。しかし、やはりエビデンスの確立していない(つまり一部の医師にとってはインチキとも思える)補完医療を、医療という枠で考慮する必要が本当にあるのだろうか、と思われるでしょう。

 そこで統合医療という概念に再度立ち戻って考えてみます。統合医療とは前述したように、現代医療に加えて補完医療を扱う概念ですが、それは必ずしも(補完医療に対して)肯定的側面からのみではありません。時にその危険性を指摘して、当該の療法の中止を促すといった患者さんの保護を目的とした側面も有します。いわば否定的側面もあるのです。

つまり医師として補完医療一般について一定の知識をもつことにより、その危険性を知ることも出来ると考えるわけです。逆に全くの無知・無関心であれば「私は知らないからご自由にどうぞ」といった態度表明とともに、結果として患者さんを危険にさらすことにもなりかねません。そうした意味でもある一定の関心をもって(当然、批判的精神をもって)広く補完医療に向き合うことの大切さもあるということなのです。

 そしてこうした真摯な姿勢に基づいて、明らかに危険性があると判断される場合、又は経済的なデメリットなども考慮して、中止の方向へと進むことも重要なのです。つまり極言すれば、この否定的側面の強調こそ現代医療における「統合医療」といった概念の必要性と言っても過言ではないのです。そのためにも一定の補完療法に関する理解が必要であり、その基底をなすのが、広義の多職種連携ともいえるのです。

 それではこうした多様な療法とのつきあい方のポイントは何なのでしょうか。米国における統合医療の拠点の一つであるアリゾナ大学における臨床の在り方から考えてみましょう。


tougouiryo at 2016年12月13日07:00|この記事のURLComments(0)

多様な療法との付き合い方(2)

前回に引き続いて、第2節です。統合医療の「肝」と何か、についての議論です。


 2.統合医療の要諦は多職種連携にある

 

多くの方は統合医療というものを、たくさんの補完医療を肯定的に駆使するような医療として思い浮かべるのではないでしょうか。しかし当然ながら、一人の医師が通暁できる療法の数には限りがあるので、実際には幾多の専門家と連携をとらざるをえないというのが現状です。また、常に肯定的にこれらを扱うわけではありません。

そしてそこでは、通常の医療現場におけるチームワークと言ったものとは若干趣の異なるものが展開されるかもしれません。つまり、通常は医療者側と患者さん側といった構図になるわけですが、ここではそのどちらとも言えない治療家といった立場を考慮するからです。これは、いわゆる国家資格者と言われる治療家だけではなく、資格制度を有しない治療家という立場もあるからです。

さらには患者さん側とされる人たちの中にも、業務としてこうした(補完医療的な)治療・施術行為を行ってはいないものの、講習参加などを通して知識的に詳しい人も少なくありません。また施術のような形ではなくても、特定の健康食品を(真心からか、ビジネスからかその真意はともかくとして)勧めてくる方がいることも、多くの医師が経験していることでしょう。こうしたあらゆる形での補完医療的アプローチとの連携こそが、統合医療の要諦となっているのです。

つまり、こうした場での多職種連携とは、通常我々が規定する「医療」という枠を超えて、広く地域連携的な意味合いをも持つことになります。


tougouiryo at 2016年12月12日10:05|この記事のURLComments(0)

身体における縮退

  バランスについて感じたことを少し。

 先日の講習会で、小関先生がスポーツなどでのいわゆる「クセ」は少数の大きな筋肉の単純な動きに帰着しがち、というような意味のお話しがあった。

 最近、医療にかかわらず「縮退」(という現象)を考えることが多いので、非常に納得した。いわゆる粗雑な(もしくは故障しやすい)動きというものは、少数の筋肉にその動きが「縮退」している、と言えるのではないだろうか。

 これをバランスボードなどで不安定にすることで、縮退のループを一時的に切る、これにより、新たな動きや行為、動作につながるのではないか、と思う。

 心や関係性のみならず、身体の使い方においても縮退は大きなポイントになっているのではないだろうか。

 温食動想の「動」の部分がかなり充実したように感じる。

 小関先生のHPはhttp://www.kablabo.com/


tougouiryo at 2011年06月28日12:00|この記事のURLComments(0)

テトラセルフケアの意義(1)

  テトラセルフケア、いかがでしたでしょうか。どれも別に目新しいものはなく、健康オタクの方からすれば当たり前のようなものばかり。

 また、これらの有効性を示す証拠がはっきりしないと、という方もおられるでしょう。その通りではあるのですが、一つ一つの証拠を出しているとまたそれはそれで、実践の話がおろそかになる、という面もあります。

 また、これ以上たくさんだと反対に、何をどうやっていいかわからない、ということになってしまいます。

 つまり、少なすぎても、多すぎても良くないところがあるわけで、バランスの良い最小限の数、というものが必要になってくるわけです。それをここではテトラつまり4つにしてみたということです。

 まずはこの4つのバランスを保ちながらのセルフケアを試してみてはいかがでしょう、という提案だったのです。
tougouiryo at 2011年06月11日11:00|この記事のURLComments(0)

テトラセルフケア(想)

 4つ目の最後の要素は「想」です。心健やかに行くための方法が当てはまるわけですが、とくに「思考の悪循環にはまらない」ことはたいせつです。

 結構、ぐるぐると同じことを考えてしまうことってありますよね。いわゆる認知行動療法は、こうしたプロセスを客観的に自分で理解し、改善していく思考方法ですが、それ以外にもいろいろあります。我が国で生まれたものとしては「森田療法」もその代表的なものといえるでしょう。

 とにかく、あたかも「縮退」するかのような思考の悪循環を。どこかで断ち切る、つまり視点をずらすわけです。今回はそうした詳細は省略しますが、こうしたアプローチは身体に対しても有効です。どこか一部分だけに集中しないようにする、ということなのです。
tougouiryo at 2011年06月10日12:00|この記事のURLComments(0)

テトラセルフケア(動)

久々の「テトラセルフケア」です。今回は「動」です。運動がからだにいいことは、あえていうまでもないことですが、「運動する」という言葉が「強迫」になってしまっては元も子もありません。

大した運動量でなくても、たのしくストレスに感じないでやれるかどうか、がミソになります。私は歴史が好きなので、史跡や城跡をめぐる中で、運動量を稼ぐようにしています。しかし毎日ではないので、まあなかなか十分な運動量とは言えませんが(笑)一つの参考にしてください。


<歩行>


 やはり万歩計などでの計測も大切です。客観的な評価があると「やる気」にもつながります。ただ歩くということだけではなくて。記録をつけるのも成功の秘訣です。


<呼吸法>

 運動に分類するか否かは意見の分かれるところですが、呼吸運動と捉えてここでは「動」として扱っておきます。さまざまな方法がありますが、わかりやすいのは「吐く息」を「なが〜く」です。
つまり・・・
1)まず息を吐いてから大きく吸います。
2)吐いている時間を自分で数えます。
20くらいを目安にしますが、無理をせず、初めは少なく5くらいからでOKです。


 呼吸法になれたきた方には1〜3を心で唱えながら行う「自律訓練法」もおすすめです。詳しい説明はここでは省きますが、当クリニックで行っている「からだ再発見教室」でも評判のいい方法ですので、ご興味ある方は成書などを参照してみてはいかがでしょうか。
<自律訓練法>

1「気持ちが落ち着いている」

2「両腕が重たい」「両脚が重たい」

3「両腕が温かい」「両脚が温かい」


tougouiryo at 2011年06月09日12:00|この記事のURLComments(0)

テトラセルフケア(ちょっと休憩)

温・食と続きましたが、このあとは「動」「想」と続き、全部で4つになります。
これらをモデルとして書くと正四面体の4つの頂点をイメージしています。
つまり、これらがまとまることで基本的なセルフケアとなる、というイメージです。
「4」という数字はユングのタイプ論でも4種類のように、まとまりのある「完全」な数、という意味合いがあります。

それらをつなぐ要素、つまり正四面体の辺にあたるもの、が「絆」もしくは「関係性」として捉えています。

これらの立体的なイメージと詳しい内容は現在、本を書いていますので、近いうちに出版を予定しています。
またお知らせしますので、ご興味ある方はぜひご覧ください。
tougouiryo at 2011年06月04日12:00|この記事のURLComments(0)

テトラセルフケア(食)

 ついで、食についてです。それぞれ、これはというような方法があると思います。私の経験的なところで確実な方法をご紹介します。


<糖質制限>

一日一食は糖質制限をしてみる。つまり主食を抜いてみる。だるさ、落ち込み、眠さのある人はとくに。


<サプリメント>

マルチビタミンを中心としてサプリメントを摂取する。とくにストレスの強い状況であれば、ビタミンBCは多めに摂取する。また亜鉛欠乏にも注意し、女性は加えて鉄欠乏にも留意する。

<発酵食品>
発酵食品を摂る。納豆、味噌、ぬか漬けにキムチ、ヨーグルト、チーズと発酵食品はさまざま。腸内環境の調整、ビタミン・アミノ酸の補充、さまざまな効果が期待できまので、摂取を心がけてください。


tougouiryo at 2011年06月03日12:00|この記事のURLComments(0)

テトラセルフケア(序)

テトラセルフケアとは、4つのセルフケアをまとめたものです。
まあ、つぎはぎ、と言われればその通りなのですが、まとめた時はまた違った効果を発揮するものです。

ただの部分の総和以上の効果を「シナジー」とよびますが、このセルフケアもこのシナジー効果を狙ったものです。

どれか一つの専門家でなければならない、といった考えがこの国では強いですが、ある程度俯瞰した視点もこれからは必要です。全体の危機管理も局所の専門家のみでは、難しいのではないでしょうか。

総合診療という医療の在り方、そして統合医療の在り方、こんなことを先日、名古屋大学総合診療の先生と話してきましたが、そうした視点の重要性も我々は考えていかなければならないのではないでしょうか。


tougouiryo at 2011年06月01日12:00|この記事のURLComments(0)

身体内部における「縮退」

 週末は、当院のカンファレンスがあり、今回は「ふくらはぎ・膝の痛み」を中心に参加者で検討しました。小関アスリートバランス研究所の小関先生にも参加していただき、とても有意義なカンファとなりました。

 ここでの気づきをいくつか・・・。からだの力みを意識しないと、簡単に腕があげられるのに、どこかに(腹など)に力みを意識すると途端に腕があげられなくなってしまいます。これは一見、臍下丹田に気を込めるという行為と矛盾する結果です。

 しかし、実際に体験して感じるのは、まさにこうした力みにより、からだ全体の動きは低下してしまうこと。つまりどこかに中心(もしくは支点)を作ってしまうと、そこに動きが「縮退」してしまうような現象が起きるようです。縮退は、ものごとの歴史的な流れに対してだけではなく、空間的な広がりにおいても適応されうることが実感できました。

 つまり、どこかの支点に動きを縮退することなく、全身に分散させることで掴まれても妨げられることのない動きにつながるのではないでしょうか。小関先生は部分的な関係性をつくることで全体性が崩れる、と表現されていました。これはまさに「部分と全体」の関係そのものです。理論として理解していたものが、体感をもって伝わったようで非常に勉強になりました。

 力み(つまりは交感神経優位となるようなストレス状況下)は、まさに縮退の中心点と考えられ、数々のリラックス技法(自律訓練法など)はまさにこの縮退を止める、もしくは遅めるものとして理解できそうです。縮退を防ぐ、このことがかなり医学においても重要であることがさらに実感できました。

tougouiryo at 2011年02月21日15:28|この記事のURLComments(0)

効率化の功罪

 スローダウンな生活の重要性を少し前に考えてみました。速さを求められる現代、なぜスローが重要かを少し考えてみたいと思います。

 物事のスピードアップは、無駄なことを省いてより短い経路で物事を遂行していきます。結果無駄がなくなるので、経済的なわけです。しかし、このちょうしで続けていけば際限なく、スピードがあがるわけで、人間の本来持つ速さ(もしくは対応可能な速度)を上回るような日が来てもおかしくないわけです。現に、それに対応すべく、さまざまな機器が発達し続けているわけです。

 こうした速度の上昇は一方で、その経路を短くもします。わかりやすくいうと、株の取引などで極めて短時間に超多額のお金がパソコン上を動くわけです。一昔まえとはその速度が異なるわけです。これにより一部の人が大金持ちになり、社会の二極化も速度を増すというわけです。

 こうしたことは人間の体でも起こってはいないでしょうか。いろいろな薬が出来たことにより、症状の改善(もしくは変化)がよりスピードアップしうる時代になりました。が、一方ではそのための問題も散見されるようになったわけです。こうした健康への素朴な疑問や心配がスローダウンの風潮の基底にあるように思います。効率化にかんしては、サプリメントなどが良い例です。なぜサプリが必要になってきたか、それは、昔は米を食べるとしてもきれいに精米して食べるということはないわけです。一見無駄なものが、たくさん付いていたわけです。しかし効率化によりエッセンスのみを取り出すようになるなかで、以前はゴミと思われていたものの中に、大切な栄養素がたくさん含まれていたわけです。無駄を切り捨てるなかで、本当に必要なものも捨ててしまっていた、ということもあるわけです。これこそまさに短絡化することの弊害と考えて良いと思います。

 人の体も同様で、一見面倒な生活改善をせずに、薬物による短絡化を安易に取り入れることの弊害もありそうです。「縮退」そのものの説明には至りませんでしたが、こうした効率化の功罪を考えてみることも重要ではないでしょうか。

 縮退に対抗するわけではないのですが、今週末は弘前で統合医療研究会です。東京ではなく、地方での開催に意味があると考えております。統合医療医が5名ほど集まって、小さな発表会をする予定です。公開ではないのですが、良い成果があれば。またここでもご紹介したいと思います。といいながら温泉もあるので、楽しみです。

 次回の「からだ再発見教室」は3月5日13時半〜です。お電話にてご予約受付中です。


tougouiryo at 2011年02月10日13:53|この記事のURLComments(0)

「スローライフ」を考える

  統合医療や広く代替医療について書かれたものをみていると、なんとなく共通したキーワードが見えてきます。「ナチュラル」とか「からだにやさしい」とか・・・そのほかにも「こころもからだも温める」「免疫力をあげよう」「自然治癒力を高める」等々。

 どれも良いことで、それ自体、何ら問題はないのですが、それってどうして重要なんだろう、と、ふと考えると、意外に簡単には説明できないような気がするのです。たとえば安保先生の理論を使って、副交感神経活性化だから・・ということはできるけれど、すべてがそれだけというわけでもなさそうです。

 こうした言葉の中に「スローフード」「スローライフ」というものも入ります。これもなんとなく「スロー」なのはいい、というところまではわかりやすいのですが、どうして、といわれると、意外に情感だけで納得しているような気がするのです。急がない、急がなければアドレナリンが出ないから、副交感神経優位となる・・・そうした自律神経を介した説明以外にはできないものだろうか、とかつて考えていました。こうした「言葉」たちにはもっと根本的な意味はないのでしょうか。

  早くて確実ということはすべてに優先すべきこと、と結論付けていいのでしょうか。こうした素朴な疑問から「スロー」が提唱されてきているのでしょうが、ちゃんとした議論になると、「・・・」とつまってしまうようにも思います。こうした、いわば「あいまいな」ところがちゃんと説明することができれば、医療をふくめたライフスタイルを考え直す上で大きな力になるように思います。

 「スローダウン」することに何か意味があるとすれば、それはどういうことなのでしょうか。こうした問題には、「現代医療だけではダメなんですか?」と問う人への答えや、多くの代替医療の存在理由、もしくは代替医療の危険な側面などを考えるヒントがあるように思います。急速にスピードアップする現代、なんでも早くて確実な方が本当にいいのでしょうか?

 こうした問題への一つの視点として、すべてのもの(こと)が速度を上げて収束していく「縮退」といわれる現象があります。そうした現象を次回以降考えてみたいと思います。

tougouiryo at 2011年02月03日14:24|この記事のURLComments(0)

統合医療における「部分と全体」

 このブログでも統合医療についていろいろと書いてきましたが、まだまだ統合医療という考え方自体が良く理解されているという状況ではありません。また、専門家の中でも大きく意見の相違があるのも事実です。
 
 保守的な先生では、現代医療と論文などしっかりとしたエビデンスのある代替医療を合わせたもののみを統合医療と呼ぶべきだという意見もある一方で、そうではないものも含めて考えて(マネージメントして)いくべきではないか(ただし勧めるかどうかは別ですが・・・)という考えもあります。

 私はどちらかといえば後者なのですが、仲間内でもこれに反対、という先生もいらっしゃるのは事実です。ただし、なんでもEBM、EBMとしてしまうと必ず、裏に入ってしまうものを増やすだけだし、答えとしては優等生ですが、あまり現実的ではないと思うのです。それゆえに、実際は一つ一つのケースに最適なように考えていくしかないように思うのです。

 また、ふくらはぎについての執筆をしていて思うのは、「なぜふくらはぎ?」「なぜ温め?」「なぜ統合医療?」「なぜナチュラル志向?」こうした問題はなんとなくそのほうがいいから、という気はするのですが、「どうして?」と問われるとはっきりしない人も多いのではないでしょうか。これに対しては少し前には、新潟大学安保先生による「安保理論」として総括的に説明され、かなり理論的には以前よりすっきりしたものの、まだ、すべてがクリアという感じではありません。

 これらの問題に対しては、統計的な方法でははっきりするのは困難で、むしろ数学的な論理のようなもので、バッサリと切ってしまうしかないように思います。でなければ、延々水掛け論を続けざるを得ないでしょう。

 そうした問題のうち「部分と全体」の問題はとても大きなものです。部分を集めたものは全体と一致するか、という問題です。これをこの後少し考えてみたいと思います。私たちは意外と、部分は全体の状態を反映していると考えがちです。こうしたところに意外な盲点がありそうです。こんなことをおいおい考えていきます。

 長くなったので、今日はここまでにします。

 ちなみに次回の「からだ再発見教室」は3月5日(土曜日)13:30〜です。糖質制限や自律訓練法に加えて、「部分と全体」についてもお話しする予定です。


tougouiryo at 2011年01月28日16:41|この記事のURLComments(0)