読書だより
ハラノムシ医学への道
トーマス・カウワン著『ウイルスは妄想の産物』もそのうちの一冊。こちらはウイルス一般の存在を否定しているわけではないので、やや題名が過激な印象がありますが、それ以外の視点として生物学全体に疑問を呈しているところは興味深いです。細胞説全体に対しての疑義なのですが、これは本書では触れられてはいませんが、臓器特異説、組織説、細胞説といった通常の医学史での展開に大きな影響を与えるものにも思われます。
また、ここに細胞説への疑義を読むことで、三木成夫に大きな影響を与えたビシャ―の組織論、膜論などを再検討してみる必要も感じました。従来の生物学への疑問からは、水分子の在り方の問題、これは相分離生物学的な主張とも極めて似ている点でもありますが、このあたりも特に興味深い。とりわけ水分子のコヒーレント状態に言及している点も、個人的にはマトリックス論との関連でとても惹かれました。
ビシャ―についての一般的な考察は以下。
また、これもヒカルランドになりますが、徹底してウイルス・細菌による感染症を否定的に述べ、かつ医療の歪みを指摘したD.レスター&D.パーカー『本当は何があなたを病気にするのか』もこうした系統になるでしょうか。個人的な感想としては、全てを納得できるというものではありませんが、考えさせられる記載も少なくない書籍ではありました。
これらの書籍を読む中で、確かにどの立場から記載したものなのか、ということの重要性ということは強く感じることが出来ました。
ある疾患や不調、症候群を、化学物質の毒性を軸に理解するべきか、細菌やウイルス・寄生虫など生物学的な軸で理解すべきか、容易に決定できないことも少なくないでしょう。化学物質中心に行けば、確かにナチュラルハイジーン的になるでしょう。そしてこの反対の立場、それも伝統的なところまで立ち返ったものが「ムシ」の観点ではないかと、最近、ずっと考えております。
古典医学的に、いわゆる虫因論とされるもので、霊因論と心因論との中間に位置するとされます。簡単に分かり易く述べれば「ハラノムシ」のムシです。かつて心身二元論が徹底される以前は、精神的な疾患を、この虫因論で解決していた時期があり、今日の医学を考える際にも多くの示唆を与える視点でもあります。反医学的な毒物起因論による反感染症論争の時に、こうした伝統医学的なまなざしは、当然考慮されていません。しかし古典的には確実に、今日の意図とは別に、存在した認知方法だけに、これはこれで再検討すべきではないかと最近は考えております。
詳しい構想はまた後日、ここで記載することとして、とりあえずこうした認識論まで含めた医学的考察を「ハラノムシ医学」とでも名付けておこうと思います。
こうした発想も最近のマトリックス的な思考によって出てきたものです。今後、いろいろと書いていこうと思います。
「種と土理論」からがんとファシアについて考える
内容に関しては読んで頂くとして、記述はとても分かり易い書き方になっています。が、実際に臨床の場もしくは、研究の場に縁のない方にとっては、なかなか実感が涌きにくいのではないか、とも感じます。
エッセンスとしては「がん」という実在はないということに尽きるのですが、この辺りは哲学史におけるスコラ哲学の普遍論争の様相も帯びてきます。「がん」をめぐる唯名論と実在論の対立、といったところでしょうか。私としては、一般に近代以降のメジャー「唯名論」に依拠することが多いのですが、ここでの論争などはそう簡単にはいかないし、実際そうではないだろう、というのが本書の主張でもあります。
しかし、数学や生物学などの分野では、実在論に依拠しなければ、理屈の通らないものが少なくないことも事実で、がんの問題に関しても同様です。あまり「がん」の問題に直面していない方にとっては、どうでもよい問題かもしれませんが、この分水嶺の示す意味はとてつもなく大きい。具体的には、抗がん剤による治療と、そのメカニズム解釈を受け入れるか、否かといった問題に帰着されるからです。(ちなみに唯名論と実在論の対立への解決策としては医学分野ではプラグマティックメディスンに依拠するべきだと考えます)
社会・経済におけるポストモダンの蔓延の後に、経済分野において新自由主義へと流れていく様子と、医学における発展と混乱の後のEBMの勃興から、商業的な性格を強く持つものへと変貌する姿とが重なって見えざるをえません。そうした世相ともパラレルに展開してきたものと考えると、さらに理解しやすいのではないかとも思えます。
本書における問題の提示は、こうした哲学的視点のみならず、がんの進展や転移の在り方における「種と土」理論などおおいに考えさせられました。
「種」としてのがん細胞研究であれば、その遺伝子変異や細胞内の代謝のあり方など、細胞そのものがフォーカスされるわけですが、そこに「土」も関係するというわけです。本書では幹細胞からの成長基盤である基底膜の状態が議論されていましたが、進化における細胞としての背景でもある線維芽細胞との関連で考えれば、まさに昨今の流行りでもあるがん関連線維芽細胞(CAF)についての議論にもなりうるわけです。さらに敷衍すれば、コラーゲンの状態、さらにはファシアの状態にまで話題を広げることも可能でしょう。
がん細胞関連のファシアの役割としては、コラーゲンによるがん細胞の包囲(抑え込み)などが浮かびますが、これですら「がん細胞」仮説でのモデルと指摘されても仕方ありません。つまりそうしたモデルではなく、種としてのがん細胞に対して、土としてのコラーゲン、ファシアの状態の病態への関与が重要であるとみることも出来るわけです。これは、またファシア理論を大きく発展させるカギとなる概念になるでしょう。
このほかにも「がん細胞説」と「がん幹細胞説」など、似て非なる理論展開の相違など興味深い話題が多く紹介されていますが、ここではここまで。肯定、反対、いずれにしても、ご興味ある方は一読お勧めいたします。
ふくらはぎ力(世界文化社)の新装版
そんなことを考えていたら、かつて市野さおりさんと共著で出版した「ふくらはぎ力」が新装版で、装いも新たに出版されることが決定しました!
この本は、現在のマトリックスの基本的な考えと、身体における「縮退」の意義などにふれた初めの方の本なので、今回原稿を読み直し、とても懐かしく感じるとともに、マトリックスの考え方の重要性を再認識しました。
まだ出版の詳細は決定していないようですので、分かり次第ご紹介したいと思います。おそらく夏頃の出版になるのではないでしょうか。内容は少し追加原稿はありますが、旧版と概ね同じ内容です。
旧版はこちら ↓ ↓ ↓
カフェのもう一つの参考図書 「過剰医療の構造」
そのため今週のジャングルカフェの前に、もう一つの参考図書として下記のものを挙げたいと思います。雑誌の特集を書籍化した内容なので、全体としては解説あり、対談あり、の読みやすい内容だと思います。
今度の課題図書は、幕末から明治にかけてのいわば医学史の本ではありますが、思想がいかに医学体系そのものに影響しうるか、という点もまた考えさせられるものです。
そうした中で、近代においていかに身体を管理することが政治そのものであるか、という事を鋭く指摘したフーコーの用語「生政治」と合わせて、とても考えさせられるものでした。
幕末においては、自らの医学体系を推進するために、その身体観をかけて政治活動に身を投じた医師たち。そして明治国家となってから、日清・日露戦争と富国強兵がすすめられる中で西洋医学でなければならなかった事情。これらを考えるとき、生政治の中心は医療であったことは言うまでもありません。そして、現在。近現代史における医療の真の姿を考えるとき、「過剰医療論」は避けては通れない大きなテーマであると思います。
今週の木曜日はジャングルカフェですので、こうしたことを参加者の皆様と考えてみたいと思います。
身の維新 ジャングルカフェの4月課題図書と参考図書
課題図書は一見とっつきににくそうですが、主人公的な和方医はなんと「るろうに剣心」でもおなじみの赤報隊隊長、相楽総三の右腕と言われた人物なのです。ここまで読んで興味を持った方は、是非、御一読を! また、みんなで読みたい方は、カンファレンス協会までご連絡を(笑)(当協会にご興味ある方は「ジャングルカンファレンス」で検索!)
参考文献として、ここに書かれた浅田宗伯とはかなり違った別解釈のものが以下です。漢方関係者は以下の本の解釈が好みだろうなぁ。
この時代と丸々被るマンガもあります。言わずと知れた巨匠、手塚治虫の名作です。
こうした歴史の流れから、今日の統合医療的な流れへの源流をみるには以下のものも面白いでしょう。オカルト好きには是非(笑)
立花宗茂残照
そんな中、年末に、最強の誉れ高い戦国武将、立花宗茂の小説を読んでおりました。新書などの解説でもとびきり興味深い武将なのですが、小説だとまた少し味わいが異なって、また良いのです。
『尚、赫赫たれ』という小説なのですが、全盛期の宗茂ではなく、江戸時代になってから、つまり晩年の回想も交えた内容になっています。雰囲気はちょっと違いますが「葬送のフリーレン」みたいな感じもあります。つまり、最大の戦いは、既に終わり、それを回想できる友人もほぼいない。そんな中でも、現状にはいくつかの問題が発生する。それを回想と共に、またそれなりに解決していく、みたいな感じです。 関ケ原の戦いを少し考え直すのにも参考になります。
ご興味ある方、ぜひどうぞ(^-^;
『科学を語るとはどういうことか』読後メモ
対談本で「けんか腰」の姿勢が見られることはほとんどありませんが、この本はまさにそれ。かつての「朝まで生テレビ」を彷彿とする言い合いです。(分からず屋に対してキレかかるところはなかなか通常の本ではお目にかかれません)
巻末の方で、伊勢田氏が書かれているように、読者の反応も真っ二つに分かれるようで、「科学」というものへの姿勢の違いが如実に現れます。(と、解説されますが私個人としては、須藤氏が理解してなさすぎ。物理学の権威者としての威圧を随所に感じます)
私自身は、伊勢田氏の見解に大賛成なので、須藤氏の反論は言いがかりにしか聞こえず、頭が固いにもほどがある、という感想を終止感じました。よくもここまでの「分からず屋」に、伊勢田氏は粘り強く、丁寧に説明できるものかと感心しどおしです。「科学」という概念を確立したものとして固定的にとらえるか、ある種の歴史的産物として軟らかくとらえるか、が両者の大きな相違点と言えるかもしれません。
科学哲学・科学史的な書籍を読んでいた大学時代、ガチガチの古典物理的な同級生に「非科学的だ」と非難されたときの不快感が、30年以上の時を経て(笑)蘇ってくるようでした。こうしたことから、読了までに疲労感を強く感じたのかもしれません。また「科学」という語のもつある種の巨大な権威も、あらためて再確認できました。
そもそも著者の一人の伊勢田先生(ここからは敬称変更します)は、今年の統合医療学会(静岡大会)に講師として招聘する先生でもあるので、『疑似科学と科学の哲学』などを読み直していた際に、アマゾンで見つけたのが本書でした。初版は2013年なので、決して新しい書籍ではないのですが、全く時間の経過を感じさせない内容で、改訂版巻末には2021年の再対談も増補されており、こちらも本文と時間差を感じない後日談といった雰囲気でした。
私が伊勢田先生のご著書に関心を持つ理由は、先生の科学哲学への姿勢が、私にとっての統合医療への姿勢に重なって見えることです。本書の出版後、須藤氏との対談で触発され、科学哲学史の再検討に入るといったこだわり(当然私はここまでのレベルではございませんが…)や、科学哲学界自体にまとまりがないというコトを率直に認めるところなど、大いに共感しました。これは当然、統合医療の学問的曖昧さ、様々な立場の林立、そして抜本的再検討の必要性、などと重なって見えてくるわけです。
また疑似科学という問題に真正面から取り組むには、伊勢田先生の著作は避けては通れないものでもあります。伊勢田先生の招聘に関しても、統合医療=代替医療派からは、大いに反対が予想され、ここでの対談の「医療版」が静岡でも展開する可能性もあるわけです。(良いか悪いかは全く分かりません)いずれにせよ、そうした問題に対応できるアタマの状態に持っていくには絶好の対談本でした。
また後日、別角度からも本書の内容は取り上げてみたいと思います。最近は産業医の講習会に、バタバタとあちこち参加しているので、久々のブログ記事になりました。これもふくめて、統合医療の解釈が根本的に拡大していきそうですので、ぼちぼちそんなことも書いていこうかと考えております。
GW終盤! 医学とお城のおすすめ本
とりわけ、実際の診療においては、当たり前の「前提」として解剖生理があるわけですが、なかなか難しいケースであれば、当然その前提により易々と解決されるようなものではないわけです。となると、それ以外(つまり従来の解剖生理の補集合的な)概念を必要とするわけです。
ただしここでは、スピリチュアルやエネルギーといった代替医療性が強いものをいきなり導入する、ということではなく、通常の総合診療的な枠組みで扱いうるものとします。そうするとどんなものが挙げられるのでしょう。
そうした通常診療の補集合的な概念として、まとめたものが次のようになります。とりあえずは、皮膚・ファシア・自律神経・マイクロバイオ―タの4つです。(個人的には統合医療的な診療の隠し玉と考えています。無意識のテトラとも関連させてます)
皮膚といっても、通常の皮膚科的な意味合いではなく、触れるということから皮膚の多彩な機能から演繹されるものですし、ファシアもただの結合組織的なものではなく、引き伸ばした時のアナトミートレイン的な状況も含めてのものです。当然、自律神経も通常の二重・拮抗支配といったストーリーのみならず、腸管神経系、さらには無髄迷走神経の働きも考慮したポリヴェーガル理論なども射程に入っていますし、マイクロバイオ―タとしては腸管に限定されず、皮膚表面なども広く考慮したプラネタリーヘルス的な視点も考慮されるべきでしょう。
ちょうどGWで、時間もありましたので、これをまとめて考えてみようと思い、以下のような本をまとめて読んでいました。学生時代に学んだ医学と比べて更なる広がりを感じることができました。
と、医学の話はここまでで…
ちなみに今年のGWは遠出せず、近場の城のリア攻めです。関東の戦国史に思いをはせながら、滝ノ城、山口城、立川城(立川氏館)、滝山城、を廻っておりました。
関東戦国史は、結構複雑でなかなか分かりにくいのですが、以下の歴史人5月号増刊、良かったです。
また、関東近隣のお城めぐりとしては、西股先生の以下の書籍がホント、おすすめです!滝ノ城では特に参考になりました。
まなざしの変化について
先日、甲野善紀先生とお話した時に、剣は主に右手持ちの方が遣えるのではないか、ということを伺いました。
いわゆる「平等」的な発想では陰陽バランスで、両手遣いになりそうですが、右手重視(つまり常識とは反対)になるという「逆転」する意味について、私の「統合医療の哲学」でも展開した「折衷と多元との相違」と極めて似ているのではないか考えました。いわゆる「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」的な考え方といってもよいかもしれません。右手も左手も平等に、ではなく、左手ではなく右手、といった選択です。
こうした武術など身体技法の伝承が途絶えやすい説明の一つに「まなざし」の変化という現象があるように感じています。
身体に関する「まなざし」の変化は、それに対しての認識の変化というコトにとどまらず、その実践的な動きにまでその影響が及ばざるを得ません。
この理屈はフーコーという哲学者から拝借したもので、医学は「死体解剖」を視点に導入した18世紀を境に、制度も含めてすべてが変貌したということが『臨床医学の誕生』で述べられています。つまり進展というのは、それまでの医学体系を取り込みながら複合していくのではなく、異質のものへと変成されていくということで、この契機を「まなざし」の変化に求め、具体的には「不可視なる可視性」として説明しています。フーコーは、このまなざしの決定的な変化の契機を、夭折した天才ビシャの病理解剖に見ており、これにより「死」からのまなざしにより、今日の「臨床医学」が誕生したというのがあらすじとなります。
私はこの考えは、医学史や武術的なものに限らず、近年のファシアと通常の解剖生理との関係にも適応出来るのではではないかと思います。
つまりファシアという視点は、病態生理への新たな知見の導入にとどまらず、ファシアの変化をむしろその一歩手前の段階として「疾患」というものを根本からとらえ直すことで、全く新たな視点を得られるのではないか。これは現在展開されている「折衷的な」ファシア論とは一線を画すはずで、まなざしの大きな変化を伴うものです。
これは本質的には新知見の導入ということに留まらない可能性を有するものです。つまり「あれもこれも」ではない「まなざし」の変化は、大きな「対立軸」をもたらすものでもあります。これこそは「剣の持ち方」から「ワクチン問題」まで、わずかな相違を含みつつも、大きな共通基盤になるような気がしてなりません。
そして現代における大きな問題は、歴史的なまなざしの変化によるものより、大資本による意図的なまなざしの変成のようにも思えます。そして、そうした基盤ゆえに、科学的な論調を飛び越えて「議論」されてしまう面があるように思います。
またオープンダイアログでは、この「まなざし」への揺さぶりが関与しているのでしょう。ファシアによる視点の変更とあわせて、昨今、関心のある事は、こうした「まなざしの転換」と解釈することも出来そうです。
以上、年末年始に考えたことを、メモ的に書き出してみました!
ポリヴェーガル理論への誘いのメモ
『世界の再魔術化』からの展開として、デカルトによるいわゆる「科学的思考」から、ベイトソンの「メタサイエンス」的な思考への考察。
ベイトソンの領域横断的なシステムとしての理解の仕方を、本書におけるユングやライヒから発展した身体論(とくにライヒに由来する生体エネルギー理論)に応用した場合はどうなるのか、と考えていました。
そこで意図していなかったのですが、ちょうどポリヴェーガル理論の新刊『ポリヴェーガル理論への誘い』(津田真人著)を購入したばかりでしたのでぱらぱらとみていました。前著はかなりの大作にして労作でしたので、なかなか読み進められなかったのですが、本作はかなり内容を基礎的な話題に絞っているので、ボリュームもかなりコンパクトで理論の再想起に役立ちました。
ここで改めて、三木成夫理論への接続の重要性が著者である津田氏によって述べられている(注)を読み納得。また従来の二元論的な拮抗する単純な自律神経モデルを超えた「ポリヴェーガル」の持つ意義も再確認できました。単純なモデル、乃至は単純な正誤判定の「メタ的段階」を考えるうえで、ベイトソンの展開したものとの類似性も感じました。特に実臨床における自律神経やファシアなどへの具体的展開として位置づけられるように感じます。(まだ構想段階ですが、ポリヴェーガルにおける愛による不動の問題とライヒからオーウェンに連なるオルガズム理論との関連性は非常に興味深いと考えます。またオキシトシンの問題と絡めてライヒ的な社会問題への発展や、ベイトソン的な考えと三木成夫との関連性も考察したいテーマです)
大学講義の準備を終えて 〜科学至上主義、デカルト主義から相対主義を考える〜
例年、この準備をして思うことは、いわゆる、科学至上主義、エビデンス至上主義を唯一の真理と信じて、入学後に学習してきた学生に対して、それだけで本当に良いのかというゆさぶりをかける難しさです。いきおい、科学とは何か、医学とは何か、といった哲学的問いを無視することはできません。
こうした中で、今週はジャングルカフェも開催予定です。こちらはコロナ関連の書籍を読んでいくものなのですが、いわゆる情報が錯そうする中、何を真実とすべきかという問題を考えることになります。
敵対する考えを即座に排除する風潮の中、分断をすこしでも止めるべく、対話の可能性を議論する予定です。当然、そこでは多元主義がテーマとなるのですが、これがまた、やっかいな概念でもあります。つまり文字通りとらえるといわゆる「相対主義」のようなニュアンスでとらえる方がなんと多いことか。これは、私がよく話題にする四つの主義のうち、じつは折衷主義と表現すべきものなのですが、これが多元ととらえられやすい、つまり間違えやすいということ。
また多元主義には、ある種の「統合」的な意味合いもあるので、時に統合主義と表現しうる場合もあるし、また統合主義と安易に表現すると、今度はナイーブな意味での善悪二元論に陥りやすくもなる。とにかく概念の混乱が多い領域というわけです。
こうした中で特に注意すべきは「相対主義」に陥らないということ。これは哲学的な議論においてもとても重要なことではあるのですが、どうすれば良いかとなると、かなりの難問ではあります。この問題に関して最近、モリス・バーマン著『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』を読んで、非常に大きな気づきがありました。
そこには、最初に書いたような科学的思考、つまりデカルト思考の誕生によって「相対主義」が出現することが繰り返し述べられています。
つまり錬金術の世界を脱し、科学が誕生する中で、思想においてなにかとんでもない過ちを犯しているのではないかという考察です。
こうした思想における大きな転換を科学史から解き明かす内容は非常に興味深いものです。この相対主義の出現の問題は、多元主義の根底と不可分なものでもあり、これはまた後日に再度考えることにしましょう。
マウステーピングによる鼻呼吸のススメ
鼻うがいなどと合わせて、鼻呼吸を促進する方法であるマウステープの使い方、ならびに、それによる様々な症状改善の実例が紹介されています。
貼って寝るだけ、という簡単な方法ですが、なかなか始められないという人も多いはず。紹介される実例を見て、症状に思い当たる方はぜひ開始してみてはいかがでしょうか。貼りつけたときの肌に優しいテープを用いた専用のテープもありますので、かぶれなども心配なく、毎晩続けられると思います。
長沢道寿の古典
千福先生の「はじめに」で主張されていることは誠にその通り!と思い、年末年始の休みにでもゆっくり読もうかと思っております。
「後世方」にご興味ある方は、ぜひお読みください。
長沢道寿 漢方処方の奥義
Amazonからであれば、千福先生の著作には下記のものもあります。
内観療法の関連書籍
先日も内輪の会で「内観」について話題が出たので、関連書籍を少しあげておきます。私が奈良内観研修所の三木先生にお世話になりましたので、それらが中心になります。
てい鍼テクニックー船水隆広のTST-
先生のご自身のTST技術書を事前に読んでいたこともあり、とても楽しい時間を過ごさせて頂きました。鍼灸に関する興味深い数々のお話に加えて、先生のバランスの良いお考えに、是非とも今後ジャングルカンファレンスのご指導を頂きたいという思いを強くしました。
TSTの技術書、とても美麗な書籍で、てい鍼の持つ繊細なイメージを「水」の美しさで表現した見ているだけでも素晴らしい本です。ご興味ある方は是非とも手に取ってみて頂きたい一冊です。
船水先生並びに、非常に有益なご縁をつないでいただいた田尻理事にあらためて感謝です!
静電三法
まだ未読ですが、ぱらぱらとみる限りなかなか興味深い内容です。アーシングと合わせて、少しこちらの分野が気になっていたので、読んでみたいと思います。電気関連の健康法にご興味ある方にお勧めのような気がします。
私の生まれる随分前に、既にこうしたことを考える人が結構いたんでしょうね。そう思うと、この分野も進展したような、そうでもないような、複雑な心境ですね。
アンゴルモア 元寇合戦記
ご当地対馬ではアンゴルモアの探訪マップが置かれ、いわゆる聖地巡礼が出来るようになっていました。事前に読んでいたので、金田城をはじめ、小茂田浜神社や清水山城など登場地を楽しめました。
帰ってからも「対馬」「元寇」に関して少し調べてみたのですが、これまで全く知らなかったことも多く、とても考えさせられました。とくに元寇に関しては、かなり巷間よくあるイメージとはかなり乖離したイメージだということを感じました。
↓ こちらもまた違った角度で語られているので興味深かったです。
地図でスッと頭に入る 古事記と日本書紀
そんな中でこの本はすごく分かり易いです。人物の関連図が分かり易く「表」になっているうえに、地図で有名な昭文社の出版だけに地理的な関係もしっかりと書かれているので、一気に読めて、かなり整理されました。
今年は城郭巡りの中でも古代山城を訪れる機会が多かったので、「乙巳の変」や「白村江の戦い」に至るまでの流れがすっきりとしました。
医学的なこととは無関係なようですが、我が国におけるさまざまな特殊性を理解するうえでも、古事記の世界観は不可欠なように思います。ぜひご一読を!
来月のジャングルカフェ課題図書
初めはただ面白そうだなと思って、書店で手に取ったのですが、まさにこの発想は、以前このブログでも展開した「こちらの医学」の構想そのものです。
自らの内面を形成する「構造」的な問題と、それを認知科学的な用語で記述するという発想。ケン・ウィルバーの四象限で言うところの「I」における外面(構造主義的視点)と、「It」における内面(認知心理的用語)とが交差する世界観です。
当事者の主観(ナラティブ)と、疾患の客観的記載(EBM的・科学的記載)の2つが主に重視される現在の思潮の中で、忘れられがちなもう一つの視点として「こちらの医学」としてかつて主張したもの。これが「認知症」という大きな関心を持たれる疾患への具体例として展開され、出版されていることへの驚きも含めて、今回のカフェの課題図書としました。
認知症についてのみならず、ここで展開される視点(観測点)の面白さ、大切さを感じて頂けたらと思います。
こちらの医学との関連性については、また後日、こちらで書いていきたいと思います。
ユナニ医学についての参考書
少し古い文献なのですが参考に掲載しておきます。
多くのエピソードとともにアラビア医術の息吹が伝わるような内容です。
武道医学を修める著者が、アヴィセンナの大著『医学規範』の概略を紹介しています。
アヴィセンナの『医学規範』とならび、その普及版的な位置づけとされた著作の完訳本です。
「奇経八脈の使い方」のメモ
今月になってから、たまたま購入した『臨床に役立つ奇経八脈の使い方』をさらっと見ていたら次第に引き込まれ、医療古典などを途中でやめてこちらに重心が移ってしまいました。専門家の方でこの分野に関心のある方であれば是非ご一読を。
奇経八脈の古典的な流注から、その生理機能などを詳細に解説してから、いよいよ八脈交会穴の選定理由の解釈や、実際の奇経を用いた治療法のバリエーション、さらにはアナトミートレインとの関連の考察など、定番の古典的な話題に限らず、近年の話題ともからめて幅広く解説されています。
これまでは私も御多分に漏れず八脈交会穴などを用いて治療したりはしていたのですが、その厳密な理由などはあまり考えていませんでした。かつて師匠たちに教えて頂いたとおりにしてただけだったのですが、その理由などが少し解明された感じを覚えることが出来ました。
さらには奇経における2点治療や、陰陽カップリング治療など、その生理機能から推定される効果的な治療法のバリエーションは大変勉強になりました。
以下、本書からの自学用メモです。
奇経脈の病証:腎の病証・瘀血の腹証
陽維脈の活用:表証(含外感病)
陰維脈の活用:裏証
陰陽蹻脈の病証:経筋病
陰蹻脈2点治療:照海(起始)・晴明(終止)
陽蹻脈2点治療:申脈(起始)・晴明(終止)
陰維脈2点治療:築賓(起始)・天突(終止)
陽維脈2点治療:金門(起始)・瘂門(終止)
督脈2点治療:腰陽関(起始)・神庭(終止)
任脈2点治療:関元(起始)・天突(終止)
衝脈2点治療:肓兪(起始)・四白・公孫(終止)
帯脈2点治療:帯脈穴(起始)・肓兪(終止)
督脈と任脈のカップリング:前面の病証は後面、後面の病証は前面、乃至は挟み撃ち
衝脈と帯脈のカップリング:(衝)公孫・照海・肓兪、(帯){灸}命門・腎兪・帯脈穴
陰維と陽維のカップリング:上熱下寒、(陰)滋陰通導清熱・築賓(陽)降気清熱・金門・陽交
陰蹻と陽蹻のカップリング:下肢麻痺(内反尖足・外反鈎足)、(陰)列欠・照海(陽)後渓・申脈
督脈・陽蹻脈経筋:浅後線(SBL)
任脈・陰蹻脈経筋:深前線(DFL)
衝脈経筋:浅前線(SFL)
帯脈・陽維脈経筋:外側線(LL)
姿勢バランス前後型:前方重心(任脈・陰蹻脈経筋・衝脈経筋)、後方重心(督脈・陽蹻脈経筋)
姿勢バランス左右型:帯脈・陽維脈経筋
和算家の歴史を別角度から眺める
といっても、ここに書かれたことすべてに納得、賛同しているわけではありませんが、ある前提をもって読むと非常に示唆に富む内容に思います。
まず、和算は日本独自で生まれたものではない、という視点。それも隠れキリシタンとの濃厚なつながりにより、我が国に根付いたというもの、という視点です。
和算の大家である関孝和はキリシタン宣教師により育てられた、という副題がこの本の概略になります。キリシタンの宗教心と棄教にたいする心情などを過度に推察した点が、私としては「?」という点ではありますが…。
しかし、切支丹屋敷を設けた井上政重がきわめて重要な役割を担うこと、そして弾圧者という立場ながら隠れキリシタンの連携に絡むと思われる姿勢、これらはただ通常の心情からは推し量ることが出来ない、大きな秘密があるように思います。
一見、弾圧者側が、それと反転した地位にあるということは歴史的には珍しくないようにも思われます。こうした微妙な関係性による秘密のネットワークの存在が、この本からは感じることができそうです(著者が意図しているかどうかは分かりませんが)。文字通り語られることとは一線を画した解釈の可能性が広げられます。
こうした突飛な考えは、幕末から明治に至る変遷期において、不可解な動きをとる幕末の理数系武士団の動きと相俟って、意外と合理的なものにもみえなくもありません。また隠れキリシタンの動向は、幕末維新においても大きな伏流となっているようにも感じられます(大村藩と秋田藩の関連なども何かありそうですし)。
さらにこの本を読んでいて、数学にはイスラム系とキリスト教系があるとか、ハーモニックコスモス信仰との関連が記載されているのですが、なんかとっても長沼先生的な記載だなと感じていたら、しっかりと参考文献に「物理数学の直観的方法」が挙げられていました。
常識を疑いながら、素朴な疑問を解決していこうとする思考をとるときに、とても参考になるのではないかと感じました。
魔女・魔法について 『魔女の薬草箱』『ヒルデガルトの宝石論』
確かに現代の視点から「後知恵」でみればくだらないもののように思うのも分からないではないのですが、やはりそこには「何か」があったように思うのです。
この「何か」の感じが、おそらく漢方系の神農やら「傷寒論」やらとは大きくテーストが異なっているように感じます。なんというか魔術的なのです。幽霊が実体?としてはそれほど強くなく(妖怪的なイメージと異なって)、それゆえにその不気味さによって、心の内側から湧き上がる「恐怖」を引き出しているのと似ているといえるでしょうか。
魔女も同様で、決して強い存在ではなさそうで、その背後にいた「賢い女」もまた社会的には弱い存在だったようです。そこに「薬草」なり「薬石」なりが、組み合わさった。当然、現代においては同様の使い方はできないでしょうが、これらの持つ「力」をある種、根源的に、そして現代的に引き出してくれているのがホメオパシーなどに代表されるものなのかもしれません。
魔女ではありませんが、いわば表と次第に融合しながら世に現れてきたという意味では、聖女ヒルデガルトもこの系譜なのかもしれません。
香川元太郎先生の最新刊でます!『戦国の城』!
表紙を見ただけで楽しみになります。じっくりと詳細を眺める楽しいひと時が過ごせそうです! 保存用も買おうかと思案中です(笑)
単純・煩雑・複雑・混沌
このカンファレンスが開始したころは、まだ、医師がすべて決定し、その下部組織として各セラピストが存在するという「医師中心モデル」こそが「統合医療」という見方が主流(というかほとんど)であった時代!でした。
ところが、いまでは学会幹部の考えも、ほぼ我々の考える「多元主義」的に移行してきており、隔世の感があります(笑)
当時、某有名病院の偉い先生には「結果の確定しない話し合いなどカンファレンスではない!」というカンファレンスのそもそもの意味を転倒させたお叱りなどもよく学会会場では受けておりました。時代といえば時代の変遷なのでしょうね。
そもそも統合医療は「混沌」とした状況下での意思決定が多くならざるを得ない領域でもあります。その中でのカンファレンスはまさに「非線形」的な決定とならざるをえません。
こうした状況を理解するのに「クネヴィン・フレームワーク」という4つのカテゴリーから見ると、少し視界が開けるようです。詳細は、鈴木規夫著『人が成長するとはどういうことか』に詳しいのでそちらを参考にして頂きたいのですが、要旨としては、我々の世界は4つのカテゴリーに意味付けられるというものです。
4つとは、安定した世界である「単純(simple)」、単純に近いがそこでの問題の原因や構造が単純には判明しない「煩雑(complicated)」、多様な要因が複雑に絡み合い常識が流動的に変化するために原因と結果が明確にならない、そのため実際に行動を起こして反応を観察しかない「複雑(complex)」、さらには想定外の出来事が次々生じる「混沌(chaotic)」。
この「混沌」から少なくとも「複雑」の世界へと向けて変質させていこうとするには、レジリエンス(強靭性)が必要となるわけです。これこそが、「中腰力」とも言える。カンファレンスでの「曖昧さ」に耐える力そのものでもあると思うのです。
生じる問題によって、これらのどのカテゴリーが有効に機能するかは異なるでしょう。しかし多くの混沌を複雑へと変換し、対話を含んだ行動をベースに世界へ働きかけることが重要なのではないでしょうか。行動というキーワードでとらえれば、プラグマティズムとしても把握できる概念にも思えます。
『二コラ・テスラが本当に伝えたかった宇宙の超しくみ』
井口博士の著作は、311よりもずっと以前にバックミンスター・フラーやカウフマンらを調べていた時からなので、ずいぶんと前から読んでいるのですが、あらためてこの本には強いインパクトを受けました。とにかく科学史の書籍として読むと面白い。19世紀の物理学史が、通常のものとは全く異なる観点から描かれます。
特にエーテルの存在が肯定されつつあったということや、物理学のスーパーヒーロー、アインシュタインの相対性理論に根本的な再考の余地があること、等々、ほぼ完全無欠だと考えていた物理学の理論が揺らぐような記載がたくさんあります。また詳細に書かれた科学者同士の暗闘も大変面白い。そして上巻の最後に述べられる「我々自体が永久機関の存在の生きた証明なのである」という締めくくりの一文への流れは圧巻です。
いわゆる「ニューサイエンス」的なものは学生時代から大好きだったのですが、そこで語られる「パラダイムシフト」の記載はたいてい現代物理学誕生からのものでした。特殊相対性理論・量子力学の誕生といったあたりです。C+Fコミュニケーションズによる『パラダイム・ブック』もやはり物質編から始まっていました。
これに対して医学・生物学領域は、当時はあまりぱっとしたようには見えず、物理学は物質を扱うだけに、生命というあやふやな対象よりも理論の展開がスパッとしているなあと感じたものでした。
それが今回この本を読んで、そうでもないこと、とりわけ下巻では著者が「数学」との対比の中で、物理学自体の過去への振り返りやらルネッサンス的な変革の可能性の困難さを述べているのは驚きでした。
では、医学ではどうだろうと思いをはせると、かつては物理学よりも大きく遅れた印象があったのですが、当然数学のような厳密なものでもありませんが、それなりにルネッサンス的な変革は時折認められてもいます。江戸期の古方派の台頭や、東洋医学の科学的解明、さらには近年の統合医療の誕生はまさにこうした流れとしても理解できるのではないかと思うのです。
つまり苦痛・疼痛という「人」にとって不可避の事柄と密接な関係にあることから、一切の無視というわけにはいかないようです。これに対して「物質」を対象にしたものは、外部世界の理解の仕方を基盤にするものですから、当然、極めて保守的に改革を拒むのは当然なような気がします。
ちなみに数学がこうした呪縛にはまりにくい、というのは「数字」自体がある種の抽象的な概念のため、歴史的な流れの中で齟齬がきたされないように、高い論理性整合性が求められた結果ともいえるのではないでしょうか。
少し事情が違いますが、西洋哲学の流れなども統合と否定によって、断続無く今日へと続いているようにも思われます。これに対して本書ではエーテル概念において、19世紀の物理学は大きな分岐点を迎えたと考えています。またその他にも詳細に検討すれば、電磁気学、量子力学、相対性理論など多くの領域においても少なからずこうした事情をかかえているようです。
これは当然、医学・生物学や化学、地学など他領域においても同様なのでしょうが、一般的な意味での振り返りにくさ、は納得です。それだけ「常識」として染み付いているということでしょう。
こうした中で、フリーエネルギーや永久機関といった概念は、眉唾として扱われるというのも分かります。またエントロピー増大の法則からの決定論的で閉塞した生命観は、現代の医学・生物学の領域の閉塞感との連続性を感じさせます。
これに対して本書では、開放系と孤立系の相違からの説明も目から鱗でした。孤立系の中でエントロピーの増大に任せて消えゆく生命という視点から、実際は開放系なわけだから生命は「永久機関」なのだという強い姿勢はとても勇気づけられます。
確かに、太陽エネルギーがふりそそぐ地球環境は確かに開放系ですし、生命誕生以来、紆余曲折あるものの断続することがなかったという点では「永久機関」でもあるわけです。
我々は何か、無条件に受け入れている「前提」により、自らの可能性を呪縛している面があるのかもしれません。「このように決まっている」といった思い込みの枠を少し外すだけでも、別な展開が容易に見えてくるといったことを感じさせられました。開放系による意思決定システムとしてのジャングルカンファレンスやオープンダイアローグもこうした延長上に捉える必要があるでしょう。
ちなみに先日、録画した庵野監督の「プロフェッショナル」を見ていたのですが、肥大したエゴの外側で「エヴァ」を作成したいという趣旨の発言があり、まさに開放系としての意識の在りかを感じさせられました。
科学史的な興味ある方は、この上巻がおすすめです。「超しくみ」とか「超☆わくわく」とか題名がちょっとなんなのですが、内容はかなり重厚です!
体性自律神経反射
こうした基礎研究により鍼灸をはじめとした物理療法の効果を説明できるようになったわけです。体性神経の刺激から内臓(心臓血管・副腎髄質・消化管・膀胱等)への影響が、専門的ですが詳細に解説されています。
こうした基礎的な研究には、当然先立って臨床的な事実が認められるわけです。東洋医学と西洋医学の合一を目指したこうした見解は、幾多の研究があるものの、四半世紀以上前の地方大学医学部あたりではまだまだずいぶんと白い目で見られていたように記憶しています。
数学や物理の世界であれば、結果を出せばそれなりに評価されるように感じられる中、医学においては東洋医学の雰囲気が垣間見えるだけで、正当に評価されていないような雰囲気が当時まだありました。
しかし、最近ある科学史関連の書籍を読んでいた時に、今日では表向き否定されている「エーテル」概念が実は見直されているという話題があり、このほかにもいくつか再考しなければいけない物理的な常識があるようでした。
しかしそれらは、現状の正統的な物理教科書の記載と矛盾をきたすため、本気で再評価しようという流れにはならないようです。かつて物理などではこうしたことはあまりないのかと思っていたのですが、或る意味、医学領域よりも深刻なのかもしれません。医学・医療に関しては、現実の苦痛や寿命の問題など切実な需要もあることから、少しは見直しも図られます。かつての東洋医学の復権、今では統合医療における伝統医療・代替医療の再評価などがそれにあたるのでしょうか。
こうした学問の中でも「数学」の立ち位置はやや特殊なようで、数字というある種の概念を扱っているだけに、これまでの流れとの整合性がより優先されるようなので、物理や医学におけるこうした時代による制約は少ないようなのです。
新たな分野や最先端の探究も重要ではありますが、これまでの歴史の中で我々が置き去りにしてしまっている大切な「知恵」(東洋医学、栄養やファッシアなどのマトリックス等々)も少なくないように思います。また機会を見つけてこうした問題を考えてみたいと思います。
ダビンチの「解剖手稿」
物理学における「エーテル」概念の見直しなど、これまで当たり前と思っていたことが、実は意外と当たり前ではないということに気づき、医療の概念も含め大きく考えなおしていました。かのフリッチョフ・カプラによるダビンチの再認識の書籍を注文したところ、この「解剖手稿A」を見つけました。
現代という前提を置かずに、「身体」をみるとどのようになるのか。すべてが解決した「現代」という視点ではなく、結構なバイアスにまみれている「現代」と考えると、われわれは意外に不自由な視点を強要されているのではないか。かつてエーテルのように破棄された概念が、医学の分野にも数多くあるのではないか。
混迷する医療の現状を見るとき、しばし考えさせられます。
サバイバルする皮膚
ファッシアを中心に「経絡」をかんがえ直しているのですが、皮部の検討をしている中で、「皮膚」について傳田先生の著作を読み直していましたら、アマゾンで新刊出ていたのでアップデート目的で購入しました。
進化の視点から皮膚を見直し、かつての傳田先生の著作のまとめにもなっているので大変勉強になりました。なかでも、人間に毛が生えていない理由については、個人的には「アクア説」で納得していたのですが、更なる納得の説が展開されていて、よりスッキリしました。
おそらくアクア説のようなことも関与したのでしょうが、何より、大脳の発達のために、いわばトレードオフ的に毛がなくなったというのが斬新でした。トレードオフといっても、機能がより発達したのでそうではないかもしれませんが、タコやコウイカなどの例示はなるほど納得です。
従来、あまり顧みられることがなかったケラチノサイトについて、多くの意義を見出したことで、通常の皮膚科医のもつ皮膚イメージをはるかに凌駕した内容が展開されるのは痛快です。
また、医師免許を有する人が「経絡」について話題にすると不愉快な顔になる、というくだりは納得で、「経絡内科」と命名したものの一抹の不安があるのはまさに傳田先生のご指摘通りだと思います。
我々は、何を正統と信じ、何をインチキと感じるかは、まさに各人の無意識のうちに格納される知識に由来しているわけで、ケラチノサイトをただの皮膚表面と思っていれば、それが全身を反映するなんて「トンデモ」と分類してしまうわけですね。
個人差とは腸内環境の違いだという視点
江戸時代の飛脚が、ほとんどタンパク質を摂っていないにもかかわらず、ものすごいパワーとスピードを有していたという話。それを見た外国人が、肉を食べさせたらさらに強くなる、と考え、肉を与えたところ、かえって力が抜けてしまった、という落ちがついています。こうした話から、日本人には米食が最高なんだ、とか、自然食礼賛の話へと接続していきますが、そうした解釈だけで果たして良いのでしょうか。
この流れから、いわゆる「自然食」はタンパク質軽視へとつながっていったのではなかろうか。いろいろと推測が広がりますが、ここで我々がもっとも考えなければいけないのは「多元主義」の立場ではないかと思うのです。こうした超人的な栄養のエピソードには、必ずその背後に「腸内細菌叢」をベースにした個人差が歴然として存在します。
この差異こそが、野菜だけでも強靭な体力を維持することも、肉食だけでも健康的に生きることも可能にするわけです。
特殊な食事法を採用する人に人は憧れをもつこともあります。しかし、それはしょせん自分の身体ではない他者の身体。同じ方法が適するかもしれませんが、適さないかも知れません。大脳での思慮が、腸管を主体とした身体を容易に変えることはないのです。
そうしたことを思いながら「腸内細菌叢」について考えるのも一興ではないでしょうか。以下の本が専門的ですがしっかりとまとまっています!
脚気をめぐって 日露戦争と漢方撲滅
その中でちょっとメモしておきたかったのは、脚気をめぐる問題。よくある話では陸軍・森鴎外と海軍・高木兼寛との対立で、麦飯を採用した高木の海軍は脚気にならず、伝染病説に固執した森の陸軍は戦死者よりも多くの犠牲者を出した、というもの。当時はビタミンBの存在がわからなかったしね〜、というのが通常のお話なのですが、どうもそう単純ではないようなのです。
つまり、陸軍内でも結構、一部の識者においてはじつは麦飯が効果的だということは知れていたようなのです。しかし白米食に逆らうと左遷されるということもあり、そのまま日露戦争に突入したということです。
この辺りは、漢方撲滅のながれともリンクしていてさらに興味深い話になります。一般には西洋医学VS漢方医学という対決「脚気戦争」において、西洋医学の優勢が認められ、漢方は効果なし、として撲滅されたと医学史的には語られます。が、この時西洋医学側となっているのが陸軍軍医で、この比較試験ではなんと麦飯を取り入れているのです。海軍との対立軸においては麦飯否定にもかかわらず、漢方との対立軸においてはまさかの麦飯派。あきらかに、当時、有効性を臨床的、直観的にはわかっていたということですよね。そして政治利用にまで応用できている…
決まりきったことのようでも、丁寧に読み比べていくと意外なことが分かるものです。一つの事柄でも白黒のはっきりさせた理解の仕方ではなく、丁寧に詳細を見ていくことの重要性をあらためて感じました。
なお、この漢方撲滅の真相は、寺澤先生の以下の書籍に基づきました。この辺りの詳細に興味ある方は必読です!今日の統合医療の在り方についても考えさせられます。
感じるオープンダイアローグ
今回から占星術のセラピストも加わり、さらに広い視点からの「対話」となりました。
統合医療の在り方のみならず、コロナ対応も含めて、様々な視点が、ともすれば対立して論じられることもありますが、こうした時にこそ「多元主義」をベースとした対話の必要性を感じました。
ジャングルカンファレンス内で紹介したオープンダイアローグの新書をあらためてこちらにもメモしておきます。
ご興味ある方はどうぞ!
「縮退」の参考図書
長沼伸一郎先生発案の概念ですので、以下の書籍のともに最終章が、その基本的な解説になります。特に私は「冷え」や「ファッシア」についての説明の時に縮退概念が有益に感じます。また、折衷から多元への理論的な説明は、縮退によってさらに明確になると考えます。
「利他」とは何か
まあ、こう書くといかにも偽善的なので気が引けるのですが、ジャングルカンファレンスなどの、医療における多元主義の展開を企図するものとして、利他は避けては通れないものでもあります。
利他というキーワードは、当然「利己」と密接な関係があるので、或る意味それを強調したとたんに厭らしいものに転化する可能性をもつものでもあり、本書の中では若松先生により、そうしたことへの言及もされているようです(というのも、これを書いている段階ではまだ未読ですので…スミマセン)。ただあとがきなどを読むと(あとがきから読む派です…)、この「利他」の持つ構造のようなものを「うつわ」に譬えているようです。
ジャングルカンファレンスやジャングルカフェといった多元的な会合を主催しているものとしては、これは結構、納得の言葉でした。とりわけ、今週木曜日開催予定のジャングルカフェに向けて、課題図書である『モモ』を読んでいる途中でしたのでなおさらでした。
具体的には、第2章の小さな酒場での二コラとニノのもめごとの段がすぐに思い出されました。論理的な解釈をするでもなく、モモはただじっと座って注意深く話を聞く、それだけで争いは解決していくという話です。まさに「うつわ」を彷彿とする話ではないでしょうか。
当然、この物語は「灰色の男たち」がキーワードになる話ですが、こうした序盤のエピソードにもカンファレンスとの共鳴する点が潜んでいるように感じます。
利他ということばとの共通点を偶然見つけたような感じになったのでさっそくメモしてみました。
ジャングルカフェの参加希望の方はこちら!
細胞内部の様子、混雑具合や酵素反応など
ここで気になるのが、解糖系の各反応が、どうして整然と進行するのかということ。おそらく正統とされる考えでは、確率論的に一定の割合で、各々の段階の酵素と遭遇するからという説明なのでしょうが、本当にそんなにうまくいくものなのでしょうか。(進化の問題でもネオダーウィニズムの主張に同様の疑問を感じます。たまたま生まれたアザラシの子孫がたまたま海へと戻っていった的な…)
こうした説明の一つとして、細胞内骨格が、酵素の反応順序に絡んでいるという説もあります。つまり求められる代謝の反応順に酵素が線維によって一直線に並んでいれば、整然と反応が進行するというものです。これは最近、ファッシアや生体マトリックスに関心を持っているので、個人的には非常に納得できる考えなのですが、一般的にはトンデモということになるのでしょう。
また細胞内も、いわゆる教科書的な説明図では、整然と細胞内小器官が内蔵されているのですが、実際は満員電車顔負けの混雑状態だということが知られています。すると酵素などタンパク質の作用を考えても、それらのいわば部品同士による相互作用を無視するような考えは現実的ではない、ということが分かります。
しかし、実際にはテキストではそうした説明はされていないので、これも釈然としません。そのために細胞内部がいかにタンパク質がせめぎ合っているか、「模式的に書かれた図」をどこかで見たような気がしたので、先週からずっと蔵書群を捜索していたのですが、それが先日やっと発見できました。
金子邦彦先生の『生命とは何か』のP15にやっと、その小さな図を見つけ出すことが出来ました。(この捜索はずいぶん時間がかかりましたが、その過程でたくさんの忘却の彼方にあった本を見つけることもできました)
通常の細胞の様子とは全く違い、まさに満員電車状態でタンパク質やDNAが充てんされた混雑状態の図は、まさに我々が「常識」と普段考えているものとの大きな「溝」がありました。やはり実際の生体というものは、線形思考でとらえるにはあまりに複雑であるということを強く見せつけられたようでした。
基本的な概念ほど、再考するとそこに大きな常識との「溝」があるものです。日々の臨床から、こうした意外な気づきをひとつでも多く掬いとりながら、診療していきたいとあらためて強く感じました。
擬人化すること、ホメオパシーを親しみやすくすること、等々
マンガ『はたらく細胞』などもその良い例でしょう。過度な擬人化は時に批判されるものの、直観的な理解が可能であるというメリットは外せません。
電子に意志があるとする山田廣成博士による量子力学の解説も、正当な物理学者からは批判されるのでしょうが、「意志」や「対話」を中心に、ある種の擬人化により高度な内容が極めて分かり易くなっていると思います(ただしこれは山田博士によれば擬人化ではないということになるのでしょうが)。
このような感じで生化学を、陽子は「身体」、電子は「スピリット」というような喩えで説明しているのが、明日の勉強会のテキスト『代謝がわかれば身体がわかる』です。前回の参加者からは、エネルギー代謝における喩えが、子供から魂を抜き取ってゾンビ化するなど気持ちが悪いというご批判もあるのですが、そう書いてあるのですから仕方ありません(笑)今期の日曜夜のゾンビドラマでも見て慣れて頂くほかありませんね。こちらもまた批判されているようですが(笑)
ただし、酸化還元反応を、電子=スピリット(魂)という感じの理解は非常に有用に思いますので、それを念頭に生化学の予習をして頂ければ効率的なように思います。
また擬人化とは異なりますが、ホメオパシーのメカニズム理解における量子医学概念の活用も、同様の効果があるように思います。
類似の法則や波動を用いた解釈も良いのですが、どうしても錬金術的な風合いが出てしまい、現実の医療との統合場面ではやや戸惑うことも少なくありません。
そうした意味では、保江邦夫先生の量子医学の説明などを援用することで、統合的に活用しやすくなるように思います。具体的には、細胞膜における結合水の意義や、エバネッセント光など、秩序化された水としてのレメディとの相互作用を考慮するとわかりやすいようです。
この辺りは実はファッシアにおけるエネルギー医学的な解釈でのキモにもなるところですので、連載している「臨床ファッシア瘀血学」においてもホメオパシーと鍼灸の統合に関する話題として記載していきたいと思います。
資本論と統合医療の接点(カフェ追加資料)
内容の読解というより、統合医療との共通点について、私の感想をメモ的に書いてみます。
1)「富」が資本主義社会では「商品(貨幣を介した交換対象)」に変化していくわけだが、これを医療のアナロジーで考えると「(現代)医療化された身体」といえる。そこには実感できる「使用価値」ではなく、幻のような「価値」がある。つまり「使用価値」が低くても、売れさえすれば「価値」が実現する、ということ。例えれば、生を実感する丸ごとの「身体」を「使用価値」とするならば、データないしは画像化された身体(情報)は作られた「価値」と対置することができる。すると「使用価値と価値の対立」は、「ホリスティックな身体とデータ化された身体」と読み替えることもできるのではないか。
2)資本主義において金儲けの主軸になるのは、「使用価値」ではなく「価値」であるというのは(1)で考えると理解しやすい。そして「資本」とは「絶えず価値を増やしながら自己増殖していく運動」であるので、それを延々と続けなくてはならない。すると人間も自然もその運動に従属して、利用される存在に格下げされてしまうことで、日々の豊かな暮らしという「富」が搾取されることになる。
3)一見、資本主義は膨大な富をもたらしたように見えるが、我々の欲求や感性はやせ細り貧しいものに成り下がる、この状態を「疎外」とよぶ。これを医療のアナロジーで語るなら、「直観」「身体智」というものが消失し、貧しい「身体像」のみが「真に科学的」とされる状況に近いのではないだろうか。
4)生産過程を細分化する「分業」が労働者を無力化する、という状況は、過度の専門分化の果てに、具体的な「身体」がどんどん見えにくくなっている状況とアナロジーなのではないだろうか。「分業」というシステムは、何かを作る「生産能力」を失わせる、これこそが専門分化の弊害として見えていることなのではないだろうか。またこうした分離を徹底した例が「テイラー主義」で、これは生産に関する知という共有財産の囲い込み行為でもある。これは一見、合理的な良いことのように見えるが、人間らしい関与を奪うガイドライン的なものへのアナロジーでもある。
5)「構想」からの分離は、医療におけるデータと専門家の言説に踊らされるだけの状況と類似しており、自らの「生命」を活かした状態ではない。そのためには、構想と実行の分離を越えて、労働(例えば医療)における自律性を取り戻すことが重要だ。
6)「資本の専制」と「労働の疎外」はいわば従来の「あちらの医学」といえるもので、労働の自立性と豊かさを取り戻す「労働の民主制」は、「こちらの医学」と表現可能で、「こちらの医学」の本質の一端を示すものである。
7)資本主義に代わるものとしてのキーワードが「アソシエート」であり、これは持続可能な形で制御することでもある。つまり、共通の目的のために自発的に結びつき、協同するということであり、この基盤の提供が他でもない「ジャングルカンファレンス」である。(リボン・アソシエーションの構想)
8)マルクスによる否定の否定による将来社会の構想は、「富」をシェアするコミュニズムであり、JC的に述べるなら、「対話による身体(観)の再構築」とでも言えようか。そして社会の「富」が「商品」として現れないように、みんなでシェアして自治管理していくことが重要。各人の能力に応じて、必要に応じて。そしてその必要を満たす規模を定常させることが「脱成長」である。つまりJCは、医療におけるアソシエーションの動きでもあるのである。
『身体構造力』から近代的思考を考えてみる
ジャングルカンファレンスがオンライン形式となり、カフェの形式も一新してみたのですが、コロナ禍によって、あらゆるものが大きく変わりました。
ジャングルカンファレンス1.0とでもいうべき、当初のJCは、とにかく正解というものを出さずに、出来る限り「相対主義」的な姿勢で、多くの人たちの自由な発言を促進してきました。
そこから少しずつ多元的な姿勢へと移行し、オンラインにより、一層「多元主義」が徹底してきているように思います。こうした多元主義に、「型」としての基本的な質問形式を導入し、ジャングルカンファレンス2.0として進行していきたいと考えています。
こうした流れを考えながら『身体構造力』を開いてみたいと思います。とくに第2章が、いろいろな問題に示唆的です。近代的思考のドグマ、のもたらす問題が考察されています。
まず第一に、心と身体を二分割し、身体を一段低いところに置くということ。そして思考を実現しているものが「頭脳」だとすること。これによりコンピューターに制御されたボディというような、我々にとってなじみ深いモデルが形成されてきます。こうした世界観のもと、脱近代などを唱えてみても、あまり意味のないことなのではないか、という考察です。
こうした構図は、現代医療はもとより、分子栄養学など科学的を標榜するオルタナティブにも見て取れます。一見そうではなさそうな、整体や鍼灸にも根深く浸透しているのではないでしょうか。
では、そうしたものに縛られないためにはどうすれば良いのでしょうか。本書ではそのためには「相対化」を目指すべきだと述べられています。
現状の縛りを超越するためにがたしかに相対化して、その縛り自体に気づかなければなりません。ところが、相対主義というと、けっこう思想界隈からいろいろと難癖が付きます。私が、JC1.0で使っていた「相対主義」というワードを外したのも、そうした煩わしさからでもあります。それでも、近代的思考の壁を超えるにはやはりこれは重要であると考えます。それゆえに個々の思考方法をより磨き上げるような形で、ときに論戦も仕方なしという姿勢で折衷から多元への脱皮を図る必要がありました。完全に相対化が強まると、折衷主義が台頭してきて、かなり危険なスピ系の思想や、量子論を乱用する理論が横行してくるからでもあります。
それゆえに我々は近代の相対化を、しっかりと経由して危険な流れに安易に同調しない姿勢が求められるように思います。
このあたりのことを著者の伊東先生は「近代の相対化という知的作業を経ずに、行われた刹那的なつ虚無的な近代の超克は実際のところ、我々の抱える病からの逃避にすぎません(p149)」と述べられています。
こうした近代思考の問題は、治療に限らず様々な領域で顕在化してきています。そうしたことについて少しずつでも思いを巡らせながら『身体構造力』を読み進めてみたいと思います。
人新世の「資本論」のご紹介
このテキストに加え、参考図書を挙げておきます。同じ作者による「資本論」の解説です。それにしてもマルクスの資本論といういわば確定的な古典が、これほどまでに違った解釈ができるというのはすごいです。
ソ連の社会主義崩壊後、何をいまさら資本論、という印象を私ももっていましたが、晩期マルクスはその限界を超えて、現代にも通用する理論を構想していたということが納得できます。
政治的なことが苦手な方も、環境問題や集団の在り方などに関心のある方であれば、広く何らかのヒントが得られるのではないかと思います。
ここのブログを読んでいただいている方向けに言うと、「縮退防止」の別な表現として「脱成長」をとらえることができると思います。いわば脱成長とは、脱縮退ともいえるでしょう。脱縮退を医療という分野において展開していく、そうしたカンファレンス(同盟)がジャングルカンファレンスであるとすれば、こうした考えの重要性が伝わるのではないでしょうか。医療における真実、データの在り方など、これからさらに多くの問題となっていくでしょう。そうしたことへの根本的思想がそこには含まれているように思うのです。「モモ」などにも通底する思想ですね。
カフェの時のメモ的に記載しておくと、脱成長コミュニズムの要点は以下の5つとなります。
1)使用価値経済への転換
2)労働時間の短縮
3)画一的な分業の廃止
4)生産過程の民主化
5)エッセンシャルワークの重視
量子医学の誕生
量子力学と医学との接点は、いわゆる「代替医療」の世界では定番ではありますが、私としてはそれほど、量子や波動「推し」ではありません。むしろやや距離を置いた見方をしている天外伺朗氏のいう「無分別智」のほうがしっくりときます。
それほど、雰囲気やアナロジー的に使われることが多い量子論(最近もそうした本を何冊か読みました…)ですが、どのような意味で「量子」といっているのかは気になるところです。保江先生の量子脳理論、結合水などのキーワードとどう関係するのか?
この本は、まだ読了していないのですが、前書きや巻末の対談によるとQPAという医療機器を持ち込まれた保江先生が最初は疑念を持ちつつも、自らの量子論、特に量子脳理論などで展開された論旨との類似性をみつけ、のめりこんでいった様子が伝わります。本文の大部分はそうした保江理論の医学分野の人への解説といったところです。
この理論は結構面白く、現在考えているファッシアと瘀血との深い関連をも思わせる記載もあるので興味深いです。私も物理畑ではないので、詳細な理論はほとんどわかっていないのですが、大きなヒントがありそうな気がしています。
量子論と医学の接近の一例として、ご興味ある方は、読んでみてはいかがでしょうか。
現状の量子力学と生物学の接近を知りたい方はこちら↓
2月ジャングルカフェの課題図書の紹介
ジャングルカンファレンスも、前回のオンラインで発表したように、「三原則」に基づいて発言し、なるべく「多元的」であるように意識する内容にしました。これは今後も継続していきますが、同様に、カフェの形式も若干変更します。
これまで通り、気になるテーマや話したいことを話すのは同じですが、そこに各回、あまり難解ではない課題図書を設定しようと思います。
課題図書のテーマに沿って、統合医療の諸問題を皆で「対話」していくわけです。課題図書は読んでいる方が良いのですが、必ずしも未読でも、対話にはついて行けるようにしたいとも考えています。つまり医学的な専門知識の書籍ではなく、考え方などに関する一般的なものにしようと思います。
課題図書は、各回は予め発表していきますが、いまのところ、NHKテキストの「100分で名著」など、廉価で分かり易い一般書にしようと思います。
当然、分かりにくい内容のものもあるでしょうが、斜め読みや未読でも、会話にはついて行けるくらいの内容にしますので、それほど緊張して準備する必要はありません。
では、2月のジャングルカフェの課題図書は以下です。当然、原書の「資本論」は読む必要はありません、私も読めません(笑)
通常の「医療」に対して、統合医療はどのようにあるべきか。「資本」の根本的な考え方から、皆さんと統合医療的に対話していけたらと思います。
なお、ジャングルカンファレンス&ジャングルカフェ、に参加ご希望の方は、統合医療カンファレンス協会までご連絡ください。
『身体構造力』から考えたこと
身心工房リボンのメンバーとともに、内輪のカンファレンスを年始に開催した折にも、各自のセラピーへの思いに関して、本書と齟齬があるか、あるとすればどのような点なのか、など各人で考えてみるようにテーマを出しました。
私自身、「愛」と「宇宙」のような安易なキーワードを用いることの問題点や、あくまでも「身体」にこだわるという視点を重要視するという点は、甲野先生の著作や、先生との時折の会談などを通じて、よく語ることではあるのですが、近代主義的世界観から整然と説明している本書の意義は極めて大きいと思うので、あらためて課題図書的に紹介しました。
私個人の問題意識としては、明治期の霊術的な事柄の分析が近代思想の理解への、図と地の反転のように使える可能性を感じることができ、このあたりをまたもう一度勉強しようという気になっております。
自らの流派の方法論において、スピリチュアル系への過度な傾倒を問題視していたセラピストも非常に関心を持って、この書籍の紹介を聞いてくれていたようですので今後の展開が楽しみです。
とくにセラピストの方々には全3章のうち、第2章を重点的に考えてみると良いのではないでしょうか。
とても参考になるフレーズがいくつかあるのでが、今回はその一部をご紹介し、また後日、さらに追加して皆様と供覧してみたいと思います。
まずは整形外科的な治療などについて。EBMの視点と合わせ、よりベストなものを探求するにあたっての記述。
「制度上それしか打つ手がないために行われるはずの処置」が「医療判断として最善」だという誤解に至ってしまうのには、そんなに時間はかかりません(114頁)
というところ。知らず知らずのうちに行われる思考停止を指摘したこの文章は、バックミンスター・フラーも『宇宙船地球号操縦マニュアル』にて
船が難破したとしよう。救命ボートもすべてなくなった。見るとピアノの上板が流れてくる。これがつかまっても十分浮力があるものなら思いもかけない救命具になる。といって、救命具の最良のデザインがピアノの上板というわけじゃない。
と記載しているのと一脈通じるように思う。私たちは日々、こうした思い込みの中にいることを改めて感じる感覚を忘れていけないように思うのです。
また機会を見つけて、気になった文章を備忘録的にピックアップしてみたいと思います。
江戸城を歩く! 城をひとつ!
古地図と現代のコースが具体的に12コース示してあり、1〜2時間で各々めぐることが出来るという、まさに実践的ガイドブックです!
アースダイバーなんてのもありましたが、これまでとは違った東京を、コロナ禍の後にでもゆっくりと味わいたいものです。
城攻めといえども、人間模様が重要、ということをあらためて感じる歴史小説です。攻城は敵の心を攻めるという、なのです。春風亭昇太師匠、絶賛の一冊です!
脳機能についてのおすすめ図書
ポリヴェーガル理論の台頭と合わせて、ストレスよりトラウマの時代へ、といわれるようになり、これまでのストレス対策とは違った流れを知る必要が出てきています。
最近の脳機能についてのアップデートもかねて、正月休み中のおススメ図書として挙げておきますね。
まずはファッシアとの関連で、ニューロン学説とはポジ・ネガの関係にある「グリア」についての解説書。
自律神経の二元論を越えて、第三の自律神経としてを社会脳として規定したポージェスの理論を、ものすごく深く、詳細に解説した労作。その他のポリヴェーガル本とは深さが違う!
ポリヴェーガル理論を脳機能からみれば、ソマティック・マーカー仮説となりうる。脳を身体が規定しうる、というデカルトの考えに異論を提示したもはや古典的名著。
ダマシオの考えを理論的基盤として、看護・介護に革命的変革をもたらした実践書。
トラウマをはじめとしたこれまで、なかなか困難であった症状に対しての回復方法を総覧的に解説。類似した方法論があふれかえる中、各技法の雰囲気が伝わる書。
脳機能から、慢性痛のメカニズムを解説する医療従事者向け書籍。疼痛と脳の関係を新しい学説から丁寧に概略を解説。
そしてこうした脳機能への介入の源流に位置するにも関わらず、その存在を消された天才科学者ロバート・ヒース。当時、禁断の領域に踏み入れたとされ、大きく批判された彼の理論は、現代の脳深部刺激法の端緒に位置付けられるにもかかわらず、何故、消されてきたのか。ドラマとしても非常に面白い書籍です!(特に時間ない方はこの最後の一冊がおススメですよ!)
このコロナ自粛下で、人間の考え方、脳機能について少し考えてみたいと思っている方へ、ちょこっと専門的な本から、話題の一般書籍まで、ご紹介しました。
来年一月からの基礎医学講座のお知らせ
来年、一月から開催の基礎医学講座は、内容を一新して栄養・生化学の基本としての「代謝」について、学んでいきたいと思います。
この領域は、分かっているようで何度やってもピンと来ない、もしくはきれいに忘れてしまうという領域で、しつこく学習しないと(しても?)すぐに忘却の彼方に行ってしまうものです。
代謝過程を丁寧に見ていける下記のテキストを用いる予定です。時間に余裕のある正月休みから見ておくのもよいかもしれません。講座の参加希望者で、持っていない方は、一冊目の「代謝が分かれば身体がわかる」と二冊目の「忙しい人のための代謝学」は用意しておいてください。できれば3冊ともあればベストですが、代謝の全体像(代謝マップ)が他書でもあれば、大丈夫です。
代謝の全体像をマップとして理解しないとなかなかわかりません。全体像を概観している以下の書籍はおすすめです。医科生化学の方が基本的な内容です。
岩田健太郎先生の『僕がPCR原理主義に反対する理由』ご紹介
こうしたなか、うがい・手洗いの徹底は言うまでもありませんが、加えて、鼻腔と上咽頭の洗浄となる「鼻うがい」もぜひ挑戦されることをお勧めします。ウイルスの上咽頭への付着が指摘され、通常のうがいでは届きにくい場所だけに「鼻うがい」は冬の感染症対策に不可欠です。
こうした予防策もさることながら、人々の不安の声におされて民間会社でのPCR検査も増えてきているようです。これまで我々も「ジャングルカフェ」などにおいて、PCR検査の重要性と問題点などをいろいろと話し合ったりしてきましたが、この問題の根底にはいわゆる「検査総論」の問題が絡んでくるところが、分かりにくい理由の一つでもあります。
こうした検査の解釈にあたっての問題を取り上げ、(なるべく)分かり易く解説してくれている本を紹介します。出たばかりの新刊です。
私と同世代ながら、若くして神戸大学の感染症の教授に就任し、若手ドクターのカリスマ的存在である岩田健太郎先生の『僕がPCR原理主義に反対する理由』です。ダイアモンドプリンセスでご存知の方も多いことでしょう。
教条的な現在のPCRへの風潮に対して、多元的な姿勢をバランスよく展開されています。岩田先生は感染症における「CRP」検査(PCRではありません!念のため)への問題提起などを積極的にされていただけに、本書での指摘も、そうした流れにあるものといえるでしょう。
ただし、疑陽性や偽陰性の問題、ベイズの定理の理解など、なかなか理解しにくい問題を扱っているので、スッと理解できるという感じではないでしょうが、検査の解釈問題は医学における根本的な問題の一つですので、関心のある方にはおススメです。
『身体構造力』勉強になりました!
ふつうなら、治療家が好んで使いそうなフレーズに対して批判的な姿勢が、好感を持って読めた理由でした。
いろいろな意味で、治療家や、鍼灸師の方の書かれた本は、読むのがきついこともありあまり読まないでいるのですが、久々に、「そうそう…」と共感しながら読めた含蓄のある本でした。また哲学的な記載も多く、私としてもとても勉強になった一冊です。
全体として身体性を強調し、不必要な甘言に媚びない姿勢は読んでいてとても共感できました。また過剰にソフトな治療を誇る昨今の一部の鍼灸界の風潮に対しての作者の姿勢も、さっそうとしていて好感が持てます。
「気」の重視に関しての疑問の提起、という視点は、まさに私が若かりし頃、甲野先生の門をたたいた頃の気持ちを昨日のことのように思い出させてくれる一冊でした。
鍼灸や治療、施術に関わる方に幅広く読んでいただきたい本です。納得できない、という方も出てくるでしょうが(笑)
磐座百選
どれを100(最終的には200)として選ぶか、まさに悩みどころではあるのですが、その選択過程もまた楽しみでもあるのでしょうね。私も200制覇したら、さらに100の城郭を個人的に追加してみようとたくらんでおります(笑)
そんな感じで、自らの好みの100選を選出する方もすくなくないでしょう。同様の試みで「磐座(いわくら)」を100選んだのが下記の本。
城も知らない人は、100もあるの?と思われるでしょうが、200に絞るのも実際大変なくらいです。私も、磐座などさすがに100はないから大変だったかと思いきや、そんなことはないようです。著者は、まず百選の候補を350選出し、そこから100を厳選したというのですから、これもただ私たちが知らないだけで、実にたくさん全国に散在しているわけです。
著者は約13年かけて、奥様となるべく一緒に周られたようで、写真から解説まで全て自前で出版された、まさに渾身の一冊です。とてもきれいな写真満載ですので、ぜひご覧になって頂きたい一冊です!
こつこつ周る中でしか、感じられないこともあることでしょう。
「やってくる」がやってくる!?
この本、医学書院からの出版で、何の本なのかわからないまま読み出しましたが、ぐいぐい引き込まれます。まだ読了していないのですが、現段階までのまとめです。ムールラーに至るまでで十分頭がおかしくなりそうです・・・
古武術研究家の甲野善紀先生のキーワードとして「運命は決定していて、同時に決定していない」というくだりがあるのですが、これを最近は、ジャングルカンファレンスの経験から多元主義の応用として解釈しておりました。これは甲野先生の武術観の根本にもある考え方なのですが、これを思わせるような記載もあり、とても引き付けられました。
「矛盾を認めながら、それを矛盾と呼ばないことにしてしまう」さらには「<認識する>と<感じる>はつねにミスマッチである」などです。
甲野先生はこうした根源的な矛盾を解消するために、武術を探求することに決めたと述べれ、武術こそがこの矛盾解決?の方法とされていたのですが、ここでの著者は、こうしたミスマッチは隠蔽されているだけで、これにより、むしろリアリティが形成されるのだとのべています。
つまりミスマッチ、矛盾というものが現実感、リアリティを形成しているのだと書いています。この現実感が外部から「やってくる」というわけです。
ここだけ読むと訳が分からないのですが、著者のちょっと精神症状が混ざったような特異な経験談と合わせて丁寧に説明されていくので、結構引き込まれますが、説明するのは結構難しいですね(笑)
ミスマッチの状況からリアリティが立ち上がる、というくだりをメモしておくにとどめます。リアリティというものが、どういう時に立ち上がるのか、といったことも初めて考えたような気がします。城めぐりなどでも感じますが、事前に学習した知識と、そこを訪れたときの差異(もしくはミスマッチ)のようなものが、一種の違和感を伴って現実感を形成するという感じは納得です。
ここからのオープンダイアローグへの接続などはまた後日書いてみたいと思います。
こうしたテーマに、ご興味ある方、ぜひどうぞ。
先祖返りの国へ
そこで、幕末の頃の写真技術を現代に取り入れていらした写真家の方と名刺交換をさせて頂いたのですが、しばらく、そのことも失念していたのですが、アマゾンの書籍紹介で下記の本を見つけ、いつぞやの!と思い購入しました。それが作者の一人、写真家のエバレット・ブラウンさんです。
まだ、ざっと目を通しただけなのですが、非常に興味深い内容です。日本文化と身体にご興味ある方にはお薦めです。