お城へ To Go

お城へ To Go (高遠城)

 織田に飲み込まれる武田の最終戦とも言える徹底抗戦の場、高遠城(30・長野)です。高遠桜(タカトオコヒガンサクラ)で有名な桜の名所で、旧藩士らが植えたことが始まりといいます。ここも山本勘助縄張りとされる城で、勘助曲輪という曲輪もあります。押印は平成22年7月31日でまだ暑いころでした。つけ汁に辛み大根を使った「高遠そば」を城近くで食べてから登城しました。
 ちなみに高遠そばは、福島にもあり、徳川秀忠の庶子、保科正之の会津藩転封に伴って、そば職人も福島に連れて行ったことにより、かの地に根付いたそうです。ちなみに高遠で高遠そばと呼ばれるようになったのは、会津でそう呼ばれていたのが、平成になってから逆輸入されたものだそうです(ネット情報)。

 高遠城は、秀忠が正室(お江の方)を恐れて庶子である正之と母を秘密裏に保科家に託した場とされ、訪問した際も、保科正之を大河ドラマ主役に!という運動が行われていました。確かに、大河ドラマファンとしては面白いですが、一般受けしなそうですので実現は困難だなあと感じました。幕末ギャグ漫画『風雲児たち』もこの辺りから幕末の会津藩の動きの伏線として描いておりました。

 織田との徹底抗戦の地だけに、籠城の女性まで武器をとって戦ったという逸話(敵方にはらわたを投げつけた武将までいたようです…)と共になんとなく暗い雰囲気が漂っていました。山と川に囲まれた天然の要害だけに八方ふさがり感も半端ない感じだったのでしょう。
 援軍到来を期待しての籠城だったにも関わらず、援軍の勝頼は途中で引き返し、いわば見捨てられた城となってしまったのです。こうしたエピソードもさらにもの悲しさに拍車をかけます。桜という花のどこか悲しげな雰囲気ともまた重なります。
 新府城から一度は出た勝頼ですが、織田に包囲された高遠城には行かず、新府城に火をかけ、岩殿城に向かったものの天目山にて自刃、武田氏は滅亡しました。自ら自刃するのであれば、包囲されていながらも、救援軍を向かわせていれば、少しは歴史の流れも違ったものになっていたのか、とも思いますが…。















tougouiryo at 2020年07月11日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (上田城)

 松代に次いで、真田の城です。といってもこちらは真田の大活躍の場、上田城(27・長野)です。押印は平成21年の4月29日です。GWの時に群馬の職場から、新幹線で上田駅へ向かいました。

 高校生の頃、小説『関ケ原』などを読むと、この上田城の戦いのところは、知略を尽くして多勢に挑む真田の姿が活写されていて大好きでした。小説などでは、色々な策略により、攻城軍を撃退するわけですが、いろいろと縄張りが入り組んでいたり、天然の要害に富んだような印象があったのですが、初訪問の時は、駅からもアクセス良いし、正門となる櫓門から入ると平べったく明るい感じの城なので、少し拍子抜けした記憶があります。
 ただ後日(数年後)車で再度訪問し、崖下(尼ケ淵)の駐車場から上がった際には、崖にそそり立つ難攻不落の城というのが理解できました。さらにその時はVRも充実し、資料館での往時の様子がよくわかる映像もあったので、徳川軍を二度も退けた名城を感じることが出来ました。

 ただ第1次上田城の戦いは定説でわかるのですが、第2次上田城の戦いに関しては、現在では少しひねた見方をしております。
 真田昌幸が3500の兵力で、その十倍以上の兵力を有する秀忠軍を迎え撃ち、結果、関が原本戦に遅参することになったというのですが、それでもわずか一日で昼過ぎには関が原で東軍勝利となっているわけです。であれば、この中山道軍の必要性はなんなのでしょう(ちなみにこの時の拠点が小諸城です)。
 一説では、家康は勝利を確信しつつも、もしもの後詰として、時間差でわざと遅れさせたのではないかという説。本戦で戦闘が展開される中、家康としてはいくら後継者だからといっても、あからさまに参戦させないというのも士気にかかわるでしょうし、本当に秀忠の不手際で遅れたのなら、後継者としての器を疑われるわけで、後にすんなりと第2代将軍に就任したことを考えると、これまた疑問符が付くのです。
 それに対してわざと(いわゆるプロレス)であれば、全国的な勢力図をみながら、本戦の予想外の展開に対しても、対策を立てることができるわけです。また、北方からの侵攻ににらみを利かせる意味もあるという説もあり、こちらの方がどうもありそうに思います。ドラマ仕立てではない、冷静な視点というのも実際の場面からは見えやすいように思います。また医療には特に必要ですが、局所からだけでは見えない、全体からの視点の重要性をあらためて感じます。
 まあ実際は、当時の当人に聞いてみないと解らないのですが、現場に立つとそれがありそうだな、というのが実感でした。親子敵味方にわかれ、攻城側にいた真田信之が、結果として主家の旧領といえる松代を領したという事実も、これを支持するように思えますし。皆さんは、どのようにお考えでしょうか。

 この城は、北東の鬼門除け(隅欠)がとても見やすいのが特徴です。あの合理性をもった真田昌幸でもこうしたまじないを信じざるをえないのです、みたいな解説がありますが、それこそ現代風の思い込みで、当時として極めて普通の作事だったのではないでしょうか。

 広々とした公園といった感じで、二の丸には博物館もありました。現在はさらに施設も充実しているようです。当時は駅の近くの居酒屋に友人とはいり、馬刺しや馬のモツ煮を食べたのですが、これが、十分な下処理がされおらず、そのためか(?)黄色みがかった汁で、現在でも馬のモツ煮はちょっとしたトラウマになっており、上田城というと真っ先にこれが思い出されます(笑)







tougouiryo at 2020年07月04日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (吉野ヶ里)

 今回はお城というより環濠集落、吉野ヶ里(88・佐賀)です。押印は平成26年11月24日、この年の九州攻め最終日でした。100名城になっているので来たのですが、1990年の史跡認定の時に結構話題になっていたので一度見て見たかった史跡でした。
 当時は邪馬台国との関連が報道され、現在でも九州説の候補でもあります。古代史も、城郭同様、コアなファンが多い領域ですので、年中、邪馬台国発見か!?みたいなのやってますよね。

 主祭殿、高床住居、物見やぐらなど復元建物がたくさんあり、歴史に興味がなくても楽しめると思います。青森、三内丸山遺跡もすごかったですが、こちらは高床な分、迫力があります。また、V字に掘られた環濠は深さ3メートルもありこれもすごい。
 城郭の起源という観点からすると、防御の逆茂木などもあり、やはり100名城!といったところでしょうか。銅剣も出てるし、祭殿も立派なので、もうここが邪馬台国でいいんじゃないか(笑)って感じです。

 こうした城の原型に、半島からの土木技術などが混ざって「大野城」のような形態になり、時を経て戦国の山城群が出現する、そして次第に平野におりて、見せる立派な城へと変貌し、「福岡城」「熊本城」「島原城」などができていったと思うと感慨ひとしおですね。それぞれには築城当時の思いなどがあるのでしょうが、時系列で並べてみると、系譜学のように構造的な問題が透けて見えるので、こうした視点も時に必要ですね。
 個別ではなく集団としての視点の大切さ、という点で、四象限の見方(AQAL)の重要性をあらためて感じました。

吉野ヶ里 遺跡はこうして残った
山崎 義次
文芸社
2017-04-28

まぼろしの邪馬台国
余貴美子
2015-05-25






tougouiryo at 2020年07月01日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (小諸城)

 今回は山本勘助つながりで小諸城(28・長野)です。100名城の押印は平成21年7月19日で、前回の松代城を訪問する前に、車で寄っていきました。高校時代、夏期自習のための宿泊施設が小諸にあったので、何度か行っていたのですが、当時は小諸城というより「懐古園」だと思っていました。城だと思ってみるとやはり立派な城で(笑)、どういった「メガネ」でものを見るかによって、これほど変わるものなのだと実感しました。

 城下町より本丸の標高が低い「穴城」で、これも事前に知らなければ分かりません。大手門は2008年に江戸時代の姿に復元されました。穴城というものの、城郭は千曲川に向けて伸び崖となっているため攻城は困難で、さらには城内も断崖絶壁が切り込んでいるため、なかなか迫力のある城です。懐古園なので、児童遊園もあり、動物園もあり、小田原城以上に動物に占拠されておりました(笑)

 小諸藩初代藩主は仙石秀久で、戦国一の汚名挽回をした武将として漫画でも有名です。戸次川の戦いの敗因となって逃げかえり、高野山追放されたが、小田原征伐の折に汚名挽回し、関が原では東軍に与し初代藩主となったわけです。この時の汚名挽回が、以前紹介した山中城の戦いの先陣です。山中城の落城を思いながら、この城をみるとまた感慨ひとしおです。

 ただこの仙石秀久というのも謎で、漫画的なストーリーとしては面白いのですが、本当にそうした人間模様だけで、説明がつくものなのか疑わしいですね。この人が明智光秀同様、土岐の流れであることも見逃せません。この人の経歴をある意図をもって行動したと考えると、また歴史の妄想が展開されて面白いでしょう(個人的には大分の戸次川から讃岐(香川県)までの壮大な退却は何とも怪しいと思います)。

 いずれにせよ、うどん県まで逃げ帰ったのちに、小諸そばで藩主ですから忙しい人物であるのは間違いありません。ちなみに訪問時は、そばを食べてから、松代城へと向かいました。


日本の城 32号 (小諸城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-08-20








tougouiryo at 2020年06月27日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (福岡城)

 福岡の街中にある城、福岡城(85・福岡)です。押印は平成26年11月23日、大野城訪問後、急いで臨床検査医学会に参加してからの訪問でした(いつもながら遠方の城巡りはバタバタです)。スタンプは古代の迎賓館といわれている「鴻臚館」跡の展示館にて押印しました。
 鴻臚館の遺跡は、その上にすっぽりと覆屋を建てた大規模なもので、福岡城と合わせて二重の国指定史跡であり、全国的にも珍しいそうです。城自体は天守がないため派手さには欠け、大きな公園といったところでしょうか(実際、舞鶴公園という公園です)。訪問時は「官兵衛」ブームでガイダンス施設なども充実しておりました。

 古代から鴻臚館がある非常に歴史ある地で、かつ、商業都市である博多を取り込む形で黒田長政が築城しました。貿易においても重要な位置を占め、歴史的にもフィクサー的色彩の強い黒田氏の中心地です。明治以降も大きな影響力を有する福岡藩関係ですから、鴻臚館と重なって建てられるというのも何か意味があるのかもしれません。
 隣接して、かつての博多湾の入り江「草ヶ江」を埋めたて城の大堀とした「大濠公園」があります。白く長い橋が島を中継して池の両端にかかる景色がとてもきれいな公園で、ここで時間をつぶしてから、博多で「水炊き」を食べました(佐賀への帰りの高速道が慣れないドライバーにはとても怖かった記憶があります…)。

 大きな天守台がある割には、天守があったという記録はないようですが、細川忠興の手紙に天守があったとする記載もあり、詳細は不明なようです。現在みると公園ですので、よくわからないのですが、築城当時は、かの熊本城主、加藤清正が「自分の城は3、4日で落ちるが福岡城は30日、40日落ちない」と語ったとされ、水堀を巧みに配した巨大な城郭だったようです。
 いずれにせよ博多を押さえるという意味は、黒幕である組織から、黒田に与えられた大きな使命だったことでしょう。そんなことを考えながら中州へ行きました(笑)

日本の城 改訂版 108号 (福岡城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-02-05


甦れ!幻の福岡城天守閣
佐藤 正彦
河出書房新社
2001-07T








tougouiryo at 2020年06月24日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松代城)

 武田VS上杉の川中島の合戦での海津城がベースになっている松代城(26・長野)です。押印は平成21年7月19日です。長野駅近くに宿泊し、善光寺参りと合わせての訪問でした。川中島古戦場も近在にあり、城からは謙信の布陣した妻女山も望めるので、川中島合戦に興味ある方には、その地形も含めて楽しめると思います。

 復元された太鼓門や櫓台の石垣など見どころもあるのですが、当時はそれでもさっぱりとした印象でした(本丸内部はがらんとしていましたので)。同じような印象を持つ方もネットでは多いようです。ただ年々、整備が進んでいるようですので、現在は少し違っているかもしれません。近くには真田宝物館やエヴァンゲリオンでも有名な松代地下壕もありますので、お時間ある方は結構楽しめるようです。私は時間の関係で、城だけで、周辺施設は未訪問です。

 武田信玄好きにはたまらない山本勘助築城とされる「海津城」ですが、信ぴょう性は?といったところで、後に上杉支配下となり、森忠政を経て、松平忠輝により「松城」と改名、最後に真田信之により「松代城」となりました。武田からいろいろあって、最後は武田系の真田に戻ったわけですね。

 この真田についても歴史小説好きの方からするといろいろなドラマで語られますが、実際はどうだったのでしょうかね。関ケ原で親子が敵味方に分かれたにもかかわらず(つまり親族は敵方)、そのあと幕末まで真田家は、かつての主君の関連する土地で家名を継続、そこから佐久間象山を輩出、さらには本土決戦最後の拠点とされる松代象山地下壕、といろいろ歴史のカギとなるものが続出なので、何か真田家のウラを感じてしまうのは私だけでしょうか。歴史の地の訪問はこうした妄想が、よりリアルに感じられるのもまた魅力に思います。

 帰りには長野出身の人のおススメで、すき亭のすき焼きを食べて帰りました。これもまた城めぐり大きな楽しみの一つです。




あっぱれ松代城
松代春香
日本クラウン
2010-02-24



tougouiryo at 2020年06月20日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (大野城)

 大宰府古代山城群の中心的役割を担う大野城(86・福岡)です。押印は平成26年11月23日、県立四天王寺県民の森管理事務所でスタンプを押しました。

 いわゆる戦国・安土桃山の城とは異なり、白村江の戦いの敗北を機に、唐・新羅の侵攻に備えた古代の城で、巨大ですごいのですが、あまり整備されていないので見ずらいです。案内書なども県民の森の遊歩道の図みたいなのを頼りに行かなくてはならず、山城への入り口も分かりにくいです(現在では少し改善されているかもしれませんが)。以前。ある雑誌で城好きドクターが、好きな城としてここを挙げていたのですが、他の選択肢と合わせると「?」という感じです(行きにくい100名城に来たぜというアピールにはなると思いますが…)。
 岡山・鬼ノ城と築城目的が似ており、その規模の大きさも当時の政治状況から考えると納得の古代山城といったところでしょうか。いずれにせよ、白村江の敗戦による半島からの攻撃に対する恐怖が、そのまま城郭規模の巨大さにつながったような当時の心象を、時を超えて感じることが出来ます。
 ただ鬼ノ城と比べると、大野城は復元なども行ってないので、山中を案内図片手に、礎石や石垣を訪ね歩くといった感じです。
 回っているときは把握できていなかったのですが、後で調べてみると、博多湾から上陸された場合、水城とこの大野城、さらには南方のキイ城とで内陸にある大宰府を囲んで防衛している様子がよくわかります。

 百済からの亡命貴族の指導により築城したということですが、とにかくこの時代にここまでの規模の城があったというのは素直に驚きです。加えて、内部の水はけの必要から築かれた石垣群は、百間石垣を代表としてかなりの見ごたえがありました。
 帰路に、令和となって急に脚光を浴びた太宰府天満宮に立ち寄り(この当時は「令和」ブームになるとは予想だにしませんでしたが)、飛梅などを見学し参拝してから、学会場のある福岡へと向かいました。水城は時間がなく、訪問できませんでした。




 

tougouiryo at 2020年06月17日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (武田氏館)

 言わずと知れた信玄公の躑躅ヶ崎館、武田氏館(24・山梨)です。押印は平成23年7月3日で、初訪問の時はいかなかったのですが、その後、詰めの城である、要害山城と合わせて何度か訪れました。要害山城は温泉に駐車できるので、ハイキング、城めぐり、温泉と合わせ技でとても良いところです。ちなみにこの詰めの城は武田信玄生誕の地、です。そして館は現在、武田神社です。

 甲府の駅に降りると、さっそく武田信玄公の像があり、さすが甲府といった感じ。駅前の甲州地鶏の焼き鳥屋に何度か行きました。駅から緩やかな坂をひたすら上り、武田神社に到着します。足利氏館同様、居館形式の単純な構造ですが、室町将軍邸である「花の御所」を模して建造されたそうです。

 神社だと持っている人には神社にしか見えませんが、水堀や土塁などもしっかりとあり、立ち入り禁止区域ながら「天守台」もあります。ただしこれは豊臣期のものらしいですが。また曲輪もいくつかありますが、これも武田滅亡後に増設されたものだということです。いずれにせよ、その目で見るとなかなかに城郭っぽい構造を認めますが、神社だとしか見なければそのようにしか見えないかもしれませんね。

 入り口前には土産物屋があり、信玄餅アイスみたいなのを食べました。夏だったので、えらい暑かったのを記憶しています。

 よく信玄の言葉として「人は石垣、人は城」といって、だから信玄は館だけで城を作らなかった、と説明されることが多いのですが、居館の奥に詰城があって、これだけ立派な居館があるのある形式は、信玄が城を作らなかった、というのとは違うと思います。これは城好きの感覚からすれば当たり前で別に信玄の言葉を特別視するほどのこともない、戦国大名としては常識的なように思います。
 これに似てると思うのは、薩摩の島津による鹿児島城で、薩摩藩が結束が固かったので、守備を強める必要がなかったというのですが、背後の城山が詰城なのでこれもそれほど例外的ではないように思うのです。実際に訪問することで、いろいろと解説書とは違う感想を持つものです。











tougouiryo at 2020年06月13日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (佐賀城)

 2004年に立派な御殿が復元された佐賀城(89・佐賀)です。押印は平成26年11月22日で、肥前名護屋城から呼子をまわり、訪問時は閉館時間ぎりぎりでかなり薄暗くなっていた記憶があります。

 佐賀駅からもいける町中の城といった感じ。龍造寺の居城である村中城を、家臣の鍋島直茂が改修拡張した城で、活躍した家臣により最終的には藩ごと簒奪されたという城郭です。
 立派な天守台ときれいな復元御殿が印象的でしたが、ぎりぎり押印に間に合った、とういった感じでばたばたと見学しました。門扉には佐賀の乱の銃撃戦による弾痕もあり、訪問時は、幕末の名君鍋島閑叟の特別展が本丸歴史館で開催されていました(明治天皇御愛蔵の閑叟の書、初公開でした)。

 佐賀城の前身である村中城の戦いは、訪問当時はあまりよく理解していなかったのですが、その後、城めぐりアプリの合戦イベント「今山の戦い」で体験することができました。ちなみにこの時は龍造寺軍で勝利しました(笑)
 実際の戦闘では、村中城にこもる龍造寺軍5000は、そのほぼ10倍の兵力で攻める大友軍が総攻撃の前夜の酒盛りをしているという情報を得、未明に本陣の今山を急襲。これにより大将を討ち取り大友軍は撤退となったという戦いです。
 これにより龍造寺は勢力を拡大しますが、結局はその家臣である鍋島により佐賀藩が成立します。皮肉なようですが、この奇襲戦の要である前夜の酒盛り情報を伝えたのも鍋島直茂ではあるので、それ以前の活躍と相俟って仕方ないことなのでしょうね。(直茂の優秀さを見越して慶詁瑤浪反辰慮綺覆貌ったということなのでしょう)

 また明治になってからは不平士族を束ねた江藤新平による「佐賀の乱」の舞台となり、近代戦も経験しています。ただし、新政府大久保卿により佐賀城を攻略され、あっけなく平定されています。まあ、この佐賀の乱も謎の多い反乱なので、そもそも江藤新平に反乱する気があったのか、ただ下野しただけなのではないかと疑問視する声もあるほどです。ただしその結末が、初代司法卿にして「さらし首」、というあまりのインパクトです…。

 城郭は御殿中心のさらっとしたものですが、そこをめぐる歴史が奥深いお城でした。佐賀に来ることもなかったので、この辺りの歴史をしる良い機会になりました。福岡の検査学会に参加するための旅行だったのですが、当時、スマップのコンサートと重なってしまい福岡のホテルが軒並み取れず、その分の宿泊も全て佐賀だったので、ずいぶんと長く滞在した印象です。





江藤の首を晒せ―実録・佐賀の乱
光武 敏郎
葦書房
2000-10T


漫画 鍋島直正
梓書院
2018-02-27


tougouiryo at 2020年06月10日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (小田原城)

 小田原攻めの攻城をここ数回取り上げてきましたが、いよいよ小田原城(23・神奈川)です。100名城の押印は平成21年6月29日です。

 当時、スタンプラリーが始まってそれほど経っていないにも関わらず、訪問者数の多さから既にスタンプが劣化してしていました(現在は復活しているかもしれませんが…)。本丸は、当時は遊園地というか公園化されていて、動物園のような感じで、象までいました。小諸城も同様に動物園になっているので、一時期の城郭の利用法として盛んだったのでしょう。一頭だけの象、それほど観客もいなそうで、なんだかとても寂しそうでした。それから、しばらくしてニュースか何かで、(記憶が曖昧なのですが)その象の死亡を知りました。

 訪問の際、「ういろう」屋さん(といっても「薬」です)によって、薬の「ういろう」を買いました。漢方薬局が併設されていて、ちょこっとのぞいたところ、薬剤師さんが一人いて漢方の処方をしているようでした。どのような処方の方法なのか知りませんが、歴史ある場で漢方処方が出来る、というのはなかなかうらやましい環境だと思いました。

 銅門や馬出門などが復元されていて、子供の頃に来た印象とは少し違っているなあ、と感じました。1997年の復元で、かつてを偲ばれる立派な門でした。三重の天守は1960年に鉄筋コンクリートで復元されたもので、明治期まで残った関東の天守としては、この小田原城が唯一ということです。この近世城郭は、豊臣の包囲したものとは違っておりますが、近くにある秀吉による一夜城からこの天守を見ると(とても小さいですが見えます!)、これまでの落城した諸城を思い、実に感慨深いものです。

 総構という、町ごと土塁や空堀で囲い込む壮大な防御設備により、鉄壁の守りを貫いていた小田原城でしたが、これもやはり豊臣の大兵力を前にしては、勝敗は戦う前には決していたも同然です。兵力に加え、周辺の北条方の諸城を、特に要となる城郭を徹底して落城させた秀吉の戦法は、心理戦としてもかなり有効だったようで、八王子城落城などはかなり主戦派の心を挫いているようです。何事もその設備だけでなく、そこに関連する無形の心理状態などが大きく影響することを教えてくれています。

 小峰の大堀切や稲荷森総構掘など、当時の総構の遺構は、残念なことにまだ未訪問なので、ぜひ機会を見つけていきたいものです(この記事を書いている時点では非常事態宣言中なのでいつになることかわかりませんが)。

 小田原攻めに関連する城郭をいくつか見てきましたが、実に作りこまれた見事な城郭も、歴史の流れという大きな濁流には全くの無力といった感想を持ちます。我々は、細かな対策や作戦を立てることで眼前のリスクを何とか減らそうと試みます。これが奏功することもありますが、常に思い通りにいくとは限りません。あらゆる取り組みが意味をなさないことを覚悟する、という状況もまたあり得るわけです。ハーバード教育学研究所のロバート・キーガン博士は、次のように述べています。

 こうした状況においては、私たちが問題を解決するのではなく、問題が私たちを解決するのである。







日本の城 46号 (小田原城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-11-26







tougouiryo at 2020年06月06日05:30|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (名護屋城)

 今回は、尾張名古屋ではなく、佐賀の名護屋城(87・佐賀)です。押印は平成26年の11月22日です。佐賀駅前に宿泊後、唐津城を少し見てから訪問しました。立派な建物の県立名護屋城博物館の敷地内にあるような形で、駐車場も含めよく整備された城跡でした、が…。

 将来的な明の征服を念頭に、朝鮮出兵の前線基地として築城された豪華な五重天守だったといわれます。秀吉死後は、廃城とされ唐津城に用材転用され、島原の乱以降は、反乱軍の拠点にならないように徹底的に破壊されたようです。まさに朝鮮出兵を目的にした短期間の「幻の城」といえるかもしれません。それでも当時の規模は天守台などの遺構から十分伝わってきます。玄界灘に面した天守台からは、広々とした海が見え、晴れた日には対馬まで望めるということです。
 広々とした全域は非常に見学しやすい形で整備され、博物館の模型からもその全体像の壮大さが伝わってきます。(このようにとても整備された城跡だったのですが、あまり城巡りのサイトなどでは指摘されていませんが、城主である秀吉の出兵に対しての博物館の解説・解釈が一方的なように感じたのが今でも印象的に残っております…)

 また、この城は本体となる城に加え、周辺に130もの陣跡が広域に点在していることも一つの特徴です。まさに戦国武将勢ぞろいといった感じで、各々の陣跡が周辺マップで回れるようになっています。一つ一つは「陣」ですからそれほど大きくないのですが、これほど「密」に戦国武将オールスターそろい踏みとなる史跡はここだけでしょう。とてもすべて回れないので、徳川家康や前田利家などの主だった武将のところだけ回りましたが、時間があれば、ゆっくりまわりたい名所です。国を挙げての一大出兵であり、これを機に豊臣政権が揺らいでいったのも理解されます。

 そのあとの城めぐり予定や、この近くの「呼子のイカ」が食べたかったので、早々に切り上げざるをえませんでした。ちなみに、期待していった呼子のイカは、当地では団体旅行御一行様向けの大きなお食事処が多かった印象です。私も、大きなホールようなお食事処でイカ刺したべました。ちなみに、佐賀駅近くの居酒屋でも「呼子直送!」のイカ刺し食べられたので、現地に赴く必要ないのかもしれませんが、やっぱり気になったので…。

 豊臣政権最後の大イベントの舞台、肥前名護屋城。歴史的事件を体感するにはもってこいの城跡といったところでしょうか。これほどの大きな動員力を有した政権が、ほどなく倒れていくと思うとなんとも感慨深いですね。ちなみに、秀吉がこの城に滞在期間中が、大坂の淀君の受胎時期と重なるというネタもよく話題になりますね。













tougouiryo at 2020年06月03日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (山中城)

 今回は、一時的に東海の城、山中城(40・静岡)です。前々回からの小田原攻めシリーズで、東海道上にある、小田原への最後の要とも言える城です。

 100名城押印は平成21年の6月28日です。駐車場に車を止め、道路向かいの売店にスタンプがありました。当時は、まだ城めぐりを始めたばかりでしたが、「最近、100名城の人が結構いらっしゃいますね、かなり廻られたのですか」とお店の人に声をかけられたのを覚えています。ここは沼津、三島によく行っていた時があるので、そのたびに幹線上に位置するアクセスの良い城なので、何度も行きました。近年では、独特の形状をした「障子堀」が大人気で、お城好きからはベルギーワッフルとも称されております。どこかの歴女が「好きなお堀は障子堀!」とも言っておりました(笑)。

 この城はまさに東海道上に両側から挟むように縄張りで、まさに「関所」のように位置しています。豊臣の天下統一の締めくくりとして小田原城へと向かうには、通らざるを得ない位置です。既に天下統一へと向かっていた時期ですから、戦国の世と比べると戦闘がずいぶんと減り、逆に手柄を立てる機会もまたぐっと減っていた時期でもあります。そうした意味でも、華々しい業績を上げるめったにない機会といった意味合いが、この山中城をめぐる戦いからは見えてきます。
 
 この城も八王子城同様、戦闘までに整備が間に合わず、未完成のまま戦闘に入ります。東海道を上ってくると右手側に位置する出丸(岱崎出丸)で戦闘が開始され、豊臣側の一柳直末が討ち死(三の丸跡のお寺にお墓があります)。しかし攻城側の多数の兵により二の丸、三の丸と次々におち、山中城はその日のうちに落城します。障子堀をはじめ、いくつもの技巧を駆使した北条の築城技術が盛り込まれた城郭ですが、やはり大群にはひとたまりもないということでしょう。

 この小田原攻めの際には関東各地の城が落ちていくわけですが、どれもこれまでの築城の様々な技法にも関わらず、圧倒的な豊臣軍の数にはかなわないわけです。そうした意味で、小田原の喉元とも言える立地の山中城は、凄まじい勢いで飲み込まれる運命の城だったといえるのではないでしょうか。

 近くには旧東海道の石畳の街道もあり、城自体も駐車場完備で、よく整備され、歴史に興味がなくても障子堀の美しさは一見の価値ありです。少し足を延ばせば、三島大社、そして三島のうなぎが食べられます。






 

tougouiryo at 2020年05月30日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (平戸城)

 島原城からフェリーで熊本へ戻り平戸城(90・長崎)に向かいました。押印は平成26年11月21日です。

 平戸を居城とした松浦氏は、壇ノ浦の戦いで平氏から源氏方へと寝返ったことで、鎌倉幕府の西国御家人となり、地頭に任じられました。戦国期には、竜造寺の軍門に下りますが、その竜造寺も沖田畷の戦いで、島津・大友連合軍に敗れ、さらに島津も九州征伐で秀吉に敗れると、結果として秀吉配下となり朝鮮の役にも出兵してます。
 ここまでは、ローカルな地方武将の城といった感じなのですが、訪問して驚いたのは(事前学習していかなったので)、明治天皇ご生母中山愛子は34代藩主の娘で、城内の資料館には明治天皇御七夜産着など明治天皇ゆかりの品々がさらりと展示されていたことです。
 またその目で、松浦氏の年表を見てみると、15代定(さだむ)は後醍醐天皇の綸旨により鎮西探題の北条氏を討っていたりします。出島に先立って、南蛮貿易の窓口であった地でオランダ商館も設置されていた地に、こうしたつながりがあるのは実に興味深いことです。
 また城郭は山鹿素行の縄張りによるとされ、山鹿流が藩内に伝わり、幕末には吉田松陰が訪れ入門したりしています。

 本丸には模擬天守があがっていますが、本来ここには天守はなく、三重の乾櫓が天守の代用とされていました。御殿のあった二の丸は、場内を散策すると急に開けた地形となり、亀岡神社があります。
 海に半島状に突き出た大地の上に天守が見えるので、遠景でとてもきれいなお城です。訪問時は夕刻だったので、とても静かなミステリアスな城に感じました。


日本の城 改訂版 69号 (平戸城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-05-08



甲子夜話 1 (東洋文庫 306)
松浦 静山
平凡社
1977-04-01



明治天皇を語る (新潮新書)
ドナルド キーン
新潮社
2003-04-10


tougouiryo at 2020年05月27日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (島原城)

 島原の乱の発端となった島原城(91・長崎)です。押印は平成26年11月21日です。熊本城を先日に訪問し、熊本泊後、熊本港よりフェリー(オーシャンアロー)で島原外港へ。そこから原城を訪問してから、島原城へ向かいました。車で城内まで入ると、そのまま本丸、なんと天守前で駐車という間近さはここでしか体験できません。加えて、おもてなし隊による歓迎、とインパクト強でした。天守前には土産屋も盛況で、そこでは島原の郷土料理「六兵衛」(サツマイモを原料にした黒いうどんみたいな感じ)を食べました。度重なる飢饉や天災にみまわれた地であるだけに、こうした食により命をつないでいたのでしょう。

 板倉重政により築城された島原城は、4万石という領土に似つかわしくないほどの五層の巨大天守をもち、11基の櫓があったといわれています。高石垣も見事です。現在の天守は昭和39年の再建で白塗りですが、実際は黒い天守だったようですが、天守は大きさに関しての記録はあるものの、外観に関しては不明とのこと。いずれにせよ、熊本城など周辺への睨みのためか、分不相応な重装備といったところでしょう。

 これが、島原の乱を引き起こす一因といわれます。築城のための課役や過酷な年貢がこの一揆の主な原因といわれ、そこにキリシタン弾圧が加わったものというのが現代の見方のようです。それにしても、一揆勢は、城下町まで押し寄せ、あわや一時的に籠城戦にまで追い込まれるまでだったというのですからかなりの攻勢です。結局は原城に立て籠るも、中央からの幕府軍によりようやく鎮圧されることになります。こうした抵抗の強さには、宗教が絡んだのはいうまでもないのでしょうが、それだけではないようで、弾圧以前に飢饉などにより相当追い込まれた状況であったというのが実情でしょう。この乱の結果、ほとんどの住民がいなくなり、あらたに入植のような形で再興せざるをえませんでした(この時に「そうめん」も入ってきたということです)。

 こうしたいきさつがあるにもかかわらず、この再建天守の見事さからからか、結構地域住民に愛されている感じで、歴史を振り返ると複雑な心境になります。なんであろうが市民は、たくましく生きていうということなのでしょう。なお天守内一階はキリシタン資料館になっています。この当時のキリシタンの様相を思うと、なんとも複雑です。当然、純粋に信仰していた人も多かったのでしょうが、一方で欧米列強勢力が、極めて強く極東に関心をもっていたのも事実。きれいな信仰の陰で、多くの人身売買など表に出ない歴史もあり、今日的な視点だけでは「島原の乱」は語れない要素も多いのではないかと思います。













tougouiryo at 2020年05月20日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鉢形城)

 統合医療オンライン(ZOOM)相談を行っております。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。


 

 今回は北武蔵の要、鉢形城(18・埼玉)です。押印は平成21年の3月29日でした。このころは100名城のスタンプを開始したばかりでしたので、快調に関東の諸城を立て続けに制覇していました。
 初めて訪れた際は、車で荒川にかかる正喜橋を渡った、まさに崖の上にある城といった印象。ちょうど桜のシーズンでしたので、敷地内にある「エドヒガン桜」がとてもきれいに咲いていました。

 長尾景春によって築城された鉢形城は、同氏が山内上杉に反発して立てこもった「長尾景春の乱」の舞台となった城。後に武田の侵攻や、豊臣による小田原平定戦において防戦を展開した実践経験豊かな城です。広々として眺めもよく、併設された資料館も充実しているので、とても勉強になりました。

 深沢川と荒川の合流する点の突端に笹曲輪が位置し、その奥の一段高い場所に本丸(御殿曲輪)があります。荒川越しに眺めると、難攻不落といった感じですが、二の丸、三の丸と土地が次第に開けていくので、反対側からの侵攻が弱点であり、そのため石積み土塁や堀などの防衛設備が整えられています。攻めるならこちら、といった感じでしょうか。

 実際にここを攻めた「北陸支隊」は、四方から包囲し(東方・前田利家、南方・上杉景勝、西方・本田忠勝、北方・真田昌幸)一斉に攻撃、中でも大打撃を与えたのが、本田忠勝による南西の車山から大手方面へ向けての大砲攻撃といわれます。これにより北条氏邦は降伏、開城します。このとき氏邦は、前田利家に助命され、後に金沢で没するのですが、これがのちの八王子城攻めなどに大きく影響します。つまり、この措置が手ぬるいと、秀吉に評価されることになるのです。

 一度、こうした評価を受けると、このぶんを次の戦にて挽回しないといけなくなるわけです。これにより八王子城や山中城をめぐる戦いが激化し、悲惨な結末へとつながっていきます。しかし、これがのちの小田原城の開城の伏線となるので、仕方ないといえば仕方ないのですが、局所戦だけでは評価できない良い例といえるかもしれません。

 良かれと思ってうった一手が、全体の中で、自らを次に追い込んでしまうということは、往々にして様々な場面でも見られることです。
 城めぐりにおいても、他の城と併せて考えることで、より多くの情報が得られることは少なくありません。


武州鉢形城 (1963年)
井伏 鱒二
新潮社
1963T





tougouiryo at 2020年05月16日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (熊本城)

 九州編、第一弾は熊本城(92・熊本)です。押印は平成26年11月20日で、熊本地震が平成28年4月14日ですから、その約一年半前ということになります。大学2年生の時に、青春18きっぷで、菊池養生園での養生塾(名前の記憶が曖昧です)という合宿に参加した帰路に訪問したことがありました。有機農業を中心に自然派を模索する医師・歯科医師や医学生、農業志望の学生が夏休みに集まって、有機農業体験などしながら将来の夢などを語り合っておりました。有機玄米をたべ、肥溜め担ぎをしたりして、オルタナティブな生活にどっぷりと浸かっておりました。このころからの志向で、現在も、統合医療といった主流派ではないお仕事をしております(笑)

 二回の訪問の印象はとにかくでかい、というもの。城に興味がなくても、その迫力はとにかく興味を掻き立てるものだと思います。そうした意味ではかつての威容を誇った建築物の数々が全壊、半壊する様はテレビで映像だけですが心痛むものがあります。しかし、地元の方々の力によって、次第に復興されつつあるのでまた再訪してみたい城郭です。

 熊本には飛行機とレンタカーにて訪問したのですが、立体駐車場がとても狭く駐車しづらかったのが印象的です。西大手門、南大手門と大きな門があり、折れ曲がったルートを上っていくと左手に宇土櫓が見えてきました。これ自体も天守といっていいほどのもので、これ以外にも巨大な櫓があり、計5つの五階櫓があったとされます。解説では、これらの高層の櫓がひしめいて立っていたため、建造当初は、昼でも場内は薄暗いほどだったとのことです。
 加えて、精緻を極めたとも称される縄張りで、加藤清正の豪快なイメージとは対照的な、恐怖心からとも勘繰れそうな用心深さを感じることが出来ます。城郭があまりに作りこまれているところを見ると、自然とそう感じてしまいます。個人的には意外に繊細な方だったのではないかと思っております。

 また熊本城は石垣好きにはたまらないところで、清正の部下の多くの穴太衆により数々の石垣が築かれています。「扇の勾配」と称される高石垣や、清正当初の石垣と細川時代の石垣とが重なる「二様の石垣」など有名どころ満載でした。また、こうした防衛力の強固さは、築城当初ではなく下って、明治の西南戦争の折に実力が発揮されます。戦闘開始前に天守が燃えてしまい、兵力や大砲なども極めて少なったにもかかわらず、薩摩軍は落とすことが出来ず、西郷隆盛をして「清正公に負けた」と言わしめた近代戦にも通用する城郭でした。

 城内の敷地は、ずいぶん大きいなあとは思っていたのですが、それもそのはず、現在の熊本城は、それ以前の隈本城と千葉城とを取り込んでさらに大きくしたという来歴だそうです。帰路は、熊本の夜景を見ながら、ご当地の熊本料理と馬刺しを食べました。ここから北上して九州、城攻めツアーを開始です。
 かつての様子に少しずつ戻ってきている熊本城、是非また行ってみたいと思います。











戦国武将Tシャツ 加藤清正 (XL, ブラック)
カタログネットTシャツ工房


tougouiryo at 2020年05月13日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (足利氏館)

ZOOMによる統合医療オンライン相談を行っております。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。



 今回は大規模な方形居館である足利氏館(15・栃木)です。100名城の押印(お寺で押印できました)は平成21年4月20日で、ここから少し足を延ばせば、この時期見ごろの「大藤棚」で有名なあしかがフラワーパークがありますので、当時も帰路に立ち寄りました。シーズンはかなりの混雑が予想されるので、要注意ではありますが、一見の価値ありです。なんとも幽玄で、ただきれい、というのも通り越し、生命の何とも言えない薄気味悪さのような独特の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。

 押印当時は城めぐりを始めたばかりでしたので、いわゆる居館タイプを見たことがなかったので、ただの寺にしか感じませんでした。ちなみにこのお寺の名前、難読漢字ですが「ばんなじ」と読みます。その後、現在武田神社となっている武田氏館など見るようになって理解できるようになってきましたが、堀に囲まれているからそうなのだろうという感慨しかもてませんでした。近隣には当時の大学といいても良い足利学校もあります。起源は一説では奈良時代とも言われる由緒ある学校の跡です。足利学校を舞台とした下記のような小説もありますのでご興味ある方はどうぞ。
早雲の軍配者(上) (中公文庫)
富樫倫太郎
中央公論新社
2013-12-27




信玄の軍配者(上) (中公文庫)
富樫倫太郎
中央公論新社
2014-04-04


 言わずと知れた室町幕府創設者、足利尊氏をはじめとした足利氏の氏寺で、太平記フリークの方にはぜひとったところです。
 ちなみに今年の1月に南北朝の騒乱で隠岐へ島流しとなった後醍醐天皇の「黒木御所」に行ってきました。離島医療における超音波診療の実際と、近年注目の疼痛治療であるハイドロリリースを見学するためにいったのですが、宿泊のホテルが黒木御所から徒歩三分ほどでしたので、何度も散歩に出かけました。ちなみに向かいの島には後鳥羽上皇が流されており、現在は隠岐神社となっております。
 隠岐を脱出した後醍醐天皇の命により、足利8代尊氏は鎌倉幕府を滅亡させることになるのです。




 

tougouiryo at 2020年05月09日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松本城)

 統合医療オンラインZOOM相談を行っております。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。



 本日は記念すべき日なので(笑)大好きな松本城(29・長野)です。押印はやはり平成21年7月20日です。中央線で気軽に行けるところでもあり、何度訪れたか覚えておりません。
 8年くらい前は城の近くにレトロなホテルがあってとても雰囲気が良かったのですが、時代の流れの中で、経営者の変化でずいぶんと変わってしまい、とんと宿泊することもなくなりました。現在は、日帰り訪問がメインです。
 駅をお城口に降りると、左手に駅の蕎麦屋とは思えないおいしい蕎麦屋があります。まずはここでそばを食べてから城へ向かいます。電車の時間調整にも使えますので、おすすめです。あ〜、松本に着いたなあ、という感じになります(笑)

 最近は城ブームでもあり、城内に入るには常に待ち時間があるので、最近は登城していません。周りを廻って、湧水巡りでおいしい水をたらふく飲みます。松本駅に湧水のガイドマップがあるのでそれを参考に行くとよいのですが、おススメは城の北側にある「北馬場柳の井戸」。ここは味もうまいのですが、手や顔を洗うとしばらくしてつるつるになる感じ(いわゆる弱アルカリの感じ)が抜群です。松本城のすばらしさはわざわざここで述べるまでもないので、周辺情報を中心に書きました。

 松本城を訪れるたびに感じるのが、ここに天守を創建した石川数正について。家康の重臣から、秀吉に請われて家臣となった経歴から、今度は逆に江戸の家康の抑えとして松本に入り、松本城を整備したわけです。
 何があったかは、歴史家の中でも決着はついていないようですが、家康側にすればやはり裏切られたという思いは消し難かったようで、子の代に関ケ原で東軍に着いたにも関わらず、1613年改易の憂き目をみます。山岡荘八の『徳川家康』を読んだ時は、この辺は一番納得のいかない展開で、いまでも違和感を感じます(要約すると家康のために数正は深慮遠謀をもって秀吉に出奔する、といった流れ)。



 仮にそうならば、子孫の代に改易などにならないでしょう。この辺りは裏を返すと、真田信繁や石田三成の子孫がそれなりの立場で生き続けている点と対照的なように感じます(これにはこれの深いワケがあるのでしょう)。
 裏切りへの恨みというのはいつの時代にも根深いものなのでしょう。ここまでの城を建城して、かつての主君の抑えとして豊臣に使われ、最後は徳川によって取り潰しという石川氏の命運は、松本に来るたびに考えさせられます。
日本の城 改訂版 127号 (松本城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-06-18




 かつてジャングルカンファレンスの創設メンバーで松本に遊びに来た折、松本城ライトアップの催しがあり、とてもきれいだったのを覚えています。

 

 

tougouiryo at 2020年05月02日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (水戸城)

統合医療オンライン相談を行っております。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。

 今回は水戸城(14・茨城)です。水戸にお城あったっけ、という方もいるでしょうが、梅の名所、偕楽園がまさに水戸城といっても良いでしょう。江戸期は城の拡張が制限されていたため、いざというときの城機能の拡張のために、庭園という名目で城の近接して庭園が造営されました。ここに兼六園、後楽園を加えた三大名園はすべてそうした事情で造営されているため、同じように城に隣接しているのです。

 水戸城を押印は平成21年3月15日です。ここもふくめ関東の100名城は、多くが平成21年に回っているので、平成20年にお城めぐりを知り、盛んに近隣の城郭を回り始めたわけです。水戸城もそうした時期だったので、他しか土曜日だったので診療後に特急で向かったのを記憶しています。駅前には、水戸黄門の像があり、歩いて城へ向かいましたが、当時は城の知識があまりなかったので、どこまでが城なのか、少し難しかったように思います。大きな空堀にあたるところに国道やら鉄道が走り、現存する薬医門は高校の校門になっていました。いかにも「城」というのではなく、街並みのなかに溶け込んでしまっているパターンは初心者の頃は難しいものでした。見慣れてこないと、その根底にあるものが見えてきません。中沢新一の『アースダイバー』なんかの感覚に似ているように思います。
増補改訂 アースダイバー
大森 克己
講談社
2019-03-07



 診察やレントゲンなどもそうですが、特に何が難しいわけではなさそうですが、膨大な正常パターンが自分の中にできてくるまでは、わずかな差異が異常なのか正常なのか、なかなか判別する自信が出来てこないものです。基本となる型が、次第に形成されてくるとこれは正常だな、これはおかしいなといった感覚が出来てきます。城を前提とした地形の読み方も、かなり似ているように思います。城の隣接する庭園も、その目で見ると、戦闘に適した地形にあることに気づきます。三大庭園に行かれるときは是非、そうした視点からも見てみると面白いでしょう。

 城を見た後は、茨城なのであんこう鍋を食べ、居酒屋では「納豆づくし」みたいなのを食べました。特に庭園などには興味がなかったので、城をやっていなければ、ここにも来ることはなったんだろうなあ、という感慨ひとしおでした。










 江戸時代における水戸藩の特殊な地位(明治維新における役割など)を考えると、またじっくりと再訪したいお城です。ある茨城出身の方に聞いた話ですが、茨城の魅力度が最下位を持続しているのはそれなりの深ーいワケがあるようです。



tougouiryo at 2020年04月25日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (川越城)

統合医療オンライン相談を開始予定です。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。


 川越城(19・埼玉)は平成21年5月5日に押印しています。当時は本丸御殿が改修中で中に入れなかった記憶があります。現存する本丸御殿は高知城とこの川越城だけということなので、遺構としても大変貴重なものです。また近くにある喜多院は、あの天海僧正が再興した寺院としても有名です。

 川越城をめぐっては扇谷上杉と後北条の決戦となった、日本三大奇襲に数えられる「河越夜戦」の舞台としても重要です。この戦いは前回の箕輪城主長野業政の子、吉業が戦死した合戦でこれを機に、主君上杉氏との関係が悪化したとされています。いずれにせよ戦国の関東に大きな影響を与えた戦いといえます。

 川越は、その他にも「時の鐘」や「蔵作りの街並み」、「芋」が有名で、川越城を訪れた際は、うな重を食べたらご飯に芋が混ざっていたのが印象的でした。

 ほかにも、わらべ歌の「とおりゃんせ」の舞台である「三芳野天神」が城内にあり、ちゃんと「細道」も現存しています。
 全体としては、来訪時は独特の雰囲気に包まれ、富士見櫓跡に行った時、デジカメを撮ろうとしてもなかなかシャッターがおりず、やっと取れたかと思うとぶれてちゃんと撮れないということが数回あり、気持ち悪いので撮影しなかったことを覚えています。

 川越はホリスティック医療で有名な帯津良一先生の出身地でもあるのですが、城からの帰り道、ある商店の前で帯津先生そっくりの方がいらっしゃいました。でも少しだけ雰囲気が違う、ということで、後日、念のために帯津先生に確認したところ(笑)、「兄貴だ」とおっしゃってました。


日本の城 改訂版 139号 (川越城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-09-10






貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意
帯津良一
朝日新聞出版
2018-10-19



tougouiryo at 2020年04月18日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (箕輪城)

統合医療オンライン相談を開始予定です。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。


 群馬に住んでいたころ、何度も近くまで来ていたにもかかわらず、関心がなかったため箕輪城も一度も訪れてはいませんでした。ちなみに近郊には群馬県群馬郡群馬町という「トリプル群馬」というスゴイところがありました。
 何事も関心があるかないかとは、恐ろしいもので、一度関心を持つと、そればかりが目に入り、今では旅行の際には城しか目に入りません(笑)

 箕輪城(16・群馬)は長野氏により築城され、近年評価の高い「上州の黄斑」長野業政の城として有名な城です。業政には、「長野十六槍」という豪勇の配下があり、その一人がかの新陰流創始者、剣聖「上泉伊勢守信綱」であり、近隣の武田信玄も恐れをなして業政存命中は攻め入ることがなかった、という名城です。何度か訪れているのですが、スタンプ(当時は御前曲輪の手前の設置箱にありました)押印は平成21年4月21日でした。

 前回の金山城もそうですが、山城など一般に城好きの「城」にはいわゆる「天守」はなく、城の楽しみ方がわからないうちは、城なのかただの山なのか(笑)わからないことも珍しくありません。それでも、この城は規模も壮大で、曲輪や堀切が大変大きく、山城初心者にはとくにおすすめです。一見、自然の山や谷のように見えるものでも、これが戦国の人々による人工と分かるとその驚きもひとしおです。

 またここは上泉伊勢守のゆかりの地でもあるので、研修医が終わったばかりの頃、上泉伊勢守の墓所の近くにわざわざ(病院から少し遠かったのですが)住んでいたものからすると感無量です。新陰流のその後の隆盛を考えると、創始者である信綱の教育者としてのすごさにも感銘を受けております。

 現在は駐車場もきれいに整備され、大変見やすい城である上に、堀切のすごさを知るにはもってこいの城です。また武田の攻城により落城し、長野一族は御前曲輪で自刃と伝えられており、曲輪に今も残る井戸(昭和2年発見)は独特の雰囲気を漂わせております。ちなみにどんより曇った日にこの井戸を撮影した際には、いろいろと写りました・・・(*_*)

 小田原平定後、井伊直政が入城しますが、やはり戦国の山城に住む時代ではなかったのか、8年後には高崎城に居城を移し、廃城となりました。それ以降、高崎の反映が始まっていくのです。


箕輪城残月記―信玄を悩ませたほまれ高き名将伝
田村 貞男
上毛新聞社出版メディア局
2009-03-01

業政駈ける (角川文庫)
火坂 雅志
KADOKAWA
2013-11-28


tougouiryo at 2020年04月11日06:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (金山城)

統合医療オンライン相談を開始予定です。
遠方の方や自宅滞在のまま統合医療の相談・診療をご希望の方は、03−3357−0105まで(詳細はお電話にて承っております)。お問い合わせのみでもご遠慮なくどうぞ。


 先月、太田金山城の訪問を契機に城めぐりを開始した記事を書きましたが、今回から、100名城を中心に訪問した際に感じたことや、統合医療と関連して感じたことなどを、登城したころを思い出しながら(笑)書いてみたいと思います。題して、「お城へ To Go」!
(記載してある番号は日本100名城の番号です)

 金山城(17・群馬)はこれまで、3回ほど登城していますが、ここで100名城のスタンプの存在を知ったので、あらためて押印のために訪問したのが平成21年2月11日です。群馬に住んでいたころには、比較的近かったのに、全く知らなかったので、もったいないと感じたものでした。

 この城は、群馬の名家である新田氏の末裔岩松氏により築城され、後にその家臣の由良氏が城主となりました。その後、堅固な山城を活かし、武田、上杉、後北条氏の攻撃を撃退しています。なかなか強いお城です。

 ここの城でまず話題となるのが、やりすぎではといわれる石造りの再現です。同時代の周辺の城の様子と比べても「本当?」というくらいの復元が続きます。日の池、月の池はまあわかるのですが、大手虎口の圧巻の石造りは、さすがにないだろ、といった感じです。以前、オープンしたばかりの資料館で説明員の方に尋ねたときも、発掘調査に基づいて、の一点張りなのでそうなのでしょう。

 でも、こうした違和感、というのは、やはり理屈ではなく直感として感じるものです。様々な代替医療をみていると、ビビッと来るものやそうでないものなどいろいろと感じます。どれに魅力や興味を感じるかといったことは、人によっても大きく異なるでしょう。(統合医療をめぐる領域では玄人好み、素人好み、はっきりわかりますね〜)
 また経験にも大きく左右されます。金山城の違和感は、初回よりも現在の方が強く感じるのは、いくつものお城を見慣れてきたからかもしれません。

 ただこうしたことも悪いことばかりではなく、この復元があったからこそ「お城スゴイ」と思い、引き込まれたわけで、観音寺城のように地味な山城では、興味を持つこともなかったかもしれません。そうした意味で、初めが、金山城というのはやはり意味があることだったのでしょう。






tougouiryo at 2020年04月04日06:00|この記事のURLComments(0)

明日から「お城へ To Go」連載開始します

 明日から「お城へ To Go」連載開始します。当面は毎週土曜日に、100名城の城を中心にお城のコラムを書いていこうと思います。

 歴史について読んでいても、文字からだけでは、自分の思い込みや既存の知識から外側に出ることは困難です。ところが、実際に一度、歴史の舞台へ訪れると、その地形や位置関係などリアルな情報が伝わります。これにより、定説が、本当にそうなのか?と感じられることもあれば、なるほどなあ、と納得できる場合もあります。

 これは医学、とりわけ私の分野である統合医療においても同様です。通常のEBM・マニュアルのみに極度に限定した医療では、ある一定の路線に乗ることに意識を集中せざるを得ないでしょうが、代替医療や伝統医療に一定の目配せをしながら行う立場としては、少し立場がことなります。
 漢方ひとつとっても、効能だけに注目して処方する場合と異なり、古典の記載に基づいて、処方してその記載通りに効果をもたらしたときなどは、千年も時空を超えて同じ現象を見ているような不思議な開けた感覚を覚えます。これはホメオパシーのマテリアメディカでの記載の通りに、劇的な効果を見たときもまた同様です。時代は少し近くなりますが、オーソモレキュラー医学でのメガビタミンの効果を見たときもまたそうです。
 頭の中だけでいろいろと考えるのではなく、実際に実践する中で有効なものを摑んでいくという、という意味合いで拙著『統合医療の哲学』にも書きました「プラグマティックメディスン」という概念がまさにこうしたことの本質だと思います。

 これを明確に感じたのは、もう二十年近く前になりますが、糖質制限を京都・高雄病院で初めて教わってから自分の糖尿病外来で導入した時が最初だったでしょうか。いまや、当たり前のことのように扱われる糖質制限ですが、当時はその効果にも関わらず、すざまじい逆風でした。その中で、解糖系やケトン体生成の知識と、実臨床での確実な成果から、プラグマティズムに基づいて医療をすすめることの有効性を感じることができました。

 実際に行うことと実際に訪れること。実際の持つ力こそが、現状の統合医療における重要な要素であると思います。そうした思いと共に、既に昨年には100名城制覇したのですが、それを記念して(記録保持の意味あいもあるので)思い出や考察と共に、軽くコラム風に書いていきたいと思います。統合医療ともどこか?関連づけていきたいと考えております(笑)

 皆様も関心のある場所や歴史的事柄であれば、実際に、訪れてみてはいかがでしょうか。





 現在はさらに100追加された「続100名城」の攻城中です。つまり100名城は200あるのです(笑)




tougouiryo at 2020年04月03日08:50|この記事のURLComments(0)