お城へ To Go

お城へ To Go (弘前城)

 今回は弘前城(4.青森)です。押印は平成21年5月3日で、城巡りを始めて日が浅かったので、当時は城巡りツアーみたいのが確か無かったので、花見ツアー(どこかで桜の開花が見られる!)というツアーに参加して押印しました。その後、弘前で2月に定期的に、統合医療を考える若手の合宿をやっていたので、雪の弘前城は何度か訪れています。有名な雪灯籠祭りなんかも行きました。
 城好きには桜の季節は面倒なので、それ以外が静かに城郭を堪能できると思います。移動していた三重櫓も元の位置に戻ったようですし、是非また再訪したいお城です。

 弘前城は、弘前藩初代津軽為信が計画し、続く二代目信枚が完成させたといわれます。青森における津軽と八戸の確執の話を根城のところで書きましたが、この遠因が、津軽為信にあり、津軽(大浦)氏もともとは南部氏であったとする見方があります。
 それが三戸南部の混乱に乗じて力を持つようになり、ついには津軽地方を統一し、弘前藩を立藩するに至ります。元の主筋と隣接しているわけですから、主筋の南部としてもそれは仲良くというわけにはいかないでしょう。
 そうとはいえ、弘前では津軽為信は英雄です。風水の思想を入れて、高岡という地を選定して築城し、今日の弘前城となります。弘前公園として、非常に大きく現存の建造物も多く、本当に立派な城郭です。追手門から入り、亀甲門まで見て歩くとかなりの満足度です。遠景の岩木山も素晴らしいです。

 ちなみに弘前人自慢の「さくら」ですが、もとから咲いていたわけではなく、明治になって荒廃した弘前城を旧藩士菊池楯衛が、ソメイヨシノ1000本植栽したのが始まりとされます。
 しかし、お城にさくらを植えるということは、当時の士族の強い反対にあい、ほとんどの苗木が抜かれたりと大変だったようです。その後大正期あたりから「観桜会」などが開催され、現在の素晴らしい「さくら」になっていくようです。
 この桜を育てる技術は、リンゴ栽培の高い技術が関係しているということで、確かに両方ともバラ科ですから、ノウハウがたくさん蓄積されているのでしょうね。

 弘前を訪れると、地元の先生ご推薦の「煮干しラーメン」のお店に連れて行ってもらっておりました。また青森まで戻り、足を延ばすと、浅虫温泉もあり、とてもいいところです。青森駅近くの「アウガ」に市場があり、いつもそこで刺身や海鮮丼を食べていたのですが、現在、あるのでしょうか、また行って確認したいです…


弘前城 (PHPムック)
西ヶ谷 恭弘
PHP研究所
2010-03-26







tougouiryo at 2020年09月26日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (根城)

 今回は陸奥における南朝の拠点、根城(5・青森)です。押印は盛岡城の訪問後、平成23年2月11日です。この一か月後の震災により、この根城は地割れにみまわれてしまうので、地割れ前に訪問することが出来ました。
 当時は雪降る中の訪問で、この後、八戸城跡にも立ち寄りました。現在は地割れは復旧されているようです。現在は馬淵川にそった丘にあるような形ですが、かつては、両側を沢に囲まれ、各曲輪も堀切で仕切られていたようです。1994年に復元が完成したばかりで、とてもよく整備されていました。

 築城の歴史は古く、鎌倉幕府滅亡の翌年1334年建武元年、南部師行によります。南部氏はそもそも甲斐源氏の出で、甲斐の巨摩郡南部牧を領したことから南部といったようで、この師行が北畠顕家に同行して最初に陸奥へと赴いたようです。ちなみに九州諸城の城主が静岡由来が多いのに対し、こちらは山梨です。こうして中央の権威が地方へと拡散していく様子がみてとれます。

 南朝方の根本となる城という願いで名づけられたものの、師行が北畠顕家ともども高師直に敗戦、戦死すると、弟の政長が家督を継ぎ、その後、政光の代には甲斐の所領を離れてこの根城に移ってきています。
 ここから八戸南部が成立し、八戸氏、七戸氏となったのですが、後に秀吉に近づいた三戸南部によりその支配下に組み込まれてしまいました。さすが時の権力者にすり寄ったものがちですね。
 ちなみに、ここ八戸は青森県なのですが、こうした歴史から見ると明らかに、盛岡のある岩手県と密接な関連があることがうかがわれます。本来なら岩手県となっていても良いような土地柄です。新幹線に乗っても八戸から新青森は山深いためほとんどがトンネルで真っ暗です。つまり津軽と八戸は本来別とも言える地域で、さらには津軽氏との確執も加わり、現在でも、そうした感情は地域の方には根強いようです。
 私の行きつけのすし屋の大将は、この根城近くの方なのですが、津軽への八戸の複雑な思いをお聞きしたことがあります。明治維新後の廃藩置県に伴っていろいろな事情があったのでしょう。こうしたご当地の事情も、実際に廻ってみて初めて知ることばかりです。ちなみにこの時に行った八戸駅の居酒屋は、再訪時には再開発されてなくなっており、昨年八戸に行った時には、駅前のビルで海藻ラーメンとヒラメ丼を食べました。

八戸根城と南部家文書
根城史跡保存会
国書刊行会
1989-05T





いちご煮 415g
味の加久の屋


tougouiryo at 2020年09月19日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (人吉城)

 2020年7月の人吉を含む熊本県南を中心とした豪雨により被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。以前の姿にむけた一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。(本ブログは同年5月に記載しております)

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 今回は人吉城(93・熊本)です。鹿児島での学会の帰りに足を延ばしての訪問で、押印は平成25年6月2日で、スタンプは人吉城歴史館にありました。熊本といってもかなり鹿児島よりで、ひっそりとした水のきれいな小京都といった佇まいの街でした。

 西南戦争では、薩摩軍がここを拠点に政府軍と戦っていますが、敗退。近隣には西郷隆盛が本陣を設けた永国寺があります。このお寺は通称「幽霊寺」で、幽霊の掛け軸が有名なお寺で、なかなかに気味の悪い幽霊画を見ることが出来ます。
 球磨焼酎で有名な地だけに、焼酎蔵もあり、城郭の敷地内に駐車して、散策するのに最適の街でした。球磨川をわたり人吉市街でうなぎ(うな志げ)を食べ、国宝の青井阿蘇神社(司馬遼太郎絶賛ということです)をみて、幽霊寺により、市役所を過ぎたところで、元湯温泉という銭湯に入りました。とてもゆったりとした時間が流れる、いつまでも居たくなる城下町でした。

 球磨川ごしの長塀の写真が有名で、城内に入ると、はね出しのある石垣が見どころとされます。これは、幕末導入された工法で、五稜郭やお台場などでは普通にみれますが、旧来の城郭に採用された例としてはこの城が唯一といわれています。
 歴史館として「相良清兵衛屋敷」が建てられ、非常に見学もしやすかったです。城郭としては河川に近いところがいわゆる近世城郭で、中世城郭はその奥に平山城として広がっており、かなりの敷地があります。中世人吉城を領した相良氏はそもそも源頼朝の命により、静岡県牧ノ原市相良から地頭として着任したといわれ、現在も姉妹市の関係があるようです。
 この相良氏に限らず、こうした地頭の派遣が遠方における領主の起源となっていることは九州では珍しくなく、他にも姉妹関係を結ぶ市が多くあり、その関連の強さがうかがわれます。

 どうしてそうしたことになったのかということを考えると少し面白いのですが、古代史を見ると神武東征に代表されるように西から東へと影響力が及んでいくのがふつうです。
 それが、鎌倉幕府の成立により、東国から西国へと部下が派遣されるわけです。つまり北方騎馬民族の流れを受けた政権が、それまでの大陸由来の勢力を圧倒していくという構図です。それが戦国期にまで続くわけですから、戦闘能力も統治能力もともに従来勢力をしのいでいたということになるでしょう。

 こうしたと東西勢力のうねりのようなものも、城巡りでは感じることができるのが醍醐味ですね。医学もそうですが、内側からの視点だけでは決してみることのできない、外側からの視点により、歴史における構造的な理解を進めることができるわけです。








tougouiryo at 2020年09月16日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (盛岡城)

 今回は盛岡城(6・岩手)です。押印は平成23年2月11日、プラザおでってにてスタンプを押しました。この年から、5,6年ほど連続で、統合医療の若手の合宿が弘前であったので毎年2月になると東北に行っておりました。

 押印の日をみて頂くとわかるのですが、始めに訪問した時から一か月で東日本大震災となります。初めて行く青森に直接ではもったいないので、盛岡にて途中下車して、開店したての冷麺屋さんで冷麺を食べてから訪問しました。

 2月にはこのあともう一度行っているのですが、城内が雪に埋もれて、ときに雪がかたく固まっているので、階段や坂を上るのが大変で、二度目からは滑り止めスパイクをつけて上りました。雪降る中の二月の盛岡城ですから当然、ほとんど人もいないので、とても静寂な訪問となりました。御台所屋敷跡の広場の四阿で石垣をみながらのんびりし、桜山神社の烏帽子岩を見てから、道路を渡った内丸にあたるところに来ると「じゃじゃ麺」のお店が行列になっていたので並んで食べました。
 旅行の最終目的地前の途中下車が、なんとも言えず大好きなので、ここの訪問はとても印象深く残っております。

 盛岡城は、、会津若松城、白河小峰城と並んで「東北三名城」に数えられ、南部三代40年にわたって関ケ原の合戦をはさんで築城された城です。そもそも不来方(こずかた)と呼ばれる地に、盛り上がり栄える岡になるようにということで「盛岡」と改名され、盛岡城となったようです。ただ石川啄木のうたでも、こずかたを使っていますから庶民感覚として「不来方城」の方が後付けの名称より通りが良かったのかもしれません。

 築城を開始した南部信直は、いち早く豊臣秀吉に接近したことで本領安堵されるも、その後、九戸政実の乱も招いています。ちなみにこの乱は、秀吉政権に逆らった戦国最後の戦いとして、また東北の無念として小説の題材にもなっており(冬を待つ城)、なかなかの激戦で、結末も悲惨です(秀吉軍15万VS籠城方三千!)。
 この乱の後、一時、九戸城に南部信直は入りますが、領土運営の不便から盛岡城築城に至りました。その後は、明治維新に至るまで南部の居城として、続いていきました。

 市街の中心にあるアクセスの良い城です。公園としての市民に愛されている城郭だなあという印象で、最近、東北を回っていなのでまた行ってみたくなりました。今度は「わんこそば」挑戦してみたいです。




冬を待つ城 (新潮文庫)
龍太郎, 安部
新潮社
2017-09-28





tougouiryo at 2020年09月12日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (首里城)

 今回は沖縄編ラストで、首里城(100・沖縄)です。現在は火災により焼失してしまいましたが、押印は平成24年11月2日で、それ以前に一度訪問していたので2度目の訪問時でした。そして残念ながら火災前としてはそれが最後になってしまいました。新婚旅行が沖縄でしたので、首里城はその時に初めて訪問したのが印象的です。
 歴史的には、すでに1660年と1709年に失火により焼失しており、1945年太平洋戦争時には米軍の砲撃により焼失、その五年後には城跡が琉球大学になっております。その後平成4年に、復元工事が完了し一般公開されました。

 琉球統一の覇者、尚巴志により、当時の拠点である浦添城から本拠を移す形で、現在の首里城が整備されました。
 14〜15世紀にかけてのいわゆる「三山時代」においては、中山・南山・北山の勢力が鼎立する戦乱の時代で、これを中山の尚巴志が統一し、琉球統一がなされました。尚巴志は南部の一地方勢力にすぎませんでしたが、浦添城を攻略して中山を手中に収め首里城を中心とし、1416年今帰仁城を拠点とする北山を、1429年島尻大里城を拠点とする南山を平定しました。こうした平定後、ほどなくして「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発しているわけですから当時としては、統治状態が十分固まっていたわけではなかったことがうかがわれます。つまり後知恵では、中山王尚巴志と反乱者阿麻和利、という構図になりますが、ともに小勢力ないしは下級民からの出身と考えると、本土における下剋上のようなものですから似た者同士といえなくもありません。いずれにせよ群雄割拠の動乱期だったでしょうから、当然、城郭の建造が発達し、主な城はこの時代に集中してくるわけです。

 首里城を訪問した際は、その正殿の復元の立派さもさることながら、様々な構造の城門に目が行きます。明らかに中国の影響を強く受けたその形態は、本土の城郭との差を強く感じさせてくれます。また城外の御嶽では、訪問時は2度とも、人々が集まって法事ののような祭事が行われていました。その姿がかなり自然で日常的な風景だったのもとても印象に残っています。
 ここ以外のグスクでも同様ですが、内部の御嶽が現在でも住民と共にあるような形ですので、これらの宗教的重要性も改めてかんじさせてくれています。

 火災前には、首里城前を車で通過したのですが、まさかこうしたことになるとは思わず、次の機会に訪問すればいいやと思い、スルーしてしまったのが今となっては後悔です。新たな復興の日を、心待ちにしております。

報道写真集 首里城
沖縄タイムス社
2019-11-15






 

tougouiryo at 2020年09月09日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (久保田城)

 今回は久保田城(9・秋田)です。押印は平成23年8月20日です。秋田なので秋田城と思うところですが、秋田城は「あきたのき」と称された大和朝廷の拠点で、駅からも遠い別の場所にあります。いわゆる戦国のお城ではありません。

 そもそもこの辺りは安東氏の領有地だったのですが、関が原による国替えにより佐竹氏が入り、今でも佐竹氏がトップですね。佐竹義宣が、出羽湊城に当初入り、翌年にこの久保田城を築城しております。度重なる火災を受けている割には戊辰戦争の戦火は免れ、消失せずに明治を迎えたようですが、明治13年の火災によりほぼ全焼したようです。
 そのため写真に使われる三重の天守のような建造物は、新兵具御隅櫓でこれも実際は二重だったようです。本当の天守の代用は出御書院という二階建ての建造物だったようなのですが、これは全焼してしまったようです。

 佐竹の国替えについてはいろいろと俗説が言われていますが、一番有名なのは、水戸から美人をすべて連れて行ったので、秋田には美人が多く、水戸はその反対になった(笑)というもの。
 加えて、この久保田城も関ケ原の敗戦を受けて、幕府に遠慮した結果、豪壮な石垣などを用いないように建造したというもの。なんとなくそれっぽい理由がついているのですが、実際は、穴太衆のような石垣を組める職人集団がいなかったというのが実情なようで、元が関東の権力者ですから、土塁による築城がメインです。加えて見た目は地味ですが、実勢においては石垣よりも土塁の方が防御力も高いといわれ、思い込みの要素が強いのでしょう。
 こうした観点は歴史を知るうえでとても重要で、時折、史跡の解説などもどうしたことか明らかに間違ったこうした俗説のようなものが書いてあることはめずらしくありません。いろいろと総合的に考えて判断するということは、医学だけでなくさまざまな場面で大切だという証左ですね。

 ちなみに秋田美人が多いというのはロシア方面の遺伝子が入っていることも理由の一つとされますが(ハーフでもないのに青い目の人ってたまにいますよね)、昔は鎖国なのにそんなことないとか考えていましたが、結構、古来より行き来は盛んだったようで、その可能性は高いと思います。はじめに紹介した秋田城には、外国人向けの水洗トイレもあったといわれるくらいですから。
 さらに、近年、鎖国というシステムは従来、教科書に書かれているほど厳密でないことも話題になっていますね。教科書から削除されるか、といったことが話題になっていましたね。江戸時代の鎖国や士農工商(これも当時ことばとして使われていなかったらしいですし)といったイメージも思い込みの要素も少なくないのかもしれません。
 実際の様子は、教科書だけではわからないのですから、洞察力をたかめて想像をたくましくしていかなければわからないことも多いのかもしれません。城巡りの醍醐味も、そうした洞察と妄想が、最高の武器になると思います(笑)











佐々木希写真集/「ささきき」
佐々木 希
集英社
2013-09-05



tougouiryo at 2020年09月05日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (勝連城)

 今回は勝連城(続200・沖縄)です。押印は2019年9月29日で、二度目の訪問時でした。100(200)名城の最終番号のお城です。

 城跡の道路向かいにある休憩所に駐車して、登城するのですが、初見での印象の極めて強いお城ですね。白い城壁が、半島の丘陵をうねるように上っていくさまは遠方からもはっきりと見え、さすが世界遺産、といった感じです。
 かつては駐車場から、西原御門を経て、四の曲輪へ真っ直ぐに歩いて行けたのですが、押印時の訪問では、かなり手前から見学用の階段が設置され、そこから三の曲輪へと上がる新たなルートができていました。見学はしやすいかたちになったといえるでしょうが、少し手がかかりすぎたような感じもしました。

 護佐丸を追い落とした阿麻和利の居城で、謀略による護佐丸排除後、自らもまた謀反が発覚し追い落とされてしまうという運命です。護佐丸を中心に見ると、悪者的立ち位置なのですが、この阿麻和利は優れた人物であることは間違いないようで、農民の地位からこの地方の首長にまでのしあがり、その勢いをかって中山王の支配を奪取しようと画策しました。結局は失敗するので「護佐丸・阿麻和利の乱」のようなくくりになってしまいますが、歴史が少し違った流れになっていれば、一時代を画す英雄となったとも言えるのではないでしょうか。
 時は室町時代に重なるので、本土の歴史で言えば下剋上の時代ですから、歴史的には日本史としてシンクロした流れといえるでしょう。阿麻和利討ち死にの後は、この城は廃城となってしまいますが、城内には御嶽があり、信仰の対象として存続していったようです。本土の城と同様に、信仰の場が城郭に吸収された経緯があるのでしょうから、そうした意義としては共通点を感じますね。

 見学後、近くの漁港で海鮮丼を食べたのです、エビの海鮮丼を注文してみるとエビが揚っていたのは衝撃でした。南方における鮮度の問題もあるのでしょうが、漁港でも海鮮を揚げてしまうのですから、ご当地の方はやはりそうとう揚げ物好きなのですね。




tougouiryo at 2020年09月02日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (山形城)

 今回は山形城(10・山形)です。押印は平成22年8月20日で、最上義光歴史観にてスタンプを押しました。ここは、市街地の公園型の城郭で、歴史館から城へ向かうと奥羽本線をまたいで大手口に至ります。中には体育館やら博物館、野球場までありました。訪問時は本丸など中央部を含め、整備中でしたので、現在はかなり充実しているのではないでしょうか。

 かなり規模の大きなお城で、最上57万石時の大改修後、鳥居忠政の整備により現在の形になったとされ、奥羽地方最大規模の城郭です。全国でも五指に入るといわれます。城内にはご当地の英雄、最上義光公の躍動感あふれる騎馬像があり、大手口を出たところにはその歴史館もあります。一押し感が伝わります。歴史館では、スタンプを押して早々に城内へ行きたかったのですが、これまたご当地あるあるで、地域の英雄、最上義光公を愛してやまない説明ボランティアさんにつかまり、延々と二時間以上も解説されたのを今でも覚えております(笑)

 あまりに規模が大きかったにも関わらず、江戸時代になってからは石高の小さな大名しか城主とならなかったことで、整備に手が回らず、荒廃していったようです。さらには天保の改革の失敗に伴う水野忠精の入城に見られるように、一種の左遷の地として見られていたようです。とにかく頂点は最上時代なわけです。

 歴史的には「東北の関が原」とも称される長谷堂城の戦いが重要です。関ケ原の前段として、直江兼続が最上領に進軍し、本城である山形城に攻めあがるはずが、長谷堂城で手間取っている間に関が原での決着がついてしまい、結果として落とせず、会津若松にまで撤退しています。
 一説では、上杉・石田による挟撃戦が模索されたとも言われますが、結局は東西において西軍敗北となってしまうわけです。但し、挟撃説は現在では疑問視されていますが・・・歴史小説では前半のクライマックスですよね。








日本の特別地域 特別編集61 これでいいのか 山形県
土屋幸仁
マイクロマガジン社
2014-09-08


tougouiryo at 2020年08月29日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (中城城)

 今回は中城城(99・沖縄)です。押印は平成24年11月2日ですが、それからも2度ほど訪問しています。
 城自体は14世紀ごろ、今帰仁城城主の子孫が築城したとされています。その後、座喜味から移った名将、護佐丸により大規模に改修され、王府の直轄地を経て、なんと戦前まで村の施設として使用されていたようです。最初の沖縄ジャングルカンファレンスの際に、旧メンバーでレンタカーで訪問したのが懐かしいです。
 中山王下の名将護佐丸が、当時急速に台頭してきた勝連城の阿麻和利への抑えとして入城し、郭を増築し防御を固めました。このとき増築された北の郭は、重要な水源であるウフガー(大井戸)を取り囲む形で築城され、このウフガーは三の郭の横から、下へ階段を下りていくと現在でも水をたたえています。立派な大井戸がちゃんと城内にあるんだ、という印象が強く残っています。
 駐車場から、管理棟を経て上っていくと、三、二、一の郭の順に連郭式になっており、各々の横に北、西、南の郭が位置しています。訪問時は一の郭、南の郭が一部発掘調査中でした。当然ながら眺望の良いところに築城されていて、太平洋が一望でき、街道の往来も良く見えたことでしょう。
 これほどの築城をした護佐丸でしたが、当時、天下奪取の野望を抱く阿麻和利による陰謀(謀反の企みありとする密告)により、王府から討伐軍が向けられ、抵抗することもなく自害したといわれます。忠臣が、はめられて落命するというストーリーは、なんとなく三国志をはじめとする中国の歴史の流れを彷彿とするものですね。文化的な影響も大きかったのでしょうね。


日本の城 改訂版 35号 (中城城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-09-12







沖縄世界遺産写真集シリーズ 06 中城城跡
三上 一行
ゴマブックス株式会社
2015-01-29



tougouiryo at 2020年08月26日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (二本松城)

 今回は二本松城(11・福島)です。押印は白河小峰城同様、平成22年8月19日です。白河小峰城と連動して、戊辰戦争での悲劇の地とされます。また城に興味のない人にとっては、菊人形、菊の祭典として有名な地です。ただここの歴史を知ると、菊という花のイメージと重なり、なんとも寂しげな印象を強く持ってしまうのは私だけでしょうか。

 二本松城は、白河小峰城の丹羽長重の息子、光重が白河から移ったのちに大改修を行った城です。父子二代にわたって旧来の城郭を大改修し後の世につなげているとういのは、さすが築城名人といわれる家系です。(以下余談、長重の父、丹羽長秀は、「積聚」といわれる寄生虫によりなくなったといわれ、今でいう回虫らしいのですが、火葬後にも焼けつくされず出てきて鳥のような形だったそうです。伝統医学としては積聚は他の捉え方もされますが、この時期にハラノムシを記載した『針聞書』が書かれムシについての関心の高まっていた時代だけに長秀のエピソードは医学的に興味深いです。ちなみに「積聚」は、同書では絵入りで鼈甲を煎じて内服すれば消滅する、と書かれております)

 戊辰戦争においては、二本松藩は奥羽越列藩同盟に入り、白河小峰城の奪還を会津藩から要請されたことで、主力兵力が白河口へ向かいます。そこで兵力が釘付けにされた結果、城下の防衛は老人と少年のみに任されてしまい、悲劇の象徴といわれる二本松少年隊が結成されます。
 この隊の顛末は白虎隊と似ており、二本松城落城が伝わらなかったことで少年隊は新政府軍との戦闘を開始、18名の少年が戦死したといわれます。また家老らも城に火を放ち自刃したといわれます。
 会津戦争へのプロセスだけに悲劇的な戦闘が続くわけですが、このあたりは小田原攻めの際の八王子城落城と重なります。現在は城の千人溜に、二本松少年隊群像が静かに建てられております。

 山頂部には眺めの良い天守台や櫓台があり、とても気持ちよかった記憶があるのですが、これも東日本大震災でダメージを受け、櫓台や三の丸などの石垣にハラミ、飛び出し、地割れも生じたようです。ただしこれも2013年には本丸石垣の復旧は終了したようですので、再訪したいですね。





数学者が見た 二本松戦争
渡部 由輝
並木書房
2011-05-31




番外
『針聞書』 虫の知らせ
長野 仁
ジェイ・キャスト
2007-11-01




tougouiryo at 2020年08月22日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (座喜味城)

 今回は座喜味城(続199・沖縄)です。押印は2019年9月28日で、この時は二度目の訪問でした。かつての歴史民俗資料館がリニューアルオープンされており、かつてよりこぎれいに整備された印象でした。この時は沖縄ジャングルカンファレンスで、第1日目が読谷村診療所での開催でしたので、その開始前に訪問してきました。(この時は読谷村診療所の多鹿先生と近隣の鍼灸師の野口先生のお力添えにて、カンファレンスが成功裏に終了しました。その後、2人の先生にはスカイプを用いた遠隔カンファレンスにもご協力いただき現在のオンライン形式の基本とすることが出来ました。ここにあらためて感謝したいと思います)

 この城は、琉球の築城名手、護佐丸による築城とされます。彼は尚巴志に従い、北山の今帰仁城攻めの後に入城したといわれ、その後、勝連城の動きを監視するため中山王の命により中城城へと移ったとされます。
 しかし、ここに阿麻和利との確執が始まり、阿麻和利の計略にはまった護佐丸は中山王に討伐されてしまいます。ここだけ聞くと、一方的にかわいそうな話しなのですが、一説では中城湾における交易の利権をめぐる双方の覇権争いだったというのですが、そちらが実態に近いのでしょう。

 城の形態としては、複雑な曲線を組み合わせた縄張りで、星形のようにも見えるので変形版の五稜郭みたいに見えなくもありません。複雑に曲がらせることで横矢をかけやすくするという意図なのでしょうか。内部の構造としてもアーチ門をくぐって内部に入り込む形で、構造的にも複雑で、かつとても美しい建造物です。
 今回訪問時は、欧米人の撮影隊が何やら撮影しておりましたが、そうした映像にもとても映える建造物だと思います。


沖縄世界遺産写真集シリーズ03 世界遺産 座喜味城跡
三上 一行
ゴマブックス株式会社
2014-08-29








tougouiryo at 2020年08月19日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (白河小峰城)

 今回は白河小峰城(13・福島)です。スタンプの押印は平成22年8月19日で、三重櫓の受付にて押しました。
 東北の城郭は東日本大震災の影響で、かなりダメージを受けたところも多いのですが、その前年や直前に回っていたことが多いので、損傷前に見ている印象となります。ここも前年の夏ですから、その半年後に震災となり、とりわけ、本丸南面石垣は大きく崩落して、その様子は当時映像でも流されていました。2011年の12月から修復が開始し、現在は復元されているようですので、是非また再訪してみたいと思います。

 この城は事実上、丹羽長重が築城したようなものといわれ、近隣の棚倉から移動し初代白河藩主となりました。ちなみにそれまでいた棚倉の前任は、関が原の敗戦により所領没収されていた立花宗茂で、宗茂が旧領の九州柳川に復帰を果たしたのちに長重が着任します。九州の立花宗茂が、一時ながら東北とからむという興味深い事例の場でもあります。

 訪問時は、こじんまりとまとまった城郭で、きれいに整備されていたのが印象的でした。そもそもは大分府内城同様に、梯郭式で作られていたようです。1991年に三重櫓、1994年に前御門が、木造で復元され、これを機に「平成の復元ブーム」が起きたといわれます。この後、全国的に木造復元が行われ、更なる城ブームとなっていくわけです。そうした端緒がこの城で、当時からそうした気概がみてとれました。

 復元された三重櫓は、そもそも戊辰戦争により消失したもので、歴史的には、当時、二本松藩の預かりとなっていた白河藩領は奥羽越列藩同盟の一角として、新政府軍の東北進軍の攻撃対象となりました。そうして消失したものが、ようやく復元され全国的知名度が上がっている最中での震災ならびに原発事故だったわけです。
 土地柄、東北の玄関口、白河の関の跡地も近在にあり、そこにも立ち寄りました。
 ここ白河は古来からの東北の入り口だけに、新政府軍によりここを突破され、戊辰戦争は悲惨な会津戦争へと突き進むことになるのです。





日本の城 改訂版 103号 (白河小峰城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-01-04



tougouiryo at 2020年08月15日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (佐倉城)

 巨大な角馬出で有名な佐倉城(20・千葉)です。押印は平成21年3月8日で、まだ城めぐりに慣れていないころだったので、押印場所でスタンプがたくさん押してある「先輩」のスタンプ帳をみて、ビビったのを覚えております(笑)。当時は関東限定の(子供用の)100名城スタンプ台紙があったんです。

 そもそも千葉氏による本佐倉城(こちらの方が戦国の城の趣があって好きです)があり、当初は「鹿島城」と称されたようですが、小田原平定後、千葉氏が滅亡し、徳川の領地となり江戸防衛の要衝として整備され、代々、譜代大名が城主となっています。「老中の城」とも呼ばれる城です。東北方面からの抑えとして、水戸ともども防衛の拠点といえます。

 本佐倉城をめぐって、佐倉城に至ると、ここにも小田原攻めによる関東の変容を感じることができます。また城内には、椎木曲輪に「国立歴史民俗博物館」が建っており、こちらも見どころ満載です。敷地はかなり広い公園といった感じで、初心者でも見やすい城郭です。駅からちょっと遠いので帰りに、雨が降ってきたので、タクシーを呼んで寒い中まっていた記憶があります。

 巨大な角馬出が「歴博」のまえにあり、三重天守があったとされる天守台や巨大な空堀など、大規模な城郭を感じることができます。本佐倉との比較でみるとより時代を感じることができるでしょう。幕末の「開国の父」堀田正睦の銅像もあり、幕末ファンにもおすすめです。 

 休日にちょこっと行ける感じのアクセスの比較的良いお城です。















tougouiryo at 2020年08月08日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岡城)

 今回は岡城(95・大分)です。押印は平成29年7月1日で、総役所跡にスタンプがありました。そこから歩いて本丸に向かいます。途中、土産物屋が連なり滝廉太郎作曲「荒城の月」が大音量で流れていました。その先の、岡城の碑を右手に上っていくのですが、ここは、かの城好きには有名なミュージシャン中島卓偉の幼少期に父上と写真を撮った名所でもあります(笑)

 そもそもは緒方氏により源義経を迎えるために築城されたとも伝わるだけにとても古い歴史ある城です。戦国期には、大友と島津による「豊薩戦争」の舞台になり、島津軍を何度も撃退しています。その後、播磨の三木城から中川清秀の息子、秀成が入城し、以後明治まで中川氏の城となりますが、廃藩置県により中川氏の東京移住に伴い廃城となります。

 入り組んだ高石垣がとても立派な城郭で、とりわけ三の丸の高石垣が有名です。大手門もすばらしく、西の丸御殿への階段は、ちょっとした中国宮殿風です。そこから本丸へ向かうと、西中仕切跡という両側絶壁の最も狭い虎口を通り、三の丸、本丸に至ります。二の丸は本丸から接続し、当時としては珍しい風呂屋や月見櫓などの遊興施設を備えていたようです。二の丸には滝廉太郎の銅像もありました。山上からの眺めもとてもよかったです。「荒城の月」通りに、石垣の素晴らしい、見どころ満載の山城でした。

 下城後は、車で「名水入田コットン水車」に行きました。名水河宇田湧水に隣接したラーメン屋さんなのですが、なんと博多一風堂プロデュースです。こんな田舎に、と思いながら食べると、見かけはシンプルなんですが本当に美味しかったです!煮玉子中華そば大盛を食べました。また岡城に行って、ここのラーメンを食べたいです!



大分の名水50選 (九州十色)
おおいたインフォメーションハウス
2003-10-01



 

tougouiryo at 2020年08月05日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (春日山城)

 上杉謙信で名高い春日山城(32・新潟)です。押印は平成21年8月15日で、帰省の途中に立ち寄りました。上越の方にはそれまで行ったことがなかったので、城めぐりしていなければ、ずっと行くこともなかったでしょう。直江兼続ばやりの頃だったと思います。

 そもそも南北朝期には詰城として築かれた城で、後に戦国大名化した長尾氏により整備され、謙信によって大掛かりに整備され完成したとされます。大河ドラマの影響もあってかなり、山麓の総構や土塁などが復元され、ものがたり館など付属施設も充実しとても見やすく、迫力のある城でした。戦国の山城好きにはもってこいといった城で、山全体に曲輪が配置され、規模も大きく見ごたえがありました。
 ものがたり館で押印してから、車で駐車場までまわり、謙信の銅像前から大手道を歩きはじめます。三の丸、二の丸、景勝屋敷とまわり本丸へ。本丸からの眺めはとてもよく、上杉謙信になった気分です。天守台はあるのですが、天守は作られなかったようで、近くには現在でも水がある大井戸をもつ井戸曲輪もあります。
 少し降りたところからは本丸へは崖を切ってよじ登ることが出来ないように、当時は油をまいて滑りやすくしていたようです。火災には特に気を付けていたという謙信のエピソードからすると油?って感じなのですが、確かに滑って上れなそうでした。そこからは毘沙門堂(よく大河ドラマなんかで謙信が籠ってますね)、直江屋敷をめぐって春日山神社まで戻ってこれます。

 謙信が戦の合間を縫って何年もかけながら増築し築き上げた巨大な城郭です一度だけの訪問でしたが、是非また再訪してみたい城郭です。帰路は、御館の乱の舞台となった「御館跡」に寄りました。現在はただの公園、といった感じですが、ここが、この春日山城の真価が問われた戦いである「御館の乱」の舞台なので、是非とも寄っておかなければと思いました。春日山との実際の距離感も分かります。
 無敵の謙信だっただけに存命中は、春日山まで攻めてくるものもなく、城の機能が試されることもなかったのですが、死後の跡目争いで、皮肉なことにその真価が発揮されました。北条と連携した上杉景虎の攻城にも春日山城は火災を出すこともなく守り抜き、結果、春日山城を押さえた上杉景勝側の勝利となります。この城の鉄壁の守備が、決定打となったといえます。

 戦においては無敵であった、謙信ですがこの跡目争いをみると、あまり近親の内政については得意でなかったようです。とりわけ、この景虎のふるまいから見ると、謙信の不条理な情念のようなものも感じます。依怙贔屓というか溺愛、もっというと変な愛情のようなものもあったのではないかと勘繰ります。
 そもそも謙信には「女性説」が根強く、ときに馬鹿にされますが、医学的には可能性が高いように思います。月に一度、不機嫌な時が多く見受けられたそうですし、酒を多く飲んだとしても、50代でのくも膜下出血、という死因を考えると、臨床的には女性のエピソードです。また、情に厚く一見男らしい豪快なエピソードがありますが、これもどこか宝塚的なにおいを感じます。男というものは、女性の思うような男でないほうがしばしばであることは言うまでもないですよね。景虎への偏愛も、このストーリーで考えると理解しやすいのです。でもそんなことあるかな?、と思う方、井伊直「虎」も女性とされていますし、そもそも謙信の名前は景「虎」なんですよね。










tougouiryo at 2020年08月01日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (大分府内城)

 今回は大分府内城(94・大分)です。押印は平成29年6月30日で、大手門のところにスタンプ台がありました。

 かつては望楼型白亜の四重天守があがっており多数の櫓を有し、河口付近で海も近い梯郭式の巧みな縄張りの城郭だったようです。が、現在は、街中の城で、駐車場探しも大変。神社を越えると、廊下橋があり、人質櫓や天守台なども見え、期待が高まるのですが、かつての西の丸、内々堀にあたるまさに城郭内部が広大な駐車場になっており、期待外れです。大手門や櫓など外郭は立派なのですが、中身が空洞、といった感じでちょっとがっかりな印象でした。

 ただし元は、大きな内堀、外堀に囲まれ、海城といってもよい壮大な城郭だったようですが、いかんせん埋め立てられ、完全に市街地化されてしまっております。こうまでなると、なかなか想像だけでは補えませんね。天守台に登り、何とか往時を妄想するのが関の山です。
 それでも西南戦争時には、中津隊による城への攻撃を撃退しており、強い城であることは間違いないようです。

 大分では、早川光さんが鮨番組で紹介していた、江戸前ずしの「月の木」へ訪れました。とても感じの良い大将のお店でした。とてもおいしかったのは言うまでもありません。番組に紹介された一年くらいは、新規のお客でごった返すそうですが、やっと一年くらいして落ち着いてきたそうです。その方が地元の方にとっては良いですよね。





大分あるある ご当地あるある
あべ由紀子
TOブックス
2018-10-10


府内 厠騒動 1615
水光 心生
海辺の小瓶
2016-03-03


tougouiryo at 2020年07月29日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (新発田城)

 越後・阿賀北(揚北)衆、新発田氏の居城、新発田城(31・新潟)です。押印は平成21年8月16日で、お盆の里帰り次いでの訪問でした。本家が近隣(といっても田舎なので遠いですが)なのですが、高校の時の先生の話では、新発田と近隣との関係は歴史的に微妙なようで、幕末に、他藩が奥羽越列藩同盟でまとまる中、新発田藩は新政府側に与したことが影響しているようです。

 城下町の中心にある公園といった感じの城郭で、表門などは内部公開されていてそこそこ見れるのですが、敷地の大部分は陸上自衛隊の駐屯地のため、なんとなく「端っこだけ」といった印象です。新政府への貢献からか維新後も破却されなかったものの、軍によりしだいに取り壊されたようで、戦後には新潟大学の分校もおかれていたようです。首里城が琉球大学だったことと事情が似ています。

 ほとんどが駐屯地のため、本丸の御三階櫓は、内堀越しか、駐屯地外部から(遠目に)見るしかありません。個々の最大の特徴というと、正面が二つあるといわれる御三階櫓で、最上階の屋根の棟がT字になっている「三方入母屋」と呼ばれています。一説には攻城側が、正面が分からず方向性を失うためなどいろいろ説明されていますが、実際はよくわからないようです。ただの遊び心かもしれません。

 この新発田もそうですが、藩の歴史を知ることで、ご当地のディープな事情が知れるということは少なくありません。奥羽越列藩同盟からすれば、この新発田から新政府軍の切込みが入れられたことで、その後の同盟軍の崩壊につながったとも考えられます。こうした遺恨は現在ではもうあまりないのでしょうが、お年寄りの中では少しは残っているのかもしれません。少し異なりますが、津軽と八戸のぎくしゃく感なども、他県の人には知られていませんが、「青森県」と一括りにされることへの戸惑いもあるようです。

 遠方からの方の場合、こうしたご当地の話題で盛り上がることが出来るのも城めぐりの副産物です。ちなみに新発田から当院まで、通って来られる方もいらっしゃいます。





新潟県 しばたのおかず (郷土の食材と料理)
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tougouiryo at 2020年07月25日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鹿児島城)

 今回は鹿児島城(97・鹿児島)です。スタンプは平成21年5月28日の押印で、初訪問のこのときは、統合医療の仲間で、屋久島に行く日程の前日に鹿児島に前のりして、仙厳園とあわせて見学しました。
 その後も、東洋医学会の後や、昨年末の統合医療学会も鹿児島城の真ん前が会場でしたので、結構、何度も言っている印象です。複雑な城郭ではないので、すぐ理解できるのですが、少しずつ復元が充実している様子が見て取れます。昨年末は、正面の櫓門の復元が進行中で、建築中の様子を(姫路城の時のような復元工事を公開)みることができました。以前の本では2018年完成予定という記載があったのですが2019年でまだなので少し遅延していたのでしょうか。

 城内には立派な歴史資料センター黎明館があり、そこでスタンプが押せます。学会の隙間時間がたくさんあったので(笑)、十分見学することができました。少し離れたところに西郷隆盛終焉の地があり、その近くに地元の人しか来ないような小さな温泉があり、見学後に入浴もできます。

 背後の城山は、城を見慣れるまではきずかなかったのですが、明らかに詰めの城で、歴史的には城山の城と、その下の居館部分を合わせて「鹿児島城」と称していたのが、詰めの城部分は実質ないことになり、居館部分だけを鹿児島城と称するようになったようです。
 それもこれも、やはり関ヶ原での敗戦に遠慮して、戦闘向きではない居館を居城としたことが原因で、それでいて、いざとなったら背後の詰めの城に立てこもり可能というのがうまくできていますね。

 隣接する私学校跡には西南戦争時の弾痕もあり、さらには宝暦治水で命を落とした方の供養塔である薩摩義士碑もみられます(これはマンガ『風雲児たち』を読んだ人には必見の史跡ですね!)。いろいろと事前の知識があるとかなり楽しめる城郭でした。



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tougouiryo at 2020年07月22日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (甲府城)

 武田家滅亡後、甲州の拠点となった甲府城(25・山梨)です。押印は平成23年の7月3日です。以前、ご紹介した武田氏館の前に訪問し、登城後は、ご当地グルメで有名な甲州鳥モツ煮を駅前で食べて帰りました。
 武田関係の城郭が続きましたが、最後の本拠である新府城(ここも関東最恐の心霊スポットとして有名です)を放棄し、滅亡に至ります。その後の拠点である甲府城は、徳川家康の命により築城された城で、天守台のみで、解説書によっては天守は建てられなかったとされていますが、近年の調査では、鯱瓦の発見により浅野氏による天守が実在したとされているようです。

 駅前というより、駅自体が城郭内にあるというアクセス抜群の城です(甲府駅降りなくても甲府城です)。ガッツリ線路が載っているところは三原城と同様です(三原城の方がドーンと新幹線載ってますが)。関ケ原以前の石垣が大量に残っており、分かり易いので、あまり興味のない方でも楽しめる城郭です。
 本丸の門が近年、次々に復元されており行くたびに新しくなっている印象です。現在、本丸にはオベリスクの「謝恩塔」がたっており、山梨に御料林が下賜されたことを記念して建てられたものだそうです。この重みで土台の石垣が少し孕み出していたのが気になりました。
 天守台からは、甲府一面が眺められ、はっきりとはわかりませんが、武田氏館も見えます。天気の良い日はいつまででも見ていられる眺めの良い場所です。天守台自体が、真四角ではなく、変形した五角形のようないびつな形で、どんな天守なんだろうと感じで、安土城も同様な印象だったのですが、それもそのはず、岡山城と合わせて「日本三大ゆがみ天守」というようです。
 
 武田の支配が終わった後で、新たな時代の拠点として、市内至るとこからでも見えるシンボル的な城郭です。豊臣期には浅野氏により徳川への睨みを利かせる城として整備され、徳川期には親藩として将軍の息子が城主となる重要な城でした。
 こうした城ですから、幕末期はどうなったのかというと、重要拠点ですから近藤勇らも甲陽鎮撫隊として当初は甲府城へ向かっていますが、進軍が遅かったため甲州勝沼で官軍とぶつかり一日で壊滅しています。
 そもそも甲府城代は、現地に赴任しないまま新政府側に恭順しており、板垣退助は易々と無血入城を果たしています。ちなみに、板垣退助は源氏であることをアピールして、甲斐入国を前に(ご当地の人気取りのために)乾から改姓しています。これはその後の転戦においても有利に働いたとされ、新政府側の情報操作の巧みさを感じます。また源氏の正統の武士であるという矜持を見せるためにも、自らにとっても大切だったのでしょう。維新政府側の不安な内面の揺れのようなものが垣間見えるエピソードです。

日本の城 改訂版 87号 (甲府城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-09-11





tougouiryo at 2020年07月18日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (飫肥城)

 今回は、飫肥城(96・宮崎)です。人吉城の翌日、平成25年6月3日に歴史資料館にて押印しています。宮崎県を日南市までずいぶん南下して運転し、やっと着いた印象でした。後に、鹿児島の志布志城にも行っているので、そちらから逆に回ったほうが良かった、と思うのは現在だからこそです。

 飫肥は、小村寿太郎の生家もある、落ち着いた風情の城下町でした。武家屋敷もちゃんと残っていて、ゆっくりとまわる価値ある町。100名城巡りサイト界隈では、ここにいったら「飫肥天」が定番ということで、食べましたが、まあ土地柄、薩摩が近いので「さつま揚げ」ですね。

 復元された大手門をくぐると、歴史資料館もあるのですが、小学校です。そして奥には中学校。学校と城郭の見事な合体、といったところでしょうか。さらに奥に進むと、真っ直ぐの飫肥スギが静かに立ち並ぶ旧本丸になります。静寂なる癒しの空間でした。この本丸を含め城郭全体が、シラス台地が地盤のためもろく、地震の地割れなどが続き、中之丸の新本丸へ移った跡地といったところです。
 ただここからさらに奥へと本丸を降りていくと、そこには南九州の城郭の特徴といわれる群郭式という独立した曲輪が広がります。つまり従来のご当地の中世山城と、近代城郭が融合した城ということです。前の時代のものを含んで超えていくという感じで、とても興味深い城郭といったところです。

 この城は、宇佐八幡宮の神官の土持氏の築城とされますが、鎌倉時代にここもまた伊豆の伊東氏が地頭として拝領し、土持氏の娘を妻とし姻戚関係を結んだことで強固な同盟関係がなったということです。ここもやはり地元の勢力に、関東からの騎馬系支配層が姻戚関係を結んで長期支配をするという形式ですね(城郭のかたちにもこうした融合の妙を感じます)。
 この後も、島津の侵攻を何度も受け落城の憂き目にもあっていますが、なかなかの処世術で生き残り、幕末まで飫肥藩として伊東氏は生き残ることになるのです。
 このあたりもただの処世術だけではなく、中央との長い歴史上のつながりが秘められているのかもしれませんね(明治期に小村寿太郎を輩出しているのも偶然ではないのかもしれません)。















tougouiryo at 2020年07月15日04:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高遠城)

 織田に飲み込まれる武田の最終戦とも言える徹底抗戦の場、高遠城(30・長野)です。高遠桜(タカトオコヒガンサクラ)で有名な桜の名所で、旧藩士らが植えたことが始まりといいます。ここも山本勘助縄張りとされる城で、勘助曲輪という曲輪もあります。押印は平成22年7月31日でまだ暑いころでした。つけ汁に辛み大根を使った「高遠そば」を城近くで食べてから登城しました。
 ちなみに高遠そばは、福島にもあり、徳川秀忠の庶子、保科正之の会津藩転封に伴って、そば職人も福島に連れて行ったことにより、かの地に根付いたそうです。ちなみに高遠で高遠そばと呼ばれるようになったのは、会津でそう呼ばれていたのが、平成になってから逆輸入されたものだそうです(ネット情報)。

 高遠城は、秀忠が正室(お江の方)を恐れて庶子である正之と母を秘密裏に保科家に託した場とされ、訪問した際も、保科正之を大河ドラマ主役に!という運動が行われていました。確かに、大河ドラマファンとしては面白いですが、一般受けしなそうですので実現は困難だなあと感じました。幕末ギャグ漫画『風雲児たち』もこの辺りから幕末の会津藩の動きの伏線として描いておりました。

 織田との徹底抗戦の地だけに、籠城の女性まで武器をとって戦ったという逸話(敵方にはらわたを投げつけた武将までいたようです…)と共になんとなく暗い雰囲気が漂っていました。山と川に囲まれた天然の要害だけに八方ふさがり感も半端ない感じだったのでしょう。
 援軍到来を期待しての籠城だったにも関わらず、援軍の勝頼は途中で引き返し、いわば見捨てられた城となってしまったのです。こうしたエピソードもさらにもの悲しさに拍車をかけます。桜という花のどこか悲しげな雰囲気ともまた重なります。
 新府城から一度は出た勝頼ですが、織田に包囲された高遠城には行かず、新府城に火をかけ、岩殿城に向かったものの天目山にて自刃、武田氏は滅亡しました。自ら自刃するのであれば、包囲されていながらも、救援軍を向かわせていれば、少しは歴史の流れも違ったものになっていたのか、とも思いますが…。















tougouiryo at 2020年07月11日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (上田城)

 松代に次いで、真田の城です。といってもこちらは真田の大活躍の場、上田城(27・長野)です。押印は平成21年の4月29日です。GWの時に群馬の職場から、新幹線で上田駅へ向かいました。

 高校生の頃、小説『関ケ原』などを読むと、この上田城の戦いのところは、知略を尽くして多勢に挑む真田の姿が活写されていて大好きでした。小説などでは、色々な策略により、攻城軍を撃退するわけですが、いろいろと縄張りが入り組んでいたり、天然の要害に富んだような印象があったのですが、初訪問の時は、駅からもアクセス良いし、正門となる櫓門から入ると平べったく明るい感じの城なので、少し拍子抜けした記憶があります。
 ただ後日(数年後)車で再度訪問し、崖下(尼ケ淵)の駐車場から上がった際には、崖にそそり立つ難攻不落の城というのが理解できました。さらにその時はVRも充実し、資料館での往時の様子がよくわかる映像もあったので、徳川軍を二度も退けた名城を感じることが出来ました。

 ただ第1次上田城の戦いは定説でわかるのですが、第2次上田城の戦いに関しては、現在では少しひねた見方をしております。
 真田昌幸が3500の兵力で、その十倍以上の兵力を有する秀忠軍を迎え撃ち、結果、関が原本戦に遅参することになったというのですが、それでもわずか一日で昼過ぎには関が原で東軍勝利となっているわけです。であれば、この中山道軍の必要性はなんなのでしょう(ちなみにこの時の拠点が小諸城です)。
 一説では、家康は勝利を確信しつつも、もしもの後詰として、時間差でわざと遅れさせたのではないかという説。本戦で戦闘が展開される中、家康としてはいくら後継者だからといっても、あからさまに参戦させないというのも士気にかかわるでしょうし、本当に秀忠の不手際で遅れたのなら、後継者としての器を疑われるわけで、後にすんなりと第2代将軍に就任したことを考えると、これまた疑問符が付くのです。
 それに対してわざと(いわゆるプロレス)であれば、全国的な勢力図をみながら、本戦の予想外の展開に対しても、対策を立てることができるわけです。また、北方からの侵攻ににらみを利かせる意味もあるという説もあり、こちらの方がどうもありそうに思います。ドラマ仕立てではない、冷静な視点というのも実際の場面からは見えやすいように思います。また医療には特に必要ですが、局所からだけでは見えない、全体からの視点の重要性をあらためて感じます。
 まあ実際は、当時の当人に聞いてみないと解らないのですが、現場に立つとそれがありそうだな、というのが実感でした。親子敵味方にわかれ、攻城側にいた真田信之が、結果として主家の旧領といえる松代を領したという事実も、これを支持するように思えますし。皆さんは、どのようにお考えでしょうか。

 この城は、北東の鬼門除け(隅欠)がとても見やすいのが特徴です。あの合理性をもった真田昌幸でもこうしたまじないを信じざるをえないのです、みたいな解説がありますが、それこそ現代風の思い込みで、当時として極めて普通の作事だったのではないでしょうか。

 広々とした公園といった感じで、二の丸には博物館もありました。現在はさらに施設も充実しているようです。当時は駅の近くの居酒屋に友人とはいり、馬刺しや馬のモツ煮を食べたのですが、これが、十分な下処理がされおらず、そのためか(?)黄色みがかった汁で、現在でも馬のモツ煮はちょっとしたトラウマになっており、上田城というと真っ先にこれが思い出されます(笑)







tougouiryo at 2020年07月04日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (吉野ヶ里)

 今回はお城というより環濠集落、吉野ヶ里(88・佐賀)です。押印は平成26年11月24日、この年の九州攻め最終日でした。100名城になっているので来たのですが、1990年の史跡認定の時に結構話題になっていたので一度見て見たかった史跡でした。
 当時は邪馬台国との関連が報道され、現在でも九州説の候補でもあります。古代史も、城郭同様、コアなファンが多い領域ですので、年中、邪馬台国発見か!?みたいなのやってますよね。

 主祭殿、高床住居、物見やぐらなど復元建物がたくさんあり、歴史に興味がなくても楽しめると思います。青森、三内丸山遺跡もすごかったですが、こちらは高床な分、迫力があります。また、V字に掘られた環濠は深さ3メートルもありこれもすごい。
 城郭の起源という観点からすると、防御の逆茂木などもあり、やはり100名城!といったところでしょうか。銅剣も出てるし、祭殿も立派なので、もうここが邪馬台国でいいんじゃないか(笑)って感じです。

 こうした城の原型に、半島からの土木技術などが混ざって「大野城」のような形態になり、時を経て戦国の山城群が出現する、そして次第に平野におりて、見せる立派な城へと変貌し、「福岡城」「熊本城」「島原城」などができていったと思うと感慨ひとしおですね。それぞれには築城当時の思いなどがあるのでしょうが、時系列で並べてみると、系譜学のように構造的な問題が透けて見えるので、こうした視点も時に必要ですね。
 個別ではなく集団としての視点の大切さ、という点で、四象限の見方(AQAL)の重要性をあらためて感じました。

吉野ヶ里 遺跡はこうして残った
山崎 義次
文芸社
2017-04-28

まぼろしの邪馬台国
余貴美子
2015-05-25






tougouiryo at 2020年07月01日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (小諸城)

 今回は山本勘助つながりで小諸城(28・長野)です。100名城の押印は平成21年7月19日で、前回の松代城を訪問する前に、車で寄っていきました。高校時代、夏期自習のための宿泊施設が小諸にあったので、何度か行っていたのですが、当時は小諸城というより「懐古園」だと思っていました。城だと思ってみるとやはり立派な城で(笑)、どういった「メガネ」でものを見るかによって、これほど変わるものなのだと実感しました。

 城下町より本丸の標高が低い「穴城」で、これも事前に知らなければ分かりません。大手門は2008年に江戸時代の姿に復元されました。穴城というものの、城郭は千曲川に向けて伸び崖となっているため攻城は困難で、さらには城内も断崖絶壁が切り込んでいるため、なかなか迫力のある城です。懐古園なので、児童遊園もあり、動物園もあり、小田原城以上に動物に占拠されておりました(笑)

 小諸藩初代藩主は仙石秀久で、戦国一の汚名挽回をした武将として漫画でも有名です。戸次川の戦いの敗因となって逃げかえり、高野山追放されたが、小田原征伐の折に汚名挽回し、関が原では東軍に与し初代藩主となったわけです。この時の汚名挽回が、以前紹介した山中城の戦いの先陣です。山中城の落城を思いながら、この城をみるとまた感慨ひとしおです。

 ただこの仙石秀久というのも謎で、漫画的なストーリーとしては面白いのですが、本当にそうした人間模様だけで、説明がつくものなのか疑わしいですね。この人が明智光秀同様、土岐の流れであることも見逃せません。この人の経歴をある意図をもって行動したと考えると、また歴史の妄想が展開されて面白いでしょう(個人的には大分の戸次川から讃岐(香川県)までの壮大な退却は何とも怪しいと思います)。

 いずれにせよ、うどん県まで逃げ帰ったのちに、小諸そばで藩主ですから忙しい人物であるのは間違いありません。ちなみに訪問時は、そばを食べてから、松代城へと向かいました。


日本の城 32号 (小諸城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-08-20








tougouiryo at 2020年06月27日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (福岡城)

 福岡の街中にある城、福岡城(85・福岡)です。押印は平成26年11月23日、大野城訪問後、急いで臨床検査医学会に参加してからの訪問でした(いつもながら遠方の城巡りはバタバタです)。スタンプは古代の迎賓館といわれている「鴻臚館」跡の展示館にて押印しました。
 鴻臚館の遺跡は、その上にすっぽりと覆屋を建てた大規模なもので、福岡城と合わせて二重の国指定史跡であり、全国的にも珍しいそうです。城自体は天守がないため派手さには欠け、大きな公園といったところでしょうか(実際、舞鶴公園という公園です)。訪問時は「官兵衛」ブームでガイダンス施設なども充実しておりました。

 古代から鴻臚館がある非常に歴史ある地で、かつ、商業都市である博多を取り込む形で黒田長政が築城しました。貿易においても重要な位置を占め、歴史的にもフィクサー的色彩の強い黒田氏の中心地です。明治以降も大きな影響力を有する福岡藩関係ですから、鴻臚館と重なって建てられるというのも何か意味があるのかもしれません。
 隣接して、かつての博多湾の入り江「草ヶ江」を埋めたて城の大堀とした「大濠公園」があります。白く長い橋が島を中継して池の両端にかかる景色がとてもきれいな公園で、ここで時間をつぶしてから、博多で「水炊き」を食べました(佐賀への帰りの高速道が慣れないドライバーにはとても怖かった記憶があります…)。

 大きな天守台がある割には、天守があったという記録はないようですが、細川忠興の手紙に天守があったとする記載もあり、詳細は不明なようです。現在みると公園ですので、よくわからないのですが、築城当時は、かの熊本城主、加藤清正が「自分の城は3、4日で落ちるが福岡城は30日、40日落ちない」と語ったとされ、水堀を巧みに配した巨大な城郭だったようです。
 いずれにせよ博多を押さえるという意味は、黒幕である組織から、黒田に与えられた大きな使命だったことでしょう。そんなことを考えながら中州へ行きました(笑)

日本の城 改訂版 108号 (福岡城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-02-05


甦れ!幻の福岡城天守閣
佐藤 正彦
河出書房新社
2001-07T








tougouiryo at 2020年06月24日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松代城)

 武田VS上杉の川中島の合戦での海津城がベースになっている松代城(26・長野)です。押印は平成21年7月19日です。長野駅近くに宿泊し、善光寺参りと合わせての訪問でした。川中島古戦場も近在にあり、城からは謙信の布陣した妻女山も望めるので、川中島合戦に興味ある方には、その地形も含めて楽しめると思います。

 復元された太鼓門や櫓台の石垣など見どころもあるのですが、当時はそれでもさっぱりとした印象でした(本丸内部はがらんとしていましたので)。同じような印象を持つ方もネットでは多いようです。ただ年々、整備が進んでいるようですので、現在は少し違っているかもしれません。近くには真田宝物館やエヴァンゲリオンでも有名な松代地下壕もありますので、お時間ある方は結構楽しめるようです。私は時間の関係で、城だけで、周辺施設は未訪問です。

 武田信玄好きにはたまらない山本勘助築城とされる「海津城」ですが、信ぴょう性は?といったところで、後に上杉支配下となり、森忠政を経て、松平忠輝により「松城」と改名、最後に真田信之により「松代城」となりました。武田からいろいろあって、最後は武田系の真田に戻ったわけですね。

 この真田についても歴史小説好きの方からするといろいろなドラマで語られますが、実際はどうだったのでしょうかね。関ケ原で親子が敵味方に分かれたにもかかわらず(つまり親族は敵方)、そのあと幕末まで真田家は、かつての主君の関連する土地で家名を継続、そこから佐久間象山を輩出、さらには本土決戦最後の拠点とされる松代象山地下壕、といろいろ歴史のカギとなるものが続出なので、何か真田家のウラを感じてしまうのは私だけでしょうか。歴史の地の訪問はこうした妄想が、よりリアルに感じられるのもまた魅力に思います。

 帰りには長野出身の人のおススメで、すき亭のすき焼きを食べて帰りました。これもまた城めぐり大きな楽しみの一つです。




あっぱれ松代城
松代春香
日本クラウン
2010-02-24



tougouiryo at 2020年06月20日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (大野城)

 大宰府古代山城群の中心的役割を担う大野城(86・福岡)です。押印は平成26年11月23日、県立四天王寺県民の森管理事務所でスタンプを押しました。

 いわゆる戦国・安土桃山の城とは異なり、白村江の戦いの敗北を機に、唐・新羅の侵攻に備えた古代の城で、巨大ですごいのですが、あまり整備されていないので見ずらいです。案内書なども県民の森の遊歩道の図みたいなのを頼りに行かなくてはならず、山城への入り口も分かりにくいです(現在では少し改善されているかもしれませんが)。以前。ある雑誌で城好きドクターが、好きな城としてここを挙げていたのですが、他の選択肢と合わせると「?」という感じです(行きにくい100名城に来たぜというアピールにはなると思いますが…)。
 岡山・鬼ノ城と築城目的が似ており、その規模の大きさも当時の政治状況から考えると納得の古代山城といったところでしょうか。いずれにせよ、白村江の敗戦による半島からの攻撃に対する恐怖が、そのまま城郭規模の巨大さにつながったような当時の心象を、時を超えて感じることが出来ます。
 ただ鬼ノ城と比べると、大野城は復元なども行ってないので、山中を案内図片手に、礎石や石垣を訪ね歩くといった感じです。
 回っているときは把握できていなかったのですが、後で調べてみると、博多湾から上陸された場合、水城とこの大野城、さらには南方のキイ城とで内陸にある大宰府を囲んで防衛している様子がよくわかります。

 百済からの亡命貴族の指導により築城したということですが、とにかくこの時代にここまでの規模の城があったというのは素直に驚きです。加えて、内部の水はけの必要から築かれた石垣群は、百間石垣を代表としてかなりの見ごたえがありました。
 帰路に、令和となって急に脚光を浴びた太宰府天満宮に立ち寄り(この当時は「令和」ブームになるとは予想だにしませんでしたが)、飛梅などを見学し参拝してから、学会場のある福岡へと向かいました。水城は時間がなく、訪問できませんでした。




 

tougouiryo at 2020年06月17日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (武田氏館)

 言わずと知れた信玄公の躑躅ヶ崎館、武田氏館(24・山梨)です。押印は平成23年7月3日で、初訪問の時はいかなかったのですが、その後、詰めの城である、要害山城と合わせて何度か訪れました。要害山城は温泉に駐車できるので、ハイキング、城めぐり、温泉と合わせ技でとても良いところです。ちなみにこの詰めの城は武田信玄生誕の地、です。そして館は現在、武田神社です。

 甲府の駅に降りると、さっそく武田信玄公の像があり、さすが甲府といった感じ。駅前の甲州地鶏の焼き鳥屋に何度か行きました。駅から緩やかな坂をひたすら上り、武田神社に到着します。足利氏館同様、居館形式の単純な構造ですが、室町将軍邸である「花の御所」を模して建造されたそうです。

 神社だと持っている人には神社にしか見えませんが、水堀や土塁などもしっかりとあり、立ち入り禁止区域ながら「天守台」もあります。ただしこれは豊臣期のものらしいですが。また曲輪もいくつかありますが、これも武田滅亡後に増設されたものだということです。いずれにせよ、その目で見るとなかなかに城郭っぽい構造を認めますが、神社だとしか見なければそのようにしか見えないかもしれませんね。

 入り口前には土産物屋があり、信玄餅アイスみたいなのを食べました。夏だったので、えらい暑かったのを記憶しています。

 よく信玄の言葉として「人は石垣、人は城」といって、だから信玄は館だけで城を作らなかった、と説明されることが多いのですが、居館の奥に詰城があって、これだけ立派な居館があるのある形式は、信玄が城を作らなかった、というのとは違うと思います。これは城好きの感覚からすれば当たり前で別に信玄の言葉を特別視するほどのこともない、戦国大名としては常識的なように思います。
 これに似てると思うのは、薩摩の島津による鹿児島城で、薩摩藩が結束が固かったので、守備を強める必要がなかったというのですが、背後の城山が詰城なのでこれもそれほど例外的ではないように思うのです。実際に訪問することで、いろいろと解説書とは違う感想を持つものです。











tougouiryo at 2020年06月13日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (佐賀城)

 2004年に立派な御殿が復元された佐賀城(89・佐賀)です。押印は平成26年11月22日で、肥前名護屋城から呼子をまわり、訪問時は閉館時間ぎりぎりでかなり薄暗くなっていた記憶があります。

 佐賀駅からもいける町中の城といった感じ。龍造寺の居城である村中城を、家臣の鍋島直茂が改修拡張した城で、活躍した家臣により最終的には藩ごと簒奪されたという城郭です。
 立派な天守台ときれいな復元御殿が印象的でしたが、ぎりぎり押印に間に合った、とういった感じでばたばたと見学しました。門扉には佐賀の乱の銃撃戦による弾痕もあり、訪問時は、幕末の名君鍋島閑叟の特別展が本丸歴史館で開催されていました(明治天皇御愛蔵の閑叟の書、初公開でした)。

 佐賀城の前身である村中城の戦いは、訪問当時はあまりよく理解していなかったのですが、その後、城めぐりアプリの合戦イベント「今山の戦い」で体験することができました。ちなみにこの時は龍造寺軍で勝利しました(笑)
 実際の戦闘では、村中城にこもる龍造寺軍5000は、そのほぼ10倍の兵力で攻める大友軍が総攻撃の前夜の酒盛りをしているという情報を得、未明に本陣の今山を急襲。これにより大将を討ち取り大友軍は撤退となったという戦いです。
 これにより龍造寺は勢力を拡大しますが、結局はその家臣である鍋島により佐賀藩が成立します。皮肉なようですが、この奇襲戦の要である前夜の酒盛り情報を伝えたのも鍋島直茂ではあるので、それ以前の活躍と相俟って仕方ないことなのでしょうね。(直茂の優秀さを見越して慶詁瑤浪反辰慮綺覆貌ったということなのでしょう)

 また明治になってからは不平士族を束ねた江藤新平による「佐賀の乱」の舞台となり、近代戦も経験しています。ただし、新政府大久保卿により佐賀城を攻略され、あっけなく平定されています。まあ、この佐賀の乱も謎の多い反乱なので、そもそも江藤新平に反乱する気があったのか、ただ下野しただけなのではないかと疑問視する声もあるほどです。ただしその結末が、初代司法卿にして「さらし首」、というあまりのインパクトです…。

 城郭は御殿中心のさらっとしたものですが、そこをめぐる歴史が奥深いお城でした。佐賀に来ることもなかったので、この辺りの歴史をしる良い機会になりました。福岡の検査学会に参加するための旅行だったのですが、当時、スマップのコンサートと重なってしまい福岡のホテルが軒並み取れず、その分の宿泊も全て佐賀だったので、ずいぶんと長く滞在した印象です。





江藤の首を晒せ―実録・佐賀の乱
光武 敏郎
葦書房
2000-10T


漫画 鍋島直正
梓書院
2018-02-27


tougouiryo at 2020年06月10日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (小田原城)

 小田原攻めの攻城をここ数回取り上げてきましたが、いよいよ小田原城(23・神奈川)です。100名城の押印は平成21年6月29日です。

 当時、スタンプラリーが始まってそれほど経っていないにも関わらず、訪問者数の多さから既にスタンプが劣化してしていました(現在は復活しているかもしれませんが…)。本丸は、当時は遊園地というか公園化されていて、動物園のような感じで、象までいました。小諸城も同様に動物園になっているので、一時期の城郭の利用法として盛んだったのでしょう。一頭だけの象、それほど観客もいなそうで、なんだかとても寂しそうでした。それから、しばらくしてニュースか何かで、(記憶が曖昧なのですが)その象の死亡を知りました。

 訪問の際、「ういろう」屋さん(といっても「薬」です)によって、薬の「ういろう」を買いました。漢方薬局が併設されていて、ちょこっとのぞいたところ、薬剤師さんが一人いて漢方の処方をしているようでした。どのような処方の方法なのか知りませんが、歴史ある場で漢方処方が出来る、というのはなかなかうらやましい環境だと思いました。

 銅門や馬出門などが復元されていて、子供の頃に来た印象とは少し違っているなあ、と感じました。1997年の復元で、かつてを偲ばれる立派な門でした。三重の天守は1960年に鉄筋コンクリートで復元されたもので、明治期まで残った関東の天守としては、この小田原城が唯一ということです。この近世城郭は、豊臣の包囲したものとは違っておりますが、近くにある秀吉による一夜城からこの天守を見ると(とても小さいですが見えます!)、これまでの落城した諸城を思い、実に感慨深いものです。

 総構という、町ごと土塁や空堀で囲い込む壮大な防御設備により、鉄壁の守りを貫いていた小田原城でしたが、これもやはり豊臣の大兵力を前にしては、勝敗は戦う前には決していたも同然です。兵力に加え、周辺の北条方の諸城を、特に要となる城郭を徹底して落城させた秀吉の戦法は、心理戦としてもかなり有効だったようで、八王子城落城などはかなり主戦派の心を挫いているようです。何事もその設備だけでなく、そこに関連する無形の心理状態などが大きく影響することを教えてくれています。

 小峰の大堀切や稲荷森総構掘など、当時の総構の遺構は、残念なことにまだ未訪問なので、ぜひ機会を見つけていきたいものです(この記事を書いている時点では非常事態宣言中なのでいつになることかわかりませんが)。

 小田原攻めに関連する城郭をいくつか見てきましたが、実に作りこまれた見事な城郭も、歴史の流れという大きな濁流には全くの無力といった感想を持ちます。我々は、細かな対策や作戦を立てることで眼前のリスクを何とか減らそうと試みます。これが奏功することもありますが、常に思い通りにいくとは限りません。あらゆる取り組みが意味をなさないことを覚悟する、という状況もまたあり得るわけです。ハーバード教育学研究所のロバート・キーガン博士は、次のように述べています。

 こうした状況においては、私たちが問題を解決するのではなく、問題が私たちを解決するのである。







日本の城 46号 (小田原城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-11-26







tougouiryo at 2020年06月06日05:30|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (名護屋城)

 今回は、尾張名古屋ではなく、佐賀の名護屋城(87・佐賀)です。押印は平成26年の11月22日です。佐賀駅前に宿泊後、唐津城を少し見てから訪問しました。立派な建物の県立名護屋城博物館の敷地内にあるような形で、駐車場も含めよく整備された城跡でした、が…。

 将来的な明の征服を念頭に、朝鮮出兵の前線基地として築城された豪華な五重天守だったといわれます。秀吉死後は、廃城とされ唐津城に用材転用され、島原の乱以降は、反乱軍の拠点にならないように徹底的に破壊されたようです。まさに朝鮮出兵を目的にした短期間の「幻の城」といえるかもしれません。それでも当時の規模は天守台などの遺構から十分伝わってきます。玄界灘に面した天守台からは、広々とした海が見え、晴れた日には対馬まで望めるということです。
 広々とした全域は非常に見学しやすい形で整備され、博物館の模型からもその全体像の壮大さが伝わってきます。(このようにとても整備された城跡だったのですが、あまり城巡りのサイトなどでは指摘されていませんが、城主である秀吉の出兵に対しての博物館の解説・解釈が一方的なように感じたのが今でも印象的に残っております…)

 また、この城は本体となる城に加え、周辺に130もの陣跡が広域に点在していることも一つの特徴です。まさに戦国武将勢ぞろいといった感じで、各々の陣跡が周辺マップで回れるようになっています。一つ一つは「陣」ですからそれほど大きくないのですが、これほど「密」に戦国武将オールスターそろい踏みとなる史跡はここだけでしょう。とてもすべて回れないので、徳川家康や前田利家などの主だった武将のところだけ回りましたが、時間があれば、ゆっくりまわりたい名所です。国を挙げての一大出兵であり、これを機に豊臣政権が揺らいでいったのも理解されます。

 そのあとの城めぐり予定や、この近くの「呼子のイカ」が食べたかったので、早々に切り上げざるをえませんでした。ちなみに、期待していった呼子のイカは、当地では団体旅行御一行様向けの大きなお食事処が多かった印象です。私も、大きなホールようなお食事処でイカ刺したべました。ちなみに、佐賀駅近くの居酒屋でも「呼子直送!」のイカ刺し食べられたので、現地に赴く必要ないのかもしれませんが、やっぱり気になったので…。

 豊臣政権最後の大イベントの舞台、肥前名護屋城。歴史的事件を体感するにはもってこいの城跡といったところでしょうか。これほどの大きな動員力を有した政権が、ほどなく倒れていくと思うとなんとも感慨深いですね。ちなみに、秀吉がこの城に滞在期間中が、大坂の淀君の受胎時期と重なるというネタもよく話題になりますね。













tougouiryo at 2020年06月03日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (山中城)

 今回は、一時的に東海の城、山中城(40・静岡)です。前々回からの小田原攻めシリーズで、東海道上にある、小田原への最後の要とも言える城です。

 100名城押印は平成21年の6月28日です。駐車場に車を止め、道路向かいの売店にスタンプがありました。当時は、まだ城めぐりを始めたばかりでしたが、「最近、100名城の人が結構いらっしゃいますね、かなり廻られたのですか」とお店の人に声をかけられたのを覚えています。ここは沼津、三島によく行っていた時があるので、そのたびに幹線上に位置するアクセスの良い城なので、何度も行きました。近年では、独特の形状をした「障子堀」が大人気で、お城好きからはベルギーワッフルとも称されております。どこかの歴女が「好きなお堀は障子堀!」とも言っておりました(笑)。

 この城はまさに東海道上に両側から挟むように縄張りで、まさに「関所」のように位置しています。豊臣の天下統一の締めくくりとして小田原城へと向かうには、通らざるを得ない位置です。既に天下統一へと向かっていた時期ですから、戦国の世と比べると戦闘がずいぶんと減り、逆に手柄を立てる機会もまたぐっと減っていた時期でもあります。そうした意味でも、華々しい業績を上げるめったにない機会といった意味合いが、この山中城をめぐる戦いからは見えてきます。
 
 この城も八王子城同様、戦闘までに整備が間に合わず、未完成のまま戦闘に入ります。東海道を上ってくると右手側に位置する出丸(岱崎出丸)で戦闘が開始され、豊臣側の一柳直末が討ち死(三の丸跡のお寺にお墓があります)。しかし攻城側の多数の兵により二の丸、三の丸と次々におち、山中城はその日のうちに落城します。障子堀をはじめ、いくつもの技巧を駆使した北条の築城技術が盛り込まれた城郭ですが、やはり大群にはひとたまりもないということでしょう。

 この小田原攻めの際には関東各地の城が落ちていくわけですが、どれもこれまでの築城の様々な技法にも関わらず、圧倒的な豊臣軍の数にはかなわないわけです。そうした意味で、小田原の喉元とも言える立地の山中城は、凄まじい勢いで飲み込まれる運命の城だったといえるのではないでしょうか。

 近くには旧東海道の石畳の街道もあり、城自体も駐車場完備で、よく整備され、歴史に興味がなくても障子堀の美しさは一見の価値ありです。少し足を延ばせば、三島大社、そして三島のうなぎが食べられます。






 

tougouiryo at 2020年05月30日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (平戸城)

 島原城からフェリーで熊本へ戻り平戸城(90・長崎)に向かいました。押印は平成26年11月21日です。

 平戸を居城とした松浦氏は、壇ノ浦の戦いで平氏から源氏方へと寝返ったことで、鎌倉幕府の西国御家人となり、地頭に任じられました。戦国期には、竜造寺の軍門に下りますが、その竜造寺も沖田畷の戦いで、島津・大友連合軍に敗れ、さらに島津も九州征伐で秀吉に敗れると、結果として秀吉配下となり朝鮮の役にも出兵してます。
 ここまでは、ローカルな地方武将の城といった感じなのですが、訪問して驚いたのは(事前学習していかなったので)、明治天皇ご生母中山愛子は34代藩主の娘で、城内の資料館には明治天皇御七夜産着など明治天皇ゆかりの品々がさらりと展示されていたことです。
 またその目で、松浦氏の年表を見てみると、15代定(さだむ)は後醍醐天皇の綸旨により鎮西探題の北条氏を討っていたりします。出島に先立って、南蛮貿易の窓口であった地でオランダ商館も設置されていた地に、こうしたつながりがあるのは実に興味深いことです。
 また城郭は山鹿素行の縄張りによるとされ、山鹿流が藩内に伝わり、幕末には吉田松陰が訪れ入門したりしています。

 本丸には模擬天守があがっていますが、本来ここには天守はなく、三重の乾櫓が天守の代用とされていました。御殿のあった二の丸は、場内を散策すると急に開けた地形となり、亀岡神社があります。
 海に半島状に突き出た大地の上に天守が見えるので、遠景でとてもきれいなお城です。訪問時は夕刻だったので、とても静かなミステリアスな城に感じました。


日本の城 改訂版 69号 (平戸城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-05-08



甲子夜話 1 (東洋文庫 306)
松浦 静山
平凡社
1977-04-01



明治天皇を語る (新潮新書)
ドナルド キーン
新潮社
2003-04-10


tougouiryo at 2020年05月27日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (島原城)

 島原の乱の発端となった島原城(91・長崎)です。押印は平成26年11月21日です。熊本城を先日に訪問し、熊本泊後、熊本港よりフェリー(オーシャンアロー)で島原外港へ。そこから原城を訪問してから、島原城へ向かいました。車で城内まで入ると、そのまま本丸、なんと天守前で駐車という間近さはここでしか体験できません。加えて、おもてなし隊による歓迎、とインパクト強でした。天守前には土産屋も盛況で、そこでは島原の郷土料理「六兵衛」(サツマイモを原料にした黒いうどんみたいな感じ)を食べました。度重なる飢饉や天災にみまわれた地であるだけに、こうした食により命をつないでいたのでしょう。

 板倉重政により築城された島原城は、4万石という領土に似つかわしくないほどの五層の巨大天守をもち、11基の櫓があったといわれています。高石垣も見事です。現在の天守は昭和39年の再建で白塗りですが、実際は黒い天守だったようですが、天守は大きさに関しての記録はあるものの、外観に関しては不明とのこと。いずれにせよ、熊本城など周辺への睨みのためか、分不相応な重装備といったところでしょう。

 これが、島原の乱を引き起こす一因といわれます。築城のための課役や過酷な年貢がこの一揆の主な原因といわれ、そこにキリシタン弾圧が加わったものというのが現代の見方のようです。それにしても、一揆勢は、城下町まで押し寄せ、あわや一時的に籠城戦にまで追い込まれるまでだったというのですからかなりの攻勢です。結局は原城に立て籠るも、中央からの幕府軍によりようやく鎮圧されることになります。こうした抵抗の強さには、宗教が絡んだのはいうまでもないのでしょうが、それだけではないようで、弾圧以前に飢饉などにより相当追い込まれた状況であったというのが実情でしょう。この乱の結果、ほとんどの住民がいなくなり、あらたに入植のような形で再興せざるをえませんでした(この時に「そうめん」も入ってきたということです)。

 こうしたいきさつがあるにもかかわらず、この再建天守の見事さからからか、結構地域住民に愛されている感じで、歴史を振り返ると複雑な心境になります。なんであろうが市民は、たくましく生きていうということなのでしょう。なお天守内一階はキリシタン資料館になっています。この当時のキリシタンの様相を思うと、なんとも複雑です。当然、純粋に信仰していた人も多かったのでしょうが、一方で欧米列強勢力が、極めて強く極東に関心をもっていたのも事実。きれいな信仰の陰で、多くの人身売買など表に出ない歴史もあり、今日的な視点だけでは「島原の乱」は語れない要素も多いのではないかと思います。













tougouiryo at 2020年05月20日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鉢形城)

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 今回は北武蔵の要、鉢形城(18・埼玉)です。押印は平成21年の3月29日でした。このころは100名城のスタンプを開始したばかりでしたので、快調に関東の諸城を立て続けに制覇していました。
 初めて訪れた際は、車で荒川にかかる正喜橋を渡った、まさに崖の上にある城といった印象。ちょうど桜のシーズンでしたので、敷地内にある「エドヒガン桜」がとてもきれいに咲いていました。

 長尾景春によって築城された鉢形城は、同氏が山内上杉に反発して立てこもった「長尾景春の乱」の舞台となった城。後に武田の侵攻や、豊臣による小田原平定戦において防戦を展開した実践経験豊かな城です。広々として眺めもよく、併設された資料館も充実しているので、とても勉強になりました。

 深沢川と荒川の合流する点の突端に笹曲輪が位置し、その奥の一段高い場所に本丸(御殿曲輪)があります。荒川越しに眺めると、難攻不落といった感じですが、二の丸、三の丸と土地が次第に開けていくので、反対側からの侵攻が弱点であり、そのため石積み土塁や堀などの防衛設備が整えられています。攻めるならこちら、といった感じでしょうか。

 実際にここを攻めた「北陸支隊」は、四方から包囲し(東方・前田利家、南方・上杉景勝、西方・本田忠勝、北方・真田昌幸)一斉に攻撃、中でも大打撃を与えたのが、本田忠勝による南西の車山から大手方面へ向けての大砲攻撃といわれます。これにより北条氏邦は降伏、開城します。このとき氏邦は、前田利家に助命され、後に金沢で没するのですが、これがのちの八王子城攻めなどに大きく影響します。つまり、この措置が手ぬるいと、秀吉に評価されることになるのです。

 一度、こうした評価を受けると、このぶんを次の戦にて挽回しないといけなくなるわけです。これにより八王子城や山中城をめぐる戦いが激化し、悲惨な結末へとつながっていきます。しかし、これがのちの小田原城の開城の伏線となるので、仕方ないといえば仕方ないのですが、局所戦だけでは評価できない良い例といえるかもしれません。

 良かれと思ってうった一手が、全体の中で、自らを次に追い込んでしまうということは、往々にして様々な場面でも見られることです。
 城めぐりにおいても、他の城と併せて考えることで、より多くの情報が得られることは少なくありません。


武州鉢形城 (1963年)
井伏 鱒二
新潮社
1963T





tougouiryo at 2020年05月16日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (熊本城)

 九州編、第一弾は熊本城(92・熊本)です。押印は平成26年11月20日で、熊本地震が平成28年4月14日ですから、その約一年半前ということになります。大学2年生の時に、青春18きっぷで、菊池養生園での養生塾(名前の記憶が曖昧です)という合宿に参加した帰路に訪問したことがありました。有機農業を中心に自然派を模索する医師・歯科医師や医学生、農業志望の学生が夏休みに集まって、有機農業体験などしながら将来の夢などを語り合っておりました。有機玄米をたべ、肥溜め担ぎをしたりして、オルタナティブな生活にどっぷりと浸かっておりました。このころからの志向で、現在も、統合医療といった主流派ではないお仕事をしております(笑)

 二回の訪問の印象はとにかくでかい、というもの。城に興味がなくても、その迫力はとにかく興味を掻き立てるものだと思います。そうした意味ではかつての威容を誇った建築物の数々が全壊、半壊する様はテレビで映像だけですが心痛むものがあります。しかし、地元の方々の力によって、次第に復興されつつあるのでまた再訪してみたい城郭です。

 熊本には飛行機とレンタカーにて訪問したのですが、立体駐車場がとても狭く駐車しづらかったのが印象的です。西大手門、南大手門と大きな門があり、折れ曲がったルートを上っていくと左手に宇土櫓が見えてきました。これ自体も天守といっていいほどのもので、これ以外にも巨大な櫓があり、計5つの五階櫓があったとされます。解説では、これらの高層の櫓がひしめいて立っていたため、建造当初は、昼でも場内は薄暗いほどだったとのことです。
 加えて、精緻を極めたとも称される縄張りで、加藤清正の豪快なイメージとは対照的な、恐怖心からとも勘繰れそうな用心深さを感じることが出来ます。城郭があまりに作りこまれているところを見ると、自然とそう感じてしまいます。個人的には意外に繊細な方だったのではないかと思っております。

 また熊本城は石垣好きにはたまらないところで、清正の部下の多くの穴太衆により数々の石垣が築かれています。「扇の勾配」と称される高石垣や、清正当初の石垣と細川時代の石垣とが重なる「二様の石垣」など有名どころ満載でした。また、こうした防衛力の強固さは、築城当初ではなく下って、明治の西南戦争の折に実力が発揮されます。戦闘開始前に天守が燃えてしまい、兵力や大砲なども極めて少なったにもかかわらず、薩摩軍は落とすことが出来ず、西郷隆盛をして「清正公に負けた」と言わしめた近代戦にも通用する城郭でした。

 城内の敷地は、ずいぶん大きいなあとは思っていたのですが、それもそのはず、現在の熊本城は、それ以前の隈本城と千葉城とを取り込んでさらに大きくしたという来歴だそうです。帰路は、熊本の夜景を見ながら、ご当地の熊本料理と馬刺しを食べました。ここから北上して九州、城攻めツアーを開始です。
 かつての様子に少しずつ戻ってきている熊本城、是非また行ってみたいと思います。











戦国武将Tシャツ 加藤清正 (XL, ブラック)
カタログネットTシャツ工房


tougouiryo at 2020年05月13日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (足利氏館)

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 今回は大規模な方形居館である足利氏館(15・栃木)です。100名城の押印(お寺で押印できました)は平成21年4月20日で、ここから少し足を延ばせば、この時期見ごろの「大藤棚」で有名なあしかがフラワーパークがありますので、当時も帰路に立ち寄りました。シーズンはかなりの混雑が予想されるので、要注意ではありますが、一見の価値ありです。なんとも幽玄で、ただきれい、というのも通り越し、生命の何とも言えない薄気味悪さのような独特の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。

 押印当時は城めぐりを始めたばかりでしたので、いわゆる居館タイプを見たことがなかったので、ただの寺にしか感じませんでした。ちなみにこのお寺の名前、難読漢字ですが「ばんなじ」と読みます。その後、現在武田神社となっている武田氏館など見るようになって理解できるようになってきましたが、堀に囲まれているからそうなのだろうという感慨しかもてませんでした。近隣には当時の大学といいても良い足利学校もあります。起源は一説では奈良時代とも言われる由緒ある学校の跡です。足利学校を舞台とした下記のような小説もありますのでご興味ある方はどうぞ。
早雲の軍配者(上) (中公文庫)
富樫倫太郎
中央公論新社
2013-12-27




信玄の軍配者(上) (中公文庫)
富樫倫太郎
中央公論新社
2014-04-04


 言わずと知れた室町幕府創設者、足利尊氏をはじめとした足利氏の氏寺で、太平記フリークの方にはぜひとったところです。
 ちなみに今年の1月に南北朝の騒乱で隠岐へ島流しとなった後醍醐天皇の「黒木御所」に行ってきました。離島医療における超音波診療の実際と、近年注目の疼痛治療であるハイドロリリースを見学するためにいったのですが、宿泊のホテルが黒木御所から徒歩三分ほどでしたので、何度も散歩に出かけました。ちなみに向かいの島には後鳥羽上皇が流されており、現在は隠岐神社となっております。
 隠岐を脱出した後醍醐天皇の命により、足利8代尊氏は鎌倉幕府を滅亡させることになるのです。




 

tougouiryo at 2020年05月09日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松本城)

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 本日は記念すべき日なので(笑)大好きな松本城(29・長野)です。押印はやはり平成21年7月20日です。中央線で気軽に行けるところでもあり、何度訪れたか覚えておりません。
 8年くらい前は城の近くにレトロなホテルがあってとても雰囲気が良かったのですが、時代の流れの中で、経営者の変化でずいぶんと変わってしまい、とんと宿泊することもなくなりました。現在は、日帰り訪問がメインです。
 駅をお城口に降りると、左手に駅の蕎麦屋とは思えないおいしい蕎麦屋があります。まずはここでそばを食べてから城へ向かいます。電車の時間調整にも使えますので、おすすめです。あ〜、松本に着いたなあ、という感じになります(笑)

 最近は城ブームでもあり、城内に入るには常に待ち時間があるので、最近は登城していません。周りを廻って、湧水巡りでおいしい水をたらふく飲みます。松本駅に湧水のガイドマップがあるのでそれを参考に行くとよいのですが、おススメは城の北側にある「北馬場柳の井戸」。ここは味もうまいのですが、手や顔を洗うとしばらくしてつるつるになる感じ(いわゆる弱アルカリの感じ)が抜群です。松本城のすばらしさはわざわざここで述べるまでもないので、周辺情報を中心に書きました。

 松本城を訪れるたびに感じるのが、ここに天守を創建した石川数正について。家康の重臣から、秀吉に請われて家臣となった経歴から、今度は逆に江戸の家康の抑えとして松本に入り、松本城を整備したわけです。
 何があったかは、歴史家の中でも決着はついていないようですが、家康側にすればやはり裏切られたという思いは消し難かったようで、子の代に関ケ原で東軍に着いたにも関わらず、1613年改易の憂き目をみます。山岡荘八の『徳川家康』を読んだ時は、この辺は一番納得のいかない展開で、いまでも違和感を感じます(要約すると家康のために数正は深慮遠謀をもって秀吉に出奔する、といった流れ)。



 仮にそうならば、子孫の代に改易などにならないでしょう。この辺りは裏を返すと、真田信繁や石田三成の子孫がそれなりの立場で生き続けている点と対照的なように感じます(これにはこれの深いワケがあるのでしょう)。
 裏切りへの恨みというのはいつの時代にも根深いものなのでしょう。ここまでの城を建城して、かつての主君の抑えとして豊臣に使われ、最後は徳川によって取り潰しという石川氏の命運は、松本に来るたびに考えさせられます。
日本の城 改訂版 127号 (松本城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-06-18




 かつてジャングルカンファレンスの創設メンバーで松本に遊びに来た折、松本城ライトアップの催しがあり、とてもきれいだったのを覚えています。

 

 

tougouiryo at 2020年05月02日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (水戸城)

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 今回は水戸城(14・茨城)です。水戸にお城あったっけ、という方もいるでしょうが、梅の名所、偕楽園がまさに水戸城といっても良いでしょう。江戸期は城の拡張が制限されていたため、いざというときの城機能の拡張のために、庭園という名目で城の近接して庭園が造営されました。ここに兼六園、後楽園を加えた三大名園はすべてそうした事情で造営されているため、同じように城に隣接しているのです。

 水戸城を押印は平成21年3月15日です。ここもふくめ関東の100名城は、多くが平成21年に回っているので、平成20年にお城めぐりを知り、盛んに近隣の城郭を回り始めたわけです。水戸城もそうした時期だったので、他しか土曜日だったので診療後に特急で向かったのを記憶しています。駅前には、水戸黄門の像があり、歩いて城へ向かいましたが、当時は城の知識があまりなかったので、どこまでが城なのか、少し難しかったように思います。大きな空堀にあたるところに国道やら鉄道が走り、現存する薬医門は高校の校門になっていました。いかにも「城」というのではなく、街並みのなかに溶け込んでしまっているパターンは初心者の頃は難しいものでした。見慣れてこないと、その根底にあるものが見えてきません。中沢新一の『アースダイバー』なんかの感覚に似ているように思います。
増補改訂 アースダイバー
大森 克己
講談社
2019-03-07



 診察やレントゲンなどもそうですが、特に何が難しいわけではなさそうですが、膨大な正常パターンが自分の中にできてくるまでは、わずかな差異が異常なのか正常なのか、なかなか判別する自信が出来てこないものです。基本となる型が、次第に形成されてくるとこれは正常だな、これはおかしいなといった感覚が出来てきます。城を前提とした地形の読み方も、かなり似ているように思います。城の隣接する庭園も、その目で見ると、戦闘に適した地形にあることに気づきます。三大庭園に行かれるときは是非、そうした視点からも見てみると面白いでしょう。

 城を見た後は、茨城なのであんこう鍋を食べ、居酒屋では「納豆づくし」みたいなのを食べました。特に庭園などには興味がなかったので、城をやっていなければ、ここにも来ることはなったんだろうなあ、という感慨ひとしおでした。










 江戸時代における水戸藩の特殊な地位(明治維新における役割など)を考えると、またじっくりと再訪したいお城です。ある茨城出身の方に聞いた話ですが、茨城の魅力度が最下位を持続しているのはそれなりの深ーいワケがあるようです。



tougouiryo at 2020年04月25日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (川越城)

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 川越城(19・埼玉)は平成21年5月5日に押印しています。当時は本丸御殿が改修中で中に入れなかった記憶があります。現存する本丸御殿は高知城とこの川越城だけということなので、遺構としても大変貴重なものです。また近くにある喜多院は、あの天海僧正が再興した寺院としても有名です。

 川越城をめぐっては扇谷上杉と後北条の決戦となった、日本三大奇襲に数えられる「河越夜戦」の舞台としても重要です。この戦いは前回の箕輪城主長野業政の子、吉業が戦死した合戦でこれを機に、主君上杉氏との関係が悪化したとされています。いずれにせよ戦国の関東に大きな影響を与えた戦いといえます。

 川越は、その他にも「時の鐘」や「蔵作りの街並み」、「芋」が有名で、川越城を訪れた際は、うな重を食べたらご飯に芋が混ざっていたのが印象的でした。

 ほかにも、わらべ歌の「とおりゃんせ」の舞台である「三芳野天神」が城内にあり、ちゃんと「細道」も現存しています。
 全体としては、来訪時は独特の雰囲気に包まれ、富士見櫓跡に行った時、デジカメを撮ろうとしてもなかなかシャッターがおりず、やっと取れたかと思うとぶれてちゃんと撮れないということが数回あり、気持ち悪いので撮影しなかったことを覚えています。

 川越はホリスティック医療で有名な帯津良一先生の出身地でもあるのですが、城からの帰り道、ある商店の前で帯津先生そっくりの方がいらっしゃいました。でも少しだけ雰囲気が違う、ということで、後日、念のために帯津先生に確認したところ(笑)、「兄貴だ」とおっしゃってました。


日本の城 改訂版 139号 (川越城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-09-10






貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意
帯津良一
朝日新聞出版
2018-10-19



tougouiryo at 2020年04月18日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (箕輪城)

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 群馬に住んでいたころ、何度も近くまで来ていたにもかかわらず、関心がなかったため箕輪城も一度も訪れてはいませんでした。ちなみに近郊には群馬県群馬郡群馬町という「トリプル群馬」というスゴイところがありました。
 何事も関心があるかないかとは、恐ろしいもので、一度関心を持つと、そればかりが目に入り、今では旅行の際には城しか目に入りません(笑)

 箕輪城(16・群馬)は長野氏により築城され、近年評価の高い「上州の黄斑」長野業政の城として有名な城です。業政には、「長野十六槍」という豪勇の配下があり、その一人がかの新陰流創始者、剣聖「上泉伊勢守信綱」であり、近隣の武田信玄も恐れをなして業政存命中は攻め入ることがなかった、という名城です。何度か訪れているのですが、スタンプ(当時は御前曲輪の手前の設置箱にありました)押印は平成21年4月21日でした。

 前回の金山城もそうですが、山城など一般に城好きの「城」にはいわゆる「天守」はなく、城の楽しみ方がわからないうちは、城なのかただの山なのか(笑)わからないことも珍しくありません。それでも、この城は規模も壮大で、曲輪や堀切が大変大きく、山城初心者にはとくにおすすめです。一見、自然の山や谷のように見えるものでも、これが戦国の人々による人工と分かるとその驚きもひとしおです。

 またここは上泉伊勢守のゆかりの地でもあるので、研修医が終わったばかりの頃、上泉伊勢守の墓所の近くにわざわざ(病院から少し遠かったのですが)住んでいたものからすると感無量です。新陰流のその後の隆盛を考えると、創始者である信綱の教育者としてのすごさにも感銘を受けております。

 現在は駐車場もきれいに整備され、大変見やすい城である上に、堀切のすごさを知るにはもってこいの城です。また武田の攻城により落城し、長野一族は御前曲輪で自刃と伝えられており、曲輪に今も残る井戸(昭和2年発見)は独特の雰囲気を漂わせております。ちなみにどんより曇った日にこの井戸を撮影した際には、いろいろと写りました・・・(*_*)

 小田原平定後、井伊直政が入城しますが、やはり戦国の山城に住む時代ではなかったのか、8年後には高崎城に居城を移し、廃城となりました。それ以降、高崎の反映が始まっていくのです。


箕輪城残月記―信玄を悩ませたほまれ高き名将伝
田村 貞男
上毛新聞社出版メディア局
2009-03-01

業政駈ける (角川文庫)
火坂 雅志
KADOKAWA
2013-11-28


tougouiryo at 2020年04月11日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (金山城)

統合医療オンライン相談を開始予定です。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。


 先月、太田金山城の訪問を契機に城めぐりを開始した記事を書きましたが、今回から、100名城を中心に訪問した際に感じたことや、統合医療と関連して感じたことなどを、登城したころを思い出しながら(笑)書いてみたいと思います。題して、「お城へ To Go」!
(記載してある番号は日本100名城の番号です)

 金山城(17・群馬)はこれまで、3回ほど登城していますが、ここで100名城のスタンプの存在を知ったので、あらためて押印のために訪問したのが平成21年2月11日です。群馬に住んでいたころには、比較的近かったのに、全く知らなかったので、もったいないと感じたものでした。

 この城は、群馬の名家である新田氏の末裔岩松氏により築城され、後にその家臣の由良氏が城主となりました。その後、堅固な山城を活かし、武田、上杉、後北条氏の攻撃を撃退しています。なかなか強いお城です。

 ここの城でまず話題となるのが、やりすぎではといわれる石造りの再現です。同時代の周辺の城の様子と比べても「本当?」というくらいの復元が続きます。日の池、月の池はまあわかるのですが、大手虎口の圧巻の石造りは、さすがにないだろ、といった感じです。以前、オープンしたばかりの資料館で説明員の方に尋ねたときも、発掘調査に基づいて、の一点張りなのでそうなのでしょう。

 でも、こうした違和感、というのは、やはり理屈ではなく直感として感じるものです。様々な代替医療をみていると、ビビッと来るものやそうでないものなどいろいろと感じます。どれに魅力や興味を感じるかといったことは、人によっても大きく異なるでしょう。(統合医療をめぐる領域では玄人好み、素人好み、はっきりわかりますね〜)
 また経験にも大きく左右されます。金山城の違和感は、初回よりも現在の方が強く感じるのは、いくつものお城を見慣れてきたからかもしれません。

 ただこうしたことも悪いことばかりではなく、この復元があったからこそ「お城スゴイ」と思い、引き込まれたわけで、観音寺城のように地味な山城では、興味を持つこともなかったかもしれません。そうした意味で、初めが、金山城というのはやはり意味があることだったのでしょう。






tougouiryo at 2020年04月04日06:00|この記事のURLComments(0)

明日から「お城へ To Go」連載開始します

 明日から「お城へ To Go」連載開始します。当面は毎週土曜日に、100名城の城を中心にお城のコラムを書いていこうと思います。

 歴史について読んでいても、文字からだけでは、自分の思い込みや既存の知識から外側に出ることは困難です。ところが、実際に一度、歴史の舞台へ訪れると、その地形や位置関係などリアルな情報が伝わります。これにより、定説が、本当にそうなのか?と感じられることもあれば、なるほどなあ、と納得できる場合もあります。

 これは医学、とりわけ私の分野である統合医療においても同様です。通常のEBM・マニュアルのみに極度に限定した医療では、ある一定の路線に乗ることに意識を集中せざるを得ないでしょうが、代替医療や伝統医療に一定の目配せをしながら行う立場としては、少し立場がことなります。
 漢方ひとつとっても、効能だけに注目して処方する場合と異なり、古典の記載に基づいて、処方してその記載通りに効果をもたらしたときなどは、千年も時空を超えて同じ現象を見ているような不思議な開けた感覚を覚えます。これはホメオパシーのマテリアメディカでの記載の通りに、劇的な効果を見たときもまた同様です。時代は少し近くなりますが、オーソモレキュラー医学でのメガビタミンの効果を見たときもまたそうです。
 頭の中だけでいろいろと考えるのではなく、実際に実践する中で有効なものを摑んでいくという、という意味合いで拙著『統合医療の哲学』にも書きました「プラグマティックメディスン」という概念がまさにこうしたことの本質だと思います。

 これを明確に感じたのは、もう二十年近く前になりますが、糖質制限を京都・高雄病院で初めて教わってから自分の糖尿病外来で導入した時が最初だったでしょうか。いまや、当たり前のことのように扱われる糖質制限ですが、当時はその効果にも関わらず、すざまじい逆風でした。その中で、解糖系やケトン体生成の知識と、実臨床での確実な成果から、プラグマティズムに基づいて医療をすすめることの有効性を感じることができました。

 実際に行うことと実際に訪れること。実際の持つ力こそが、現状の統合医療における重要な要素であると思います。そうした思いと共に、既に昨年には100名城制覇したのですが、それを記念して(記録保持の意味あいもあるので)思い出や考察と共に、軽くコラム風に書いていきたいと思います。統合医療ともどこか?関連づけていきたいと考えております(笑)

 皆様も関心のある場所や歴史的事柄であれば、実際に、訪れてみてはいかがでしょうか。





 現在はさらに100追加された「続100名城」の攻城中です。つまり100名城は200あるのです(笑)




tougouiryo at 2020年04月03日08:50|この記事のURLComments(0)