お城へ To Go

お城コラム再録(対馬・金田城)

 先日、ブラタモリで対馬を特集していましたので、こちらも対馬の名城紹介です!(それにしてもブラタモリは予め行ったところですとより一層勉強になりますね)

 五島列島の福江城と並んで、続100名城のラスボス、金田城です。NHKの最強の城にも認定されていますが、とにかく行きにくい…。おとなり韓国の方が近い「国境の城」、別名「かなたのき」。実際の由来は違うのかもしれませんが、かなたのき、の方がしっくりとくる城ですね。


 対馬・金田城は、白村江の戦いの敗戦後に、唐の侵攻に備えて建設された古代山城で、同時代の大野城や基イ城などに続いて、国境の最前線として防人が配置されました。

 城めぐりとしては、鬼ノ城や、玄蕃尾城に匹敵するハードな運転を強いられ、行きにくさ抜群です。
 プロペラ機ではるばる対馬に到着した上に、なかなかの山道、徐行運転、カーブは減速というよりほぼ停止、ライト点灯、クラクション併用です。到着しても狭い駐車スペースに、「わ」ナンバーの駐車群で転回も困難、携帯電話は電波状態悪く使用できません、とのお達し。そこからさらに登山スタートです。

 ただ、そこからは石塁や城戸、石垣が万里の長城のごとくに展開しており、事前に想像していた以上の迫力でした。壮大な石垣の向こうに、黒瀬湾が見え、三つの城戸は威圧感満点です。

 訪問時、ひざを痛めていたので、山頂部の旧軍施設や最高所の石垣など、アンゴルモアでの名場面をみることはできませんでしたが、いわゆる湾からの侵入を防ぐ城戸や主な石塁、さらには主郭にあたるビングシ山など主だったところは見ることができました。(ブラタモリでは湾から登城するルートが紹介されており、通常ルートと異なるのでとても興味深かったです)

 アンゴルモアで描かれるように、実際「元寇」における金田城の活躍はなかったのかもしれませんが、古代の戦争に使用された施設が、近代になっての日露戦争でも軍事拠点となったというのはやはりすごいです。(またNHKスペシャル「新幕末史」ではロシア軍により幕末に島の一部が占領されていたというのも驚きです。まさに国境の島!)
 現在の城への見学路が、日露戦争時の軍用道路として用いられたものというのもすごい。だからこその、見学のしやすさといった感じです。

 大野城などでも感じましたが、古代山城の規模の大きさには圧倒されます。日本書紀の後半部の話にもかかわらず、現代的にもすごい規模で、いやおうなしに古代とのつながりを感じることができます。
 ある意味、古代山城ができてから中世、戦国の城郭につながったわけですが、知識なしにみたら順序が逆のように感じるのが普通でしょう(古代のものの方がデカいので)。当時の国際的な緊張状態を知る上でも、とても勉強になりました。

 「アンゴルモア」のクライマックスとなるお城ですが、原作を読んでから実際に行ってみるとその迫力がさらに強く感じるのではないでしょうか。タモリも言ってましたが、夜は当然「アナゴ」を食べました!





tougouiryo at 2022年10月23日17:07|この記事のURLComments(0)

お城コラム 夏!沖縄編(中城城・勝連城)

お城コラム 沖縄編の第2回です。世界遺産の立派な城が続きます。沖縄の景色と合わせて、本当に自然に映える城郭たちです。

<中城(ナカグスク)城>

 今回は中城城(99・沖縄)です。押印は平成24年11月2日ですが、それからも2度ほど訪問しています。

 城自体は14世紀ごろ、今帰仁城城主の子孫が築城したとされています。その後、座喜味から移った名将、護佐丸により大規模に改修され、王府の直轄地を経て、なんと戦前まで村の施設として使用されていたようです。最初の沖縄ジャングルカンファレンスの際に、旧メンバーでレンタカーで訪問したのが懐かしいです。

 中山王下の名将護佐丸が、当時急速に台頭してきた勝連城の阿麻和利への抑えとして入城し、郭を増築し防御を固めました。
 このとき増築された北の郭は、重要な水源であるウフガー(大井戸)を取り囲む形で築城され、このウフガーは三の郭の横から、下へ階段を下りていくと現在でも水をたたえています。立派な大井戸がちゃんと城内にあるんだ、という印象が強く残っています。(多孔質の岩石を通過して地層の境目のところに水が溜まっているそうです)

 駐車場から、管理棟を経て上っていくと、三、二、一の郭の順に連郭式になっており、各々の横に北、西、南の郭が位置しています。訪問時は一の郭、南の郭が一部発掘調査中でした。当然ながら眺望の良いところに築城されていて、太平洋が一望でき、街道の往来も良く見えたことでしょう。

 これほどの築城をした護佐丸でしたが、当時、天下奪取の野望を抱く阿麻和利による陰謀(謀反の企みありとする密告)により、王府から討伐軍が向けられ、抵抗することもなく自害したといわれます。忠臣が、はめられて落命するというストーリーは、なんとなく三国志をはじめとする中国の歴史の流れを彷彿とするものですね。文化的な影響も大きかったのでしょうね。

<勝連城>

 続いて、勝連城(続200・沖縄)です。押印は2019年9月29日で、二度目の訪問時でした。100(200)名城の最終番号のお城です。

 城跡の道路向かいにある休憩所に駐車して、登城するのですが、初見での印象の極めて強いお城です。白い城壁が、半島の丘陵をうねるように上っていくさまは遠方からもはっきりと見え、さすが世界遺産、といった感じです。
 かつては駐車場から、西原御門を経て、四の曲輪へ真っ直ぐに歩いて行けたのですが、押印時の訪問では、かなり手前から見学用の階段が設置され、そこから三の曲輪へと上がる新たなルートができていました。見学はしやすいかたちになったといえるでしょうが、少し手がかかりすぎたような感じもしました。

 護佐丸を追い落とした阿麻和利の居城で、謀略による護佐丸排除後、自らもまた謀反が発覚し追い落とされてしまうという運命です。護佐丸を中心に見ると、悪者的立ち位置なのですが、この阿麻和利は優れた人物であることは間違いないようで、農民の地位からこの地方の首長にまでのしあがり、その勢いをかって中山王の支配を奪取しようと画策しました。結局は失敗するので「護佐丸・阿麻和利の乱」のようなくくりになってしまいますが、歴史が少し違った流れになっていれば、一時代を画す英雄となったとも言えるのではないでしょうか。

 時は室町時代に重なるので、本土の歴史で言えば下剋上の時代ですから、歴史的には日本史としてシンクロした流れといえるでしょう。阿麻和利討ち死にの後は、この城は廃城となってしまいますが、城内には御嶽があり、信仰の対象として存続していったようです。本土の城と同様に、信仰の場が城郭に吸収された経緯があるのでしょうから、そうした意義としては共通点を感じますね。

 見学後、近くの漁港で海鮮丼を食べたのですが、エビの海鮮丼を注文してみるとエビが揚っていたのは衝撃でした。南方における鮮度の問題もあるのでしょうが、漁港でも海鮮を揚げてしまうのですから、ご当地の方はやはりそうとう揚げ物好き、とうことなのでしょう。


tougouiryo at 2022年08月23日07:00|この記事のURLComments(0)

お城コラム 夏!沖縄編(今帰仁城・座喜味城)

 まだまだ暑い日が続きますが、「夏!」ということで沖縄の城コラムを再録します。本土の城とは趣が異なり、中国の影響も大きく感じられる、異文化な城郭です。加工しやすい石材により、複雑かつ優美な石垣を形成することが出来るので、城に興味のない方でも楽しめる、というのが一つの特徴ではないでしょうか。それでは「今帰仁城」「座喜味城」をどうぞ!

<今帰仁城>

 100名城としては3つ、続100名城として2つの城郭が認定されていますが、どちらも当然ながら本土のものとはかなり文化の違う感じです。また歴史も中世が中心なのでやや隔絶感がありますが、独立した歴史の流れとして見てみたいと思います。なので、100名城だけでなく続100名城と合わせて琉球の歴史を5つの城から見てみたいと思います。

 ポイントとしては、琉球王国による統一前は、三国(北山・南山・中山)での覇権争いがあり、これを中山の尚巴志が首里城を拠点として、1429年琉球統一を成し遂げます。
 その後、統一後の混乱期が、15世紀中頃に「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発。その関連する城郭として、座喜味城、勝連城、中城城があがります。今回は三国統一前、沖縄本島北部の巨城、今帰仁城(98・沖縄)を取り上げます。

 「美ら海水族館」のついでに立ち寄ったのですが、事前に思っていたよりも迫力のある壮大な城郭でした。一見したところでは、本土の戦国の城郭よりも、堅固な構えに見えるのですが、尚巴志にあっけなく負け、その後の薩摩の軍事侵攻にも負け、廃城となり、その見かけの立派さとは正反対の残念な歴史を辿ったようです。

 東シナ海につきだす半島に築城され、1km先に海岸線を見渡せる絶好のロケーションで、城好きでなくても十分楽しめる史跡です。また万里の長城をほうふつとさせる、本土の城郭ではまず見られないうねるような石垣はインスタ映え間違いなし、といったところでしょうか。
 近隣には美ら海水族館があるので、北部やんばる地域と合わせて回れば一日観光コースです。こちらは南部と異なり、海岸線の城郭が少なく、ただただ「自然」といった感じです(笑)どこかにヤンバルクイナもいることでしょう。ただ南部と比較すると、訪問時、お店も閉店しているところが多くちょっと寂しい印象ではありました。

 その後、大雨での一部石垣の崩落などもあったようですが、眺望としては琉球の城で第1位をつけたい城郭で、個人的にも、のんびりしていて琉球の城、綜合第1位です!

<座喜味城>

 今回は座喜味城(続199・沖縄)です。押印は2019年9月28日で、この時は二度目の訪問でした。歴史民俗資料館がリニューアルオープンされており、かつてよりこぎれいに整備された印象でした。
 この時は沖縄ジャングルカンファレンスで、第1日目が読谷村診療所での開催でしたので、その開始前に訪問してきました。(この時は読谷村診療所の多鹿先生と近隣の鍼灸師の野口先生のお力添えにて、カンファレンスが成功裏に終了しました。その後、2人の先生にはスカイプを用いた遠隔カンファレンスにもご協力いただき現在のオンライン形式の基本とすることが出来ました。ここにあらためて感謝したいと思います)


 この城は、琉球の築城名手といわれた護佐丸による築城とされます。彼は尚巴志に従い、北山の今帰仁城攻めの後に入城したといわれ、その後、勝連城の動きを監視するため中山王の命により中城城へと移ったとされます。
 しかし、ここに阿麻和利との確執が始まり、阿麻和利の計略にはまった護佐丸は中山王に討伐されてしまいます。ここだけ聞くと、一方的にかわいそうな話しなのですが、一説では中城湾における交易の利権をめぐる双方の覇権争いだったというのですが、そちらが実態に近いのでしょう。

 城の形態としては、複雑な曲線を組み合わせた縄張りで、星形のようにも見えるので変形版の五稜郭みたいに見えなくもありません。複雑に曲がらせることで横矢をかけやすくするという意図なのでしょうか。内部の構造としてもアーチ門をくぐって内部に入り込む形で、構造的にも複雑で、かつとても美しい建造物です。
 今回訪問時は、欧米人の撮影隊が何やら撮影しておりましたが、そうした映像にもとても映える建造物だと思います。



tougouiryo at 2022年08月21日22:51|この記事のURLComments(0)

お城と健康ネタが交錯するおかしなブログであることについて

 お城のコラムがとりあえず100名城をご紹介した後、少しお休みしておりますが、年明け辺りから続100名城をネタに再開しようと考えております。が、健康ネタに比べると、ほとんど読者数もなく、人気の少ないカテゴリーですので少し逡巡しております(=_=)

 年末ですので、城めぐりで本年を振り返ってみますと、合計200城に及ぶ正・続100名城のうち、199までは既に訪問を終了しました。
 実際に押印していない(続100認定前の訪問のため)ところも数か所あるのですが、それでも来年の早いうちにはコンプリート出来そうです。 

 思えば、白金台でクリニックを開業して四ツ谷に移転したばかりの頃、太田金山城をたまたま訪問したことから、城めぐりを開始し、現在まで延べ数で言えば、優に300は超えたと思います。(群馬県太田にはリフレクソロジーの市野さおり夫妻と、ある居酒屋目当てで一泊旅行した帰りでした。懐かしい思い出です)

 そもそもは中学時代に史跡訪問を趣味にしていた社会科の先生(その後獨協大学の歴史学の教授になられた新井孝重先生)が、とてもマイペースで楽しそうだったので、自分も社会科の教師になって、休日は史跡探訪したいなあと思ったのが始まりです。
 その後時は流れ、大学病院の勤務ではなかなか自由な時間が取れずにいたのが、個人開業、それもほぼ知られていない自由診療形式でしたので、良くも悪くもまあ暇なので、日本全国のお城を巡ろうと思ったわけです。

 歴史の営みとしては当然、人物が重要な要素なのですが、そうした人物によって展開される事件や出来事は、やはり背景となる「場」もまた重要になります。
 そして「場」は、人物の持つ時間的制約を超越して、現在に直接的に接続してきます。こうした場の代表的なものが「城」というわけです。

 城は、他の古戦場などと異なって一回性のものではなく、何度も歴史に登場することもあり、明治以降であっても、戦争への転用、観光資源としての再利用、地震や天災からの復興など、現在の問題ともつながっているところがまた面白いわけです。

 そしてなにより惹かれるのが、人と人との関係性や、敵国との関連性、勃発することのなかった戦争への予防線など様々な思惑が交錯する、出現することのなかった歴史性を持っていることです。
 これは、正規の歴史に対しての補集合的な、いわば歴史の「可能性」を内包するものであり、陰陽でいう「陰」でもあります。間隙を埋める充填剤や母集団的な「背景」でもあり、ここに代替医療と同様の「マトリックス性」を感じざるを得ません。

 城の持つ面白さと、ここで展開している統合医療の面白さとについて、これまで特に関連付けてコメントしたことがなかったのですが、まあ、こういう感触を持ちながら同じブログ内で扱っていたわけです。

 このマトリックス性に関しては、私の考える統合医療において大きな意味があり、今に至っても神秘思想など、いわば「ヤバい」思想の流れが気になる一因でもあります。
 ちなみに、この手の分野で最近、とくによくまとまっているなあという一冊をご紹介します。哲学や医療人類学、ニューサイエンスとの連携を実に幅広くあつかっている良書です。作者は予備校の先生のようですが、さすがに広範囲を教え慣れていないと、こうは書けないなと感嘆する一冊です。(予備校講師らしいクセも散見されますが…)ご興味ある方は御一読を!


神秘思想 光と闇の全史
富増章成
さくら舎
2021-11-11


tougouiryo at 2021年12月30日18:12|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高知城)

 内助の功で名高い、山内一豊の居城で現存12天守、高知城(84・高知)です。押印は平成30年12月3日でした。

 このお城は学生時代の頃も含めると(保健所実習などでは所長さんに大変お世話になりました)何度も来ているのですが、今回の訪問は「最後の100名城の押印」となりました。太田金山城から始めた100名城のスタンプ押印、何年かかるかと不安と期待で始めた日が思い出されます。この城自体は3回以上来ているのですが、最後の一つとしての押印は感慨無量でした。

 が、ここで終わるかと思いきや、終了前に「続100名城」が発表!終わったと思ったら、まだ半分となりました(笑) まだか〜と思う反面、終わってしまう淋しさが消え、新たな課題が始まった感じでした。

 そのためこの時の訪問は、岡豊城等の四国の続100名城と合わせての訪問となりました。また、この訪問時に「ひろめ市場」など、観光も楽しめたのは良かったです。かつての医局時代の嫌な思い出の地でもありましたので、この100名城完了により、浄化されました(笑)

 歴史的には、関ケ原の敗戦による長宗我部氏の所領没収に伴い、山内一豊が入国。当初は浦戸城(現在は坂本龍馬記念館がそびえたっています…)に入城したものの、手狭なことから南北朝期の城跡である大高坂山に築城。地名を「河内山」に改め、さらに「高智山」としたのが、現在の「高知」のもととなったようです。

 かつて長宗我部元親もこの地に築城したのですが、水はけの悪さや、水軍や海上交通の増強を目的に浦戸城へ移っていったという経緯があり、平和な時代に移行しつつあった山内氏とは状況が異なりました。山内時代になり、水軍などの整備よりは、土佐一国の交通の要衝としての機能に重点を置いたのでしょう。
 また山内としては、前任者のである長宗我部の影響を少しでも減らしたいという思いも少なくないでしょうね。江戸期の土佐における上士と郷士の対立などを考えると、これも納得です。

 天守はかつての掛川城を模したということから、掛川城の復元の際はこの天守がモデルとなったようで、この天守と本丸の建物がほぼ完全に現存しているのは、全国でも唯一です。
 それでも築城当初のものではなく、1727年の大火により、追手門を除くすべての建造物が焼失してしまい、1753年にようやく当初の形に復元されました。ただそれですらも、創建当初の復元が許されたのは喜ぶべきものの、新式天守をを建造できなかったとみることもでき、幕府への配慮であったとも考えられています。

 山内氏は明治まで存続し、土佐藩は明治維新の立役者として活躍するわけですが、こうした新時代への地ならしとして、深謀遠慮のもとに長宗我部ゆかりの家臣らが徹底的に排除されたとみることもできそうです。
 高知県はとにかく竜馬推し一本なのですが、なぜ、山内が領有し、そして徹底した弾圧が行われたかという、少しひいた視点でも再考するべきところがたくさんあるように思います。長宗我部の岡豊城と合わせて訪問すると感慨深いものがあります。

 今回はレンタカーで龍馬空港に向かったのですが、かつて医局時代ははバスで行ったので、その道のりがとても長く感じられたのが思い出されます。













高知城を歩く
岩崎 義郎
高知新聞社
2015-09T


tougouiryo at 2021年12月18日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (姫路城)

 泣く子も黙る国宝そして世界遺産、純白の名城、姫路城(59・兵庫)です。押印は平成21年9月22日でした。
 当時は現在の白塗りになる前の、まだ渋い色の天守でしたが、天守がすっぽりと覆われる改修工事の前に見ておこうという駆け込みも多く、長蛇の列でした(今も城ブームに乗って長蛇の列ですが…)。そしてここを見てから、その足で赤穂城に向かいました。帰路に長蛇の列に並ぶ、「城友」に遭遇したのが記憶に新しいです。

 この城はとにかくでかくてきれいなので、いつも混んでいる印象。ちゃんと入れた押印当時は、腹切丸を通るルートで天守に入っていましたが、その後、修理中には「い」「ろ」「は」の門あたりまで入れたもの、そこまでで天守に行けず、とか。その時の状況でいろいろです。
 とにかく混んでるし、「酸っぱい葡萄」の話のように、もういいよ、ってな感じなので、白くなってからは天守内部に入っていません。ただ、姫路に定期的に行く予定もあったので、外からは結構頻繁に見てはいます(笑)

 この城は元はかなりの大規模だったようで、今の姫路駅前くらいまで惣構で囲まれていたようです。駅から城郭まで歩く途中の遺構をみるとその大きさが実感できます。
 近年訪問した時は、押印時と比べても、駅前がかなり開発整備されきれいになった印象でした。かつてのややくすんだ灰色の重みある印象から、白過ぎない?、といった感じの真っ白天守にキレイさに磨きがかかったように思います(まあ建築当初はこうした白色だったようなのですが…)。と同時にくすんだ城が好きなので、ちょっと近寄りがたくもあり、ほとんど行ってません。

 それでも近世城郭の芸術的なまでの完成形を見るには、やはり姫路城をおいて他にはありません。天守にばかり目が行きがちですが、ここのすごいのは、やはり迷宮のような通路です。松山城並みの、心理を突いた小細工の数々(笑)です。これだけ天守へのルートがごちゃごちゃと回り道させられるというのは、もうそれだけで攻める気が失せますね。
 そんな守りのルートに固められた天守ですが、上からは無防備ですので、太平洋戦争時の焼夷弾が落ちるという危機一髪の事態にも遭遇します。幸運なことにこれが不発だったため天守は現存を保つことができました。同様なパターンで焼け落ちてしまった名古屋城と比べると、その幸運を感じざるを得ません。

 現在の大手門から入城し、真っ直ぐに進むと入城ゲートになり、正面に「い」の門、右手に三国堀でそのはるか奥に天守が聳えます。
 左手の後方に進むと「西の丸」に上がれ、ここは百間廊下が囲みます。ここの中を通っていくと千姫の持参金(化粧料)で建てられたといわれる化粧櫓になります。今でも千姫(の人形)が貝合わせをやっております。
 この西の丸御殿は、「鷺山」という山にあり、天守がある「姫山」とは別の山になっています。つまり、姫路城は二つの丘陵を使った平山城ということになります。
 そもそもは赤松円心が、姫山に砦を作ったことが姫路城の始まりとされ、その後、黒田氏によって本格的な築城がなされました。そして黒田官兵衛により、秀吉に姫路城が献上されると、三重四階の望楼型天守が建てられ、近世城郭として拡張されたとされます。
 その後、池田輝政が関ケ原の功により入城すると、西国監視を目的に一大拠点としてさらに整備されていくわけです。その後は、本多、松平、榊原、松平、本多、榊原と譜代・親藩の城主が続き、酒井氏になって明治維新まで続きます。とにかく西国の抑えとして極めて重要な拠点であったことがうかがわれます。

 姫路城天守のみならず、城下には広く遺構が残されているようですので、そうした街歩きをかねた遺構巡りもやってみたいですね。
 とにかく城の完成形を見るならココですね。江戸城の方が確かにもっと完成形ではあるのですが、いかんせん広すぎます(笑)



姫路城まるごとガイドブック
芳賀 一也(著・写真)
集広舎
2019-04-10












 
 

tougouiryo at 2021年12月11日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松山城)

 江戸末期に再建された現存天守、松山城(81・愛媛)です。押印は平成22年12月10日、湯築城の翌日に訪問しました。

 現在でも現存と復元あわせて50基の建造物が建つ迫力満点の城です。さらに重要文化財も姫路城に次ぐ21棟もあります。加えて充実の山麓部の二の丸御殿もあり、見どころ満載です。城下町には、道後温泉、路面電車、正岡子規博物館や「坂の上の雲」関連施設などなど、城だけにとどまらない再訪したい街です。

 築城者は、賤ヶ岳の七本槍のひとり加藤嘉明です。湯築城の前衛基地であった勝山にあらたに築城し、このときに「松山」と改称しました。
 しかし加藤嘉明はその後、会津への国替えとなったため城の完成を見ることはなかったといいます。ここに代わって入城したのが、蒲生氏郷の孫、蒲生忠知です。会津ゆかりの蒲生家が会津国替え後の松山に入ったわけです。交換したみたいですね。
 ただこの忠知も、二の丸を完成させたものの病没し、蒲生家は断絶します。そして親藩である松平が入り明治に至ります。いいところはいつも松平がとっていくようです。

 ここの天守は、加藤嘉明が五重天守を完成させたのですが、その後、三重に改修され、それも落雷により焼失。しばらくは(60年以上)天守無しだったのですが、幕末になり復興され現在の天守となっています。
 現存天守は幕末期の復興ですが、当時も築城当初の文献に基づいて建造されたようで、建て方も古風なものとなっているようです。
 また昭和になってから多くの櫓などが復興され、現存建築と合わさり往時の迫力が伝わります。居住空間とされる二の丸御殿は、それ自体で一つの城といった感じで、山上の本丸とが登石垣(松山城見どころの一つ!)でつながる様は圧巻です。二つの城、といった感じでしょうか。

 また姫路城同様に仕掛けの多い城で、防御施設としての強固さにこだわった造りとなっています。門をくぐるたびにUターンさせたり、あえて戸無しの門にして敵を誘導したり、また隠門から敵の背後を狙ったり、と仕掛け満載です。近世城郭の完成期の見事な仕掛けの数々です。
 こうしたところを、解説してもらいながら見ると、城の面白さが初心者に分かり易いでしょうね。テレビなどでもよく取り上げられるネタではあります。

 城の知識が増えてきたところで、是非とも再訪したいお城です。
















生誕150年記念 正岡子規 名作セット
正岡子規
ゴマブックス株式会社
2017-10-27


 

tougouiryo at 2021年12月04日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (湯築城)

 伊予河野氏の居城、湯築城(80・愛媛)です。押印は平成22年12月9日です。今治からまわり、松山に宿泊し、翌日、松山城を訪問しました。
 名前の通り、道後温泉のすぐ近くって感じの城ですが、公園です(道後公園)。城と認識しないとただ公園とだけ思っている人も多いのではないでしょうか。でもしっかりと復元された武家屋敷もあります。
 でもなんだかのんびりした雰囲気があります。温泉場が近いからなのでしょうか。

 さらに少し行くと松山城なので、結構、見どころが大渋滞です。さらに当時は「坂の上の雲」ブームにものって結構盛り上がっていた感じでした。

 14世紀前半に守護の河野通盛により築城されたといわれ、当初は山城として機能していたようですが、徐々に丘陵部の麓部分を城内へと取り込みんでいって平山城として形態になっていったようです。

 西側にある勝山は、現在は松山城があるのですが、こちらもかつては河野氏の防御拠点として機能していたようです。
 秀吉の四国征伐では、小早川隆景が伊予に侵攻、湯築城を包囲し落城。その後、河野氏は滅亡します。
 小早川氏に次いで、福島正則が城主となるも居城を移したため廃城。続く加藤嘉明が伊予を領有すると新たに勝山(味酒山)に「松山城」を築城したため、湯築城の資材を再利用したことで完全に廃城となったのです。中世の城が役目を終え、近世城郭に飲み込まれていく様子、そのままといった感じです。

 この城は、道後温泉のすぐ近くで、「湯月城」とも称され、築城以前から河野氏の別宅「湯の館」があったというくらい温泉とのつながりが濃厚です。
 かつての中央政権における療養所のような意味もあったのかもしれません。温泉と城という一見、場違いなもの同士のようですが、公共施設という意味で、大きなつながりがあってもおかしくないのでしょう。
 そうした古い支配層から、近世の支配層への移行を感じさせます。松山城とセットでとらえるとより興味深いものとなりそうです。














tougouiryo at 2021年11月27日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (金田城)

 五島列島の福江城と並んで、続100名城のラスボス、金田城です。NHKの最強の城にも認定されていますが、とにかく行きにくい…。おとなり韓国の方が近い「国境の城」、別名「かなたのき」。実際の由来は違うのかもしれませんが、かなたのき、の方がしっくりとくる城ですね。

 白村江の戦いの敗戦後に、唐の侵攻に備えて建設された古代山城で、大野城や基イ城などに続いて、国境の最前線として防人が配置されました。
 鬼ノ城や、玄蕃尾城に匹敵するハードな運転の行きにくさです。はるばる対馬に到着した上に、なかなかの山道、徐行運転、カーブは減速というよりほぼ停止、ライト点灯、クラクション併用です。到着しても狭い駐車スペースに、わナンバーの駐車群で転回も困難、携帯電話は電波状態悪く使用できません、とのお達し。そこからさらに登山スタートです。
 ただ、そこからは石塁や城戸、石垣が万里の長城のごとくに展開しており、事前に想像していた以上の迫力でした。壮大な石垣の向こうに、黒瀬湾が見え、三つの城戸は威圧感満点です。

 訪問時、ひざを痛めていたので、山頂部の旧軍施設や最高所の石垣など、アンゴルモアでの名場面をみることはできませんでしたが、いわゆる湾からの侵入を防ぐ城戸や主な石塁、さらには主郭にあたるビングシ山など主だったところは見ることができました。

 アンゴルモアで描かれるように「元寇」における活躍はなかったのかもしれませんが、古代の戦争に使用された施設が、近代になっての日露戦争でも軍事拠点となったというのはやはりすごいです。
 現在の見学路が、日露戦争時の軍用道路として用いられたものだからこその、見学のしやすさといったところでしょうか。

 大野城などでも感じましたが、古代山城の規模の大きさには圧倒されます。日本書紀の後半部の話にもかかわらず、現代的にもすごい規模で、いやおうなしに古代とのつながりを感じることができます。
 ある意味、古代山城ができてから中世、戦国の城郭につながったわけですが、知識なしにみたら順序が逆のように感じるのが普通でしょう。当時の国際的な緊張状態を知る上でも、とても勉強になりました。

 「アンゴルモア」のクライマックスとなるお城ですが、原作を読んでから実際に行ってみるとその迫力がさらに強く感じるのではないでしょうか。


#7 金田城
小野賢章
2019-12-13



対馬 日本海海戦とバルチック艦隊
著者:フランク・ティース 訳者:柄戸 正
文芸社
2011-12-01



【PS4】Ghost of Tsushima Director's Cut
ソニー・インタラクティブエンタテインメント
2021-08-20


tougouiryo at 2021年11月22日07:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (丸亀城)

 高松城の支城として成立した丸亀城(78・香川)です。現存12天守です。押印は平成22年12月13日、天守にて押しました。
 この城に到着前に、初めて香川県だったので、讃岐うどんの名店をと思い、2つの有名店をはしごしてから登城し、城山を下りてくる時になって気持ち悪くなったのを記憶しております。やはり糖質を急速に、多量に流し込むと胃がもたれるということを実感しました。
 ちなみに、糖質の食物の胃袋での停滞時間は長いので、逆流性食道炎など、酸っぱいものが逆流する症状をお持ちの方は、糖質制限で即座に症状改善されます、城とは関係ありませんが(笑)。

 亀山という小高い山に築城された丸亀城は、全山を圧倒的な石垣で囲まれており、その高さは60mにおよぶ壇上に天守が置かれています。天守自体は備中松山城11mにつぐ、小規模な天守で14.5mですが、こうした壇上にあるため、迫力、存在感は十分で、実際の大きさ以上の威圧感があります。ちなみに備中松山もそうですが、山城の天守は通常それほど大きくする必要もないわけです。

 それでも、結構この城は見せ方にこだわっているように感じます。天守は御三階櫓で、二つの二重櫓に多門櫓で接続したものだったといわれ、下から眺めると相当な威圧感だったのではないでしょうか。内部は居住性は考慮されておらず、景観重視だったようです。
 これは海からの景観も相当に良かったでしょうから、瀬戸内海を行きかう舟にもその威圧感は伝わったでしょうね。当然、そうした意図もあったでしょう。

 この城は元からあった「砦」をもとに、生駒氏が築城したのが始まりです。高松城の支城として築城され、城代が置かれていました。
 その後、一国一城令により、生駒氏は本城を高松としたことから廃城が決まりましたが、取り壊されることはありませんでした。
 生駒騒動により生駒の領地没収後は、讃岐は二分統治され、西讃岐は山崎氏が領主となり、ここに丸亀藩が立藩されます。これにより一度は廃城とされた丸亀城は再興されることになったというわけです。山崎氏断絶後は京極氏が入城、明治に至ります。

 ちなみに丸亀は「うちわ」も有名で、丸亀藩の下級武士に内職として奨励されたという事情から、現在でも代表的な地場産業となっています。そして今でも、全国のうちわの約9割の生産量を誇るようです。
 また、うどん文化も強固で、丸亀製麺がここ丸亀では継続できなかったというのですから、うどんへのこだわりも強い土地なのでしょう(2021現在丸亀製麺HP上は香川県内では高松に2店舗あるようです)。







日本の城 改訂版 53号 (丸亀城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-01-16














tougouiryo at 2021年11月20日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (金石城・清水山城)

 続100名城のラスボス的な対馬の城です。古代山城の金田城訪問のためなのですが、それだけではもったいないので当然他のお城にも足を延ばしてみました。中心地である厳原にある、宗氏の居城、金石城です。宿泊した東横インからも近く、街中のお城といった感じです。

 観光情報館ふれあい処つしまで、金田城のスタンプを押してから、そこに駐車させてもらい徒歩で大手櫓門に向かいました。遠くからも目を引く立派な門ですが、城内は復元された庭園のみで歴史民俗資料館ともども工事中でした。
 庭園管理のおじさんのお話によると、現在は学校のグランドになっているところに御殿があったようで、将来的には運動施設を移動し、御殿を再建する計画があるようです。
 心字の池がある庭園を(閉園しそうだったのですが)見学させてもらい、搦手門の石垣を見ながら、万松院に行ったのですが、こちらは間に合わず見学できず。金石川に沿って石垣をみながら帰ったのですが、万松院を出たところから猫(ツシマヤマネコではありませんでした笑)が大手門の辺りまで何かもらえると思ってか、しばらくついてきたのが思い出です。人懐っこいツンデレネコでした。

 翌日の早朝には、詰めの城的な位置にある清水山城へ。観光情報館では盛んに三の丸までで十分ですよと言われたのですが、そうはいきません。全部見ます。
 確かに厳原港を押さえる目的での城だけに、港が一望出来てとても景色が良いところでした。そこからは連郭式になっているので、二ノ丸、一ノ丸とまっすぐに登っていきます。ただ背後の有明山への登山ではないのでそれほど大変ではなく登れます。
 途中、枡形虎口などもよく残っており、一ノ丸では先ほどの三ノ丸以上の素晴らしい眺望でした。ここはそもそも秀吉による文禄・慶長の役における、朝鮮半島との中継拠点として築城されたもので、かの地に出兵した加藤清正ら多くの武将たちもこの風景を見たのかと思うと感無量でした。
 対馬は朝鮮半島から50kmもない位置ですので、ここまで戻った時には多くの出兵した武将たちはホッと安堵したことでしょう。かつて訪問した肥前名護屋城から、壱岐勝本城を経由して、いよいよここから出撃していったというまさに国境の城です。

 対馬の夜は、漫画「アンゴルモア」でも紹介されている居酒屋「対玄」で、アナゴをたくさん食べました。作者のたかぎ七彦先生のサイン色紙も飾られていました。
 以前は韓国からの旅行者であふれていたようですが、コロナ禍の影響でそうした旅行客も全くおらず、ゆっくりと歴史探訪ができました。白村江の戦い、文禄・慶長の役、日露戦争、と歴史上、地政学的に重要な位置を占め、さらには倭寇の拠点でもあった対馬は、少し遠いのですが機会がればまた再訪したい地となりました。


街道をゆく 13 壱岐・対馬の道
司馬遼太郎
朝日新聞出版
2014-10-07










tougouiryo at 2021年11月18日20:10|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高松城)

 堀に鯛が泳ぐ海城、高松城(77・香川)です。押印は平成22年12月12日、徳島城のあとに訪問しました。現在は、城郭の主要部は「玉藻公園」として整備され、なんと堀で鯛のエサやりが出来ます。その名も「鯛願城就」!
 100円で購入したエサを、願いを込めて投げ込む、というわけです。鯛が、鯉みたいに足元に集まるのですごく楽しいです!

 高松城は、生駒親正により3年の歳月をかけて築城されました。瀬戸内海の海水を堀に引き入れた水堀を巡らせた縄張りです。
 当初は望楼型の天守だったものを、後に松平によって老朽化にともない層塔型の天守となりました。この時、小倉城を参考として、最上階を張り出す「南蛮造」の天守だったといいます。
 建築当時は、層塔型の完成期にあり、南蛮造を取り入れた造形的に成功した天守だったようです。現在は何もないので、想像するだけですが。ただし天守台が残っているので、分かり易いです。

 また月見櫓は、現存の建造物で当初は瀬戸内海に面した三重櫓で舟の到着を監視する役目がありました。現在は埋め立てにより、道路沿いなのですが、ここまで海面が来ていたのかと、想像することはできます。

 築城した生駒氏は、秀吉により讃岐一国を与えられ、当初は引田城に入るですが、あまりに東に偏っているため聖通寺城へと居城を移します。
 しかしここも山城のため不便であるということで、野原という港町に築城し、地名を「高松」にあらためたのがこの城の由来となります。
 生駒氏はその後、「生駒騒動」により国替えさせられ、徳川光圀の兄の松平頼重が入城し、増改築を行い、この形で明治を迎え現在に至ります。

 街中の水堀の豊富な静かな公園、という感じで、鯛願城就もたのしく、三回ほどやってしまいました!














tougouiryo at 2021年11月13日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go 番外編

 「お城へ To Go」として、お城のブログとして、医療ブログとは一線を画して連載していますが、じつは医療とは全く無関係とは考えていません。ウィルバーの4象限の「ITS」(客観・複数)の実例でもあるのは、これまで書きましたが、多元主義理解のための実例でもあるのです。

 教条、折衷、多元、統合という、複数のカテゴリーの括り方の差異について、統合医療という概念は極めてあいまいであり、それゆえに現在でもその概念の混乱がある、というのがこれまでの(これからも)私の主張です。こ の説明の具体例として、結構、城の分類が役に立つというわけです。

 いわゆるお城を時代的に大きく分類すると、古代山城、中世山城、近世城郭に大別できます。少なくても100名城などの城巡りでは、これらのどこに分類されるのかを意識しながらめぐることで、見どころポイントを外さずに済みます。(類型化には多くの問題もありますがやはり分かり易いというのが最大のメリットではあります)

 古代山城に関しては、大和朝廷の対外政策の関連(大野城・鬼の城・金田城)なので、少し例外的で、東アジアにおける世界情勢に大きく影響されます。それゆえに大規模ではありますが、築城の意図などは明確で、統合医療のモデルにしては極めて単純なものになります。(「正しい統合医療」といった言説に近いでしょうか)
 それに対して、中世山城となるとまさに「折衷」から「多元」への移行、そしてその発展としての近世城郭は「多元」から「統合」への移行、を象徴しているように思います。

 応仁の乱以降の混乱期から、戦国時代へと突入、次第に吸収合併が進んでいくさまは、まさに折衷状態が、力の強さによって統合へと向かう様子そのものとも見れます。この過程がまさに中世山城的です。
 それから織田信長による安土城築城から、統合への意図がちらほらと透けて見えるようになります。それでも、各地の大名が群雄割拠した政局が続くため「多元的」状況が続き、或る意味そのまま近世江戸期に入ります。そしてこの幕藩体制そのものが、「多元的」政体とも言えます。幕府自体は中央集権化しておらず、天領など直轄地からの税収で運営されいると考えられるので、多元の要素を多くもつわけです。つまり、近世城郭は「多元」の象徴とみなすことが出来そうです。
 そして明治政府の樹立により近代国家が形成され、廃藩置県が断行されることで、「統合」(そしてある種の「教条」)が完成されたと見ることもできるわけです。中央集権という言葉にそれが象徴されているわけです。


 これまで、多元と折衷の違いなどでは歴史的視点で解説してきたのですが、城との関連で今回は解説してみました。
 いずれにせよ、こうしたモノサシ📏の導入により城も統合医療も、混乱を少しはのぞけるのではないか、という試みです。少し「恣意的」な感じもしますが、結構良いモデルなのではないかと自負しています。
 ちなみに統合医療の臨床連携のモデルとしては「離島」をモデルとして昨年の統合医療学会で発表しました。抽象的な概念や仕組みついては、やはりモデルによる「比喩」が分かり易いですね。

 本日はジャングルカンファレンスのオフラインでのリアル開催です!


 参加希望の方はこちらからどうぞ!

tougouiryo at 2021年11月11日08:54|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (徳島城)

 阿波蜂須賀家の居城、徳島城(76・徳島)です。押印は平成22年12月12日です。徳島大学での統合医療学会参加の翌日に押印しています。前日に、徳島に入り、アリゾナ大学統合医療プログラムの同窓生たちと夜に会合したのが思いだされます。当時、なんとなく幹事が私でしたので、徳島市内で飲み会の適当な居酒屋が見つからず、結構探した記憶があります(笑)

 徳島城は、河口の三角州の城山にある平山城です。もともと二つの城を合わせた大規模な城郭で、秀吉の命により築城されました。
 現在の徳島駅の裏手に位置し、徒歩で鷲の門(復元)から三木曲輪に入り、大手枡形を抜けると広い城内に入ります。ここにかつては御殿があり、現在は徳島城博物館があります。
 そこから東二の丸である天守跡となります。ここの天守は石垣上に建てられず平地に直接建てられたといわれます。さらにここは本丸から一段下になっている形で天守があったとされており、少し上がって本丸になります。
 この本丸東部には城内最古の石垣が確認されており、この本丸を頂きとして反対側へと今度は下がっていきます。西二の丸、西三の丸、西の丸と下がり、山の反対側に降りてきます。
 かつては二つの大きな川に挟まれたこの城山、まさに天然の要害といった感じだったのでしょう。いまは街中、駅近の街のシンボルといった感じですが。

 戦国期は次々に支配者がかわった阿波ですが、秀吉の四国平定により蜂須賀氏が領有してから徳島と称されるようになり明治まで継続します。
 この蜂須賀の統治下で安定した徳島で、築城にたずさわった者への労いとして城下の者に大盤振る舞いし、これに民衆が大騒ぎしたことで「阿波踊り」が誕生したと伝えられます。
 不安定な時代を経て、安定した政権の到来を迎えた民衆のほっとした気持ちの表れなのかもしれませんね。
 

週刊 名城をゆく 45 徳島城・洲本城
日本アート・センター
小学館
2004-12-28



徳島 城と町まちの歴史
河野 幸夫
聚海書林
1982-04T



徳島あるある ご当地あるある
山口敏太郎
TOブックス
2017-01-10





tougouiryo at 2021年11月06日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (今治城)

 藤堂高虎考案の新式五重天守、今治城(79・愛媛)です。押印は平成22年12月9日です。今治城はこれまでに2度ほど行っております。海城なのですが、堀は広いものの街中にあるので、あまりそのような印象はありませんね。でも堀の水は海水だそうですから海城なのです。
 二度目の訪問時、しまなみ海道から車で行ったのですが、今度は是非、自転車で挑戦したいものです。

 今治城は、藤堂高虎が関ケ原の功績により、国分山城に入城した後、瀬戸内海の制海権を考慮して、海辺に新たに築城されました。
 河口付近に位置するため、海路、水路ともに押さえ水陸の要衝の地となりました。瀬戸内から吹き上げられた海砂を集めて築城されたことから「吹揚城」とも称されます。

 ただ高虎は完成直後に伊勢・伊賀に国替えとなってしまうのですが、その後も今治2万石は飛び地として領有を認められます。城としてはやはり高虎の城で、城内には馬に乗った高虎の銅像もあるので、その印象が強いですね。かなり大柄なひとだったようです。
 移封後は養子の高吉を城代としておいたのですが、その高吉も伊賀へ移った後は、松平が入城し、明治に至ります。

 今治の天守についてはいろいろと謎があり、天守完成後に伊賀への国替えの際、伊賀上野城への移築を目的に短期間で解体されたといいます。
 しかしその後、家康の命により丹波亀山城の天下普請として献上され、結果、亀山城の天守となったようです。天守建造において高虎ブランドが当時からあったようですね。でも現在、今治城には天守台がないことから、そもそも天守はなかったとする説もあり、真相は分かっておりません。
 そんな中で昭和55年に、現在の模擬天守が建造されました。本丸の跡は、現在では吹揚神社となっています。

 一度目はここから大洲城へと向かいましたが、二度目の訪問時は、しまなみ海道から入って今治に泊まり、夜は「健寿司」さんで瀬戸内の海の幸を堪能しました。とても親切にして頂き、後日、ミカンを箱で送って頂きました。とても思い出深いお寿司屋さんでした。











tougouiryo at 2021年10月30日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (大洲城)

 層塔型の四重天守、大洲城(82・愛媛)です。押印は平成22年12月10日、宇和島城へ行く前に訪問しました。藤堂高虎の築城で考えると、宇和島、大洲、今治となります。築城年を逆行する形で、連続訪問しています。

 宇都宮氏による地藏ヶ嶽城が、その前身といわれ、秀吉の四国平定により小早川隆景が入城します。以後、戸田、藤堂、脇坂、加藤と城主が変遷し、脇坂の時代に大津城から「大洲城」へと名称の変更があったようです。
 藤堂高虎は、板島丸串城に城代をおき、大洲城を居城としました。以後、今治城の普請を開始してからは、藤堂高吉を城代としてこの大洲に入れ、このころから城下町の整備が進んだといいます。以後、脇坂を経て加藤氏の治世で明治維新を迎えます。

 大洲城は、藩校明倫堂跡にある駐車場からスタートし、本丸へ向かって上がっていきます。町割りは今も当時を踏襲しているようなのですが、道幅も狭く、運転しずらい街中でした。
 現在の天守は、2004年に木造復元されたもので、四重天守を忠実に再現したものといわれます。復元前には、櫓二つは残っていあたのですが、さすがにそれだけですと当時の写真からも天守の迫力は全く伝わりません。
 この二つの櫓をつなぐ形での天守は何としても復元したかったという気持ちはよくわかります。本丸から城下町が一望でき、その背後には肱川が流れ、当時の大きな堀があれば一山が、水にぐるりと囲まれた形になります。
 小さな城下町なのですが、当時の繁栄を誇りに思う気持ちが強く伝わるお城でした。


日本の城 改訂版 91号 (大洲城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-10-09










tougouiryo at 2021年10月23日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (宇和島城)

 宇和島湾を望む景勝地にそびえる宇和島城(83・愛媛)です。押印は平成22年12月10日です。これまで二度ほど訪問していますが、その度に城下で「鯛めし」食べております。

 この宇和島城からブログ記事三つほど、築城の名手、藤堂高虎の関連する城が続きます。宇和島城の前身は、藤原純友の乱の際の砦が原型とされ、「板島丸串城」と呼ばれるようになりました。その後、長曾我部、小早川などの領有を経て藤堂高虎が入城します。これにより丸串城を利用して、宇和島城の大改修が開始されました。

 高虎による慶長期の天守は、望楼型なのですが、後の層塔型の特徴も備えていたといわれます。この天守は複雑巧妙な建築といわれ、破風や屋根が入り組み、この地方の風雨の多さから、雨漏りの原因にもなったのではないかといわれています。復原図などを見るとたしかに、どこかで雨漏りしそうです。

 また「平山城」の形態なのですが、二面を海に面した「海城」とみることもでき、後の海城の代表である今治城への系譜を見ることができます。
 何故、藤堂高虎がここまで築城に秀でたのかという問題はさておき、こうした築城遍歴を重ねることで着実に築城に関しての知識を蓄積していったことは確かです。

 宇和島城の縄張りは、海に面した扇状地における不等辺の五角形しており、曲輪の配置は梯郭式で、高石垣による防御を強めたつくりとなっています。

 高虎によって近世城郭として確立され、その後関ヶ原での功績により高虎が伊予に移封されると、伊達秀宗が入城、地名が宇和島と変更され、城名も宇和島城となります。

 以後、伊達家により老朽化した天守などの大改修がなされ、現在の層塔型の天守が完成し、明治を迎えます。
 そしてこの天守は、狭間が一切見られないことから太平の世の天守の代表とされているのです。宇和島湾の望む小山の頂上にたたずむ、その姿はちょっとかわいい印象です。

 ちなみに駐車場から、一気に駆け上がると結構な急斜面で、高石垣の上から見下ろされる感じは、天守の印象と違ってなかなか厳しい印象もあります。
 また宇和島は真珠の産地としても有名ですので、近隣で真珠を買ったりしてもいいですね!




日本の城 改訂版 33号 (宇和島城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-08-29





 

tougouiryo at 2021年10月16日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (津山城)

 一二三段の石垣が素晴らしい津山城(67・岡山)です。押印は平成28年9月3日です。津山駅から歩いて10分ほどで行けるのでアクセスいいです。

 室町時代に山名忠政が築いた鶴山城が基盤となり、森忠政(この人も忠政!)が改修し、鶴山(つやま)から津山と改名して津山城となりました。
 応仁の乱以降、この地の支配者は次々と変遷していったのですが、関ケ原の後、小早川が領有、取り潰しになったことで、信濃川中島から森忠政が入り、居城としたわけです。

 この築城にあたっては面白い話があります。森忠政は九州小倉城の天守を理想とし、家臣に現地調査させたところ、怪しまれ捕えられてしまいます。しかし、事情を聴いた城主細川忠興は、今度は一転して調査を許可し図面まで与えて、この家臣を津山へ帰したとされます。そして天守完成の時には、天守最上階に飾る釣り鐘を寄贈したというから親切な人ですね。

 ちなみに、この忠政は森蘭丸(本当は乱丸)の弟で、5人の兄がすべて早世したために家督相続となったという人です。その後もこの森家は跡継ぎに恵まれず、5代目が発狂し、そのまま所領没収という結構不幸な系図です。その後は結城秀康の系列の松平氏によって幕末まで続くことになります。

 この巨大な平山城は12年もの歳月をかけて築城され、全体が雛壇のように造成され、高石垣で形成されています。関ケ原直後の軍事的緊張を反映した要塞といわれるゆえんです。
 実際に城内を歩くと、高石垣がそびえたつ横を進み、複雑な折れ曲がりや石段が次々と現れるさまは、技巧が凝らされて感動です。天守曲輪などはちょっとした迷路のようで、圧倒的な軍事力へのこだわりを感じます。
 こうして天守台に至るわけですが、2013年には美作建国1300年として18日間限定で、発泡スチロール製の天守が復活していたようです(実物の二分の一だったようですが)。実際の津山城の天守は、明治の廃城令により取り壊されているようです。

 ちなみにこの津山の地は、津山ホルモンうどんで有名なことに加え、八つ墓村の原案ともされる「津山30人殺し」の地でもあります・・・


絵図で歩く津山城下町
尾島 治
吉備人出版
2016-07-27














津山事件の真実(津山三十人殺し)
事件研究所
フローマネジメント
2011-08-15



tougouiryo at 2021年10月09日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (備中松山城)

 唯一現存する山城天守、備中松山城(68・岡山)です。押印は平成23年11月21日、鬼ノ城訪問の前に行きました。山麓からの高さが350mあり、険しい山上に築かれており、不便であるにもかかわらず、幕末まで存続し、天守が現存しているというのがこの城のスゴイところ。

 通常、明治になってから払い下げや取り壊しなどになるのですが、ここはあまりに山上なので搬出などの費用がかさむなどの理由で放置。それゆえに倒壊寸前にまでなっていたところを、昭和になってから二重櫓などを含めて解体修理がなされ、昭和16年には旧国宝にまで指定されています。

 駐車場から20分ほど山道を登っていきます。中太鼓櫓を経由してさらに上ると、自然の岩盤を取り込んでそびえたつ高石垣が見えます。
 この城が難攻不落といわれる、その雰囲気を味わうことが出来るまさに絶景です。そこから本丸に入ると現存天守が、こじんまりとした感じで建っています。二重なのですが、角度によっては三重に見える天守で、側面の「廊下」から天守に接続しています。
 内部は現存なので簡素なつくりなのですが、一階奥には一段高い「装束の間」があり、城主の自刃の場として用いられるという解説がありました。
 また二階には神棚が祀られ、多くの神々を祀ってあり、この多さはこの松山城のみとされています。山上の城ですので、とても静寂な中での見学でしたので、とても神聖な気持ちになったのを記憶しています。「装束の間」もすごく雰囲気あります…

 この天守は、臥牛山の4峰の中で「小松山」に建造されており、戦国期山城としては、さらに奥の大松山に大松山城がありました。
 この手前に大池という貯水槽もあり、忠臣蔵の大石内蔵助がここに滞在した折には屋根もかけられていたという記録があるようです。
 そもそも初めに臥牛山に築城した秋庭重信は、この大松山に築城したのでした。その後、三村氏により小松山と連続した一大城塞として整備されていきました。

 そしてこの三村氏が織田方についたため、毛利氏との戦闘の前線基地となり「備中兵乱」という戦乱が繰り広げられました。この騒乱を、智将、小早川隆景が制し、三村氏は滅亡、毛利領となります。その後、毛利の関が原の敗戦により、徳川直轄地となった後、池田氏により備中松山藩が立藩、一時期、赤穂藩に管理されることになり、この時に大石内蔵助が城番として在城したわけです。

 幕末期、この藩からは、老中板倉勝静が出て、慶喜の信任が厚かったことから、朝敵とされるところを藩の執政であった山田方谷により新政府に恭順、無血開城を行いました。
 この山田方谷は陽明学者として当時から高名で、長岡藩士河井継之助の師としても有名で、藤田東湖、佐久間象山とともに幕末三傑にも挙げられる偉人です。
 維新後は、新政府の出仕の誘いも断り、再仕官することはなかったという筋の通った人物といわれます。新政府の本質を理解していたとも言われます。
 城としては蛇足ですが、この方谷は、朱子学と陽明学の利点と欠点を心得ていたといわれ、陽明学の欠点として挙げている点は、現在の通俗的なプラグマティズム批判にも通じる面があり、現代でも意義があるものだと思います。






備中松山城 猫城主 さんじゅーろー
西松 宏
ハート出版
2019-07-21




日本の城 83号 (備中松山城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-08-11







運命をひらく山田方谷の言葉50 (活学新書)
方谷さんに学ぶ会
致知出版社
2017-06-27


tougouiryo at 2021年10月02日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鬼ノ城)

 神籠石系の謎の古代山城、鬼ノ城(69・岡山)です。押印は平成23年11月21日、鬼城山ビジターセンターにて押しました。備中松山城と同日に訪問しました。

 レンタカーで鬼城山を上がっていきましたが、とにかく道幅が狭い。すれ違いの対向車が来たら、もうダメというドキドキ感の中での運転でした。城巡りはこうしたリスクがつきもので、100名城巡りでも忘れたころに、この恐怖に襲われます。最近では玄蕃尾城への山道にいたるまでの片側通行(!)のトンネルが最恐で、十数分に一度の交互通行の上、激狭のトンネルがトラウマに残っていますが、これ以前は、ダントツでこの鬼ノ城の山道でした。

 そんな怖い思いをしながら、何とか上って訪問しました。それだけに山頂からの眺望は抜群で、白村江の敗戦の後、唐・新羅への防御施設として築城されたというのも納得です。
 岡山のこれほど奥地にまで、これだけのものを建造したのですから、当時の敗戦のインパクトは相当な恐怖を引き起こしたものだったのでしょう。

 現状は、西門周辺に版築土塁、高石垣、角楼などが復元され、朝鮮式の意匠とともに異国情緒あふれる建造物を見ることができます。
 この同時期に、筑紫では水城、大野城や、対馬での金田城など古代山城が次々と建造されたようなのですが、みなこのような意匠だったのでしょうか。であれば、われわれがイメージするよりもずいぶんと西国は異国情緒あふれる雰囲気だったのかもしれません。

 ぐるっと城壁を巡る見学路が整備されて、眺望の良い中を歩けるのは素晴らしいのですが、途中、「マムシ注意!」の看板を見つけた瞬間にテンション下がりました(まあこうしたパターンも城巡りあるあるです!)。この山頂は平坦で水場も多いので、確かにいそうです…。
 こうした平坦な場で多くの礎石が見つかっており、かなり大規模な要塞といった感じだったのでしょう。

 また同時期における、畿内政権の地方支配を徹底するための威嚇的な軍事施設でもあったようで、対外、対内の両側面へのアピールと考えるとこの規模は納得です。

 吉備津彦命と戦った鬼の一族「温羅」の居城であったという伝説も、こうした建築意図からすれば当然だったのでしょうね。ちなみにこれらが岡山での桃太郎伝説へとつながるようです。
 戦国の山城とは全く違った見方が必要な古代山城、たまに違った雰囲気に包まれるにはもってこいです。でもやはり中世山城の方が好みです・・・。



鬼ノ城と吉備津神社—「桃太郎の舞台」を科学する (シリーズ『岡山学』)
岡山理科大学『岡山学』研究会
吉備人出版
2009-12-12



鬼ノ城と大廻り小廻り〔吉備考古ライブラリィ2〕
村上 幸雄.乗岡 実
吉備人出版
1995-02-09








tougouiryo at 2021年09月25日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (萩城)

 関ケ原敗戦後の毛利の居城、萩城(75・山口)です。押印は平成29年7月23日で、長州藩の歴史探訪旅行としていきました。津和野城からの翌日の訪問になります。
 萩城下の志士関連の史跡めぐりもあわせて行ったので、見どころ満載の旅行でした。高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らの生家を訪れ、それらと松下村塾、松陰生誕地、野山獄、明倫館などの歴史的名所との距離感なども掴めたので非常に勉強になりました。

 萩城は指月山麓にある平城と、山頂部にある山城に分かれ、山麓の本丸には五重天守が建てられていたようです。当初は赤瓦だったようで、白壁との赤白のコントラスト美しい天守とされます。
 縄張り的には、これまでの毛利の二つの居城が雛形とされ、山頂部の詰めの城的な山城部は郡山城に、三方を海に囲まれた平城部は広島城にその原型を求めることができるようです。

 この城のすごいのは、詰めの城は緊急避難的な要素のみであることが多いのですが、結構がっちりとした防御がされており、詰丸として本丸、二の丸があり、ちゃんと一つの城のようです。
 その入り口は要害門として枡形虎口があり、内部には籠城のためか巨大な用水槽もあり、平時においても要害番番士により海陸の監視が行われていたといいます。
 標高143mあり、急峻な要害といった感じで、実際のぼると結構大変です。夏でしたので、汗だくだくで、蚊にさされるは結構大変でした、そのまま観光を続けられず、ホテルへ戻りシャワーを浴びたのを覚えております。

 関ケ原敗戦の後の築城ということで、そうとう幕府を遠慮したということになっていますが、結構厳重な防御が施されており、ちょっと不思議です。それほど幕府も目くじらをたてなかったということなのでしょうか。確かに歴史的には「五郎太石事件」など起きた際にも重臣を厳罰に処したりしているので幕府への警戒は強かった見るべきなのでしょうが、いわゆるびくびくした感じは城からは感じられませんでした。

 世界遺産認定で訪問当時は、大河ドラマ放映の後でもあり、急速に整備された感じでした。古い町並みも保全されているので、ゆっくりと散歩するとちょっとしたタイムスリップ感を味わえるのではないでしょうか。
 ただ、当時宿泊したホテルも現在は廃業しているようで、しだいに斜陽な感じなのですかね。コロナ禍により、さらに寂しくなってしまっているのでしょうか。山口城が未訪問なので、併せてまた再訪したいお城です。











tougouiryo at 2021年09月18日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (広島城)

 毛利輝元により築城され、原爆により倒壊した天守、広島城(73・広島)です。押印は平成27年11月21日で、吉田郡山城の訪問後です。
 毛利の居城の変遷でみると、元就時代の吉田郡山城から始まり、交易や規模拡大の必要性から輝元により広島城へ移り、毛利氏の頂点をむかえます。その後、関が原の敗戦により、萩城へと移り、幕末の混乱の中、幕府に無断で山口城に移転し明治を迎えます。そう考えるとちょうど、城の変遷の順に訪問していたことになります。山口城はまだ未訪問ですが…。

 広島城の五重天守は戦前まで残っていて、岡山城天守とともに建築史上重要な天守だったのですが、終戦間際まで火災にもあわずに残存したにもかかわらず、最後に原爆で吹き飛んでしまったのは本当に残念です。
 現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもので、往時の小天守などは復元されていません。つまり元々の連結式天守にはなっていません。またかつては88基の櫓を有していたといわれ、相当な重装備の城郭だったことがうかがわれます。

 縄張りとしては、本丸が上段・下段の二段構えになっており、二の丸はそこからの出撃口的な馬出の形状をしています。
 そしてそれらを三の丸が囲うようになっており、堀は河川を利用した直線的な水堀となっています。またさらに外郭は、そもそも太田川の三角州に築城されたために自然の太田川に囲まれ、天然の防御態勢となっています。
 また縄張りの原型は、秀吉の聚楽第にきわめて似ており、その外郭を福島時代にさらに拡張したのが、全景と考えられます。

 戦略的には、いざとなると北側から逃走し、従来の吉田郡山城を詰めの城として利用し、敵勢に対して迎撃態勢に移れることも念頭に置かれていたようです。いずれにせよ、この築城により、河口のデルタ地帯であった広島が埋め立てが進み、現在の形への基盤となったわけで、文字通り広島発展の基盤とも言える城郭なのです。

 毛利氏が萩へと移った後は、福島正則が入城、城郭や城下の拡張、さらには年貢負担も軽くして善政を敷いたとされます。しかしこれがかえって幕府との関係を微妙にし、家康の死後、台風による破壊を無断で補修したことなどを詮議され、いざこざの末、領土没収となります。
 その後は徳川との関係の深い浅野氏が入城し、明治まで継続していきます。

 原爆ドーム、平和祈念館とともに、倒壊した天守をしのびつつ、再度来訪してみたいですね。倒壊というと本日は、9月11日。WTC倒壊の日でもありました。9月10日にツーソンにワイル先生に会いに行き、そのまま飛行機が飛ばず、日本に帰れなくなった日を思い出します。あれからもう20年なんですね。皆さんは、あの時何されてましたか?





日本の城 改訂版 11号 (広島城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-03-28



広島ご城下 歴史たび
原田 邦昭
南々社
2020-04-09






tougouiryo at 2021年09月11日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岩国城)

 錦帯橋越しの優美な復興天守、岩国城(74・山口)です。押印は平成27年12月14日です。山口での学会参加後に、足を延ばしての訪問でしたので、リフト終了間際の忙しい訪問となりました。文字通り駆け足で周り、ぜーぜーしながら天守にたどり着きました(笑) そのため、復興天守と離れて存在する本来の天守台に気づかず、これはいまだ未訪問となっております。

 ここはとにかく、観光地として素晴らしい。城下には武家屋敷があり、藩主の居館跡が吉香神社となり、隅櫓的な錦雲閣もあります。加えて、錦帯橋が美しく、わが国の建築技術の高さを知ることができます。また城下では、1738年に最古の目撃があるとされる、天然記念物「白蛇」(アオダイショウのアルビノ)も見学できます(私は蛇が嫌いなので見に行っておりません)。

 この岩国城はちょっと変わった来歴があります。関ケ原の合戦後に吉川広家により築城されたのですが、毛利本家のお家断絶が決定していた状況で広家が、自らの領地を本家に与えるよう懇願しました。これにより毛利輝元に周防・長門が与えられ、みずからは岩国3万石となったのでした。
 それでも広家自身は更なる戦乱を予見したのか、防御に強い城を築城し、山頂に三重天守をあげました。この時期にこうした築城は珍しいようで、広家なりの時代の読みがあったのかもしれません。
 しかし一国一城令により、差上部の城の取り壊しが決定され、建物は撤去、完成後わずか7年しか天守は存続できませんでした。
 せっかく立てた防御の城郭を破却するのはさぞや無念だでしょう。その後は山麓の居館のみとなりましたが、これは幕末まで継続しております。

 そもそもこの岩国は、長州藩の独立した支藩としても認められておらず、維新ぎりぎりで認められたという経緯があります。それも廃藩置県によりすぐに廃藩となり、なかなか厳しい歴史を有しているのです。
 山頂からの素晴らしい眺めをみながら、この数奇な藩の運命に思いをはせてみるのも良いかもしれません。







日本の城 41号 (岩国城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-10-22













tougouiryo at 2021年09月04日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (郡山城)

 毛利躍進の拠点、郡山城(72・広島)です。押印は、平成27年11月21日で、広島からレンタカーにて訪問しました。のんびりとした田舎町といった安芸高田市にあり、郡山という山、全山丸ごと城という、西日本最大級の山城です。

 もともとは南北朝時代に毛利時親が築城しているのですが、それが旧本城にあたり、南東麓にあり、そこから拡張されて、山頂に本丸を置く、巨大山城へと変貌していったようです。
 毛利輝元によって広島城が築城されるまでは、ここがずっと本拠地ですから、元就時代の中心地ということになります。

 全山で曲輪の数は200を超えるといわれ、圧倒的な数を誇ります。その割には、堀切や土塁などが少ないというのがこの城の特徴です。
 山麓の駐車場から、本丸を目指して上るのですが、途中、尾崎丸、旧本城にも行けるのですが、とにかく城域がでかいので、一通り周ったら相当の疲労と足の痛みが出てしまいました。翌日、広島城を巡っていて足が痛くて仕方なかったのを覚えております(笑)

 この郡山城は、主を尼子から大内へと乗り換えた毛利元就が、尼子の3万を超える大軍勢に包囲され籠城戦を展開した城です。
 大内からの援軍を待つ間に両軍、膠着状態となったものの援軍到着後は、形勢を逆転させ総大将尼子久幸を討ち取るに至りました。

 またこの時、援軍として派遣されてきたのが陶晴賢で、のちに元就が西の桶狭間とも称される奇襲戦、厳島の合戦の敵役となるわけです。今川義元みたいな感じですかね。二人の武将のその後の展開を知っていると運命を感じてしまいます。

 またこの城には、元就が城の拡張を行った際に人柱の代わりにしたと伝承される「百万一心碑」を模した碑が有名です。ちなみに百万は「一日一力」とも読めます。



郡山城 ―毛利氏260年の城― 日本百名城選定記念企画展〈安芸高田市吉田歴史民俗資料館図録 7〉
安芸高田市吉田歴史民俗資料館[編]
安芸高田市吉田歴史民俗資料館
2007-04-06






 

tougouiryo at 2021年08月28日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (津和野城)

 山陰の小京都の城郭、津和野城(66・島根)です。押印は平成29年7月22日、リフト茶屋にて押しました。友人たちとの長州藩の歴史見学の一環として、立ち寄りました。
 訪問時は、天候悪化のしつつある夕刻で、リフトの営業時間を早めて、終了してしまうそうになっており急いで見学しました。我々の少し後に、営業時間内なのにリフト終業となってしまい、外人さんが残念そうに帰っていったのが印象に残っています。また、友人が自販機でペットボトルのお茶を買ったら、何本も出てきてしまい、焦ったのも良い思い出です(笑)

 もともとは元寇の際に築かれた山城で、対外戦争を想定して険しい山に建てられましたが、吉見頼行の地頭赴任とともに居城となります。このときが三本松城と称され、その後、坂崎氏により津和野城として完成しました。その後、亀井氏による改修され、明治の廃城令により解体され、現在に至ります。石垣のみが現存の状態となります。城下町との比高が200mあり、約5分ほどのリフトで上がることになります。そこからさらに尾根筋を歩いて出丸、本城に至ります。近世城郭として整備されたときには、三重天守をはじめ多くの櫓があったとされますが、落雷にて焼失し、その後は再建されなかったようです。

 津和野で亀井氏なので、亀井静香との関連があるのかと思い、調べてみたところ、亀井久興、亜紀子がこの直系のようで、静香は傍流にあたるようです(WIKIによる)。いずれにせよ、このころからの流れが政治家に必要なようですね。現代の政治を見るのにも城はちょっと参考になるのです(笑)

 三本松城から大改修して津和野城とした坂崎直盛ですが、千姫を強奪しようとした千姫事件で有名です。大坂の陣で千姫を救出した直盛ですが、この千姫強奪が露見します。これは横恋慕のためともいわれたりしますが、千姫の別の縁談を進めていた坂崎のメンツがつぶされたことによる、とする説が有力なようです。
 いずれにせよ坂崎氏は取り潰しとなり、以後幕末まで亀井氏の時代が続きます。この流れは、なんとも不可解な事件なのですが、大阪の陣に絡む出来事ですので、相当いろいろと内部事情があったことがうかがわれますね。城めぐりしなければ、あまり調べてもみなかった事件です。

日本の城 改訂版 85号 (津和野城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-08-28





日本よ、憚ることなく
亀井静香
ワック
2020-01-17


 

 

tougouiryo at 2021年08月21日05:00|この記事のURLComments(0)

香川元太郎『日本の城』をご紹介!

 お城コラムの番外編です。お城の歴史や訪問時の思い出などをつらつらと書いて90回以上になります。
 いろいろなエピソードに加えて、お城はやはり「構造」としての面白さがあるのですが、文章ではなかなかうまく表現できないものです。
 そこで、こうした面白さが伝わるような本はないか?と聞かれたこともあり、ここで香川元太郎先生の本をご紹介します!
 香川先生に関しては、かつて城博のときに城郭イラストの書き方講座を一度受講したことがあり、縄張図から、立体図へのダイナミックな変換方法を教わりながら、実際に書いてみたこともあります!
 とにかく、前提となる知識なしでただ眺めるだけで城の面白さが伝わるスゴイ本です。迷路作家?でもある先生だからこそのこまかな構造の書き込み。こまかな人物のさりげない描写など、ちょっとかつてのウォーリーを探せ的な感じです。加えて大判の折り込みイラストがなんと100という充実さ! お盆休み中、旅行・帰省がままならない状況でのバーチャルトリップとしておすすです。




tougouiryo at 2021年08月14日20:08|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (月山富田城)

 尼子氏の巨大山城、月山富田城(65・島根)です。押印は平成29年12月9日で、山麓の安来市立歴史資料館にて押しました。

 尼子の本城として、大内、毛利の大軍を撃退してきた難攻不落の堅城で、藤原景清の築城とされ、出雲守護が居城として用いていました。ここに京極氏の守護代であった尼子氏が入城してから、戦国大名としての尼子の本拠地となっていきます。

 尼子経久による全盛期には山陽・山陰11か国を従える規模になりますが、晴久の代で毛利元就と対立、吉田郡山城を落とせないうちに、経久死去に伴い勢いを失っていきます。
 この頃、毛利元就は、尼子最強と言われた新宮党へ離反工作を開始。仲違い画策して成功すると、戦力は極度に低下し、最終的には毛利の兵糧攻めにて開城。毛利氏の支配下となります。
 以後、山中鹿之助による尼子再興の動きがあるも、結局は滅亡に至ります。関ケ原の合戦後は、堀尾氏が入城するも、領国経営の観点から松江城へ本拠を移動、ついには廃城となるわけです。

 尼子の良い時代の象徴としての城で、尼子亡き後は悲しい末路といったところでしょうか。現在でも「我に七難八苦を与えたまえ」で有名な山中鹿之助が、太鼓壇で祈っております。

 大変規模の大きな山城という印象で、山中御殿から、七曲りを上がると、詰めの城的に本丸、二の丸、三の丸となり、御殿から下ると、花ノ壇、太鼓壇と大きな曲輪が続きます。
 山麓の平坦部や尾根の峰々に建造物が建てられ、復元建物もあるので、とても見どころ満載の山城です。尼子の勢力の大きさを改めて知ることができます。

 歴史の流れ的には、毛利の前座的な尼子ですが、その強大な力を改めて感じる山城でした。全盛期の尼子経久は、大河ドラマ『毛利元就』でも、元就の敵でありながらも、その知略の師匠的な役割であり、その老獪な役を緒形拳が演じておりました。尼子あっての、毛利ということなのですね。






山中鹿介幸盛~山中鹿介ハンドブック
藤岡大拙
ハーベスト出版
2020-10-15





tougouiryo at 2021年08月14日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (福山城)

 新幹線の駅から至近の名城、福山城(71・広島)です。押印は平成27年11月20日、天守閣内で押しました。城がそもそも城内にあるという城はいくつかありますが、本格的な天守に、徒歩数分で到着するというのはここだけではないでしょうか。近い割に、スゴイ規模です。
 2度ほど訪問していますが、二度目は改修工事中で天守には入れませんでした。それでも天守前の広場まですぐに行けるので、とても満足です。

 西国大名への押さえを目的にした近世城郭で、江戸期の最後の大規模築城ともいわれます。
 NHKの「最強の城」でも紹介されていましたが、この城は駅側から見ると「真っ白」なのですが、その裏側(北面)は本来は、大砲への備えのために鉄板が貼られていたといいます。
 昭和まで天守が現存していたため、国宝となっていたのですが、これも惜しいことに福山大空襲によって焼失。昭和41年に鉄筋コンクリートにより外観復元されたものが現在の姿ですが、これがさらに北面の鉄板部もふくめ、さらに復元が進んでいるようです。(それにしても岡山城も含め昭和まで現存していた天守が空襲で焼失してしまっているのはとても残念です)

 伏見櫓や月見櫓は新幹線ホームからも良く見えるところにあるのですが、これらは伏見城からの移築と伝わり、歴史的意義も極めて重要です。
 本来は多くの櫓が林立し、現在でも内部を見て回るのはふんだんに石垣を見ることができます。

 江戸期、多くの大名においては新城築城が制限された時期である、元和になってからの新城という、まさに完成期の城郭で、当初は家康の従兄弟である水野氏が初代藩主となります。以後、松平、阿部とつづいて明治に至ります。修復完了の際には、近世城郭の完成形として、再度、見直してみたい城郭です。





新幹線から見える日本の名城
加唐亜紀
ウェッジ
2015-09-30



日本の城 改訂版 18号 (福山城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2017-05-16


tougouiryo at 2021年08月07日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岡山城)

 カラスのような漆黒の天守、岡山城(70・岡山)です。押印は平成23年11月20日、天守閣入口で押しました。
 築城期は室町ですが、宇喜多氏により近世城郭となり、その後、小早川、池田の改修により現在の形に落ち着きました。多くの櫓がかつては国宝だったのですが、岡山大空襲によって天守と石山門が焼失してしまい、現在の天守は昭和41年に再建された鉄筋コンクリート製です。

 とにかくこの城は、大名庭園の最高傑作と称される「後楽園」がみどころ。旭川を隔てた対岸に庭園が位置し、庭園から見ると天守が借景とされています。内部は水路を巡らせた起伏ある地形となっており、季節ごとの変化に富み、夏期には「幻想庭園」としてライトアップも行われているようです。
 また庭園内には、一階に水路を通した珍しい様式の建物「流店」などもあり、とても印象に残っています。

 そもそもこの城の前身とされるのが「石山城」といわれ、その後、金光備前が在城していたのですが、これを「資性奸佞にして智あり」と称される宇喜多直家が謀殺、城を奪取しました。
 ちなみにこの直家、権謀術数に長け、性格の酷薄さから周囲に相当恐れられていた人物で、弟ですらも兄の前に出るときは鎖帷子を付けたとも言われる乱世の奸雄です。かつて大河ドラマ「軍師官兵衛」だと陣内孝則さんが演じていました。

 この宇喜多家は、直家の息子秀家も起伏に富んだ人生で関が原敗戦後、八丈島流刑となり84歳まで生きていました。ここもまた奇遇で、この関ケ原敗戦の主役とも言える小早川秀秋が、秀家の後にこの岡山城に入っており、短期間でかなりの大規模改修をおこなったといわれます。
 この理由は、恨まれているであろう宇喜多の後に入るのが嫌だったからとも言われるのですが、どうなのでしょう。巷間いわれるほど小早川秀秋は暗愚ではなかったのではないかとみることもできます。
 あまりに急な死、さらには関ケ原本戦における松尾山での真相なども再解釈されていることから、次の池田への重要なつなぎ役であったのかもしれません。

 いずれにせよ、謀略家の直家の息子秀家を、どうしたことか秀吉はものすごくかわいがり、この岡山城築城にあたっても全面的に支援したというのですから、ここにも何かありそうですね。
 結構このあたりの事情は、歴史小説でよく言われるような流れとは、全く違った真相があるように思えてなりません。そんな妄想をしながら訪ねてみるのも楽しいかもしれません(笑)





日本の城 改訂版 130号 (岡山城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2019-07-09




宇喜多の捨て嫁 (文春文庫)
木下昌輝
文藝春秋
2017-04-28



tougouiryo at 2021年07月31日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松江城)

 国宝5城の一つ、最後に(平成27年)認定された松江城(64・島根)です。押印は平成29年12月9日、天守内の受付にて押しました。国宝認定は、平成24年、松江神社にて祈祷札が発見されたことで、築城時期が特定され、悲願の認定となりました。

 宍道湖畔の亀山に建築された平山城で、堀尾吉晴・忠氏父子により築城されました。その天守は戦闘的な四重天守といわれ、下見板張による黒い外観はとても力強い印象を与えます。
 関ケ原で功績のあった堀尾氏は当初、出雲の月山富田城に入りますが、山城の不便さから、宍道湖畔を選定し築城したのですが、堀尾吉晴・忠氏ともに完成を見ずに死去。三代忠晴も世継ぎのないまま死去し、堀尾氏は断絶。
 その後は京極氏となるも、ここも後継ぎがないまま病死。最終的には家康の孫、松平直政(結城秀康三男)が居城として入り、明治維新まで継続となります。

 天守内部への入り口が極めて厳重なつくりとなっており、付櫓から4度折れ曲がりながら、やっと天守内に入れる構造になっています。最終防衛施設としての天守を感じさせてくれるわけです。

 また本丸には復元櫓もあり、迫力満点です。また周囲の水堀は、宍道湖へとつながり、堀川めぐりとして遊覧船巡りもできます。

 また松江城下は小泉八雲ゆかりの地としても有名で、小泉八雲記念館や八雲旧宅もあり、文学好きの人にも楽しめる城下町です。
 「怪談」くらいしか印象がなかったのですが、これらを見学し、八雲の来歴やら、人ととなりを知ることで非常に興味を持つことができました。夏目漱石との関連やら、これまで全く知らなかったことを知るというのもこうした訪問の楽しみですね。
 つい『日本の面影』なんかも買ってしまったのですが、いまだ未読です(笑)


松江城(山陰名城叢書2)
岡崎 雄二郎
ハーベスト出版
2020-08-18












tougouiryo at 2021年07月24日05:00|この記事のURLComments(0)

ニッポン城めぐり

 城アプリについての記事が、けっこうアクセスがあったので少し直して再掲します。

 毎週「お城へ To Go」として城ブログをアップしていますが本日は特別篇として、スマホやタブレットで楽しめるお城のアプリをご紹介しましょう。その名も「ニッポン城めぐり」!
 もう10周年を迎えるアプリで、ゲーム的な要素に加えて、城郭巡りやその計画を立てるうえでも非常に有用なアプリです。ダウンロードして通常に楽しむ分には無料ですので、ご安心下さい。すごい量の情報量が内蔵されています!

 具体的に機能を少しご紹介しましょう!

(1)城攻め
 現在の位置情報から近隣の城郭を「攻略」します。これにより、その城をとることができ、同月に何度攻略したかで行軍の数となり「城主」になることもできます(このパターンはあまり外出しない一か所にいることが多い方向け)。多くの移動をする人は「攻城」の数を増やします。全国で攻城可能な城郭数が3000あるので、旅行などに伴って攻めます(これは出かけることが多い方向け)。
 また城攻めに伴って、所縁の武将も登場します。これを石高に投入することで雇用します(笑)これにより家臣団を形成し、名将を我がものにすることができます(笑)。

(2)下調べ
 「城郭一覧」により、全国地図から3000に及ぶ城郭の情報(情報詳細やグーグルマップでの表示、ルート検索や先達の投稿写真まで)をみることができます。これでみれば、城郭に実際に行かなくてもいったような気がしてきます。どこか旅先で、「近くに城ないかな?」というときにも便利。見知らぬ土地での迷子も減ります(笑)

(3)築城
 初めのページで自分の城を築城することが出来ます。ちょっとした癒しの箱庭療法です(笑)。金銭(両)がたまらなったので、これまであまりやらなかったのですが、最近、これにはまっています。村上水軍の能島城風の縄張りで、帰宅時にせせこましく少しずつ築城しております。最近はこれによりあっという間の通勤時間です。気に入ったを20件頂き、とても充実感を感じております!

 私が良く使うのはこんなところですが、それ以外にもクイズ(毎日出題されます)や伝言板、世論調査なども面白いので時折はまっております。また都市部では難しいですが、地方によっては「城主」になる可能性が高まるので、「城主争い」に血道を上げるのも楽しいでしょう(私は隠岐滞在時に一度だけ黒木御所城主になれました!)。
 また、これもくだらないと笑われるのですが、年数回のペースで「合戦」イベントが開催されます。激突する両軍に分かれて、仲間を助けながら、合戦で手柄を立てます。はじめは馬鹿にしている人も結構、最後の方はのめり込んでます。

お城に興味がある方、そうでない方も(笑)ぜひのぞいてみてください。

 


tougouiryo at 2021年07月21日08:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (鳥取城)

 渇殺しで有名な籠城戦の舞台、鳥取城(63・鳥取)です。押印は平成28年9月4日で、仁風閣で押しました。
 ここ仁風閣は、明治40年に旧藩主池田候により建てられ洋館で、東郷平八郎による命名の国重要文化財なのですが、なんかどこかで見たことがあるなという印象でした。内部を見学すると納得で、映画「るろうに剣心」の第1作目のクライマックスの舞台でした。香川照之さん演じる武器商人と剣心の戦闘シーンがこの庭園で撮影されていました。(現在、公開中の最終章The Begginingも幕末史とリンクしているので面白かったです。有村架純の巴、必見ですかね(笑))

 この時の訪問では十分に時間を取れなかったので、山上の丸と秀吉の陣城である太閤ヶ平を見ることができませんでした。
 いわゆる山下の丸という二の丸、三の丸、天球丸のみの見学となりました。この城は、城郭の形態変化を知るには最高の城といわれ「城郭の博物館」と称されるようです。つまり、中世山城の遺構と近世城郭の遺構が併存し、さらに大藩の政庁としての機能も有していたというわけです。
 そしてここを籠城攻めした秀吉の太閤ヶ平と合わせるとなかなかの見所満載の地です。十分な時間をとって再訪したい名城です。

 渇殺しの当初は、山頂天守は三重天守だったようで、のちに望楼型の二重天守になったようです。三の丸、二の丸も石垣が幾重にも重なる素晴らしい城で、とくに有名なのが「巻石垣」です。
 これは石垣の補強のために石垣を球状に配置したもので、巨大な地球儀(八分の一)のように見えます。
 この最大のものが残るのが天球丸に残るもの(2012復元)なので、だから天球なのかと勝手に思っていたのですが、その由来は全然違っていて、池田光政の伯母である天久院に由来するということでした。

 現在も、幕末期の姿を復元すべく整備が進んでいるようですで、是非とも再訪してみたいですね。

日本の城 40号 (鳥取城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2013-10-15



鳥取あるある ご当地あるある
岩原弘幸
TOブックス
2018-10-10



鳥取砂丘学
古今書院
2017-03-11


るろうに剣心
香川 照之
2013-11-26







tougouiryo at 2021年07月17日08:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (名古屋城)

 天下普請の巨城、名古屋城(44・愛知)です。押印は平成21年9月14日ですが、以後も何度も行っております。ただ本丸御殿の復元が完成してからはまだ未訪問ですので、ぜひとも行ってみたいと思います。

 数々の天下普請の中でも、築城技最高峰を結集した築城の集大成ともいえる城で、天守は、作事奉行は小堀遠州、大工棟梁は方広寺大仏殿を建てた中井正清、大工頭は熱田神宮の宮大工で安土城天主をの建てた家系でもある岡部又右衛門、といった当時の最高峰が結集しています。
 五重五階、地下一階の天守に、二重二階、地下一階の小天守が続く連結式で、通常は渡櫓で連結するところを、土塀付きの橋台を用いて、防火区画を形成しているのです。
 また清正による当時最高峰の、堀底から20mに及ぶ高石垣の上にこの天守が聳えたつわけです。まさに壮大な石垣の城郭です。
 さらにすごいのは防御施設とし地下一階の天守入り口は、小さな枡形を形成し、二重構えになっています。天守内に入ってからさらに枡形なんて、ちょっとほかの城では考えられませんね。
 また名古屋城には当初、江戸城よりもはるかに大規模な総構が計画されていましたが、大阪城落城によりその必要性がなくなったため、工事は中止になったようです。

 そもそもこの名古屋という地は、今川の流れの那古野氏の領有した地からきたようです。現在の名古城二の丸に、今川氏が「柳の丸」を築城、そこを織田信秀が奪取し、那古野城と改称したのが始まりとされます。
 その後、信長に譲られており、徳川家康の人質の時期でもあるので、ここにいたこともあったのかもしれません。

 また今日の名古屋の発展は、この城から始まったもので、まさに「尾張名古屋は城でもつ」といわれる通りです。
 そもそもこのあたりで栄えていたのは清須だったのですが、それを無理やり強制的に「清須越し」として都市機能を移転してしまったのです。
 当時の記録で、この清須越しによりこれほど栄えている清須が、荒れ野のような那古野みたいになってしまうのか、のように書かれたものがあったようなのですが、まさに今、清須に行くと、その当時の人たちが予想もできなかった状態になっていることがよくわかります。きれいに逆転してしまったわけですね。

 それほどの名古屋城も、象徴であるシャチホコを戦災から守るための作業をしていた際、その作業用の足場に焼夷弾がひっかかり、建物自体に引火、2時間余りで天守は焼け落ちたといいます。なんとも皮肉な顛末です。
 この時シャチホコも焼けて、無残な金塊となったというのですから、当時の名古屋の人達の落ち込みは相当だったのではないでしょうか。





tougouiryo at 2021年07月10日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (松阪城)

 安土城を模したとされる松阪城(48・三重)です。押印は平成22年3月21日で、伊賀上野城訪問後にきました。せっかく来たので、牛肉を食べ、夕刻になり翌日の伊勢神宮参拝のために伊勢へと向かいました。
 ちなみに松阪という地名は、松という縁起の良い字に、当時の秀吉の本拠「大坂」をつけて「松坂」としたので、そもそもは「松坂」の記載だったようです。

 城を見学していると地元の方が話しかけてきたので、お話を聞いていると、この松阪は牛肉の町として知られているが、そうではない!とのこと。ここは「男と男の出会う街じゃ!」とのこと。伊勢と松坂の境界問題を決着した大岡忠相を、のちの徳川吉宗が知るところとなって見出した地だし、本居宣長が生涯に一度だけ師の賀茂真淵と出会った「松阪の一夜」の地でもあるからなのです。もう十年以上前のことなのですが、結構インパクトあったのでいまだに鮮明に記憶しております(笑)

 安土城築城に関わった蒲生氏郷が、その際の技術や知識を取り入れて自らの築城に活かしたといわれ、複雑な縄張り、豪壮な石垣が特徴といわれます。当時は、安土城に似た三重天守が建てられたといいますが詳細は不明です。その後、蒲生氏郷は、会津若松城へと移り、服部、古田時代を経て、松阪は紀州藩の直轄地となります。ここに吉宗と大岡越前の出会いがあるわけです。

 現在もそそり立つ石垣から、現在も住居して用いられる御城番長屋の武家屋敷が並び、雰囲気のある城下町です、城内には、本居宣長が亡くなる前まで住んでいた旧宅が移築されており、『古事記伝』を完成させたじっさいの場をみることができます。

 牛肉ともども、是非再訪したいお城です。ちなみに牛肉を購入して、こちらから自宅へと送ったのですが、良いお肉だったので、その牛の系図や生前の名前がかかれていたので食べるとき、ちょっと複雑でした。名前は「りんこ」ちゃんでした・・・

日本の城 改訂版 86号 (松坂城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-09-04














tougouiryo at 2021年07月03日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (伊賀上野城)

 築城の名手藤堂高虎による高石垣で有名な伊賀上野城(47・三重)です。押印は平成22年3月21日、天守閣にて押しました。統合医療の集まりで、伊勢神宮に集合するまえに大きく遠回りして訪問しました。前日、現在のジャングルカンファレンスにつながる、内輪での定期的な院内カンファレンスで遅くまで、飲んでいたので、二日酔いの状態で、ずいぶんと山深いローカルな近鉄伊賀線にのっての訪問でした。

 今治城で史上初の層塔型の五重天守を建造した藤堂高虎が、伊賀上野へ移動するにあたって今治の天守を解体し、ここへ移築しようと計画していました。
 ところが、その建材を大阪城下に移動したところで、家康より丹波亀山城の天下普請を命じられ、そのまま亀山城にしてしまったといわれています。
 そのため伊賀上野城は新築とすることになったのですが、その建築中に台風により倒壊してしまい、その建築は断念されてしまったという残念な城郭です。以後も、豊臣の脅威が去ったことから天守の必要がなくなったため建造されることなく現在に至るというわけです。

 ただし、高虎に命じられたのは、家康による豊臣包囲網の一環としての城郭ですので、西からの攻撃に対しての強い防御が意識され、天下一と称される高石垣などが建造されました。ちなみにこの城の前城主、筒井氏の時代は、こうした攻守が反転しており、つまり大坂城の出城的な役割として、むしろ大坂城を守る目的であったことから、その目的が逆転した城でもあります。現在も筒井古城として天守台が残っていますが、当然、高虎時代とは大きく場所が移動していることが分かります。

 江戸期には津藩として藤堂氏が継続し、明治に至ります。現在の天守は、地元の名士川崎克が私財を投じて建造したもので、三層三重です。
 高虎はこれよりも大きな五層五重にしようとしていたのですから、場所からしてもかなり豪勢な城を構想していたんですね。

 現在は伊賀上野は忍者博物館などもあり、忍者の町として売り出しているみたいです。ちなみに松尾芭蕉は、この上野のゆかりのじんぶつであることから忍者説があるわけです。まあ奥の細道を普通に考えても、何らかの密命を帯びている感じはしますけどね。









忍者学講義
三重大学国際忍者研究センター
中央公論新社
2020-02-07


tougouiryo at 2021年06月26日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (長篠城)

 まさかの飯田線が本丸を走り抜ける、断崖の長篠城(46・愛知)です。押印は平成24年3月19日、長篠城址史跡保存館にて押しました。飯田線の長篠駅から徒歩で訪問しましたが、その後、復元馬防柵のある設楽ヶ原古戦場もあわせていったので、電車の乗り継ぎや駅からの徒歩が長くなり、結構不便でしたので、車での訪問がおすすめです。

 菅沼元成による築城で、武田方についた菅沼氏から家康が攻めとり、徳川の武田への最前線基地の役割を担った城です。
 武田方からの籠城戦を耐え抜き、織田・徳川方を長篠の戦いの勝利へと導いた重要な城になります。二つの川の合流点である三角形断崖上に位置するため、崖側の南側は極めて強固なのですが、北東ががら空きのため、堀と土塁を配置して防御しています。
 現在は宅地化も進んでいるので、当時の様子がよくわからないの、こちら側大丈夫?といった感じなのですが、籠城を耐え抜いた城だけに当時は堅固だったのでしょう。
 ただし、長篠の合戦があまりに激しく、この城郭の損傷も激しかったため、この城は廃城となり、城主奥平氏は新城城を新たに築城し移ったといいます。

 この城で忘れてはならないのが、やはり鳥居強右衛門です。壮絶なその姿は史跡保存館に展示されています。
 武田に包囲された長篠城から、鳥居強右衛門は織田・徳川連合軍へ救援を要請するため脱出。無事その援軍要請の任を全うすると、その成果を伝えるべく再び城内へと帰還しようとするのですが、ここで捕獲されてしまいます。
 武田としては援軍が来ることが籠城内に伝われば、士気が鼓舞され、不利になるわけなので、強右衛門に援軍は来ないという虚偽の伝令をすれば命を助けると持ちかけます。
 しかし、武田によって城の前まで連れてこられた強右衛門は、「援軍到来」を叫んだため磔にされ殺害。近隣には強右衛門磔死之跡があります。これにより、さらに城内の士気は上がり、武田方は落城させることができないまま、設楽ヶ原の戦いへと向かうことになり、敗北します。

 このエピソードをみても、いかに士気の高さが籠城戦に影響するかがわかります。城の強さというと、縄張り的なものを求めるのが定番ではありますが、こうした関わる人物の動向、つまりは人の心情こそが城をめぐる戦闘の要であるということをあらためて気づかされますね。

 商業的にも、施設や建造物が新しく華やかであることが求められますが、そこに集う人たちが団結していなければ、やはりうまくいかないのは言うまでもありません。大規模な資本を投入した施設にもかかわらず、中身の薄いところって、確かにありますからね。





戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦い
設楽原をまもる会
黎明書房
2014-08-01





tougouiryo at 2021年06月19日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岡崎城)

 家康誕生の地、岡崎城(45・愛知)です。押印は平成23年11月18日、学会で名古屋に行ったついでに、名鉄にのって足を延ばしました。

 三河守護代の西郷頼嗣により築城され、その後、松平氏の攻撃を受け支配下となり、松平清康により城郭整備が行われ松平の本拠地となりました。その後「守山崩れ」により、清康が暗殺、息子の広忠になるも弱体化した時代に生誕したのが、竹千代、後の徳川家康です。しかし父、広忠も暗殺され、竹千代は6歳で織田家、8歳で今川家に人質として出されてしまいます。これに伴い、岡崎城も今川から城代が入ることになります。しかし、桶狭間の戦いの後に、徳川家康は今川から独立、以後、岡崎城を拠点とします。

 こうした苦難に満ちた家康の幼少期ですが、その後のサクセスストーリーから、この城には伝説が残されています。本丸内の龍城神社に家康誕生の際、黄色の龍が現れたといわれます。龍は岡崎城創建の際も現れ、守護神となることを約束したというから、よく龍が出現する城です、それゆえに別名、龍ヶ城!
 神君家康公誕生の城であることから、後付けの伝説なのか、この地の松平の苦境から「伝説」の一つも作らないとやってられなかったのか、不明ですが、まあそういうことなのでしょう。

 また城内には、家康の誕生にともなっての産湯の井戸や、胎盤を埋めた「えな塚」もあり、生誕した二の丸は誕生曲輪といわれるほどです。まあ家康生誕一本、といったところでしょうか。

 全体としては少し立て込んだ、ごちゃっとした城の印象です。内堀や青海掘りも、少しうっそうとした印象でした。
 しかしここの城代は江戸期においては、譜代大名の誉といわれ、いわば創業の地のような名誉な地だったことは間違いないのでしょう。近くには「三河武士のやかた」など見どころも豊富です。









tougouiryo at 2021年06月12日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (犬山城)

 現存最古といわれる国宝天守、犬山城(43・愛知)です。押印は平成23年11月19日、城郭内休憩所で押しました。名古屋から犬山線に乗って犬山遊園駅から徒歩でいけます。最古の天守については、丸岡城説が有力だったようですが、近年、慶長以降の築城とする説が有力になり、犬山城とするようです。また変わるかもしれませんが。

 荻生徂徠によって「白帝城」とも称された城で、直下を木曾川が流れるさまを長江と見立て、三国志の劉備玄徳終焉の地になぞらえた別名となっています。
 つまり縄張りとしては、城郭の北側が木曾川で守られ、南側は惣構により防御されていたようです。また二の丸を約70mの大手道が直線的に伸びるさまは、まさに安土城といってよい構造です。

 信長のおじ織田信康によって築城されたといわれ、数々の合戦の舞台となっています。その後、信長との対立により、信康の子信清が城を追われると、池田恒興が入城。その後も、紆余曲折あって秀吉政権下では、石川貞清が城主に、さらに徳川期になり最終的には尾張藩付家老、成瀬正成が城主となり、成瀬氏が幕末まで続くことになります。

 とにかくこの城郭のすばらしさは、天守からの眺望につきます。眼下の木曾川の流れに加え、晴れたら岐阜城、小牧山城、名護屋城までも見えるというくらい濃尾平野を一望できます。
 訪問時も、窓を開け放たれた天守は、気持ちの良い風が通過し絶好の眺望でした!
 ここに赤絨毯が敷かれていたのも、印象的で、後で調べてみると、7代城主がオランダ商館長から入手した貴重なものらしく、城主が最上階に上ることを前提にしてしかれていたらしいのです。
 つまりほとんどの天守最上階は上る前提でないことが少なくない中、城主が訪れる前提での最上階だったということがわかります。
 これほどの眺望ですから、やはり城主ですからみてみたいですよね。赤絨毯にそこまで意味があるとは、訪問時は分かりませんでした。

 ほんとに「これぞ天守!」という気持ちなれるお城です。天気の良い日にぜひ再訪したい名城です。











tougouiryo at 2021年06月05日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (掛川城)

 高知城に似た天守とされる掛川城(42・静岡)です。押印は平成22年5月22日、駿府城の前日に訪問しています。御殿の入り口で押しました。

 今川の重臣、朝比奈泰能によって築城され、豊臣政権下で山内一豊が大幅拡張を行ったとされます。一豊がその後、高知城天守の築城に際して、掛川城天守に倣って建造したと伝わることから、現在は高知城を参考にした三重天守で復興されています(日本初の木造復元天守)。

 朝比奈氏が最後まで今川に忠義を尽くしたことから、今川氏真は駿府館を捨てて、掛川城に逃げ込み、徳川の包囲にもかかわらず、半年以上の籠城を耐え抜きました。その後、開城し、山内一豊が入城。関ケ原の合戦の戦功により高知へ移っていきました(関ケ原序盤戦での一豊の出世物語ですね)。

 建造物としては、幕末期に地震で倒壊した本丸御殿のかわりに建てられた二の丸御殿が現存(全国でも4か所のみ)しており、国重要文化財となっています。
 前述した天守に加え、さらには大手門も復元されています。天守丸には、今川氏真が立てこもった際に、井戸から霧が立ちこめ城を覆い隠したと伝わる霧吹井戸もあります(よくある伝説ではありますが)。

 この掛川城は、新幹線からみえる城としても有名で、駅からのアクセスも非常にいいです(徒歩7分くらい)。お茶の産地掛川ですので、掛川茶も買って帰れます。


日本の城 改訂版 52号 (掛川城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2018-01-09










tougouiryo at 2021年05月29日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (駿府城)

 徳川家康隠居の城、駿府城(41・静岡)です。押印は平成22年5月23日、東御門の券売所でした。駿府城に向けて歩いていると、山岡鉄舟が、勝海舟の命を受けて新政府軍と遭遇した場所を通過したのを覚えています。「鉄舟。ここでまにあったんあだなぁ」と思ったものでした。

 駿府城は、かつては六重七階の天守が聳えていたといわれ、現在も大きな巽櫓と東御門が復元され、その威容が偲ばれます。
 高麗門と櫓門を合わせた枡形は、その絶対的な防衛力の高さから威圧感もハンパないです。中に入ると、現在は駿府城公園になっているので、のんびりとした広場が広がるのですが、かつてはこの中心部に六重の天守があったというのですから、相当な迫力だったのでしょう。
 本丸堀や二の丸水路なども見ることができます。

 家康としては相当の思い入れのある城郭で、今川の人質時代に12年間住んだ、心情的に複雑な土地でもあります。それゆえに自分が領有することになった際、この地に築城し、浜松から本拠を移しているわけです。
 かつて人質だった身から、領主になって戻ったということを実感したかったのでしょうね。共感できます。
 しかし、秀吉の小田原平定後、江戸へ移されてしまいます。その後、秀忠に将軍職を譲り大御所となってから、再度、隠居城として天下普請での大改修を行って戻ります。
 ここに戻ることで「故郷に錦を飾る」的な誇らしさがあったのでしょうね(見返してやったぜ、みたいな)。その後江戸幕府は、江戸と駿府の二元政治が布かれることになります。そして家康は、この駿府城で没します(本当にタイの天ぷらだったのでしょうか?)。

 その後は3代将軍家光の因縁の弟、駿河大納言忠長が入城するも、家光により乱心の嫌疑をかけられ、秀忠没後、高崎に移送され、かの地で自刃に追い込まれます(高崎で飲んだ時はわざとこの墓所の前を通過したりします)。その後、天領となりますが、火災でほとんどの建造物が焼失、再建されませんでした。

 時代は下って、幕末期には、江戸へ向かって進軍する新政府軍、西郷隆盛と会見すべく、山岡鉄舟が江戸からここで新政府軍と遭遇した地でもあります。歴史的に極めて重要な土地なわけです。

 静岡駅からのアクセスも徒歩10分ほどと良いので、初診の方は是非訪れたい名城です。


大御所徳川家康と駿府城公園
田中 省三
羽衣出版
2012-11-01










tougouiryo at 2021年05月22日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岐阜城)

 今回は岐阜城(39・岐阜)です。押印は平成24年3月19日、岐阜城資料館の入口にて押しました。

 アクセスが良く、岐阜に用事があるたびに行ったので、これまで3度ほど訪問しています。金華山(稲葉山)の山頂に聳え立つ城なので、ロープウェイで3分ほどあがると、天守からは城下町が一望でき、とても眺望の良い城です。
 ロープウェイ乗り場の横に山麓の居館跡があり、山頂の天守と合わせて中世の山城的な形態となっております。この城はロープウェイで急な斜面を上がるので、さぞや難攻不落の城かと思いきや、七度の落城という、結構な落城数を誇っています(攻めた奴がすごいのか?意外と攻めやすいのか?)。ただ高いところにあればよいというわけでは良いで例ではあります。
 ただ長良川から見上げる天守は当時のものではありませんが、その威容はさすが信長の城といった感じです。ここから信長は、天下統一を目指すようになったと言われています。

 桶狭間にて今川義元をうった信長は、美濃侵攻を開始、斎藤龍興と敵対し稲葉山城の戦いとなりました。この際、信長軍はなかなかに苦戦し、砦を建造しながらじわじわと攻略していくのですが、ここで登場するのが秀吉の墨俣一夜城です。
 川並衆の助けを借り、短期間で城郭を建造し、以後の美濃攻めの拠点となりました。その後いわゆる西美濃三人衆を内応させ美濃を攻略、一日で稲葉山城を落城させたといわれます(諸説あり)。(西股先生の『戦国の軍隊』でも、戦国の城は一日で落とすことを目的とすると書いてあるのですが、そのいい例でもあるのかもしれません)

 かつてジャングルカンファレンスを名古屋で開催した時、前日に岐阜に入り、屋形船から鵜飼いを見学したことがあります。ジャングルカンファレンス草創期の楽しい思い出です。なかなか屋形船というご時世ではありませんが、そのうちまた鵜飼いはみてみたいものです。思えば名古屋のジャングルカンファレンスからずいぶんと時間が経過したもんですね〜






日本の城 78号 (岐阜城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-07-08






tougouiryo at 2021年05月15日07:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (岩村城)

 日本三大山城の一つ、岩村城(38・岐阜)です。押印は平成27411日、歴史資料館にて押しました。

 太鼓櫓の見える、復元藩主邸に駐車して、藤坂を一の門へ向けて登ります。追手門を越えると竜神の井、つづいて霧ケ井となります。
 この井戸は伝説の井戸で、別名である霧ケ城の由来ともなりました。ここに蛇骨を入れると霧が湧き出して城を包み込み敵から見えなくなったというものです。
 同様の伝説は、ほかにも掛川城(霧吹井戸)にもありますね。

 そこからさらに行くと六段壁といわれる本丸六段の石垣になります。岩村城の象徴的な石垣です。全体的によく整備されて見やすい山城です。
 また、悲劇の女城主の城として神秘的な雰囲気も醸し出しています。織田信長の叔母にあたる「おつやの方(所説あり)」は、夫である城主遠山景任亡き後、女城主になったとされます。ここに秋山信友が岩村城を攻撃しますが、攻防のさなか、この女城主に結婚を申し込み、女城主もこれを受け入れ開城してしまいます。これに対して信長は激怒、信忠を総大将として大軍を派遣し、岩村城を奪還、女城主らを処刑してしまうというお話です。

 武田、織田のはざまに揺れた当時の政情がみてとれるエピソードですね。





日本の城 80号 (岩村城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-07-22







tougouiryo at 2021年05月08日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (一乗谷城)

 越前朝倉の本拠地、一乗谷城(37・福井)です。押印は平成231022日で復元街並みの入り口で押しました。
 初めての訪問時は、ソフトバンクのコマーシャルが放映されていた時期でもあったので、結構話題になっておりたくさんの人がいました。復元後間もなかったこともあるのでしょうが、いまだになぜソフトバンクのお父さん犬で一乗谷が取り上げられたのか謎です。
 その後、北陸の城巡りの際に再訪しているのですが、そのころはすいていて、ゆっくりと見学できました。またエリア内にはおしゃれな店もいくつかできていて、復元街並みを歩くと、ちょっとしたタイムスリップしたような不思議な感覚になれるエリアです。

 また近在の「一乗滝」は佐々木小次郎の「燕返し」開眼の地としても有名です。飛んでる燕を切り落とす、巌流島のあの必殺技です。訪問時は残念ながら燕は飛んでおりませんでした。

 一乗谷は上城戸と下城戸に挟まれた谷合のエリアで、そこを貫く一乗谷川の両岸に武家屋敷や町屋、寺院が点在し、その北側を足羽川に面しています。
 谷合の町並みを見下ろす形で、一乗城山に詰めの城として一乗城が築かれています。

 千畳敷に、一の丸、二の丸、三の丸と連郭式になっているようなのですが、山城部は未訪問です。資料館の方にもあそこはいかない方がいい、と諭され素直に従いました。ちなみに友人がこの山城を攻略した際に、カラスなどの鳥に襲撃されたようですのでやめておいてよかったです。

 朝倉館の御殿跡などは、現在ではとてもきれいに整備されており、主殿から登り、中の御殿、諏訪館と平行に横に移動できます。
 途中に湯殿跡庭園があり、かつては豪華な庭園だった様子が想像できます。この庭園は、大河ドラマでもユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景のシーンでよく出てきていました。ここかあ、という感じで大河観れました。


戦国朝倉: 史跡からのリポート
吉川博和
DoCompany出版(BoBoBooks)
2013-08-06



朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)
信之, 松原
吉川弘文館
2017-01-20







tougouiryo at 2021年05月01日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (丸岡城)

 日本最古といわれる現存二重天守の丸岡城(36・福井)です。押印は平成231022日で、一筆啓上茶屋にて押しました。

 ここ丸岡城は「一筆啓上」の簡略な手紙で有名で、たくさんの公募の「一筆啓上」が貼られていました。ちなみにその由来は、本多重次の妻への手紙「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」です。

 丸岡城は越前北庄城の支城として、柴田勝家の甥、勝豊によって築城されましたが、清須会議の結果、早々に長浜城へと移されてしまいます。
 その後は、福井藩として結城秀康が入ったのちは家臣が入城し支城として機能していきますが、本多成重により、福井藩から丸岡藩として独立していくことになります。

 ちなみに本城とされる北ノ庄城が現存していないうえ(福井城となってしまいますが)、小さな柴田神社の中に城址の碑があるのみでその迫力が伝わらないので、丸岡城が支城であるという感じもちょっとぴんときません。
 この城は、北国らしい朴訥な建築で、寒暖差の激しい北陸で破損を防ぐために用いられたといわれる、青みがかった「石瓦」が特徴とされます。北国の最古の城を感じることができます。


日本の城 61号 (丸岡城) [分冊百科]
デアゴスティーニ・ジャパン
2014-03-11







tougouiryo at 2021年04月24日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (金沢城)

 言わずと知れた加賀百万石の大城郭、金沢城(35・石川)です。押印は平成231024日で、七尾城の翌日に訪問しました。

 金沢というと「兼六園」が普通最初に思いつきそうですが、兼六園自体はこの金沢城の付随的な庭園という位置になります。もっというと有事の際の「出丸」的な機能を庭園は有しており、水戸の偕楽園なども同様の目的と考えてよいでしょう。

 金沢城は加賀一向一揆の本拠、金沢御堂の跡に築城されたといわれ、大阪城と似た来歴を持ちます。こうしてみると当時の一向一揆の勢力の大きさを感じます。一向一揆制圧後、佐久間盛政が尾山城として整備したのち、前田利家が入城。この際、高山右近を招いて大改修を行ったとされます(こうしたエピソードから高岡城も高山右近縄張り説があるのかもしれません)。これにより加賀前田の居城として、明治維新まで継続します。

 金沢城としては、現存する櫓などはわずかしかないのですが、近年再建がすすみ、かなり豪華な当時のたたずまいを取り戻しつつあります。
 五十軒長屋や菱櫓、河北門など、その再建の様子も併せて必見です。金沢の雰囲気と相まって、本当に美しい城郭だと思います。

 通常、金沢城見学は三の丸、二の丸がメインになるのでしょうが、個人的には三十軒長屋を経て入る本丸の鬱蒼とした森の雰囲気が好きです。そもそもは重要拠点だったにもかかわらず、置いて行かれたようになって、二の丸や兼六園の華やかな感じと対照的に、なんとも枯れている感じが良いです。

 金沢はこの城に限らず、見所たっぷりですが、近江町市場やひがし茶屋街だけでなく、ぜひともおすすめなのが、忍者寺として知られる妙立寺。3代藩主利常が寺院群に対して司令部的な役割をもたせるために、城の付近から移籍建立したと伝えられる寺院ですが、その建築構造の複雑さから「忍者寺」と称されるようです。
 落とし穴や隠し部屋、秘密の抜け口などまさに忍者のからくり的なしかけが豊富なのですが、私にはどこかふざけているような、大人の遊びのように感じられました。これは悪い意味ではなく、栗本慎一郎先生も、大人の秘密クラブ的なところだと著書で記しています。ご興味ある方はぜひご自分の目で確認してみてください。
 茶屋街など、少し陰のある華やかさ、という独特の雰囲気を醸し出すエリアだと思います。






前田利家・利長 (中世から近世へ)
大西 泰正
平凡社
2020-09-15


 


tougouiryo at 2021年04月17日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (七尾城)

 上杉謙信を撤退させた山城、七尾城(34・石川)です。押印は平成231023日、七尾城史資料館にて押しました。

 ここはいろいろと思い出のある和倉温泉の近くで、かつて大学院生の時に医局旅行できた地なので、感慨深い再訪とともに、こんな立派な山城があったのかと、感動したものでした。

 ふもとの資料館から途中まで車で上がり、本丸へ向かいました。ここは本丸からの眺めが絶景で、眼下に七尾湾、能登島が一望でき、ふもとの様子もよく見えます。籠城する畠山軍からすると、さぞや上杉軍の動きがよく見えたことは想像できます。
 こうした立地の良さも相まって、難攻不落の城として今日まで語られるわけです。

 足利義昭による織田包囲網の一環として、一向一揆と和睦した謙信は、織田軍に対抗するため、能登制圧のため七尾城を攻略しました。
 対する七尾城側は、4歳の春王丸を当主に家臣団が実権を握っている状態で、信長に与して謙信に対抗する方針をとっていました。

 こうして開始した第1次七尾城の戦いは、上杉軍が攻めあぐね、ついには春日山城へと帰陣していったため、籠城成功となりました。
 この後、上杉軍は再度出陣し第2次七尾城の戦いとなります。この際も守りは固く、上杉軍が攻めあぐねるのですが、城内に突然の伝染病が蔓延、春王丸が5歳で亡くなってしまいます。(伝染病により歴史が動いた一例ですね)
 また城内の兵士も相当数が感染したと伝えられます。これにより士気は落ち弱体化し、さらには重臣らの対立を利用した内応工作が成功し、開城します。(感染症による混乱もあったことでしょう)
 つまり軍神、謙信をもってしても純粋に戦闘では落とせなかったわけで、これが難攻不落と称されるわけです。

 和倉温泉は、沸く浦とも称されるように海中から温泉が湧いているところで、海を眺めながら温泉につかれる絶好の地です。温泉も塩味がつよい泉質です。

 城郭に興味がなくても、この七尾城からの絶景は、温泉と合わせておすすめの観光スポットです。


七尾城と小丸山城―史料年表能登の中世戦国史
坂下 喜久次
北国新聞社出版局
2005-09T


和倉温泉のれきし
田川 捷一
能登印刷・出版部
1992-01T





tougouiryo at 2021年04月10日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (和歌山城)

 徳川御三家の居城、和歌山城(62・和歌山)です。押印は平成25114日でした。

 この城は、豊臣秀長により築城され、関ケ原の後、浅野幸長により天守が建造されています。天守は太平洋戦争において米軍機の空襲により焼失、1958年に外観復元されたものが現在の姿ということになります。

 浅野はその後、さらなる加増により広島藩へ移封、代わりに徳川頼宜が入城し、以後250年にわたる紀州徳川の時代になります。
 徳川頼宜による城下町の拡張や城郭の改修が大規模であったため、途中、幕府から謀反の嫌疑をかけられるなどもしたが、入念な普請がこうした嫌疑につながったものと言えるでしょう。たしかに和歌山城をみると実に立派で、こうした嫌疑も、なるほどと思ってしまいます。
 市内の至る所から天守が見え、お城に見守られる町といったイメージぴったりです。

 訪問時の思い出としては、和歌山ラーメンを食べてから城郭を見学。その後、城内を散策していると突然の大雨。やっとの思いでトイレに駆け込みましたが、すでに大勢の人が逃げ込んでおり、びしょぬれになってしまいました。こういう記憶は明確に記憶に残りますよね。

 ちなみに和歌山ラーメンの店にいくと「早すし」と称して、鯖ずしがあるのがご当地流。自然発酵のなれずしと区別するために「早」とついているそうなのですが、ラーメン屋にすしと書いてある違和感は印象的でした。











tougouiryo at 2021年04月03日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (高取城)

 標高583mの山頂に聳え立ち、数多くの櫓を有する高取城(61・奈良)です。押印は平成25112日で、観光案内所「夢創舘」で押しました。

 初の訪問時は、本丸まで登ってから帰路に立ち寄り、CGによる当時の建造物を紹介する映像を見せていただきました。上ってきたばかりでしたので、なんとなく場所は把握できましたが、現状の鬱蒼とした森から、往時の様子を再現された映像はにわかには信じられないほどのギャップがありました。

 山頂の本丸近くでは、イノシシによるものだと思われる土を掘り返した跡やらがいくつもあり、ビビっておりました。また、観光案内所の前をイノシシが疾走していくこともあるということでした!
 それが2度目の訪問時には、まだ本格的に山の中に入らぬうちから、私よりも大型のイノシシが突如出現。これはまずい!と思った瞬間、向こうも同様に感じたのか、急な斜面を駆け上がり逃走してしまいました。これまでこれほど大きなイノシシを間近で見たことがなかったのでしばらくは恐怖にオノノイテおりました。あらためて山城の危険性を肌で感じた出来事でした。高取城というとイノシシしか思い出せないくらいです!(笑)

 夢創館から結構な山道を登り、七曲・一升坂という大手道をさらに上がると、水堀・猿石・二の門跡にでます(この猿石はなんどみても不思議な感覚に襲われます)。そこからさらに上がると三の丸、二の丸と続き、本丸に至ります。
 本丸は初めて見るとかなり衝撃的な迫力です。ラピュタの世界に迷い込んだような感覚になります。山城好きは是非見ておくべきところです。(最初は本丸裏手近辺までタクシーで上がりましたが、やはり大手道から苦労して登ったほうが本丸の衝撃は大きいようです。是非とも初回は大手道からの登山をお勧めします!ただし山歩き用の装備は必須です!)

 帰りは壺坂口門跡から降りていくと、壷阪寺に至ります。ここでバスに乗ることができます。バスの時刻に間に合わせようと駆け下り、大変くたびれました…(バスの本数が少ないので要注意です)

 高取城は幕末においても歴史の表舞台に出ています。尊攘派の天誅組が高取城を攻略しますが、これを撃退し、その防衛力の高さを見せたのでした。易々とは攻略できない城郭だということが体感できました!

 奈良というと、石舞台などの古代遺跡や大仏のイメージですが、そのすぐ近くにこれだけの山城があるというのは一般にはあまり知られていません。定番の奈良観光に加えて、一度訪れてはいかがでしょうか。鹿だけでなく、猪にも会えるかもしれません(笑)






高取城
2017-01-30







tougouiryo at 2021年03月27日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (赤穂城)

 今回は忠臣蔵で名高い赤穂城(60・兵庫)です。押印は平成21922日で、当時は急速に城が整備されているといった雰囲気でした。
 かつての空撮写真をみると、本丸内部にはドッカと赤穂高校が占拠しており、二の丸、三の丸も未整備のような感じですが、2000年あたりから民家が少しずつ減り、平成21年の写真では随分と整備が進んでいる様子が写真からも見て取れます。
 訪問時は、同日に姫路城を訪問してから、電車移動で伺いました。

 赤穂城は、甲州軍学に基づいて築城された城といわれ、屏風折れの土塀、多角的な曲輪、枡形虎口の城門などが特徴とされます。
 本丸の形状が、やや星形に近いのもこうした影響なのでしょう。軍学というものが実際にどこまで有効性があったのかはわかりませんが、平和な江戸期に入り、築城方法なども形而上的な虚学的な要素をはらんできたのではないでしょうか。こうしたことから、平和な時代における形式的かつ形骸化した縄張りであるという批判も目にします。

この城の歴史的な事件といえば、なんといっても忠臣蔵です。浅野長矩の代になり、松の廊下で吉良義央を切りつける刃傷事件起こしてしまい、長矩は即日切腹、浅野家断絶、赤穂藩も幕府領となってしまいました(ここから忠臣蔵が展開していくわけですね)。その後、永井家が一時入りますが、森長直が入ってからは森氏が12代続き、明治に至ります。
 近隣には、大石内蔵助屋敷地を中心に大正1年に創建された「大石神社」もあり、忠臣蔵を偲ぶことのできる城です。

 戦国期から平和な時代へと移行していく中で、城の形態も戦闘を前提にしたものから、都市の発展や交易との関連を重視するものへと移行していきました。そうした意味では、河口の三角州に、海に面して築城されたこの城は、いわば晩期の築城の特徴をよく示すものともいえるのではないでしょうか。

 時代時代によって城の持つ意味は変化していくようです。そうした意味でも、この城の過度の縄張りの形骸化も、何らかの意図、意味、が前提にされていたのではないか、ということをナワバリストの西股先生は書かれています。では本当の意図、築城の前提条件、みたいなものは何だったのでしょうかね。個人的には養老先生の言うところの唯脳論的な視点が発現しているようにも思うのですが。

 ちなみに西股先生の著書を最近読んでいるのですが、これがとても勉強になって面白いです。通り一遍の城郭の理解しかしてこなかったことを痛感します。とりわけ山城に関しては新た視点を持つことが出来、これからの城巡りがより楽しくなりそうです。この城(赤穂城)への深い視点もとても勉強になりました。おススメです!



赤穂城断絶 [DVD]
三船敏郎
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2020-10-14




決算!忠臣蔵
岡村隆史
2020-05-02















首都圏発 戦国の城の歩きかた
西股 総生
ベストセラーズ
2017-04-21




tougouiryo at 2021年03月20日05:00|この記事のURLComments(0)

お城へ To Go (明石城)

 新幹線から見える城郭、明石城(58・兵庫)です。押印は平成21923日でした。駅から徒歩5分という絶好の立地です。駅近の市民の憩いの場、といった雰囲気の城で、訪問時もコスプレ女子の撮影会をしていました(笑)

 せっかく明石に来たので明石焼きを食べてから登城。駅近の城郭なので、その後も2度ほど訪問しています。

 巨大な天守台とともに、三重櫓を四隅に配置した本丸が圧巻。高石垣の上からは瀬戸内海を眺め、山陽、瀬戸内へのにらみを利かせる重要な城であることがうかがわれます。ここも西国諸藩への押さえを目的に天下普請で築城されました。

 また築城に際しては城下町の整備も行われ、一説では町割りをかの剣豪・宮本武蔵が担当したともいわれています。

 この城の印象的なところは、正面の駅側の高石垣の立派さと、対をなすかのような裏側(北側)の谷筋で、桜堀、剛の池といった池が、西側の明石川とともに天然の堀として機能しているところです。谷筋からみると駅から見た感じと印象が異なります。
 お手軽な城ですので、初心者の方はぜひどうぞ!


明石城 なぜ、天守は建てられなかったのか
神戸新聞明石総局・編
神戸新聞総合出版センター
2020-04-17







tougouiryo at 2021年03月13日05:00|この記事のURLComments(0)