ファッシア論
ダイアローグ、ファシア、コヒーレンス そして多分ホロン
最近、頻繁に用いるキーワードがあります。素材としての「ファシア」、JCなどの「ダイアローグ」、そしていわゆる共鳴としての「コヒーレント」です。
よく使う初めの二つ、ファシアもダイアローグも、そこには物理用語の「コヒーレント」が重要概念となってくるので、相互に関連しており、並列した概念ではないのですが、まあいいでしょう。これらを使って当院での診療内容や、いわゆる量子医学との関連性を考えてみます。
思考とダイアローグについて、すこし再考してみたいと思います。物理学者ボームは思考のクセのようなところを指摘し(彼は思考の明白な問題点は「断片化」にあるといいます)、それを自覚することの重要性を述べます。また、あらゆる問題はすべて思考の中で起こるとも述べています。まあたしかに言われてみればそうでしょう。
そして、こうした思考のクセのようなものを自覚する方法が「ダイアローグ」にあるというのです。そこからは「洞察」も得ることができると述べています。この洞察により、自らの思考を自覚し、そのインコヒーレントな点を超越して「コヒーレント」な状態に至ることができるというわけです。より調和した状況になるということでしょうか。
一人だけでは容易に到達できない状態に、集合体となることで可能になるということです。つまり、興味深い挙動の発現(物理的にも社会的にも)もこれを基盤として発動してくるのです。このあたりは栗本慎一郎のいう「生命」の意味論にも通じるところで、社会それ自体の生命としての機能、として捉えるべきことなのかもしれません。(またケストラーのヤヌスとしてのホロン概念も統合の立場から念頭に置くべきことを指摘しておきましょう)
少し違った観点ですが、このようなことはいわゆるエネルギー医学の領域においても、かつてから指摘されていました。
一例として、ラグビーやサッカーのような集団競技の試合中に負傷者が出た場合のケースが、あるエネルギー系医療の解説書に紹介されていました。その際、応急処置がとられるのは言うまでもありませんが、それと同時にチームのメンバーが集結して、その負傷者に対して祈りを行うことで、状況の好転や回復の早まりが起こるという解説がありました。さらにその後、試合続行時においてもメンバー間の意思疎通が良好になるという「付加的」な事態も生じるらしいのです。それこそ、このチームという集団が「コヒーレント」な理想的調和の状況になっているということだと思います。
我々の経験でも、ジャングルカンファレンスや、相談者を含めたジャングルカフェといった状況においてあてはまる経験があります。(この辺りの感覚が、経験者と説明を聞いただけの人との大きな隔たりとなります。つまり実体験の有無が大きいわけです)
つまり集団が、「首尾一貫した良好な状態」になっているとき(まさにレーザー光線のような状態にあるとき)、それは「コヒーレント」な状態であるといえます。これは社会的な集団のみのことではなく、我々の身体における細胞・組織の集団においても適応できます。つまり一個の身体としてもコヒーレントな状態となりうるのです。
こうしたすべてのシステムに超越したものとして、血管、神経を凌駕して想定されている物質的な基礎が「ファシア」といえます。
進化論的にも、他の組織に比べて出現が早いことは言うまでもありません(広義には細胞外マトリックスも含まれるいわけですから)
これはエネルギー系の書籍では、何らかのエネルギーを媒体する生体マトリックスやら軟部組織と称されることがありますが、概念の統一を図るとすれば、現時点では「ファシア」として捉える方が分かり易いでしょう。ただし厳密には「生体マトリックス」という用語で表現するべきだと思いますが…。
ファッシアに関連する(周辺に存在する)水分子、さらには生体を構成する他の諸分子が、コヒーレントな状態になっていることが、健康的な状態といってよいでしょう。(ちなみにボームは『ボームの思考論』において「ガン」はインコヒーレントであると述べています)これらの分子の状態を差異化して画像にしたものが、MRIですから当然と言えば当然です。
このように考えると不調の状態(インコヒーレントな状態)を、コヒーレントな状態へと復調させる方法、例えばホメオパシーをはじめとするエネルギー医学の特徴がとらえやすくなるのではないでしょうか。
当然、一定の仮定が想定されるわけですが、プラグマティックには「アリ」としてよいでしょう。つまりその挙動は、漢方やハーブのように大きめの分子レベルで作用しているのではなく、量子レベルでの挙動となるわけです。(電子、陽子の状況が関与するので)
直接、ファシアを復調させる徒手療法のみならず、こうしたエネルギー的な観点も許容しながら、生体における「コヒーレンス」ということを考えていかなければならないのではないでしょうか。その方法論の違いが、ホメオパシーであったり、波動・量子医学系の器機であったりするわけです。(こうした点で階層の考え方が重要になります)
こうした考え方は同時に、現在のファシア研究(や紹介)が、ややもすると限定的な徒手療法の視点からのみで展開されていることにも注意していかなければなりません。つまり想定されるよりも、はるかに大きな射程を有する問題だということです。
確かにファシアはエコーにより可視化されたことで、その存在がクローズアップされたことは否めませんが、世界的な研究の流れから見ると、エネルギー医学との密接な関係は無視することはできないものです。(この辺りが我が国における今後の展開の分岐となるでしょう。本来であればこうした領域こそ統合医療の必要性が要請されるべきなのですが…)
ダイアローグを再考するということは、ファシアという概念を単なる徒手療法の一用語としてとどめることなく、コヒーレンスという視点から再認識することにもつながるのです。(ここも多くの誤解があり、ただ話せばダイアローグになるというわけではないのです)
コヒーレンスに関しては、最近は、身体内部における定常状態において共鳴する周波数や、ホメオパシー、経絡現象論とあわせて具体的な治療論ともリンクしてきています。その流れの中にQPAをはじめとした波動系器機も位置付けられるでしょう。
一見違ったもののように見えますが、結構共通点が多く、診療においては私の個人内部では矛盾しないのですが、まだなかなか連続しにくいかもしれません。
ダイアローグ、コヒーレンス、ファシアについて最近の考えをまとめてみました。
よく使う初めの二つ、ファシアもダイアローグも、そこには物理用語の「コヒーレント」が重要概念となってくるので、相互に関連しており、並列した概念ではないのですが、まあいいでしょう。これらを使って当院での診療内容や、いわゆる量子医学との関連性を考えてみます。
思考とダイアローグについて、すこし再考してみたいと思います。物理学者ボームは思考のクセのようなところを指摘し(彼は思考の明白な問題点は「断片化」にあるといいます)、それを自覚することの重要性を述べます。また、あらゆる問題はすべて思考の中で起こるとも述べています。まあたしかに言われてみればそうでしょう。
そして、こうした思考のクセのようなものを自覚する方法が「ダイアローグ」にあるというのです。そこからは「洞察」も得ることができると述べています。この洞察により、自らの思考を自覚し、そのインコヒーレントな点を超越して「コヒーレント」な状態に至ることができるというわけです。より調和した状況になるということでしょうか。
一人だけでは容易に到達できない状態に、集合体となることで可能になるということです。つまり、興味深い挙動の発現(物理的にも社会的にも)もこれを基盤として発動してくるのです。このあたりは栗本慎一郎のいう「生命」の意味論にも通じるところで、社会それ自体の生命としての機能、として捉えるべきことなのかもしれません。(またケストラーのヤヌスとしてのホロン概念も統合の立場から念頭に置くべきことを指摘しておきましょう)
少し違った観点ですが、このようなことはいわゆるエネルギー医学の領域においても、かつてから指摘されていました。
一例として、ラグビーやサッカーのような集団競技の試合中に負傷者が出た場合のケースが、あるエネルギー系医療の解説書に紹介されていました。その際、応急処置がとられるのは言うまでもありませんが、それと同時にチームのメンバーが集結して、その負傷者に対して祈りを行うことで、状況の好転や回復の早まりが起こるという解説がありました。さらにその後、試合続行時においてもメンバー間の意思疎通が良好になるという「付加的」な事態も生じるらしいのです。それこそ、このチームという集団が「コヒーレント」な理想的調和の状況になっているということだと思います。
我々の経験でも、ジャングルカンファレンスや、相談者を含めたジャングルカフェといった状況においてあてはまる経験があります。(この辺りの感覚が、経験者と説明を聞いただけの人との大きな隔たりとなります。つまり実体験の有無が大きいわけです)
つまり集団が、「首尾一貫した良好な状態」になっているとき(まさにレーザー光線のような状態にあるとき)、それは「コヒーレント」な状態であるといえます。これは社会的な集団のみのことではなく、我々の身体における細胞・組織の集団においても適応できます。つまり一個の身体としてもコヒーレントな状態となりうるのです。
こうしたすべてのシステムに超越したものとして、血管、神経を凌駕して想定されている物質的な基礎が「ファシア」といえます。
進化論的にも、他の組織に比べて出現が早いことは言うまでもありません(広義には細胞外マトリックスも含まれるいわけですから)
これはエネルギー系の書籍では、何らかのエネルギーを媒体する生体マトリックスやら軟部組織と称されることがありますが、概念の統一を図るとすれば、現時点では「ファシア」として捉える方が分かり易いでしょう。ただし厳密には「生体マトリックス」という用語で表現するべきだと思いますが…。
ファッシアに関連する(周辺に存在する)水分子、さらには生体を構成する他の諸分子が、コヒーレントな状態になっていることが、健康的な状態といってよいでしょう。(ちなみにボームは『ボームの思考論』において「ガン」はインコヒーレントであると述べています)これらの分子の状態を差異化して画像にしたものが、MRIですから当然と言えば当然です。
このように考えると不調の状態(インコヒーレントな状態)を、コヒーレントな状態へと復調させる方法、例えばホメオパシーをはじめとするエネルギー医学の特徴がとらえやすくなるのではないでしょうか。
当然、一定の仮定が想定されるわけですが、プラグマティックには「アリ」としてよいでしょう。つまりその挙動は、漢方やハーブのように大きめの分子レベルで作用しているのではなく、量子レベルでの挙動となるわけです。(電子、陽子の状況が関与するので)
直接、ファシアを復調させる徒手療法のみならず、こうしたエネルギー的な観点も許容しながら、生体における「コヒーレンス」ということを考えていかなければならないのではないでしょうか。その方法論の違いが、ホメオパシーであったり、波動・量子医学系の器機であったりするわけです。(こうした点で階層の考え方が重要になります)
こうした考え方は同時に、現在のファシア研究(や紹介)が、ややもすると限定的な徒手療法の視点からのみで展開されていることにも注意していかなければなりません。つまり想定されるよりも、はるかに大きな射程を有する問題だということです。
確かにファシアはエコーにより可視化されたことで、その存在がクローズアップされたことは否めませんが、世界的な研究の流れから見ると、エネルギー医学との密接な関係は無視することはできないものです。(この辺りが我が国における今後の展開の分岐となるでしょう。本来であればこうした領域こそ統合医療の必要性が要請されるべきなのですが…)
ダイアローグを再考するということは、ファシアという概念を単なる徒手療法の一用語としてとどめることなく、コヒーレンスという視点から再認識することにもつながるのです。(ここも多くの誤解があり、ただ話せばダイアローグになるというわけではないのです)
コヒーレンスに関しては、最近は、身体内部における定常状態において共鳴する周波数や、ホメオパシー、経絡現象論とあわせて具体的な治療論ともリンクしてきています。その流れの中にQPAをはじめとした波動系器機も位置付けられるでしょう。
一見違ったもののように見えますが、結構共通点が多く、診療においては私の個人内部では矛盾しないのですが、まだなかなか連続しにくいかもしれません。
ダイアローグ、コヒーレンス、ファシアについて最近の考えをまとめてみました。
tougouiryo at 2023年06月23日10:12|この記事のURL│Comments(0)
医療における「マトリックス」という発想
映画「マトリックス」の最新作公開が間近ですが、これに関連して「医療」におけるマトリックスに関して考えてきたことのメモです。
マトリックスとは、医療分野では「基質」として訳されることが多く、ミクロにおけるファシアともいえる「細胞外マトリックス」などはこうした用法です。そもそもの原意としてはラテン語での「母」という意味で、何かを生み出す背景というニュアンスを持つものです(ウィキペディアによる)。大本的な意味から転じて、箱に何か「モノ」を詰めるときの「充填剤」的な使われ方もします。ファシアにおける用法はこれに近いように思います。
大切な「モノ」に対しての充填剤ですから、陰陽論でいうと「陽」に対しての「陰」とも捉えられます。となると陰は「母」的な意味とも重なるので、原意に近くなりますね。
そしてファシアの関連でいうと「〜以外全部」といった「補集合」的な意味合いにも用いられます。こうした観点から、自分の分野との関連を探ると、まさに定義が困難な「代替医療」という用語は、正統な医療に対しての「補集合」ですから、極めてマトリックス的と言えそうです。
自分の興味・関心も、当然そうした方向に向けられるので、よくよく振り返ってみると、このマトリックスという概念とかなり重なることに気づきました。
こうした考えをウィルバーの四象限に対応させてみると、「We」の領域における人と人とのコミュニケーションでは、その空間で紡がれる「何か」、オープンダイアローグでの治癒をもたらす「何か」にあたると考えられます。
そして「It」は幅広いですが、医学、身体という面では、まさに「ファシア」がこれにあたり、それゆえに別称として「生体マトリックス」とも称されているわけです。
おそらく細胞外マトリックスなども含めて、広く議論するときは「ファシア」としての概念よりも「生体マトリックス」の方が適しているのではないかと考えます。
それでは「I」の領域は何か。自我を支える大きな基盤・母体といえば、まさにエス・無意識・潜在意識と称されるものではないでしょうか。意識できる部分はごくわずかで、その膨大な根底部分は計り知れない大きさを有するわけです。これは時に集団的無意識を相互に反応しながら、大きなものとのつながりももつ。これを展開すれば「Its」の領域へも拡張しうる概念にもなりえます。
急ぎ足ではありますが、マトリックスという用語により、ファシア、ダイアローグ、無意識(エス)というものが、ひとつながりの概念としてまとめられることになるわけです。これらに共通する「何か」に注意しながら、今後もまた考察を続けたいと思います。
マトリックスとは、医療分野では「基質」として訳されることが多く、ミクロにおけるファシアともいえる「細胞外マトリックス」などはこうした用法です。そもそもの原意としてはラテン語での「母」という意味で、何かを生み出す背景というニュアンスを持つものです(ウィキペディアによる)。大本的な意味から転じて、箱に何か「モノ」を詰めるときの「充填剤」的な使われ方もします。ファシアにおける用法はこれに近いように思います。
大切な「モノ」に対しての充填剤ですから、陰陽論でいうと「陽」に対しての「陰」とも捉えられます。となると陰は「母」的な意味とも重なるので、原意に近くなりますね。
そしてファシアの関連でいうと「〜以外全部」といった「補集合」的な意味合いにも用いられます。こうした観点から、自分の分野との関連を探ると、まさに定義が困難な「代替医療」という用語は、正統な医療に対しての「補集合」ですから、極めてマトリックス的と言えそうです。
自分の興味・関心も、当然そうした方向に向けられるので、よくよく振り返ってみると、このマトリックスという概念とかなり重なることに気づきました。
こうした考えをウィルバーの四象限に対応させてみると、「We」の領域における人と人とのコミュニケーションでは、その空間で紡がれる「何か」、オープンダイアローグでの治癒をもたらす「何か」にあたると考えられます。
そして「It」は幅広いですが、医学、身体という面では、まさに「ファシア」がこれにあたり、それゆえに別称として「生体マトリックス」とも称されているわけです。
おそらく細胞外マトリックスなども含めて、広く議論するときは「ファシア」としての概念よりも「生体マトリックス」の方が適しているのではないかと考えます。
それでは「I」の領域は何か。自我を支える大きな基盤・母体といえば、まさにエス・無意識・潜在意識と称されるものではないでしょうか。意識できる部分はごくわずかで、その膨大な根底部分は計り知れない大きさを有するわけです。これは時に集団的無意識を相互に反応しながら、大きなものとのつながりももつ。これを展開すれば「Its」の領域へも拡張しうる概念にもなりえます。
急ぎ足ではありますが、マトリックスという用語により、ファシア、ダイアローグ、無意識(エス)というものが、ひとつながりの概念としてまとめられることになるわけです。これらに共通する「何か」に注意しながら、今後もまた考察を続けたいと思います。
tougouiryo at 2021年12月02日08:45|この記事のURL│Comments(0)
ファシア論の広がり なぜ統合医療なのか?
ファシアは統合医療において非常に重要な概念であると思います。解剖学的に述べると、皮膚と筋肉の間や、各臓器の連携、またミクロでは細胞ひとつひとつの間隙を埋める細胞外マトリックスなどを含む大きな概念といえます。
そのため、意味するところはかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。
とりわけ近年、関心が高まっているのが経絡への科学的解釈に対しての補助線的な役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。
この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流がが発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。(この概念はそのまま「アーシング」などの説明にも直結するので非常に重要です)
この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。
加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。
つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。
そのため、意味するところはかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。
とりわけ近年、関心が高まっているのが経絡への科学的解釈に対しての補助線的な役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。
この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流がが発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。(この概念はそのまま「アーシング」などの説明にも直結するので非常に重要です)
この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。
加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。
つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。
tougouiryo at 2021年11月14日06:00|この記事のURL│Comments(0)
ファシアとカンファレンスから「統合医療の意義」を考える
統合医療の意義について。一般的には、「代替医療」の言い換え的な用法が跋扈しているため、医療者においてさえも、なお統合医療はインチキとかいった物言いが広がっている。
だがしかし、統合医療が現代医療をも内包していることから、原則としてはインチキとかインチキでないとかいう対象ではないことは言うまでもなかろう。
では、統合医療という概念を用いる必要性は何なのだろうか。よく言われる「多様性」への対応であるというのは極めて単純な解釈ではある。確かに医療における多様性の実現であるが、実際に臨床を行っている立場からすると、それだけではない「何か」が含まれる気がしてならない。
ここに哲学者、ケン・ウィルバーの「四象限」という考えがある。あらゆる視点を統合的(インテグラル)に捉えるために用いられる「道具」といってもいいかもしれない。
これは学問の諸領域を整理するため、もしくは概観する目的にも利用可能である。「I(主観・単数)」、「WE(主観・複数)」、「IT(客観・単数)」、「ITS(客観・複数)」の4つの視点に分別することで、インテグラルな視点を確保する方法である。これに統合医療の意義を重ね合わせてみたい。
まずは、WE(主観・複数)の視点。これは統合医療に関わる複数のメンバーによる内的な世界観とも言えるもので、我々が「ジャングルカンファレンス」として実践しているものに他ならない。その他にも、ある種の統合医療という概念を共有するグループの理念も含まれるだろう。
多職種連携を基盤とする昨今の医療思想において、統合医療の提案しうる新たな連携の在り方がここにあると思う。私はこれは精神科医療における「オープンダイアローグ」に匹敵する概念であると考えている。
次に、IT(客観・単数)の視点。単純な図式でいうと、現代西洋医学と、伝統を踏襲する東洋医学などの代替医療との理論的統合の先に見えてくる新たな「知見」である。
具体的なテーマでいうと、総合診療領域や、「整形内科」という新領域を開拓するグループにおいて、特に注目される「ファシア」の研究である。これなどはまさに東洋と西洋という視点の交差により、明確になってきた研究領域といっても良いだろう。
そしてこれは従来、神秘的とされた東洋医学の「気」や「経絡」といった諸理論を西洋医学的に解明する端緒、ないしは「本丸」といっても良い概念である。この理論的研究のためには、統合医療という複眼的な領域は不可欠であると考えている。
これら二つが当面の、提示しやすい医療の新展開における「統合医療の意義」といえよう。そしてそこから必然的に発展していく「社会的な仕組み」などが、ITS(客観・複数)として表現されるものになるだろう。異種のものを統合することで、新たな視界が開け、そこから新たな仕組みや制度が生れてくる、という社会医学的な視点は、これまでも統合医療学会において語られ続けたことではある。
そして最後の4つ目が、I(主観・単数)の視点、つまり個人からの視点である。自らの視点が展開される環境としての「構造」と、自らが見えている「現象」、時に「ナラティブ」と表現してもよい領域である。
異質なものを統合するという行為から、導き出される自らの「姿勢」がどのような視点を展開するのか。私としては実践を足場とする統合医療の立場は、まさに「プラグマティズム」に基づく姿勢がその基本になるように思う。
哲学界隈では「プラグマティズム」というと、昨今、見直されつつあるものの、一般的風潮では、古臭い思想として一蹴されることも少なくない。しかし、現実への取り組み、瞬間への爪痕から、ナマの感覚を会得するその姿勢は、プラグマティズムという言葉でしか表現しようがないものであると実感している。個に基づいた「唯一無二の対象への応答」を模索するためにこそ、前述したWE・ITの視点が必要になってくるものと思う。
統合医療の実践の意義、それは唯一無二の自らの対応を、カンファレンスによる多職種連携の在り方や、ファシアなど学際領域の研究により高めていくことにあるのだとあらためて痛感する。
こうした統合医療の本来的意義をともに考えていく同志の「ジャングルカンファレンス」への参加を強く希望し、本稿を終えたい。
だがしかし、統合医療が現代医療をも内包していることから、原則としてはインチキとかインチキでないとかいう対象ではないことは言うまでもなかろう。
では、統合医療という概念を用いる必要性は何なのだろうか。よく言われる「多様性」への対応であるというのは極めて単純な解釈ではある。確かに医療における多様性の実現であるが、実際に臨床を行っている立場からすると、それだけではない「何か」が含まれる気がしてならない。
ここに哲学者、ケン・ウィルバーの「四象限」という考えがある。あらゆる視点を統合的(インテグラル)に捉えるために用いられる「道具」といってもいいかもしれない。
これは学問の諸領域を整理するため、もしくは概観する目的にも利用可能である。「I(主観・単数)」、「WE(主観・複数)」、「IT(客観・単数)」、「ITS(客観・複数)」の4つの視点に分別することで、インテグラルな視点を確保する方法である。これに統合医療の意義を重ね合わせてみたい。
まずは、WE(主観・複数)の視点。これは統合医療に関わる複数のメンバーによる内的な世界観とも言えるもので、我々が「ジャングルカンファレンス」として実践しているものに他ならない。その他にも、ある種の統合医療という概念を共有するグループの理念も含まれるだろう。
多職種連携を基盤とする昨今の医療思想において、統合医療の提案しうる新たな連携の在り方がここにあると思う。私はこれは精神科医療における「オープンダイアローグ」に匹敵する概念であると考えている。
次に、IT(客観・単数)の視点。単純な図式でいうと、現代西洋医学と、伝統を踏襲する東洋医学などの代替医療との理論的統合の先に見えてくる新たな「知見」である。
具体的なテーマでいうと、総合診療領域や、「整形内科」という新領域を開拓するグループにおいて、特に注目される「ファシア」の研究である。これなどはまさに東洋と西洋という視点の交差により、明確になってきた研究領域といっても良いだろう。
そしてこれは従来、神秘的とされた東洋医学の「気」や「経絡」といった諸理論を西洋医学的に解明する端緒、ないしは「本丸」といっても良い概念である。この理論的研究のためには、統合医療という複眼的な領域は不可欠であると考えている。
これら二つが当面の、提示しやすい医療の新展開における「統合医療の意義」といえよう。そしてそこから必然的に発展していく「社会的な仕組み」などが、ITS(客観・複数)として表現されるものになるだろう。異種のものを統合することで、新たな視界が開け、そこから新たな仕組みや制度が生れてくる、という社会医学的な視点は、これまでも統合医療学会において語られ続けたことではある。
そして最後の4つ目が、I(主観・単数)の視点、つまり個人からの視点である。自らの視点が展開される環境としての「構造」と、自らが見えている「現象」、時に「ナラティブ」と表現してもよい領域である。
異質なものを統合するという行為から、導き出される自らの「姿勢」がどのような視点を展開するのか。私としては実践を足場とする統合医療の立場は、まさに「プラグマティズム」に基づく姿勢がその基本になるように思う。
哲学界隈では「プラグマティズム」というと、昨今、見直されつつあるものの、一般的風潮では、古臭い思想として一蹴されることも少なくない。しかし、現実への取り組み、瞬間への爪痕から、ナマの感覚を会得するその姿勢は、プラグマティズムという言葉でしか表現しようがないものであると実感している。個に基づいた「唯一無二の対象への応答」を模索するためにこそ、前述したWE・ITの視点が必要になってくるものと思う。
統合医療の実践の意義、それは唯一無二の自らの対応を、カンファレンスによる多職種連携の在り方や、ファシアなど学際領域の研究により高めていくことにあるのだとあらためて痛感する。
こうした統合医療の本来的意義をともに考えていく同志の「ジャングルカンファレンス」への参加を強く希望し、本稿を終えたい。
tougouiryo at 2021年10月31日18:39|この記事のURL│Comments(0)
ファッシア・ダイアローグ・コヒーレンスについて思ったことなど
最近の当院のキーワードがだんだんと形成されてきたように思います。素材としての「ファッシア」、JCなどの「ダイアローグ」、そしていわゆる共鳴としての「コヒーレント」です。ファッシアもダイアローグも、そこにはコヒーレンスが重要概念となるので相互に関連しているのですが、便宜上の3つとでも言いましょうか。
そんなことを考えるなかで、思考とダイアローグについて、すこし再考してみたいと思います。物理学者ボームは思考のクセのようなところを指摘し(思考の明白な問題点は「断片化」にあるといいます)、それを自覚することの重要性を述べます。また、あらゆる問題はすべて思考の中で起こるとも述べています。
こうした思考のクセのようなものを自覚する方法が「ダイアローグ」にあるというのです。そしてそこからは「洞察」も得ることができると述べています。洞察により、自らの思考を自覚し、そのインコヒーレントな点を超越して「コヒーレント」な状態に至ることができるというわけです。
一人だけでは容易に到達できない状態に、集合体となることで可能になるということです。興味深い挙動の発現もこれを基盤として発動してくるのです。
少し違った観点ですが、このようなことはエネルギー医学の領域においても、かつてから指摘されていました。一例として、ラグビーやサッカーのような集団競技の試合中に負傷者が出た場合のケースが、あるエネルギー系医療の解説書に紹介されていました。その際に、応急処置がとられるのは言うまでもありませんが、それと同時にチームのメンバーが集結して、その負傷者に対して祈りを行うことで、状況の好転や回復の早まりが起こるという指摘がありました。
これは同時にその後、試合続行時にもメンバー間の意思疎通が良好になるという「付加的」な事態も生じうるというのです。それこそ、このチームという集団が「コヒーレント」な状況になっているということだと思います。
我々のジャングルカンファレンスや、相談者を含めたジャングルカフェといった状況にもあてはまる例といってよいのではないでしょういか。
つまり集団が、「首尾一貫した良好な状態」になっているとき(まさにレーザー光線のような状態にあるとき)、それは「コヒーレント」な状態であるといえるでしょう。
これは社会的な集団のみのことではありません。我々の身体は、細胞・組織の集団といってよいものです。つまり一個の身体としてもコヒーレントな状態となりうるのです。
こうしたすべてのシステムに超越したものとして、血管、神経を凌駕して想定されているのが、「ファッシア」といえます。進化論的にも、この出現が最も早いことは言うまでもありません(広義には細胞外マトリックスも含まれますから)
これはエネルギー系の書籍では、何らかのエネルギーを媒体する生体マトリックスやら軟部組織と称されることがありますが、概念の統一を図るとすれば、現時点では「ファッシア」としてよいと思います。
ファッシアに関連する水分子をはじめとする生体を構成する諸分子が、コヒーレントな状態になっていることが、健康的な状態といってよいでしょう。(ちなみにボームは『ボームの思考論』において「ガン」はインコヒーレントであると述べています)
このように考えると不調の状態(インコヒーレントな状態)を、コヒーレントな状態へと復調させる方法、例えばホメオパシーをはじめとするエネルギー医学の特徴がとらえやすくなるのではないでしょうか。
つまり漢方やハーブのように大きめの分子レベルで作用しているのではなく、量子レベルでの挙動で考えるということです。
直接、ファッシアを復調させる徒手療法のみならず、こうしたエネルギー的な観点も許容しながら、生体における「コヒーレンス」ということを考えていかなければならないのではないでしょうか。
こうした考え方は同時に、現在のファッシア研究(や紹介)が、ややもすると限定的な徒手療法の視点からのみで展開されていることにも注意喚起することにもつながります。
確かにファッシアはエコーにより可視化されたことで、その存在がクローズアップされたことは否めませんが、世界的な研究の流れから見ると、エネルギー医学との密接な関係は無視することはできません。(実態を前面に押し出すか、概念を前面に押し出すか、の相違です)
ダイアローグを再考するということは、ファッシアという概念を単なる徒手療法の一用語としてとどめることなく、コヒーレンスという視点から再認識することにもつながるのです。(ここも多くの誤解があり、ただ話せばダイアローグになるというわけではないのです)
コヒーレンスに関しては、最近は、身体内部における定常状態において共鳴する周波数やらホメオパシー、経絡現象論とあわせて具体的な治療論ともリンクしてきています。こうした個々の身体で生じたことに限らず、個人と個人との「あいだ」、そして集団内部で起きていることといった、これまで扱いにくかった「できごと」についてダイアローグからのコヒーレンスは大きく展望を開いてくれるのではないかと考えています。
そんなことを考えるなかで、思考とダイアローグについて、すこし再考してみたいと思います。物理学者ボームは思考のクセのようなところを指摘し(思考の明白な問題点は「断片化」にあるといいます)、それを自覚することの重要性を述べます。また、あらゆる問題はすべて思考の中で起こるとも述べています。
こうした思考のクセのようなものを自覚する方法が「ダイアローグ」にあるというのです。そしてそこからは「洞察」も得ることができると述べています。洞察により、自らの思考を自覚し、そのインコヒーレントな点を超越して「コヒーレント」な状態に至ることができるというわけです。
一人だけでは容易に到達できない状態に、集合体となることで可能になるということです。興味深い挙動の発現もこれを基盤として発動してくるのです。
少し違った観点ですが、このようなことはエネルギー医学の領域においても、かつてから指摘されていました。一例として、ラグビーやサッカーのような集団競技の試合中に負傷者が出た場合のケースが、あるエネルギー系医療の解説書に紹介されていました。その際に、応急処置がとられるのは言うまでもありませんが、それと同時にチームのメンバーが集結して、その負傷者に対して祈りを行うことで、状況の好転や回復の早まりが起こるという指摘がありました。
これは同時にその後、試合続行時にもメンバー間の意思疎通が良好になるという「付加的」な事態も生じうるというのです。それこそ、このチームという集団が「コヒーレント」な状況になっているということだと思います。
我々のジャングルカンファレンスや、相談者を含めたジャングルカフェといった状況にもあてはまる例といってよいのではないでしょういか。
つまり集団が、「首尾一貫した良好な状態」になっているとき(まさにレーザー光線のような状態にあるとき)、それは「コヒーレント」な状態であるといえるでしょう。
これは社会的な集団のみのことではありません。我々の身体は、細胞・組織の集団といってよいものです。つまり一個の身体としてもコヒーレントな状態となりうるのです。
こうしたすべてのシステムに超越したものとして、血管、神経を凌駕して想定されているのが、「ファッシア」といえます。進化論的にも、この出現が最も早いことは言うまでもありません(広義には細胞外マトリックスも含まれますから)
これはエネルギー系の書籍では、何らかのエネルギーを媒体する生体マトリックスやら軟部組織と称されることがありますが、概念の統一を図るとすれば、現時点では「ファッシア」としてよいと思います。
ファッシアに関連する水分子をはじめとする生体を構成する諸分子が、コヒーレントな状態になっていることが、健康的な状態といってよいでしょう。(ちなみにボームは『ボームの思考論』において「ガン」はインコヒーレントであると述べています)
このように考えると不調の状態(インコヒーレントな状態)を、コヒーレントな状態へと復調させる方法、例えばホメオパシーをはじめとするエネルギー医学の特徴がとらえやすくなるのではないでしょうか。
つまり漢方やハーブのように大きめの分子レベルで作用しているのではなく、量子レベルでの挙動で考えるということです。
直接、ファッシアを復調させる徒手療法のみならず、こうしたエネルギー的な観点も許容しながら、生体における「コヒーレンス」ということを考えていかなければならないのではないでしょうか。
こうした考え方は同時に、現在のファッシア研究(や紹介)が、ややもすると限定的な徒手療法の視点からのみで展開されていることにも注意喚起することにもつながります。
確かにファッシアはエコーにより可視化されたことで、その存在がクローズアップされたことは否めませんが、世界的な研究の流れから見ると、エネルギー医学との密接な関係は無視することはできません。(実態を前面に押し出すか、概念を前面に押し出すか、の相違です)
ダイアローグを再考するということは、ファッシアという概念を単なる徒手療法の一用語としてとどめることなく、コヒーレンスという視点から再認識することにもつながるのです。(ここも多くの誤解があり、ただ話せばダイアローグになるというわけではないのです)
コヒーレンスに関しては、最近は、身体内部における定常状態において共鳴する周波数やらホメオパシー、経絡現象論とあわせて具体的な治療論ともリンクしてきています。こうした個々の身体で生じたことに限らず、個人と個人との「あいだ」、そして集団内部で起きていることといった、これまで扱いにくかった「できごと」についてダイアローグからのコヒーレンスは大きく展望を開いてくれるのではないかと考えています。
tougouiryo at 2021年08月22日00:30|この記事のURL│Comments(0)
ファッシアとインテグラル理論の「ヒトのからだ」への展開
「ヒトのからだ」勉強会の前なので、追加情報を記載しておきます。
メモ的な仮説ですので、興味ある方は、勉強会の折にでも質問してください。三木解剖学からみたヒトのからだと、これまで解説してきた「ファッシア」、精神・意識論としてのウィルバーの「インテグラル理論」との関連を備忘録的に記載します。
三木の総論において、アリストテレスの四階建ピラミッド(人・動物・植物・四大)が解説されていますが、この中でプシケのあるもの(生物)とないもの(無生物・四大)ということで、西洋では完全に壁によって隔てられているとされています。そして現代医学では、ここでいう生物でさえも次第に「生」が失われ無生物化しつつあると警鐘を鳴らしています。(解剖学が骨学からはじまるのはそのためだと三木は述べています)
対して東洋では、この壁が取り払われ、同一線上に並べる思想(陰陽五行説)により、すべての要素が「生」を保っているといいます。ここに三木が東洋医学を礼賛する理由があるのでしょうが(晩年の三木は鍼灸師の資格を取ろうとしていたという発言もあります)、これを解剖学的な構造に結び付けることも可能に思います。それが「ファッシア」の概念です。当時の解剖学としては、まさに「除去すべきもの」だったファッシアが、こうした論の流れに登場するというのは三木にとっても意外に感じられるのではないでしょうか。
動物系は、感覚ー実施という神経を基盤にした、いわば電気信号ベースの情報です。そして植物系は、食物から得られる栄養素、つまり化学物質といえる物質です。では四大のところは何か。まさに物理的な「力」です。つまり、押されたら、その圧力(剪断力、張力)など力学的な力が、その内部に伝わります。これは生物でもそうでなくても、共通です。その意味で、無生物としての生物への影響となります。こうした力学的影響を伝達するのがファッシアであるのはいうまでもありません。つまり「皮膚ーファッシアー内蔵(これは内部臓器に限らず筋肉などいわば「内蔵」されたもの全て)」の伝達路により、外側から内側への情報の流れとなります。これの仮想的なルートが「経絡」となるわけですし、整体やカイロ、あらゆる徒手技法の基本となりうるものです。
それゆえに三木の言う中心的な役割のものとしては、動物系の神経系、植物系の循環系、さらにその基盤にファッシア系があると位置づけられます。この観点で、三木解剖学を読み返すとまた新たな解釈が可能ですが、ここではとりあえず、ここで議論を止めます。
そして視点を転じてピラミッドの頂点、つまり人(理性)のところを文字通りに解釈するのではなく、多元的な「インテグラル理論」によって解釈してみます。これにより、社会的な視点との接続、社会の構成員との多元的な関係、などいわゆる社会システムとの理論的な連携がとれる理論に展開できます。ちなみにウィルバー自身、素粒子から人間社会までの一つのシステムとしての捉え方には否定的ですので、それに対しての回答のようなものにもなると思います。
まあ現段階では思い付きですので、また、機会あるごとに解説してみたいと思います。今回はここまで!
メモ的な仮説ですので、興味ある方は、勉強会の折にでも質問してください。三木解剖学からみたヒトのからだと、これまで解説してきた「ファッシア」、精神・意識論としてのウィルバーの「インテグラル理論」との関連を備忘録的に記載します。
三木の総論において、アリストテレスの四階建ピラミッド(人・動物・植物・四大)が解説されていますが、この中でプシケのあるもの(生物)とないもの(無生物・四大)ということで、西洋では完全に壁によって隔てられているとされています。そして現代医学では、ここでいう生物でさえも次第に「生」が失われ無生物化しつつあると警鐘を鳴らしています。(解剖学が骨学からはじまるのはそのためだと三木は述べています)
対して東洋では、この壁が取り払われ、同一線上に並べる思想(陰陽五行説)により、すべての要素が「生」を保っているといいます。ここに三木が東洋医学を礼賛する理由があるのでしょうが(晩年の三木は鍼灸師の資格を取ろうとしていたという発言もあります)、これを解剖学的な構造に結び付けることも可能に思います。それが「ファッシア」の概念です。当時の解剖学としては、まさに「除去すべきもの」だったファッシアが、こうした論の流れに登場するというのは三木にとっても意外に感じられるのではないでしょうか。
動物系は、感覚ー実施という神経を基盤にした、いわば電気信号ベースの情報です。そして植物系は、食物から得られる栄養素、つまり化学物質といえる物質です。では四大のところは何か。まさに物理的な「力」です。つまり、押されたら、その圧力(剪断力、張力)など力学的な力が、その内部に伝わります。これは生物でもそうでなくても、共通です。その意味で、無生物としての生物への影響となります。こうした力学的影響を伝達するのがファッシアであるのはいうまでもありません。つまり「皮膚ーファッシアー内蔵(これは内部臓器に限らず筋肉などいわば「内蔵」されたもの全て)」の伝達路により、外側から内側への情報の流れとなります。これの仮想的なルートが「経絡」となるわけですし、整体やカイロ、あらゆる徒手技法の基本となりうるものです。
それゆえに三木の言う中心的な役割のものとしては、動物系の神経系、植物系の循環系、さらにその基盤にファッシア系があると位置づけられます。この観点で、三木解剖学を読み返すとまた新たな解釈が可能ですが、ここではとりあえず、ここで議論を止めます。
そして視点を転じてピラミッドの頂点、つまり人(理性)のところを文字通りに解釈するのではなく、多元的な「インテグラル理論」によって解釈してみます。これにより、社会的な視点との接続、社会の構成員との多元的な関係、などいわゆる社会システムとの理論的な連携がとれる理論に展開できます。ちなみにウィルバー自身、素粒子から人間社会までの一つのシステムとしての捉え方には否定的ですので、それに対しての回答のようなものにもなると思います。
まあ現段階では思い付きですので、また、機会あるごとに解説してみたいと思います。今回はここまで!
tougouiryo at 2020年08月20日03:00|この記事のURL│Comments(0)
自律神経について少し考えたこと
前回に引き続いての内容です。ファッシアについてもう少しメモしていきます。
『筋膜マニュピレーション』では、ファッシア(筋膜)の基本原理として、o-f(臓器筋膜)単位、a-f(器官筋膜)配列、システム、の3つに分けて考えていました。
このうち「o-f単位」は、臓器単独の筋膜との関係性で、張力棒でシートを広げたような「引張構造」を基盤とし、局所的な関連痛の説明として用いられていました。いわば臓器による局所的な筋膜への影響です。体幹部を、頸部、胸部、腰部、骨盤部の4つの腔に分け、そこに引張構造で吊るされた臓器が、局所的な症状を及ぼすというわけです。
ここではさらに、交感神経、副交感神経の腸内システムとして、各臓器における神経叢単独の影響を示しています。つまり腸神経として、中枢とは別に独自に作用する系でもあり、後に交感・副交感との連絡を持つようになるというわけです(この視点は従来の自律神経の解説ではあまりみないところ)。
「単位」の考えを受けて、その連なりとしての「配列」です。配列は、内臓配列、血管配列、腺配列、受容器配列から成り、金門橋のような橋げたを有する吊り橋構造の「懸垂線(カテナリー)」を基盤として説明されます。遠位の関連痛を説明する概念として用いられています。前の記事で書いたように、器官として説明されますが、あきらかに経絡との整合性を意識したものだと思います。なので、逆に言えば、経絡的な(鍼灸的な)理解で良い、とも言えるでしょう。無理にカテナリー的な概念を入れなくても(入れてもそれほど難しくはないのですが)経絡への負荷という視点からでも理解できるように思います。また、経絡の概念が、思っている以上に西洋医学的に理解できるので結構すっきりします。
そして3つ目がシステム(系)です。幅広く浅筋膜全般における関連を示しており、具体的には免疫系、代謝系、体温調節(皮膚)系、心因系とざっくりと分類できます。皮下組織として括られる場で、皮膚構造そのものを扱ってもいるので、3つの中では一番分かり易いのではないでしょうか。
これらの3つは診察のポイントとしても分かり易く、ファッシアを意識した診療がやりやすくなりそうです。
これらのファッシア的な視点だけでなく、この本では自律神経全般を考えなおす良い機会にもなりました。ファッシアが内臓への影響を及ぼすとすると、その理論的な基盤は、皮膚や血管を基礎にした交感神経系が重要になります。つまりファッシアは交感神経を介して、神経節から内臓に影響することになります。その神経節がただの交感神経のシナプス交換の場だけでなく、いわば小さな脳として機能するというのです(筋骨格系における筋紡錘の役割としています)。
当然、従来の自律神経のテキストにはそうした説明はありませんから、これまでとは違った斬新な自律神経に関する解釈を必要とします。この本では、自律神経の特徴としても有名な相互に拮抗的な二重支配的視点は、自律神経系において本質ではないとする立場がとられます。確かに、従来の自律神経の解釈を変更することで、よりファッシアの臓器への影響を記述しやすくなると感じました。
こうした自律神経についての考え方の変更は、この分野に限らず、話題になったもので言うと「ポリヴェーガル理論」などが代表的ではないでしょうか。これまでの交感・副交感のシーソー的関連ではなく、迷走神経を有髄と無髄とに分類し、不動化などのいわばマイナス的なものを「背側」とし、社会性を有するものを「腹側」とするというものです。これにより、これまでの副交感によるマイナス面の解釈が分かりやすく、臨床に適合したものとなりました。
これらの例からも分かるように、これまでの自律神経の説明には無理が目立つようになってきたように思います。シーソー的な拮抗関係は説明としてはスマートなものの、あまりに臨床的な例外が多く、実臨床を行うものとしては不便といわざるをえません。それでも学生向けの教育などでは、分かり易いなどの長所も多いので、これからもある程度は継続していくのでしょうが、実際には、大きな概念のモデルチェンジが行われることでしょう。
これは物理学における古典力学と量子力学的な関係に近いのかもしれません。こうした例からも「分かり易いモデル」というのはそれだけで大きな「盲点」を生み出しやすいということが分かりますね。通常医学といわれるものでも大きな変革を迎えつつあるのかもしれません。
『筋膜マニュピレーション』では、ファッシア(筋膜)の基本原理として、o-f(臓器筋膜)単位、a-f(器官筋膜)配列、システム、の3つに分けて考えていました。
このうち「o-f単位」は、臓器単独の筋膜との関係性で、張力棒でシートを広げたような「引張構造」を基盤とし、局所的な関連痛の説明として用いられていました。いわば臓器による局所的な筋膜への影響です。体幹部を、頸部、胸部、腰部、骨盤部の4つの腔に分け、そこに引張構造で吊るされた臓器が、局所的な症状を及ぼすというわけです。
ここではさらに、交感神経、副交感神経の腸内システムとして、各臓器における神経叢単独の影響を示しています。つまり腸神経として、中枢とは別に独自に作用する系でもあり、後に交感・副交感との連絡を持つようになるというわけです(この視点は従来の自律神経の解説ではあまりみないところ)。
「単位」の考えを受けて、その連なりとしての「配列」です。配列は、内臓配列、血管配列、腺配列、受容器配列から成り、金門橋のような橋げたを有する吊り橋構造の「懸垂線(カテナリー)」を基盤として説明されます。遠位の関連痛を説明する概念として用いられています。前の記事で書いたように、器官として説明されますが、あきらかに経絡との整合性を意識したものだと思います。なので、逆に言えば、経絡的な(鍼灸的な)理解で良い、とも言えるでしょう。無理にカテナリー的な概念を入れなくても(入れてもそれほど難しくはないのですが)経絡への負荷という視点からでも理解できるように思います。また、経絡の概念が、思っている以上に西洋医学的に理解できるので結構すっきりします。
そして3つ目がシステム(系)です。幅広く浅筋膜全般における関連を示しており、具体的には免疫系、代謝系、体温調節(皮膚)系、心因系とざっくりと分類できます。皮下組織として括られる場で、皮膚構造そのものを扱ってもいるので、3つの中では一番分かり易いのではないでしょうか。
これらの3つは診察のポイントとしても分かり易く、ファッシアを意識した診療がやりやすくなりそうです。
これらのファッシア的な視点だけでなく、この本では自律神経全般を考えなおす良い機会にもなりました。ファッシアが内臓への影響を及ぼすとすると、その理論的な基盤は、皮膚や血管を基礎にした交感神経系が重要になります。つまりファッシアは交感神経を介して、神経節から内臓に影響することになります。その神経節がただの交感神経のシナプス交換の場だけでなく、いわば小さな脳として機能するというのです(筋骨格系における筋紡錘の役割としています)。
当然、従来の自律神経のテキストにはそうした説明はありませんから、これまでとは違った斬新な自律神経に関する解釈を必要とします。この本では、自律神経の特徴としても有名な相互に拮抗的な二重支配的視点は、自律神経系において本質ではないとする立場がとられます。確かに、従来の自律神経の解釈を変更することで、よりファッシアの臓器への影響を記述しやすくなると感じました。
こうした自律神経についての考え方の変更は、この分野に限らず、話題になったもので言うと「ポリヴェーガル理論」などが代表的ではないでしょうか。これまでの交感・副交感のシーソー的関連ではなく、迷走神経を有髄と無髄とに分類し、不動化などのいわばマイナス的なものを「背側」とし、社会性を有するものを「腹側」とするというものです。これにより、これまでの副交感によるマイナス面の解釈が分かりやすく、臨床に適合したものとなりました。
これらの例からも分かるように、これまでの自律神経の説明には無理が目立つようになってきたように思います。シーソー的な拮抗関係は説明としてはスマートなものの、あまりに臨床的な例外が多く、実臨床を行うものとしては不便といわざるをえません。それでも学生向けの教育などでは、分かり易いなどの長所も多いので、これからもある程度は継続していくのでしょうが、実際には、大きな概念のモデルチェンジが行われることでしょう。
これは物理学における古典力学と量子力学的な関係に近いのかもしれません。こうした例からも「分かり易いモデル」というのはそれだけで大きな「盲点」を生み出しやすいということが分かりますね。通常医学といわれるものでも大きな変革を迎えつつあるのかもしれません。
tougouiryo at 2020年07月13日05:00|この記事のURL│Comments(0)