原点に返る

医療における最適解と根拠の重要性 歴史小説を皮切りに

 前回、岡崎城のコラムで大河ドラマについてコメントしましたが、史実と歴史小説の関係も難しいですよね。基本的にはフィクションであっても、歴史的な出来事は覆せない、という最低限のルールはあるわけです。これを崩すと、そもそも歴史小説ではなくなってしまうので、どこまで変更するか、妄想を入れてよいか、のさじ加減が難しくなります。

 医療も少し似た事情があるかもしれません。いわゆる通常の医療しか念頭にない場合は「そんなことない!」と言われるかもしれませんが、いわゆる通常のケースであっても、50名以上の会社で義務づけられる産業医はこれに当てはまるでしょう。
 さまざまな検査データがあったとしても、それに対する対応はいわゆるガイドラインそのものではありません。そもそも当人が何らかの症状で困っているというわけでもない場合がほとんどです。また反対に、データが正常だとしても、メンタルの問題やハラスメントなどは、そのまま放置というわけにもいきません。
 個人という従業員と、会社との関係性を真っ先に考慮すべき立ち位置といえます。つまり双方における「最適解」を探るといってもよいでしょう。

 こうしたポジションは、統合医療においても少し似たものがあります。通常診療における、ガイドラインなどいわゆる正解を唯一の真理として見ず、自然医療、代替医療の世界観、ないしは、現代医療への疑問等も内包しながら、その人の「最適解」を求める、というわけです。両者ともに「真理」ではなく「最適解」である点が共通です。

 そしてそこには、両者の決定打となるような「根拠」も必要です。根拠というと即座に「エビデンス!」と反応されそうですが、いわゆる科学的エビデンスに限定する必要はありません。いろいろな意味での根拠です。この辺りは、今度の統合医療学会静岡大会で、京都大学の伊勢田先生が講演して下さる内容になりそうですが、決定には何らかの根拠が必要ということです。

 産業医においては、会社の収益や社会的な役割などがその根拠となっていくでしょう。これに対して統合医療においてはどうでしょうか。私はこれこそが基礎医学的知識であると思うのです。それもガチガチの医学論文で固められた基礎医学ではなく、物理、化学などの一般的な科学知識も含めて、幅広く常識までも含めるような生物学的知識、とでもいえましょうか。当然そこには、物理的な知識も入るので、電子、光子、といった量子的なものや、水分子の挙動やコラーゲン線維の特徴なども含まれます。食品学的な知識も入るでしょう。
 いわゆる「臨床的」と言われる知識より、基礎と言われるものの方がよりラディカルに、新分野を切り開けるということは、かつて糖質制限論争の真っただ中にいたころに強く感じたことでもあります。
 臨床的とされる知識は、どうしても「その時」の趨勢に影響されます。科学史において、真理のありかを探求した結果、パラダイムという理論に至ったという経過に良くあらわされていると思います。つまり時代のパラダイムが変化する中で、真理とされるものも変更を余儀なくされるということなのです。

 我々は常に何らかの「条件」のようなものから、自由であることはできないと言えるのかもしれません。それは「時」の流れのようなものに影響するでしょうし(時代による真理の変遷)、その「時」という物自体が、我々の身体での出来事、経験、体感といったものと無関係ではないのかもしれません。身体と「時」の問題はまた別の機会に譲って、本日はこの辺りで終わります。

tougouiryo at 2023年11月26日16:23|この記事のURLComments(0)

ヒポクラテス「疾病について」から感じたこと

 学習メモ的なものですので、ご興味ない方はスルーしてくださいませ。ヒポクラテスの著作(といっても多くは別人なのでしょうが)を読んでのメモ書きです。

 ヒポクラテス全集を見ていて、強く感じるのは、これほどの古典にもかかわらず(当たり前といえば当たり前なのですが)現代西洋医学の根本的な特徴がかなり備わっているということ。つまり病態生理のメカニズム解明への強い志向、結果というより真偽を強く求める性向など、いわゆる東洋医学的な文献との大きな差異を感じます。

 当然、ギリシア医学にもいろいろな派閥があるわけなので一概には言えないのでしょうが、この医学のもつ東洋的な要素は、歴史的にはアラビアの医学(ユナニ医学)へと継承され、それ以外の部分が抽出されて現代西洋の代替医療へと流入したという印象をもちます。

 具体的な治療についての記載においても、細かなハウツーは記載してあるのですが、どこか詳細すぎて一般性が薄れるような反面、強い客観性を持つため、プラグマティックな結果からのフィードバックというよりは、むしろ科学的真理の追究的な印象を持ってしまいます。こうした感じは、まさに科学的であることを至上とする現代医学の姿に見て取れるのではないでしょうか。

 素朴な形での医学の姿を感じられるのではないかと思い、少しずつ古典を読み進めているのですが、かなり大きな差異がすでに感じられるようになってきたことは自分でも意外です。もう少し大きな共通点のようなもの(どちらも医学なので)が感じられるのではないかと予測していただけに、この大きな差というものを、今後どのように表現すべきなのか、結構迷っております。

 こうした差異としては、少し趣が異なるものの、イギリス経験論と大陸合理論や、ギリシャ医学でのコス派とクニドス派の対立、黄帝内経と扁鵲・華佗の相違など、さまざまな局面に表れているように思います。そしておそらくはこの差異が、現代における医療への捉え方の相違にも影響しているのではないかと感じています。

tougouiryo at 2021年09月21日00:00|この記事のURLComments(0)

脈診について考えたこと

 最近の気づいたことからのメモです。今週は、東洋医学会のオンデマンド配信中なので、江部経方理論に関するいくつかの講義をみている中で、特に脈診について思い出しておりました。
 いろいろな脈診の方法や考え方がある中で、一番丁寧に詳しく教えて頂いたのが、やはり江部洋一郎先生でしたので、あらためて江部経方の脈診をとるようにしました。すると以前は気づかなかった点や、脈診全体に関しての捉え方も変化したようで多くの気づきがありました。あらためて経方理論の体系の精密さと正確さには驚嘆するばかりです。

 またガレノスなどギリシャ・ローマの医学について調べていて感じたのは、東洋に比べて脈診など特殊な診察方法が少ないこと、臓器単位で現代にもつながるような病態生理的志向が強いこと(観察事項からの推測と解剖的な知見と合わせて内臓の機能的想像が特化していること)、など現代の医学にも通じる雰囲気があることです。(これは当然現代から見て、ということで当時においてはそうではない派閥・流派も存在していたことは容易に想像できます)

 これは西洋医学の「科学化」にあたって良いことでもあったわけですが、「身体」そのものから情報をとるという東洋医学の流れと、その後の歴史の中で大きな断絶を作ったようにも思います。
 統合医療の診察においても、通常のいわゆる内科的診察に加えて、脈診・腹診などの体表からの情報は多くのオルタナティブな情報をもたらしてくれます。

 東洋医学的なアプローチの利点はまさにここにあり、こうした方向の弱さが西洋代替医療の弱点のようにも感じています。
 とくにこの辺りはホメオパシーやアロマセラピーなどの診療と比較すると、過度なスピリチュアリティや、ルブリックなどの多くの情報の横断的な処理など、過度に主観的か、もしくは高度な情報処理に依存するということにも関係するように思われます。(これらが悪いとか短所だとかいう意味ではありません)

 これに対して脈診などは、それ自体で一つの身体全体への観測点を与えるもので、方法論自体と切り離しても成り立ちます。
 それゆえに統合医療という条件下においても、非常に便利なアイテムになりうるわけです。脈診・腹診等の存在が、東洋医学を過度な思弁化から遠ざけた要因とも考えられます。
 その点、高度な思弁化が進んだ結果、近代科学の成立とともに「真理」が究明される中で、一つ一つの事項が塗り替えられていったプロセスが、近代西洋医学の発展だったとも言えるでしょう。これの行きつく先が、現代における血液生化学検査や画像診断法の数々といったものです。(当院での統合医療診療における診断法が脈診などの東洋医学的なものと血液検査という2本柱であるのもこうした理由です)

 現代医学における内科診察法とも一線を画する東洋医学の診察法は、統合医療という視座からも大きな展望を与えることを日々の診療で強く感じております。EBMや「正しさ」というキーワードが躍る中、こうしたオルタナティブな視点の重要性を、すこしでもお伝えできれば、と考えております。脈診などについて最近、考えたことでした。


tougouiryo at 2021年09月07日19:18|この記事のURLComments(0)

ガレノス『自然の機能について』:目的論的「自然力」を考える

 錬金術やエーテルなど忘れ去られた概念によって、医学が新たな姿を現すということは、言われてみれば当たり前なことなのかもしれません。時折、そもそもの原点(原典)に還ることで、日々の診療を見直してみたいと思い新しいカテゴリーを作ってみました。

 いま、私たちが見ている現代医療的な「身体像」は、唯一の正しいものというわけではないでしょう。この人類と少し異なった別の人類があったとしたら、すこし異なる科学体系を形成していたかもしれませんし、そこから生まれた医学もまた様相を異にしたものとなっていたでしょう。
 別な人類を想定しないまでも、文明の異なりによる伝統医学の相違をみれば、異なる体系の創出はむしろ自然なこととも言えます。

 ヒポクラテスによって形成された医学が、ガレノスによって発展・整理され、ひとまずの完成となり、体系化された古典医学が、ルネッサンスを経由して科学的な「医学」に変貌する、というのが通常の医学史の概略になります。
 こうした解釈では古いものの代表のような扱われ方となりますが、果たしてそうなのだろうか、という疑問と共に原典を読んでいくと、そうした風景とはまた違った景色が広がります。

 ガレノス『自然の機能について』を読んで感じるのは、ガレノスの理屈っぽさというより議論の強さです。
 次々に敵対する学派を、容赦なく論破していきます。詳細な論点は、つかめていないのですが、ヒポクラテスの記載を読み込み、それを目的論的に体系化し、敵対する学派の矛盾を突くといった感じです。
 いわば原典であるヒポクラテスの記述を、詳細に読み込んだ上に体系化しているといった感じ。ここに一つの「自然力」という概念を用いて、一大医学体系の基盤としているのです。
 つまり他の学派はこうした基盤となる「力」を想定しない代わりに、血液過多病因論を形成する「空虚再充填説」や、体液を微細化された粒子でその流れの途絶などが病因を形成する「微細分化説」などにより、現実の医療行為の説明とします。それに対してガレノスは目的論的な「自然力」により自説の正当性を主張していくのが『自然の機能について』の内容となりそうです。

 一読して感じるのは、説明原理としてはホメオスターシスなどの現代医学における説明原理としてもあまり違和感がない、というよりは根底においては、議論展開を好む医学者の論理そのもののようにも感じます。印象的には、現代の病態生理学的な説明に極めて近い印象です。現代医学の「おり」のようにべったりと、その「底」にガレノスの影響が残っているのかもしれません。
 このガレノスの体系は、こののちにイスラム医学を経由して、現代の欧州の医学体系の基礎を形成するわけですから、さもありなんといったところでしょうか。
 また、ガレノスに敵対するアスクレピアデス学派や方法学派の医学思想については、二宮陸雄先生は、中国医学思想に近いと指摘しているのも興味深いです。
 つまりガレノスの勃興により、これらの伝統学的な様相が異なってくる一因にもなったかもしれないわけです。

 いずれにせよガレノスの「自然力」「自然生命力」といった概念は、かなり根深く私たちに根付くとともに、改めてこの思考法を研ぎ澄ますことが、日々の診療の新展開につながるように感じました。ヒポクラテスとの関連から、よりガレノスの独自性が見えてくるのかもしれません。この強い思想をもう少し見ていきたいと思います。

 ちなみにガレノスへの興味はこれにとどまらず、当院での実際の診療の形態にも類似点を見ることができます。具体的には、ガレノスは疾患への対応として、栄養の補給に加えて、瀉血を重要視した点が挙げられます。
 静脈からの大量の瀉血に限らず、ソフトなものまでいろいろなバージョンがあったようで、自然生命力の発揮を目的に、栄養と瀉血を組み合わせていたというのは驚きでした。まさに現代医療の中で当院は、ガレノス医学を知らないうちに実践していたということになりますね。

自然の機能について (西洋古典叢書)
ガレノス
京都大学学術出版会
1998-08T



tougouiryo at 2021年08月29日00:00|この記事のURLComments(0)