プラグマティックメディスン
真理ではなく、実践もしくは最適解である、ということ
そこで、自分の考える「統合医療」の実態に一番近い用語、概念を見つけようと考えたのが、かつて自書(『武術と医術』)の中でも公開した「プラグマティックメディスン」という概念です。
思いついた当初は、まだそれほど内容が固まっていたわけではないので、しばらく自分の中で醸造していましたが、徐々に形になってきたのでここらでまとめておこうと思います。
プラグマティックメディスンは本来、pragmatism supported medicine(プラグマティズムが支える医療)ともいえる概念ですが、長くなるので、とりあえず「プラグマティックメディスン」と称しておこうと思います。(これを本ブログ内で別角度から表現してきたのが、可能性のための医療や、こちらの医療、ということになります。少し意味合いが違うところもありますが…)
いずれにせよ、プラグマティズムという思想が支える医療で、これは合理主義に基づく論理実証主義が原則とする医療(EBMの概念もこちら)との相違は、そこに絶対的な真理なるものを想定するか否かの違いとなります。これはプラグマティズムという思想・哲学に由来するものともいえます。(どこかに「真実」があるかという点が最大の分水嶺となります)
プラグマティズムにおける真理の多元性が、ジェームスのいう「多元的宇宙」という世界観であり、これは当然、教条主義的な「真理一元論」とは大きく異なるものになります(ちなみにみせかけの多元である折衷主義は教条主義へと縮退するのですが、これもここだけでは分かりにくいですね)。
真理一元論は、我々の素朴な世界観そのものですから(真実は一つ!)、この辺りが一番誤解されそうな難所になります。
ここで、統合主義はどう解釈されるかというと、これは多元主義の要素内での融合の一形態と見ることができ、また別解釈としては多元主義的な状態そのものをも意味するといっても良いように思います(ウィルバーのインテグラル理論などはこちらに近いでしょう)。つまり統合という語は、人によってかなりの解釈の幅があることに気づかされます。
それでは「プラグマティックメディスン」としての要諦は何でしょうか。それはなにより「プラグマティズム」という思想なのですが、これがまたまた誤解の多い用語で、問題ありなのです。
そもそもプラグマティズムには、提唱者が事実上2人いるような状態で、かつその後の展開においてもかなり人によっての解釈が異なります。加えて、結果よければすべてよし、みたいな浅薄な解釈が広く流布されているので、さらに誤解は広がります。
そうした中で、ここではウィリアム・ジェームズのプラグマティズムの格率に基づくとしておきましょう。これにより世界観としては「多元的宇宙」が採用され、多元主義に基づいた展開になります。
しかしこれだけでは効能・効用主義的な側面だけが強調されかねないので、その補強的な観点も不可欠です。
それが近年、ケアの世界に新たな視点を与えたと言われる「中動態」の思想です。國分功一郎氏によって脚光を浴びた概念で、主に言語学的な考察から引き出されたものですが、それゆえに我々の「意志」や「責任」というものへの理解の根本を揺るがせるものでもあります。出来事の流れ・自然の勢い、というものの重要性というか、根源性をあらためて感じさせてくれるようにも思います。
個人的にはジェームズの言う根本的経験論や純粋経験といった概念との強い関連性も感じさせられます。これにより、いかにもな「エビデンス」のみならず、またいわゆる「意志」によらず、「選択」するという本来自然な出来事の肯定がなされることになります。
これは選択肢の決定が重要な意味を持つ統合医療分野において、決定的な意義を有することになると思います。統合医療臨床について考える際、とりわけ医師の立場においては、多元的な選択肢から選択が、その中核となるのはいうまでもないでしょう。それゆえに、プラグマティズムと中動態の思想が、中心となるわけです。これが、まさにこの医学体系の要諦です。(そしてそれは何を根拠にするべきかということが、最大の問題となるわけです)
大枠としてはここまでで良いのですが、私自身の具体的方策も示しておきましょう。(これはあくまでもプラグマティックメディスンとしての一展開例でこれこそがプラグマティズムという意味ではありませんので誤解無きように)
まずは中動態的な対話、大きな方針の模索という意味において、オープンダイアログ・ジャングルカンファレンスといった会話・対話の方策です。
続いて生体観としては通常の解剖生理はさることながら、それらの図と地の反転として、無意識を司りうるものとして、トランス、ファシア、腸内環境(脳腸相関)を挙げておきます。
ファシアは、さらには「皮膚」との関連も密接ですし、腸内環境は「栄養」とも大きな関連を持ちますので、これらも重要な要素となります。(ファシア・腸内細菌は最大の臓器でもあり、同様に皮膚・脂肪も最大臓器といえる)
また、ある種の無意識の取り扱いとしてトランスは重要です。意識領域より無意識ははるかに大きいもので、マインドフルネスをはじめ様々な技法も考慮されます。
その他にもいろいろな展開があるのでしょうが、現実の診療においてはこのようなところでしょうか。いずれにせよ、この医療体系は、換言すれば、現実(瞬間・実際)の身体の流れに従う医療、ということになります。つまり、プラグマティズムの要諦である現実の選択を、多元主義に基づいて、「意志」ではなく身体の流れによる「選択」に従う(これは無意識の領域といえるのではないだろうか)、ある種の「従病」とも言える医療の姿勢です。
こうした考えは、脳科学的に「自由意志」の存在が疑問視される中で、我々自身の生命を育む新たな思考体系の試みとして、一つの選択の根拠になると考えられます。
当然、この他にも多くの根拠がありうるわけで、いわゆる科学的データとしてのエビデンスのみならず、何らかの根拠によって、統合医療の選択が行われるべきである、ということの重要性は科学哲学者の伊勢田哲治教授も、先日、述べられておりました。
何をもって根拠として選択していくのか、という問題は、その方法論としての科学論のみならず、実践哲学としてのプラグマティズムからも考察していかなければいけない大きな問題です。これは日常診療における問題では、通常の診療医と、産業医の業務の違いなどにも生じる問題で、真実は何か、という問いではなく、その時の「最適解」は何か、という問いになるものであるということです。つまり、統合医療においても同様に求められるのは、唯一真理ではなく、時に応じて変化する「最適解」であるわけです。
こうした点が、産業医を最近学ぶ中で大きな気づきとなった点で、統合医療的視点は、すでに産業医的な視点の中にあったということを改めて発見した、というわけです。
疫学的視点で考えること、プラグマティックに考えること
もう15年前に書いた記事を見つけましたので、再録。このころもGWに出かけていないことが分かります(笑) 紹介している本も当然ながら今ではかなり古いものですので、悪しからず。
ゴールデンウィークですが、特にどこへも出かけず、本など読んでいます。その中で考えたことを少し・・・。
「誰も教えてくれなかった診断学」(野口善令・福原俊一著・医学書院)を先日ふと手にとって面白そうだなと思い、買って帰りました。内容はいわゆる診断学の教科書とはかなり違って、実際のデキる医師の問題解決方法を具体的に解説した面白い内容でした(一般向けではありません。総合診療を志す研修医にはお勧めだと思います)。
思考過程を客観的に考える機会は少ないので、統合医療も視野に入れて考えたとき、非常に参考になりました。(この本は純粋な西洋医学的「総合診療」が対象なので「統合医療」については書いてありません。念のため)
この中で、著者は診断を自信をもって行うために病態生理を一生懸命勉強した時期があったが、それではあまり自信につながらず、確率的な疫学的観点を取り入れてから、自信を持って診断できるようになった、ということを書いています(細かな記憶違いあったらスミマセン)。これはある意味、非常に興味深い指摘で、実際の臨床の最前線では、いわゆる機械論的な病態生理学的観点よりもむしろ、対象を非決定論的なブラックボックスとして捉え、確率論として事象(診療場面)を捉える方が実践的だと言っているわけです。(この指摘は今になっても当たり前なのですがとても重要に思います)
これは統合医療として扱うときのCAMの扱いにも応用できます。代替医療を論ずると、現段階ではつねにそのメカニズムの合理性も同時に議論されます。しかし、これを症状改善というアウトプットから評価したらどうでしょうか。
何も結果よければすべてよし、などと言うわけではありませんが、非常に重要な視点であることも事実です。漢方など東洋医学はいいが、ホメオパシーはちょっと・・・というときにはたぶんにこうした思考が働いていないでしょうか。(まさにこの視点がプラグマティズム、そのものです)
現実の臨床場面では、理論どおりにことが運ぶことの方が稀といっても過言ではありません。そうした中で、疾病志向性の強い現代西洋医学ですら、確率的推論の重要性が指摘されています。ましてや、疾病に反応する生体そのものを対象にすることの多い代替医療を包括する統合医療を考えるとき、従来のようないわゆる理論偏重型では足りないような気がするのです。(EBMが出始めの時のベテランドクターらの違和感の弁を思い出します)
漢方をはじめ代替医療にはたくさんの、それでいて奥深い理論体系がたくさんあります。一人の臨床家が生涯をかけても1つですらも極めつくすことは困難でしょう。しかし、だからといって「一つだけ」でなければいけない、というのも一面的にすぎます。
一つだけを生涯追い続ける専門家は必要です。しかし、横断的にいくつかの療法を理解する臨床家もこれからは同時に必要だと思います。これは、腎臓なら腎臓の専門家が遺伝子から最先端治療まで熟知する反面、総合診療的にみる家庭医も腎臓病についての一定の知識を求められることと同じように思います。
こうした見方のシフトを促進する動きとして前述の「診断学」の本が捉えることができるように思えます。
統合医療の包括する代替医療の世界はいまだ混沌とした百花繚乱の時代です。統一的な理解をする必要はありませんが、ある程度の、生体側に働きかけるアプローチとしての整合性が今後必要になってくるように思えます。
総合診療領域における「仮説演繹的」な方法論が、統合医療領域の生体の自発的治癒へのアプローチにおいても出現してくることが望まれます。
・・・・・・
といった感じの記事ですが、いまでもほぼ同感です。当時はEBMとの整合性をとろうとした文体ですが、今では少し進んで、それ自体が新たな概念である「プラグマティックメディスン」といった感じになりました。両方とも未来、将来への視点であるのですが、その意味するところはわずかに異なります。以前書いたところの目的と目処の違い、といったところです。われわれはおおよその目処を立てながら、進むしかないように思うのです。
これらの総論的な事項に関しては、統合医療学会においても少しづつ扱ってくれそうなので、この15年間の進展をわずかながらも感じております。
目的と目処 プラグマティックメディスンの哲学的基礎
まずは以前述べました「動脈的視座」と「静脈的視座」の対比です。この対比から、この医学の特徴が明確になってきます。
この対比に近い概念を挙げていくと、統計学では記述統計の考え方とベイズ統計の考え方の相違に近くなります。つまりすべてのデータを網羅してから結論を導くか、現時点での現在進行形の不十分な状態から推測していくか、です。
これらは総合診療の領域などではいわゆる「エビデンス」と、現場における臨床決断の方法論の違いとして扱われることが一般的ですが、プラグマティックメディスンの射程はもう少し広がりを持ちます。そうした意味では能動態と中動態の対比で議論される領域の方が近いでしょうか。
能動態と中動態との対比は、自由意志による責任と、漠とした選択との対比とも言え、いわゆる目的を持つということにも関連してきます。つまり「目的」を持つということは、そこに明確な意思が働いているわけで、当然「手段」も発生してくることになります。
明確な目的を持つというコトは、明確な手段に基づくというコトになりますので、それは確固たるデータに裏打ちされているに越したことがない、となるでしょう。とすれば、エビデンス重視といった姿勢までもう一息です。
この辺りが「プラグマティズム」という思想の難しさ、曖昧さなのでしょうが、これもある意味で「事後」の結果を重視するということでもあります。パースのいうプラグマティズムの格率は、こちらに近いように思いますし、それゆえに科学思想の基盤としても使える考えなのでしょう。それに対して、ジェイムズのプラグマティズムは、結局は内面的なモノを重視したところにその特徴があります。
それゆえに、彼の思想を敷衍すると「多元的宇宙」の考えに到達していくことになります。代替医療の発展、ならびにその後の統合医療への展開は、歴史的にも、哲学的にも、こちらのジェイムズ思想に親和性をもつと考えられるので、ここではプラグマティックメディスンの基本はジェイムズの思想によるということにします。
目的合理性の考えは、当然我々に染み付いているわけですから、それらをなくすなんてことは到底できませんし、その必要もありません。しかし、それ以外の(オルタナティブな)視点が、時に存在することも必要です。医療においては、確たる目的にすべてを還元させては、様々な場面で問題が生じてくるように思います。
今回のコロナ禍における、いびつな意味での(医療的)生命至上主義です。さまざまな価値観が並行的に存在する現在の社会において、価値観の多元性を一切認めないという姿勢に対しては「生存以外にいかなる価値をも持たない社会とはいったい何なのか?」といった疑問がアガンベンから呈されている通りです。
すべてのモノに明確な目的と手段を求めなければならないのか、プラグマティックメディスンは、この姿勢へのオルタナティブな解答例とも言えるかもしれません。いわば確たる目的ではない、漠とした目処、といったところでしょうか。この姿勢を、ここでは中動態を援用して説明してきました。
つまり確定的意志があるわけではなく、漠たる選択により進むことも時に必要ではないか。確たる目的にすべてを還元させることなく、中動態的に流れの中で決まっていく。
明らかに間違っていると思うものは選択しないが、明らかに正しいか否かには必要以上に執着しないという姿勢です。これは絶対正しいというものを指摘することはできないが、絶対違うというものは指摘できる、という姿勢でもあるわけです。
また方法論、つまり手段に固執しないという面もあります。正しいから一つの方法を選択するというよりは、その方法論が好きだから選択する、という姿勢をも肯定するわけです。何かのためのゲーム、という視点ではなくゲームのためにゲームを楽しむ、ということになります。例えるなら猫好きが、ネズミを捕る猫だから愛するのか、ただ猫だから愛するのか、といったところでしょうか。(まあ令和にネズミ捕り目的なんてないでしょうが(笑)
直感や第6感など、我々はいろいろな用語でこうした感じを説明することが可能ですが、もはやその目的を至上としなければ、そうした説明原理を駆使する必要すらありません。
明確な意思による「目的」である必要はないわけです。目処が立つ、と外的に表現されるような、中動態的な表現で用いられる「目処」くらいの感じです。やや遠くに漠とした希望する将来、そしてそこに辛うじて焦点するようなベクトルを有する方法論。
この緩やかな、それでいて縮退しないシステムこそが、プラグマティックメディスンと表現するモノに近いのではないか、と思います。
國分先生の著書で紹介されているアーレントやベンヤミンによる「目的なき手段」と称されるものの議論はこうした感じに近いのではないだろうかというのが、今のところの私の考えです。
別角度から見れば、曖昧なモノを擁護するような理論展開ではありますが、マクロ的に考えたときこれらはあらゆる縮退する現象に抵抗するモノであることに気づきます。
プラグマティックメディスンの考えは、縮退の流れに抵抗する方法論の一つであるということにあらためて気づかされるわけです。
無意識のテトラのメモ
それでは、プラグマティズムによってどのような視点が具体的にはもたらされるのか。事後を見据えるといっても、原理的には予測でしかないところをどうやって具体的な行動に結びつけていくか。つまり選択の発動の基底となる無意識は、具体的にどのように発動させるかという方法論をか考えてみます。
この辺りの具体的な理論展開は、厳密にはもっと深く必要なのですが、今はそこで立ち止まらずメモ的に疾走していきます。(まあ、このようなブログ記事を読んで頂いてる方にはテレパシー的に(笑)伝わっていることでしょう)
ここでは、意識されないものを扱うためのツールになるであろうと思われる概念を、無意識のテトラとして、4つ取り上げてみます。これらはもっと言えば、自由意志ではない選択の要諦ともいえるでしょう。中動態的な選択の基底にもなりえます。
1.ファシア
2.ポリヴェーガル
3.マイクロバイオ―タ
4.ケラチノサイト(皮膚)
各々の詳細はこの段階では省きますが、ジャングルカフェなど砕けた勉強会の場などで、実際に説明していこうと思います。
少し補足すると、ここでいう無意識は、意志の作用ではなく「選択」の視点の基底となるもの。その姿勢は、まさに中動態的な視点と言えるもので、真理といった絶対的なスタート地点(動脈的視座の始点)ではなく、一定の曖昧さを有した未来、ゴールへの視点(静脈的視座の終点)です。これはプラグマティックな考え方の基本となる姿勢です。
これまで展開してきたキーワードで、当院のホームページでも載せている「可能性のための医療」ですが、これも可能性=未来志向としてとらえると、方向性としてはプラグマティズムそのものとなります。考えた当初、ここまで想定していたわけではないのですが、結果として合流した概念です。
さらに「こちらの医学」はどうでしょう。この視点の要点は「内」の視点です。「内/外」の対立でとらえると、中動態/能動態の説明と重なるものです。これはウィルバーのいう左上象限で、その意味では客観的(外)ではない領域となります。大きな意識的な選択なく、自然にそうなってしまう選択、そう見える世界です。現象学的還元といった視点といっても良いかもしれません。
一応、簡単にまとめると… プラグマティックメディスンによる姿勢とは、無意識のテトラなどやや曖昧なものを扱いつつ、望ましい不確定な未来(帰結)へトボトボと歩むイメージでしょうか。それにより「生命」の発動を阻害することなく、イキイキと生きる。統合医療とは何かという考察の先に、独自なものが発想されたとすれば、このような医療の姿勢である気がしたので、とりあえずまとめてみた、といった感じです。
本日はジャングルカフェです。テトラの中のマイクロバイオ―タを題材に、テキストを読み進めたいと思います。
プラグマティックメディスンの「まなざし」
これは現代の視点からすれば、客観的データとしてのEBMへの接続の先駆けともいえる視点です。良い悪いということではなく、ここでの「死体」つまりは病理解剖的視点は、明確な「事前」への視点ともいえるでしょう。
通常、病態生理学的視点とEBM的な視点は対立的な軸として捉えられますが、この場合の「まなざし」からはともに「事前」のものとして考えられるわけです。
こうした事前・事後という対立軸でとらえた場合、プラグマティックメディスンは、まなざしの(時間的)方向の変化、判断基準の方向性の変化として見ることが出来ます。プラグマティックというやや不慣れな思考法を考えるとき「まなざし」という視点は重要です。つまりプラグマティックメディスンの視座は、従来の事前に対して「事後」へのまなざしということになるわけです。
また、「まなざし」という視座は、こうした事前と事後という時間軸だけでなく、大きな時代的な「隔絶」を理解する際にも重要になります。
唐突ではありますが、明治の文明開化期における伝統的な武術の衰退もこれでの説明が可能だと思います。官民ともに大規模な西洋的まなざしの導入により、もはや時間経過の中で、それ以前の様相を想像することすら困難になる様は、まなざしそれ自体の変化としか言えないように思うのです。
さらには、こうした「まなざし」というもののの意図的な「揺さぶり」により、新たな展開となる出来事が、「ダイアローグ」と考えることも出来そうです。オープンダイアローグにおいて起きている事態はまさに、結果としてのまなざしの変化です。
また大規模なプロパガンダの発動なども、社会全体のまなざしの強制的な変成として捉えると、また違った発想も得られるのではないでしょうか。つまり、まなざしは意識されることなく、根源的に時代の視座を動かすことになり、かつ、そのことに多くの人は気づかないわけです。まさに「物事は静かに大きく動く」といったところでしょうか。
まなざしの視点からプラグマティックメディスンの時間的方向性の差異について考えてみました。次回はまなざしの方向性の差異がもたらす方法論の違いとして、具体的な事項から考えてみたいと思います。
動脈的視座と静脈的視座:プラグマティックな視座とは?
通常、事前に得られるエビデンスなどを参照した医学的決断は、これまで蓄積されたデータを、従来の解剖生理的システムにのせて思考するという方向性が取られる。つまり、事前のものへ向かう方向性である。これに対してプラグマティックメディスンは、事後の結果、結実、といった将来へ向かう方向性となる。つまり、スタート地点の方向性が真逆となる。
現実的な問題としては、両者ともに何らかの推論をして決断する点では、当然、未来志向ともいえるのだが、そのよって立つ論拠が事前と事後でことなるというわけである。
しかしそれでも、決断の時点(現在)においては推論していることには変わりないので、その時点での何らかの相違点(兆候)は何だろうか、という視点から考えてみたい。
通常の推論に先立つ思考としては、事前の定理や原則・エビデンスからスタートする思考が一般的といえよう。そして、ここで言う原理やエビデンスは当然「実在」的である。論理と統計的データに基づいて推論し、臨床的な決断にいたるという王道のパターンである。哲学的な言い回しとしては、論理実証的と言えよう。
これに対して事後の結果や結実を念頭に進行する思考もある。この方向性が「プラグマティズム」の方法論である。プラグマティックメディスンは、この方向性を用いる医療といえる。前者、後者ともに、未来へ向けてのアプローチではあるのだが、論拠となるものへの方向性が真逆となる。
つまりこれらの考えは、不確定な現在において、実在的な原則に基づいて行動するか、結実に向かう方向性を曖昧な状況の中で緩く選択していくか、といった違いになる。
そしてこれらは現時点において、前者は、未来に向けて原則からの推進力を得るのに対して(心臓から拍出される動脈のように)、後者は複数のものが自然に合流しながら緩徐に一つの結実に向かう(末梢から心臓へ戻る静脈のように)ともいえる。
一つのループとしての循環器系のイメージではなく、ある細胞の視点において、駆出された液体が届くか、複数の要素が合流・統合されているか、である。ある一点において、その構成要素の位相がどのようになっているのかが、その相違点となる。
駆出されたものが目的となる一点に向かうものを仮に「動脈的視座」とすると、身体としてみたときには、複数のベクトルが緩徐ながらも収束していくものが「静脈的視座」といえる。また身体に影響を及ぼす割合としてみると、動脈的視座よりも静脈的視座が圧倒的に多いのは言うまでもない。これは我々の日常的な感覚からしても外れていないのではなかろうか。
こうした静脈的視座における、統合への方向性は、W.ジェイムズは「私有化」による統合と表現し、主体的な個人においては、その内部で統合への方向性を持った力が駆動されることになるものである。私有化はこうした統合への「力」を有し、主体性をもつようになる。
そしてそれは主体性における「脈動」となり、「流れ」を形成するものとなる。この統合への脈動は、生命力の発動としても見ることができ、古来、バイタルエナジー、オルゴンエネルギー等の言葉で表現されてきた。そして、G.バタイユが総合的な実存へと回帰しようとしたものでもあるだろう。つまり個体は、私有化により一体化、統合、結合へと向かい、その方向性こそが私有化ともいえる。
一個体において、統合は必然的であり、それゆえにそれらは内包する宇宙は多元的となる、というのがジェイムズの主張するところなのだろう。
そしてそれらは、ここで述べた静脈的視座であり、それこそが未来へ向けたプラグマティックな姿勢そのものであろう。
これらは視点を変えれば、能動態と中動態の対比とも見ることが可能である。動脈的視座が能動態であり、静脈的視座が中動態となる。私たちは日常的に視座というものに無神経であるが、ひとたびこれに注意することで、全く違った視野を得ることも可能である。いま、自分がどの視座にあるのか、この問いがプラグマティックな視点を医学に積極的に導入するうえで非常に重要な契機となるであろう。
今回はプラグマティックメディスンを展開するにあたっての視座を、動脈的視座と静脈的視座との比較から記述してみた。
現状の医学には、思った以上にプラグマティックな視点が乏しいことを痛感した。
プラグマティックメディスンの概略
この体系は具体的には、従来の伝統医学・代替医療と親和性を持つものであることが多い。つまりCAMそのものか、そこに接続する医学的・科学的概念をあわせて対象にしている。
従来のいわゆる解剖生理を基礎とする「西洋医学」的知識は、要素還元主義に基づいた分析的方法により得られた知見であることは言うまでもない。それは原理原則に基づいた分析的知識であり、何らかの行動の「事前」にデータとしてわかっている知識ともいえる。(それゆえに基礎医学と称されるのだろう)
これに対して理論面がブラックボックス化しているが、知識体系が存在する。現時点ではその結果が評価されて再認識されたり、世に認められたりすることで出現してきたもので、伝統医学や代替医療、いわゆるCAMであると見ることができる。つまり事後の結果が重視された領域である。
当然、CAMとされるそれぞれの分野においては、純粋な教条主義的立場も展開されるが、現状としては、学問理論として成長発展している主なものは科学的知見であるので、この科学とCAMの比較においては、いわゆる科学側からの接近が現実的かつ、学問的、説得的であるといえる。
そしてこれが成し遂げられつつある、もしくはそれを目的とする医学領域を「統合医療」として理解することも可能である。
だとすれば、統合医療において展開される医学は、多分にブラックボックス化した医学体系に接近する正統科学からのベクトルを有するものとならざるをえない。
すると、現代科学的な方法論をベースとしつつも、結果を重要視する伝統医学・代替医療的(CAM的)なものへ接近する医学を、事後の結果を重要視する方向性の医学として、プラグマティックメディスン、ないしはプラグマティズム指向型の医療(POM)と表現することも可能かもしれない。
プラグマティックメディスンに分類されうる概念は、いろいろと挙げることが出来ようが、ここではとりあえず、ファシア・ポリヴェーガル・マイクロバイオ―タ等を挙げておく。その他に、皮膚の新知見から見たケラチノサイトや、脳科学におけるグリアの機能などもこうした領域と考えられよう。いわゆる従来「学際的」といわれる領域ともいえる。
こうした領域を、統合医療という枠組みからだけでなく、プラグマティックメディスンという視点から再認識することで、これらのさらなる再評価につながるのではないかと考えている。
これが統合医療を別角度から表現した用語でもある「プラグマティックメディスン」の概略となる。この分野は、特定のCAM、代替医療への思い入れの強さからその方法論のアピールや、医学論一般からの典型的全体論という無難な議論が展開されることがほとんどである。そうした中で、治療においての選択の方向性を示す、プラグマティズムという概念の導入は、新たな視点を提供することになる。哲学的な思考に慣れない向きからは、難解だとの批判を受けることも多くなるだろうが、ケアの分野における「中動態」概念の導入が新たな展開を迎えつつあることも鑑み、心ある多くの医療者に考えてもらいたいテーマである。