臨床ファッシア瘀血学
臨床ファシア学 細胞本体とそれ以外
「臨床ファッシア瘀血学」のカテゴリーでの考察も進み、瘀血との関連性が明確になったことと、近年「ファッシア」表記から「ファシア」表記への移行を鑑みて、新たなカテゴリーとして「臨床ファシア学」として開始します。
最近、ファシアのもつ代替医療性を強く感じる気づきがありました。従来より「図と地の反転」としてのファシアへの関心の移行はここでも述べてきた通りですが、より明確に、図としての「細胞」、地としての「ファシア」という分類を意識しています。
これは医療という体系を分類するにあたっても重要で、従来のいわゆる現代西洋医学的なもの(生理学とか薬理学とか)はその理論的な基盤を細胞生物学においています。つまり細胞のどこに効いているか、どこを阻害しているか、等々。抗生物質であれば、細菌の細胞壁の破壊であったり、エネルギー代謝の促進であったり、核内における遺伝子への直接作用であったり、という具合です。
これに対して、ファシアの観点は、細胞のいわば「外殻」、もしくはそれを梱包する充填剤としての「マトリックス」となります。それゆえに正統とされる現代医療においては、注目されてこなかったものでもあります。あくまでも本体ではなく、充填剤ですから当然です。
しかし、ファシアに注目することでその関係性が逆転します。見えてくる医学の方法論や、基礎的な考え方すべてが、これによって「反転」します。まずは脂質二重膜によって水の塊がくるまれているという従来の細胞モデルに変更が加えられます。細胞質内に縦横無尽に生体マトリックスが張り巡らされているモデルとなります。それがインテグリンを介して、細胞外マトリックスと連絡し、いわばマクロの「ファシア」となります。
このファシアには、このブログでも紹介した「Bファシア」と「Eファシア」の二側面を捉えることができ、張力のかかった状態では「経絡」やボディマッサージではBファシア、エネルギー医学や振動医学的にはEファシア、と使い分けることができます。
いずれにせよともに「代替医療性」のつよい概念となります。視点が、細胞本体とそれ以外、ということであれば、こうした代替医療における正統医療との相違も当然ということになります。
またハーブや漢方といった生薬の分野が、これらの中間にあたることも、このモデルで理解しやすくなります。いわゆるサイエンス漢方的な現代医療的な漢方解釈は、アクアポリンによる五苓散の解釈に代表されるように、細胞生物学をベースに分かりやすくなる一方、おそらくファシアの硬度などに由来するであろう「腹診」や「脈診」的な視点は、細胞外であるファシアベースとなります。
つまり、両側面を有する体系ということになり、それゆえに生薬の分野の複雑性をしめすベースにもなります。
この細胞と細胞外という二つの視点を意識することの最大のメリットは、大方の代替医療の方法論をひとつの「身体」の中に位置づけることが可能になるということです。とくにEファシアの導入により、ホメオパシーをはじめとしたエネルギー医学、波動系の器機の合理的解釈が可能になるメリットは大きいでしょう。
身体という一つの地図のなかに、同時に位置付けられる意義は大きく、実臨床において応用性を高めることができます。様々な体系は、折衷的に存在するだけではいわゆる「とっちらかった」状態になってしまいます。それを幾分か整理して使いやすいように区分けすることが、こうした統合医療の諸概念を考える意味となります。
細胞本体とそれ以外、という視点は、今後のファシア理解において、極めて明快な視点を提供するとともに重要な二極の概念となっていくと考えています。
最近、ファシアのもつ代替医療性を強く感じる気づきがありました。従来より「図と地の反転」としてのファシアへの関心の移行はここでも述べてきた通りですが、より明確に、図としての「細胞」、地としての「ファシア」という分類を意識しています。
これは医療という体系を分類するにあたっても重要で、従来のいわゆる現代西洋医学的なもの(生理学とか薬理学とか)はその理論的な基盤を細胞生物学においています。つまり細胞のどこに効いているか、どこを阻害しているか、等々。抗生物質であれば、細菌の細胞壁の破壊であったり、エネルギー代謝の促進であったり、核内における遺伝子への直接作用であったり、という具合です。
これに対して、ファシアの観点は、細胞のいわば「外殻」、もしくはそれを梱包する充填剤としての「マトリックス」となります。それゆえに正統とされる現代医療においては、注目されてこなかったものでもあります。あくまでも本体ではなく、充填剤ですから当然です。
しかし、ファシアに注目することでその関係性が逆転します。見えてくる医学の方法論や、基礎的な考え方すべてが、これによって「反転」します。まずは脂質二重膜によって水の塊がくるまれているという従来の細胞モデルに変更が加えられます。細胞質内に縦横無尽に生体マトリックスが張り巡らされているモデルとなります。それがインテグリンを介して、細胞外マトリックスと連絡し、いわばマクロの「ファシア」となります。
このファシアには、このブログでも紹介した「Bファシア」と「Eファシア」の二側面を捉えることができ、張力のかかった状態では「経絡」やボディマッサージではBファシア、エネルギー医学や振動医学的にはEファシア、と使い分けることができます。
いずれにせよともに「代替医療性」のつよい概念となります。視点が、細胞本体とそれ以外、ということであれば、こうした代替医療における正統医療との相違も当然ということになります。
またハーブや漢方といった生薬の分野が、これらの中間にあたることも、このモデルで理解しやすくなります。いわゆるサイエンス漢方的な現代医療的な漢方解釈は、アクアポリンによる五苓散の解釈に代表されるように、細胞生物学をベースに分かりやすくなる一方、おそらくファシアの硬度などに由来するであろう「腹診」や「脈診」的な視点は、細胞外であるファシアベースとなります。
つまり、両側面を有する体系ということになり、それゆえに生薬の分野の複雑性をしめすベースにもなります。
この細胞と細胞外という二つの視点を意識することの最大のメリットは、大方の代替医療の方法論をひとつの「身体」の中に位置づけることが可能になるということです。とくにEファシアの導入により、ホメオパシーをはじめとしたエネルギー医学、波動系の器機の合理的解釈が可能になるメリットは大きいでしょう。
身体という一つの地図のなかに、同時に位置付けられる意義は大きく、実臨床において応用性を高めることができます。様々な体系は、折衷的に存在するだけではいわゆる「とっちらかった」状態になってしまいます。それを幾分か整理して使いやすいように区分けすることが、こうした統合医療の諸概念を考える意味となります。
細胞本体とそれ以外、という視点は、今後のファシア理解において、極めて明快な視点を提供するとともに重要な二極の概念となっていくと考えています。
tougouiryo at 2022年03月08日07:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学 経別と経方理論
前回の臨床ファシア瘀血学の話題で、江部経方医学の機能図と経別との関連を少し示唆しましたが、これについて補足の考察です。
経方医学における衛気の流れを示す機能図(俗にUFO図?とも)に基づく話題ですので、経方医学未読の方はスルーしてくださいませ。(何となく雰囲気だけは伝わるようにはします…)
江部経方医学における人体構造の概観としては、「胃気」が人体におけるシステム全体を維持することが特徴といえます。それをベースに「胸」「隔」「心下」が、各臓腑を外界(外殻)と交通するというのが中心構造となります。
つまりここでの「胃」は全身に供給される気の中心で、胃の気のバックアップとしての「脾」「肌」といった貯蔵の場を持ちながら、その調節を行っています。(西洋医学的にはさながら心臓の概念に近いのでしょうか)
ここでファシアとの関連も強い「三焦」を考えてみます。経方医学第1巻では、中医学的な三焦は、血脈以外の気津が循環する場を総称したものであると解説しています。そして経方との関連では「胸」「隔」「心下」と「皮気」「肌気」「脈外の気」「腠理」そして経方独自の概念である「直達路」もこれにあたるとしています。
つまり全体像としては、機能図すべてが相当することになるのですが、その開始点、中心となるものは胃気を出す「胃」そのものとも解釈できそうです。胃は本来、消化管として認識されていたものですから(古代の解剖においても小腸への連続は自明であったと推測できます)吸収がそのメインの機能です。
そこにさらに発出としての機能が付加されたわけですから、その放出先と合わせてなんらかの新しい概念が必要とされたのではないでしょうか。それが全体像としての「三焦」ではないかと考えます。
つまり「胃」には消化器としての側面と、三焦への気の放出器官としての側面とがあることになります。あえて表現するなら、胃(消化)と胃(三焦)、となるでしょうか。
これを機能図に当てはめる際、心と心包のような関係として適応させてみます。もしくは、胃(消化)と脾、胃(三焦)と三焦、としても良いでしょう。こうすると心下と小腸の間に、消化器としての胃を配置でき、また、胃気の放出源としての胃(三焦)を置くことが出来ます。
なぜ、このような面倒な概念を導入したかというと、臓腑との関連の深い「経別」の概念をこの機能図に入れ込みたかったからです。
これにより心下より下の臓腑、二組(経方の機能図において)になっているものは、腎・膀胱(一合)、肝・胆(二合)、胃・脾(三合)と分けられます。これら経別の源流としての陽経は、上から下への流れのため、経別となった後に、胸より上に引き上げるときは「心」の働きを要すると考えられます。それゆえに一から三合の陽経の経別は、すべて心を通過することになります。
次に、隔の上下に配置が分かれているものをみると、それは経別における四から六合にあたることが分かります。心・小腸(四合)、心包・三焦(五合)、肺・大腸(六合)です。これらの経別は、源流からすぐに心を通過することがわかります。
四肢から独自のルートで臓腑にいたる経別ですが、こうしてみると一定の法則性が、この機能図においてもあることが理解できます。こうした関連は帰経で考えるよりも自然な臓腑との連続で、湯液と鍼灸との相互作用における重要な接点としても考えられるのではないでしょうか。
この考え方は図示すると分かり易いのですが、メモとして残す意味でブログとして文章にして解説してみました。
またこの考え方によると、隔からの気の放出において「肌気」の放出が胃(三焦)から前隔を通してのみ、なされることがわかるので、ファシアの病態説明にも有用に思います。つまり、ファシア、肌気、三焦をひとまとまりとして理解することが出来るわけです。
ちなみに波動による器機は、ファシアを介して独自の周波数を放出もしくは感受すると考えられます。その場合は、こうした機能図の関連性を飛び越えて、直接的に臓腑に作用すると考えられます。
経方医学における衛気の流れを示す機能図(俗にUFO図?とも)に基づく話題ですので、経方医学未読の方はスルーしてくださいませ。(何となく雰囲気だけは伝わるようにはします…)
江部経方医学における人体構造の概観としては、「胃気」が人体におけるシステム全体を維持することが特徴といえます。それをベースに「胸」「隔」「心下」が、各臓腑を外界(外殻)と交通するというのが中心構造となります。
つまりここでの「胃」は全身に供給される気の中心で、胃の気のバックアップとしての「脾」「肌」といった貯蔵の場を持ちながら、その調節を行っています。(西洋医学的にはさながら心臓の概念に近いのでしょうか)
ここでファシアとの関連も強い「三焦」を考えてみます。経方医学第1巻では、中医学的な三焦は、血脈以外の気津が循環する場を総称したものであると解説しています。そして経方との関連では「胸」「隔」「心下」と「皮気」「肌気」「脈外の気」「腠理」そして経方独自の概念である「直達路」もこれにあたるとしています。
つまり全体像としては、機能図すべてが相当することになるのですが、その開始点、中心となるものは胃気を出す「胃」そのものとも解釈できそうです。胃は本来、消化管として認識されていたものですから(古代の解剖においても小腸への連続は自明であったと推測できます)吸収がそのメインの機能です。
そこにさらに発出としての機能が付加されたわけですから、その放出先と合わせてなんらかの新しい概念が必要とされたのではないでしょうか。それが全体像としての「三焦」ではないかと考えます。
つまり「胃」には消化器としての側面と、三焦への気の放出器官としての側面とがあることになります。あえて表現するなら、胃(消化)と胃(三焦)、となるでしょうか。
これを機能図に当てはめる際、心と心包のような関係として適応させてみます。もしくは、胃(消化)と脾、胃(三焦)と三焦、としても良いでしょう。こうすると心下と小腸の間に、消化器としての胃を配置でき、また、胃気の放出源としての胃(三焦)を置くことが出来ます。
なぜ、このような面倒な概念を導入したかというと、臓腑との関連の深い「経別」の概念をこの機能図に入れ込みたかったからです。
これにより心下より下の臓腑、二組(経方の機能図において)になっているものは、腎・膀胱(一合)、肝・胆(二合)、胃・脾(三合)と分けられます。これら経別の源流としての陽経は、上から下への流れのため、経別となった後に、胸より上に引き上げるときは「心」の働きを要すると考えられます。それゆえに一から三合の陽経の経別は、すべて心を通過することになります。
次に、隔の上下に配置が分かれているものをみると、それは経別における四から六合にあたることが分かります。心・小腸(四合)、心包・三焦(五合)、肺・大腸(六合)です。これらの経別は、源流からすぐに心を通過することがわかります。
四肢から独自のルートで臓腑にいたる経別ですが、こうしてみると一定の法則性が、この機能図においてもあることが理解できます。こうした関連は帰経で考えるよりも自然な臓腑との連続で、湯液と鍼灸との相互作用における重要な接点としても考えられるのではないでしょうか。
この考え方は図示すると分かり易いのですが、メモとして残す意味でブログとして文章にして解説してみました。
またこの考え方によると、隔からの気の放出において「肌気」の放出が胃(三焦)から前隔を通してのみ、なされることがわかるので、ファシアの病態説明にも有用に思います。つまり、ファシア、肌気、三焦をひとまとまりとして理解することが出来るわけです。
ちなみに波動による器機は、ファシアを介して独自の周波数を放出もしくは感受すると考えられます。その場合は、こうした機能図の関連性を飛び越えて、直接的に臓腑に作用すると考えられます。
tougouiryo at 2022年02月13日06:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学 「経別」について・BファシアとEファシア
「臨床ファッシア瘀血学」の連載のはじめの方で、経別・経筋・奇経とファシアに関して論考しましたが、最近、山田新一郎・佐藤源彦著『東洋医学と潜在運動系』を読んで、とりわけ経別への理解が進みましたので、ファシアの総論的なこととあわせて記載してみたいと思います。ファシア瘀血学の第2回で論じた三木解剖学との関連で述べていきます。
三木はヒトのからだを大きく動物系と植物系にわけ、生命の基盤を成す植物系に対して、現代では如何に動物系の影響が強まっているかを論じています。
この二つの関連で言うと、内臓との関連の密接な「経別」は植物系、そして通常の経絡(経脈)は動物系に相当すると考えられます。正確には経脈さらには奇経・経筋がこれに相当し、特に動物系という意味では経筋がそのものといえましょう。また奇経についても十二正経を持つ身体が立ち上がり、重力が縦軸に負荷されることで見えてくる、新たな関係としてとらえるとまさに動物系といえるでしょう。
この『東洋医学と潜在運動系』では、歴史的に臓器との関連の深い経別は、いわゆる現在の経脈の成立する前に存在していたと考えています。
人体の上下関係からヒントを得た経絡の原型から発展して、四肢と臓器の関連をしめした経別が形成され、さらにその後の知見を加えて(本書では潜在から顕在への時代の流れを受けて)十二正経が主流となったと推測しています。
そしてその過程で、従来の経別が十二正経の理論に取り込まれたのが、現在の解釈となったというわけです。それゆえに経絡の説明として、若干の強引な理論展開が出てくるわけで、経別の流注の複雑さはここに由来することになります。
ただ、もともと四肢と頭部との関連で、この流れ(経別)が存在していたとする見方は、非常に理解しやすい考え方だと思います。
大きな流れでとらえれば、1〜3合は足から頭部への流れ、4〜6合は頭部から手への流れになります(2本の経脈を一組として合としているので、合計6合となります)。
あわせて「足⇒頭部⇒手」と考えれば、三木がいうところの進化における「頭進」そのものになります。そしてこのハブとなるところが頭部です。内臓と感情との深い関係を考えるとTFT(思考場療法)のタッピング場所との関連も見えてきそうです。
つまり従来の経絡による解釈だけよりも、この療法の意味するところが明確になるのではないでしょうか。ちなみにこのルートを「エネルギー的」ととらえると、合気系武術などエネルギー的な身体技法的側面との接点が見えてきます。
そしてこれと逆ルートとも言えるのが経脈の流れとなります。「(胸)⇒手⇒頭部⇒足⇒(腹)」といった流れです。これは「動き」をベースにした「ボディワーク的」と言えるでしょう。関連する領域で言えば、向野先生の「M(経絡)テスト」や、より経筋に近い「アナトミートレイン」などがこれにあたるでしょう。
ここですこし三木解剖学の話題に戻ると、アリストテレスの「四大」での底辺である「モノ(物質)」を物理的な力であると考えると、ファシアとりわけアナトミートレイン的なファシアがそれに相当すると考えられます。いわばマトリックス(母体)となって植物系、動物系へと展開するわけです。
ボディワーク系ファシア(以後「Bファシア」)から始まり、植物系である内臓器官、そして中枢のベースである辺縁系(爬虫類)へとつながります。ここまでを経別として考えます。ちなみにBファシアは、張力をベースとして機能しうるので、一個体として身体を見るとき、それは「テンセグリティ」として考えることが出来ます。
そしてここから新皮質へと発展し、ここに従来型の経別に、感覚・運動系が大幅に上乗せされて経脈となるわけです。(ここで理論の整合性を保つために陽経経別の対向流システムが出てくるのでしょう)
進化的には爬虫類、哺乳類、さらには霊長類と進化し、壮大な精神的・霊的なシステムが出現してきます。身体のエネルギー殻を想定するエネルギー医学的視点です。エーテル体、アストラル体といった領域です。
この基本となるエネルギーとして想定されるのが、電子などの量子や、水分子をはじめとした生体においてコヒーレント性を有する分子です。この考え方によるとコラーゲン分子から成るファシアにおいて、電子の流れを形成し、エネルギー医学の基本としてのエネルギー系ファシア(以後「Eファシア」)として捉えることができます。
BファシアとEファシアという造語を、わざわざ導入した理由は、ファシア概念の混乱にあります。(近年の流れとしてはBファシアのみが正統化されつつあることを懸念しています)
生体マトリックス的な総合的考え方では、当然BとEの両方が考慮されるべきなので、どちらかを無視したり、混乱するということは避けなければなりません。『東洋医学と潜在運動系』では、顕在運動系と潜在運動系として、その混乱を戒めています。
これらを総合して三木解剖学に接続すると「物質的なBファシア(唯顕)⇒植物系(潜主顕従)⇒動物系(顕主潜従)⇒Eファシア(唯潜)」といった関係が記せます。一周廻ってBとEが、ファシアで合流というわけです。
ここにファシア概念の二重性も見て取ることが出来ます。これは、電子の波動性と粒子性の二重性とも重なりそうです。(ここにさらに量子の「意志」説をいれると面白いのですが話題が拡散するのでここまで)
また植物系と動物系の対比で考えられることは、経別と経脈との自律神経へのアナロジーです。
頭部との密接な関連から経別は、副交感神経とりわけ迷走神経との類似が推測されます。そして経脈は、交感神経との関連性、これはとりわけ長田先生の無血刺絡理論で展開されるデルマトームとの関連から示唆されます。
この対比は、診察法においても見て取られ、夢分流に代表される腹部臓器を投影した腹診では経別と密接な臓器の様子を知り、背部(背候診)においては、明確なデルマトームは交感神経との関連そのもの(関連痛のメカニズム参照)ですから、表裏でこれも対称的となります。
ちなみに皮膚と神経との関連では、経脈における内臓への影響は「体性自律神経反射」として説明されています。この反射で説明されるのがファシア連関のA−F、O−Fによる内臓への影響で、経絡理論的には経脈から派生した「絡脈」による内臓への接続です。かつてはこれを経別と解釈していたのですが、違って経別はもっと本幹的なものと考えるようになりました。このあたりは迷走神経の多彩な機能が関連してくるので「ポリヴェーガル理論」の援用を要します。つまり、ポリヴェーガル理論によってTFTなどが、トラウマ治療に効果を発揮する仕組みが説明できるのではないでしょうか。
別な話題としては、江部経方理論の臓腑の機能図において、各臓器に直接影響しうるラインもまた経別となります。つまり臓腑へ直接的に、エネルギーを送るラインとして考えられます。
ただその場合、頭部との密接な関連がやや説明困難ではありますが、これも合流しながら「胃の気」として江部先生の言うところの頭部への「直達路」を通っていくのかもしれません。直達路自体が経別の遺残(もしくは「影」)と考えることも出来そうです。なお経方理論の機能図は、体表構造(皮・肌・肉)と内部臓器との関連を総括している図でもあるので、統合医療的諸分野の総括図として非常に有効です。(私個人としては解剖図、生化学代謝図と並び、補完医療的要素のまとめとして統合医療臨床における重要な概念図であると考えています)
今回は「経別」の特殊性と、そこから導かれる「Bファシア」「Eファシア」の概念について考えてみました。これらはさらに発展して考えると、メタトロンやAWGなどの波動系器機の理論的基礎としても解釈が可能です。つまり統合医療的な統括概念として、極めて重要なものと考えられます。
波動系器機との関連は、また後日、考察してみたいテーマです。今回はココマデ。
以下は今回参考にした書籍です。内容としては概論半分、ワークの具体的方法半分、といった感じです。
三木はヒトのからだを大きく動物系と植物系にわけ、生命の基盤を成す植物系に対して、現代では如何に動物系の影響が強まっているかを論じています。
この二つの関連で言うと、内臓との関連の密接な「経別」は植物系、そして通常の経絡(経脈)は動物系に相当すると考えられます。正確には経脈さらには奇経・経筋がこれに相当し、特に動物系という意味では経筋がそのものといえましょう。また奇経についても十二正経を持つ身体が立ち上がり、重力が縦軸に負荷されることで見えてくる、新たな関係としてとらえるとまさに動物系といえるでしょう。
この『東洋医学と潜在運動系』では、歴史的に臓器との関連の深い経別は、いわゆる現在の経脈の成立する前に存在していたと考えています。
人体の上下関係からヒントを得た経絡の原型から発展して、四肢と臓器の関連をしめした経別が形成され、さらにその後の知見を加えて(本書では潜在から顕在への時代の流れを受けて)十二正経が主流となったと推測しています。
そしてその過程で、従来の経別が十二正経の理論に取り込まれたのが、現在の解釈となったというわけです。それゆえに経絡の説明として、若干の強引な理論展開が出てくるわけで、経別の流注の複雑さはここに由来することになります。
ただ、もともと四肢と頭部との関連で、この流れ(経別)が存在していたとする見方は、非常に理解しやすい考え方だと思います。
大きな流れでとらえれば、1〜3合は足から頭部への流れ、4〜6合は頭部から手への流れになります(2本の経脈を一組として合としているので、合計6合となります)。
あわせて「足⇒頭部⇒手」と考えれば、三木がいうところの進化における「頭進」そのものになります。そしてこのハブとなるところが頭部です。内臓と感情との深い関係を考えるとTFT(思考場療法)のタッピング場所との関連も見えてきそうです。
つまり従来の経絡による解釈だけよりも、この療法の意味するところが明確になるのではないでしょうか。ちなみにこのルートを「エネルギー的」ととらえると、合気系武術などエネルギー的な身体技法的側面との接点が見えてきます。
そしてこれと逆ルートとも言えるのが経脈の流れとなります。「(胸)⇒手⇒頭部⇒足⇒(腹)」といった流れです。これは「動き」をベースにした「ボディワーク的」と言えるでしょう。関連する領域で言えば、向野先生の「M(経絡)テスト」や、より経筋に近い「アナトミートレイン」などがこれにあたるでしょう。
ここですこし三木解剖学の話題に戻ると、アリストテレスの「四大」での底辺である「モノ(物質)」を物理的な力であると考えると、ファシアとりわけアナトミートレイン的なファシアがそれに相当すると考えられます。いわばマトリックス(母体)となって植物系、動物系へと展開するわけです。
ボディワーク系ファシア(以後「Bファシア」)から始まり、植物系である内臓器官、そして中枢のベースである辺縁系(爬虫類)へとつながります。ここまでを経別として考えます。ちなみにBファシアは、張力をベースとして機能しうるので、一個体として身体を見るとき、それは「テンセグリティ」として考えることが出来ます。
そしてここから新皮質へと発展し、ここに従来型の経別に、感覚・運動系が大幅に上乗せされて経脈となるわけです。(ここで理論の整合性を保つために陽経経別の対向流システムが出てくるのでしょう)
進化的には爬虫類、哺乳類、さらには霊長類と進化し、壮大な精神的・霊的なシステムが出現してきます。身体のエネルギー殻を想定するエネルギー医学的視点です。エーテル体、アストラル体といった領域です。
この基本となるエネルギーとして想定されるのが、電子などの量子や、水分子をはじめとした生体においてコヒーレント性を有する分子です。この考え方によるとコラーゲン分子から成るファシアにおいて、電子の流れを形成し、エネルギー医学の基本としてのエネルギー系ファシア(以後「Eファシア」)として捉えることができます。
BファシアとEファシアという造語を、わざわざ導入した理由は、ファシア概念の混乱にあります。(近年の流れとしてはBファシアのみが正統化されつつあることを懸念しています)
生体マトリックス的な総合的考え方では、当然BとEの両方が考慮されるべきなので、どちらかを無視したり、混乱するということは避けなければなりません。『東洋医学と潜在運動系』では、顕在運動系と潜在運動系として、その混乱を戒めています。
これらを総合して三木解剖学に接続すると「物質的なBファシア(唯顕)⇒植物系(潜主顕従)⇒動物系(顕主潜従)⇒Eファシア(唯潜)」といった関係が記せます。一周廻ってBとEが、ファシアで合流というわけです。
ここにファシア概念の二重性も見て取ることが出来ます。これは、電子の波動性と粒子性の二重性とも重なりそうです。(ここにさらに量子の「意志」説をいれると面白いのですが話題が拡散するのでここまで)
また植物系と動物系の対比で考えられることは、経別と経脈との自律神経へのアナロジーです。
頭部との密接な関連から経別は、副交感神経とりわけ迷走神経との類似が推測されます。そして経脈は、交感神経との関連性、これはとりわけ長田先生の無血刺絡理論で展開されるデルマトームとの関連から示唆されます。
この対比は、診察法においても見て取られ、夢分流に代表される腹部臓器を投影した腹診では経別と密接な臓器の様子を知り、背部(背候診)においては、明確なデルマトームは交感神経との関連そのもの(関連痛のメカニズム参照)ですから、表裏でこれも対称的となります。
ちなみに皮膚と神経との関連では、経脈における内臓への影響は「体性自律神経反射」として説明されています。この反射で説明されるのがファシア連関のA−F、O−Fによる内臓への影響で、経絡理論的には経脈から派生した「絡脈」による内臓への接続です。かつてはこれを経別と解釈していたのですが、違って経別はもっと本幹的なものと考えるようになりました。このあたりは迷走神経の多彩な機能が関連してくるので「ポリヴェーガル理論」の援用を要します。つまり、ポリヴェーガル理論によってTFTなどが、トラウマ治療に効果を発揮する仕組みが説明できるのではないでしょうか。
別な話題としては、江部経方理論の臓腑の機能図において、各臓器に直接影響しうるラインもまた経別となります。つまり臓腑へ直接的に、エネルギーを送るラインとして考えられます。
ただその場合、頭部との密接な関連がやや説明困難ではありますが、これも合流しながら「胃の気」として江部先生の言うところの頭部への「直達路」を通っていくのかもしれません。直達路自体が経別の遺残(もしくは「影」)と考えることも出来そうです。なお経方理論の機能図は、体表構造(皮・肌・肉)と内部臓器との関連を総括している図でもあるので、統合医療的諸分野の総括図として非常に有効です。(私個人としては解剖図、生化学代謝図と並び、補完医療的要素のまとめとして統合医療臨床における重要な概念図であると考えています)
今回は「経別」の特殊性と、そこから導かれる「Bファシア」「Eファシア」の概念について考えてみました。これらはさらに発展して考えると、メタトロンやAWGなどの波動系器機の理論的基礎としても解釈が可能です。つまり統合医療的な統括概念として、極めて重要なものと考えられます。
波動系器機との関連は、また後日、考察してみたいテーマです。今回はココマデ。
以下は今回参考にした書籍です。内容としては概論半分、ワークの具体的方法半分、といった感じです。
tougouiryo at 2022年01月30日06:00|この記事のURL│Comments(0)
ファシア論の広がり なぜ統合医療なのか?
ファシアは統合医療において非常に重要な概念であると思います。解剖学的に述べると、皮膚と筋肉の間や、各臓器の連携、またミクロでは細胞ひとつひとつの間隙を埋める細胞外マトリックスなどを含む大きな概念といえます。
そのため、意味するところはかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。
とりわけ近年、関心が高まっているのが経絡への科学的解釈に対しての補助線的な役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。
この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流がが発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。(この概念はそのまま「アーシング」などの説明にも直結するので非常に重要です)
この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。
加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。
つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。
そのため、意味するところはかなり多様で、それゆえに大きな混乱も起こしやすいものでもあります。マクロ的な説明か、ミクロ的な説明かの違いによってもとらえ方が異なります。
とりわけ近年、関心が高まっているのが経絡への科学的解釈に対しての補助線的な役割です。ファシアに一定の張力を仮定することで、アナトミートレインという経線がたてられ、これを経絡に類似させる考え方です。これはまさに「経絡ファシア論」と称しても良いものではないかと思います。
この考え方によれば、ファシア線維が引きのばされる(もしくは圧縮される)ことでピエゾ電流がが発生する、つまりそこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。「気」を「電子」とみなすことに違和感を感じる方もあるかもしれませんが、その特徴を見る限り、ニアリーイコール(≒)と十分みなせると思います。(この概念はそのまま「アーシング」などの説明にも直結するので非常に重要です)
この外力による線維組織の形状の変化は、マクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、いわゆる量子医学的な見地からも「結合水」などの概念を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファシアと量子論との接点となるわけです。この辺りはどこまでを科学的なものとして受け入れるかの立場の違いも効いてくるので、極めてグレーな領域とも言えます。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用したレメディの使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。つまりこの考え方を肯定するのであれば、鍼とホメオパシーとの相性の良さを主張することにもつながりますし、考え方によっては漢方薬以上のシナジー効果をもたらすこともありえるでしょう。
こうした発想がまさに統合医療的ともいえるでしょう。東洋医学というカテゴリーを超越して、ファシアという解剖学用語を用いることで、これまでカテゴリー違いであった療法・技法を架橋するということになるわけです。
加えて鍼灸分野において「刺絡」の特殊性を考えるうえでもファシアは、独自の視点を提供するように思います。この辺りは「ファシア瘀血」の概念として本ブログ上でこれまでに理論展開してきたものでもあります。
またサプリを含めた栄養の面からも、ファシアへの影響は大きいことが推測されます。とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。
現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。さらには呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るようにも感じています。
つまりこのファシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来るところにあるのです。ジャングルカンファレンスによる多元的な学習の場を展開してきたことで、こうした概念の可能性を強く感じるようになったのかもしれません。
tougouiryo at 2021年11月14日06:00|この記事のURL│Comments(0)
ファシアとカンファレンスから「統合医療の意義」を考える
統合医療の意義について。一般的には、「代替医療」の言い換え的な用法が跋扈しているため、医療者においてさえも、なお統合医療はインチキとかいった物言いが広がっている。
だがしかし、統合医療が現代医療をも内包していることから、原則としてはインチキとかインチキでないとかいう対象ではないことは言うまでもなかろう。
では、統合医療という概念を用いる必要性は何なのだろうか。よく言われる「多様性」への対応であるというのは極めて単純な解釈ではある。確かに医療における多様性の実現であるが、実際に臨床を行っている立場からすると、それだけではない「何か」が含まれる気がしてならない。
ここに哲学者、ケン・ウィルバーの「四象限」という考えがある。あらゆる視点を統合的(インテグラル)に捉えるために用いられる「道具」といってもいいかもしれない。
これは学問の諸領域を整理するため、もしくは概観する目的にも利用可能である。「I(主観・単数)」、「WE(主観・複数)」、「IT(客観・単数)」、「ITS(客観・複数)」の4つの視点に分別することで、インテグラルな視点を確保する方法である。これに統合医療の意義を重ね合わせてみたい。
まずは、WE(主観・複数)の視点。これは統合医療に関わる複数のメンバーによる内的な世界観とも言えるもので、我々が「ジャングルカンファレンス」として実践しているものに他ならない。その他にも、ある種の統合医療という概念を共有するグループの理念も含まれるだろう。
多職種連携を基盤とする昨今の医療思想において、統合医療の提案しうる新たな連携の在り方がここにあると思う。私はこれは精神科医療における「オープンダイアローグ」に匹敵する概念であると考えている。
次に、IT(客観・単数)の視点。単純な図式でいうと、現代西洋医学と、伝統を踏襲する東洋医学などの代替医療との理論的統合の先に見えてくる新たな「知見」である。
具体的なテーマでいうと、総合診療領域や、「整形内科」という新領域を開拓するグループにおいて、特に注目される「ファシア」の研究である。これなどはまさに東洋と西洋という視点の交差により、明確になってきた研究領域といっても良いだろう。
そしてこれは従来、神秘的とされた東洋医学の「気」や「経絡」といった諸理論を西洋医学的に解明する端緒、ないしは「本丸」といっても良い概念である。この理論的研究のためには、統合医療という複眼的な領域は不可欠であると考えている。
これら二つが当面の、提示しやすい医療の新展開における「統合医療の意義」といえよう。そしてそこから必然的に発展していく「社会的な仕組み」などが、ITS(客観・複数)として表現されるものになるだろう。異種のものを統合することで、新たな視界が開け、そこから新たな仕組みや制度が生れてくる、という社会医学的な視点は、これまでも統合医療学会において語られ続けたことではある。
そして最後の4つ目が、I(主観・単数)の視点、つまり個人からの視点である。自らの視点が展開される環境としての「構造」と、自らが見えている「現象」、時に「ナラティブ」と表現してもよい領域である。
異質なものを統合するという行為から、導き出される自らの「姿勢」がどのような視点を展開するのか。私としては実践を足場とする統合医療の立場は、まさに「プラグマティズム」に基づく姿勢がその基本になるように思う。
哲学界隈では「プラグマティズム」というと、昨今、見直されつつあるものの、一般的風潮では、古臭い思想として一蹴されることも少なくない。しかし、現実への取り組み、瞬間への爪痕から、ナマの感覚を会得するその姿勢は、プラグマティズムという言葉でしか表現しようがないものであると実感している。個に基づいた「唯一無二の対象への応答」を模索するためにこそ、前述したWE・ITの視点が必要になってくるものと思う。
統合医療の実践の意義、それは唯一無二の自らの対応を、カンファレンスによる多職種連携の在り方や、ファシアなど学際領域の研究により高めていくことにあるのだとあらためて痛感する。
こうした統合医療の本来的意義をともに考えていく同志の「ジャングルカンファレンス」への参加を強く希望し、本稿を終えたい。
だがしかし、統合医療が現代医療をも内包していることから、原則としてはインチキとかインチキでないとかいう対象ではないことは言うまでもなかろう。
では、統合医療という概念を用いる必要性は何なのだろうか。よく言われる「多様性」への対応であるというのは極めて単純な解釈ではある。確かに医療における多様性の実現であるが、実際に臨床を行っている立場からすると、それだけではない「何か」が含まれる気がしてならない。
ここに哲学者、ケン・ウィルバーの「四象限」という考えがある。あらゆる視点を統合的(インテグラル)に捉えるために用いられる「道具」といってもいいかもしれない。
これは学問の諸領域を整理するため、もしくは概観する目的にも利用可能である。「I(主観・単数)」、「WE(主観・複数)」、「IT(客観・単数)」、「ITS(客観・複数)」の4つの視点に分別することで、インテグラルな視点を確保する方法である。これに統合医療の意義を重ね合わせてみたい。
まずは、WE(主観・複数)の視点。これは統合医療に関わる複数のメンバーによる内的な世界観とも言えるもので、我々が「ジャングルカンファレンス」として実践しているものに他ならない。その他にも、ある種の統合医療という概念を共有するグループの理念も含まれるだろう。
多職種連携を基盤とする昨今の医療思想において、統合医療の提案しうる新たな連携の在り方がここにあると思う。私はこれは精神科医療における「オープンダイアローグ」に匹敵する概念であると考えている。
次に、IT(客観・単数)の視点。単純な図式でいうと、現代西洋医学と、伝統を踏襲する東洋医学などの代替医療との理論的統合の先に見えてくる新たな「知見」である。
具体的なテーマでいうと、総合診療領域や、「整形内科」という新領域を開拓するグループにおいて、特に注目される「ファシア」の研究である。これなどはまさに東洋と西洋という視点の交差により、明確になってきた研究領域といっても良いだろう。
そしてこれは従来、神秘的とされた東洋医学の「気」や「経絡」といった諸理論を西洋医学的に解明する端緒、ないしは「本丸」といっても良い概念である。この理論的研究のためには、統合医療という複眼的な領域は不可欠であると考えている。
これら二つが当面の、提示しやすい医療の新展開における「統合医療の意義」といえよう。そしてそこから必然的に発展していく「社会的な仕組み」などが、ITS(客観・複数)として表現されるものになるだろう。異種のものを統合することで、新たな視界が開け、そこから新たな仕組みや制度が生れてくる、という社会医学的な視点は、これまでも統合医療学会において語られ続けたことではある。
そして最後の4つ目が、I(主観・単数)の視点、つまり個人からの視点である。自らの視点が展開される環境としての「構造」と、自らが見えている「現象」、時に「ナラティブ」と表現してもよい領域である。
異質なものを統合するという行為から、導き出される自らの「姿勢」がどのような視点を展開するのか。私としては実践を足場とする統合医療の立場は、まさに「プラグマティズム」に基づく姿勢がその基本になるように思う。
哲学界隈では「プラグマティズム」というと、昨今、見直されつつあるものの、一般的風潮では、古臭い思想として一蹴されることも少なくない。しかし、現実への取り組み、瞬間への爪痕から、ナマの感覚を会得するその姿勢は、プラグマティズムという言葉でしか表現しようがないものであると実感している。個に基づいた「唯一無二の対象への応答」を模索するためにこそ、前述したWE・ITの視点が必要になってくるものと思う。
統合医療の実践の意義、それは唯一無二の自らの対応を、カンファレンスによる多職種連携の在り方や、ファシアなど学際領域の研究により高めていくことにあるのだとあらためて痛感する。
こうした統合医療の本来的意義をともに考えていく同志の「ジャングルカンファレンス」への参加を強く希望し、本稿を終えたい。
tougouiryo at 2021年10月31日18:39|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学 番外編 外辺知識としてのエーテル
今回はファッシア瘀血そのものというより、その外辺的な知識としてのエーテルについてメモしておきたいと思います。
エーテルは、科学史的にはアインシュタインによる現代物理学誕生前夜に、宇宙を満たす物質としてニュートンに代表される古典物理において絶対空間を形成する「物質」として仮定されていました。
それゆえに現代物理学においては、真っ先に乗り越えられる概念として、その存在が否定されたものです。ただし、これが19世紀の電磁気学などの再評価の中で、じつは姿を変えながら復活しつつあるとする見方もありますが、ただし従来のエーテルそのものとしてというわけにはいかないようです。
では、どうしてここまでこの概念は否定されてきたのでしょうか。当然、現状の理論(相対性理論など)との齟齬という面は大きいのですが、それ以外にも実は、これは錬金術由来のキーワードだったということも見逃せません。近代科学のダークサイド、錬金術です。こんな概念がうろちょろしていては、確かに現代科学的に落ち着かないでしょうね。
そもそも錬金術は卑金属を「金」に変える、さらに広く言えば、不完全なものを完全なものへと変化させる神の技です。具体的には万能薬(エリキサ)を作ったり、賢者の石を作ったりという世界です。
宇宙を形成する「第一質料」から「四大元素」が形成され、これらを結び付けるものとして「第五元素」があり、この第五元素こそが、賢者の石そのものであるとされます。
そしてこれが宇宙空間を満たすプネウマである「エーテル」だというわけです。もうこれだけ書いただけで、現代科学がいかにこの概念がお荷物だったかが痛いほど伝わります(笑)
こうしたものを理解しようとする時、エーテルとは何かという理解の仕方をしない方が良いでしょう。つまりエーテルという概念によって、どのような現象を説明しようとしていたか、と考えると、各人によってかなりその意味するところが違ってくることが分かると思います。
何らかの現象を説明しようとするとき、我々は今ある概念を用いて、つまりその言葉に仮託して説明するしかないわけです。
ちなみにこの第五元素たるエーテルは、硫黄・水銀・塩の「三原質」における塩と同一視され、対立する硫黄と水銀を結合させる物質とされました。
そしてこの「賢者の石」を抽出するために多く用いられた材料が「卵」になります。これはなんとなく理解できて、卵から全く異なるニワトリが形成されてくることから、そこに第五元素の大いなる力をみたことが推測されます。
個人的にも、多くの場合の推奨食品である「卵」が賢者の石を含むものであるとすると、はげしく同意です(笑)
無いものとされる「エーテル」を別な視点から再評価することで、物理学などでも新展開が可能となるように、従来ただの梱包材的な意味でしか語られなかった結合組織など「ファッシア」も、身体への大きな視点の変更を迫るものです。
従来、無視されていた空間へのまなざしという意味でも、共通するところが少なくありません。というより身体というバラバラな要素の集合体を、一つのまとまりとして結びつけるという意味では、身体における「エーテル」はまさに「ファッシア」そのものであるという解釈ができるわけです。こうした外辺医療的な知識も、「ファッシア瘀血」の今後の展開には、不可欠になるように感じています。
錬金術に関してはこちら
物理学におけるエーテルの意義についてはこちら
賢者の石についてはこちら(笑)
エーテルは、科学史的にはアインシュタインによる現代物理学誕生前夜に、宇宙を満たす物質としてニュートンに代表される古典物理において絶対空間を形成する「物質」として仮定されていました。
それゆえに現代物理学においては、真っ先に乗り越えられる概念として、その存在が否定されたものです。ただし、これが19世紀の電磁気学などの再評価の中で、じつは姿を変えながら復活しつつあるとする見方もありますが、ただし従来のエーテルそのものとしてというわけにはいかないようです。
では、どうしてここまでこの概念は否定されてきたのでしょうか。当然、現状の理論(相対性理論など)との齟齬という面は大きいのですが、それ以外にも実は、これは錬金術由来のキーワードだったということも見逃せません。近代科学のダークサイド、錬金術です。こんな概念がうろちょろしていては、確かに現代科学的に落ち着かないでしょうね。
そもそも錬金術は卑金属を「金」に変える、さらに広く言えば、不完全なものを完全なものへと変化させる神の技です。具体的には万能薬(エリキサ)を作ったり、賢者の石を作ったりという世界です。
宇宙を形成する「第一質料」から「四大元素」が形成され、これらを結び付けるものとして「第五元素」があり、この第五元素こそが、賢者の石そのものであるとされます。
そしてこれが宇宙空間を満たすプネウマである「エーテル」だというわけです。もうこれだけ書いただけで、現代科学がいかにこの概念がお荷物だったかが痛いほど伝わります(笑)
こうしたものを理解しようとする時、エーテルとは何かという理解の仕方をしない方が良いでしょう。つまりエーテルという概念によって、どのような現象を説明しようとしていたか、と考えると、各人によってかなりその意味するところが違ってくることが分かると思います。
何らかの現象を説明しようとするとき、我々は今ある概念を用いて、つまりその言葉に仮託して説明するしかないわけです。
ちなみにこの第五元素たるエーテルは、硫黄・水銀・塩の「三原質」における塩と同一視され、対立する硫黄と水銀を結合させる物質とされました。
そしてこの「賢者の石」を抽出するために多く用いられた材料が「卵」になります。これはなんとなく理解できて、卵から全く異なるニワトリが形成されてくることから、そこに第五元素の大いなる力をみたことが推測されます。
個人的にも、多くの場合の推奨食品である「卵」が賢者の石を含むものであるとすると、はげしく同意です(笑)
無いものとされる「エーテル」を別な視点から再評価することで、物理学などでも新展開が可能となるように、従来ただの梱包材的な意味でしか語られなかった結合組織など「ファッシア」も、身体への大きな視点の変更を迫るものです。
従来、無視されていた空間へのまなざしという意味でも、共通するところが少なくありません。というより身体というバラバラな要素の集合体を、一つのまとまりとして結びつけるという意味では、身体における「エーテル」はまさに「ファッシア」そのものであるという解釈ができるわけです。こうした外辺医療的な知識も、「ファッシア瘀血」の今後の展開には、不可欠になるように感じています。
錬金術に関してはこちら
物理学におけるエーテルの意義についてはこちら
賢者の石についてはこちら(笑)
tougouiryo at 2021年08月26日00:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(13)皮・肌・身(肉)の3層モデル
近年の総合診療分野からのファッシアの注目、東洋医学領域における瘀血の重要性、この両者を架橋するような適切なモデルが思いつかないものかと書き始めたのが「臨床ファッシア瘀血学」でした。
ファッシア瘀血という概念が自分のなかで明晰にならないうちに、色々な可能性を模索しながら妥当なモデルを試行錯誤してきました。それがここ数日でのオリンピック自粛中の発想で一通りのまとまりがついてきたので、少しまとめておきたいと思います。
ここ数日、展開している定常波をモデルにした「皮・肌・身(肉)の3層モデル」です。これは概ね「肌」におけるファッシアの伝達を中心にしたもので、具体的な物理的な連絡としては「アナトミートレイン」のイメージです。一定の張力により、皮と身の間隙を情報伝達システムである経絡(ファッシア)が「肌」にあたる部位を走行します。そこには当然、神経や血管も並走しており、時に病的産物も形成しうる場でもあります。これがエコーで観察されるファッシア重積などの所見といえそうです。
そもそも「瘀血」という概念は、中国医学的には血管内の血流の鬱滞を表す「血瘀」と、そうして鬱滞した血が血管外部に漏れだして病理産物となった「瘀血」とに区分されます。この意味で、血管外部に漏れだした血液や、グロブリンなどを含む粘稠性の高い液体によりファッシアの癒着・重積が形成されると考えられるので、これをここでは「ファッシア瘀血」と名付けました。
これは定常波モデルからすると大気圏中における伝達障害物ともいえるもので、この除去により伝達が正常化するわけです。これはエコー下におけるファッシアリリースとイメージ的にも重なります。
また想像を広げて、よりマクロの視点へ移すと、この地球における生活の場である大気圏の気候状況が、個体における大気圏たるファッシア部(肌部)と共鳴する可能性も考えられます。(気圧による自律神経の変動などまさにコレですね)つまり、ここを気の流路である経絡とすると、大気との相関を考える伝統的な「小周天」「大周天」の考えも組み込むことも出来そうです。まさに「天人合一」の思想です。
3層の介入を考えると、鍼灸一般はやはり「肌」のファッシアなのですが、特にここへの特異性が高そうな方法論が「刺絡」と「ハイドロリリース」のように思います。表層の「皮」は「肌」とともに鍼灸の主戦場ですが、特に皮部治療と称される表皮を対象にしたものが特化していると考えられます。とりわけ角質層の伝導を検出している「良導絡」はその測定の意義がまさに「皮」の伝導ととらえることができます。また打診や接触鍼などの表層の技法や、皮膚運動学を基盤とした技法もここへのアプローチとなります。
肉を中心とした「身」に関しては、やはり「経筋」の治療です。ヤイトや灸頭鍼などの伝統的な方法論に加え、低周波を用いた筋肉への電気刺激や広くマッサージもここへの介入としてよさそうです。当然これらは厳密に区分されているわけではないので、体性・自律神経反射等を介して内臓疾患にも影響しますが、古典的には臓腑への連絡はないとされています。臓腑へは経絡システムとしての経別の概念を援用する必要があります。補足として「身」としたのは、概ね「肉」なのですが、腸管へのマッサージ的な技法もあり、肝や脾、膀胱や腎への直接アプローチも可能なので臓腑や腱・骨格等も考慮に入れて「身」としました。
解剖的な意義や介入技法との関連は、概略的には以上のような理論となります。これを具体的な治療プロセスに当てはめると「栄養」「伝達」「特異性」の3ステップとなります。栄養はこれら3層への十分な栄養の補給、伝達は主に肌としてのファッシアでの伝達の改善(鍼灸・刺絡・ハイドロリリース等)、そして特異性は前の二つの健常性をうけて問題となっている臓器や組織への直接的なベクトル性の付与という感じになります。方向付けの方法論としては、ホメオパシーや経穴学(経絡現象学)などが有力な方法論です。
具体的な方法論は、症例との関連をつけて後日書いてみたいと思います。ここまでのまとめは以下の通りです。
皮:外界との接触面(センサー)・・・皮部治療・良導絡測定・打鍼・接触鍼・皮膚運動学
肌:皮と身の緩衝地帯・・・鍼灸治療・刺絡療法・ハイドロリリース・筋膜リリース
身(肉):運動器と臓腑・・・経筋治療・灸頭鍼・低周波・高周波治療・干渉波
ファッシア瘀血という概念が自分のなかで明晰にならないうちに、色々な可能性を模索しながら妥当なモデルを試行錯誤してきました。それがここ数日でのオリンピック自粛中の発想で一通りのまとまりがついてきたので、少しまとめておきたいと思います。
ここ数日、展開している定常波をモデルにした「皮・肌・身(肉)の3層モデル」です。これは概ね「肌」におけるファッシアの伝達を中心にしたもので、具体的な物理的な連絡としては「アナトミートレイン」のイメージです。一定の張力により、皮と身の間隙を情報伝達システムである経絡(ファッシア)が「肌」にあたる部位を走行します。そこには当然、神経や血管も並走しており、時に病的産物も形成しうる場でもあります。これがエコーで観察されるファッシア重積などの所見といえそうです。
そもそも「瘀血」という概念は、中国医学的には血管内の血流の鬱滞を表す「血瘀」と、そうして鬱滞した血が血管外部に漏れだして病理産物となった「瘀血」とに区分されます。この意味で、血管外部に漏れだした血液や、グロブリンなどを含む粘稠性の高い液体によりファッシアの癒着・重積が形成されると考えられるので、これをここでは「ファッシア瘀血」と名付けました。
これは定常波モデルからすると大気圏中における伝達障害物ともいえるもので、この除去により伝達が正常化するわけです。これはエコー下におけるファッシアリリースとイメージ的にも重なります。
また想像を広げて、よりマクロの視点へ移すと、この地球における生活の場である大気圏の気候状況が、個体における大気圏たるファッシア部(肌部)と共鳴する可能性も考えられます。(気圧による自律神経の変動などまさにコレですね)つまり、ここを気の流路である経絡とすると、大気との相関を考える伝統的な「小周天」「大周天」の考えも組み込むことも出来そうです。まさに「天人合一」の思想です。
3層の介入を考えると、鍼灸一般はやはり「肌」のファッシアなのですが、特にここへの特異性が高そうな方法論が「刺絡」と「ハイドロリリース」のように思います。表層の「皮」は「肌」とともに鍼灸の主戦場ですが、特に皮部治療と称される表皮を対象にしたものが特化していると考えられます。とりわけ角質層の伝導を検出している「良導絡」はその測定の意義がまさに「皮」の伝導ととらえることができます。また打診や接触鍼などの表層の技法や、皮膚運動学を基盤とした技法もここへのアプローチとなります。
肉を中心とした「身」に関しては、やはり「経筋」の治療です。ヤイトや灸頭鍼などの伝統的な方法論に加え、低周波を用いた筋肉への電気刺激や広くマッサージもここへの介入としてよさそうです。当然これらは厳密に区分されているわけではないので、体性・自律神経反射等を介して内臓疾患にも影響しますが、古典的には臓腑への連絡はないとされています。臓腑へは経絡システムとしての経別の概念を援用する必要があります。補足として「身」としたのは、概ね「肉」なのですが、腸管へのマッサージ的な技法もあり、肝や脾、膀胱や腎への直接アプローチも可能なので臓腑や腱・骨格等も考慮に入れて「身」としました。
解剖的な意義や介入技法との関連は、概略的には以上のような理論となります。これを具体的な治療プロセスに当てはめると「栄養」「伝達」「特異性」の3ステップとなります。栄養はこれら3層への十分な栄養の補給、伝達は主に肌としてのファッシアでの伝達の改善(鍼灸・刺絡・ハイドロリリース等)、そして特異性は前の二つの健常性をうけて問題となっている臓器や組織への直接的なベクトル性の付与という感じになります。方向付けの方法論としては、ホメオパシーや経穴学(経絡現象学)などが有力な方法論です。
具体的な方法論は、症例との関連をつけて後日書いてみたいと思います。ここまでのまとめは以下の通りです。
皮:外界との接触面(センサー)・・・皮部治療・良導絡測定・打鍼・接触鍼・皮膚運動学
肌:皮と身の緩衝地帯・・・鍼灸治療・刺絡療法・ハイドロリリース・筋膜リリース
身(肉):運動器と臓腑・・・経筋治療・灸頭鍼・低周波・高周波治療・干渉波
tougouiryo at 2021年08月10日06:00|この記事のURL│Comments(0)
皮・肌・身の三層モデル 定常波をファッシアとして見る方法論
先週は、当院の診療における3ステップの解説をしましたが、栄養内科・経絡内科・漢方内科といった各分野の守備範囲としてではなく全体的なお話をしたいと思います。そのためにはまず身体を「皮」「肌」「身」と3層構造で考えたいと思います。「身」は「肉」としても良いのですが筋肉のみならず、内臓(臓腑)であることも考慮して、広く「身」としました。
まず「身」を中心に皮や肌、すべてに必要な栄養素が行き渡ることが前提になります。最低限必要な栄養ということではなく、すべての化学反応を十全に駆動することができるように、不足する箇所がないように、オーバーフローさせる量ということになります。分子栄養学を展開された三石巌先生のいうオーバーフローのイメージです。
当然、この改善だけでも多くの不調や疾患が治癒へと導かれます。東洋医学を専門にしている方の中には、ここで十全大補湯のような「補剤」を用いることが多いでしょうが、それはむしろ栄養素の分配に近い役割に思います。(江部洋一郎先生が補剤で元気が出るのなら食事をせずに十全大補だけ飲んでいればいいのか、ということをおっしゃっていたのが思い出されます)
三大栄養素の適切な量とバランス(これは体質・疾患によっても異なりますが)や、不足しがちなビタミン・ミネラルの摂取により、多くの不調が回復していくのは、近年の分子栄養学の興隆をみると分かり易いでしょう(サプリの一般化からも同様ですね)。
次は連絡システムとしての生体の構造です。特に皮と身に挟まれた「肌」の部位、ファッシアといってよい部位です。ここに「瘀血」「水滞」などの病理産物や、外傷や老廃物蓄積による「ファッシアの引きつれや重積」が生じてきます。
こうした蓄積物により神経や血管、さらにはファッシアなどの生体マトリックスによる情報伝達が円滑に行えなくなってしまいます。そこでこれらを除去し、健常な状態へ再生することにより生体の「自己治癒力」を高めやすい状態へと導く。これらは当然「気血」の流れを円滑にすることですから、直接的な痛みや不調の改善にもつながり、このアプローチ単独であらゆる症状の改善にもなるわけです。狭義でとらえるなら鍼灸治療はこれがメインだと言えるでしょう。
ここまでを前回の地球モデルでかんがえると、地球や電離層への十分な電気エネルギーの補充が「栄養面」で、地球や大気圏での淀みのような障害物の排除・浄化が「経絡面」と言えるでしょう。
つまり大気圏内の定常波による情報伝達こそが、アナトミートレインや経絡システムそのものと考えることが出来ます。そして、これが全身をひとつにまとめあげているのです。
3番目が、「特異性を有する伝達」とでもいえるものです。特異伝達です。この概念は一見難しそうなのですが、多彩な伝統医学や代替医療の方法論そのものともいえます。
つまり特異的な症状や、病変部位に対して選択的に方向付けを行うものです。治療のベクトル性を持たせると表現しても良いでしょう。
そのための方法論として、漢方による腹証のイメージが分かり易いでしょうか。ホメオパシーでの臓器特異性や左右の方向性、SRPなどもこれに応用できそうですし、十河孝博先生による経絡現象学も応用できそうです。特に鍼灸との関連で、十河先生の経絡現象学は複数の経穴の組み合わせから「臓器特異性」を示すことが出来る方法で、東洋医学関連の方にもあまり知られていない方法論なのですが、この特異伝達のイメージには最適な概念と考えます。全身の栄養と伝達の整備をすることで、自己治癒力を高め、そのベースアップした状態で、現在の病的状態を特異的に修正していく、というところでしょうか。
これらは各々が単独でも十全な治療体系であり、組み合わせる必要のない場合もありますが、いわゆる治療における「死角」を減らすという意味でも、組み合わせたほうが圧倒的に有意義という実感があります。
実際の症例での適応としては、アトピー性皮膚炎の患者さんであれば、血液検査により明らかに欠乏した栄養素を食事指導やサプリメント補充により是正、その後、特異的な皮疹や瘀血を生じる部位に対して、刺絡療法や良導絡など鍼灸治療を加え全身の滞りを改善します。これにより皮膚状態が改善しやすいベースを作り、その後に、漢方やホメオパシーにより皮疹の特異的な部位へ治癒力を方向付けていきます。ちなみにホメオパシーとしてはGraphiteが、部位や炎症の度合いにもよりますが屈曲部皮疹への誘導としては有効なようです。経絡現象学的には跗陽に表現されてくるようです。(方向付けの話題はまた改めて記載していこうと考えています)
統合医療的な診療の観点の一つとしてメモしておきました。
まず「身」を中心に皮や肌、すべてに必要な栄養素が行き渡ることが前提になります。最低限必要な栄養ということではなく、すべての化学反応を十全に駆動することができるように、不足する箇所がないように、オーバーフローさせる量ということになります。分子栄養学を展開された三石巌先生のいうオーバーフローのイメージです。
当然、この改善だけでも多くの不調や疾患が治癒へと導かれます。東洋医学を専門にしている方の中には、ここで十全大補湯のような「補剤」を用いることが多いでしょうが、それはむしろ栄養素の分配に近い役割に思います。(江部洋一郎先生が補剤で元気が出るのなら食事をせずに十全大補だけ飲んでいればいいのか、ということをおっしゃっていたのが思い出されます)
三大栄養素の適切な量とバランス(これは体質・疾患によっても異なりますが)や、不足しがちなビタミン・ミネラルの摂取により、多くの不調が回復していくのは、近年の分子栄養学の興隆をみると分かり易いでしょう(サプリの一般化からも同様ですね)。
次は連絡システムとしての生体の構造です。特に皮と身に挟まれた「肌」の部位、ファッシアといってよい部位です。ここに「瘀血」「水滞」などの病理産物や、外傷や老廃物蓄積による「ファッシアの引きつれや重積」が生じてきます。
こうした蓄積物により神経や血管、さらにはファッシアなどの生体マトリックスによる情報伝達が円滑に行えなくなってしまいます。そこでこれらを除去し、健常な状態へ再生することにより生体の「自己治癒力」を高めやすい状態へと導く。これらは当然「気血」の流れを円滑にすることですから、直接的な痛みや不調の改善にもつながり、このアプローチ単独であらゆる症状の改善にもなるわけです。狭義でとらえるなら鍼灸治療はこれがメインだと言えるでしょう。
ここまでを前回の地球モデルでかんがえると、地球や電離層への十分な電気エネルギーの補充が「栄養面」で、地球や大気圏での淀みのような障害物の排除・浄化が「経絡面」と言えるでしょう。
つまり大気圏内の定常波による情報伝達こそが、アナトミートレインや経絡システムそのものと考えることが出来ます。そして、これが全身をひとつにまとめあげているのです。
3番目が、「特異性を有する伝達」とでもいえるものです。特異伝達です。この概念は一見難しそうなのですが、多彩な伝統医学や代替医療の方法論そのものともいえます。
つまり特異的な症状や、病変部位に対して選択的に方向付けを行うものです。治療のベクトル性を持たせると表現しても良いでしょう。
そのための方法論として、漢方による腹証のイメージが分かり易いでしょうか。ホメオパシーでの臓器特異性や左右の方向性、SRPなどもこれに応用できそうですし、十河孝博先生による経絡現象学も応用できそうです。特に鍼灸との関連で、十河先生の経絡現象学は複数の経穴の組み合わせから「臓器特異性」を示すことが出来る方法で、東洋医学関連の方にもあまり知られていない方法論なのですが、この特異伝達のイメージには最適な概念と考えます。全身の栄養と伝達の整備をすることで、自己治癒力を高め、そのベースアップした状態で、現在の病的状態を特異的に修正していく、というところでしょうか。
これらは各々が単独でも十全な治療体系であり、組み合わせる必要のない場合もありますが、いわゆる治療における「死角」を減らすという意味でも、組み合わせたほうが圧倒的に有意義という実感があります。
実際の症例での適応としては、アトピー性皮膚炎の患者さんであれば、血液検査により明らかに欠乏した栄養素を食事指導やサプリメント補充により是正、その後、特異的な皮疹や瘀血を生じる部位に対して、刺絡療法や良導絡など鍼灸治療を加え全身の滞りを改善します。これにより皮膚状態が改善しやすいベースを作り、その後に、漢方やホメオパシーにより皮疹の特異的な部位へ治癒力を方向付けていきます。ちなみにホメオパシーとしてはGraphiteが、部位や炎症の度合いにもよりますが屈曲部皮疹への誘導としては有効なようです。経絡現象学的には跗陽に表現されてくるようです。(方向付けの話題はまた改めて記載していこうと考えています)
統合医療的な診療の観点の一つとしてメモしておきました。
tougouiryo at 2021年08月08日20:29|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(12)縮退・作用マトリックスとの関係
久々に縮退や三体問題について、長沼先生の直観的理論を復習していたところ、ファッシア瘀血との意外な関連が見えてきたのでメモしておこうと思います。
まずは物理数学の直観的方法「やや長めの後記」(旧11章)のまとめから。長沼先生の論理展開を追っていきましょう。
本章では、三体問題の紹介と不思議から、社会における職業集団の相互関係をマトリックスを用いて解説していきます。こうした日常的な事柄は、(ハーモニックコスモス的な)太陽系の惑星の運動とは違い予測不能になること。そしてそこから、これまでの分析的な方法論への根本的な懐疑を述べ、部分の総和が全体には一致しないことを行列計算から証明していきます。
そしてこの行列を用いた計算が、特殊な条件下では解くことが出来るが、一般的には困難であり、ひいてはいわゆる「非可算」となることを説明していきます。
それによりいままで、自明のように考えられていた基盤となる前提条件は、実は特殊条件であったことを述べ、近代医学においても同様であることに言及していきます。(この辺りが、かつて東洋医学の数学的基盤として大いに長沼理論に惹きつけられたところでもあります)
こうした例を挙げる中で、他の要素との「相互関係」の重要性を示し、作用マトリックスとして解説していきます。そしてこの作用マトリックスの内部での状態が、理想的である状態は、実は確率的にきわめて低く、偏在したいわば「寡占」の状態が確率的に生じやすくなることを示します。これが「縮退」という現象である、というわけです。
つまり、巧妙な相互作用は確率的に駆逐され、次第に狭まった系へと縮退してしまうのです。(詳細は「物理数学の直観的方法」を参照してください。ここでの記載を「あらすじ」として読まれることをお勧めします)
ここから当然、縮退の持つ問題点などいろいろと展開できるのですが、そこは置いておいて、我々の思考において「縮退」をどのように避ければよいか、という解説の流れになります。そのためのキーワードが、エルンスト・マッハによる「思考経済」です。複数の超専門家の総和ではなく、一個人の中で複数学問をコンパクトに格納させ相互作用を生じさせる、とでもいえるでしょうか。これこそがある種、多様性を担保することの最終目的とでもいえることなのではないか、と私自身は理解しています。
以上が「やや長めの後記」の概略です。このGW中に甲野先生(本日ウェビナー開催予定です)やハーブの林真一郎先生との対談が予定されているので、自分なりの内容整理でした。
ここで(やっと)ファッシア瘀血との関連です。作用マトリックスおける相互作用の演算子部分が「ゼロ」であれば、臓器などの相互作用が消え、部分の総和が全体と一致するのですが、ファッシアはこの相互作用を強く引き起こすことが、その重要な意義となります。
つまり、この相互作用こそがファッシアの意義の本質に近いことになります。(当然「正統な」方々は、ファッシアを演算子としてではなく要素還元して「一臓器」としてしまうのでしょうが)
では「瘀血」はどのように記載されるでしょうか。それは相互作用を(運動面において)制限、阻害するという点を考慮すると、まさに演算子の「ゼロ」成分と考えれます。これにより作用マトリックスにおける多くの迂回ルートが遮断され(つまり実際の運動制限が行われ)結果として、身体における「縮退」が加速していくということです。刺絡やハイドロリリースなどの治療的アプローチは、まさにこのゼロ成分をなくして、相互作用を復活しようとする介入と考えることができます。(この場合、刺絡などは瘀血やファッシア重積などを解除し、通常の鍼灸は電気的な偏在を解消することが予測されます)つまりファッシア瘀血は、作用マトリックスのゼロ成分として、系全体を「縮退」へと加速させると考えることが出来るわけです。
他にもこの作用マトリックス理論は、ファッシア瘀血の解釈に展開できるところが多々ありますが、本日はとりあえずここまでにしておきます。結論としては、縮退とファッシア瘀血の概念は、密接に関係しているということです。
まずは物理数学の直観的方法「やや長めの後記」(旧11章)のまとめから。長沼先生の論理展開を追っていきましょう。
本章では、三体問題の紹介と不思議から、社会における職業集団の相互関係をマトリックスを用いて解説していきます。こうした日常的な事柄は、(ハーモニックコスモス的な)太陽系の惑星の運動とは違い予測不能になること。そしてそこから、これまでの分析的な方法論への根本的な懐疑を述べ、部分の総和が全体には一致しないことを行列計算から証明していきます。
そしてこの行列を用いた計算が、特殊な条件下では解くことが出来るが、一般的には困難であり、ひいてはいわゆる「非可算」となることを説明していきます。
それによりいままで、自明のように考えられていた基盤となる前提条件は、実は特殊条件であったことを述べ、近代医学においても同様であることに言及していきます。(この辺りが、かつて東洋医学の数学的基盤として大いに長沼理論に惹きつけられたところでもあります)
こうした例を挙げる中で、他の要素との「相互関係」の重要性を示し、作用マトリックスとして解説していきます。そしてこの作用マトリックスの内部での状態が、理想的である状態は、実は確率的にきわめて低く、偏在したいわば「寡占」の状態が確率的に生じやすくなることを示します。これが「縮退」という現象である、というわけです。
つまり、巧妙な相互作用は確率的に駆逐され、次第に狭まった系へと縮退してしまうのです。(詳細は「物理数学の直観的方法」を参照してください。ここでの記載を「あらすじ」として読まれることをお勧めします)
ここから当然、縮退の持つ問題点などいろいろと展開できるのですが、そこは置いておいて、我々の思考において「縮退」をどのように避ければよいか、という解説の流れになります。そのためのキーワードが、エルンスト・マッハによる「思考経済」です。複数の超専門家の総和ではなく、一個人の中で複数学問をコンパクトに格納させ相互作用を生じさせる、とでもいえるでしょうか。これこそがある種、多様性を担保することの最終目的とでもいえることなのではないか、と私自身は理解しています。
以上が「やや長めの後記」の概略です。このGW中に甲野先生(本日ウェビナー開催予定です)やハーブの林真一郎先生との対談が予定されているので、自分なりの内容整理でした。
ここで(やっと)ファッシア瘀血との関連です。作用マトリックスおける相互作用の演算子部分が「ゼロ」であれば、臓器などの相互作用が消え、部分の総和が全体と一致するのですが、ファッシアはこの相互作用を強く引き起こすことが、その重要な意義となります。
つまり、この相互作用こそがファッシアの意義の本質に近いことになります。(当然「正統な」方々は、ファッシアを演算子としてではなく要素還元して「一臓器」としてしまうのでしょうが)
では「瘀血」はどのように記載されるでしょうか。それは相互作用を(運動面において)制限、阻害するという点を考慮すると、まさに演算子の「ゼロ」成分と考えれます。これにより作用マトリックスにおける多くの迂回ルートが遮断され(つまり実際の運動制限が行われ)結果として、身体における「縮退」が加速していくということです。刺絡やハイドロリリースなどの治療的アプローチは、まさにこのゼロ成分をなくして、相互作用を復活しようとする介入と考えることができます。(この場合、刺絡などは瘀血やファッシア重積などを解除し、通常の鍼灸は電気的な偏在を解消することが予測されます)つまりファッシア瘀血は、作用マトリックスのゼロ成分として、系全体を「縮退」へと加速させると考えることが出来るわけです。
他にもこの作用マトリックス理論は、ファッシア瘀血の解釈に展開できるところが多々ありますが、本日はとりあえずここまでにしておきます。結論としては、縮退とファッシア瘀血の概念は、密接に関係しているということです。
tougouiryo at 2021年04月29日06:48|この記事のURL│Comments(0)
三叉神経痛へのファッシア瘀血の関与について
毎年冬から春にかけて、ビタミンDの欠乏をベースにもっているからなのか、神経系の不調とりわけ三叉神経痛(とくに第2枝・第3枝)の悪化で受診される方が増えるように感じています。
栄養的な対処法としては、血液検査で欠乏している栄養素を探索し、十分な分量を補充するのですが、とにかく痛みが強いため、その場での対応が求められることがすくなくありません。
こうした時に、効果を発揮するのが「刺絡」です。頭頸部のうっ血を背景として、三叉神経の当該部位近辺で瘀血が発生し、そこから発痛物質が神経を刺激するメカニズムを想定しています。
教科書的には、付近の血管による三叉神経の圧迫が痛みの原因とされていますが、実際に圧迫されているケースに加え、それほどでなくてもファッシアを介して物理的もしくは化学的刺激がもたらされている可能性もあるのではないかと考えています。
当然、症例数が少ないので決定的なことは言えないのですが、数例でも瘀血を除去する刺絡により著効した例があるので、ファッシア瘀血の関与は否定できないように感じています。手術法である微小血管減圧術も、結果としてみるとファッシア瘀血による影響の軽減を図っているとも解釈できます。
通常の治療が優先するのは言うまでもないのですが、それでもスムースに治癒しない例では、こうしたもう一つの機序が関与している可能性も否定できないのではないでしょうか。
また典型的な三叉神経痛だけではなく、特殊な感覚異常を伴うものもあるようですので、少し症例の蓄積が出来たらまとめてみたいと考えています。
最近の治療経験から気になった事項でしたので、メモしておきました。
栄養的な対処法としては、血液検査で欠乏している栄養素を探索し、十分な分量を補充するのですが、とにかく痛みが強いため、その場での対応が求められることがすくなくありません。
こうした時に、効果を発揮するのが「刺絡」です。頭頸部のうっ血を背景として、三叉神経の当該部位近辺で瘀血が発生し、そこから発痛物質が神経を刺激するメカニズムを想定しています。
教科書的には、付近の血管による三叉神経の圧迫が痛みの原因とされていますが、実際に圧迫されているケースに加え、それほどでなくてもファッシアを介して物理的もしくは化学的刺激がもたらされている可能性もあるのではないかと考えています。
当然、症例数が少ないので決定的なことは言えないのですが、数例でも瘀血を除去する刺絡により著効した例があるので、ファッシア瘀血の関与は否定できないように感じています。手術法である微小血管減圧術も、結果としてみるとファッシア瘀血による影響の軽減を図っているとも解釈できます。
通常の治療が優先するのは言うまでもないのですが、それでもスムースに治癒しない例では、こうしたもう一つの機序が関与している可能性も否定できないのではないでしょうか。
また典型的な三叉神経痛だけではなく、特殊な感覚異常を伴うものもあるようですので、少し症例の蓄積が出来たらまとめてみたいと考えています。
最近の治療経験から気になった事項でしたので、メモしておきました。
tougouiryo at 2021年04月08日23:13|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(11)肥田式「聖中心」から思うこと
前回は、臨床的な事柄から推測される連続性と局所性をキーワードに、これまでの話をまとめてみました。そこから今回は少し想像の羽を羽ばたかせて、いわゆる超人の技法との関連性などを考えてみたいと思います。
甲野善紀先生との勉強会の話題は、以前このブログでも少し紹介しましたが、ファッシアと肥田式との関連についてです。
肥田春充は、いわゆる丹田とされる聖中心を、自ら創出した技法の中心にしていったわけですが、その位置を、解剖学的構造ではなく、幾何学的な説明により提示していました。つまりランドマークは解剖的な構造ですが、聖中心というものを示すには「円」を規定しその中心としました。
そしてその中心を、腰椎からの直線が通過している説明図を提示しています。つまり考え方によっては、それぞれの解剖的な構造物との関係性、位置を規定する張力のようなもの、と考えてもよいのかもしれません。これまでのファッシア理論からすると「O-F」にあたる関係です。
また、甲野先生からの示唆で気づいたのですが、球状の円(球)が規定されているのですが、これには何らかの実体があるのではないか、という考え方もできます。ここ(球)に臓器の実態を当てるとすれば、それはまさに「腸管」、特に腸間膜に吊り下げられえた小腸となります。(甲野先生は腸管の何らかの膨張を想定されているようです)
この小腸は後腹壁から「フレアスカート」状に吊り下げられ、斜め下方向に集塊をなす様は「球」といえなくもありません。
学生時代の解剖学での記憶と合わせても、この「聖中心」と考えても矛盾なさそうに思います。
ただしここで注意すべきは、聖中心が腸管であるか否かという問題ではなく、肥田春充が幾何学的に表現したものの位置に、そうしたものが存在するという意味だけです。安易な同一化をしようとするものではありません。
こうした問題は「三焦」の捉え方にも適応できます(三焦を東洋医学の教科書的に捉えるだけでなく、腹腔動脈、上腸間膜動脈、下腸間膜動脈から腸間膜が栄養されるさまを三焦としたのではないか、という視点も実際の解剖所見からするとアリなのではないかとも思います)。機能総体としての三焦ではなく、何らかの「実体」を古人は捉えていたのではないかという考察です。これは大きな塊のように見える腸間膜と周辺の脂肪組織を古人は一塊の臓器として捉えていたのではないか、そしてそこには臓器としては当時認識されていない「膵臓」も含まれてきます(実際の解剖所見としては全てが一塊に見えます)。
そしてこのフレアスカートの吊りあげている視点が「腸間膜根」となり、後腹壁を左上から右下へ向けて、腰椎を跨いで下降しているのです。解剖的に腰椎1番2番あたりから下降しているので、横隔膜後脚が3番あたりまで来ていますので、呼吸におけるファッシア的な連動は十分考えられます。
そしてその終結は右側の仙腸関節上部に至ります。つまりここもファッシア的な接続を考えることができます。つまり骨盤調整との連動の可能性です。この「根」は当然、腰椎4番5番あたりで腰椎を跨いでいるので、いわゆるヤコビー線と腰椎との交点を、肥田春充が示唆しているのと関連するようにもみえます。腸間膜根の吊り上げ作用の重心が、腰椎4番5番の意識や調整と直接関連することは容易に示唆されるでしょう。
なぜ肥田春充が、こうした幾何学的な説明によりその位置を示そうとしたのか。それこそが当時(今もそれほど大きな変わりはありませんが)の解剖学がファッシアの存在を、半ば無視していたことと無関係ではないように思います。
解剖実習を行った経験がある人であれば、すぐわかることですが、解剖実習とはこの「ファッシア」から、いかにして目的の「臓器」取り出すか、つまり見やすくするかにつきます。ファッシアは取り除かれるべき「不要物」であり、臓器の「背景」にしか過ぎないというわけです。
解剖するという行為の究極が、解剖学の図譜や教科書ですから、そこには当然ファッシアの記載はありません。いくら肥田春充が超人であったとしても、当時の(今も?)解剖図に記載されていないものを、実体として認識していたとは思えません。これは近年、「ニューズウィーク」誌に皮膚を上回る「巨大な臓器」としてファッシアの発見が報道されたことからも、「存在していた」にも関わらず「認識されていなかった」臓器であることがうかがわれます。
春充は、自らの体感と、熟読した解剖書とを見比べて、その関係の体感を幾何学的に示そうとしたのではないでしょうか。これは眼光紙背に徹するかの如く解剖書を読み込んだであろう春充の、正確な解剖的知識があればこそ、「そこにないもの」を記載することが出来たのではないと考えます。「在る」ものを強く意識するほどに、認識の反転が生じた際に「ないはずのもの」がより強烈に認識されてくるのではないか。「図と地の反転」を基盤として考えるべき、ファッシアとの関連がここに出てくるように思います。春充の聖中心の体感の瞬間などは、まさにこの認識の反転として捉えることで、理解できるのではないでしょうか。
腸間膜根から壁側腹膜として折れ返ることで、腸管の状態が全身へと接続されます。これはまさにファッシア論でいう「O-F」の引張構造で説明されます。
室町時代に隆盛を極めた「腹部打鍼術」が、腹部のみの刺激で、全身のあらゆる症状に対応していた事実からも、この関係は意外に大きな連携を有していることが推測されます。
進化学的にも体幹である腹から四肢が形成されてきたことを思うとその中心が「腹」の「腸管」にあることも矛盾しません。ここに「火事場の馬鹿力」発揮のカギがあるようにも思えます(甲野先生のご指摘による)。
こうした身体(とりわけ四肢)の関係のみならず、近年は「脳腸相関」として神経系との関連が最新医学のテーマとしても注目されています。神経伝達物質において、脳→腸、または腸→脳の関連が、詳細に研究されています。こうした関連においても、腸管の占有する位置が、その機能に関係する可能性は大いにありそうです。
腹腔内での腸間膜と腸管を一塊としたものの位置により、四肢における運動能力が大きく影響される可能性を、聖中心は持っているように思われます。そして加えて、それらの正しい位置関係が、「脳腸相関」においても生体に有利に働く可能性も想定されます。(筋膜の張力の均等化や、結合組織表面における水分子の量子的ふるまいの正常化、等が要因として考えられます)
筋トレにおける筋肉のイメージのように、腸の塊の鮮明なイメージ化によって身体的かつ精神的な超絶した能力の開花が可能になるのではないか、そんな可能性を「聖中心」は与えてくれるのではないでしょうか。
甲野善紀先生との勉強会の話題は、以前このブログでも少し紹介しましたが、ファッシアと肥田式との関連についてです。
肥田春充は、いわゆる丹田とされる聖中心を、自ら創出した技法の中心にしていったわけですが、その位置を、解剖学的構造ではなく、幾何学的な説明により提示していました。つまりランドマークは解剖的な構造ですが、聖中心というものを示すには「円」を規定しその中心としました。
そしてその中心を、腰椎からの直線が通過している説明図を提示しています。つまり考え方によっては、それぞれの解剖的な構造物との関係性、位置を規定する張力のようなもの、と考えてもよいのかもしれません。これまでのファッシア理論からすると「O-F」にあたる関係です。
また、甲野先生からの示唆で気づいたのですが、球状の円(球)が規定されているのですが、これには何らかの実体があるのではないか、という考え方もできます。ここ(球)に臓器の実態を当てるとすれば、それはまさに「腸管」、特に腸間膜に吊り下げられえた小腸となります。(甲野先生は腸管の何らかの膨張を想定されているようです)
この小腸は後腹壁から「フレアスカート」状に吊り下げられ、斜め下方向に集塊をなす様は「球」といえなくもありません。
学生時代の解剖学での記憶と合わせても、この「聖中心」と考えても矛盾なさそうに思います。
ただしここで注意すべきは、聖中心が腸管であるか否かという問題ではなく、肥田春充が幾何学的に表現したものの位置に、そうしたものが存在するという意味だけです。安易な同一化をしようとするものではありません。
こうした問題は「三焦」の捉え方にも適応できます(三焦を東洋医学の教科書的に捉えるだけでなく、腹腔動脈、上腸間膜動脈、下腸間膜動脈から腸間膜が栄養されるさまを三焦としたのではないか、という視点も実際の解剖所見からするとアリなのではないかとも思います)。機能総体としての三焦ではなく、何らかの「実体」を古人は捉えていたのではないかという考察です。これは大きな塊のように見える腸間膜と周辺の脂肪組織を古人は一塊の臓器として捉えていたのではないか、そしてそこには臓器としては当時認識されていない「膵臓」も含まれてきます(実際の解剖所見としては全てが一塊に見えます)。
そしてこのフレアスカートの吊りあげている視点が「腸間膜根」となり、後腹壁を左上から右下へ向けて、腰椎を跨いで下降しているのです。解剖的に腰椎1番2番あたりから下降しているので、横隔膜後脚が3番あたりまで来ていますので、呼吸におけるファッシア的な連動は十分考えられます。
そしてその終結は右側の仙腸関節上部に至ります。つまりここもファッシア的な接続を考えることができます。つまり骨盤調整との連動の可能性です。この「根」は当然、腰椎4番5番あたりで腰椎を跨いでいるので、いわゆるヤコビー線と腰椎との交点を、肥田春充が示唆しているのと関連するようにもみえます。腸間膜根の吊り上げ作用の重心が、腰椎4番5番の意識や調整と直接関連することは容易に示唆されるでしょう。
なぜ肥田春充が、こうした幾何学的な説明によりその位置を示そうとしたのか。それこそが当時(今もそれほど大きな変わりはありませんが)の解剖学がファッシアの存在を、半ば無視していたことと無関係ではないように思います。
解剖実習を行った経験がある人であれば、すぐわかることですが、解剖実習とはこの「ファッシア」から、いかにして目的の「臓器」取り出すか、つまり見やすくするかにつきます。ファッシアは取り除かれるべき「不要物」であり、臓器の「背景」にしか過ぎないというわけです。
解剖するという行為の究極が、解剖学の図譜や教科書ですから、そこには当然ファッシアの記載はありません。いくら肥田春充が超人であったとしても、当時の(今も?)解剖図に記載されていないものを、実体として認識していたとは思えません。これは近年、「ニューズウィーク」誌に皮膚を上回る「巨大な臓器」としてファッシアの発見が報道されたことからも、「存在していた」にも関わらず「認識されていなかった」臓器であることがうかがわれます。
春充は、自らの体感と、熟読した解剖書とを見比べて、その関係の体感を幾何学的に示そうとしたのではないでしょうか。これは眼光紙背に徹するかの如く解剖書を読み込んだであろう春充の、正確な解剖的知識があればこそ、「そこにないもの」を記載することが出来たのではないと考えます。「在る」ものを強く意識するほどに、認識の反転が生じた際に「ないはずのもの」がより強烈に認識されてくるのではないか。「図と地の反転」を基盤として考えるべき、ファッシアとの関連がここに出てくるように思います。春充の聖中心の体感の瞬間などは、まさにこの認識の反転として捉えることで、理解できるのではないでしょうか。
腸間膜根から壁側腹膜として折れ返ることで、腸管の状態が全身へと接続されます。これはまさにファッシア論でいう「O-F」の引張構造で説明されます。
室町時代に隆盛を極めた「腹部打鍼術」が、腹部のみの刺激で、全身のあらゆる症状に対応していた事実からも、この関係は意外に大きな連携を有していることが推測されます。
進化学的にも体幹である腹から四肢が形成されてきたことを思うとその中心が「腹」の「腸管」にあることも矛盾しません。ここに「火事場の馬鹿力」発揮のカギがあるようにも思えます(甲野先生のご指摘による)。
こうした身体(とりわけ四肢)の関係のみならず、近年は「脳腸相関」として神経系との関連が最新医学のテーマとしても注目されています。神経伝達物質において、脳→腸、または腸→脳の関連が、詳細に研究されています。こうした関連においても、腸管の占有する位置が、その機能に関係する可能性は大いにありそうです。
腹腔内での腸間膜と腸管を一塊としたものの位置により、四肢における運動能力が大きく影響される可能性を、聖中心は持っているように思われます。そして加えて、それらの正しい位置関係が、「脳腸相関」においても生体に有利に働く可能性も想定されます。(筋膜の張力の均等化や、結合組織表面における水分子の量子的ふるまいの正常化、等が要因として考えられます)
筋トレにおける筋肉のイメージのように、腸の塊の鮮明なイメージ化によって身体的かつ精神的な超絶した能力の開花が可能になるのではないか、そんな可能性を「聖中心」は与えてくれるのではないでしょうか。
tougouiryo at 2021年04月05日08:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(10)連動性と局所性(これまでのまとめ)
これまでファッシアと瘀血に関しての境界領域を中心に、臨床的な理論を述べてきましたが、この辺りで少し概略をまとめてみたいと思います。
鍼灸医学から量子医学まで、「ファッシア瘀血」を中心軸にしてきましたが、中でもファッシアの解剖学的な連動性と、瘀血を中心に出現する慢性炎症の局所所見が、その病理の中心を担います。つまり以下のようなまとめになります。「連続性」と「局所性」という二つの視点から、「ファッシア瘀血」の展開までをまとめてみました。
ファッシアの二大病理
1)連動性:ファッシアの特徴でもある引張構造による「引張性」だけではなく、そのコラーゲン線維により形成される「導管」(プレリンパを内包)としての役割も含む。病変としての重積により引張構造が破綻し、運動性が低下し、それに伴い瘀血病変が増悪するのが主な病理である。
2)局所性:局所的な慢性炎症により、免疫細胞が線維芽細胞を刺激するサイトカインを放出し、コラーゲン生成が促進された結果、過剰に配列不規則なコラーゲン線維が生じて「線維性癒着」や「重積」を生じる。そこには毛細血管の渋滞箇所が形成され瘀血が発生する。このモデルを「ファッシア瘀血」と本ブログでは仮称している。さらにはファッシアを形成する栄養成分の欠乏により、不完全な線維形成も局所病変の悪化を加速する。
具体的技法・理論との関連
1)連動性に関しては、ファッシア概観の水平構造を規定する「O−F」と垂直構造を規定する「A−F」が全体像をなす。詳細な機能解剖学的視点では、東洋医学的(鍼灸的)視点が有用で、自由電子による直流電流を基礎とした「正経・奇経」、神経細胞を介する交流電流や物理刺激を基礎とした「経筋」、力学的な張力を基盤とした「アナトミートレイン」が直観的に理解しやすい。応用編としては、ファッシアの連絡路を介した「熱」「(生薬の)有効成分」などの伝導を示した「経方理論」の隔を中心にした関連図も連動性に分類できる。これは腹診などの漢方的所見との橋渡し的役割を有するものでもある。腹診に限らず、東洋医学的体表観察一般に拡大できる可能性がある。かつて「帰経」によって無理に鍼灸と湯液との統合が模索されたが、より合理的な形で実現される日も近いと考える。
2)局所性は何より炎症所見に代表される。ファッシア瘀血により形成された慢性炎症所見により、マクロの「瘀血」が形成される。これが神経・血管との連携を経て、凝りなどの硬結や多彩な腹診所見を形成する。加えて、瘀血を「病巣」ととらえることで、遠隔臓器にまで悪影響を及ぼすことが推測される(病巣感染)。
また局所での重積による疼痛は「筋膜リリース」「ハイドロリリース」などの方法により解決される。栄養による局所の慢性炎症対策も有用である。
視点をさらに微視的にすると、量子論との関連も示唆される。生体マトリックス表面の結合水の同調状態が何らかの原因で乱された場合、微細な電流や、ホメオパシーなどの秩序を有する水分子の痕跡を介して復調される可能性がある。全身くまなく連続していると考えると、その表面の結合水の影響は想定外に大きいと言えるだろう。この視点からホメオパシーと鍼灸との接点を見出すことができると考えている。
鍼灸医学から量子医学まで、「ファッシア瘀血」を中心軸にしてきましたが、中でもファッシアの解剖学的な連動性と、瘀血を中心に出現する慢性炎症の局所所見が、その病理の中心を担います。つまり以下のようなまとめになります。「連続性」と「局所性」という二つの視点から、「ファッシア瘀血」の展開までをまとめてみました。
ファッシアの二大病理
1)連動性:ファッシアの特徴でもある引張構造による「引張性」だけではなく、そのコラーゲン線維により形成される「導管」(プレリンパを内包)としての役割も含む。病変としての重積により引張構造が破綻し、運動性が低下し、それに伴い瘀血病変が増悪するのが主な病理である。
2)局所性:局所的な慢性炎症により、免疫細胞が線維芽細胞を刺激するサイトカインを放出し、コラーゲン生成が促進された結果、過剰に配列不規則なコラーゲン線維が生じて「線維性癒着」や「重積」を生じる。そこには毛細血管の渋滞箇所が形成され瘀血が発生する。このモデルを「ファッシア瘀血」と本ブログでは仮称している。さらにはファッシアを形成する栄養成分の欠乏により、不完全な線維形成も局所病変の悪化を加速する。
具体的技法・理論との関連
1)連動性に関しては、ファッシア概観の水平構造を規定する「O−F」と垂直構造を規定する「A−F」が全体像をなす。詳細な機能解剖学的視点では、東洋医学的(鍼灸的)視点が有用で、自由電子による直流電流を基礎とした「正経・奇経」、神経細胞を介する交流電流や物理刺激を基礎とした「経筋」、力学的な張力を基盤とした「アナトミートレイン」が直観的に理解しやすい。応用編としては、ファッシアの連絡路を介した「熱」「(生薬の)有効成分」などの伝導を示した「経方理論」の隔を中心にした関連図も連動性に分類できる。これは腹診などの漢方的所見との橋渡し的役割を有するものでもある。腹診に限らず、東洋医学的体表観察一般に拡大できる可能性がある。かつて「帰経」によって無理に鍼灸と湯液との統合が模索されたが、より合理的な形で実現される日も近いと考える。
2)局所性は何より炎症所見に代表される。ファッシア瘀血により形成された慢性炎症所見により、マクロの「瘀血」が形成される。これが神経・血管との連携を経て、凝りなどの硬結や多彩な腹診所見を形成する。加えて、瘀血を「病巣」ととらえることで、遠隔臓器にまで悪影響を及ぼすことが推測される(病巣感染)。
また局所での重積による疼痛は「筋膜リリース」「ハイドロリリース」などの方法により解決される。栄養による局所の慢性炎症対策も有用である。
視点をさらに微視的にすると、量子論との関連も示唆される。生体マトリックス表面の結合水の同調状態が何らかの原因で乱された場合、微細な電流や、ホメオパシーなどの秩序を有する水分子の痕跡を介して復調される可能性がある。全身くまなく連続していると考えると、その表面の結合水の影響は想定外に大きいと言えるだろう。この視点からホメオパシーと鍼灸との接点を見出すことができると考えている。
tougouiryo at 2021年03月29日08:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(9)経絡・経別・奇経・経筋との関連
筋膜と経絡との関連性のみを指摘していても、臨床的にはあまり役に立たないので、今回はその具体的な「変換」を試行してみたいと思います。鍼灸医学における各概念との比較です。
筋膜に関する概念は、Steccoによる「筋膜マニュピレーション」の用語が臨床的に使いやすいので、そちらを参考に鍼灸の概念と対比してみます。
まずは臓器との関連で、臓器ー筋膜単位として「OーF」が仮定され、これが頸部、胸部、腰部、骨盤部の内臓筋膜と、水平方向の引張構造としての関係をもち、臓器をつりさげます。
「OーF」単位によるヨコ(水平)の関係に対して、タテ(垂直)の方向の関係性が、器官ー筋膜配列としての「A−F」配列となります。これは文字通り身体のタテ方向を走行し、体幹を吊り橋と考えると、その懸垂線(カテナリー)を構成します。その系列は3種類で、内臓配列、血管配列、腺配列と称され、上肢、頭部、体幹、下肢と走行し、経絡との類似性が提示されます。対応は以下のようになります。
内臓配列:手太陰肺経・手陽明大腸経・足陽明胃経・足太陰脾経
血管配列:手少陰心経・手太陽小腸経・足太陽膀胱経・足少陰腎経
腺配列:手厥陰心包経・手少陽三焦経・足少陽胆経・足厥陰肝経
次にこの「A−F」配列が、内臓筋膜との「OーF」単位に接続する流れが想定されますが、それが臓腑との関連で考えると「経別」ということになります。
つまり、各配列の手と足の組み合わせを一組として考えると、六つの組み合わせが形成され、それを「合」とすると、一合〜六合の経別となります。これにより、内臓から体表までが連続するものとして記載されたことになります(経別は深層の臓腑まで潜り込むので)。
さらに構造的に考えて、「OーF」単位より「A−F」配列は密な関係にないですから(空間的な半身に対して3つのループが走行するだけですから)、各配列間にはそれらを連絡する「間隙」が想定されます。
この間隙は各「A−F」配列にとっての、緩衝地帯としても考えられることから「奇経」が類推されます。それゆえに、この奇経に邪気が流入すると、熱をもち瀉血を要するということになるのでしょう。この辺りの関係は、瘀血病変における「細絡」の形成に似ているのではないでしょうか。
内臓と関連するファッシアとしての「OーF」単位・「A−F」配列とは幾分系統が異なり、四肢を中心にして、筋肉と神経も包含する筋膜(ファッシア)もあります。文字通り筋肉を包み、支配神経とともに走行しながら全身に分布する「経筋」です。
当然先ほどの経絡と密接に関連しながら、中枢神経である脳・脊髄の方向に「求心性」に走行することになるため、その流注は異なります。
また一般に、その流注においては、経穴はないとされ、類似の「穴」は、解剖学的な筋肉の起始・停止において、一定の面積をもつ領域であるとされます。また、パルス刺激や「やいと」などの物理的刺激への反応性の良さを考慮すると、解剖学的範疇でとらえることの出来る存在ともいえます。
交流波であるパルス刺激での臨床効果から類推できることは、この機序は、経絡現象における直流波での効果とは異なるものであるということです。
経絡現象が直流であることは、中谷博士の良導絡理論からも実証できますし、ベストセラー『閃く経絡』などでも繰り返し述べられています。つまり半導体としてのコラーゲン内部を流れる自由電子こそが、正経(経別を含む)や奇経における媒体で、経筋はこの媒体が異なるからこそ、その刺激方法も異なるという説明が可能になるのです。
さらに述べるなら、アナトミートレインとは、こうした経筋の概念に加えて、構造的な接続、力学的な接続性が強調されたものと理解できるでしょう。ファッシア概念から始まり、東洋医学から一周廻って、西洋に戻ってきたような形ですね。
今回は、ファッシアの構造的な分類から、東洋医学への展開を具体的に追ってみました。具体的には、十二正経とその経別、奇経、経筋、そしてアナトミートレインまでの流れを見たことになります。依然として概念の混乱の多い領域ですが、ファッシアという概念を介することで、ずいぶんと整理されてくるのではないかと思います。
筋膜に関する概念は、Steccoによる「筋膜マニュピレーション」の用語が臨床的に使いやすいので、そちらを参考に鍼灸の概念と対比してみます。
まずは臓器との関連で、臓器ー筋膜単位として「OーF」が仮定され、これが頸部、胸部、腰部、骨盤部の内臓筋膜と、水平方向の引張構造としての関係をもち、臓器をつりさげます。
「OーF」単位によるヨコ(水平)の関係に対して、タテ(垂直)の方向の関係性が、器官ー筋膜配列としての「A−F」配列となります。これは文字通り身体のタテ方向を走行し、体幹を吊り橋と考えると、その懸垂線(カテナリー)を構成します。その系列は3種類で、内臓配列、血管配列、腺配列と称され、上肢、頭部、体幹、下肢と走行し、経絡との類似性が提示されます。対応は以下のようになります。
内臓配列:手太陰肺経・手陽明大腸経・足陽明胃経・足太陰脾経
血管配列:手少陰心経・手太陽小腸経・足太陽膀胱経・足少陰腎経
腺配列:手厥陰心包経・手少陽三焦経・足少陽胆経・足厥陰肝経
次にこの「A−F」配列が、内臓筋膜との「OーF」単位に接続する流れが想定されますが、それが臓腑との関連で考えると「経別」ということになります。
つまり、各配列の手と足の組み合わせを一組として考えると、六つの組み合わせが形成され、それを「合」とすると、一合〜六合の経別となります。これにより、内臓から体表までが連続するものとして記載されたことになります(経別は深層の臓腑まで潜り込むので)。
さらに構造的に考えて、「OーF」単位より「A−F」配列は密な関係にないですから(空間的な半身に対して3つのループが走行するだけですから)、各配列間にはそれらを連絡する「間隙」が想定されます。
この間隙は各「A−F」配列にとっての、緩衝地帯としても考えられることから「奇経」が類推されます。それゆえに、この奇経に邪気が流入すると、熱をもち瀉血を要するということになるのでしょう。この辺りの関係は、瘀血病変における「細絡」の形成に似ているのではないでしょうか。
内臓と関連するファッシアとしての「OーF」単位・「A−F」配列とは幾分系統が異なり、四肢を中心にして、筋肉と神経も包含する筋膜(ファッシア)もあります。文字通り筋肉を包み、支配神経とともに走行しながら全身に分布する「経筋」です。
当然先ほどの経絡と密接に関連しながら、中枢神経である脳・脊髄の方向に「求心性」に走行することになるため、その流注は異なります。
また一般に、その流注においては、経穴はないとされ、類似の「穴」は、解剖学的な筋肉の起始・停止において、一定の面積をもつ領域であるとされます。また、パルス刺激や「やいと」などの物理的刺激への反応性の良さを考慮すると、解剖学的範疇でとらえることの出来る存在ともいえます。
交流波であるパルス刺激での臨床効果から類推できることは、この機序は、経絡現象における直流波での効果とは異なるものであるということです。
経絡現象が直流であることは、中谷博士の良導絡理論からも実証できますし、ベストセラー『閃く経絡』などでも繰り返し述べられています。つまり半導体としてのコラーゲン内部を流れる自由電子こそが、正経(経別を含む)や奇経における媒体で、経筋はこの媒体が異なるからこそ、その刺激方法も異なるという説明が可能になるのです。
さらに述べるなら、アナトミートレインとは、こうした経筋の概念に加えて、構造的な接続、力学的な接続性が強調されたものと理解できるでしょう。ファッシア概念から始まり、東洋医学から一周廻って、西洋に戻ってきたような形ですね。
今回は、ファッシアの構造的な分類から、東洋医学への展開を具体的に追ってみました。具体的には、十二正経とその経別、奇経、経筋、そしてアナトミートレインまでの流れを見たことになります。依然として概念の混乱の多い領域ですが、ファッシアという概念を介することで、ずいぶんと整理されてくるのではないかと思います。
tougouiryo at 2021年03月21日00:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(8)ファッシア信号系
前回は「波動医学」というエネルギー医学の一つの視点を再考してみました。こうした身体全体をいわば無形化した発想を経過して、どのようにエネルギー医学的な視点を身体へと戻すか、という視点で今回は見直してみたいと思います。
そうした視点ですでに大きな問題を提示していたのが、鍼灸における神様的な存在でもある間中喜雄先生です。遺作のような形で没後出版された『体の中の原始信号』です。
ここで間中は「Xー信号系」として、経験的に自らが臨床的に確かめてきた経絡現象を記載しています。これをただの経絡だと述べるだけではなく、メスメリズムや微量漢方、そこから発展して「ホメオパシー」との関連にまで言及し、その診断システムの一つとして「O−リングテスト」を提示しています。本書が30年以上前の出版と考えるとその先見性は驚くべきものがあると思います。
ここで「Xー信号系」と間中の述べる仮説は以下の通りです。
「人間が、現在のように進化していない頃、今のように複雑な制御機構を持っていなかった時点で持っていた『原始的な信号系』が遺体制として、今なお残存する。」
同書で間中が仮説的なインフォメーション・システムとして「Xー信号系」の特徴をあげていますが、まさにここで展開しているファッシアによる情報系そのものといった感じです。
ただ当時は科学的な知見、とりわけファッシアを巡る量子医学的な視点(結合水等)やコラーゲン線維における自由電子の存在(セントジョルジュの主張等)、さらにはファッシアを直接観察できるエコー器機が未発達であったため、その媒体の候補をファッシアに絞るには至らなかったわけです。それでも従来の自律神経説や、ボンハン小体などによる解釈に陥ることなく、自らの経験と思考によって、それがこれまでのどれでもない「X」であるとして記載しています。以下にその特徴を引用します。
(A)なるべく微量のエネルギーで信号を与える。
(B) その反応をモニターするにも、それ自身が刺激となるような操作をなるべく避ける。
(C) 実際に臨床的にこのような操作が治療として有意義かどうか見直す。
(D) このような操作がいかなるパターンで反応を示すかを注意深く観察する。
ポイントとしては、微量な刺激で応答しているという点(A)と、それを知るには「生きている」状態で、非侵襲的な方法による検証が望ましい点(B)、そして治療として有意義である点(C)、そして生じた反応をどのようなパターンであるか、つまりその現象を物理現象として分類するという視点も重視していることに注目すべきです。
間中のいう「Xー信号系」が、そのままファッシアによるものですべて説明されるかどうかはわかりません。しかし、その大部分はこの仮説によって説明可能に思いますし、先生が存命でしたら概ね了承されるものなのではないかと勝手に妄想しております。
我が国においてはファッシアは現在、ファッシアに生ずる痛みの治療を中心に、エコーを中心とした可視化の分野が隆盛です。これに伴い過度の「正統な科学」へのこだわりも見られ、その大きな可能性が矮小化されている面もあります。これは当該分野を推進する総合診療系医師のホメオパシー等のエネルギー医学への無理解と偏見に依拠していることが起因しているでしょう。
しかし外科医であった間中先生のこの仮説を前にさらに「ファッシア」「ファシア」の解釈を拡大していくことの重要性もあるように思うのです。そうした展開を私はあえて「ファッシア信号系」と称し、ファッシア瘀血学の重要な領域として捉えたいと思います。
そうした視点ですでに大きな問題を提示していたのが、鍼灸における神様的な存在でもある間中喜雄先生です。遺作のような形で没後出版された『体の中の原始信号』です。
ここで間中は「Xー信号系」として、経験的に自らが臨床的に確かめてきた経絡現象を記載しています。これをただの経絡だと述べるだけではなく、メスメリズムや微量漢方、そこから発展して「ホメオパシー」との関連にまで言及し、その診断システムの一つとして「O−リングテスト」を提示しています。本書が30年以上前の出版と考えるとその先見性は驚くべきものがあると思います。
ここで「Xー信号系」と間中の述べる仮説は以下の通りです。
「人間が、現在のように進化していない頃、今のように複雑な制御機構を持っていなかった時点で持っていた『原始的な信号系』が遺体制として、今なお残存する。」
同書で間中が仮説的なインフォメーション・システムとして「Xー信号系」の特徴をあげていますが、まさにここで展開しているファッシアによる情報系そのものといった感じです。
ただ当時は科学的な知見、とりわけファッシアを巡る量子医学的な視点(結合水等)やコラーゲン線維における自由電子の存在(セントジョルジュの主張等)、さらにはファッシアを直接観察できるエコー器機が未発達であったため、その媒体の候補をファッシアに絞るには至らなかったわけです。それでも従来の自律神経説や、ボンハン小体などによる解釈に陥ることなく、自らの経験と思考によって、それがこれまでのどれでもない「X」であるとして記載しています。以下にその特徴を引用します。
(A)なるべく微量のエネルギーで信号を与える。
(B) その反応をモニターするにも、それ自身が刺激となるような操作をなるべく避ける。
(C) 実際に臨床的にこのような操作が治療として有意義かどうか見直す。
(D) このような操作がいかなるパターンで反応を示すかを注意深く観察する。
ポイントとしては、微量な刺激で応答しているという点(A)と、それを知るには「生きている」状態で、非侵襲的な方法による検証が望ましい点(B)、そして治療として有意義である点(C)、そして生じた反応をどのようなパターンであるか、つまりその現象を物理現象として分類するという視点も重視していることに注目すべきです。
間中のいう「Xー信号系」が、そのままファッシアによるものですべて説明されるかどうかはわかりません。しかし、その大部分はこの仮説によって説明可能に思いますし、先生が存命でしたら概ね了承されるものなのではないかと勝手に妄想しております。
我が国においてはファッシアは現在、ファッシアに生ずる痛みの治療を中心に、エコーを中心とした可視化の分野が隆盛です。これに伴い過度の「正統な科学」へのこだわりも見られ、その大きな可能性が矮小化されている面もあります。これは当該分野を推進する総合診療系医師のホメオパシー等のエネルギー医学への無理解と偏見に依拠していることが起因しているでしょう。
しかし外科医であった間中先生のこの仮説を前にさらに「ファッシア」「ファシア」の解釈を拡大していくことの重要性もあるように思うのです。そうした展開を私はあえて「ファッシア信号系」と称し、ファッシア瘀血学の重要な領域として捉えたいと思います。
tougouiryo at 2021年03月15日00:00|この記事のURL│Comments(0)
今後の「臨床ファッシア瘀血」の展開
毎週月曜日に連載しております「臨床ファッシア瘀血学」ですが、本ブログ上で意外にもけっこう大勢の方に読んでいただき少々驚いております。読んでいただき、本当にありがとうございます。
「城」や「サプリ」の情報に比べて、かなり読者を意識しない書き方ですので分かりにくいはずなのですが、ファッシアと瘀血という分野が意外に多くの方が関心を持っているということなのかもしれません。
明日の月曜日からの、今後の予定としては、間中喜雄先生の理論をファッシアに照らし合わせながら考えてみたいと思います。具体的には「X信号系」とファッシアとの関連について。
さらには間中先生の弟子筋の入江先生の理論なども援用しながら鍼灸理論とファッシアとの融合も試みます。また、だんだんと諸概念が渋滞を起こしてきつつあるので、その後は少し、これまでの全体をメタ理論からまとめてみたいと思います。
非常事態宣言下でしたので、なかなか城巡りができず、代わりにブログが充実してきました(笑)もう少ししたら、あまり本ブログ内での人気はないのですが「お城」ネタも、さらに充実させてたいな〜と考えております(^^)/
「城」や「サプリ」の情報に比べて、かなり読者を意識しない書き方ですので分かりにくいはずなのですが、ファッシアと瘀血という分野が意外に多くの方が関心を持っているということなのかもしれません。
明日の月曜日からの、今後の予定としては、間中喜雄先生の理論をファッシアに照らし合わせながら考えてみたいと思います。具体的には「X信号系」とファッシアとの関連について。
さらには間中先生の弟子筋の入江先生の理論なども援用しながら鍼灸理論とファッシアとの融合も試みます。また、だんだんと諸概念が渋滞を起こしてきつつあるので、その後は少し、これまでの全体をメタ理論からまとめてみたいと思います。
非常事態宣言下でしたので、なかなか城巡りができず、代わりにブログが充実してきました(笑)もう少ししたら、あまり本ブログ内での人気はないのですが「お城」ネタも、さらに充実させてたいな〜と考えております(^^)/
tougouiryo at 2021年03月14日17:59|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(7)波動医学再考
先日書いたブログの内容について、院内カンファレンスで話題になったことについて考察してみたいと思います。「波動医学再考」として、電子が意志を持つという山田先生の著作に関する議論をしていたときの話題です。(メモ的なものですので興味ない方はスルーしてください)今回は「ファッシア瘀血」の概念というよりは、その周辺の歴史的な流れといったところでしょうか。
電子が意志を持つことを肯定すると、量子力学において無理に量子の二重性を仮定しなければならないわけではない、とする山田先生の論理が展開されるのですが、すると、生命の波動性のようなものも無理に仮定する必要がなくなるのではないか、という意見をのべたところ、カンファレンスにおいて質問が出ました。
では、アストラル体やエーテル体のようなものを否定することにならないか、という質問です。ホリスティックムーヴメントにおいて、重要な書籍である「バイブレーショナルメディスン」に基づいた質問なのですが、ここに「波動医学」の諸問題が現れてくるように感じます。まさに波動性の再考です。
私自身は、生命を考える際には物か?波か?という二重性ですら十分でなはい、という考えを述べられていた中田力先生のご意見に、大賛成という立場です。ところが代替医療を含めた統合医療という視点から見た場合、色々な意見があるのも事実です。
そして多元的な視点を推奨する上では、それらを一概に否定するわけでもありません。しかし波動であるという立場に強くこだわる方々もまた少なくなく「波動医学」という分野を形成しているわけです。そして同書は、まさに混迷していた代替医療の世界において「波動」という用語により、多彩な代替医療群を整理分類したものです。
こうした同様の視点を有する理論により「波動医学」が形成されてきているので、あらためて同書を読み直してみました。
これをあえて、ファッシア瘀血学の項目として書いたのは、この波動概念こそ、ファッシアに至る歴史的潮流の一つとして考えられるのではないかと思ったからです。
つまり、多彩な代替医療を何らかのキーワードの下に統一的に記述する、という意味では同書は重要な書籍であると考えます。しかし広義のファッシア、もしくは生体マトリックスという視点の導入により、それらの概念を「フック」として多彩な代替医療を分類することも可能になってきました。波動といういわば「無形化」した概念と比較して、具体的なイメージを持ちやすい概念のフックです。
では、なぜ波動性をスキップすることが可能か。その理由こそが電子が意志を持つという仮説です。科学史的には、量子力学における物質と波動の二重性は、或る意味でアインシュタインの考えをも超越したものでもあり、すべてのモノは波でもあるという「考案」のような考えは、広く代替医療の世界へと浸透していきました。こうした潮流の代表例が、東洋思想と現代物理学とを融合させたカプラ『タオ自然学』でしょう。
このような当時の先端科学の思潮が、代替医療に取り込まれるさまは、その少し前、明治日本における霊術と「放射線」との融合などにもみてとれます。つまり科学的新概念との融合は、代替医療という領域は結構得意だったりします。
それゆえに量子力学における粒子と波動の二重性を必要としない理論が展開可能であるならば、無理に「波動」概念も持ち出す必要もなくなるわけです。
代替医療側のこの辺りの概念の混同を、すでに見越して解説されているのが、ほかならぬ『バイブレーショナルメディスン』の翻訳者である真鍋太史郎先生であったりするのも、また一興です。
真鍋太史郎先生は「訳者あとがき」において、シュレディンガーの「波動関数」と、作者であるガーバーのいう「波動医学」とは直接の関係はないということを明確に述べています。(この真鍋先生、医療全般に関する適確なコメントから放射線・核医学について極めて造詣の深い医師であることが推測されます)
いずれにせよ二重性が必要ないとするならば、波動性の必要もなくなるわけですが、そうした過程の上で展開される世界観が、一般の方にとって本当に受け入れやすいものなのかは別問題です。何せ、電子に意志を仮定したわけですから、そもそも我々が普通に考える意志と似ているのかどうかすらわかりません(笑)
ただし、この過程は意外な方向に論理を展開していきます。それが「対話」というものの重視です。平たく言うと、波動概念を不要にすると、万物の「対話」概念が必要になります。ここにジャングルカンファレンスの思想的な基盤があることは、ここを読まれてる方にはおおよそ察しが付くところでしょう。
電子を「対話」する意志を有するものであるとの仮定は、電子そのものへの「個性」をも仮定するものでもありますし、それが身体内部を流れるのがファッシアを形成するコラーゲン線維ということになります。また量子医学と称される分野における量子は、結合水における量子的な挙動の記述であるので、波動性とは少し異なる論理の展開になるわけです。
ちょっとまとまりませんが、あくまでもメモ的な記載ですので、ご興味ある方は直接お尋ねください。日曜夜なのでこのへんにします・・・
電子が意志を持つことを肯定すると、量子力学において無理に量子の二重性を仮定しなければならないわけではない、とする山田先生の論理が展開されるのですが、すると、生命の波動性のようなものも無理に仮定する必要がなくなるのではないか、という意見をのべたところ、カンファレンスにおいて質問が出ました。
では、アストラル体やエーテル体のようなものを否定することにならないか、という質問です。ホリスティックムーヴメントにおいて、重要な書籍である「バイブレーショナルメディスン」に基づいた質問なのですが、ここに「波動医学」の諸問題が現れてくるように感じます。まさに波動性の再考です。
私自身は、生命を考える際には物か?波か?という二重性ですら十分でなはい、という考えを述べられていた中田力先生のご意見に、大賛成という立場です。ところが代替医療を含めた統合医療という視点から見た場合、色々な意見があるのも事実です。
そして多元的な視点を推奨する上では、それらを一概に否定するわけでもありません。しかし波動であるという立場に強くこだわる方々もまた少なくなく「波動医学」という分野を形成しているわけです。そして同書は、まさに混迷していた代替医療の世界において「波動」という用語により、多彩な代替医療群を整理分類したものです。
こうした同様の視点を有する理論により「波動医学」が形成されてきているので、あらためて同書を読み直してみました。
これをあえて、ファッシア瘀血学の項目として書いたのは、この波動概念こそ、ファッシアに至る歴史的潮流の一つとして考えられるのではないかと思ったからです。
つまり、多彩な代替医療を何らかのキーワードの下に統一的に記述する、という意味では同書は重要な書籍であると考えます。しかし広義のファッシア、もしくは生体マトリックスという視点の導入により、それらの概念を「フック」として多彩な代替医療を分類することも可能になってきました。波動といういわば「無形化」した概念と比較して、具体的なイメージを持ちやすい概念のフックです。
では、なぜ波動性をスキップすることが可能か。その理由こそが電子が意志を持つという仮説です。科学史的には、量子力学における物質と波動の二重性は、或る意味でアインシュタインの考えをも超越したものでもあり、すべてのモノは波でもあるという「考案」のような考えは、広く代替医療の世界へと浸透していきました。こうした潮流の代表例が、東洋思想と現代物理学とを融合させたカプラ『タオ自然学』でしょう。
このような当時の先端科学の思潮が、代替医療に取り込まれるさまは、その少し前、明治日本における霊術と「放射線」との融合などにもみてとれます。つまり科学的新概念との融合は、代替医療という領域は結構得意だったりします。
それゆえに量子力学における粒子と波動の二重性を必要としない理論が展開可能であるならば、無理に「波動」概念も持ち出す必要もなくなるわけです。
代替医療側のこの辺りの概念の混同を、すでに見越して解説されているのが、ほかならぬ『バイブレーショナルメディスン』の翻訳者である真鍋太史郎先生であったりするのも、また一興です。
真鍋太史郎先生は「訳者あとがき」において、シュレディンガーの「波動関数」と、作者であるガーバーのいう「波動医学」とは直接の関係はないということを明確に述べています。(この真鍋先生、医療全般に関する適確なコメントから放射線・核医学について極めて造詣の深い医師であることが推測されます)
いずれにせよ二重性が必要ないとするならば、波動性の必要もなくなるわけですが、そうした過程の上で展開される世界観が、一般の方にとって本当に受け入れやすいものなのかは別問題です。何せ、電子に意志を仮定したわけですから、そもそも我々が普通に考える意志と似ているのかどうかすらわかりません(笑)
ただし、この過程は意外な方向に論理を展開していきます。それが「対話」というものの重視です。平たく言うと、波動概念を不要にすると、万物の「対話」概念が必要になります。ここにジャングルカンファレンスの思想的な基盤があることは、ここを読まれてる方にはおおよそ察しが付くところでしょう。
電子を「対話」する意志を有するものであるとの仮定は、電子そのものへの「個性」をも仮定するものでもありますし、それが身体内部を流れるのがファッシアを形成するコラーゲン線維ということになります。また量子医学と称される分野における量子は、結合水における量子的な挙動の記述であるので、波動性とは少し異なる論理の展開になるわけです。
ちょっとまとまりませんが、あくまでもメモ的な記載ですので、ご興味ある方は直接お尋ねください。日曜夜なのでこのへんにします・・・
tougouiryo at 2021年03月08日00:00|この記事のURL│Comments(0)
ファッシア瘀血から身体を診る・クリニック診療案内
最近ブログを読み始めた方から聞かれたのですが、ファッシアや瘀血、サプリメントなどについて書いているかとおもうと生化学などにも言及していて、先生の専門は何ですかという質問を頂きます。面倒なときは内科の専門医なので「内科」ですと答えるのですが、クリニックの受診を考えてくださっている方も読まれているかもしれませんので、最近の知見と合わせて説明してみたいと思います。
統合医療をキーワードにこれまで説明してきたのですが、最近はもう少し具体的に「ファッシア瘀血」をキーワードにしています。そのために「臨床ファッシア瘀血学」の記事を連載しています。いわゆる神経痛などと称されて疼痛の原因となっている「ファッシア」の病変と、従来より東洋医学の慢性的な病因として名高い「瘀血」を合わせた概念です。中医学的には「気」と「血」の病変としてもよいでしょう。これを「臓器」の視点とします。つまり身体のあらゆる臓器へ気血が円滑に運ばれないマクロの病態です。
次は、生化学的な回路(とくにエネルギー代謝)において、円滑に必要な反応が生じない状態。つまりミクロの細胞内部において代謝が円滑に行われていない状態を想定しています。これをミクロの「細胞」の視点とします。具体的にはサプリメント等を用いて適切に補充していく方法論です。
そして最後はさらに微細な世界、「量子」の視点です。具体的にはファッシアをはじめとした細胞膜周辺の水分子の状態の量子的な調整です。これは少し難しいのですが、秩序化された水ともいえるレメディによる治療法としてのホメオパシーに代表できます。
ここまでをまとめると(1)量子レベル(2)細胞レベル(3)臓器エベル、という感じです。これらの流れをスムースにすることで機能的ないしは器質的疾病状態を治療していこう、という考えが当院での治療法の中心となります。
一般的には、漢方薬とか、ホメオパシーという治療法の名称によってご案内するほうが理解しやすいのですが、私がいろいろな方法論を渡り歩いてきてしまったため、多彩な方法論を統合的に用いる方針なので説明すると複雑になってしまうという事情があります。
方法論別に記載すると以下のようになります。
(1)ホメオパシー・エネルギー医学的アプローチ
(2)サプリメント・栄養・生化学的アプローチ
(3)鍼灸(刺絡)・ハイドロリリース・漢方薬・整体などの身体アプローチ
(1)〜(3)のあらゆるレベルで、自由電子や代謝過程、さらには血液や体液などの流れがスムースでないと、どこかで「渋滞」が生じてしまいます。渋滞がひどければ、そこに病理産物が生成されてしまうかもしれませんし、さらには、そこをスキップしてしまうかもしれません。これにより血液・栄養の供給がされなくなります(脱毛などがその好例でしょう)。そしてその経路が短絡されることで、「縮退」現象が加速することになります。こうした生体における縮退をいかに回避するかが大きな診療の目的でもあるのです。
従来の「診断名」を超えて、不調そのものを改善していくことを当院は目指しております。
小池統合医療クリニックへのお問い合わせはこちらまで。
統合医療をキーワードにこれまで説明してきたのですが、最近はもう少し具体的に「ファッシア瘀血」をキーワードにしています。そのために「臨床ファッシア瘀血学」の記事を連載しています。いわゆる神経痛などと称されて疼痛の原因となっている「ファッシア」の病変と、従来より東洋医学の慢性的な病因として名高い「瘀血」を合わせた概念です。中医学的には「気」と「血」の病変としてもよいでしょう。これを「臓器」の視点とします。つまり身体のあらゆる臓器へ気血が円滑に運ばれないマクロの病態です。
次は、生化学的な回路(とくにエネルギー代謝)において、円滑に必要な反応が生じない状態。つまりミクロの細胞内部において代謝が円滑に行われていない状態を想定しています。これをミクロの「細胞」の視点とします。具体的にはサプリメント等を用いて適切に補充していく方法論です。
そして最後はさらに微細な世界、「量子」の視点です。具体的にはファッシアをはじめとした細胞膜周辺の水分子の状態の量子的な調整です。これは少し難しいのですが、秩序化された水ともいえるレメディによる治療法としてのホメオパシーに代表できます。
ここまでをまとめると(1)量子レベル(2)細胞レベル(3)臓器エベル、という感じです。これらの流れをスムースにすることで機能的ないしは器質的疾病状態を治療していこう、という考えが当院での治療法の中心となります。
一般的には、漢方薬とか、ホメオパシーという治療法の名称によってご案内するほうが理解しやすいのですが、私がいろいろな方法論を渡り歩いてきてしまったため、多彩な方法論を統合的に用いる方針なので説明すると複雑になってしまうという事情があります。
方法論別に記載すると以下のようになります。
(1)ホメオパシー・エネルギー医学的アプローチ
(2)サプリメント・栄養・生化学的アプローチ
(3)鍼灸(刺絡)・ハイドロリリース・漢方薬・整体などの身体アプローチ
(1)〜(3)のあらゆるレベルで、自由電子や代謝過程、さらには血液や体液などの流れがスムースでないと、どこかで「渋滞」が生じてしまいます。渋滞がひどければ、そこに病理産物が生成されてしまうかもしれませんし、さらには、そこをスキップしてしまうかもしれません。これにより血液・栄養の供給がされなくなります(脱毛などがその好例でしょう)。そしてその経路が短絡されることで、「縮退」現象が加速することになります。こうした生体における縮退をいかに回避するかが大きな診療の目的でもあるのです。
従来の「診断名」を超えて、不調そのものを改善していくことを当院は目指しております。
小池統合医療クリニックへのお問い合わせはこちらまで。
tougouiryo at 2021年03月03日00:00|この記事のURL│Comments(0)
電子が意志をもつということ(波動医学再考)
先週末は基礎医学塾の本年度の最初の勉強会でした。久しぶりに私も解糖系から始まるエネルギー代謝をテキストの新書で復習し、この時新ためて「擬人化」の効用を実感したことは、数日前のブログに書いた通りです。
その時、量子力学における山田廣成先生の「電子が意志を持つ」説を擬人化の例としてご紹介しましたが、その後、改めて再読してみると、擬人化ではとどまらない大きな意味があるように感じましたので、メモしておきたいと思います。
この本は副題が「電子にも意志があるとしたら貴方はどうしますか?」というのですが、まさにこれまでの視点を大きく転換させるものでもあります。私も個人的にとても関心のある「観測問題」から、電子を考えると、その実態は「粒子でもあり波動でもある」ということになります。
ここから統合医療、代替医療における「波動」の様々な領域が展開していくことになるのですが、それはある種の「無形」なものにすべてを還元するという意味で、「生きる」ということへの空白地帯を形成しかねない危うさをも有するものを生み出しているようにも感じていました。
誤解のないようにいうと、「スピリチュアリティ」などの諸概念を否定しているわけではありません。むしろケン・ウィルバーらの言うところのスピリチュアリティは積極的に肯定するのですが、あらゆるものを波動へと還元させる風潮への懸念といったところでしょうか。こうした考え方の基底をなしているのが、この電子の波動性の問題なのです。つまり身体は電子によって形成されていますから、身体や物質の波動性といえることにもなります。
詳細は山田先生の著作を読んでいただきたいのですが、まずは電子の存在を示す基本的な(現在までわかっている)実験結果を提示して、思い込みなしで事実を判定してほしいと迫ります。
確かに提示されるデータからは明らかに物質だということが確認されます。ではなぜ「波動」ということになるのか。それは電子が集団となった時に、干渉などの現象が現れ、それゆえに「波動性」をもつというわけです。
当然ながら、これが電子ではなく、意志を持つ人間であれば、互いに干渉しながら影響するので、統計的に処理すれば、結果として生じた現象において波動性があるものの、それは統計的なふるまいであって、実態を有する人間そのものが波動だという結論にはなりません。これは、いわゆる「渋滞」などの現象で日常的にみられることです。集団行動の予測が、物理的にシュミレーションできることからも理解できます。
それでは今度は、視点を反転させて電子が人間のように、個々が意志を持っていたらどうなるかと思考実験したのが、山田先生の理論展開となります。
すると非常に難解な、モノでもあって波でもあるという「量子の二重性」という概念を持ってこなくても、電子同士が意志をもって対話していたとしたら、結果として「波動性」を持っているように見えるというわけです。
それゆえに量子力学において基礎的な「波動方程式」は、対話方程式もしくは干渉方程式と呼ぶべきだと、山田先生は主張されます。
つまり電子が意志をもつという考えを受け入れることができれば、少なくても量子力学のもっとも理解しにくい難所を、クリアすることが出来るわけです。「教える」という立場においては非常に重要なことだということになります。
これを統合医療的な分野にもってくると、人間の波動性という無形化した概念の導入よりは、電子という存在が意志(われわれが実感している意思とは少し違うのでしょうが)をもつということの方が、実はすんなりと受け入れやすいのではないかと思うのです。そしてこれは「対話」という行為においてもより大きな意味を見出すことにつながります。
明治期の霊術の展開などを見ると、当時の最新科学である「放射線」の影響を強く感じられるように、代替医療領域は、その時代の最新科学の影響を強く反映します。
そう考えると現在の波動の風潮の基盤は、間違いなく現在の量子力学の解釈に依存していますから、ここの解釈を反転させることは、この医学領域の発想の転換を余儀なくさせるものでもあるわけです。
個人的な興味としては、意志や干渉においても当然「階層」があるでしょうから、それを基盤として漢方薬やレメディの作用点も階層があるはずです。また電子の意志を仮定することが可能であれば、レメディの意志というものも可能であるかもしれません。そして単なる「対話」が、往々にして「スピリチュアリティ」との関係を深く印象付けることも、こうした考えとリンクしていることだと思います。
メモ的な記述でしたので、散漫になりましたが、なんとなく興味を持たれた方は是非、山田先生のご著書を開かれることをお勧めします。
その時、量子力学における山田廣成先生の「電子が意志を持つ」説を擬人化の例としてご紹介しましたが、その後、改めて再読してみると、擬人化ではとどまらない大きな意味があるように感じましたので、メモしておきたいと思います。
この本は副題が「電子にも意志があるとしたら貴方はどうしますか?」というのですが、まさにこれまでの視点を大きく転換させるものでもあります。私も個人的にとても関心のある「観測問題」から、電子を考えると、その実態は「粒子でもあり波動でもある」ということになります。
ここから統合医療、代替医療における「波動」の様々な領域が展開していくことになるのですが、それはある種の「無形」なものにすべてを還元するという意味で、「生きる」ということへの空白地帯を形成しかねない危うさをも有するものを生み出しているようにも感じていました。
誤解のないようにいうと、「スピリチュアリティ」などの諸概念を否定しているわけではありません。むしろケン・ウィルバーらの言うところのスピリチュアリティは積極的に肯定するのですが、あらゆるものを波動へと還元させる風潮への懸念といったところでしょうか。こうした考え方の基底をなしているのが、この電子の波動性の問題なのです。つまり身体は電子によって形成されていますから、身体や物質の波動性といえることにもなります。
詳細は山田先生の著作を読んでいただきたいのですが、まずは電子の存在を示す基本的な(現在までわかっている)実験結果を提示して、思い込みなしで事実を判定してほしいと迫ります。
確かに提示されるデータからは明らかに物質だということが確認されます。ではなぜ「波動」ということになるのか。それは電子が集団となった時に、干渉などの現象が現れ、それゆえに「波動性」をもつというわけです。
当然ながら、これが電子ではなく、意志を持つ人間であれば、互いに干渉しながら影響するので、統計的に処理すれば、結果として生じた現象において波動性があるものの、それは統計的なふるまいであって、実態を有する人間そのものが波動だという結論にはなりません。これは、いわゆる「渋滞」などの現象で日常的にみられることです。集団行動の予測が、物理的にシュミレーションできることからも理解できます。
それでは今度は、視点を反転させて電子が人間のように、個々が意志を持っていたらどうなるかと思考実験したのが、山田先生の理論展開となります。
すると非常に難解な、モノでもあって波でもあるという「量子の二重性」という概念を持ってこなくても、電子同士が意志をもって対話していたとしたら、結果として「波動性」を持っているように見えるというわけです。
それゆえに量子力学において基礎的な「波動方程式」は、対話方程式もしくは干渉方程式と呼ぶべきだと、山田先生は主張されます。
つまり電子が意志をもつという考えを受け入れることができれば、少なくても量子力学のもっとも理解しにくい難所を、クリアすることが出来るわけです。「教える」という立場においては非常に重要なことだということになります。
これを統合医療的な分野にもってくると、人間の波動性という無形化した概念の導入よりは、電子という存在が意志(われわれが実感している意思とは少し違うのでしょうが)をもつということの方が、実はすんなりと受け入れやすいのではないかと思うのです。そしてこれは「対話」という行為においてもより大きな意味を見出すことにつながります。
明治期の霊術の展開などを見ると、当時の最新科学である「放射線」の影響を強く感じられるように、代替医療領域は、その時代の最新科学の影響を強く反映します。
そう考えると現在の波動の風潮の基盤は、間違いなく現在の量子力学の解釈に依存していますから、ここの解釈を反転させることは、この医学領域の発想の転換を余儀なくさせるものでもあるわけです。
個人的な興味としては、意志や干渉においても当然「階層」があるでしょうから、それを基盤として漢方薬やレメディの作用点も階層があるはずです。また電子の意志を仮定することが可能であれば、レメディの意志というものも可能であるかもしれません。そして単なる「対話」が、往々にして「スピリチュアリティ」との関係を深く印象付けることも、こうした考えとリンクしていることだと思います。
メモ的な記述でしたので、散漫になりましたが、なんとなく興味を持たれた方は是非、山田先生のご著書を開かれることをお勧めします。
tougouiryo at 2021年03月02日00:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(6)微小空胞ネットワークとしてのファッシア
前回は微小循環におけるファッシアの構造を、プレリンパの導管として説明してみました。これに近傍のリンパと毛細血管による血液が混合して、刺絡などの観血的治療における「瘀血」が形成されたという考えです。これは瘀血部位が、他の正常部位に比べて血管の蛇行多く(三日月湖状態)、それゆえに穿刺時に血管にあたる面積が多くなると考えられます(それゆえに多くのうっ血が混入するためどす黒くなるわけです)。当然、いわゆる正常部位では、血管の蛇行が少ないためファッシア(もしくはリンパ)への穿刺面積が多くなるので、引かれる血液は希釈され、相対的に薄く鮮明な赤色になることが説明されます。
今回は、ファッシアを前回解説したようなプレリンパの導管的な役割だけではなく、「本来の構造」を維持する効果として見た場合のミクロの構造を概観してみましょう。生きた筋膜の豊富な写真による解剖書『人の生きた筋膜の構造』を参考に解説してみたいと思います。
そもそも様々な細胞は、生体における組織の連続性には関与していないとされます。つまり何らかの「機能」を分担する反面、連続性を持ちながら構造を維持するという役割にはないわけです。
それに対してファッシアは、皮膚表面から細胞内の核にまで連続する「原線維ネットワーク」と考えられます。そしてこれらは生体内部でただの「線維」として存在するわけではなく、微小な立体構造を持つ「多微小空胞ネットワーク」を形成し、生体を構造化していると考えられます。これは前掲書において、多くの鮮明な写真によって確認することが出来ます。
このネットワークは、可動性、柔軟性、適応性を有し、あらゆる組織を連続化させ、生体が運動中であっても、原線維の連続性を保持し続け、それが損傷しないかぎり元の状態に戻ることもできるわけです。
そしてこの原線維は、循環系(血管)と神経系の構造的な土台となり、これらシステムと一体となることで、細胞にエネルギーの供給を行います。そして細胞を生存させるとともに、さらには力学的な情報の伝達も担っています。
原線維によって形成される微小空胞は、その内部を、細胞、コラーゲン、グリコサミノグリカンによって満たされ、外的圧力に適応しながら組織形態を保持し、正常組織における機能的独立を保つことができます。
そしてこの微小空胞ネットワークは、三次元的には「テンセグリティー」構造を形成し、運動中においてさえも、安定した構造を保証することになります。
さらにはこのテンセグリティーにより、重力からの圧迫から、ある程度解放されることができるため、いわゆる「二乗三乗の法則」に縛られない生物独自の構造をも可能にします(これは恐竜などの巨大生物の構造を可能にします)。
また原線維によるフレームは、動的なフラクタル化とでもいえる適応能力を有し、組織化された構造や立体形成を可能にします。そしてこのフラクタル化は、安定した形態から、別の形態へと移行することも可能で、それゆえに形態発生、器官発生、系統発生を記述することもできるようになると考えられています。つまり生命の生命たる特徴を、可能にしているわけです。
これらのように微小環境におけるファッシアは「梱包材」ではないばかりか、導管的な役割にも限定されない、生命の存在を維持する基本的な役割を有していることが『人の生きた筋膜の構造』では語られます。ファッシアへの関心がそれほどでもない時期に、同書を購入したのですが、その時は今ほどその意味するところに惹かれることはありませんでした。しかし、瘀血との関係で、改めてファッシアを再認識してからは、まさに「生命」そのものの特徴とまで感じています。
今後、解説していきますが、瘀血と経絡を統括して、解剖的な構造のもとに理解しようとすると、神経と血管の双方の構造的基盤でもあるファッシアが極めて重要になります。そして、そこにとどまらず、ファッシア自体が「自由電子」や「物理的な力」を介しても生体に影響することの意味をより強く感じることにもなるわけです。
今回は、ファッシアを前回解説したようなプレリンパの導管的な役割だけではなく、「本来の構造」を維持する効果として見た場合のミクロの構造を概観してみましょう。生きた筋膜の豊富な写真による解剖書『人の生きた筋膜の構造』を参考に解説してみたいと思います。
そもそも様々な細胞は、生体における組織の連続性には関与していないとされます。つまり何らかの「機能」を分担する反面、連続性を持ちながら構造を維持するという役割にはないわけです。
それに対してファッシアは、皮膚表面から細胞内の核にまで連続する「原線維ネットワーク」と考えられます。そしてこれらは生体内部でただの「線維」として存在するわけではなく、微小な立体構造を持つ「多微小空胞ネットワーク」を形成し、生体を構造化していると考えられます。これは前掲書において、多くの鮮明な写真によって確認することが出来ます。
このネットワークは、可動性、柔軟性、適応性を有し、あらゆる組織を連続化させ、生体が運動中であっても、原線維の連続性を保持し続け、それが損傷しないかぎり元の状態に戻ることもできるわけです。
そしてこの原線維は、循環系(血管)と神経系の構造的な土台となり、これらシステムと一体となることで、細胞にエネルギーの供給を行います。そして細胞を生存させるとともに、さらには力学的な情報の伝達も担っています。
原線維によって形成される微小空胞は、その内部を、細胞、コラーゲン、グリコサミノグリカンによって満たされ、外的圧力に適応しながら組織形態を保持し、正常組織における機能的独立を保つことができます。
そしてこの微小空胞ネットワークは、三次元的には「テンセグリティー」構造を形成し、運動中においてさえも、安定した構造を保証することになります。
さらにはこのテンセグリティーにより、重力からの圧迫から、ある程度解放されることができるため、いわゆる「二乗三乗の法則」に縛られない生物独自の構造をも可能にします(これは恐竜などの巨大生物の構造を可能にします)。
また原線維によるフレームは、動的なフラクタル化とでもいえる適応能力を有し、組織化された構造や立体形成を可能にします。そしてこのフラクタル化は、安定した形態から、別の形態へと移行することも可能で、それゆえに形態発生、器官発生、系統発生を記述することもできるようになると考えられています。つまり生命の生命たる特徴を、可能にしているわけです。
これらのように微小環境におけるファッシアは「梱包材」ではないばかりか、導管的な役割にも限定されない、生命の存在を維持する基本的な役割を有していることが『人の生きた筋膜の構造』では語られます。ファッシアへの関心がそれほどでもない時期に、同書を購入したのですが、その時は今ほどその意味するところに惹かれることはありませんでした。しかし、瘀血との関係で、改めてファッシアを再認識してからは、まさに「生命」そのものの特徴とまで感じています。
今後、解説していきますが、瘀血と経絡を統括して、解剖的な構造のもとに理解しようとすると、神経と血管の双方の構造的基盤でもあるファッシアが極めて重要になります。そして、そこにとどまらず、ファッシア自体が「自由電子」や「物理的な力」を介しても生体に影響することの意味をより強く感じることにもなるわけです。
tougouiryo at 2021年03月01日00:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(5)微細環境におけるファッシア瘀血
前回は経方理論とファッシア瘀血との関連性を考察しました。今回は、そうした全体性から一気に組織の局所の話題に移りましょう。ファッシア瘀血の形成されるミクロの環境についてです。
ファッシアは、2018年3月のNewsweekによって、ヒトにおける最大の器官が発見されたという記事が掲載され、従来は結合組織(これもファッシアである)とされたものが、体液を満たして相互に連結している新たな器官であるという報告がされました。
まさにこれは、かつての「筋膜」というイメージではとらえられない組織像で、線維の網目構造を内側から裏打ちするように細胞がはりつき、その内腔を液体が流れるというものでした。さらにその液体は、共焦点レーザー内視鏡により、血管よりも遅延して試薬が映し出され、さらにはそれがリンパとほぼ同時であったということが分かったそうです(医道の日本 2018年6月pp140-2)。
つまり血管とリンパ、従来はその間隙であると思われたところに連結システムが存在していたということが分かったわけです。これがまさにファッシアです。
広範なファッシアという概念の機能がこれに限定されるわけではありませんが、生きている組織のみでしか確認できない脈管系といえるでしょう。
これに瘀血のシステムを考慮すると、細絡などミクロのレベルでの血液の鬱滞や毛細血管の蛇行、さらには三日月湖状態にまで至るような蛇行や鬱滞などが、刺絡によって破壊されるのですが、その時に同時に、このファッシア内の液体も漏れ出してくるのではないでしょうか。
つまり従来は、こうした鬱滞した毛細血管などの血液が、吸角などで吸い出されてきていると考えられていましたが、その付近のファッシア内の液体も混在して「瘀血」として吸い出されてきている可能性が高い、ということです。
毛細血管がそれほど多く存在するとは思えない部位において、刺絡によりたくさんの瘀血が得られるということは珍しくありませんでした。ところが、こうした事実を見ていない医師などに説明すると「血管がなければそこまで出るはずがない」という議論がたびたびなされたこともありました。しかし、ファッシア内という従来想定されていない液体プールが存在しているとすれば、そのくらいの流出量は説明できます。
また一定量の放血後に、再度、吸い出すことが困難になるという事実も、こうしたメカニズムを示唆していると考えらえます。つまり「瘀血」といわれるものは、毛細血管等におけるうっ血した血液に加え、ファッシア内部の液体(プレリンパとも呼ばれる)が混ざったもの(そして当然少量のリンパ液も混在する)と考えれるのではないでしょうか。
であれば、瘀血成分として局所の炎症所見を反映してグロブリン量が多いことや、瘀血の強い所見を有するところでは「どす黒い」瘀血が得られ、それほどでない場所では「さらりとしたやや明るい色」の瘀血が吸い取られることの説明にもつながります。
また、現在あまり確定的に説明されていない、ハイドロリリースのエコーにおける目標所見である「ファッシア重積」の所見の形成理由も説明できます。つまり毛細血管から漏出した炎症物質であるグロブリン等が、ファッシア内部を通過時に停滞して、癒着所見を作ってしまうというモデルが想定されるわけです。
それゆえに、従来「瘀血」と称される病理所見は、血液+ファッシア内液(+少量のリンパ液)により形成される可能性が高く、いわゆる瘀血という血管の鬱滞所見のみではなく、周辺のファッシアの変性もあわせて病態として理解する必要があるということなのです。
これらは実験的な考察ではありませんが、これまでの15年に及ぶ臨床での刺絡治療の中で生じた現象の説明としては、こうしたメカニズムが今のところ、最も腑に落ちるモデルであるように感じます。
こうしたミクロのモデルを想定して、以後のファッシア瘀血学を進めていきたいと思います。
ファッシアは、2018年3月のNewsweekによって、ヒトにおける最大の器官が発見されたという記事が掲載され、従来は結合組織(これもファッシアである)とされたものが、体液を満たして相互に連結している新たな器官であるという報告がされました。
まさにこれは、かつての「筋膜」というイメージではとらえられない組織像で、線維の網目構造を内側から裏打ちするように細胞がはりつき、その内腔を液体が流れるというものでした。さらにその液体は、共焦点レーザー内視鏡により、血管よりも遅延して試薬が映し出され、さらにはそれがリンパとほぼ同時であったということが分かったそうです(医道の日本 2018年6月pp140-2)。
つまり血管とリンパ、従来はその間隙であると思われたところに連結システムが存在していたということが分かったわけです。これがまさにファッシアです。
広範なファッシアという概念の機能がこれに限定されるわけではありませんが、生きている組織のみでしか確認できない脈管系といえるでしょう。
これに瘀血のシステムを考慮すると、細絡などミクロのレベルでの血液の鬱滞や毛細血管の蛇行、さらには三日月湖状態にまで至るような蛇行や鬱滞などが、刺絡によって破壊されるのですが、その時に同時に、このファッシア内の液体も漏れ出してくるのではないでしょうか。
つまり従来は、こうした鬱滞した毛細血管などの血液が、吸角などで吸い出されてきていると考えられていましたが、その付近のファッシア内の液体も混在して「瘀血」として吸い出されてきている可能性が高い、ということです。
毛細血管がそれほど多く存在するとは思えない部位において、刺絡によりたくさんの瘀血が得られるということは珍しくありませんでした。ところが、こうした事実を見ていない医師などに説明すると「血管がなければそこまで出るはずがない」という議論がたびたびなされたこともありました。しかし、ファッシア内という従来想定されていない液体プールが存在しているとすれば、そのくらいの流出量は説明できます。
また一定量の放血後に、再度、吸い出すことが困難になるという事実も、こうしたメカニズムを示唆していると考えらえます。つまり「瘀血」といわれるものは、毛細血管等におけるうっ血した血液に加え、ファッシア内部の液体(プレリンパとも呼ばれる)が混ざったもの(そして当然少量のリンパ液も混在する)と考えれるのではないでしょうか。
であれば、瘀血成分として局所の炎症所見を反映してグロブリン量が多いことや、瘀血の強い所見を有するところでは「どす黒い」瘀血が得られ、それほどでない場所では「さらりとしたやや明るい色」の瘀血が吸い取られることの説明にもつながります。
また、現在あまり確定的に説明されていない、ハイドロリリースのエコーにおける目標所見である「ファッシア重積」の所見の形成理由も説明できます。つまり毛細血管から漏出した炎症物質であるグロブリン等が、ファッシア内部を通過時に停滞して、癒着所見を作ってしまうというモデルが想定されるわけです。
それゆえに、従来「瘀血」と称される病理所見は、血液+ファッシア内液(+少量のリンパ液)により形成される可能性が高く、いわゆる瘀血という血管の鬱滞所見のみではなく、周辺のファッシアの変性もあわせて病態として理解する必要があるということなのです。
これらは実験的な考察ではありませんが、これまでの15年に及ぶ臨床での刺絡治療の中で生じた現象の説明としては、こうしたメカニズムが今のところ、最も腑に落ちるモデルであるように感じます。
こうしたミクロのモデルを想定して、以後のファッシア瘀血学を進めていきたいと思います。
tougouiryo at 2021年02月24日00:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(4)経方理論との関連
なぜ「ファッシア瘀血」を考えるのか、を前回は述べました。刺絡のメカニズム解明について、この概念は極めて有効であることに加え、いくつもの施術系の代替医療分野での、理論的にあいまいな部分に、現代医療との接点をもたらすという意義は、極めて大きいと思います。
漢方理論に、というより「傷寒論」という古典の読解に、革命的な解釈をもたらした「経方理論」の解釈においてもこれは同様です。つまり内部臓器の気の流れと、外部表皮での気の流れがどのようにリンクするかということをダイナミックに記載したのが、この理論の最大の面白さなのですが、そこにファッシアを仲介させることでさらにこの理論の整合性が強まるように思います。つまり経方理論に、その物質的基礎を付与することができるわけです。
経方理論は、名医別録を基盤とした生薬の「ベクトル性」の展開を、独自の気の流れを示す生理機能図に落とし込むことで、傷寒論の理論的枠組みの下で、漢方処方を自在に展開できることが最大の特徴です。
つまりこうした薬剤の有するベクトル性こそが、この理論のキモなのですが、その背景を成す気の流れの生理図も、提唱者である江部先生独自の腹診や脈診に連携するものなので、これまた非常に重要です。
この「気の流れ」においてひときわ独自性が高いのが、従来あまり重要視されていなかった「隔」という概念です。
解剖学的には横隔膜とほぼ同じ概念なのですが、機能としては、マクロにもミクロにも「気」の出入りに関わる重要な臓器です。
つまり、気の出入りを担当する「隔」と、その上下にあって気の上げ下げを担当する「胸・心下」がキモとなり、それらの機能の相似形のようになり、体表面での気の流れを説明しています。(江部先生はこれをおそらく東洋医学的なフラクタル概念で、直観的に説明しているのですが、この理論的な跳躍もファッシアの概念を用いれば、比較的簡単に解剖的な説明が可能です)
この体表面での気の流れに関しては、体表を「皮」と「肌」の二層に分け、その間に「膜」を置き、これらを貫通する形で「腠理(そうり)」があるという構造が仮定されます。
「皮」は現代医療的には、いわゆる表皮と真皮における乳頭層に相当し、「肌」はそれ以下の真皮つまり網状層と皮下組織(脂肪層)に相当する考えてよさそうです。
そうすると、経方理論における「肌」の概念が、ほぼ「ファッシア」に相当すると考えてよさそうです。となると「膜」はさしずめ、網状層における膠原線維束(皮革製品として使われる部位)といえるのではないでしょうか。(当然これはファッシアを介して隔と連続しています)
「ファッシア」と「肌」とを比較するメリットは、その臨床応用にあります。これまでの流れであれば、整形的な痛みの発痛源として、その解剖学的位置が問題になっていましたが、経方理論に関連付けることにより、傷寒論をベースにした漢方処方への展開も可能になります。
つまり脾胃と直接関連付けられ(心肺ではなく)、腹診における「心下」に着目することが可能になります。(このあたりは経方理論における臓腑関連図を参照してください)
さらには、心下の下部に位置する腸間膜領域を、寺澤先生の述べられるように「三焦」として考えると、ファッシアと三焦との密接なつながりが、ダニエル・キーオン氏の『閃く経絡』とまた違った観点からみることもできます。(同書における「三焦」の胸腹全体像との関連とみるよりも、「腹腔」全体として考える方が、古典的にも整然と理解されるように思います)
つまり、三焦をファッシアとして捉えるよりは、寺澤説によると、腹部の一塊となった「腸間膜」と考えるということになります。つまり三焦と心膜(心臓も含む)が対になるわけです。
そしてこの間を隔てるのが「隔」ということになります。当然、隔は呼吸によって動く、つまり気の出入りを司ることになります。これは空気の出入りだけでなく、呼吸運動により、胸腔と腹腔という二つのファッシアに囲まれた閉鎖空間が、内圧を変えながら動くことになり、これに伴い、内外の物質やエネルギーの移動も行われることになります。
この時の、動きにくさや渋滞ポイントが、胸腹診などにより圧痛や硬結として認められ、一部典型的なものが漢方処方の目標所見となります。
こうした生体観に基づいて、ベクトル性を有する生薬によって処方組み立てをするのが、経方医学の姿であると見ることもできます。
したがって経方医学は、ファッシアと漢方処方とのまだ見ぬリンクをつなげてくれる理論となりうる、と思うのです。ファッシア臨床における「経方医学」の重要性を、あらためて感じる次第です。
(本記事は『経方医学』に関するある程度の理解が前提になっておりますので、詳細を知らない方には???となってしまいます、申し訳ございません。ご興味ある方はとりわけ第1巻が重要です。ここでの解説は第1巻を読めば理解できると思いますので、関心のある方は是非、御一読を。)
漢方理論に、というより「傷寒論」という古典の読解に、革命的な解釈をもたらした「経方理論」の解釈においてもこれは同様です。つまり内部臓器の気の流れと、外部表皮での気の流れがどのようにリンクするかということをダイナミックに記載したのが、この理論の最大の面白さなのですが、そこにファッシアを仲介させることでさらにこの理論の整合性が強まるように思います。つまり経方理論に、その物質的基礎を付与することができるわけです。
経方理論は、名医別録を基盤とした生薬の「ベクトル性」の展開を、独自の気の流れを示す生理機能図に落とし込むことで、傷寒論の理論的枠組みの下で、漢方処方を自在に展開できることが最大の特徴です。
つまりこうした薬剤の有するベクトル性こそが、この理論のキモなのですが、その背景を成す気の流れの生理図も、提唱者である江部先生独自の腹診や脈診に連携するものなので、これまた非常に重要です。
この「気の流れ」においてひときわ独自性が高いのが、従来あまり重要視されていなかった「隔」という概念です。
解剖学的には横隔膜とほぼ同じ概念なのですが、機能としては、マクロにもミクロにも「気」の出入りに関わる重要な臓器です。
つまり、気の出入りを担当する「隔」と、その上下にあって気の上げ下げを担当する「胸・心下」がキモとなり、それらの機能の相似形のようになり、体表面での気の流れを説明しています。(江部先生はこれをおそらく東洋医学的なフラクタル概念で、直観的に説明しているのですが、この理論的な跳躍もファッシアの概念を用いれば、比較的簡単に解剖的な説明が可能です)
この体表面での気の流れに関しては、体表を「皮」と「肌」の二層に分け、その間に「膜」を置き、これらを貫通する形で「腠理(そうり)」があるという構造が仮定されます。
「皮」は現代医療的には、いわゆる表皮と真皮における乳頭層に相当し、「肌」はそれ以下の真皮つまり網状層と皮下組織(脂肪層)に相当する考えてよさそうです。
そうすると、経方理論における「肌」の概念が、ほぼ「ファッシア」に相当すると考えてよさそうです。となると「膜」はさしずめ、網状層における膠原線維束(皮革製品として使われる部位)といえるのではないでしょうか。(当然これはファッシアを介して隔と連続しています)
「ファッシア」と「肌」とを比較するメリットは、その臨床応用にあります。これまでの流れであれば、整形的な痛みの発痛源として、その解剖学的位置が問題になっていましたが、経方理論に関連付けることにより、傷寒論をベースにした漢方処方への展開も可能になります。
つまり脾胃と直接関連付けられ(心肺ではなく)、腹診における「心下」に着目することが可能になります。(このあたりは経方理論における臓腑関連図を参照してください)
さらには、心下の下部に位置する腸間膜領域を、寺澤先生の述べられるように「三焦」として考えると、ファッシアと三焦との密接なつながりが、ダニエル・キーオン氏の『閃く経絡』とまた違った観点からみることもできます。(同書における「三焦」の胸腹全体像との関連とみるよりも、「腹腔」全体として考える方が、古典的にも整然と理解されるように思います)
つまり、三焦をファッシアとして捉えるよりは、寺澤説によると、腹部の一塊となった「腸間膜」と考えるということになります。つまり三焦と心膜(心臓も含む)が対になるわけです。
そしてこの間を隔てるのが「隔」ということになります。当然、隔は呼吸によって動く、つまり気の出入りを司ることになります。これは空気の出入りだけでなく、呼吸運動により、胸腔と腹腔という二つのファッシアに囲まれた閉鎖空間が、内圧を変えながら動くことになり、これに伴い、内外の物質やエネルギーの移動も行われることになります。
この時の、動きにくさや渋滞ポイントが、胸腹診などにより圧痛や硬結として認められ、一部典型的なものが漢方処方の目標所見となります。
こうした生体観に基づいて、ベクトル性を有する生薬によって処方組み立てをするのが、経方医学の姿であると見ることもできます。
したがって経方医学は、ファッシアと漢方処方とのまだ見ぬリンクをつなげてくれる理論となりうる、と思うのです。ファッシア臨床における「経方医学」の重要性を、あらためて感じる次第です。
(本記事は『経方医学』に関するある程度の理解が前提になっておりますので、詳細を知らない方には???となってしまいます、申し訳ございません。ご興味ある方はとりわけ第1巻が重要です。ここでの解説は第1巻を読めば理解できると思いますので、関心のある方は是非、御一読を。)
tougouiryo at 2021年02月22日05:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(3)なぜファッシア瘀血を考えるのか?
前回までの(1)と(2)では、以前書いた原稿に加筆したような感じの記事でしたので、ファッシアと臓器の連携や、ファッシアの系統的な考え、さらには三木成夫の解剖学との関連などを書いてきたので、ファッシアの基本的なことや、何故、ファッシアなのかというような根本的な問題を飛ばしていたので理解しにくい面もあったと思います。
今回は、そもそもの「ファッシア瘀血」とはどのような概念で、どうして思いついたのか、ということを書いてみたいと思います。
このきっかけとなったのは、やはり「刺絡」の臨床です。当院の刺絡治療は、学生の頃教えて頂いた漢方の大家、小川新先生が、日本瘀血学会の牽引役で、その臨床を見学させて頂いた折、漢方の瘀血治療に加え、刺絡をされていたことがきっかけです。
その後、東京女子医大での統合医療外来において、当時、大ブームだった安保理論による自律神経免疫学を基盤とした「刺絡」を、当時の講師だった班目健夫先生とともに担当させて頂いたのが、現在の形の大本となりました。当時、いわゆる安保ブームでしたので、班目先生の刺絡外来は予約待ちで一杯の状況で、その多くの初診を分担するというのが私の役割でした。
その後、現在の統合医療クリニックでの開業となり、当時の患者さんが継続して受診して頂いたため、クリニックでのメインの治療法の一つとなっていきました。
こうして女子医大時代から数えると15年以上、刺絡を続けている中で、具体的な技法は少しずつ変化し、現在の形式になっていきました。
小川先生による漢方の補完的な治療、班目先生による安保理論をベースとした自律神経と免疫の調整、刺絡学会における鍼灸の標準的な方法、工藤・浅見両先生の著作から学んだ方法、いろいろな考え方や方法論が混じったものが現在の基本です。
ただこうした方法論を駆使しても、なかなか改善しにくい病態や損傷というものはあるもので、そこへの改善策を抜本的に形成したという思いを常に持ってきました。こうしてできてきたのが「ファッシア瘀血」の概念です。近年のファッシア論の高まりにより、これまで理論的に解明できなかったことが、かなり見通せるようになってきたように思います。
まず、首や肩の凝りや痛みは、刺絡が劇的に効果を及ぼします。それに対して、臀部の深層の痛み、中殿筋や梨状筋付近の痛みは、深さがあるので刺絡とその後の吸角でも患部まで陰圧が届きません。それゆえ、十分に瘀血を除去することが出来ず、痛みの回復が不十分でした。
そうした時に知ったのが「エコー下ハイドロリリース」でした。これまでも、いわゆる筋膜リリースやトリガーポイントなどは知ってはいたのですが、刺絡の効果で十分でしたので、積極的には取り入れてはいませんでした。しかしこれはエコーにより幹部が描出され、ピンポイントに治療が可能であるというのが最大の魅力でした。
そしてここで描出されるのが、いわゆるファッシアの重積やひきつれというものです。おそらく機序からすると、グロブリンなどの粘着性の強い液体によりファッシアがへばりついてしまった、と考えられそうです。
では、そうしたグロブリンはどこから来たのか。どうしてファッシアがへばりついてしまうのだろうか。こうした疑問には、現在のファッシア関連の著作は言及していません。これこそが瘀血ではないだろうかと推測しています。
瘀血の病態は、様々な解釈が可能ですが、血液粘性の増大、動脈硬化の進行などに加え、毛細血管床において「三日月湖」状態の淀みが形成されてくることも大きく関与しています。上馬場先生らの研究結果から、細絡の瘀血の生化学分析によると、通常の血清と比べてグロブリンの含有量が多いことが分かっていますので、ここからの漏れ出しと考えることが妥当です。つまり瘀血の形成されているポイントにおいて、ファッシアのひきつれや重積が起こりやすいと考えられるわけです。
そしてこれは井穴刺絡の説明にも展開できます。経絡をファッシアの引張と考えると、その末端での「ピン留め」にあたるのが井穴となります。そこでの物理的なひきつれの元、もしくはそこから発生する炎症ないしは発痛物質の源と考えると、そこから延びる経絡に大きく影響を与えることが分かります。
当然、そこからわずかでもひきつれや発痛物質を除去することができれば、所属する経絡全体の症状改善につながります。これが井穴刺絡の本体と考えられるわけです。
ハイドロリリースの講習会などに参加すると、講師の先生方はそろって即時的な効果発現への驚きを語られます。これまでの整形外科的な治療法にないその即効性に、昂りながら強調されるのです。
これは通常の医師があまりそうした効果を信じないから、というのもあるでしょうが、刺絡療法をしている者からすると、刺絡による効果を初めて見たときの感想に極めて似ていると感じられました。つまり、同様の劇的な効果が認められるということになります。こうしたことからも、その機序における共通性というものが示唆されるのではないでしょうか。
そうした機序を想定できる根拠はいくつかあるのですが、その一つが、刺絡をしてからハイドロリリースをすると極めて効果が高いのに、ハイドロリリースしてから刺絡をするとそれほどでもないという臨床的な事実があります。
つまり局所において、発痛物質を除去してから、生理的食塩水で薄めて滑りを良くするとと高い効果を得られるのですが、反対だと、滑走を良くする水分が吸引されてしまうため、発痛物質の希薄化ができるものの、滑走が悪くなるため効果が極めて減弱するわけです。
今回は臨床的な話題を多く述べましたが、これらの経験がベースとなってファッシア重積に瘀血が関連する「ファッシア瘀血」により形成される病態がはっきりしてきました。これらはファッシアの性質上、単発の専門的な施術方法ではなく、複数の方法論の「交叉」から初めて見えてくる事象です。
こうした事柄への考察を、これからこの「臨床ファッシア瘀血学」では考えていこうと思います。
今回は、そもそもの「ファッシア瘀血」とはどのような概念で、どうして思いついたのか、ということを書いてみたいと思います。
このきっかけとなったのは、やはり「刺絡」の臨床です。当院の刺絡治療は、学生の頃教えて頂いた漢方の大家、小川新先生が、日本瘀血学会の牽引役で、その臨床を見学させて頂いた折、漢方の瘀血治療に加え、刺絡をされていたことがきっかけです。
その後、東京女子医大での統合医療外来において、当時、大ブームだった安保理論による自律神経免疫学を基盤とした「刺絡」を、当時の講師だった班目健夫先生とともに担当させて頂いたのが、現在の形の大本となりました。当時、いわゆる安保ブームでしたので、班目先生の刺絡外来は予約待ちで一杯の状況で、その多くの初診を分担するというのが私の役割でした。
その後、現在の統合医療クリニックでの開業となり、当時の患者さんが継続して受診して頂いたため、クリニックでのメインの治療法の一つとなっていきました。
こうして女子医大時代から数えると15年以上、刺絡を続けている中で、具体的な技法は少しずつ変化し、現在の形式になっていきました。
小川先生による漢方の補完的な治療、班目先生による安保理論をベースとした自律神経と免疫の調整、刺絡学会における鍼灸の標準的な方法、工藤・浅見両先生の著作から学んだ方法、いろいろな考え方や方法論が混じったものが現在の基本です。
ただこうした方法論を駆使しても、なかなか改善しにくい病態や損傷というものはあるもので、そこへの改善策を抜本的に形成したという思いを常に持ってきました。こうしてできてきたのが「ファッシア瘀血」の概念です。近年のファッシア論の高まりにより、これまで理論的に解明できなかったことが、かなり見通せるようになってきたように思います。
まず、首や肩の凝りや痛みは、刺絡が劇的に効果を及ぼします。それに対して、臀部の深層の痛み、中殿筋や梨状筋付近の痛みは、深さがあるので刺絡とその後の吸角でも患部まで陰圧が届きません。それゆえ、十分に瘀血を除去することが出来ず、痛みの回復が不十分でした。
そうした時に知ったのが「エコー下ハイドロリリース」でした。これまでも、いわゆる筋膜リリースやトリガーポイントなどは知ってはいたのですが、刺絡の効果で十分でしたので、積極的には取り入れてはいませんでした。しかしこれはエコーにより幹部が描出され、ピンポイントに治療が可能であるというのが最大の魅力でした。
そしてここで描出されるのが、いわゆるファッシアの重積やひきつれというものです。おそらく機序からすると、グロブリンなどの粘着性の強い液体によりファッシアがへばりついてしまった、と考えられそうです。
では、そうしたグロブリンはどこから来たのか。どうしてファッシアがへばりついてしまうのだろうか。こうした疑問には、現在のファッシア関連の著作は言及していません。これこそが瘀血ではないだろうかと推測しています。
瘀血の病態は、様々な解釈が可能ですが、血液粘性の増大、動脈硬化の進行などに加え、毛細血管床において「三日月湖」状態の淀みが形成されてくることも大きく関与しています。上馬場先生らの研究結果から、細絡の瘀血の生化学分析によると、通常の血清と比べてグロブリンの含有量が多いことが分かっていますので、ここからの漏れ出しと考えることが妥当です。つまり瘀血の形成されているポイントにおいて、ファッシアのひきつれや重積が起こりやすいと考えられるわけです。
そしてこれは井穴刺絡の説明にも展開できます。経絡をファッシアの引張と考えると、その末端での「ピン留め」にあたるのが井穴となります。そこでの物理的なひきつれの元、もしくはそこから発生する炎症ないしは発痛物質の源と考えると、そこから延びる経絡に大きく影響を与えることが分かります。
当然、そこからわずかでもひきつれや発痛物質を除去することができれば、所属する経絡全体の症状改善につながります。これが井穴刺絡の本体と考えられるわけです。
ハイドロリリースの講習会などに参加すると、講師の先生方はそろって即時的な効果発現への驚きを語られます。これまでの整形外科的な治療法にないその即効性に、昂りながら強調されるのです。
これは通常の医師があまりそうした効果を信じないから、というのもあるでしょうが、刺絡療法をしている者からすると、刺絡による効果を初めて見たときの感想に極めて似ていると感じられました。つまり、同様の劇的な効果が認められるということになります。こうしたことからも、その機序における共通性というものが示唆されるのではないでしょうか。
そうした機序を想定できる根拠はいくつかあるのですが、その一つが、刺絡をしてからハイドロリリースをすると極めて効果が高いのに、ハイドロリリースしてから刺絡をするとそれほどでもないという臨床的な事実があります。
つまり局所において、発痛物質を除去してから、生理的食塩水で薄めて滑りを良くするとと高い効果を得られるのですが、反対だと、滑走を良くする水分が吸引されてしまうため、発痛物質の希薄化ができるものの、滑走が悪くなるため効果が極めて減弱するわけです。
今回は臨床的な話題を多く述べましたが、これらの経験がベースとなってファッシア重積に瘀血が関連する「ファッシア瘀血」により形成される病態がはっきりしてきました。これらはファッシアの性質上、単発の専門的な施術方法ではなく、複数の方法論の「交叉」から初めて見えてくる事象です。
こうした事柄への考察を、これからこの「臨床ファッシア瘀血学」では考えていこうと思います。
tougouiryo at 2021年02月15日05:00|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(2)三木解剖学との関連
前回は、ただの結合組織や生体膜ではない、ひとつながりの意味を持つファッシアとしての理解をするために、各臓器との連続性、もしくは器官の連続性などから、主に「筋膜マニュピレーション」における理論を参考に解説しました。
今回は、そうした「ファッシア」の概念を三木成夫の解剖学と連携して考えてみたいと思います。こうしたファッシアの基本的概念の問題を考えてから、もう一つの重要な概念である「瘀血」を扱っていきたいと思います。
三木の著作(『ヒトのからだ』等)の総論において、アリストテレスの四階建ピラミッド(人・動物・植物・四大)が解説されていますが、この中でプシケのあるもの(生物)とないもの(無生物・四大)ということで、西洋では完全に壁によって隔てられているとされています。
そして現代医学では、ここでいう生物でさえも、次第に「生」が失われ無生物化しつつあると警鐘を鳴らしています。(解剖学が骨学からはじまるのはそのためだと三木は述べています)
対して東洋では、この壁が取り払われ、同一線上に並べる思想(陰陽五行説)により、すべての要素が「生」を保っているといいます。
ここに三木が東洋医学を礼賛する理由があるのでしょうが(晩年の三木は鍼灸師の資格を取ろうとしていたという発言もあります)、これを解剖学的な構造に結び付けることも可能に思います。それが「ファッシア」の概念です。
当時の解剖学としては、まさに「除去すべきもの」だったファッシアが、こうした論の流れに登場するというのは、著者の三木にとっても意外に感じられるのではないでしょうか。
動物系は、「感覚ー実施」という神経を基盤にした、いわば電気信号ベースの情報です。そして植物系は、食物から得られる栄養素、つまり化学物質といえる物質です。では四大のところは何か。それはまさに、物理的な「力」です。つまり、押されたら、その圧力(剪断力、張力)など力学的な力が、その内部に伝わります。これは生物でもそうでなくても、共通です。その意味で、無生物としての生物への影響となります。こうした力学的影響を伝達するのが「ファッシア」であるのはいうまでもありません。
つまり「皮膚ーファッシアー内蔵(これは内部臓器に限らず筋肉などいわば「内蔵」されたもの全て)」の伝達路により、外側から内側への情報の流れとなります。これの仮想的なルートが「経絡」となるわけですし、整体やカイロ、あらゆる徒手技法の基本となりうるものです。
それゆえに三木の言う中心的な役割のものとしては、動物系の神経系、植物系の循環系、さらにその基盤にファッシア系があると位置づけられます。この観点で、三木解剖学を読み返すとまた新たな解釈が可能ですが、ここではとりあえず、ここで議論を止めます。
こうした見方は、人体における信号伝達システムとして捉えることもできます。神経・脈管・ファッシアの3つのシステムです。
これら3つに関しては、『アナトミートレイン』においては、理性・感情・信念の3つに対応するのではないかと解説されています。ファッシアは特に空間における身体の感覚を表しており、身体観に大きな影響を与えています。神経・脈管・ファッシアの3システムの相違などを考慮しながら、今後このあたりを深堀りしていきたいと思います。
今回は、そうした「ファッシア」の概念を三木成夫の解剖学と連携して考えてみたいと思います。こうしたファッシアの基本的概念の問題を考えてから、もう一つの重要な概念である「瘀血」を扱っていきたいと思います。
三木の著作(『ヒトのからだ』等)の総論において、アリストテレスの四階建ピラミッド(人・動物・植物・四大)が解説されていますが、この中でプシケのあるもの(生物)とないもの(無生物・四大)ということで、西洋では完全に壁によって隔てられているとされています。
そして現代医学では、ここでいう生物でさえも、次第に「生」が失われ無生物化しつつあると警鐘を鳴らしています。(解剖学が骨学からはじまるのはそのためだと三木は述べています)
対して東洋では、この壁が取り払われ、同一線上に並べる思想(陰陽五行説)により、すべての要素が「生」を保っているといいます。
ここに三木が東洋医学を礼賛する理由があるのでしょうが(晩年の三木は鍼灸師の資格を取ろうとしていたという発言もあります)、これを解剖学的な構造に結び付けることも可能に思います。それが「ファッシア」の概念です。
当時の解剖学としては、まさに「除去すべきもの」だったファッシアが、こうした論の流れに登場するというのは、著者の三木にとっても意外に感じられるのではないでしょうか。
動物系は、「感覚ー実施」という神経を基盤にした、いわば電気信号ベースの情報です。そして植物系は、食物から得られる栄養素、つまり化学物質といえる物質です。では四大のところは何か。それはまさに、物理的な「力」です。つまり、押されたら、その圧力(剪断力、張力)など力学的な力が、その内部に伝わります。これは生物でもそうでなくても、共通です。その意味で、無生物としての生物への影響となります。こうした力学的影響を伝達するのが「ファッシア」であるのはいうまでもありません。
つまり「皮膚ーファッシアー内蔵(これは内部臓器に限らず筋肉などいわば「内蔵」されたもの全て)」の伝達路により、外側から内側への情報の流れとなります。これの仮想的なルートが「経絡」となるわけですし、整体やカイロ、あらゆる徒手技法の基本となりうるものです。
それゆえに三木の言う中心的な役割のものとしては、動物系の神経系、植物系の循環系、さらにその基盤にファッシア系があると位置づけられます。この観点で、三木解剖学を読み返すとまた新たな解釈が可能ですが、ここではとりあえず、ここで議論を止めます。
こうした見方は、人体における信号伝達システムとして捉えることもできます。神経・脈管・ファッシアの3つのシステムです。
これら3つに関しては、『アナトミートレイン』においては、理性・感情・信念の3つに対応するのではないかと解説されています。ファッシアは特に空間における身体の感覚を表しており、身体観に大きな影響を与えています。神経・脈管・ファッシアの3システムの相違などを考慮しながら、今後このあたりを深堀りしていきたいと思います。
tougouiryo at 2021年02月08日05:00|この記事のURL│Comments(0)
ファッシアについての備忘録
今「臨床ファッシア瘀血学」の原稿を少しずつ書き溜めているところなのですが、そうすると普段より「ファッシア」について考える時間も増えてくるので、またいろいろな着想が得られています。ファッシア瘀血学は(2)以降もなるべく毎週月曜日にアップしていこうと思うのですが、その着想的なことを少しメモしていきたいと思います。
ファッシアは、皮膚と筋肉の間や、各臓器の連携、またミクロでは細胞ひとつひとつの間隙を埋める細胞外マトリックスなどを含む大きな概念です。」そのため、意味するところはかなり多様なのですが、特に皮下のファッシアについては、アナトミートレインなどで明示されているように、ほぼ経絡と解釈しうる特徴を持っています。これはまさに「経絡ファッシア論」と称しても良いものではないかと思います。
ファッシア線維が引きのばされることで、そこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。
この辺りはマクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、保江先生の量子医学的な見地から「結合水」を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファッシアと量子論との接点となります。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用した「レメディ」の使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファッシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。
加えて鍼灸分野ではありますが、「刺絡」の特殊性を考えるうえでも独自の視点を提供するように思います。またサプリを含めた栄養の面からも、ファッシアへの影響は大きいことが推測されますし、とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファッシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファッシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。具体的には後日ご紹介しますが、呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るように感じています。
そしてなによりこのファッシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来る可能性にあるのです。
備忘録的な目的で、概略をメモしただけなので分かりにくいのですが、ご興味ある方は、直接お聞きください。ファッシア瘀血学、これからぼちぼち書き進む予定ですので、よろしくどうぞ。
ファッシアは、皮膚と筋肉の間や、各臓器の連携、またミクロでは細胞ひとつひとつの間隙を埋める細胞外マトリックスなどを含む大きな概念です。」そのため、意味するところはかなり多様なのですが、特に皮下のファッシアについては、アナトミートレインなどで明示されているように、ほぼ経絡と解釈しうる特徴を持っています。これはまさに「経絡ファッシア論」と称しても良いものではないかと思います。
ファッシア線維が引きのばされることで、そこに電子の流れが形成しうるというもので、それが「気」の本体ではないかとするものです。
この辺りはマクロに引張されたときに限らず、ごくわずかな刺激が加わった場合でも、保江先生の量子医学的な見地から「結合水」を介して、情報が伝達しうるとも考えられます。まさにファッシアと量子論との接点となります。
ここからさらに推論していくと、ホメオパシーとの関連性も示唆されてきます。つまり、ホメオパシーを秩序化された水分子を利用した「レメディ」の使用と考えると、いわば最適なレメディこそが、このファッシア上の結合水を理想的な状態に導くとも考えられます。
この理論展開は、鍼とホメオパシーのミッシングリンクを解明するうえでも非常に興味深い視点を与えると思います。
加えて鍼灸分野ではありますが、「刺絡」の特殊性を考えるうえでも独自の視点を提供するように思います。またサプリを含めた栄養の面からも、ファッシアへの影響は大きいことが推測されますし、とりわけビタミンCとの関連は、大量投与の場合も含めて、より密接な関係もありそうに思います。
またこのファッシア論の一つの魅力は、漢方などを中心とした東洋医学的な診察方法にも大きく関連していそうなこともあります。
特に「腹診」「背診」などは、これなしには考えられないように思いますし、漢方処方の決め手となる腹診所見なども、ファッシアの関連で考えていくと、新たな視点が得られるように思います。現在、とりわけ、柴胡剤の使用目標となる胸脇苦満などの肋骨弓下の硬さなどについては、ファッシアからの視点で、徒手的にかなり改善し、結果として漢方使用時に匹敵するような臨床的な感覚もあります。具体的には後日ご紹介しますが、呼吸法とファッシアへのマッサージを併用することで、大きな変化を与えることが出来るように感じています。
そしてなによりこのファッシア概念の面白さは、統合医療の幅広い各論を、一つの軸によって論じることが出来る可能性にあるのです。
備忘録的な目的で、概略をメモしただけなので分かりにくいのですが、ご興味ある方は、直接お聞きください。ファッシア瘀血学、これからぼちぼち書き進む予定ですので、よろしくどうぞ。
tougouiryo at 2021年02月03日20:17|この記事のURL│Comments(0)
臨床ファッシア瘀血学(1)ファッシアの単位・配列・系
これまで「刺絡」という治療方法を中心に臨床を行ってきました。通常の鍼灸とは少し異なりますが、鍼よりもおそらく歴史的には古く、原初的な方法論といっても良いかもしれません。ところが実際の臨床においては、いわゆる鍼とは一線を画した方法論といえそうです。単純に出血を伴うということだけではなく、そこには何か身体への直接の働きかけがあるように思うのです。
そうした中で、これまで臨床において刺絡を通していろいろと考えてきたことを、まとめてみたいと思います。具体的には「ファッシア」と「瘀血」という二つのキーワードの交差するところの問題でもあり、「ファッシアにおける瘀血」としての問題でもあります。この二つの視点から、かなり独特な視点から考えてみたいと思います。ファッシアは、その本当の意義としては現代医療と鍼灸との架橋的な役割を強く持つでしょうし、瘀血は同様に現代医療と東洋医学概念との架橋でもあります。かつて私の師匠の小川新先生が瘀血学会を立ち上げた理由として、東洋医学の概念の中で現代医療に直接的に影響する概念が瘀血だというようなことをおっしゃっておられました。その意味でも、瘀血の新しい解釈の一つとしても「ファッシア瘀血」を考えていきたいと思います。
まずは、経絡との交差点であるファッシアに関しての基本的な話題から述べていきたいと思います。
Carla Steccoの『筋膜マニュピレーション』では、ファッシア(筋膜)の基本原理として、「o-f(臓器筋膜)単位」、「a-f(器官筋膜)配列」、「システム(系)」、の3つに分けて考えていました。
このうち「o-f単位」は、臓器単独の筋膜との関係性で、張力棒でシートを広げたような「引張構造」を基盤とし、局所的な関連痛の説明として用いられていました。
いわば臓器による局所的な筋膜への影響です。体幹部を、頸部、胸部、腰部、骨盤部の4つの腔に分け、そこに引張構造で吊るされた臓器があるため、局所的な症状を及ぼすというわけです。
ここではさらに、交感神経、副交感神経の腸内システムとして、各臓器における神経叢単独の影響も示しています。つまりこれは腸神経として、中枢とは別に独自に作用する系でもあり、後に交感・副交感との連絡を持つようになるというわけです。この視点は従来の自律神経の解説ではあまりみないところでもあります。
次は、こうした「単位」の考えを受けて、ファッシアの連なりとしての「配列」です。配列は、内臓配列、血管配列、腺配列、受容器配列から成り立っています。モデルとして、金門橋のような橋げたを有する吊り橋構造の「懸垂線(カテナリー)」を基盤として説明されます。
この配列の考えは、遠位の関連痛を説明する概念として用いられています。この概念は、あきらかに経絡との整合性を意識したものだと思います。なので、逆に言えば、経絡的な(鍼灸的な)理解で良い、とも言えるでしょう。無理にカテナリー的な概念を入れなくても(入れてもそれほど難しくはないのですが)経絡への負荷という視点からでも理解できるように思います。また、経絡の概念が、思っている以上に西洋医学的に理解できるので結構すっきりします。また腹診や背診のダイナミックな理解も可能にしてくれるのではないでしょうか。
そして3つ目が「システム(系)」です。幅広く浅筋膜全般における関連を示しており、具体的には免疫系、代謝系、体温調節(皮膚)系、心因系とざっくりと分類されます。解剖学的には、皮下組織として括られる場で、皮膚構造そのものを扱ってもいるので、3つの中では一番分かり易いのではないでしょうか。
これらの3つは診察のポイントとしても分かり易く、ファッシアを意識した診療がやりやすくなりそうです。
これらのファッシア的な視点によって、自律神経全般を考えなおす良い機会にもなります。つまりファッシアが内臓への影響を及ぼすとすると、その理論的な基盤は、皮膚や血管を基礎にした交感神経系が重要になります。
つまりファッシアは交感神経を介して、神経節から内臓に影響することになります。その神経節がただの交感神経のシナプス交換の場だけでなく、いわば小さな脳として機能するというのです。つまり筋骨格系における筋紡錘の役割として考えることができます。
当然、従来の自律神経のテキストにはそうした説明はありませんから、これまでとは違った斬新な自律神経に関する解釈を必要とします。
自律神経の特徴としても有名な相互に拮抗的な二重支配的視点は、自律神経系において本質ではないとする立場があります。確かに、従来の自律神経の解釈を変更することで、よりファッシアの臓器への影響を記述しやすくなるでしょう。
こうした自律神経についての考え方の変更は、ファッシアの分野に限らず、話題になったもので言うと「ポリヴェーガル理論」などが代表的ではないでしょうか。これまでの交感・副交感のシーソー的関連ではなく、迷走神経を有髄と無髄とに分類し、不動化などのいわばマイナス的なものを「背側」とし、社会性を有するものを「腹側」とするという理論です。これにより、これまでの副交感によるマイナス面の解釈が分かりやすく、より臨床に適合したものとなりました。
これらの例からも分かるように、これまでの自律神経の説明には、臨床的な無理が目立つようになってきたように思います。シーソー的な拮抗関係は説明としてはスマートなものの、あまりに臨床的な例外が多く、実臨床を行うものとしては不便といわざるをえません。それでも学生向けの教育などでは、分かり易いなどの長所も多いので、これからもある程度は継続していくのでしょうが、実際には、大きな概念のモデルチェンジが必要になりそうです。
これは物理学における古典力学と量子力学的な関係に近いのかもしれません。こうした例からも「分かり易いモデル」というのはそれだけで大きな「盲点」を生み出しやすいということが分かりますね。
ファッシア瘀血の基盤を成す、ファッシアの基礎的な関係性について考えてみました。
そうした中で、これまで臨床において刺絡を通していろいろと考えてきたことを、まとめてみたいと思います。具体的には「ファッシア」と「瘀血」という二つのキーワードの交差するところの問題でもあり、「ファッシアにおける瘀血」としての問題でもあります。この二つの視点から、かなり独特な視点から考えてみたいと思います。ファッシアは、その本当の意義としては現代医療と鍼灸との架橋的な役割を強く持つでしょうし、瘀血は同様に現代医療と東洋医学概念との架橋でもあります。かつて私の師匠の小川新先生が瘀血学会を立ち上げた理由として、東洋医学の概念の中で現代医療に直接的に影響する概念が瘀血だというようなことをおっしゃっておられました。その意味でも、瘀血の新しい解釈の一つとしても「ファッシア瘀血」を考えていきたいと思います。
まずは、経絡との交差点であるファッシアに関しての基本的な話題から述べていきたいと思います。
Carla Steccoの『筋膜マニュピレーション』では、ファッシア(筋膜)の基本原理として、「o-f(臓器筋膜)単位」、「a-f(器官筋膜)配列」、「システム(系)」、の3つに分けて考えていました。
このうち「o-f単位」は、臓器単独の筋膜との関係性で、張力棒でシートを広げたような「引張構造」を基盤とし、局所的な関連痛の説明として用いられていました。
いわば臓器による局所的な筋膜への影響です。体幹部を、頸部、胸部、腰部、骨盤部の4つの腔に分け、そこに引張構造で吊るされた臓器があるため、局所的な症状を及ぼすというわけです。
ここではさらに、交感神経、副交感神経の腸内システムとして、各臓器における神経叢単独の影響も示しています。つまりこれは腸神経として、中枢とは別に独自に作用する系でもあり、後に交感・副交感との連絡を持つようになるというわけです。この視点は従来の自律神経の解説ではあまりみないところでもあります。
次は、こうした「単位」の考えを受けて、ファッシアの連なりとしての「配列」です。配列は、内臓配列、血管配列、腺配列、受容器配列から成り立っています。モデルとして、金門橋のような橋げたを有する吊り橋構造の「懸垂線(カテナリー)」を基盤として説明されます。
この配列の考えは、遠位の関連痛を説明する概念として用いられています。この概念は、あきらかに経絡との整合性を意識したものだと思います。なので、逆に言えば、経絡的な(鍼灸的な)理解で良い、とも言えるでしょう。無理にカテナリー的な概念を入れなくても(入れてもそれほど難しくはないのですが)経絡への負荷という視点からでも理解できるように思います。また、経絡の概念が、思っている以上に西洋医学的に理解できるので結構すっきりします。また腹診や背診のダイナミックな理解も可能にしてくれるのではないでしょうか。
そして3つ目が「システム(系)」です。幅広く浅筋膜全般における関連を示しており、具体的には免疫系、代謝系、体温調節(皮膚)系、心因系とざっくりと分類されます。解剖学的には、皮下組織として括られる場で、皮膚構造そのものを扱ってもいるので、3つの中では一番分かり易いのではないでしょうか。
これらの3つは診察のポイントとしても分かり易く、ファッシアを意識した診療がやりやすくなりそうです。
これらのファッシア的な視点によって、自律神経全般を考えなおす良い機会にもなります。つまりファッシアが内臓への影響を及ぼすとすると、その理論的な基盤は、皮膚や血管を基礎にした交感神経系が重要になります。
つまりファッシアは交感神経を介して、神経節から内臓に影響することになります。その神経節がただの交感神経のシナプス交換の場だけでなく、いわば小さな脳として機能するというのです。つまり筋骨格系における筋紡錘の役割として考えることができます。
当然、従来の自律神経のテキストにはそうした説明はありませんから、これまでとは違った斬新な自律神経に関する解釈を必要とします。
自律神経の特徴としても有名な相互に拮抗的な二重支配的視点は、自律神経系において本質ではないとする立場があります。確かに、従来の自律神経の解釈を変更することで、よりファッシアの臓器への影響を記述しやすくなるでしょう。
こうした自律神経についての考え方の変更は、ファッシアの分野に限らず、話題になったもので言うと「ポリヴェーガル理論」などが代表的ではないでしょうか。これまでの交感・副交感のシーソー的関連ではなく、迷走神経を有髄と無髄とに分類し、不動化などのいわばマイナス的なものを「背側」とし、社会性を有するものを「腹側」とするという理論です。これにより、これまでの副交感によるマイナス面の解釈が分かりやすく、より臨床に適合したものとなりました。
これらの例からも分かるように、これまでの自律神経の説明には、臨床的な無理が目立つようになってきたように思います。シーソー的な拮抗関係は説明としてはスマートなものの、あまりに臨床的な例外が多く、実臨床を行うものとしては不便といわざるをえません。それでも学生向けの教育などでは、分かり易いなどの長所も多いので、これからもある程度は継続していくのでしょうが、実際には、大きな概念のモデルチェンジが必要になりそうです。
これは物理学における古典力学と量子力学的な関係に近いのかもしれません。こうした例からも「分かり易いモデル」というのはそれだけで大きな「盲点」を生み出しやすいということが分かりますね。
ファッシア瘀血の基盤を成す、ファッシアの基礎的な関係性について考えてみました。
tougouiryo at 2021年01月31日19:21|この記事のURL│Comments(0)