インテグラル理論

統合医療を抽象度を上げて考える 四谷三丁目院開院を前に

 統合医療の意義について、ファシアとカンファレンスの観点から再考してみよう。
 一般的には、統合医療は、「代替医療」の言い換え的な用法が跋扈しているため、医療者においてさえも、なお統合医療はインチキとかいった物言いが広がっている。

 だがしかし、統合医療が現代医療をも内包していることから、原則としてはインチキとかインチキでないとかいう対象ではないことは言うまでもなかろう。

 では、統合医療という概念を用いる必要性は何なのだろうか。よく言われる「多様性」への対応であるというのは極めて単純な解釈ではある。
 確かに医療における多様性の実現であるが、実際に臨床を行っている立場からすると、それだけではない「何か」が含まれる気がしてならない。


 ここに哲学者、ケン・ウィルバーの「四象限」という考えがある。あらゆる視点を統合的(インテグラル)に捉えるために用いられる「道具」といってもいいかもしれない。
 これは学問の諸領域を総括整理するため、もしくは概観する目的にも利用可能である。「I(主観・単数)」、「WE(主観・複数)」、「IT(客観・単数)」、「ITS(客観・複数)」の4つの視点に分別することで、インテグラルな視点を確保する方法である。これに統合医療の意義を重ね合わせてみたいと思う。

 まずは、WE(主観・複数)の視点。
 これは統合医療に関わる複数のメンバーによる内的な世界観とも言えるもので、我々が「ジャングルカンファレンス」として実践しているものに他ならない。その他にも、ある種の統合医療という同一の概念を共有するグループの理念も含まれるだろう。

 多職種連携を基盤とする昨今の医療思想において、統合医療の提案しうる新たな連携の在り方がここにあると思う。
 私はこれは精神科医療における「オープンダイアローグ」に匹敵する概念であると考えている。


 次に、IT(客観・単数)の視点。
 単純な図式でいうと、現代西洋医学と、伝統を踏襲する東洋医学などの代替医療との理論的統合の先に見えてくる新たな「知見」である。

 具体的なテーマでいうと、総合診療領域や、「整形内科」という新領域を開拓するグループにおいて、特に注目される「ファシア」の研究である。これなどはまさに東洋と西洋という視点の交差により、明確になってきた研究領域といっても良いだろう。
 そしてこれは従来、神秘的とされた東洋医学の「気」や「経絡」といった諸理論を西洋医学的に解明する端緒、ないしは「本丸」といってもよい概念である。この理論的研究のためには、統合医療という複眼的な領域は不可欠であると考えている。

 これら二つが当面の、提示しやすい医療の新展開における「統合医療の意義」といえよう。そしてそこから必然的に発展していく「社会的な仕組み」などが、ITS(客観・複数)として表現されるものになるだろう。
 異種のものを統合することで、新たな視界が開け、そこから新たな仕組みや制度が生れてくる、という社会医学的な視点は、これまでも統合医療学会において語られ続けたことではある。統合医療の社会モデルと称されるものである。


 そして最後の4つ目が、I(主観・単数)の視点、つまり個人からの視点である。
 自らの視点が展開される環境としての「構造」と、自らが見えている「現象」、時に「ナラティブ」と表現してもよい領域である。

 異質なものを統合するという行為から、導き出される自らの「姿勢」がどのような視点を展開するのか。私としては実践を足場とする統合医療の立場は、まさに「プラグマティズム」に基づく姿勢がその基本になるように思う。
 哲学界隈では「プラグマティズム」というと、昨今、見直されつつあるものの、一般的風潮では、古臭い思想として一蹴されることも少なくない。しかし、現実への取り組み、瞬間への爪痕から、ナマの感覚を会得するその姿勢は、プラグマティズムという言葉でしか表現しようがないものであると実感している。
 個に基づいた「唯一無二の対象への応答」を模索するためにこそ、前述したWE・ITの視点が必要になってくるものと思う。


 統合医療の実践の意義、それは唯一無二の自らの対応を、カンファレンスによる多職種連携の在り方や、ファシアなど学際領域の研究により高めていくことにあるのだとあらためて痛感する。
 抽象度を上げた話題というのは一般に「うけ」がわるい。具体的でない、ということが、そのまま分かりにくさとされてしまうからであろう。しかし、これからの生き方をも見据えた医療の捉え方としては、個別のエビデンスの蓄積では本来の問題が見えてこないようにも思う。それゆえに抽象度を上げて考えることは、統合医療に限らず、今後の医療にとって不可欠の思考法であると思う。

tougouiryo at 2022年06月19日22:56|この記事のURLComments(0)

四象限についてのメモ

 最近の話題をウィルバーの四象限でまとめたものをメモします。関心のない方はスルーしてくださいませ! DFPに関しての記載の続編です。
 ウィルバーの四象限をさらに、内部と外部とに分割した詳細なバージョンにて、最近のDFPの視点から記載してみます。

第一象限:これはいわゆる「客観」の視点、「It」と称されるものです。いわゆる客観的・科学的に記載されるものです。ここではDFPの視点から生理学的な新知見として、ファシア、自律神経、免疫、内分泌などをあげておきましょう。詳細としては有髄迷走神経(腹側迷走神経)もここの分類です。これらは全ていわゆる「外部」。「内部」としては、認知心理学的な用語が当てはまると考えられます。安保理論を刷新しうる新しい自律神経・免疫・内分泌学や、経絡理論を発展させるファシア学などは視点としては全てここの分類です。

第二象限:これは「私」という一人称に関するもので、自分の中で展開される精神や無意識など主観的な領域といえます。哲学的な分類でいうと、「内部」は自らの内側から湧き上がるものですから実存主義、「外部」はそうした湧き上がるものを規定している構造ですので構造主義といったところでしょうか。また第一象限は幅広くNBM的領域とすることもできます(厳密には「内部」になるでしょう)。発展的に考えると、第一第四と第二第三との対立をEBMとNBMとの関連として捉えることも可能です。また自由意志の有無なども併せて考えるとさらに興味深いものとなります。

第三象限:これは「私たち」で、二人称・三人称の主観的な視点です。ダイアローグにおいて展開されるものが代表的でしょう。とりわけオープンダイアローグやジャングルカンファレンスにおいて、各人の内面に去来するものが「内部」です。そして、そうした対話の「場」を構造的に規定しているものが「外部」となります。会話の場を成り立たせている雰囲気やルールのようなものでしょうか。総じて、一人称の時には思ってもみなかったものが「やってくる」場、とも言えます。対人の関係性の中から、「個」を超越して創出されると表現してもいいかもしれません。
 ある種のスピリチュアルな療法(ホメオパシーやフラワーエッセンスなど)の妙味もここに関連すると考えています。(この療法には事実と価値の分離の問題が絡んでいるのではないでしょうか)

第四象限:社会における関係性の客観的記載、社会システムみたいなところです。ここは普通に考えると「外部」が想定しやすいので、それのみのようにも感じますが、理論的にはというか原理的に考えると、ここでも「内部」というものを考えることが出来ます。この象限自体が、ベイトソンが問題意識を持ったサイバネティクスが適合します。最近の潮流として、サイバネティクスの内面から記載という視点も注目されており、これが「ネオサイバネティクス」と称される分野です。ここでは、撃たれたミサイルを迎撃しようとする戦闘機のパイロットの内面における試行錯誤、のようなものを想定しているようです。いずれにせよサイバネティクス的な視点は「統合医療」という複眼的なものを扱うにあたってはとても重要な概念になりうるでしょう。ヒト・モノ・コトの関連として特にホメオパシー的な視点にも応用できるのではないかと考えています。
 加えて、第四象限での社会システムは当然、第三象限の間主観性と共に、社会系神経(第一象限的概念である有髄迷走神経)の影響を介して、第二象限(とりわけ構造主義)として一巡し帰還することになるわけです。こうして全部の象限がつながることになります。つまり、止揚されないこうしたつながりこそが、ウィルバーのいうインテグラル(統合)ということなのでしょう。

とりとめないので、この辺で。




tougouiryo at 2022年05月24日06:00|この記事のURLComments(0)

「一律」であること、「多様」であること

「一律」であること、「多様」であることについて考える。(最近の思考の整理目的ですので、ご興味ない方はスルーしてください m(__)m )

 量子力学の通常解釈におけるものは、当然、物質の一律性を基礎にしたものとなる。物理学の前提がそうなので、言うまでもない。が、もし物質が一律ではなく「多様」で、それゆえに各々に個性があったならばどうなるか。これが量子に意志があるとした山田廣成博士の量子論で、これは或る意味分かり易い量子力学の考え方である。

 そして、あらゆる細胞は当然、個性があるわけだが、一身体として考えた場合、我々は意外と物質同様に「一律に」その性質を考慮してしまってはいないだろうか。
 ちょっとした場所や機序の違いを、ノイズのようにカットした単純化された思考をしていないだろうか。当然、現代医療においても、脳や心臓など細かな地図が作成される領域もあるが(一般に外科領域では個々の手術において当然そうではあるが…)、それ以外の場面では、いわゆるファシア等大きく広がったものについて、意外に一律な思考で考えているところが多いようにも感じる。(これは先端医療というよりは日常診療的な思考に特徴的であるように思う)
 例えば、デルマトームは「よし」としながらも、代替医療的な反射区はダメとか。経絡上の痛みが内臓と関連するとか。こうした発想はファシアなどが「一律」な傾向であることが暗黙の裡に想定されていることと無縁ではないように思う。

 これに関係して最近感じているのが、上咽頭擦過や、頭蓋仙骨療法や頭鍼などによる頭蓋内部、「脳」への刺激ということ。
 通常の発想では、髄液に保護された状態で、いわば浮遊している臓器だけに外部から刺激したところで直接の内部への影響は少ないように感じる。
 しかし、上咽頭擦過における効果の仮説としては、その影響は上咽頭におけるリンパ流を介して骨を通過し、視床下部・下垂体への影響を示唆している、といわざるを得ない。
 また頭蓋仙骨療法はそれ自体、副交感神経への影響を示唆する直接的な名称であるし、最近の話題としてもポリヴェーガル理論の実践的アプローチとして、身体操法や手技的方法での「腹側迷走神経」への介入も可能だとしている。
 これらは応用すれば、刺絡や上咽頭擦過もまたポリヴェーガル理論における、有髄迷走神経(腹側迷走神経)への直接的な介入技法になる可能性を示唆するものである。すると従来の上咽頭擦過の幅広い効果への説明も、下垂体からの内分泌的な機序による説明だけではなく、腹側迷走神経への効果も合わさるのでより納得のいくものになる。

 またポリヴェーガル理論によって、迷走神経への刺激を際立たせることで、逆に交感神経系へのアプローチとしての脊椎への刺絡などの刺激の意味もまた再評価できるだろう。(これは安保理論を用いた説明でも十分であるが…)
 このアプローチをまとめると以下のようになるだろう。
腹側迷走神経:ポリヴェーガル理論による脳幹へのアプローチ、上咽頭擦過療法、頭・頸部刺絡
交感神経幹:脊椎刺絡、デルマトームを介した鍼刺激(ファシアリリース含む)

 上のようにまとめれば、「身体(表層と症状)」と「自律神経」との関連となるが、これはライヒやローウェン的に考えれば、身体の表層と症状は、無意識をも含む精神領域との関連へも発展させることが出来る。無意識を手で触れることが出来るということである。
 つまり症状と身体観察により、自律神経・内分泌・免疫さらには精神・無意識、そして社会性をも、直接的診察の視野に入れることが出来ることになる。身体を詳細で多様なモノとして捉えることで、診察における最高の観測点を得ることができるのである。

 最後にこれまでの概念を、ケン・ウィルバーのいう「四象限」にまとめると以下のようになるだろう。詳細としてはさらに「内側」「外側」とに各々を分割するので8領域にすべきだが、煩雑になるので今回は単純な4領域までの概略にする。この内容の詳細は、また後日、まとめてみたいと思う。

第一象限(それ):ファシア、自律神経・内分泌・免疫(生理学的知識の刷新)
第二象限(私):精神・無意識(身体に刻印されるものを含む)
第三象限(われら):関係性、ダイアローグ(対話から紡がれるもの)
第四象限(それら):社会性、サイバネティクス(社会的システム図)

tougouiryo at 2022年05月17日07:00|この記事のURLComments(0)

インテグラル理論の実践

 ケン・ウィルバーのインテグラル理論の実践書『インテグラルライフプラクティス』、前回の訳本である「実践インテグラルライフ」の新訳ですが、原本も改訂されているのか、かなり読みやすく分かり易い印象です。

 インテグラル理論について、その理論面はさておき、実践に興味がある方も多いかと思います。そうした方は是非、本書がおススメです。かなりスピリチュアルなワークに詳しい方には、物足りない、もしくは異見がある方もありましょうが、とてもバランスの取れた良書だと思います。
 ただし、具体的な全体像(図表として示されてはいますが)が「腑に落ちる」まで少し時間がかかりましたが、自分なりにカスタマイズすると、よりスムースに導入しやすいと思います。



INTEGRAL LIFE PRACTICE 私たちの可能性を最大限に引き出す自己成長のメタ・モデル
マーコ・モレリ
日本能率協会マネジメントセンター
2020-08-29




 私はウォーキングしながら、AQALを意識するようにしています。特別な瞑想時間を取れなくても、歩きの瞑想は、自然にこうした意識に入りやすいように感じます。

 インテグラルというと、なにかスゴイ統一概念があるように感じてしまうのですが、これが「逆説的」なのが、この理論のキモでもあります。本書の中にも「インテグラルな意識を確立するために重要な能力は、逆説を受容する能力」とあります。
 こうしたことの体感のための一つの入り口ととらえられそうです。

tougouiryo at 2020年10月02日09:17|この記事のURLComments(0)

多元と統合について考える

 本年度の群馬大学での統合医療概論の講義も近づいてきたので、また改めて「統合医療」について考えております。
 統合医療というと通常は(というかほとんどは)、多彩な補完代替医療や、東洋医学、サプリメントなどの各論が話題に上がることが多いですが、このブログでは、そうした話題や健康知識だけでなく、統合医療そのものを考える記事も書いてきています。
 これは、概論的なことを自分が好むということもないわけではないのですが、それだけではありません。こうしたことを話題にしなければ、一般の方は当然、興味はないですし、専門家までもそうであれば、だれも考えなくなってしまうからです。

 先日、コロナ関連のテレビ番組で歴史家の磯田先生が言っていましたが、他国に比べ日本ではスペインインフルエンザの歴史学的な研究者がいないため、資料も散逸してほとんど残らず、そのため一般市民の間に記憶としてあまり残っていない、という指摘でした。形の見えないものは日本人は得意ではない、といったことが原因ではないかということでした。
 これは統合医療についても同様で、何とかセラピーとか、何を食べたら健康になるといったことが前面に出てしまい、そのための仕組みや考え方の枠組みを考えることに関心がむきません。一般の方はそれでよいのですが、いわゆる専門家も同様の傾向があるので問題だと思うのです。
 一つのサプリや治療のエビデンスばかりが強調され、それらの具体的な使用法や併用法など、いわゆる「位置づけ」などは置いてきぼりの感があります。むしろそれこそが統合医療だという方までいます。

 多彩な方法論の並立の問題は、ふつう考えるよりも複雑で、はるかに重要であるのにあまり関心をもたれず、放置されていることがほとんどです。こうした問題の解決には、「統合医療」というものの構造が不可欠であるのですが、それがほとんどスポットライトが当たらない、という状況なのです。
 この問題の解決のために、かつて『統合医療の哲学』を著して、多元的統合医療というモデルを出し、選択の思想的基盤をプラグマティズムにおくという考えを提出しました。基礎的にはそれで方向性はつけられたのですが、具体策としては、多元のなかからどう決定していくのかというところが曖昧で、ご指摘を受けることもありました。
 その時は、プラグマティズムの思想を拡大解釈することで解決可能だと考えており、そうした回答をしていたのですが(間違ってはいなかったと思います)具体策を示しうるものであればよりよい、と考え続けてはいました。 

 そこでこうした思想的基盤として取り入れたのが、ケン・ウィルバーのインテグラル思想です。ティール組織の勉強から入っていったのですが、これまでも実は何度かトライはしておりましたが、あまりご縁がなかったようでなかなか腑に落ちませんでした。
 それが、ジャングルカンファレンスやオープンダイアローグなどを経由した現在、読み直してみると、かなり理解しやすい考えだと感じました(甲野先生の著作を初めて読んだ時のような納得感を得ることが出来ました)。また、これまで強調してきた「折衷」と「多元」の相違や、インテグラルとしての「統合」の在り方などの考えをより分かり易くまとめることができる理論であるとも感じました。詳細は、講義などで解説していく予定ですが、いわゆる「統合」と通常いわれる意味との距離を感じると説明も容易にはいかなそうです。

 特に「多元」と「統合」との問題はわかりにくく、私も一部かかわった書籍でもある「統合医療とは何かわかる本」においても、誤解・誤読といってよい多元主義に関する記述がなされています。またウィルバー研究者からの「ティール組織」への多元段階(グリーン)に対する理解の疑問なども提出されており、こうした誤解や誤読は至る所で生じている問題のようです。(ウィルバーはこれを「プレ・トランスの混同」といった用語で説明しており、色々な場面に適応可能で感動しました)

 今回はそうした問題の指摘だけに止め、詳細は後日、ここでも書いていきたいと考えています。
 明日は、初のオンライン講演です。皆様のご参加をお待ちしております!


インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル
ケン・ウィルバー
日本能率協会マネジメントセンター
2019-06-15


tougouiryo at 2020年05月21日06:00|この記事のURLComments(0)