お城へ To Go

お城へ To Go (松江城)

 国宝5城の一つ、最後に(平成27年)認定された松江城(64・島根)です。押印は平成29年12月9日、天守内の受付にて押しました。国宝認定は、平成24年、松江神社にて祈祷札が発見されたことで、築城時期が特定され、悲願の認定となりました。

 宍道湖畔の亀山に建築された平山城で、堀尾吉晴・忠氏父子により築城されました。その天守は戦闘的な四重天守といわれ、下見板張による黒い外観はとても力強い印象を与えます。
 関ケ原で功績のあった堀尾氏は当初、出雲の月山富田城に入りますが、山城の不便さから、宍道湖畔を選定し築城したのですが、堀尾吉晴・忠氏ともに完成を見ずに死去。三代忠晴も世継ぎのないまま死去し、堀尾氏は断絶。
 その後は京極氏となるも、ここも後継ぎがないまま病死。最終的には家康の孫、松平直政(結城秀康三男)が居城として入り、明治維新まで継続となります。

 天守内部への入り口が極めて厳重なつくりとなっており、付櫓から4度折れ曲がりながら、やっと天守内に入れる構造になっています。最終防衛施設としての天守を感じさせてくれるわけです。

 また本丸には復元櫓もあり、迫力満点です。また周囲の水堀は、宍道湖へとつながり、堀川めぐりとして遊覧船巡りもできます。

 また松江城下は小泉八雲ゆかりの地としても有名で、小泉八雲記念館や八雲旧宅もあり、文学好きの人にも楽しめる城下町です。
 「怪談」くらいしか印象がなかったのですが、これらを見学し、八雲の来歴やら、人ととなりを知ることで非常に興味を持つことができました。夏目漱石との関連やら、これまで全く知らなかったことを知るというのもこうした訪問の楽しみですね。
 つい『日本の面影』なんかも買ってしまったのですが、いまだ未読です(笑)


松江城(山陰名城叢書2)
岡崎 雄二郎
ハーベスト出版
2020-08-18












tougouiryo at 2021年07月24日05:00|この記事のURLComments(0)

ニッポン城めぐり

 城アプリについての記事が、けっこうアクセスがあったので少し直して再掲します。

 毎週「お城へ To Go」として城ブログをアップしていますが本日は特別篇として、スマホやタブレットで楽しめるお城のアプリをご紹介しましょう。その名も「ニッポン城めぐり」!
 もう10周年を迎えるアプリで、ゲーム的な要素に加えて、城郭巡りやその計画を立てるうえでも非常に有用なアプリです。ダウンロードして通常に楽しむ分には無料ですので、ご安心下さい。すごい量の情報量が内蔵されています!

 具体的に機能を少しご紹介しましょう!

(1)城攻め
 現在の位置情報から近隣の城郭を「攻略」します。これにより、その城をとることができ、同月に何度攻略したかで行軍の数となり「城主」になることもできます(このパターンはあまり外出しない一か所にいることが多い方向け)。多くの移動をする人は「攻城」の数を増やします。全国で攻城可能な城郭数が3000あるので、旅行などに伴って攻めます(これは出かけることが多い方向け)。
 また城攻めに伴って、所縁の武将も登場します。これを石高に投入することで雇用します(笑)これにより家臣団を形成し、名将を我がものにすることができます(笑)。

(2)下調べ
 「城郭一覧」により、全国地図から3000に及ぶ城郭の情報(情報詳細やグーグルマップでの表示、ルート検索や先達の投稿写真まで)をみることができます。これでみれば、城郭に実際に行かなくてもいったような気がしてきます。どこか旅先で、「近くに城ないかな?」というときにも便利。見知らぬ土地での迷子も減ります(笑)

(3)築城
 初めのページで自分の城を築城することが出来ます。ちょっとした癒しの箱庭療法です(笑)。金銭(両)がたまらなったので、これまであまりやらなかったのですが、最近、これにはまっています。村上水軍の能島城風の縄張りで、帰宅時にせせこましく少しずつ築城しております。最近はこれによりあっという間の通勤時間です。気に入ったを20件頂き、とても充実感を感じております!

 私が良く使うのはこんなところですが、それ以外にもクイズ(毎日出題されます)や伝言板、世論調査なども面白いので時折はまっております。また都市部では難しいですが、地方によっては「城主」になる可能性が高まるので、「城主争い」に血道を上げるのも楽しいでしょう(私は隠岐滞在時に一度だけ黒木御所城主になれました!)。
 また、これもくだらないと笑われるのですが、年数回のペースで「合戦」イベントが開催されます。激突する両軍に分かれて、仲間を助けながら、合戦で手柄を立てます。はじめは馬鹿にしている人も結構、最後の方はのめり込んでます。

お城に興味がある方、そうでない方も(笑)ぜひのぞいてみてください。

 


tougouiryo at 2021年07月21日08:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鳥取城)

 渇殺しで有名な籠城戦の舞台、鳥取城(63・鳥取)です。押印は平成28年9月4日で、仁風閣で押しました。
 ここ仁風閣は、明治40年に旧藩主池田候により建てられ洋館で、東郷平八郎による命名の国重要文化財なのですが、なんかどこかで見たことがあるなという印象でした。内部を見学すると納得で、映画「るろうに剣心」の第1作目のクライマックスの舞台でした。香川照之さん演じる武器商人と剣心の戦闘シーンがこの庭園で撮影されていました。(現在、公開中の最終章The Begginingも幕末史とリンクしているので面白かったです。有村架純の巴、必見ですかね(笑))

 この時の訪問では十分に時間を取れなかったので、山上の丸と秀吉の陣城である太閤ヶ平を見ることができませんでした。
 いわゆる山下の丸という二の丸、三の丸、天球丸のみの見学となりました。この城は、城郭の形態変化を知るには最高の城といわれ「城郭の博物館」と称されるようです。つまり、中世山城の遺構と近世城郭の遺構が併存し、さらに大藩の政庁としての機能も有していたというわけです。
 そしてここを籠城攻めした秀吉の太閤ヶ平と合わせるとなかなかの見所満載の地です。十分な時間をとって再訪したい名城です。

 渇殺しの当初は、山頂天守は三重天守だったようで、のちに望楼型の二重天守になったようです。三の丸、二の丸も石垣が幾重にも重なる素晴らしい城で、とくに有名なのが「巻石垣」です。
 これは石垣の補強のために石垣を球状に配置したもので、巨大な地球儀(八分の一)のように見えます。
 この最大のものが残るのが天球丸に残るもの(2012復元)なので、だから天球なのかと勝手に思っていたのですが、その由来は全然違っていて、池田光政の伯母である天久院に由来するということでした。

 現在も、幕末期の姿を復元すべく整備が進んでいるようですで、是非とも再訪してみたいですね。

日本の城 40号 (鳥取城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-10-15



鳥取あるある ご当地あるある
岩原弘幸
TOブックス
2018-10-10



鳥取砂丘学
古今書院
2017-03-11


るろうに剣心
香川 照之
2013-11-26







tougouiryo at 2021年07月17日08:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (名古屋城)

 天下普請の巨城、名古屋城(44・愛知)です。押印は平成21年9月14日ですが、以後も何度も行っております。ただ本丸御殿の復元が完成してからはまだ未訪問ですので、ぜひとも行ってみたいと思います。

 数々の天下普請の中でも、築城技最高峰を結集した築城の集大成ともいえる城で、天守は、作事奉行は小堀遠州、大工棟梁は方広寺大仏殿を建てた中井正清、大工頭は熱田神宮の宮大工で安土城天主をの建てた家系でもある岡部又右衛門、といった当時の最高峰が結集しています。
 五重五階、地下一階の天守に、二重二階、地下一階の小天守が続く連結式で、通常は渡櫓で連結するところを、土塀付きの橋台を用いて、防火区画を形成しているのです。
 また清正による当時最高峰の、堀底から20mに及ぶ高石垣の上にこの天守が聳えたつわけです。まさに壮大な石垣の城郭です。
 さらにすごいのは防御施設とし地下一階の天守入り口は、小さな枡形を形成し、二重構えになっています。天守内に入ってからさらに枡形なんて、ちょっとほかの城では考えられませんね。
 また名古屋城には当初、江戸城よりもはるかに大規模な総構が計画されていましたが、大阪城落城によりその必要性がなくなったため、工事は中止になったようです。

 そもそもこの名古屋という地は、今川の流れの那古野氏の領有した地からきたようです。現在の名古城二の丸に、今川氏が「柳の丸」を築城、そこを織田信秀が奪取し、那古野城と改称したのが始まりとされます。
 その後、信長に譲られており、徳川家康の人質の時期でもあるので、ここにいたこともあったのかもしれません。

 また今日の名古屋の発展は、この城から始まったもので、まさに「尾張名古屋は城でもつ」といわれる通りです。
 そもそもこのあたりで栄えていたのは清須だったのですが、それを無理やり強制的に「清須越し」として都市機能を移転してしまったのです。
 当時の記録で、この清須越しによりこれほど栄えている清須が、荒れ野のような那古野みたいになってしまうのか、のように書かれたものがあったようなのですが、まさに今、清須に行くと、その当時の人たちが予想もできなかった状態になっていることがよくわかります。きれいに逆転してしまったわけですね。

 それほどの名古屋城も、象徴であるシャチホコを戦災から守るための作業をしていた際、その作業用の足場に焼夷弾がひっかかり、建物自体に引火、2時間余りで天守は焼け落ちたといいます。なんとも皮肉な顛末です。
 この時シャチホコも焼けて、無残な金塊となったというのですから、当時の名古屋の人達の落ち込みは相当だったのではないでしょうか。





tougouiryo at 2021年07月10日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松阪城)

 安土城を模したとされる松阪城(48・三重)です。押印は平成22年3月21日で、伊賀上野城訪問後にきました。せっかく来たので、牛肉を食べ、夕刻になり翌日の伊勢神宮参拝のために伊勢へと向かいました。
 ちなみに松阪という地名は、松という縁起の良い字に、当時の秀吉の本拠「大坂」をつけて「松坂」としたので、そもそもは「松坂」の記載だったようです。

 城を見学していると地元の方が話しかけてきたので、お話を聞いていると、この松阪は牛肉の町として知られているが、そうではない!とのこと。ここは「男と男の出会う街じゃ!」とのこと。伊勢と松坂の境界問題を決着した大岡忠相を、のちの徳川吉宗が知るところとなって見出した地だし、本居宣長が生涯に一度だけ師の賀茂真淵と出会った「松阪の一夜」の地でもあるからなのです。もう十年以上前のことなのですが、結構インパクトあったのでいまだに鮮明に記憶しております(笑)

 安土城築城に関わった蒲生氏郷が、その際の技術や知識を取り入れて自らの築城に活かしたといわれ、複雑な縄張り、豪壮な石垣が特徴といわれます。当時は、安土城に似た三重天守が建てられたといいますが詳細は不明です。その後、蒲生氏郷は、会津若松城へと移り、服部、古田時代を経て、松阪は紀州藩の直轄地となります。ここに吉宗と大岡越前の出会いがあるわけです。

 現在もそそり立つ石垣から、現在も住居して用いられる御城番長屋の武家屋敷が並び、雰囲気のある城下町です、城内には、本居宣長が亡くなる前まで住んでいた旧宅が移築されており、『古事記伝』を完成させたじっさいの場をみることができます。

 牛肉ともども、是非再訪したいお城です。ちなみに牛肉を購入して、こちらから自宅へと送ったのですが、良いお肉だったので、その牛の系図や生前の名前がかかれていたので食べるとき、ちょっと複雑でした。名前は「りんこ」ちゃんでした・・・

日本の城 改訂版 86号 (松坂城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-09-04














tougouiryo at 2021年07月03日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (伊賀上野城)

 築城の名手藤堂高虎による高石垣で有名な伊賀上野城(47・三重)です。押印は平成22年3月21日、天守閣にて押しました。統合医療の集まりで、伊勢神宮に集合するまえに大きく遠回りして訪問しました。前日、現在のジャングルカンファレンスにつながる、内輪での定期的な院内カンファレンスで遅くまで、飲んでいたので、二日酔いの状態で、ずいぶんと山深いローカルな近鉄伊賀線にのっての訪問でした。

 今治城で史上初の層塔型の五重天守を建造した藤堂高虎が、伊賀上野へ移動するにあたって今治の天守を解体し、ここへ移築しようと計画していました。
 ところが、その建材を大阪城下に移動したところで、家康より丹波亀山城の天下普請を命じられ、そのまま亀山城にしてしまったといわれています。
 そのため伊賀上野城は新築とすることになったのですが、その建築中に台風により倒壊してしまい、その建築は断念されてしまったという残念な城郭です。以後も、豊臣の脅威が去ったことから天守の必要がなくなったため建造されることなく現在に至るというわけです。

 ただし、高虎に命じられたのは、家康による豊臣包囲網の一環としての城郭ですので、西からの攻撃に対しての強い防御が意識され、天下一と称される高石垣などが建造されました。ちなみにこの城の前城主、筒井氏の時代は、こうした攻守が反転しており、つまり大坂城の出城的な役割として、むしろ大坂城を守る目的であったことから、その目的が逆転した城でもあります。現在も筒井古城として天守台が残っていますが、当然、高虎時代とは大きく場所が移動していることが分かります。

 江戸期には津藩として藤堂氏が継続し、明治に至ります。現在の天守は、地元の名士川崎克が私財を投じて建造したもので、三層三重です。
 高虎はこれよりも大きな五層五重にしようとしていたのですから、場所からしてもかなり豪勢な城を構想していたんですね。

 現在は伊賀上野は忍者博物館などもあり、忍者の町として売り出しているみたいです。ちなみに松尾芭蕉は、この上野のゆかりのじんぶつであることから忍者説があるわけです。まあ奥の細道を普通に考えても、何らかの密命を帯びている感じはしますけどね。









忍者学講義
三重大学国際忍者研究センター
中央公論新社
2020-02-07


tougouiryo at 2021年06月26日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (長篠城)

 まさかの飯田線が本丸を走り抜ける、断崖の長篠城(46・愛知)です。押印は平成24年3月19日、長篠城址史跡保存館にて押しました。飯田線の長篠駅から徒歩で訪問しましたが、その後、復元馬防柵のある設楽ヶ原古戦場もあわせていったので、電車の乗り継ぎや駅からの徒歩が長くなり、結構不便でしたので、車での訪問がおすすめです。

 菅沼元成による築城で、武田方についた菅沼氏から家康が攻めとり、徳川の武田への最前線基地の役割を担った城です。
 武田方からの籠城戦を耐え抜き、織田・徳川方を長篠の戦いの勝利へと導いた重要な城になります。二つの川の合流点である三角形断崖上に位置するため、崖側の南側は極めて強固なのですが、北東ががら空きのため、堀と土塁を配置して防御しています。
 現在は宅地化も進んでいるので、当時の様子がよくわからないの、こちら側大丈夫?といった感じなのですが、籠城を耐え抜いた城だけに当時は堅固だったのでしょう。
 ただし、長篠の合戦があまりに激しく、この城郭の損傷も激しかったため、この城は廃城となり、城主奥平氏は新城城を新たに築城し移ったといいます。

 この城で忘れてはならないのが、やはり鳥居強右衛門です。壮絶なその姿は史跡保存館に展示されています。
 武田に包囲された長篠城から、鳥居強右衛門は織田・徳川連合軍へ救援を要請するため脱出。無事その援軍要請の任を全うすると、その成果を伝えるべく再び城内へと帰還しようとするのですが、ここで捕獲されてしまいます。
 武田としては援軍が来ることが籠城内に伝われば、士気が鼓舞され、不利になるわけなので、強右衛門に援軍は来ないという虚偽の伝令をすれば命を助けると持ちかけます。
 しかし、武田によって城の前まで連れてこられた強右衛門は、「援軍到来」を叫んだため磔にされ殺害。近隣には強右衛門磔死之跡があります。これにより、さらに城内の士気は上がり、武田方は落城させることができないまま、設楽ヶ原の戦いへと向かうことになり、敗北します。

 このエピソードをみても、いかに士気の高さが籠城戦に影響するかがわかります。城の強さというと、縄張り的なものを求めるのが定番ではありますが、こうした関わる人物の動向、つまりは人の心情こそが城をめぐる戦闘の要であるということをあらためて気づかされますね。

 商業的にも、施設や建造物が新しく華やかであることが求められますが、そこに集う人たちが団結していなければ、やはりうまくいかないのは言うまでもありません。大規模な資本を投入した施設にもかかわらず、中身の薄いところって、確かにありますからね。





戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦い
設楽原をまもる会
黎明書房
2014-08-01





tougouiryo at 2021年06月19日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岡崎城)

 家康誕生の地、岡崎城(45・愛知)です。押印は平成23年11月18日、学会で名古屋に行ったついでに、名鉄にのって足を延ばしました。

 三河守護代の西郷頼嗣により築城され、その後、松平氏の攻撃を受け支配下となり、松平清康により城郭整備が行われ松平の本拠地となりました。その後「守山崩れ」により、清康が暗殺、息子の広忠になるも弱体化した時代に生誕したのが、竹千代、後の徳川家康です。しかし父、広忠も暗殺され、竹千代は6歳で織田家、8歳で今川家に人質として出されてしまいます。これに伴い、岡崎城も今川から城代が入ることになります。しかし、桶狭間の戦いの後に、徳川家康は今川から独立、以後、岡崎城を拠点とします。

 こうした苦難に満ちた家康の幼少期ですが、その後のサクセスストーリーから、この城には伝説が残されています。本丸内の龍城神社に家康誕生の際、黄色の龍が現れたといわれます。龍は岡崎城創建の際も現れ、守護神となることを約束したというから、よく龍が出現する城です、それゆえに別名、龍ヶ城!
 神君家康公誕生の城であることから、後付けの伝説なのか、この地の松平の苦境から「伝説」の一つも作らないとやってられなかったのか、不明ですが、まあそういうことなのでしょう。

 また城内には、家康の誕生にともなっての産湯の井戸や、胎盤を埋めた「えな塚」もあり、生誕した二の丸は誕生曲輪といわれるほどです。まあ家康生誕一本、といったところでしょうか。

 全体としては少し立て込んだ、ごちゃっとした城の印象です。内堀や青海掘りも、少しうっそうとした印象でした。
 しかしここの城代は江戸期においては、譜代大名の誉といわれ、いわば創業の地のような名誉な地だったことは間違いないのでしょう。近くには「三河武士のやかた」など見どころも豊富です。









tougouiryo at 2021年06月12日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (犬山城)

 現存最古といわれる国宝天守、犬山城(43・愛知)です。押印は平成23年11月19日、城郭内休憩所で押しました。名古屋から犬山線に乗って犬山遊園駅から徒歩でいけます。最古の天守については、丸岡城説が有力だったようですが、近年、慶長以降の築城とする説が有力になり、犬山城とするようです。また変わるかもしれませんが。

 荻生徂徠によって「白帝城」とも称された城で、直下を木曾川が流れるさまを長江と見立て、三国志の劉備玄徳終焉の地になぞらえた別名となっています。
 つまり縄張りとしては、城郭の北側が木曾川で守られ、南側は惣構により防御されていたようです。また二の丸を約70mの大手道が直線的に伸びるさまは、まさに安土城といってよい構造です。

 信長のおじ織田信康によって築城されたといわれ、数々の合戦の舞台となっています。その後、信長との対立により、信康の子信清が城を追われると、池田恒興が入城。その後も、紆余曲折あって秀吉政権下では、石川貞清が城主に、さらに徳川期になり最終的には尾張藩付家老、成瀬正成が城主となり、成瀬氏が幕末まで続くことになります。

 とにかくこの城郭のすばらしさは、天守からの眺望につきます。眼下の木曾川の流れに加え、晴れたら岐阜城、小牧山城、名護屋城までも見えるというくらい濃尾平野を一望できます。
 訪問時も、窓を開け放たれた天守は、気持ちの良い風が通過し絶好の眺望でした!
 ここに赤絨毯が敷かれていたのも、印象的で、後で調べてみると、7代城主がオランダ商館長から入手した貴重なものらしく、城主が最上階に上ることを前提にしてしかれていたらしいのです。
 つまりほとんどの天守最上階は上る前提でないことが少なくない中、城主が訪れる前提での最上階だったということがわかります。
 これほどの眺望ですから、やはり城主ですからみてみたいですよね。赤絨毯にそこまで意味があるとは、訪問時は分かりませんでした。

 ほんとに「これぞ天守!」という気持ちなれるお城です。天気の良い日にぜひ再訪したい名城です。











tougouiryo at 2021年06月05日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (掛川城)

 高知城に似た天守とされる掛川城(42・静岡)です。押印は平成22年5月22日、駿府城の前日に訪問しています。御殿の入り口で押しました。

 今川の重臣、朝比奈泰能によって築城され、豊臣政権下で山内一豊が大幅拡張を行ったとされます。一豊がその後、高知城天守の築城に際して、掛川城天守に倣って建造したと伝わることから、現在は高知城を参考にした三重天守で復興されています(日本初の木造復元天守)。

 朝比奈氏が最後まで今川に忠義を尽くしたことから、今川氏真は駿府館を捨てて、掛川城に逃げ込み、徳川の包囲にもかかわらず、半年以上の籠城を耐え抜きました。その後、開城し、山内一豊が入城。関ケ原の合戦の戦功により高知へ移っていきました(関ケ原序盤戦での一豊の出世物語ですね)。

 建造物としては、幕末期に地震で倒壊した本丸御殿のかわりに建てられた二の丸御殿が現存(全国でも4か所のみ)しており、国重要文化財となっています。
 前述した天守に加え、さらには大手門も復元されています。天守丸には、今川氏真が立てこもった際に、井戸から霧が立ちこめ城を覆い隠したと伝わる霧吹井戸もあります(よくある伝説ではありますが)。

 この掛川城は、新幹線からみえる城としても有名で、駅からのアクセスも非常にいいです(徒歩7分くらい)。お茶の産地掛川ですので、掛川茶も買って帰れます。


日本の城 改訂版 52号 (掛川城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-01-09










tougouiryo at 2021年05月29日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (駿府城)

 徳川家康隠居の城、駿府城(41・静岡)です。押印は平成22年5月23日、東御門の券売所でした。駿府城に向けて歩いていると、山岡鉄舟が、勝海舟の命を受けて新政府軍と遭遇した場所を通過したのを覚えています。「鉄舟。ここでまにあったんあだなぁ」と思ったものでした。

 駿府城は、かつては六重七階の天守が聳えていたといわれ、現在も大きな巽櫓と東御門が復元され、その威容が偲ばれます。
 高麗門と櫓門を合わせた枡形は、その絶対的な防衛力の高さから威圧感もハンパないです。中に入ると、現在は駿府城公園になっているので、のんびりとした広場が広がるのですが、かつてはこの中心部に六重の天守があったというのですから、相当な迫力だったのでしょう。
 本丸堀や二の丸水路なども見ることができます。

 家康としては相当の思い入れのある城郭で、今川の人質時代に12年間住んだ、心情的に複雑な土地でもあります。それゆえに自分が領有することになった際、この地に築城し、浜松から本拠を移しているわけです。
 かつて人質だった身から、領主になって戻ったということを実感したかったのでしょうね。共感できます。
 しかし、秀吉の小田原平定後、江戸へ移されてしまいます。その後、秀忠に将軍職を譲り大御所となってから、再度、隠居城として天下普請での大改修を行って戻ります。
 ここに戻ることで「故郷に錦を飾る」的な誇らしさがあったのでしょうね(見返してやったぜ、みたいな)。その後江戸幕府は、江戸と駿府の二元政治が布かれることになります。そして家康は、この駿府城で没します(本当にタイの天ぷらだったのでしょうか?)。

 その後は3代将軍家光の因縁の弟、駿河大納言忠長が入城するも、家光により乱心の嫌疑をかけられ、秀忠没後、高崎に移送され、かの地で自刃に追い込まれます(高崎で飲んだ時はわざとこの墓所の前を通過したりします)。その後、天領となりますが、火災でほとんどの建造物が焼失、再建されませんでした。

 時代は下って、幕末期には、江戸へ向かって進軍する新政府軍、西郷隆盛と会見すべく、山岡鉄舟が江戸からここで新政府軍と遭遇した地でもあります。歴史的に極めて重要な土地なわけです。

 静岡駅からのアクセスも徒歩10分ほどと良いので、初診の方は是非訪れたい名城です。


大御所徳川家康と駿府城公園
田中 省三
羽衣出版
2012-11-01










tougouiryo at 2021年05月22日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岐阜城)

 今回は岐阜城(39・岐阜)です。押印は平成24年3月19日、岐阜城資料館の入口にて押しました。

 アクセスが良く、岐阜に用事があるたびに行ったので、これまで3度ほど訪問しています。金華山(稲葉山)の山頂に聳え立つ城なので、ロープウェイで3分ほどあがると、天守からは城下町が一望でき、とても眺望の良い城です。
 ロープウェイ乗り場の横に山麓の居館跡があり、山頂の天守と合わせて中世の山城的な形態となっております。この城はロープウェイで急な斜面を上がるので、さぞや難攻不落の城かと思いきや、七度の落城という、結構な落城数を誇っています(攻めた奴がすごいのか?意外と攻めやすいのか?)。ただ高いところにあればよいというわけでは良いで例ではあります。
 ただ長良川から見上げる天守は当時のものではありませんが、その威容はさすが信長の城といった感じです。ここから信長は、天下統一を目指すようになったと言われています。

 桶狭間にて今川義元をうった信長は、美濃侵攻を開始、斎藤龍興と敵対し稲葉山城の戦いとなりました。この際、信長軍はなかなかに苦戦し、砦を建造しながらじわじわと攻略していくのですが、ここで登場するのが秀吉の墨俣一夜城です。
 川並衆の助けを借り、短期間で城郭を建造し、以後の美濃攻めの拠点となりました。その後いわゆる西美濃三人衆を内応させ美濃を攻略、一日で稲葉山城を落城させたといわれます(諸説あり)。(西股先生の『戦国の軍隊』でも、戦国の城は一日で落とすことを目的とすると書いてあるのですが、そのいい例でもあるのかもしれません)

 かつてジャングルカンファレンスを名古屋で開催した時、前日に岐阜に入り、屋形船から鵜飼いを見学したことがあります。ジャングルカンファレンス草創期の楽しい思い出です。なかなか屋形船というご時世ではありませんが、そのうちまた鵜飼いはみてみたいものです。思えば名古屋のジャングルカンファレンスからずいぶんと時間が経過したもんですね〜






日本の城 78号 (岐阜城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-07-08






tougouiryo at 2021年05月15日07:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岩村城)

 日本三大山城の一つ、岩村城(38・岐阜)です。押印は平成27411日、歴史資料館にて押しました。

 太鼓櫓の見える、復元藩主邸に駐車して、藤坂を一の門へ向けて登ります。追手門を越えると竜神の井、つづいて霧ケ井となります。
 この井戸は伝説の井戸で、別名である霧ケ城の由来ともなりました。ここに蛇骨を入れると霧が湧き出して城を包み込み敵から見えなくなったというものです。
 同様の伝説は、ほかにも掛川城(霧吹井戸)にもありますね。

 そこからさらに行くと六段壁といわれる本丸六段の石垣になります。岩村城の象徴的な石垣です。全体的によく整備されて見やすい山城です。
 また、悲劇の女城主の城として神秘的な雰囲気も醸し出しています。織田信長の叔母にあたる「おつやの方(所説あり)」は、夫である城主遠山景任亡き後、女城主になったとされます。ここに秋山信友が岩村城を攻撃しますが、攻防のさなか、この女城主に結婚を申し込み、女城主もこれを受け入れ開城してしまいます。これに対して信長は激怒、信忠を総大将として大軍を派遣し、岩村城を奪還、女城主らを処刑してしまうというお話です。

 武田、織田のはざまに揺れた当時の政情がみてとれるエピソードですね。





日本の城 80号 (岩村城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-07-22







tougouiryo at 2021年05月08日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (一乗谷城)

 越前朝倉の本拠地、一乗谷城(37・福井)です。押印は平成231022日で復元街並みの入り口で押しました。
 初めての訪問時は、ソフトバンクのコマーシャルが放映されていた時期でもあったので、結構話題になっておりたくさんの人がいました。復元後間もなかったこともあるのでしょうが、いまだになぜソフトバンクのお父さん犬で一乗谷が取り上げられたのか謎です。
 その後、北陸の城巡りの際に再訪しているのですが、そのころはすいていて、ゆっくりと見学できました。またエリア内にはおしゃれな店もいくつかできていて、復元街並みを歩くと、ちょっとしたタイムスリップしたような不思議な感覚になれるエリアです。

 また近在の「一乗滝」は佐々木小次郎の「燕返し」開眼の地としても有名です。飛んでる燕を切り落とす、巌流島のあの必殺技です。訪問時は残念ながら燕は飛んでおりませんでした。

 一乗谷は上城戸と下城戸に挟まれた谷合のエリアで、そこを貫く一乗谷川の両岸に武家屋敷や町屋、寺院が点在し、その北側を足羽川に面しています。
 谷合の町並みを見下ろす形で、一乗城山に詰めの城として一乗城が築かれています。

 千畳敷に、一の丸、二の丸、三の丸と連郭式になっているようなのですが、山城部は未訪問です。資料館の方にもあそこはいかない方がいい、と諭され素直に従いました。ちなみに友人がこの山城を攻略した際に、カラスなどの鳥に襲撃されたようですのでやめておいてよかったです。

 朝倉館の御殿跡などは、現在ではとてもきれいに整備されており、主殿から登り、中の御殿、諏訪館と平行に横に移動できます。
 途中に湯殿跡庭園があり、かつては豪華な庭園だった様子が想像できます。この庭園は、大河ドラマでもユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景のシーンでよく出てきていました。ここかあ、という感じで大河観れました。


戦国朝倉: 史跡からのリポート
吉川博和
DoCompany出版(BoBoBooks)
2013-08-06



朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)
信之, 松原
吉川弘文館
2017-01-20







tougouiryo at 2021年05月01日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (丸岡城)

 日本最古といわれる現存二重天守の丸岡城(36・福井)です。押印は平成231022日で、一筆啓上茶屋にて押しました。

 ここ丸岡城は「一筆啓上」の簡略な手紙で有名で、たくさんの公募の「一筆啓上」が貼られていました。ちなみにその由来は、本多重次の妻への手紙「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」です。

 丸岡城は越前北庄城の支城として、柴田勝家の甥、勝豊によって築城されましたが、清須会議の結果、早々に長浜城へと移されてしまいます。
 その後は、福井藩として結城秀康が入ったのちは家臣が入城し支城として機能していきますが、本多成重により、福井藩から丸岡藩として独立していくことになります。

 ちなみに本城とされる北ノ庄城が現存していないうえ(福井城となってしまいますが)、小さな柴田神社の中に城址の碑があるのみでその迫力が伝わらないので、丸岡城が支城であるという感じもちょっとぴんときません。
 この城は、北国らしい朴訥な建築で、寒暖差の激しい北陸で破損を防ぐために用いられたといわれる、青みがかった「石瓦」が特徴とされます。北国の最古の城を感じることができます。


日本の城 61号 (丸岡城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-03-11







tougouiryo at 2021年04月24日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (金沢城)

 言わずと知れた加賀百万石の大城郭、金沢城(35・石川)です。押印は平成231024日で、七尾城の翌日に訪問しました。

 金沢というと「兼六園」が普通最初に思いつきそうですが、兼六園自体はこの金沢城の付随的な庭園という位置になります。もっというと有事の際の「出丸」的な機能を庭園は有しており、水戸の偕楽園なども同様の目的と考えてよいでしょう。

 金沢城は加賀一向一揆の本拠、金沢御堂の跡に築城されたといわれ、大阪城と似た来歴を持ちます。こうしてみると当時の一向一揆の勢力の大きさを感じます。一向一揆制圧後、佐久間盛政が尾山城として整備したのち、前田利家が入城。この際、高山右近を招いて大改修を行ったとされます(こうしたエピソードから高岡城も高山右近縄張り説があるのかもしれません)。これにより加賀前田の居城として、明治維新まで継続します。

 金沢城としては、現存する櫓などはわずかしかないのですが、近年再建がすすみ、かなり豪華な当時のたたずまいを取り戻しつつあります。
 五十軒長屋や菱櫓、河北門など、その再建の様子も併せて必見です。金沢の雰囲気と相まって、本当に美しい城郭だと思います。

 通常、金沢城見学は三の丸、二の丸がメインになるのでしょうが、個人的には三十軒長屋を経て入る本丸の鬱蒼とした森の雰囲気が好きです。そもそもは重要拠点だったにもかかわらず、置いて行かれたようになって、二の丸や兼六園の華やかな感じと対照的に、なんとも枯れている感じが良いです。

 金沢はこの城に限らず、見所たっぷりですが、近江町市場やひがし茶屋街だけでなく、ぜひともおすすめなのが、忍者寺として知られる妙立寺。3代藩主利常が寺院群に対して司令部的な役割をもたせるために、城の付近から移籍建立したと伝えられる寺院ですが、その建築構造の複雑さから「忍者寺」と称されるようです。
 落とし穴や隠し部屋、秘密の抜け口などまさに忍者のからくり的なしかけが豊富なのですが、私にはどこかふざけているような、大人の遊びのように感じられました。これは悪い意味ではなく、栗本慎一郎先生も、大人の秘密クラブ的なところだと著書で記しています。ご興味ある方はぜひご自分の目で確認してみてください。
 茶屋街など、少し陰のある華やかさ、という独特の雰囲気を醸し出すエリアだと思います。






前田利家・利長 (中世から近世へ)
大西 泰正
平凡社
2020-09-15


 


tougouiryo at 2021年04月17日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (七尾城)

 上杉謙信を撤退させた山城、七尾城(34・石川)です。押印は平成231023日、七尾城史資料館にて押しました。

 ここはいろいろと思い出のある和倉温泉の近くで、かつて大学院生の時に医局旅行できた地なので、感慨深い再訪とともに、こんな立派な山城があったのかと、感動したものでした。

 ふもとの資料館から途中まで車で上がり、本丸へ向かいました。ここは本丸からの眺めが絶景で、眼下に七尾湾、能登島が一望でき、ふもとの様子もよく見えます。籠城する畠山軍からすると、さぞや上杉軍の動きがよく見えたことは想像できます。
 こうした立地の良さも相まって、難攻不落の城として今日まで語られるわけです。

 足利義昭による織田包囲網の一環として、一向一揆と和睦した謙信は、織田軍に対抗するため、能登制圧のため七尾城を攻略しました。
 対する七尾城側は、4歳の春王丸を当主に家臣団が実権を握っている状態で、信長に与して謙信に対抗する方針をとっていました。

 こうして開始した第1次七尾城の戦いは、上杉軍が攻めあぐね、ついには春日山城へと帰陣していったため、籠城成功となりました。
 この後、上杉軍は再度出陣し第2次七尾城の戦いとなります。この際も守りは固く、上杉軍が攻めあぐねるのですが、城内に突然の伝染病が蔓延、春王丸が5歳で亡くなってしまいます。(伝染病により歴史が動いた一例ですね)
 また城内の兵士も相当数が感染したと伝えられます。これにより士気は落ち弱体化し、さらには重臣らの対立を利用した内応工作が成功し、開城します。(感染症による混乱もあったことでしょう)
 つまり軍神、謙信をもってしても純粋に戦闘では落とせなかったわけで、これが難攻不落と称されるわけです。

 和倉温泉は、沸く浦とも称されるように海中から温泉が湧いているところで、海を眺めながら温泉につかれる絶好の地です。温泉も塩味がつよい泉質です。

 城郭に興味がなくても、この七尾城からの絶景は、温泉と合わせておすすめの観光スポットです。


七尾城と小丸山城―史料年表能登の中世戦国史
坂下 喜久次
北国新聞社出版局
2005-09T


和倉温泉のれきし
田川 捷一
能登印刷・出版部
1992-01T





tougouiryo at 2021年04月10日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (和歌山城)

 徳川御三家の居城、和歌山城(62・和歌山)です。押印は平成25114日でした。

 この城は、豊臣秀長により築城され、関ケ原の後、浅野幸長により天守が建造されています。天守は太平洋戦争において米軍機の空襲により焼失、1958年に外観復元されたものが現在の姿ということになります。

 浅野はその後、さらなる加増により広島藩へ移封、代わりに徳川頼宜が入城し、以後250年にわたる紀州徳川の時代になります。
 徳川頼宜による城下町の拡張や城郭の改修が大規模であったため、途中、幕府から謀反の嫌疑をかけられるなどもしたが、入念な普請がこうした嫌疑につながったものと言えるでしょう。たしかに和歌山城をみると実に立派で、こうした嫌疑も、なるほどと思ってしまいます。
 市内の至る所から天守が見え、お城に見守られる町といったイメージぴったりです。

 訪問時の思い出としては、和歌山ラーメンを食べてから城郭を見学。その後、城内を散策していると突然の大雨。やっとの思いでトイレに駆け込みましたが、すでに大勢の人が逃げ込んでおり、びしょぬれになってしまいました。こういう記憶は明確に記憶に残りますよね。

 ちなみに和歌山ラーメンの店にいくと「早すし」と称して、鯖ずしがあるのがご当地流。自然発酵のなれずしと区別するために「早」とついているそうなのですが、ラーメン屋にすしと書いてある違和感は印象的でした。











tougouiryo at 2021年04月03日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高取城)

 標高583mの山頂に聳え立ち、数多くの櫓を有する高取城(61・奈良)です。押印は平成25112日で、観光案内所「夢創舘」で押しました。

 初の訪問時は、本丸まで登ってから帰路に立ち寄り、CGによる当時の建造物を紹介する映像を見せていただきました。上ってきたばかりでしたので、なんとなく場所は把握できましたが、現状の鬱蒼とした森から、往時の様子を再現された映像はにわかには信じられないほどのギャップがありました。

 山頂の本丸近くでは、イノシシによるものだと思われる土を掘り返した跡やらがいくつもあり、ビビっておりました。また、観光案内所の前をイノシシが疾走していくこともあるということでした!
 それが2度目の訪問時には、まだ本格的に山の中に入らぬうちから、私よりも大型のイノシシが突如出現。これはまずい!と思った瞬間、向こうも同様に感じたのか、急な斜面を駆け上がり逃走してしまいました。これまでこれほど大きなイノシシを間近で見たことがなかったのでしばらくは恐怖にオノノイテおりました。あらためて山城の危険性を肌で感じた出来事でした。高取城というとイノシシしか思い出せないくらいです!(笑)

 夢創館から結構な山道を登り、七曲・一升坂という大手道をさらに上がると、水堀・猿石・二の門跡にでます(この猿石はなんどみても不思議な感覚に襲われます)。そこからさらに上がると三の丸、二の丸と続き、本丸に至ります。
 本丸は初めて見るとかなり衝撃的な迫力です。ラピュタの世界に迷い込んだような感覚になります。山城好きは是非見ておくべきところです。(最初は本丸裏手近辺までタクシーで上がりましたが、やはり大手道から苦労して登ったほうが本丸の衝撃は大きいようです。是非とも初回は大手道からの登山をお勧めします!ただし山歩き用の装備は必須です!)

 帰りは壺坂口門跡から降りていくと、壷阪寺に至ります。ここでバスに乗ることができます。バスの時刻に間に合わせようと駆け下り、大変くたびれました…(バスの本数が少ないので要注意です)

 高取城は幕末においても歴史の表舞台に出ています。尊攘派の天誅組が高取城を攻略しますが、これを撃退し、その防衛力の高さを見せたのでした。易々とは攻略できない城郭だということが体感できました!

 奈良というと、石舞台などの古代遺跡や大仏のイメージですが、そのすぐ近くにこれだけの山城があるというのは一般にはあまり知られていません。定番の奈良観光に加えて、一度訪れてはいかがでしょうか。鹿だけでなく、猪にも会えるかもしれません(笑)






高取城
2017-01-30







tougouiryo at 2021年03月27日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (赤穂城)

 今回は忠臣蔵で名高い赤穂城(60・兵庫)です。押印は平成21922日で、当時は急速に城が整備されているといった雰囲気でした。
 かつての空撮写真をみると、本丸内部にはドッカと赤穂高校が占拠しており、二の丸、三の丸も未整備のような感じですが、2000年あたりから民家が少しずつ減り、平成21年の写真では随分と整備が進んでいる様子が写真からも見て取れます。
 訪問時は、同日に姫路城を訪問してから、電車移動で伺いました。

 赤穂城は、甲州軍学に基づいて築城された城といわれ、屏風折れの土塀、多角的な曲輪、枡形虎口の城門などが特徴とされます。
 本丸の形状が、やや星形に近いのもこうした影響なのでしょう。軍学というものが実際にどこまで有効性があったのかはわかりませんが、平和な江戸期に入り、築城方法なども形而上的な虚学的な要素をはらんできたのではないでしょうか。こうしたことから、平和な時代における形式的かつ形骸化した縄張りであるという批判も目にします。

この城の歴史的な事件といえば、なんといっても忠臣蔵です。浅野長矩の代になり、松の廊下で吉良義央を切りつける刃傷事件起こしてしまい、長矩は即日切腹、浅野家断絶、赤穂藩も幕府領となってしまいました(ここから忠臣蔵が展開していくわけですね)。その後、永井家が一時入りますが、森長直が入ってからは森氏が12代続き、明治に至ります。
 近隣には、大石内蔵助屋敷地を中心に大正1年に創建された「大石神社」もあり、忠臣蔵を偲ぶことのできる城です。

 戦国期から平和な時代へと移行していく中で、城の形態も戦闘を前提にしたものから、都市の発展や交易との関連を重視するものへと移行していきました。そうした意味では、河口の三角州に、海に面して築城されたこの城は、いわば晩期の築城の特徴をよく示すものともいえるのではないでしょうか。

 時代時代によって城の持つ意味は変化していくようです。そうした意味でも、この城の過度の縄張りの形骸化も、何らかの意図、意味、が前提にされていたのではないか、ということをナワバリストの西股先生は書かれています。では本当の意図、築城の前提条件、みたいなものは何だったのでしょうかね。個人的には養老先生の言うところの唯脳論的な視点が発現しているようにも思うのですが。

 ちなみに西股先生の著書を最近読んでいるのですが、これがとても勉強になって面白いです。通り一遍の城郭の理解しかしてこなかったことを痛感します。とりわけ山城に関しては新た視点を持つことが出来、これからの城巡りがより楽しくなりそうです。この城(赤穂城)への深い視点もとても勉強になりました。おススメです!



赤穂城断絶 [DVD]
三船敏郎
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2020-10-14




決算!忠臣蔵
岡村隆史
2020-05-02















首都圏発 戦国の城の歩きかた
西股 総生
ベストセラーズ
2017-04-21




tougouiryo at 2021年03月20日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (明石城)

 新幹線から見える城郭、明石城(58・兵庫)です。押印は平成21923日でした。駅から徒歩5分という絶好の立地です。駅近の市民の憩いの場、といった雰囲気の城で、訪問時もコスプレ女子の撮影会をしていました(笑)

 せっかく明石に来たので明石焼きを食べてから登城。駅近の城郭なので、その後も2度ほど訪問しています。

 巨大な天守台とともに、三重櫓を四隅に配置した本丸が圧巻。高石垣の上からは瀬戸内海を眺め、山陽、瀬戸内へのにらみを利かせる重要な城であることがうかがわれます。ここも西国諸藩への押さえを目的に天下普請で築城されました。

 また築城に際しては城下町の整備も行われ、一説では町割りをかの剣豪・宮本武蔵が担当したともいわれています。

 この城の印象的なところは、正面の駅側の高石垣の立派さと、対をなすかのような裏側(北側)の谷筋で、桜堀、剛の池といった池が、西側の明石川とともに天然の堀として機能しているところです。谷筋からみると駅から見た感じと印象が異なります。
 お手軽な城ですので、初心者の方はぜひどうぞ!


明石城 なぜ、天守は建てられなかったのか
神戸新聞明石総局・編
神戸新聞総合出版センター
2020-04-17







tougouiryo at 2021年03月13日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (篠山城)

対豊臣を目的に、西国大名の抑えを目的に築城された篠山城(57・兵庫)です。押印は平成25923日で、大書院の中にスタンプがありました。

 7年前の当時は前日に神戸の友人と遅くまで会食しており、朝起きたら少し寒気がして体が重くなっていましたが、予定を変更するまいと思い無理を押して、訪問しました。コロナ禍の現在では考えられませんが、その当時は急な発熱と寒気の中を強行しました。
 そのため結構つらい印象しか残っていないのですが、それでも猪料理をたべ、黒豆を買って帰りました。福知山線「篠山口」からさらに神姫バスにのり結構遠く、くたびれました。

 徳川家康の命により、藤堂高虎の縄張り、普請総奉行の池田輝政のもと天下普請で築城されました。高石垣を用いたいわゆる高虎流の城郭です。
 天守台が現存しており、建築当初は連立式天守が予定されていたようなのですが、時代の流れの中、そこまでは必要なしと判断されたようで、駆り出された大名は次の予定の名古屋城へと移動させられたようです。状況により人員配置を変えた結果、現在でも天守ないまま天守台のみ、ということになったようです。
 訪問時は復元された立派な大書院があり、大きな角馬出も現存して見どころ満載でした。

 当時はまだまだ100名城を始めたばかりで、特に近畿地方は多く残していたので、無理をしてでも行こうと思い訪問したのですが、行くべき城郭の多さを考え、体調不良と合わせボー然とした記憶がよみがえります(笑)ローカル線乗り継ぎの訪問はやはり結構大変でしたね。








tougouiryo at 2021年03月06日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (千早城)

楠木正成が幕府軍を迎撃した「太平記」の舞台、千早城(55・大阪)です。押印は平成25113日で、山家料理と土産屋の「まつまさ」で押しました。訪問前に上赤坂城(楠木城)に立ち寄ってからの訪問でした。

楠木正成は1000名の手勢で、100万の幕府軍相手に100日籠城を行い、落城しなかった城として有名な千早城。
 赤坂城、楠木城との連携においては、詰めの城としての機能をもち、最後まで落城せずに籠城を続けたことが鎌倉幕府滅亡の一因になった言われる歴史的名城です。
 
 実際には30分ほど石段を結構な登山をすることになります。道路からの高低差は100mあり、急峻な地形で奇襲戦にはもってこいだったことが体感できます(笑)これだけの兵力差で凌いだ、正成の戦略と戦術を思うと、さらに感慨ひとしおですね。


楠木正成―千早城血戦録
奥田 鉱一郎
ビジネス社
1991-04T












教科書が教えない 楠木正成 (産経NF文庫)
産経新聞取材班
潮書房光人新社
2019-07-24



tougouiryo at 2021年02月27日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (竹田城)

 天空の城として名高い竹田城(56・兵庫)です。押印は平成28828日、高砂市での講演の後、友人たちと電車で足を延ばしての訪問でした。

 当時はJRの竹田駅にスタンプ設置され、バスに乗り換えての訪問でした。その後、再訪することがあったときは、「山城の郷」に駐車し(スタンプもここにあります)、そこから行きはタクシー、帰りは徒歩にて城郭を往復することになります(便利になりました!)。
 途中かつて駐車場として利用されていたところも、今は関係者しか乗り入れできないようになっており、行くたびにアクセス方法が変化していますので、ご注意下さい。

 天空の城ブームのおかげで、こんなことになってしまったわけですが、ほかの山城はゆっくりとうろうろ徘徊できるのに、ここは一方通行!。かつては要所要所に案内の方が見張っているので、一度通り過ぎたら引き返すことができず、非常にフラストレーションの蓄積する山城でした。
 一部の山城ファンのブログで竹田城なんかもう行かない、みたいなことが書いてあったのですが、なるほど納得です。ですがちょうどすいている時期だったので、再訪時はゆっくり気のすむまで見れました(笑)ブームというのも考えものです。
 ガイドさんが、僕らの子供のころは、いつでもどこからでも上ってよかったですからね〜と言っていたのが印象的でした。

 車では、播但道の和田山インターからのアクセスとなるわけですが、現在でも瀬戸内からと、日本海側から、さらには鳥取からの峠越えからの交差する交通の要衝で、重要地点であることがわかります。

 1443年ごろ、山名宗全による築城ですが、豊臣政権下で生野銀山を抑える目的で、当時最先端技術であった石垣を多用して完成させた山城。複雑な折れと高低差で、迷路のようになっているまさに名城です。

 雲海に浮かぶ姿が有名ですが、これを見るには離れた山からながめる必要があるため、城好きとはちょっと異なるのかな。城好きの春風亭昇太師匠が、城好きは城に行きたいから雲海の遠景は見たことない!みたいなことをいってましたが、その通りです(笑)
 再訪時は、雲海がでていたのですが、城ごと雲海に飲み込まれてしまい、視界最悪でした(笑)











日本の城 改訂版 10号 (竹田城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-03-21










tougouiryo at 2021年02月20日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (大阪城)

 今回は、かつての大坂城、大阪城(54・大阪)です。押印は平成21111日で、天守閣内で押せます。
 大坂城には豊臣期と徳川期に二つあるわけですが、豊臣期大坂城天守は、安土城天主に似ていたとされ、二重目を巨大な入母屋造とし、その上に向きを変えた入母屋造を重ねていく構造なのですが、それでもやはり、安土城でひときわ目を引く四重目の形状は踏襲していません。
 ただし信長のものよりも豪壮だったようで、当時の宣教師の記載では「安土の比に非ず」と記されているようです。

 豊臣期大坂城は、石山本願寺跡地に建築されたわけですが、そもそもこの本願寺は、普通の寺ではなく、堀と土塁を有する「城」だったということを知れば、より納得です。
 秀吉自身が居城としていた期間は実は短期間だったといわれますが、その不在の間は正妻である「おね(寧々)」が在城していたようで、秀吉没後に淀君と秀頼が入城してからは、京都新城に移っているようです。

 その後迎えた大坂冬の陣では、淀川堤防を決壊させて城外東側を水没させて水城のようにしたため、徳川方の攻撃口が南面に限定され、ここに真田丸が築かれていたということになります(今回調べて初めて知りました!)。武田の丸馬出の城郭化ともとれるこの真田丸を出丸として、激戦が繰り広げられるわけですが、実際には真田丸の形態はよくわからないみたいです。

 その後、堀という堀はすべて埋めたてて、丸裸の状態で迎えた大坂夏の陣ですが、当然こうなると難攻不落というわけにはいきません。
 当然、真田幸村は京都に家康を入れないように、瀬田の橋を落として迎撃するという戦略を主張するわけですが、結果としては採用されず、局所的な善戦はあったものの結果としては秀頼・淀君の自刃で幕を閉じるわけです。
 ただここにも異説が多く語られており、秀頼生存説は結構根強いですね。薩摩経由での逃亡などは地域では語り継がれたりしていますし、琉球や東南アジア方面への逃亡もあるかもしれません。荒唐無稽とされる天草四郎説もまんざらではないのかもしれません。

 また大坂の陣の後、徳川方により徹底して城域が破壊され、城内もひろく掘り返されたとも伝えられたにもかかわらず、似たような縄張りで徳川期大坂城が建築されたのも、ちょっと疑問です。
 巷間、豊臣への憎しみからだといわれますが、ただそれだけで、そこまでするかは甚だ疑問です。もし憎悪の念からであれば、徹底的に破却したままにしておけばよいと思うのですが、一度更地にしてからまた建てるというのは面倒なだけのように思います。何か城域内で埋蔵物などを捜索していたと考えるのが妥当なような気がします。

 また真田の動向も不可解です。これほど徳川家に反発したにもかかわらず、伊達藩はその血筋を保護し、とくに咎めを受けてはいないようです。こう言うのを「男の友情」では済ませられません(笑)
 大坂の陣はその他にも多くの疑問が投げかけられうるイベントですよね。

 その後家康は、豊臣期を凌駕する天守を建造したものの、その天守は40年足らずで落雷による全焼。そして1931年に現在のコンクリート製天守になるというわけです。ちなみに現在は、徳川の土台の上に、豊臣の天守に似た形状のものが建っているといったところです。

















tougouiryo at 2021年02月13日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (二条城)

 京都の城らしくない城といったイメージの二条城(53・京都)です。押印は平成22918日ですが、京都の高雄病院の研究会に参加する折などに数回立ち寄っているので、結構訪問している印象です。歴史に興味がないと「鴬張り」の記憶しかない、という知り合いもいます(笑)

 かつては五重の天守が聳える堅固な要塞でもあり、縄張り的には輪郭式の平城になります。一般に城の印象が薄いのは世界遺産にもなった国宝御殿のインパクトが強いからでしょうか。
 幕末最大のイベント大政奉還の行われた場所としてあまりに有名ですし、歴史的にも極めて重要な城郭です。江戸時代の初めと終わりを見届けた城、と称されることもあります。

 「二条城」という名称は歴史的に複数存在し、永禄の変で焼け落ちた二条御所に引き続き、信長により築かれた二条御所は「旧二条城」とも呼ばれていますが、現在のものは徳川家康による天下普請で築かれたものになります。
 1939年に宮内省から京都市に下賜されてから一般公開されるようになり、1994年に「古都京都の文化財」として世界遺産に認定されました。

 二条城の初代天守は、大和郡山城からの移築で、二代目天守もまた伏見城からの移築(この際初代天守は淀城へ移築!)、とけっこう天守にもかかわらず使いまわしが行われているのですね。


二条城を極める
加藤 理文
サンライズ出版
2012-08T





tougouiryo at 2021年02月06日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (観音寺城)

安土城の背後、繖山全体にわたる観音寺城(52・滋賀)です。押印は安土城と同日の平成26112日です。現在、城域は観音正寺となっており、そこにスタンプが置いてあるのですが、訪問時は標識などの案内がわかりにくく、100名城認定されているにも関わらず、あまり城郭訪問者は歓迎されていない雰囲気でした。おそらく歴史的には寺院の方が古く、聖徳太子の由来にまでさかのぼるというのですから仕方ないのかもしれません。良くも悪くも歴史が物語っているのかもしれませんね。

この城郭の特異な点としては、本丸が山頂部に設けられず、下った尾根筋に築かれている点。これは先述したように観音正寺との関係によるとされ、その奥の院が山頂部を占めているため、そこを避けるようにして築城しなければならなかった事情によるとされます。こうした関係が現在にも見て取れるというのは、興味深いです。

 巨大な山城には、全域において石垣が用いられ、安土城に先立つ石垣の城として位置づけられます。またその眼下には、安土山を見下ろす位置関係にあります。

山城研究的には特異な縄張りを有する城郭とされているだけではなく、かつて経済人類学者の栗本慎一郎先生から直接伺ったのですが、その地下には巨大な抜け道や建造物があり、安土城を経て琵琶湖にまで通じているとおっしゃっておりました。地中探索レーダーなどの何らかの証拠もあるようです。
 栗本先生は栗本鐵工所にもつながる家系だそうで、そのご先祖様がこの土木工事を請け負ったそうです。
 この城と安土城との関連は、確かに一筋縄ではいかなそうですから、そうした壮大な物的連携はありえそうですね。安土城と合わせて、謎めいた城郭です。

 訪問時は雨だったので、十分な見学もできず、あまり山中を徘徊することはできませんでしたが、そんな天候の中でも傘を差した城好きが数名、鬱蒼とした木々の中をうろついておりました。加えて、観音正寺までの石段が長くとてもつらかったことが、最も記憶に残っております(笑)覚悟していってください。


幻の観音寺城 (文春文庫)
南条 範夫
文藝春秋
1986-09T





tougouiryo at 2021年01月30日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (安土城)

 誰もが知る、絢爛豪華であったであろう安土城(51・滋賀)です。押印は平成26112日受付にて行っています。唯一「天主」と表記される城と思っていたのですが、大河ドラマ『麒麟がくる』では坂本城も天主と表現されているようですね。信長グループのお偉方が使用可能だったのでしょうか()

 安土城は、普請奉行を丹羽長秀として急ピッチで築城され、築城開始から約3年で「天主」が完成し、早々に信長が岐阜城から移り住んでいます。
 鳥観図でみると一目瞭然ですが、背後に広大な観音寺城を有する観音寺山があり、一方では(当時は)琵琶湖に張り出すような形になっています。
 築城にあたっては、六角氏の観音寺城に大きく影響されたとされますが、見ようによってはアピールしやすいように琵琶湖湖畔に近づき、背後の詰めの城的な役割を観音寺城が担うようなイメージでもあります。

 後世の幾多の名城の原型でもあるこの城は、その消滅の仕方も劇的で、天主完成から3年後には本能寺の変が勃発、原因不明のまま焼失してしまいます。
 この原因については様々な憶測がありますが、どれもパッとしません。現在では織田信雄が本丸に火を放ったという説が有力らしいのですが、どうなのでしょうか。廃城ののちは、豊臣秀次により八幡山城の部材として転用されているようです。

 天主を実際に見てきたわけではないのですが、この城の最も目を引くポイントは四重・五重のド派手な建築様式です。ほかに類似する城郭がないのですから、本当?という疑問をいつも持ってしまいます。
 いくら信長が特別だからと言って全く後世に類似したものがないというのも腑に落ちません。それほど信長は特別なんだから、と言われれば仕方ないのですが。(豊臣期大坂城が一応これに似せているといわれてはいます)

 この城郭は当然、天主などは現存していないのですが、大手道をまっすぐに上がるダイナミックな縄張りは、城好きでなくても十分楽しめる歴史スポットだろうと思います。
 特に城が好きというわけでもない友人が、安土城は良かった、と連発していたので間違いないと思います。
 実際に訪問すると、本当に「見せ方」にこだわったんだろうな、ということが実感できます。








火天の城
河本準一
2019-11-29

 


tougouiryo at 2021年01月23日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go 統合医療編 (折衷と多元から「城」をみる)

 お城のブログとして、医療ブログとは一線を画して連載していますが、じつは全く無関係ではありません。ウィルバーの4象限の「ITS」の実例でもあるのは、これまで書きましたが、多元主義理解のための実例でもあるのです。

 教条、折衷、多元、統合という、複数のカテゴリーの括り方の差異について、統合医療という概念は極めてあいまいであり、それゆえに現在でもその概念の混乱がある、というのが私の主張なのですが、これの具体例として、結構、城の分類が役に立ちます。

 いわゆるお城を時代的に大きく分類すると、古代山城、中世山城、近世城郭に大別できます。少なくても100名城などの城巡りでは、これらのどこに分類されるのかを意識しながらめぐることで。ポイントを外さずに済みます。

 古代山城に関しては、大和朝廷の対外政策の関連なので、少し例外的なのですが、中世山城はまさに「折衷」から「多元」への移行、近世城郭は「多元」から「統合」への移行、を象徴しているように思います。
 応仁の乱以降の混乱期から、戦国時代へと突入、次第に吸収合併が進んでいくさまは、まさに折衷状態が、力の強さによって教条(統合)へと向かう様子そのものとも見れます。この過程がまさに中世山城的です。
 それから織田信長による安土城築城から、統合への意図がちらほらと透けて見えるようになります。それでも、各地の大名が群雄割拠した政局が続くため「多元的」状況が続き、或る意味そのまま近世江戸期に入ります。そしてこの幕藩体制そのものが、「多元的」政体とも言えます。
 このようにして見ると近世城郭を「多元」とみなすことが出来そうです。そして明治政府の樹立により近代国家が形成され、廃藩置県が断行されることで、「統合」(そしてある種の「教条」)が完成されたと見ることもできるわけです。

 これまで、多元と折衷の違いなどでは歴史的視点で解説してきたのですが、城との関連で今回は解説してみました。ご興味ある方は、直接聞いてください。もっと分かり易く説明します(笑)

 いずれにせよ、こうしたモノサシ📏の導入により城も統合医療も、混乱を少しはのぞけるのではないでしょうか。でも、こうした混乱で困っていないという方に提案しても、あまり必要性は感じないかもしれませんね…年末の学会発表での「統合医療の可視化」も、ほとんど諸先生方の反響ないままなので・・・(T_T)







tougouiryo at 2021年01月17日17:26|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (彦根城)

「ひこにゃん」で有名な彦根城(50・滋賀)は小谷城と合わせて訪問していますので、押印は平成26113日、彦根城表門券売所にてスタンプを押しています。

 この城は、関ケ原の戦いの後、井伊直政が佐和山城を破却して、新たにその近在に築城したことが始まりとされます。
 天守は国宝で、譜代筆頭の井伊家の格式に見合う華麗な三重天守です。それでも玄宮庵からの天守の姿は、最上層の華頭窓が「目」のようになり、笑っているようなキャラクターの顔にも見えるので親しみやすくもあります。
 城全体は平山城で、その山麓には大規模な御殿が復元されており、総石垣の素晴らしい近世城郭になっています。

 築城にあたっては天下普請とされますが、築城者の井伊直政が計画の二年後に亡くなるなどしたこともあり、20年の歳月を経て完成に至ります。
 この城が現存しているのは、明治維新において彦根藩が新政府側についたことや、明治天皇が巡行された折、破却されることを惜しみ保存を命じたからとされます。
 いずれにせよ井伊家の天皇家との並々ならぬ深い縁を感じさせるエピソードではあります。また、築城に貢献した直勝が安中藩に移封され(病弱のため大阪の陣に参陣出来なかったことが理由とされる)二代藩主に直孝がつくあたりの事情も、通説通りではないような雰囲気を感じます。

 非常に見どころも多く、きれいなお城です。天秤櫓など建築による防御を考えるときにとても参考になります。また、井伊直弼ゆかりの「埋木舎」は、不遇をかこった人物の若き日々が偲ばれ、ここから天守を見上げたのかななど考えると、感慨深いです(直弼がその後の運命をどこまで知っていたのかは不明ですけど)。
 ちなみに年末の「やりすぎ都市伝説」で、お龍の(龍馬の後の)夫が、彦根藩出身であるという事実は、驚きました。お龍をたどるといろいろありそうですね。詳細はしらべてみてくださいませ。





日本の城 改訂版 6号 (彦根城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-02-21



お龍と龍馬
大至(ダイシ)
エイフォース・エンタテイメント
2010-12-01


tougouiryo at 2021年01月16日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (小谷城)

 新年あけてからはしばらく「近畿編」でいきます。

 今回は小谷城(49・滋賀)です。平成26113日に訪問しました。レンタカーにてまずは小谷城戦国歴史衣資料館で押印し、その後、番所跡まで車であがりそこから歩いて登城しました。

 浅井家は、久政の代に六角氏に敗れて以来、六角氏に服属していましたが長政の代になり、六角義賢に野良田の戦いで勝利し自立を勝ち取ったとされます。その後、六角氏との関係で優位に立つべく織田に接近、これにより長政はお市の方と結婚し、浅井三姉妹をもうけました。
 しかし、織田信長が越前朝倉を攻めると、金ヶ崎の戦いにおいて織田に反旗を翻し、姉川の戦いで朝倉とともに織田と激突します。この戦いで織田は勝利するものの、本拠・小谷城までは落とせず、信長との対立が続くことになりますが、こうした最後の舞台となったのが小谷城です。

 小谷城は、浅井の居館や家臣団屋敷があったとされる清水谷から見上げると、右手に本丸、左手に山崎丸がみえ、その中央に詰めの城としての「大嶽」が位置しています。
 この大嶽は容易には落ちず、織田軍は相当苦戦しているようです。しかしその後、ここも最終的には制圧され、山崎丸、福寿丸も落ちると清水谷から総攻撃をかけ、浅井久政・長政は自刃し、落城に至るというわけです。本丸の下部には赤尾屋敷跡があり、ここで長政は自刃したと伝えられています。

 この城の特徴としては、本丸より上段に、守護の京極氏を迎え入れたとされる京極丸、さらには地域で信仰される地主神を祀る山王丸があり、地域社会の統治においての配慮がみられるのが大きな特徴とされています。浅井の人間関係の機微のようなものが垣間見えますね。城郭から地域の人間関係が透けて見える良い例とえいるでしょう。

 ここもクマ出没注意がなされていたので、熊鈴をもっての登城となりました。くれぐれも皆さんもご注意ください。







 


tougouiryo at 2021年01月09日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (江戸城)

 新年早々の第1発目は江戸城(21・東京)です。押印にはいきましたが、厳密には四谷にいるので毎日城内に入っているような感じです。

 それでも押印することで、その時、天守台を初めて見ました!
 大手門から三の丸に入り、現存する番所である同心番所、百人番所、中の門を通って、大番所と続きます。そこから本丸に上がり、大奥のあった広場を通過し、天守台へ。これまで天守が再建されることがなかった天守台(加賀前田藩)にのぼると本丸全体が見渡せ、とても気持ち良いです。
 訪問時は、かなりの外国人で、日本人の方が少ないくらいでした。たしかに自分も、その時まで、ここに来たことはなく、こんなに奥まで入れることも知りませんでした。それもこれも、城巡りをしなければ、一生来ることもなかったかもしれません。
 天守台からは汐見坂から白鳥掘を右手に見ながら、二の丸へ。二の丸庭園を通過して三の丸に戻ります。日本最大の巨大城郭、江戸城として散策してみると、感慨もひとしおです。
 最近、行ってないので、是非とも今年はコロナ禍の収束が認められたら是非とも再訪したいですね。(ちょっと現時点では全くメドが立ってませんが…)

 江戸の城の歴史としては、太田道灌築城が有名ですが、厳密には秩父氏が居館を桜田に築いたのが初めということです。この時、秩父重継は「江戸太郎」を称したそうです。その後に、扇谷上杉氏の重臣である太田道灌が、江戸氏の居館跡に、江戸城を築城。そして秀吉の小田原平定後に、徳川家康が入城するという流れになります。

 天守としては慶長度、元和度、寛永度の三度にわたって史上最大の天守が建造されました。家康は当初、秀吉政権下においては、天守を建造しませんでしたが、これは、秀吉存命中であると大坂城を超える建造物は建てられないからといわれ、蒲生氏郷が七重天守を有する中、天守無し、という状態でした。
 これはなるほど納得で、下手に建てれば大坂城より劣ったものにしなければならず、それだと格下であることを印象付けてしまうことになります。それゆえに征夷大将軍に任ぜられた7年後に天守を完成させるのです。

 しかし、こうして建てられた天守もわずか15年しか存在せず、2代秀忠により家康没後一年で取り壊されてしまいます。これは本丸御殿拡張のためといわれますが、さてそれだけなのでしょうか?(徳川期大坂城天守に家康天守は転用されたとも伝わっていますが…)

 そしてさらに、この秀忠の天守を3代家光が14年ほど壊してしまうのです!これは家康天守を壊した秀忠への意趣返しといわれていますが、きっとそうなのでしょう。祖父家康を神のように崇めていたといわれますが、単純に家康の子供なのかもしれません。
 ちなみにこれは推測でもなんでもなく、家光自身が家康の子供であると言っているのですが、教科書的には、それは尊敬の念の表れだということになっています。
 しかし、この天守の取り壊し戦争をみていると、やはり家康の孫ではなく、子供という気がしてなりません。まあいずれにせよ、家光による寛永度の天守は現在の20階建てのビルに相当するといわれております。

 ちなみに現在の天守台には、新井白石によって4代目の天守が提案されいたようなのですが、実際に建造されることはなく、天守台のまま、今日に至っています。

 とにかく江戸城は大きい。大きさとしては一般的な城郭の100倍ほどもあるわけで、現在の千代田区全体を超える大きさです。
 四ツ谷駅ひとつとっても、地下鉄丸ノ内線が、四ツ谷で一度地上に出た感じになるのは、江戸城の堀の中に駅があるからで、こうしたことも城を知らなければ、結構知られていない事実なのではないでしょうか。











tougouiryo at 2021年01月02日00:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (今年の総括と来年の抱負)

 本年から開始しました「お城へTo Go」ですが、そもそもはコロナ禍での外出自粛の中、当然お城巡りもできない中で、せめてこれまでに訪問した城郭をまとめておこうと思ったのがきっかけでした。

 盛んに訪問しているときは、行くことに集中しすぎて、写真や資料を整理できず、初めの頃は整理していたものも次第にごちゃごちゃと積読状態になっていました。写真の整理は、いまだ未着手なのですが、せめていった記憶の整理に、と始めたのがこのコラムでした。

 統合医療に関するブログですので、当然、歴史的なものはあまり関心を持って読まれる方も少ないのですが、書き手としては、これまでの思い出の整理、その当時の患者さんや臨床的な出来事、学会の思い出など、いろいろと振り返りの良いきっかけとなりました。サマリーや学会発表など振り返りの重要性をあらためて感じた次第です!

 そもそも100名城から書きはじめ、100を終了してから続100名城へと進もうかと思っていたのですが、関心のある城や早めに書いておきたい城なども出てきたので、途中から続100も書いてきたという事情です。それでも実際は、それ以外にも訪問しているので、それも書いてみたいなと考えてもいます。取りあえず、200に向けて邁進します。
 また、スタンプは未押印ながらも、続100も含めて200に及ぶ選定された城郭ですが、未訪問の城郭がほぼ20くらいと完遂が近づいてきたので、それ以降のプランを企画中です。そこで、200以降、300までを自ら選定して「300名城」としてご紹介していきたいと考えています。
 城について詳しくない人からは、そんなに城があるの?と聞かれるのですが、あります。まだまだあるのです(笑)

 これまで以上に、医学的な内容や個人的な内容を織り交ぜて、独自の城紹介をしていきたいと思いますので、来年もよろしくお願いいたします!


日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)
日本城郭協会
ワン・パブリッシング
2020-09-14








tougouiryo at 2020年12月28日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (要害山城)

 今回は躑躅が崎館の詰城、要害山城(続128・山梨)です。この城自体は3度ほど登っており、続100名城の認定に伴い、甲府駅前の藤村記念館にてあらためて押印のみしています。
 記念館の名前に藤村とあるので、トウソン(島崎藤村)絡みかと思いきや、山梨県令のフジムラさん(藤村紫朗)でした。この藤村さんが推進したのが、この記念館の洋風建築の様式で、これが藤村式建築と呼ばれているようです。

 この城は、かの武田信玄の誕生地といわれ、その麓の積翠寺には信玄の産湯を汲んだという伝説もあります。積翠寺温泉にお声掛けして駐車スペースをお借りして、上り口で登山用の杖をこれまたお借りして、ハイキング登山です。(こうしたハイキングに麓に好意で置かれている杖は不可欠ですね!)
 ゆっくり登って小一時間のちょうどよいハイキングコースといった感じで、夏はきついでしょうが、秋ぐらいだと気持ちよく登れると思います。
 下山したらそのまま温泉に浸かれるのが最大の魅力です。お風呂からは、甲府市を一望でき、開放感満点です。信玄誕生の頃からあると思うと、感慨ひとしおです。
 城郭としては、当時の雰囲気を残すとても良い山城といった感じです。山頂である主郭までは第1から第8の門までが続き、一直線の連郭式の山城で保存状態も良好です。登城途中も曲輪、枡形、堀切などの遺構も豊富で、上りながらも見どころ満点です。良い運動にもなります(笑)

 武田と今川の激戦を背景に、武田館の詰めとして用いられたことから、信虎夫人(正室大井夫人)が懐妊中に難を逃れたことから、信玄がこの地で生誕したというわけです。詰めの城で生誕とは、なんとも戦国武将らしい逸話です。さすが武田信玄ですね。
 そもそも今川正規軍ではないとされる「福島一類」による甲斐侵攻の時が、武田館の危機とされるときなので、この時が信玄の誕生と考えてよいのでしょう。
 要害山城には東方に熊城という出城があり、私は未訪問なのですが、主郭を越えて隣の峰へと奥へ進むとつながっているようで、「つわものたち」は訪れているようです。ただし、熊の爪を研いだ跡やらも見つかるようで、ちょっと私は遠慮しておきます。また近年、マダニの発生も報告されているとのことですので、十分気を付けて来訪してください。






 

tougouiryo at 2020年12月26日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (白石城)

 今回は白石城(続105・宮城)です。白石駅から徒歩10分、新幹線の白石蔵王からもタクシーで数分というアクセスのよい城郭です。これまで二度ほど訪問しております。
 現在の天守は復元天守ですが、それ以前も天守ながら一国一城令の例外的な城のため「大櫓」を名乗っていたようですが、どう見ても天守です(笑)

 そもそも平安末期に築城されていた歴史ある城郭ですが、伊達の家臣であった白石氏の居城だったものが奥羽仕置に伴い、会津若松に蒲生氏郷が入った際に、ともに蒲生に与えられました。
 その後、上杉景勝の所領となり、その家臣を城代として送り込んでいます。関ケ原の合戦の折には、上杉VS伊達による白石城の合戦が展開され、伊達が白石城を奪還、仙台城の支城として片倉小十郎景綱に与えています。その後、明治維新まで片倉氏の領有となるわけですが、これがまた例外中の例外的な扱いなわけです。

 いろいろと理由はつけられるのでしょうが、伊達家の宇和島領有のみならず、一国一城の例外として、実質的な天守を有する城郭を、家臣の片倉に認めさせているというのはどうなのでしょう。おまけに、講談的には徳川にとっては憎き敵である真田幸村につながるものまでも、その城でかくまってしまうわけです。これは、歴史ロマン派からすれば、真田と片倉による漢たちの感動秘話、となるのでしょうが、そういう解釈でいいものでしょうか。あまり私は納得できない派、ですね〜(笑)。数代後とはいえ、子息である大八につながるものが真田を復興させるわけですから、わかってやっているとしか思えません。
 上杉、伊達の境界領域というだけでなく、一国一城の例外、さらには幕末明治期には、奥羽越列藩同盟の締結の地にもなっています。きわめて重要な城郭というわけです。仙台藩にとっては南側の要となる重要な地でもあります。

 白石城の訪問の後は、仙台城を訪問することが多いのですが、巨大な仙台城の藩南方の前線防衛としてみると感慨ひとしおです。仙台城と組で考えた場合、大櫓と称した実質的天守を持つ白石城と、幕府に遠慮して天守を建設しなかったとされる巨大縄張りの仙台城の組み合わせは何とも違和感を感じますね。仙台、伊達藩に対しての依怙贔屓を感じざるをえません(笑)

 岐路に新幹線の駅で白石温麺を食べて帰りました。温麺は、そうめんと違って油を練りこんでいないそうです。それゆえに体に優しいという点がウリのようです。温麺にも関わらず、暑いので「冷やしメカブうーめん」を食べました(*^^*)
 

日本の城 22号 (白石城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-06-11



白石城死守 (講談社文庫)
山本 周五郎
講談社
2018-02-15





tougouiryo at 2020年12月19日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高島城)

 今回は諏訪湖の浮城、高島城(続130・長野)です。これまで松本への途中で2度ほど訪問しております。上諏訪駅から徒歩10分くらいで都心からのアクセスもよく、城までの道すがら、「うなぎ」の店も多くいろいろと楽しめます。(私はうなぎ「古畑」さんに寄りました)

 このあたりはそもそも国人領主である諏訪氏により治められていました。諏訪氏はそもそも出雲系といわれ原始日本の伝統的な流れであり、それゆえに神官を兼ねた家柄でもあります。武田信玄の時代には、諏訪御寮人(かつて大河では南野陽子さんが演じてました!)との間に勝頼が生れ、武田の跡継ぎとなりました。
 その後、諏訪には、徳川家康の関東入りに伴って、築城の名手とされる日根野高吉が入り、7年がかりで諏訪湖畔に高島城を築城したとされます。高吉の死後、諏訪氏は下野壬生に移り、11年ぶりに諏訪氏が復帰し、高島城に入りました。その後は、明治まで諏訪の領有は継続しています。

 この城は、罪人の幽閉場所として利用されていたようで、松平忠輝、吉良義周らが幽閉されいます。現在は、諏訪の街中にあるお城ですが、当時は天守まで諏訪湖畔が迫っており、諏訪湖に流れ込む川を巧みに縄張りに取り込んでいるさまから水城、浮城と称されていました。幽閉場所である南の丸(現城南小学校)は往時は、川と堀に四方を囲まれており、幽閉には適したところだったのでしょう。また格式のある諏訪氏だけに、こうした政治犯がらみの責任ある業務に任ぜられていたのかもしれません。

 古地図などでも浮城の様子は描かれており、諏訪湖のほとりの天守はさぞや立派な光景だったことが偲ばれます。現在は公園化されており、天守は資料館になっています。最寄りが、特急あずさの停車駅なので、松本城と合わせて訪れたい名城です。








上諏訪の女/一緒に暮らそう
天野涼
日本クラウン
2014-08-06


tougouiryo at 2020年12月12日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鶴ヶ岡城)

 今回は鶴ヶ岡城(続108・山形)です。新潟から特急いなほに乗って訪問しました。特急いなほは、羽越本線を通っていくため、村上を過ぎてから、鶴岡の2、3駅手前まで日本海沿いを走る風光明媚な路線でした。村上近くでは、有名な「笹川流れ」に代表される奇岩により形成される海岸が、そのまま山形県まで続きます。トンネルとトンネルの間に、つかの間、こうした景色が見え、「旅情」あふれる、といった感じでした。

 時折、上杉の領国としての越後の広大さの理由を考えるのですが、こうやって実際に行くと納得の理由があるものです。春日山城から西へ向かうと。こちらも「親知らず子知らず」に代表される断崖絶壁により富山県と隔てられているのがわかります。そして春日山城から広大な水田地帯に隔てられ遠く離れ、上杉の支配に対して独立的反抗的であったとされる「阿賀北衆」の領土もまた、最上の本拠である山形と前述した自然の要害で隔てられているわけです。実際の歴史は、地政学的にみても納得です。

 鶴岡駅で「冷やしラーメン」を食べてから、鶴ヶ岡城(鶴岡公園)へ。現在の本丸は荘内神社となっていて、御祭神は、酒井忠次をはじめ酒井家二代、三代、九代が祀られています。元来、この地は最上と上杉の勢力がせめぎ合っており、大宝寺城として築城されたこの城も、上杉から最上の支配へと変わっていきます。
 しかし、江戸時代に入って最上三代の時のお家騒動により改易され、酒井家が信濃松代藩から(!)入り、そのまま明治へとつながります。この間、酒井家の国替えが画策されたときに、領民の反対運動により、酒井家の領有が続行されたことは「善政」であったためといわれますが、上杉と最上に挟まれた歴史をみると、やっと得られた「安定」と継続したかったという面も強かったように思われます。
 
 ここ庄内藩は、幕末においてはかなり特異な扱いを受けることになり、歴史的にはかなり穿った見方をすることも可能です。東北諸藩の中では例外的に、官軍である西郷隆盛を敬愛する土地柄で、元藩士がはるばる西南戦争に西郷軍として参加までしています。「西郷の人柄を慕って」というのが定番の解釈なのですが、それにしても戊辰戦争で徹底抗戦までしたにも関わらず、何故、寛大な戦後の処置を受けることができたのでしょうか。黒田清隆、西郷隆盛の漢の心意気みたいな説明は個人的には全く納得しておりません。明らかな依怙贔屓を感じざるを得ません。大本営の移動も画策された「松代」からの初代忠次の移封にも、何か関連しているのではないでしょうか。

 訪問した日が休館日だったため、致道館、藤沢周平記念館は見学することが出来ませんでしたが、かろうじて旧三の丸にある致道博物館は開いていたので見学できました。かなり見どころ満点の博物館で、入り口を入ると青い立派な旧鶴岡警察署庁舎、その横には藩主御隠殿、美術展覧会場、多層民家、奥には酒井氏庭園、振り返ると旧役所も立派な建造物で、こちらには戊辰戦争関連資料があります。城郭自体があっさりしていたので、次の予定までに時間を持て余していたのですが、たっぷり楽しむことができました。充実の博物館です!

 駅までの帰り道、「千葉寿司」さんで日本海の海の幸を堪能し、サクランボ(紅秀峰)を買って帰りました。紅秀峰、美味しかったです。




新装版 蝉しぐれ (上) (文春文庫)
周平, 藤沢
文藝春秋
2017-01-06



 

tougouiryo at 2020年12月05日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高岡城)

 今回は高岡城(33・富山)です。押印は平成23年10月23日で、一乗谷、丸岡と北陸周遊の一環で訪問しました。鍛冶丸跡にある高岡市立博物館にスタンプ設置されています。城郭全体が、公園で、知り合いがここ高岡にいるのですが「高岡には城はないよ」というくらい、地元民には城として認知されいないようです(笑)

 現在は、広大な水堀に囲まれた立派な公園で、そもそもは天然の地形を全く利用していない全国的に珍しい「人工的な城」ということです。要するに平たいところに全く白紙の状態から縄張りを張ったということです。それゆえに本丸、二の丸、鍛冶丸、明丸、民部丸とひとつらなりの輪郭式で、極めて幾何学的な印象です。そもそもは高山右近の縄張りという印象でしたが、これは通説ではあるのですが、どうも現在では直接的な資料が見当たらず、疑問視されているようです。(ただし右近の経歴に加え、妙に重要な前田絡みであること、近隣の意味深な地名などいろいろ邪推すると、本当は何かあるのかもしれませんね)
 かわりに前田利長の采配の示す資料はあるようで、歴史的経緯からもこちらが自然なように思います。では、どうして高山右近?という疑問が残るのですが、天正16年に前田利家に加賀に招かれているという記録があるようです。

 いずれにせよ、前田利長の隠居城として築かれた富山城が火災で焼失したのち、魚津城を経て、ここ高岡築城に至るようです。しかし、その完成をみることなく死亡してしまい、元和の一国一城令により廃城、わずか5年の歴史とされます(異説あり)。それゆえ巨大な水堀は往時のままで残っており、水堀巡りの小舟もあり、楽しめました。

 ただこの時は訪問時に、突然の雨に降られてしまい、傘がなくなんとか博物館に逃げ込んだもののずいぶんとびしょぬれになったのを覚えています。訪問後は、有名な高岡大仏を見て帰りました。






新装版 高山右近 (講談社文庫)
加賀 乙彦
講談社
2016-06-15



tougouiryo at 2020年11月28日05:00|この記事のURLComments(0)

廃城をゆく 街中の名城

 お城へ To Go の番外編として、書籍の紹介です。先日出版社の方から、ある方を通して、新刊本をいただきました。大好きな廃城を行くの最新版、なんと廃城ならぬ『街中の名城』です。

 県庁や学校、自衛隊の基地などいろいろと転用されることも多い城ですが、むしろそうした側面を、強調して売り出した、というスゴイ企画本です。

 江戸城巡りとしても結構使いやすそうですし、その他にも公園化してしまった城を巡るには重宝しそうです。
 とりわけ、群馬大学出身ということもあり、前橋城は興味深かったです。これまであらためて関心を持つということもなかったのですが、現在の地図との相関が載っているので、多くの発見がありました! 特に、遊園地初心者の聖地(笑)といわれる「ルナパーク」はなるほど暗いところにある遊園地だなという印象だったのですが、やはり堀底にあったということをしり、勉強になりました。

 山城の楽しみ方とは一味違う、ブラタモリ的な街の楽しみ方が出来るおすすめの一冊です。





tougouiryo at 2020年11月23日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鮫ヶ尾城)

 前回の高田城に続き、近隣の鮫ヶ尾城(続133・新潟)です。同日の訪問ですので、押印は2020年6月21日でした。斐太歴史の里総合案内所で押印しました(冬季は神の宮温泉かわら亭に置かれるようです)。

 上杉景虎は御館の乱の結果、館を逃れ生家の北条家へと向かう途中に、立ち寄ったこの城で城主の寝返りもあり、完全に包囲され最期を迎えます。最期の地とされる本丸には、大手と考えられる南登城通と、歴史の里から斐太遺跡を経由する東登城通があります。案内所の方に、東を案内してもらったので、ヘラブナ釣りの人を見ながら、池と遺跡を廻って東から登城しました。
 ちなみにここの遺跡は、竪穴遺跡が密集して現在でもくぼみとして確認できるようです。また空堀の原型とされる「環濠」も総延長900mにもわたって存在し、かつての巨大な住居群が偲ばれます。

 城郭としては、上るとともに多くの堀切が、竪堀とつながった形で確認できます。かなり深くまで掘り下げたものでとても豪快です。山城を見慣れた方にはお薦めです。当時の姿をかなりそのまま維持しているようで、いまでも米蔵跡では炭化したコメが見つけられるようです。ちなみに、そのように説明板に書いてあったのですが、まさかと思って面倒なので探さなかったのですが、丁寧に探せばいまでも見つかるみたいです。帰ってから解説書にそう書いてあり、少し後悔しております…

 新潟には坂戸城をはじめ、ほかにも選定されて良い城があるのですが、何故ここなのかという点少し疑問が残ります。森林セラピーの認定コースのようですので、道も整備され上り易く体にはいいと思うのですが(笑)、ちょっとタイアップ感がないわけでもありませんでした。
 下城後は、冬季の押印所でもある「かわら亭」に宿泊しました。食事時に係りの方に聞いてみると、かなり城巡りの方がここを訪れるようで、昨日は、2巡目ですという初老のご夫婦もいたようです。「続」100名城なのに、すでに2巡目とはかなりの「つわもの」です(笑)

 ここのお風呂はかなり特徴的で、一軒だけの温泉なのに、二種類の温泉が出ており、これがいわゆるアルカリの美人の湯系統と、温め効果の塩化物泉の系統の、かなり異なったものがでています。この組み合わせであれば、夏と冬で順番を変えて入り分けることで、保温についても効果を分けることが出来るのですごいです。たしかに全国的にも珍しいと思います。詳細は確かめたわけではないのですが、源泉の分析時期が10年くらい違うので、宿の規模拡大を考えて再掘削したら別種の源泉にあたった、というところではないのでしょうか。かってにそう予想しました。

 すごいなと思い、入りすぎたので、早めにぐったりしてしまいさっさと熟睡してしまいました。山城と温泉の最高の組み合わせでした!新幹線の妙高高原駅からのアクセスもいいのでおススメです!





森林セラピー 養成・検定テキスト
香川 隆英 
朝日新聞出版
2009-02-27



tougouiryo at 2020年11月21日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高田城)

 これまでは100名城のみをご紹介してきましたが、これからいくつかは続100名城も入れていきたいと思います。基本的には100名城をすべて書いた後、と考えていたのですが、書いている最中に訪問したお城に関しては、その都度、書いてみたいと思います。

 ということで、今回は高田城(続132・新潟)です。押印は2020年6月21日で、コロナ自粛明け初めての遠出で非常事態解除後、不要不急は遠慮する中ですが、墓参りがこの日程しか取れないなかでの自家用車での訪問となりました。スタンプは上越市立歴史博物館(城内にあります)で、三重櫓と共通の観覧券があります。

 古くからの越後支配の中心地である上越の地にある、三重櫓を天守の代用とする天下普請の城郭。上杉謙信による春日山城から、福島城(現・古城小学校)を経て、松平忠輝により築城されました。天下普請なので、伊達政宗を始め、上杉景勝などそうそうたるメンバーによる築城で、築城期間は4か月というスピード、かの地の支配の重要性を感じます(大阪の陣を控えた緊張状態)。
 ちなみに春日山城、福島城、高田城は全て、いわば近隣なので車でまわれば一気に回れます。とくに福島城は、全く残っていないので(石垣の一部のみ)、小学校構内の説明板を読みながら妄想するだけなので、時間はかかりません。ただし当時の福島城はかなり大規模な城だったにも関わらず、短期間に高田城へと移ってしまうのですが、その理由は謎とされています(水害などによる理由が挙げられますが、立地上十分予想できたでしょうからやはり詳細は不明です)。

 訪問しての印象は、土塁を多用した城で、特に天守台用の三重櫓が石垣にのっていないところでしょうか。土塁の上に直接そびえたちます。内部は公園と学校(本丸は上越教育大学付属中学校、二の丸は上越総合技術高校)の敷地となっていますが、全体としては地方都市の憩いの公園といった感じ。特に外堀の蓮はすごいらしく(訪問時は未開花)、開花時期には東洋一と称される蓮の花で満たされるようです。広大な水堀に囲まれ、瓢箪曲輪をもつ変則的な輪郭式縄張りで、広大な寺町と合わせてかなり強い防衛力を持つ城といえるでしょう。

 古来から越後の重要拠点であるため、変革期には3つの城の変遷があるわけですが、色々なお家の事情も多かったようで、松平忠輝は23歳の時、この城を築城した後、信濃高島城へ配流。これにより上州高崎から移った酒井家の領地なります。
 家康の六男であり、伊達政宗の娘婿にもかかわらず大坂の陣への遅参などを理由に所領の没収ですから、何があったのでしょうかね。親子の葛藤だけで説明しようとするのも無理があると思います。とりわけ遅参といえば、全て本気だったと仮定すれば、二代将軍秀忠による関が原遅参の方が、はるかに重大なことのように思うのですが。

 その後の目まぐるしい藩主交代をみると、佐渡金山の利権と合わせたこの地の重要性が透けて見えてくるのではないでしょうか。









tougouiryo at 2020年11月14日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (会津若松城)

 今回は会津若松城(12・福島)です。押印は平成22年8月21日でしたので、ここも東日本大震災前に押印したことになります。その後一度、訪問し現在は、赤瓦の五重天守という印象ですが、かつては普通の黒瓦で、史実に基づいた「赤」にこれから変えるということで、平成22年の時、赤瓦一枚、裏に名前を書いて寄付してきました。

 元は92万石の蒲生氏郷により、壮大な七重天守が建造されたのがはじまりです。それが1611年の大地震にて傾いてしまい、時の城主、加藤明成により五重に縮小して再建されたものが、会津戦争まで継続された天守となります。現在は1965年復元の天守で、2011年に黒瓦から赤瓦に葺きかえられました。





 歴史的には極めて重要な城で、ご当地では会津戦争ネタが一押しという感じでしょうか。それでも戦国の歴史もはなばなしく、頼朝による東北支配の後、蘆名によって居館(東黒川館)が立てられたことが起源となり、蘆名による領有が続きます。
 その後、米沢の伊達政宗により蘆名義広が「摺上原の戦い」で敗北、政宗が黒川城にはいります。しかしそれもわずか一年で、豊臣秀吉の奥羽仕置により、会津を追われ、かわりに伊勢から蒲生氏郷が入城します。この時、氏郷は出身である近江にちなんで黒川を「若松」に改名します(出身地に近い「若松の杜」に由来するといわれます)。
 その後、氏郷が40歳という若さで亡くなると、続く秀行の代でお家騒動が勃発、宇都宮へ移され、かわりに春日山城から上杉景勝が入ります。ここでまた大イベント発生で、関が原合戦の契機となります。歴史小説的には、石田三成と上杉景勝の共謀による家康の東北への陽動作戦ということになるのですが、実際はどうだったのか?というところでしょう。
 いずれにせよ、この家康への叛旗により関ケ原合戦へと展開していくわけです。しかし敗戦により、上杉は米沢へ移封、再度、蒲生秀行が会津に入るものの、これまた30歳で若死(さらにその子の忠郷も25歳で夭折!短命の家系なのか、呪われているのか…)。次には、「賤ヶ岳の七本槍」加藤嘉明が入城、その子明成が、五重に改築した天守が幕末まで続くのは既に書きました。その明成も会津騒動により所領没収、そして名君、保科正之が入城します。秀忠の隠し子、いよいよ「お江」の目を逃れて世に出ます。ここから幕末のイベントの伏線が開始です。かの名著『風雲児たち』もここから始まります(というかこんなところから始めるから終わらない・笑)

風雲児たち全20巻 完結セット (SPコミックス)
みなもと 太郎
リイド社
2010-11-01



 というように歴史の流れを追うだけでも東北のオールスター登場、からの関が原、そしてそれを引きずって幕末に至っては新政府の敵役、とものがたりに事欠かないお城なのです。そのために北海道・東北ブロックとしては一番最後になってしまいました。




 実際に訪れると、会津観光史観との批判もありますが、二本松少年隊と並ぶ「白虎隊」の悲劇の場でもあり、考えさせられる史跡がたくさんあります。単なる悲劇の場としてだけでなく、おそらく当時も一部の者は実情を知っていたにもかかわらず、末端の若者や婦女子は知らされることなく大義の名のもとに命を落としていたわけです。またこの地は、前述したように伊達、蒲生、加藤、上杉、保科と政治的にもいろいろとありそうな人達が濃厚に関連しています。東北の要衝だから、といった理由だけではないように感じるのは私だけでしょうか。また是非再訪したいお城です。


日本の城 改訂版 5号 (会津若松城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-02-14




 

tougouiryo at 2020年11月07日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (仙台城)

 今回は仙台城(8・宮城)です。押印は多賀城同様、平成22年6月27日です。仙台は学会などの開催が多いので、ちょいちょい訪問していたお城ですが、この時も震災前でしたので城内の石垣崩落前に見学することができました。ちなみに当時は(今でも?)本丸跡に、実際の石垣を用いた石垣の組み方のモデルが、年代別に展示してあり、とても勉強になりました。

 仙台市街からぐっと高台に上がるので、とても気持ちよい眺望の城郭です。もう20年以上前になりますが、今ほど城ブームでもなく、また本丸跡が政宗公の銅像付近も含め整備中で壁の仕切りなどもあった頃ですが、二度ほど仙台から出航する「オリエントビーナス」というクルーズ船に乗ったことがあります。その乗船前に、仙台に到着したので、コンビニでおにぎりなどを買い、仙台城からの眺望を楽しみながら食べました。
 ちなみにクルージングを楽しむためでなく、当時ほぼフリーランス状態でしたので船医として乗船していました。1回目はクリスマスクルージングで、2回目はグアムへの青少年の船への乗り込みでした。いま思うとまだ医師4年目なのですが、それゆえに怖いもの知らずだったのでしょうね、そんな思い出のある城です。

 仙台城への登城ルートは2つあり、車で行くと真っ直ぐに上がる「大手門ルート」と、三の丸を巡って山道を曲がりくねって上る「巽門ルート」となります。
 行きは真っ直ぐ大手門ルートから上がり、帰りは巽門ルートで降りるのがおススメです。途中に立派な石垣をたくさん見ることが出来、石垣好きにはたまらないお城です。

 そもそも築城者の独眼竜政宗は、岩出山城を居城としていたのですが、伊達領としては西側に偏った最上領に近い立地だったこともあり、不満があったといわれています。その後、関が原合戦ののちにようやく仙台城の築城にかかることになります。
 この城の特徴は、天守は元からないのですが、広大な城域に三重の隅櫓が4基もあり、加えて懸造(かけづくり)の「眺エイ閣」がありました。
 懸造というのは、崖からせり出した建物を床下から長い柱で支える「清水の舞台」の構造です。当然、見てくれが優雅なことに加え、城下を一望でき、防御としても「横矢」をかけられるという優れものです。復元模型でみるとそのすごさが伝わります。下手な天守よりインパクトあり、といった感じだったでしょうね。

 現在は、二の丸は青葉山公園と東北大学があり、三の丸には仙台市博物館となっており、その広大な縄張りを堪能することができます。最近、仙台を通過することが多いのですが、また久しぶりに尋ねてみたいですね。城の初心者にもおすすめの見やすい城郭です。


日本の城 改訂版 131号 (仙台城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-07-16







tougouiryo at 2020年10月31日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (多賀城)

 今回は多賀城(7・宮城)です。押印は平成22年6月27日です。訪問時は東日本大震災の前年ですので、無傷の状態での見学でした。来訪時は、仙台から仙石線で、多賀城へと行き、塩釜で寿司(「しらはた」にて)を食べて帰りました。

 多賀城は東北最大の大和朝廷の拠点といわれ、まさに中央支配の象徴とも言える施設です。国府と鎮守府が置かれ、いわば軍事拠点兼行政府といった極めて重要な場だったわけです。蝦夷など東日本の朝廷支配に従わない勢力を、抑えるための最前線基地で、当時の状況が偲ばれます。
 おそらくはそれよりはるか前には東日本で独立した国家体制があったようですから、そうした勢力の衰退期に、奥へ奥へと調停勢力が版図を広げた結果なのでしょう。以後、坂上田村麻呂により胆沢城が築城され、軍事機能はそちらへ移動されていましたが、前九年・後三年の役においては再度、軍事拠点として利用されていたようです。
 その後、建武新政においては陸奥将軍府がおかれるなどしていたが、南北朝の動乱により落城したようです。いずれにせよかなりの長期間、現役の機能を維持した軍事施設であったようです。
 現在は、当然、政庁跡や外郭の跡などしかないので、のんびりとした、だだっぴろい史跡といった感じです(笑)

 秋田城もそうですが、かなり東北奥部まで当時の大和朝廷の影響が及んでいる様は、戦闘力によるものなのか、政治力なのか分かりませんが圧倒的な差がついていたことがうかがわれます。
 当然、東西で並び立っていた時代もあったでしょうが、どこからかこうした差がついたのでしょうね。鎌倉幕府の西国への影響の強さをみると、それほど東国側が軍事的に劣っていたような気もしないのですが。また蘇我氏も東日本出身説もありますから、かなり早いうちに中央と合体、もしくはその上層を押さえていたりしたのかもしれませんね。

 古代史関係は、前提となる歴史的知識をかなり大胆に外して予想するという大技ができるので、いろいろと楽しい妄想が出来ますね。









多賀城しぐれ
門脇陸男
日本クラウン
1995-01-21




tougouiryo at 2020年10月24日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (根室半島チャシ跡群)

 今回は100名城のラスボスと称される根室半島チャシ跡群(1・北海道)です。具体的にはオンネモトチャシとその周辺をまわりました。押印は平成21年8月28日、根室市歴史と自然の資料館にスタンプがありました。

 このチャシ群は、根室半島の突端にあり、極めて交通アクセスが悪いので、100名城初心者には開始時にはちょっとしたプレッシャーにも感じる「名城」でもあります。そのため、押印は何とか休暇をやりくりして来訪する人が多いのか、資料館が休館だったりするとちょっとしたトラブルになることも多かったようで、当時、資料館の方が恐怖を感じていたようなコメントが印象的でした。
 現在では近隣の駅などでも押印できるみたいなので、状況は改善されたようなのですが。まあ、わざわざ日本の突端近くまできて、押印できないといわれる気持ちも十分察せられるのですがね。現在はネットなどの情報が充実しているので、こうしたトラブルもずいぶんと減ってきていることでしょう。ちなみに続100名城のラスボスといわれているのが「福江城」です・・・と福江城の観光協会の方が自ら言っておりました(笑)

 チャシには、丘先式・面崖式・丘頂式・孤島式・平地式の5つの基本形があるといわれ、オンネモトチャシは面崖式とされています。
 チャシについてはとりわけ東蝦夷地に多く分布することから、日高アイヌ首長のシャクシャインにより築かれたものが多いとされますが、その用途も含めていまだ不明なことも多いようです。ただし、5つの基本形をみると、城の原型として多くの城郭にもあてはまるものが多く、城というものの「おもかげ」を知ることが出来ます。進化による生命の形態の変化も同様ですが、この「おもかげ」をみることでいろいろなことが知れるように思います。ただし、チャシはそれほど古いわけではなく、16〜18世紀にかけて多く出現したもので、和人よりの「渡党(わたりとう)」による「道南十二館」などの拠点に対抗して作られていったようです。

 訪問時は、小雨ふる中で、押印した資料館でチャシへの行き方、駐車場所などを案内図をいただき、車で向かいました。駐車場にあたるところ(わかりにくい)についても、ただの草原で、当然誰もいず、チャシ跡の碑だけがその場所であることを示していただけでした。
 現在は、駐車スペースを含め、当時よりはかなり整備されているようです。そこからは花咲ガニで有名な花咲を経由して(一山越えて)根室に行き、名物「さんま鮨」をたべました。そこで根室のサンマは背中が曲がってしっぽを持つとピンと立つ、ということを教わりました。
 ただ有名な土地のわりに、やはりというべきか、夜は店もほとんどなくとても寂しい印象でした。旅情としての味があるといえば、味があるのですが。帰路は釧路湿原を見てから帰りました。

アイヌ伝承と砦 〔北方新書7〕 (北方新書 (007))
宇田川 洋
北海道出版企画センター
2005-12-15








tougouiryo at 2020年10月17日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (五稜郭)

 今回は五稜郭(2・北海道)です。押印は平成21年5月1日でした。当時は箱館奉行所の復元がされていなかったので(平成22年7月復元公開)、内部はとくに見どころなし、といった状態でしたが、昨年訪問した際、奉行所を見ることが出来、やっと当時を偲べる施設になった感じですね。

 押印時は、ちょうど桜の満開時期でとてもきれいだった記憶があります。ここが満開でしたので、この後の花見ツアーは松前、弘前、角館とほとんど桜が散っておりました。
 最後の和式城郭松前城と対照的に、こちらは欧州の城塞都市に用いられた稜堡式城郭です。同様の星形五角形は、佐久の龍岡城とここだけですが、龍岡城は極めて小さく堀も頑張れば飛び越せそうなくらい(おまけに内部は小学校!)の規模なので比較になりません。また龍岡城は歩いても五角形を感じることができますが、五稜郭はやはりタワーに上らないとその全貌を理解できません。

 ちなみにタワーから見ると、大手口の半月堡がとてもきれいで特徴的なのですが、防御としてもこの部分位がまともな気がします。他の4隅はとても弱そう。他のところもこの半月堡を築けば、横矢もかかるし、強さも出るような気がしていたのですが、その通りらしく、当初は5基すべてに作られる予定だったようです。ただ、やはりというべきが予算が足らず、一基のみということになったようです。

 また欧州では郭内に高い建造物は建てないようなのですが、日本式の軍事施設と居住施設が同居するという形式をとったため奉行所を内部におき、挙句に屋根の上に立派な太鼓櫓をあげてしまったために、艦砲射撃の格好の標的になってしまいました。気づいて慌てて櫓を取り壊すも、すでに射撃角度が知れていたため時すでに遅し、という落ちがついています(艦砲射撃ではこの角度の設定が決定的なのです)。
 加えて五稜郭には、その防御力を補てんするために出城的に、近隣に突貫工事で「四稜郭」が築かれますが、これも数時間で陥落しており、五稜郭の防御力の低さは榎本軍も自覚していたのでしょう。また石垣の構造としては忍返の一形態といわれる跳出石垣が有名で、これは和式城郭では「人吉城」のみに使われているもので、石垣好きには必見ポイントです(龍岡城にもちょろっとあります)。

 奉行所復元後に昨年行って感じたのは、その復元の立派さです。それでも三分の一ほどの復元ということですが、外見の威厳、立派な広間の数々、この3倍もあったかと思うと当時の規模の大きさが偲ばれます。2月の雪降る中の見学でしたので、足が冷え切って寒かったのですが、とても印象的でした。ちなみにその後寒かったので、五稜郭タワー内の五島軒のカレーを食べたのですが、土産に買ったガラムマサラが最高で、後日、再度追加購入したほどでした(笑)

 函館でレンタカーを借りて江差方面に足を延ばすと、かつての蝦夷支配の拠点「勝山館」や榎本脱走艦隊最大の「開陽丸」の復元が見られます。ロータリークラブによる開陽の復元は、これが座礁せずに箱館戦争に参戦していたらどうなっていただろうかと思いを巡らせてしまいます。でも土方ですらおそらく仲間うちで撃たれたのでしょうから、結果は見えていたんでしょうけどね。

 ちなみに荻窪の塩ラーメン「五稜郭」美味しいです!









tougouiryo at 2020年10月10日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松前城)

 今回は松前城(3・北海道)です。押印は平成21年5月2日、弘前城の前日で、五稜郭からJRバスの乗り継ぎで訪問しました。松前漬けで有名ですが、訪問時は、それほど活況とはいえず、街全体は静かな感じでした。

 最後の和式城郭といわれる松前城は、従来あった福山館を拡張する形で、幕末の沿岸警護を目的として、長沼流の市川一学の縄張りにより築城されました。
 天守は御三階櫓と称されておりましたが、天守台は低く、これは海上からの標的になりにくいように低く抑えられたとされています。また本丸御門も櫓部分がなく低い構造になってなっており、こちらも見栄え重視のためとされています。

 こうした事情を見ると、築城時の状況をしらないと「なんだこれ」ということになってしまうでしょう。現に、海に面した側は何重にも防衛され、いかついのに、裏からまわると「あれ?」といった具合に防御があまい構造です。寺町から簡単に城内へと入れてしまいます。
 当時の絵図でも明らかに後方は手薄です。こうした構造は当然、攻城方にも見透かされるわけで、五稜郭から出撃した土方歳三にわずか1日で落とされています。

 土方は近隣の砲台等を、軍艦「回天」「蟠龍」により海上から援護射撃させ、その間に城内へと侵入をはかりました。文字だけで読むと大変そうですが、実際に防御の低さを見ると納得です。まさに海への警戒しかしていなかった、というのがみてとれます。この城は、最後の和式城郭であることから、城郭建築の到達点とも称されていますが、実際の構造の甘さが、安土桃山の城郭と比較するとけた外れに違う印象をもちます。まさに太平の江戸時代を経て、軍学が形骸化していったかを知る手がかりです。

 これは幕末期の他の城郭にも共通する感じです。実戦の空気のようなものがないと、あきらかにどの分野でも形骸化は進みます。いろいろなしきたりや利権が渦巻くことで身動きが取れなくなる、ということも多いのではないでしょうか。(それでも内部では真剣にやっているという感じがしてしまうものなんでしょうね)

 医学においても、乱世において成立した傷寒論に比べ、安定期の医学書は理論を振り回す傾向が強く、それでいて効果は前者に比べぼやける傾向です。議論や理論が先行し、現実を見つめるプラグマティックな視点が不足している感じがします。
 机上の空論による弊害を城によっても考えさせられる例でした。


日本の城 50号 (松前城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-12-24






tougouiryo at 2020年10月03日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (弘前城)

 今回は弘前城(4.青森)です。押印は平成21年5月3日で、城巡りを始めて日が浅かったので、当時は城巡りツアーみたいのが確か無かったので、花見ツアー(どこかで桜の開花が見られる!)というツアーに参加して押印しました。その後、弘前で2月に定期的に、統合医療を考える若手の合宿をやっていたので、雪の弘前城は何度か訪れています。有名な雪灯籠祭りなんかも行きました。
 城好きには桜の季節は面倒なので、それ以外が静かに城郭を堪能できると思います。移動していた三重櫓も元の位置に戻ったようですし、是非また再訪したいお城です。

 弘前城は、弘前藩初代津軽為信が計画し、続く二代目信枚が完成させたといわれます。青森における津軽と八戸の確執の話を根城のところで書きましたが、この遠因が、津軽為信にあり、津軽(大浦)氏もともとは南部氏であったとする見方があります。
 それが三戸南部の混乱に乗じて力を持つようになり、ついには津軽地方を統一し、弘前藩を立藩するに至ります。元の主筋と隣接しているわけですから、主筋の南部としてもそれは仲良くというわけにはいかないでしょう。
 そうとはいえ、弘前では津軽為信は英雄です。風水の思想を入れて、高岡という地を選定して築城し、今日の弘前城となります。弘前公園として、非常に大きく現存の建造物も多く、本当に立派な城郭です。追手門から入り、亀甲門まで見て歩くとかなりの満足度です。遠景の岩木山も素晴らしいです。

 ちなみに弘前人自慢の「さくら」ですが、もとから咲いていたわけではなく、明治になって荒廃した弘前城を旧藩士菊池楯衛が、ソメイヨシノ1000本植栽したのが始まりとされます。
 しかし、お城にさくらを植えるということは、当時の士族の強い反対にあい、ほとんどの苗木が抜かれたりと大変だったようです。その後大正期あたりから「観桜会」などが開催され、現在の素晴らしい「さくら」になっていくようです。
 この桜を育てる技術は、リンゴ栽培の高い技術が関係しているということで、確かに両方ともバラ科ですから、ノウハウがたくさん蓄積されているのでしょうね。

 弘前を訪れると、地元の先生ご推薦の「煮干しラーメン」のお店に連れて行ってもらっておりました。また青森まで戻り、足を延ばすと、浅虫温泉もあり、とてもいいところです。青森駅近くの「アウガ」に市場があり、いつもそこで刺身や海鮮丼を食べていたのですが、現在、あるのでしょうか、また行って確認したいです…


弘前城 (PHPムック)
西ヶ谷 恭弘
PHP研究所
2010-03-26







tougouiryo at 2020年09月26日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (根城)

 今回は陸奥における南朝の拠点、根城(5・青森)です。押印は盛岡城の訪問後、平成23年2月11日です。この一か月後の震災により、この根城は地割れにみまわれてしまうので、地割れ前に訪問することが出来ました。
 当時は雪降る中の訪問で、この後、八戸城跡にも立ち寄りました。現在は地割れは復旧されているようです。現在は馬淵川にそった丘にあるような形ですが、かつては、両側を沢に囲まれ、各曲輪も堀切で仕切られていたようです。1994年に復元が完成したばかりで、とてもよく整備されていました。

 築城の歴史は古く、鎌倉幕府滅亡の翌年1334年建武元年、南部師行によります。南部氏はそもそも甲斐源氏の出で、甲斐の巨摩郡南部牧を領したことから南部といったようで、この師行が北畠顕家に同行して最初に陸奥へと赴いたようです。ちなみに九州諸城の城主が静岡由来が多いのに対し、こちらは山梨です。こうして中央の権威が地方へと拡散していく様子がみてとれます。

 南朝方の根本となる城という願いで名づけられたものの、師行が北畠顕家ともども高師直に敗戦、戦死すると、弟の政長が家督を継ぎ、その後、政光の代には甲斐の所領を離れてこの根城に移ってきています。
 ここから八戸南部が成立し、八戸氏、七戸氏となったのですが、後に秀吉に近づいた三戸南部によりその支配下に組み込まれてしまいました。さすが時の権力者にすり寄ったものがちですね。
 ちなみに、ここ八戸は青森県なのですが、こうした歴史から見ると明らかに、盛岡のある岩手県と密接な関連があることがうかがわれます。本来なら岩手県となっていても良いような土地柄です。新幹線に乗っても八戸から新青森は山深いためほとんどがトンネルで真っ暗です。つまり津軽と八戸は本来別とも言える地域で、さらには津軽氏との確執も加わり、現在でも、そうした感情は地域の方には根強いようです。
 私の行きつけのすし屋の大将は、この根城近くの方なのですが、津軽への八戸の複雑な思いをお聞きしたことがあります。明治維新後の廃藩置県に伴っていろいろな事情があったのでしょう。こうしたご当地の事情も、実際に廻ってみて初めて知ることばかりです。ちなみにこの時に行った八戸駅の居酒屋は、再訪時には再開発されてなくなっており、昨年八戸に行った時には、駅前のビルで海藻ラーメンとヒラメ丼を食べました。

八戸根城と南部家文書
根城史跡保存会
国書刊行会
1989-05T





いちご煮 415g
味の加久の屋


tougouiryo at 2020年09月19日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (人吉城)

 2020年7月の人吉を含む熊本県南を中心とした豪雨により被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。以前の姿にむけた一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。(本ブログは同年5月に記載しております)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回は人吉城(93・熊本)です。鹿児島での学会の帰りに足を延ばしての訪問で、押印は平成25年6月2日で、スタンプは人吉城歴史館にありました。熊本といってもかなり鹿児島よりで、ひっそりとした水のきれいな小京都といった佇まいの街でした。

 西南戦争では、薩摩軍がここを拠点に政府軍と戦っていますが、敗退。近隣には西郷隆盛が本陣を設けた永国寺があります。このお寺は通称「幽霊寺」で、幽霊の掛け軸が有名なお寺で、なかなかに気味の悪い幽霊画を見ることが出来ます。
 球磨焼酎で有名な地だけに、焼酎蔵もあり、城郭の敷地内に駐車して、散策するのに最適の街でした。球磨川をわたり人吉市街でうなぎ(うな志げ)を食べ、国宝の青井阿蘇神社(司馬遼太郎絶賛ということです)をみて、幽霊寺により、市役所を過ぎたところで、元湯温泉という銭湯に入りました。とてもゆったりとした時間が流れる、いつまでも居たくなる城下町でした。

 球磨川ごしの長塀の写真が有名で、城内に入ると、はね出しのある石垣が見どころとされます。これは、幕末導入された工法で、五稜郭やお台場などでは普通にみれますが、旧来の城郭に採用された例としてはこの城が唯一といわれています。
 歴史館として「相良清兵衛屋敷」が建てられ、非常に見学もしやすかったです。城郭としては河川に近いところがいわゆる近世城郭で、中世城郭はその奥に平山城として広がっており、かなりの敷地があります。中世人吉城を領した相良氏はそもそも源頼朝の命により、静岡県牧ノ原市相良から地頭として着任したといわれ、現在も姉妹市の関係があるようです。
 この相良氏に限らず、こうした地頭の派遣が遠方における領主の起源となっていることは九州では珍しくなく、他にも姉妹関係を結ぶ市が多くあり、その関連の強さがうかがわれます。

 どうしてそうしたことになったのかということを考えると少し面白いのですが、古代史を見ると神武東征に代表されるように西から東へと影響力が及んでいくのがふつうです。
 それが、鎌倉幕府の成立により、東国から西国へと部下が派遣されるわけです。つまり北方騎馬民族の流れを受けた政権が、それまでの大陸由来の勢力を圧倒していくという構図です。それが戦国期にまで続くわけですから、戦闘能力も統治能力もともに従来勢力をしのいでいたということになるでしょう。

 こうしたと東西勢力のうねりのようなものも、城巡りでは感じることができるのが醍醐味ですね。医学もそうですが、内側からの視点だけでは決してみることのできない、外側からの視点により、歴史における構造的な理解を進めることができるわけです。








tougouiryo at 2020年09月16日05:00|この記事のURLComments(0)